親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす

十年以上前に講演した幼稚園へ行きました。その時の講演をきっかけに父の会ができて、それが園でとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただきました。先週もそんな園で講演し親父の会の役員たちとピザを食べました。父の日が近づくと改めて父親の役割り、そしていまこそ父親たちが幼児と過ごす時間がとても求められている、と思います。

東漸寺幼稚園の父の会のページは、一年間にこんなに色々出来る、という道標になります。ぜひご覧下さい。お父さんたちの幸せそうな写真が大きな子どもみたいで、子どものための父の会というより父親のための父の会、という感じが自然でいいのです。それを見て、男の子たちもきっと父親になりたくなります。少子化対策、親父の会版です。

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父親たちが集う意味

 

夫の暴力に苦しむ母親が増えています。小学校のPTAで講演すると特に感じます。競争原理に操られ、生きる力を失いつつある男たちに優しさや忍耐力がなくなってきているのです。心にゆとりがないのです。子どもには優しい父親が、妻に暴力を振るう、というケースもあります。子煩悩な父親にはまだ希望がありますが、子どもに関心を示さない父親が暴力を振るい始めると危険です。

早いうちに父親の親心を耕しましょう、と私は保育者に呼びかけます。

一日副担任をやってもらって、一人ひとり幼児の集団に漬け込むのが効果的。父親の顔が数時間で変わります。ニコリともしなかった表情が園児に囲まれて和みます。すると、家庭の空気が温かくなる。家庭内暴力が奇跡的に止まる。暴力を振るうのに誰にも相談に行かない。そういうプライドの高い頑なお父さんが「園の行事」という助け舟に救われ、本来の姿を取り戻すところを何度も見ました。

父親だけ集めて、年に一回酒盛りをさせる幼稚園があります。お母さんと子どもたちはいなくてもいい。父親同士が仲良くなることが目的です。

「父親同士が知り合いかもしれない、友だちかもしれないという意識を、幼児期に子どもたちに持たせることができれば、小学校や中学校でいじめはなくなるんです」

と園長先生が断言します。「本当は友だちでなくてもいいんです。お父さん同士が友だちかもしれない、子どもたちが日常的にそう思うことがいいんです」。部族の感覚。インドの田舎の村なら当たり前のことです。 

学校教育の現場から、ある時期平等を勘違いして、意識的に家庭を排除しようとしたことによって、友だちの向こうにその子を育てた人がいることを意識できなくなった。見えない絆や人間関係を意識することで、人間社会はバランスを取り、成り立ってきたのです。放っておくと残酷になりがちな子どもたちの世界には、そうした見えない世界の意識のバランスが必要なのです。人間は様々な絆でつながっているということを、早いうちに覚えるのがいいのです。

お父さんたちの酒盛りから野球のチームができたり、釣りの同好会や、季節の行事が生まれます。それはやがて学校での「オヤジの会」に進化します。利害関係のない友だち、競争社会で生きていればいるほど、それが必要なのです。卒園後も一生続くと良いのです。

 大人たちの部族的意識が子どもたちを安心させ、学校での生活が安定してくるのです。



 

父親のいない子ども

 

園で父親参加の行事をやろうとすると、「父親のいない子どもに対する配慮は?」と言う人がいます。心ある保育者が「お父さんがいない子は悲しいと思います」と私に言います。優しさから出た言葉です。しかし、人間の幸せは悲しみと背中あわせ。「死」があるから「生」がある。正面から受け止めずに、真の絆は生まれません。

以前、運動会で徒競走に順番をつけないという学校の話を聞きました。

徒競走でビリになった自分の子どもを親がどう慰めるか。オロオロして一言も声をかけられなくても、オロオロを実感することで「親心」が育っていく。親はオロオロするからいいのです。

漫然と悲しみを避け、現実から顔を背けていると人間は繊細さを失ってゆく。優しさという人間らしさの大切な部分を失っていく。悲しみと不幸は同質ではない。悲しみを分けあう、実感しあう、そのことが、楽しみを分けあうよりはるかに絆を深めることがあります。

「父親のいない子に配慮し」幼稚園が、父親参観日という名前を自粛し、「走るのが遅い子に配慮し」みんなで一緒に手を繋いでゴールするような教育をしたら、信じあうことを忘れ、悲しみをわかちあえない社会になるでしょう。

一人の人間の悲しみを包み込み絆が育つ。絆が助けあいを生み、助けあいがより深い絆を生む。人間は一人では絶対に生きられない。

人間が助けあったり頼りあったりしなくていいように、政府や行政がやらなければいけない、とみなが言い始めている。権利として主張し始めている。これは怖い。

地震や洪水が起きると、マスコミが「心のケア」が必要、「カウンセラー」を政府が用意せよ、とまで言う時代になりました。人々の間に、政府や行政がしてくれないから自分は不幸なんだ、という意識が広まってくる。人々が怒りをぶつける相手を探してあげる、みたいな報道が多すぎます。

悲しみから目をそむけ、日常生活の中で人間関係の絆を築く機会を失い、そのうちカウンセラーがいなくては機能しない社会になったら、殺伐とした救いのない不幸が人間社会を満たすでしょう。自分がいじめられないため、形だけの絆を保つために誰かをいじめるという最近の小中学生の世界に、私は未来の日本を感じて怖くなります。

人間は、絆がなければ生きていけない。しかし、その絆が悲しみさえもわかちあう深いものでなければ、幸せにはなれない。

 

「配慮」という言葉に話を戻します。

実はこの地球上に「父親のいない子」は存在しません。クローンでも創らないかぎり、どこかに父親はいる。それがお墓の中であっても、親が離婚したとしても、父親はいる。「それを意識すること」が魂の会話の始まり。それを思い出すことが、現代社会から失われつつある「魂のコミュニケーション」の復活につながります。だから、私はあえて言うのです。「父親参観日」を作りましょう、「父親が遠足へ一緒に行く日」を作りましょう。父親を園に引っぱり出しましょうと。

お盆に子が親の墓参りにきたら、親は死んでも子育てをしている。

そして、宇宙は私たち人間に自信をもって〇歳児を与えているのです。

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「父親のいない子に対する配慮」という言葉を口にすることによって、「実は、父親のいない子は一人もいない」という真実を忘れる。真実から目を逸らしているうちに、やがて父親とはどういうものかさえ思い出せなくなる。

私はお母さん方に話をする機会が多いのですが、「子どもが幼児のうちにご主人の心に祈りの火をともしてあげてください。子どもが小さいうちが鍵です」と言います。

「幼稚園や保育園を利用して、父親が出てくる行事をたくさん作ってもらってください。父親の心に親心が芽生えれば、それがあなたの幸せにつながります。ご主人が文句をいったら、『こういう園長に当たったんだから』とか、『仕方ないでしょ。ほかの子の親だってやってるんだし』とか言って、全部園長先生の責任にしてかまいません」と言うのです。

理屈ではない。父親が保育園や幼稚園に出かけて一日園児たちとゆっくり過ごすだけで、家族の一生が変わる。これをみんなですることによって、国の未来が変わる、人類の進化の仕方に影響を及ぼす、それくらい思っています。

 ちょっと不思議な話をします。

もし、父親の心に祈りの火をともしたかったら、一週間でいいのです。眠っている自分の子に、毎晩、歌わせるのです。

「カラスなぜなくの」でいい。父親に歌を唄わせるのです。一人で。

眠っている自分の子どもに一人で、という一見非論理的なコミュニケーションの場に音楽が加わることによって、父親の心に、ポッと祈りの火がともります

音楽にはそういう不思議な力が備わっています。

音楽の役割はそんなところにある。

本当は、奥さんに言われて、ご主人が実行してみようという気になるような夫婦関係ならばもう大丈夫なのですが、うちはどうかな? と思ったら、まずお母さんがやってみてください。眠っている子どもに一人で唄いかけるのです。お母さんが不思議なことをやっている姿を父親が眺める。その姿には、父親が忘れていた「何か」があるはず。

こうした風景を目にして、人は人らしくなってゆきます。人が互いに眺めあう、言葉を実際に交わしあうよりもっと大切なコミュニケーションの手法です。絆で守りあう姿です。

言葉に支配されている人間が、音楽という儀式に近いものによって魂を解放される、それが子守唄の原点です。


親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす」への2件のフィードバック

  1. 時々覗かせていただいております。いつも心に響くお話をありがとうございます。松居さんの『親心の喪失』を読むたびに、目の前の親御さんたちの「親心」は大丈夫だろうか?いや、その前に還暦を過ぎた私の「親心」はどうだったのだろうか?とあれこれ反省しながら思いを巡らしています。
    DVで夫から殴られたことのある妻が3割だとニュースで報じられていましたが、母親が殴られているのを見ている幼児が確実に3割はいる、ということでもありますね。胸が痛い話です。「親心」を育てて成熟した大人になることが人の究極の使命(天命かも)だと、老年期にさしかかってようやく分かりました。力の無い私ですが、お母さんたちが笑顔で子育て出来るよう、せめて暖かく見守って応援していきたいです。

  2.  先生のお話には温もりを感じます。その温もりは豊かな人生経験から発せられるものなのかなあ?、とも。同様にマユマユさんのコメントにも暖かさを感じました。私自身は還暦までもう十数年、果たしてその時まで自分の「親心」を反省する心を持っていられるか疑問です。
     
     先日、中学校時代の同級生とバーベキューを楽しむ機会に恵まれました。二人姉妹を連れてきた同級生と話していたら、どうも母親が育児放棄に近い状況らしく、彼は仕事と家事を両立(朝食、お弁当作りも彼が)している様子でした。衝撃的だったのは小学六年生のお姉さんが(その場にいなかった)母親の事を「あいつは…」と言い放っていた事です。その発言以外はごく普通の子どもらしい子どもに見受けられたのですが、、、。
     
     人様のご家庭の事、何もアドバイスはできませんでしたし、彼の話を聞いただけでお母さんの育児放棄は断定はできませんが、今という時代の複雑さを垣間見た次第です。 

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