福祉に性的役割分担の代わりはできません・欧米社会における原点回帰・日本教育再生機構への寄稿・あるべき「保育」にむけて

福祉には男女間の性的役割分担の代わりはできません

先日、一人の可愛い女児(園児)をずっと抱き続ける男性保育士の話を聴きました。若手ばかりの小規模保育では、それを注意できる保育士がいない。どう説明してやめさせたらいいのかわからないというのです。解雇したら明日から困る、という現実。自主的に辞められても同様に困るでしょう。そして、もし解雇したとしても、資格を持った良くない男性保育士は、派遣会社に登録すればまたすぐ別の保育所で保育士になれる。養成校が資格を簡単に与えすぎている。

そういう資格の価値が以前に比べまったく下がってしまった状況の中で、男女平等というパワーゲームとマネーゲームの裏返しのような競争を助長する概念を、保育界という家庭の役割を果たさなければならない所に持ち込んではならなかった。

男性の実習生にはオムツ替えはさせない、という園長がいます。男の子相手ならいいのでは、という園長もいますが、年配のその園長はダメです、と言いきるのです。そして、自分の園に、男性保育士は採用しない。(この問題については、前にも、このブログに書きました。いい男性保育士にはとてもとても失礼なのですが、そういうものなのです、という園長の判断を私は支持します。すみません。)

それほど福祉の現場における性の問題は根が深く、そこに居る人たちの信頼関係と意思の疎通がないと、すぐに日常になってゆく。そして、人材不足による質の低下が拍車をかける。介護施設が犯罪者の隠れ蓑になっている、とまでいわれる米国における経緯を知ればわかるのですが、老人介護から始まり最終的には保育まで、「性」の問題は、福祉の広まり、子育てや介護の外注化と並行して必ず起こってくる。福祉という新たな仕組みに、男女間の性的役割分担の代わりはできません。障害児デイや学童も危ない状況になっています。

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めているのです。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかる。状況はすでに一周している。しかし、日本もそのあとを追おうとしている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。自然回帰は始まっています。

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日本教育再生機構への寄稿

以前、このブログにも載せたのですが、日本教育再生機構という安倍首相も創設に関わった機構の機関紙「教育再生」に二年前に原稿を依頼され、「育てること、育つこと」という文章を書きました。(八木先生には、感謝です。)ここに、もう一度載せさせていただきます。日本の「教育再生」には、先進国社会に共通した「家庭崩壊の進行」をどう食い止めるかが一番重要な鍵だと思っています。機関紙の性格上、政治家や厚労省や文科省の方々もきっと読んでくれるのではないか、と思って書いた文章なのですが、保育士不足、保育の質の低下の流れはいまだに止まりません。

(この中に、保育園保護者連絡協議会会長が公立保育園の民営化に伴う選定で株式会社系2園、社福系2園の視察に行く話が出てきます。その時の手紙に、この寄稿では字数の都合で書かなかったのですが、やはり男性保育士による良くない場面を視察現場で見た、という生々しい記述があり、会長がとても心配しておられました。選定に手を上げ、視察を受け入れている園でさえ、そうなのです。)

 

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日本教育再生機構用原稿 機関誌「教育再生」2014年、11月号

「育てること、育つこと」

元埼玉県教育長 松居 和

来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。NHKで次のような報道がされていました。

厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で二万一三七一人で、去年の同じ時期より一三七〇人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、今年中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。

4年連続で減っている「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」。この数字の裏に何があるのか。このような言葉や数字が繰り返されているうちに、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。

「受け皿」という言葉は、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」ではなく「子育ての受け皿」というべきでしょう。そうすれば、家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、毎年入れ替わる派遣や非正規雇用の保育士でいいのか、「待機児童」解消は実は3歳未満児を母親から引き離すということではないか、と気づく人が出てくるはずです。

二つの問題があります。

一つは、待機児童を解消することが主目的となり、社会が健全であるために、子供はどのように過ごし、親はどのように子育てに関わるのがいいのか、その時期に親らしさや夫婦・家族の絆がどう育ってゆくのが自然か、ということが二の次になっていること。保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。

もう一つ、「計画通りに保育所の整備が進めば七万四千人の保育士が不足する」とある。一万人であろうと五千人であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。他人の三才児を二十人、一人で八時間育てられる人間はそう多くはいません。一日平均十時間子育てを保育という仕組みに任せるのであれば、この選べない状態こそが子供にとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても一番深刻なのです。保育の質が低下し、親の意識が育たないと学校教育がもたない。

保育士の質

今年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。この状況が、程度の差こそあれ全国の7、8割の保育園で起っている。悪い保育士を解雇できない。その風景に耐えられず、いい保育士が辞めてゆく。致命的な負の連鎖が始まっています。

地域の保育園保護者連絡協議会会長から手紙をもらいました。公立保育園の民営化、保育への市場原理導入が進む中、民間委託を希望する法人園に、行政と一緒に行った視察先での話です。

民営化の選定で都内の園を計4園視察しました。2社が株式会社、2社が社会福祉法人です。株式会社は酷い有り様でした。建物は広めの一戸建てという造り。床面積を稼ぐためか、収納は全て吊戸棚。保育士が主導権を握って、子供の気持ちに関係無く時間配分で変えていました。0歳児クラスでは、離乳食の時、スプーンに入れたおかゆを上あごにこすりつけて食べさせていました。食べづらいだろうに……と涙が出そうになりました。別の子は泣いてコットに寝かされていましたが、保育士は全く見ず、手だけ後ろに回してバスケットボールのドリブルのようにコットをボヨンボヨンとバウンスさせてあやしていました。見ていられず、別クラスへ移動しました。その10分後に覗いてもまだ同じことをしていて、胸が痛みました。

 給食の試食では、会社のマネージャーが自慢げに「うちの園の給食ははっきりいって美味しくないです。親がマズイと思うのが狙いなんです」と言っていました。ごはんも堅すぎで、私でも食べるのに苦労したぐらいです。あんな給食を毎日食べさせられて本当にかわいそうでした。

子供の気持ちを考えず自分の都合で〝あやす〟保育士。心のこもらない保育が日常になってきています。子どもが活き活きしたら事故が起きるから三歳未満児には話しかけない、抱っこしない、と指示する園長まで現れています。こうした一日一日が、この国の将来を決めてゆく。

全国的にみれば、公立園でさえ保育士の6割が非正規雇用化され、民間でも資格を持たないパートや派遣保育士を雇わなくては成り立たない状況が起っています。これ以上「待機児童の解消」を至上命題として、「受け皿」の(掘り起こせば現場が迷惑する)「潜在保育士」を掘り起こし、規制緩和で性急に「保育士」を作り出せばどうなるのか。

私は講演で毎年全国を回っていますが、今年ほど保育界が混乱し、次の世代を育てるべき中堅保育者たちが定年を前に辞めてゆく年はないと思います。家庭保育室という名で百人規模の認可外保育園があります。役場の保育課長が諦め顔で「概ねで始まり、望ましいで終わるような規則で、乳幼児は守れません」と私に言います。子どもの安全を犠牲にした規制緩和に行政が対応しきれなくなっている。

実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

なぜこんなことになってしまったのか。十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。

志をもって一生懸命に取り組んでいる保育士の方々もたくさんいます。しかし、そうした保育士さんたちとお話をすると、「悪い保育士を良くするにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けます。保育士のイライラから起る「問題」や、本来はすぐに逮捕されるべき「犯罪」が日常化しているというのです。厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

大人の「教育」としての保育

そして一つ目の問題につながっていきます。

「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。「子育てしやすい」という言葉を使って、親が「子育て」よりも「仕事」を優先できるように、国が望んでいるのです。長い目で見て、本当にそれが経済対策になるのでしょうか。愛着関係の土台を築けなかった子どもたちが、将来戦力になるのでしょうか。

「子育て」は時々大変です。しかし、0、1歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。

子供を、自分で育てられない事態に遭遇した親たちは、過去にもいた。これからもいる。人類は困難を乗り越え「絆」を手に入れて来た。しかし、積極的に子供を人に預け、それがあたかも普通の「子育て」と見なす社会はありませんでした。「子育て」は、子供を「育てる」という側面だけではなく、大人が親とし「育つ」機会でもあったからです。

私が、「3歳未満児はなるべく親が育てた方がいい」と言う時に、土台にあったのは「幼児たちの人間社会における特殊な役割を忘れてはいけない、幼児たちが社会に人間性を満たし、心を一つにする」という考え方でした。「子育て」を通して育つのは、他でもない大人の「親としての心」です。幼児を眺め、一緒に育てることが人間にとって最大の「教育」なのです。人間の心は、子を産み育てることで(産まなくても幼児に代表される弱者に関わることで)、忍耐力や優しさを身につけ、人間らしくなっていた。

幼稚園や保育園で幼児を眺めながら思うのです。頼りきって、信じきって、幸せそうな幼児たちの姿こそ、宗教の求める人間の姿ではなかったか。遊んでいる幼児たちから、人間は心のものさし次第で自分はいつでも幸せになれることを教わってきた。特に、この日本という国はそうだった。だから状況が欧米に比べ奇跡的にいいのです。利他の心が伝統的に生きているのです。

あるべき「保育」にむけて

最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

人生は自分自身を体験すること、しかも、たった一度だけ。だからこそ、過去の人たちの意識を重ねあわせることによって、より深く体験することができる。多くの人間が選択肢なしに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり向き合うこと、そしてそれを楽しむこと。これが人類にとって何よりも重要なことではないでしょうか。

 

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