子育て、というコミュニケーション

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アメリカやヨーロッパで起こっているコロナウィルスの広がりを見ていると、天災は常に人災と重なっていて、今、こういう時代に集団としての人類、人間社会のあり方が問われているのを感じます。進歩したはずの先進国社会で、「利他」の気持ちが薄れ、絆が揺らぎ、分断が進んでいる。仕組みによって人類の感性の退化が始まっているのではないか。人々が孤立し、結びつきが心の次元ではなく、より一層自分中心の損得勘定になっている。全米のニュースで報道された、自由と自立を叫び、笑いながら焚き火にマスクを投げ込む若者たちの姿を見ていると、困惑とともに情けなさが湧いてくるのです。その怒りが何に向いているのか、彼ら自身も知らないのかもしれない。

 

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日本は多分そこまではいかないだろうと思いつつ、そしてそのことに感謝しつつ、与えられた試練に対する根本的な解決や解答にならずとも、ワクチン(薬物)が状況をとりあえず沈静化させてくれるのを祈るばかりです。

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昔、といってもつい30年くらい前のことです。保育士たちがまだ親と一緒に「子育て」をしている感覚があって、園長先生たちが祖母の心に近い視点で園児たちを眺め、保育という新しい仕組みに不信感を抱き始めていた頃、私にいろんなことを教えてくれた保育園の園長先生が言いました。

職員室の窓から園庭を眺め、0、1、2歳の保育に関して話していた時です。

「ここに預けておけば大丈夫、と親たちが思うことが怖い。ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」

これほどわかりやすい発言はありませんでした。この強さと優しさが保育の真髄、とその時心に刻みました。政府や学者は理解しなかった、もしくは耳を塞いだのでしょう。その後、厚労省の課長さんたちにも伝えましたが、乳児保育や長時間保育を雇用労働施策と位置付け推進するやり方に変化は起きませんでした。

園長先生は保育士たちに言っていました。

「できる限りいい保育はする。それぞれにする。それは当たり前のこと。でも、できることなら親に隠れてしなければいけないのよ」。保育士が幸せを感じる瞬間があったら、それは親たちのものだったんだ、と後ろめたさを感じなさい。それが保育士ですよ、と。

子どもが初めて歩けたら、親に言ってはいけないの。もうすぐ歩けるようになりますね、と言うんだよ、と。親たちに人生の宝物を出来る限り返していかなければいけない。どんなにいい保育をしても、乳幼児期に奪われた時間は補うことはできない、と知っている人でした。

幼児たちの安心を優先する先輩の言葉と信念を理解しようと、多くの保育士が一生をかける仕事として保育の本質を探ろうとしていた時代でした。

知っている人は気付いたと思いますが、園長先生は公立保育所の所長さんでした。

同じ「保育」という名で括られても、公立と私立では仕組みや考え方がずいぶん違います。保育という人類未体験の概念の捉え方、あり方の模索、保育士の育ち方が、それぞれに違っていたのです。公立の先生は基本的に地方公務員。異動したり、定年があります。園長先生の定年は60歳。本当にもったいないことですが、そろそろ地域の顔役になり始めた頃に退職になる。

公務員という立場上、市長や国の方針には従わなければなりませんが、解雇される心配をせずに現場から主張したり、市長たちにその気があれば、彼らに保育とは何か、国の施策の何が間違っているか、教えることもできました。ほぼ全てが公立保育園という市では、園長先生が役場の保育課と人事交流していることが、その地域の学校教育も含めた「子育て」を支える、とても重要な要素でした。

正規雇用、非正規雇用の割合、幼稚園という選択肢があるかどうかなど、地域によって異なる状況が、保育という仕組みが育つ過程に大きく影響を及ぼしていました。私は、それぞれに多様な保育文化が育っていくのをこの目で見てきました。ですから、講演に呼ばれると、駅に迎えにきた役場の人に、まず、幼稚園と保育園の割合、公立と私立の割合、正規と非正規の割合などを尋ねるのです。

7割の子どもが幼稚園を卒園する県もありました。幼稚園が一つもない自治体もたくさんあるのですよ、と言うとびっくりされました。

私立の社会福祉法人などでは、園長や理事長がその土地に根付いた人かどうか、そして行政や政治家との繋がり方なども、微妙にその町の保育に影響を及ぼしてきました。

公立がいい、私立がいいとかではないのです。それぞれに様々な事情があって、違う。

わかりやすい例として、無償化で消えていく公立の幼稚園と、私立の幼稚園の仕組み的な違いについて書いたことがあります。(「親心のエコシステムが無償化で廃園に」http://www.luci.jp/diary2/?p=2916)

保育園の場合、それがいま、小規模保育や企業主導型、社福型、フランチャイズ型、家庭的保育事業、こども園と、「子どもの最善の利益を優先する」という理念ではまとめきれない混沌とした状況になっているのです。

冒頭の発言は、いまのように営利目的の会社の参入が政府によって奨励され、園長が雇われた人だったら絶対に言えないことなのです。しかし当時は、私立保育園の園長でも、この程度のことを言う人は結構いた。保育が、労働施策よりもずっと「子育て」の側にあって、親たちがそのことに感謝していた。

そこで培われ、行われていたなるべく子どもを優先にしようという「保育」の伝承が一般財源化で揺らぎ、長時間保育で崩れていくのを見ました。シフト制が当たり前になり、一日一回、保育士たちが揃ってお茶を飲んだり、子どもについて話したり、親や家庭について意見交換する時間があちこちの園で消えていきました。

それがいかに保育にとって致命的だったか、知っている人さえ少なくなっています。

養成校の保育科では、このあたりの保育に対する視点の変遷や現場の様々な葛藤について教えているのでしょうか。資格者たちは本当の園長や主任を見分ける力を身につけているのでしょうか。今や、子ども優先の保育理念を学生に教えると、サービス産業化した現場の園長や経営者とぶつかるという奇妙な時代になっているのです。

(個人情報保護法を盾に、非正規の保育士には家庭に関する情報を教えてはいけない、という「子育てで育つべき絆」を度外視した杓子定規なお達しが厚労省から来たことがありましたが、財源不足で非正規雇用が増え、そんなことは言っていられない状況にあっという間になってしまいました……。
内閣府が作った新制度の家庭的保育事業に「1:3」という数字を見た時には皆唖然としました。保育に、「1」はあり得ない。トイレにもいけない、病気になったらどうするのか、という保育界の常識を内閣府や政府が意見を聞いた専門家は知らなかったのでしょうか。)

子どもの最善の利益を優先する。この言葉は、子どもの権利条約を日本が批准している限り保育指針から消されることはないでしょう。

ただし、それ以外に指針に書いてあることや政府の保育施策=雇用労働施策の多くの部分が、この保育指針の柱ともいえる「精神」「哲学」と相入れないことを、子ども優先で考える園長たちは知っている。親のニーズに応えることと、子どもの最善の利益を考えることが相反する時代になっている。どちらが優先か、と問われれば、保育においては子どもなのだ、という、その思いをできる限り伝えておきたいと思います。子育ての本質はここに預けておけば「大丈夫だ」とか、「この方がいいんだ」という次元のことではなく、ずっと続いてきて、また永遠に続くもの、人間性(遺伝子情報)の確認なのだ、ということ。

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たとえば0歳児の担当制を1対3にするのか、3対9にするか、乳幼児期に保育士との愛着関係がどこまで育つのがいいのか、これは永遠に答えが見つからない問いでした。

担当は半年、一年で交代する。愛着関係ができるほどに、乳幼児期の担当替えが子どもにとって辛いものになる。私が講演にいった先の保育園で目の前で起こったことですが、家庭で熱を出した子どもが、うなされて担当の保育士の名を呼び親から電話がかかってくる時代なのです。いい保育士に当たったからそうなる、それを喜びつつ、でも、あってはいけないこと、と園長は心を痛めるのです。

生まれついた性格、親との関係によっても違ってきますが、三歳未満児の脳の発達を考えた時、心の傷、トラウマにならないためにはどういう関係がいいのか、園長・主任なら誰もが心配し続ける宿命的な課題。この永遠に続く悩みは、こんな仕組みでいいのかという疑問につながり、この課題が存在し続けている以上、保育という仕組みは常に諸刃の剣なのです。

「生まれついた性格、親との関係によっても違ってくる」と言えば、保育士だってそうです。0歳児は1対4という国基準がありますが、1対1で本領を発揮するタイプの保母型保育士もいれば、1対4で資質が生きてくる保育士型保育士もいます。前者は0歳児の要求を満たすことが得意で、後者は国の施策に資質が適しているとも言えるでしょう。資質の価値基準の次元が違うのです。保育園という仕組みには両方が必要なのでしょうが、前者の保母型保育士の激減が保育の質を下げ、今の保育界の保育士が長続きしないゆえの混沌を生み出しているのです。規制緩和によって、常勤がいなくてもパートの組み合わせでいい、となれば、子育て、という意識は薄れていく。こういう政府の施策に憤慨した一人の園長先生が、これではもう保育ではなく飼育です、と私に言いました。

乳幼児保育が諸刃の剣だということを大学の保育科では教えているのでしょうか。0、1、2歳を保育することに少しも疑問を持たない学生を創り出しているのだとしたら、保育にとって一番大切な指針と想像力が、「教育」によって意図的に失われていくことになる。

最近の脳科学でも、三歳までにほぼ終わると言われる脳の発達、シナプスとかニューロンネットワークの構築が、その子の一生を様々に左右すると言われ、それが定説として受け容れられています。(http://www.luci.jp/diary2/?p=239)

この時期に脳を環境に合わせて発達させ、一生続く信頼関係をつくり、それを生きる力、安心の土台の指針として身につけることが人類の進化の根本にあったのです。乳児が絶対に一人では生きられないことが、脳の発達に必要な環境であり、育てる側とともに双方向へ調節し合い「人間らしい」思考の基礎を作っていく。それが「社会」という形(定義)を生み出す道筋だったのです

このやり直しの効かない大切な時期に、半年、一年で交代していく(最近では、日に何度も交代する)愛着関係を子どもに体験させる不自然さに、私が知る園長たちの多くが気づいていました。

 

(保育者の思いと仕組みの間に生じるこうした葛藤は、三十五年間、全国津々浦々、毎年50から100講演し、たくさんの園長たちに会い、私が実感したことです。ある大会で、3歳未満児の受け入れ枠の拡大、延長保育・休日保育を進めるエンゼルプランの計画が専門家から発表された時、そんなことをしては親が育たない、絶対にやってはいけないこと、と呟いた私の発言に、会場にいた園長主任たちから突然割れんばかりの真剣な拍手が来たことを今でもハッキリ覚えています。これでは子育て支援ではなく、子育て代行になる、と皆すでに気づいていたのです。この大会はパネリストに文化人類学者の原ひろ子さんが同席していたのでよく覚えているのです。会の後、もう少し話しましょう、と言われて二人で喫茶店に行き、ジェンダーフリーの危うさと社会における乳幼児の役割についてかなり突っ込んだ話をしたのを覚えています。文化人類学者は園長先生たちの拍手から、フィールドで何が起こっているかを読み取ったのだと思います。話しているうちに、ふと気づいて、あれ、私が本の中で批判しているのは原先生でした、と言ってそのページを見せると、それを読みながら、これは私ですね、と言って大笑いになったのを覚えています。文化人類学者だなあ、と嬉しくなりました。フィールドワークは絶対です。そして、文化人類学におけるフィールドワークはアンケート調査やQ&Aではなくひたすら「観察」です。

もう一つ、保育協議会か保育士会の県大会に二千人近くの保育士たちが集まってきた時のこと。私の講演の前に県知事の挨拶と市長の挨拶があって、まず県知事が「女性の社会進出に伴い、保育の受け皿を増やし、待機児童をなくすために皆さんに頑張ってもらいたい」という趣旨の、当時の厚労省のお達し文をほぼなぞった挨拶をしました。次の市長の挨拶が代読だったのです。そのために文言がほぼ同じになってしまった。しかも、この人たちは、その日なぜ私がその人たちに呼ばれていたかまったく気づいていなかった。何かが沸点に達し、私が発する言葉を待っているのを感じました。壇上に立って、ああいう人たちには絶対投票しないでください、と言った時に起こった地響きのような拍手を覚えています。あの音が地球のどこから聴こえてきたのか……。私は今でも再確認しています。あの音を基準に発言し続けます。

施策を作る人たちは、その頃誰もあの人たちを観察しようとも、理解しようとも、現場の葛藤について真剣に考えようともしなかった。あの響きには、子育ての現場と乖離した人たちが「経済優先」で進める施策に、そこに居た人たちがどれほど憤慨していたかが露われていました。現場(フィールド)の思いをそこまで無視することの繰り返しで現在の保育施策は進んできたのです。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=279;育休退園・所沢市の決断/石舞台/「子どもの楽園」に驚く欧米人/「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋)

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保育士との愛着関係をどうするか、という話に戻ります。1日4、5時間であれば、つまり子育ての主体が家庭であれば、それほど悩むことではないのかもしれません。中川李枝子さんがご自身の体験をもとに書いた児童文学「いやいやえん」に出てくるチューリップ保育園のように……。そして、その中で子グマが園長先生に書いた手紙のように、一人で色々できるようになりました、保育園に入れてください、という親たちの子どもの将来を慮る気持ちが常識として世の中にあれば、子どもたちの愛着の主体が微妙に変わっていくこともまた「成長」という過程に組み込むことが可能だったのかもしれない。

しかし、8時間保育が11時間開所になり、それが経済界の都合で13時間開所になっていった。乳児保育を、政府が主任加算を盾に保育界に強要し、睡眠時間を除けば、子どもたちが家庭で親と過ごす時間よりも保育園にいる時間の方が多くなっていった。当然のように「手のかかる子」が増えていった。「手のかかる子」は、すなわち「手をかけてもらえなかった子」だと多くの保育士たちが気づいていた。

明らかに、政府は保育界に「子育て支援」ではなく「子育て代行」を求めているのです。しかし、一年ごとに担当が変わっていく仕組みに家庭(親)の代わりはできない。だから園長は言ったのです、大丈夫と親に思わせてはいけない、と。親たちが「ここに預けておけば大丈夫」と思い始めることによって、本当に長時間保育を必要としない親まで保育園に子育てを頼るように必ずなる。そうなったら、保育は絶対に受けきれない。いま起こっている、様々な現実を園長たちは三十年前に見抜いていました。福祉全体の人材不足で、資格が形骸化し、保育園がやがて仮児童養護施設のように使われることにも気づいていた。現場の園長だからわかる。保育園が無かった時代を知っている人たちだから直感的にわかったのです。(http://www.luci.jp/diary2/?p=211)

本当に保育が必要な子どもを、親の勤務時間と通勤時間を足した時間だけ預かるのであれば保育士は足りています。

そして、保育園で就学前の子どもを全員預かれば、親から得る税収が保育にかかる予算を上回るという経済企画庁の二十年前の試算、新聞の一面に「その方がお得」と記事が出た経済財政諮問会議のいい加減な目論見はとっくに外れている。数年前に国会でも議論されましたが、25歳から44歳の働く女性の数の推移 は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばいで、2014年から15年にかけては減っている。つまり、女性の就業者数は受け皿確保や待機児童の増減とは原因と結果の関係にはない。それを追及された首相が、エッという感じで、すぐに答えられなかったことが一番問題なのかもしれません。経済学者たちの思惑と、現場を知らない計算違いが生み出した仮想現実の中で保育施策が進められてきた。その結果が、いまの矛盾だらけの保育界の現状であり、混沌なのです。

「ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」。

子どもたちのことを考えれば、この時期に親がどう育つかの方が優先、と言って、問題のある父親たち(子どもに無関心な父親)を二十四時間のお泊まり保育に引っ張りだすような園長でした。言って理解しない親には毎日毎日手紙を書き続けるような人でした。(http://www.luci.jp/diary2/?p=983

子育てに関して、保育士や園長が家庭に介入できなくなったらそれはもう保育ではない、毎日一番長く子どもを見ている者として、親を指導するのは園の責任です、指針にも書いてあります、と言い切る人でした。先生は、この時期に親心が育たないと、やがて保育という仕組みが限界に達し、質的に破綻していくことを当時すでに見通していました。その兆候は現れていたのです。

いま、国は八時間勤務の保育士に十一時間保育を「標準」と名付け、補助金を盾に押しつける。ほとんどの現場で担当が必ず一日一回は交代し、最後の三時間は無資格でもいいということになっている。その子の過ごした一日を、誰かが親に物語る機会もなくなっていった。

以前は一日四時間働けば十一時間預けることができる、だったのが、新制度によって二時間でよくなり、0歳児保育を増やすために設定された保育単価によって、0歳児、1歳児を預かっていないと保育園の経営が成り立たち難くされ、それが保育士不足に拍車をかけた。そして、政府主導のサービス産業化により経営者の損得勘定が色濃く入りこむようになると、保育単価の高い三歳未満児の保育に特化する人たちが出てくる。こうした乱暴な規制緩和や仕組みの変更、保育界の分断は、保育士たちにもう親身ならなくていいと宣言しているようなもの。

法律では親が主体と言いながら、実際には、子育ての主体がますますあやふやになって、それによって保護者と保育士の心が一つにならなくなっている。だから保育士が長続きしない。保育士が長続きしないと、親身な園長が保育を伝承する気力を失っていく。いい園長の心の萎え方が最近ひどいのです。

毎年二割の保育士が入れ替わる保育など以前は考えられませんでした。

保育の質はすなわち人材の質。来年、どんな体制が取れるのか見えない。それだけでも「大丈夫」とは言えないはず。人材が自転車操業になっていて、資格さえ持っていれば、どんな保育士でも採用しなけばならない、まるでババ抜きのような状況になっている。保育士を選べないことが保育界全体の「子ども優先」の意識を萎えさせている。最低限、良くない保育士をすぐに解雇できる状況は保たなくてはならなかったのですが、それさえできないのです。(http://www.luci.jp/diary2/?p=2801:衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」)

保育は、仕組みではなく、その日の一人の保育士の心持ちで成り立っている。なぜなら、幼児たちがそこを問うからです。

保育士を育てるのは幼児たち。だから、たった一人良くない保育士が混じっていることが保育室の空気を一変させるし、それを許している仕組みに対する諦めが蓄積し、福祉が天職のような人が、ある日突然起き上がれなくなって辞めていく。(ネットを調べればわかりますが、行政処分が繰り返される放課後等デイサービスなどでも、まったく同じようなことが起こっている。)

派遣会社に頼らなければやっていけないような状況が認可園にも広まり、定着してしまった。保育はサービス産業、親のニーズに応えればいい、と平気で言う園長さえ現れている。

そして政府は、この一連の施策を「子育て安心プラン」と名付けているのです。誰にとっての「安心」なのか。

(「安心プラン」には程遠い、逆にその目標から遠ざかっていくような現場の実態は繰り返しマスコミでも報道されています。しかし政府の経済優先の基本方針は変わらない。「子育て安心プラン」の実態は失敗続きの生産性向上施策と、幸福論と結びつかない奇妙な「人づくり」施策です。以下の報道で明らかなように、政府の「人づくり」は子どもの日々を犠牲にした「労働力確保」でしかない。30年前、「ここに預けておけば大丈夫、と親たちが思うことが怖い。ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」と言った園長の言葉をその時理解できなくても、保育からこれほどモラルや秩序が消えていっている状況を見れば、政治家たちも遅ればせながら理解できるはずです。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakanoma…/20160617-00058938/

「企業内保育所、質は誰が担保するのか 働く親の「最後の砦」、復職への強制力にも」

https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明。

https://www.asahi.com/articles/ASN9Y61BTN9YUTFL00C.html:保育園で虐待、まさか… 施設急増の中で起きている異変

「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

そしていま、新しい内閣の閣議決定で、常勤の保育士がいなくても、つぎはぎのパートで繋ぐ保育でも構わない、と正式になってしまった。「短時間勤務の保育士の活躍促進」。物は言いようです。

すでに追い詰められている現場に四年間でもう14万人の「保育の受け皿」を課すために、または成長産業という言葉で未満児保育に参入を促した保育士不足の実態を知らなかった新規参入者を撤退させないためになのか、子どもたちの日常の質を二の次にした規制緩和が進みます。こんなやり方しか手立てが浮かばないのでしょう。

保育士たちを悩ませた、保育士と乳幼児の関係はどこまで深まるのがいいのか、という愛着関係の議論さえ、仕組みの変化によって無意味になりつつある。それを今度は「新子育て安心プラン」と名付ける。以下、政府の発表です。)

待機児童の解消を目指し、女性の就業率の上昇を踏まえた保育の受け皿整備、幼稚園やベビーシッターを含めた地域の子育て資源の活用を進めるため、「新子育て安心プラン」を取りまとめましたので公表します。:(厚労省のホームページから)
「新子育て安心プラン」では、4年間で約14万人の保育の受け皿を整備するほか、1.地域の特性に応じた支援、2.魅力向上を通じた保育士の確保、3.地域のあらゆる子育て資源の活用を柱として、各種取組を推進してまいります。
短時間勤務の保育士の活躍促進
(待機児童が存在する市町村において各クラスで常勤保育士1名必須との規制をなくし、それに代えて2名の短時間保育士で可とする)

 

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「愛着障害と薬物」

学級崩壊に端を発して、12年前にスタートした就学前の発達障害児の早期発見対策。保育士不足の現実を知らなかったのか、すぐに顕れた加配の限界と専門家の力不足と人員不足、準備不足で付け焼き刃の施策が現場を混乱させます。

専門家に見せたがる親たち、見せたがらない親たち、親の子育て意識の変化、様々な要素が重なって、一緒に子育てしているはずの保育士たちが子育てに口を挟めなくなっている。「専門家」が現れることによって、昔気質の園長が「あなたの子ですよ」と親に言えなくなってきている。

専門家の薦めと、親の要望で、行動や発達に問題のありそうな幼児に薬を飲ませておとなしくさせるケースが出てきています。子どもや親たちを一人一人を観察できる余裕のない、親子関係まで見極める時間のない「専門家」たちは、愛着障害を薬物でごまかそうとする。

「問題児だったけど、毎日あんなに甘えて抱きついてきた子が、突然『抱っこはもういい』と虚ろな目で言うんです」それが悲しい、と保育士が言う。そんな保育士が可哀想で、と園長が言う。大自然からもらった治療法、双方向への自然治癒力、自浄作用である「抱っこ」が薬物に代わられてゆく。その最前線に保育士たちがいました。もともと1対3とか1対6では無理なのです。それでも、頑張ってきたのです。

毎日「抱っこ」で子どもの魂を鎮めようとしていた保育士が、親から何も相談されずに、薬で心を抑えられた子どもにある日突然「抱っこはもういい」と言われる。その気持ちを考えると、保育という仕組みの切なさをひしひしと感じました。

心療内科に行くこと、薬を飲ませることを保育士に相談してくれない。こんなに長時間面倒を見ているのに、毎日抱っこしているのに、まるでサービス産業のように見なされ、口を挟もうとすると、プライバシーの侵害だと役場に駆け込まれたりもする。そんな日常の中で心ある保育士が使い捨てになっていくのです。

都の認証保育所に勤め始めた保育士が、園長から抱っこするな、話しかけるな、と指導され驚いたという話を思い出します。(地方の公立保育園でも似たような話がありました。)

子どもが生き生きすると事故が起こる確率が高くなる、と園長は言ったそうです。

その説明が保育の限界を示しています。小規模保育は3分の1資格なしでもいいなどと様々な規制緩和がされる中で、信頼できる保育士を確保できない状況に追い込まれている園長も可哀想ではあるのです。事故が起きないいことが最優先になり、それを責められないほど、危なっかしい保育士が増えている。

安全最優先が「抱っこしない保育」につながる。子育てに必要な「ゆとり」がないのです。

それでも預かれ、と政治家たちは言う。その施策を「子育て安心プラン」と名付ける。「抱っこしなければ、落とさない」、その次元に保育がなってきている。保育を「仕組み」で考えるから結局こんなことになる。これでは、この先学校がもたなくなる。

(繰り返しますが、親の勤務時間と通勤時間だけ預かっているのであれば、保育士は足りているのです。就労証明をきちんととって、三人目を産んだらタダ、などという本末転倒の少子化対策をしなければ、そして、「成長産業」などという言葉を使って保育で儲けることを奨励しなければ、こんなことにはなっていないのです。まだ、ギリギリ方向転換できると思います。0、1歳だけでも月に五万円程度の直接給付と子育て支援センターの組み合わせで乗り切れば、かなり人材に「ゆとり」が生まれるはず。そこから仕切り直せると思う。)

「生活のため」とマスコミは言う。

一体「生活」とは何なのだろうか。幼児たちが抱っこされなくなったら、それは人類にとって「生活」なのだろうか。幼児たちを眺めながら、ベテラン保育士は考えるのです。

「抱っこは母と子の共同作業です。と力説している先生がおられたのを思い出しました」。その通り。抱っこは双方向の作業です。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=279:育休退園・所沢市の決断/石舞台/「子どもの楽園」に驚く欧米人/「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋)

アメリカでは、小学生の10人に一人が学校のカウンセラーに薦められ薬物を飲んでいる。薬物で画一教育を可能にし、教師の精神的健康を保とうとしているのですが、4割の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になるまでに40%が親の離婚を体験するという土壌はもはや耕しようがない。「子育て」が夫婦の絆をつなぎとめられなくなって家庭が崩壊し始めると、薬物や警察に頼らないと義務教育が成り立たなくなってくる。学校のカウンセラーが薦める薬物が、将来、麻薬中毒やアルコール中毒につながっている、という研究発表がされ、学校教育における薬物使用の背後に製薬会社の利権がある、と言われます。どうしても薬物が必要な場合もあるでしょう。それに救われる人生もあるでしょう。しかし、薬物の利用は、人間の絆の崩壊、家庭崩壊、孤立化と比例して増え続けます。

アメリカで毎年5万人が薬物の過剰摂取で命を落とす。子育てが中心にならない社会で、驚くほど人々の孤立化が進んでいる。

 

東京都で休職している先生の7割が精神的病で休職しているといわれます。

教師の精神的健康が保たれるかどうか、から逆算して福祉や教育を考え、再構築していく必要がある。学校は最後のセーフティーネットで、それを支えるのが保護者と保育者、そう考えるのが一番わかりやすく、その方法で順番を整えれば、まだこの国は大丈夫だと思うのです。

(NHKのクローズアップ現代『~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/index.html)

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「いないほうがいいんだ」

いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護師を一人ずつ配置したのです。職員室で看護師さんがため息まじりに私に言いました。

「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」

自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園にいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えていない気がする。看護師さんが心配するのはそこなのです。理性が支配し、感性が育っていない、と言うのです。

最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、将来の院内感染が怖い、と看護師さんが言いました。

「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で薬をもらってくるんですよ。内科。しかも、呑ませたことをちゃんと私に言わない。だから怖いんです」

薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。

「私が、ここにいないほうがいいんです」

その声が、町長には届かない。マスコミにも、専門家にも届かない。

待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬ではないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師さんは知っている。だから怒っているのです。「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚生労働大臣の声が遠くに聞こえます。

看護師の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。

こういう風景が存在していることを、保育士の養成校で教えているのでしょうか。子育ては、常に葛藤で、心配で、育ちあい、それゆえに輝く喜びの積み重ねなのですけれど、葛藤や心配の次元が「子育て安心プラン」などという政府の言葉によって損得勘定の方向へ変化している。心がすれ違い、育ちあいが生まれない環境が作られていく。

(「子育て安心プラン」は、2018~2020(平成30~令和2)年度までの3か 年計画であり、待機児童解消を図り、女性の就業率8割に対応できるよう、 2020(令和2)年度末までに32万人分の保育の受け皿を確保することとして います。:厚労省)

以前、中堅保育士さんからこんなメールが来ました。/本音、本気で言う人

 

お久しぶりです。

長らく連絡できずに申し訳ありませんでした。本当に色々ありました。現在進行形で問題勃発しています。新制度になったからなのか、もうとっくの昔に日本は終わっていたのかはわかりませんが、親心を空っぽにするために保育園があるような気がしてなりません。親も、上も、メディアも、政治も、みんな◯◯です。言い過ぎかもしれませんが、最近そんなやつとそんな画面しか入ってきません。

子どもの成長ではなく、子どもの寂しさを育んでいるだけのような気がします。

本当はもっともっと前に、連絡してお話しようと何度も思っていたのですがただの愚痴になりそうで、なんだか申し訳なくて連絡できずにいた次第です。

お金です。

女性に働いてもらって、経済を豊かにする。

そこだけ。

それを謳えば好感度が上がるから、バカみたいに保育園増設、待機児解消と言っておけ精神。

それらに反対すると、古い、の一点張り。 ありえないです。

なぜ、保育士が足りないのか、その原因を分かっていないから、エンドレスでしょうね。

なんだかパワーがでなくて。

少し前まで怒りがパワーになってぶつかっていけたのですが、その力もどっかいっちゃって。

保育園の在り方も託児所化しています。親は自分の都合で預けたい、優先順位は自分です。それが一人や二人じゃない。

自分の時間が一番なんです。

親が、親である前に「個」でいようとするのです。

親になった以上、親でなければいけないのに。特に乳児期は。

そこを支援せず、親の個としての生き方を援助しているだけです。

人の土台を作るのが親ではなく、保育士であっては絶対にならないのです。

もういやです。

 

(私の返信がここに挟まります。下関の自民党女性局で講演し、そこに安倍さんの地元秘書が来ていました。講演の前に大きなクスノキに出会い、「気」をもらいました、というメッセージと一緒にクスノキの写真を添付。)

 

是が非でも安倍総理の秘書の方から安倍総理本人に、どうか、どうか、松居先生の言葉、思いがまっすぐ、まっすぐ届き、少しでも子どもに寄り添った政策になりますように。

本当の意味での子どもの幸せを、もう一度考えて頂けますように。

そして、今の危機的状況を理解しますように。

 

松居先生、講演など、お忙しいと思いますが、時間があります時に是非またお会いしてお話させて頂ければと思っております。

私だけでなく、前回共にいた先生方のモチベーションがだだ下がりです。

様々なことによってエネルギーをチャージしないと、潰れてしまいそうです。

(ここから私です:

地方の公立保育園で、親と保育士に一緒に講演を聴いてもらい、穏やかな園長先生と役場の人とお茶を飲みながら話していて、ふと憶い出して携帯に入っていたこのメールを読んだとき、園長先生と役場の人の目に涙が浮かんだ気がしました。そして、その奥に炎が見えました。

状況を真剣に考え、把握し、怒りをエネルギーにして頑張ってきたひとたちが潰れてしまいそうになっている。親に言えない。上に言えない。役場に言えない。保育園だけではないのです。幼稚園や障害児デイ、児童養護施設や児童館も含め、本音が言えない人たちが幼児期の子育てに、より深く関わっている。その歪みが出て来ている。一番長時間関わっている人たちの気持ちが尊重されていない。それが学級崩壊や引きこもり、老後の孤立化という現象になって出てきている。)

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朝日新聞の「折々のことば」に私の文章が紹介された時のこと。哲学者が拙著から「ことば」を見つけてくれました。

『赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。』:松居和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

新聞のコラムを読んだ園長先生からメールが来ました。

「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?」と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。園長先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れ、遠のいていく。「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくる。

保育は仕事であってはならない。そんな風に自分を戒め、境界線の上を綱渡りのように歩いていく保育士たちがいます。慣れてはいけない、慣れてはいけない、と呟きながら。園長は知っています。自分だって慣れてしまっていた。それは、その子の「親」ではないからです。

師匠は、いまだに目指している、「本当の保育士」を……。「秩序」はこの園長たちの心の揺れの中にあった……。

別の園長が、「一年目の保育士にかなう保育士はいない」と言っていたのを思い出します。理屈でも正論でもなく、真実が普通に、時には相反するような言葉で、語られていた時代があった。それを伝えていくのは、聞いた者の役割だと思います。親は、常に一年目だった。だからこそ不安。だからこそ真剣。だからこそ信頼が育っていった。そこで「専門家に任せておけばいいんだ」という心理が動いたら、保育は絶対にそれを受けきれないのです。

子育ては、人類にとって大きな一律の伝承の流れです。その流れは「親の質」を問うてはいない。そうだとすれば、何が伝承されてきたのか。大学や養成校という仕組みの中で,何が伝えられるのか。伝えるべき中心は何なのか。「子どもの最善の利益を優先する」、それでしょう。

保育という仕組みを今すぐにでも、「雇用労働施策」の枠組みから解放しなければ保育は生き返ってきません。

保育がその本来の意味を取り戻し、「親の責任」を保ちつつ「園単位の責任」「園単位の喜び」にまで広げることができれば、私たちは強者の企てから簡単に逃れることができる。全員が幼稚園、保育園を通過していく。そこで親たちに子育ての喜びを実感させることが可能なこの国なら、できる。人生の輝きを幼児たちの中に見て、みんなで目的地を思い出すことができる。

それはきっと人類の進化に関わるいい「展開」で、それを指揮するのは幼児たちなのです。

(参考ブログ)

保育士を目指す学生たちに/園長先生からの手紙

『家庭崩壊が進んだアメリカで、いま「ワーキングマザーの約85%が家で子育てに専念したいと答え」ている。(東洋経済Online,会社人生にNO!米国、専業主婦ブームの真相:共働き大国の、驚くべき実態:https://toyokeizai.net/articles/-/32455)』

保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる:http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

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「父親が泣く日」

父親の一日保育士体験を、全員を目指して進める若い武道家男性園長から聴いた話です。

体育会系の父親が「俺は向いてねえんだよ、こういうの」と不平顔。

「いいからやるんだよ。ぶどう組だよ」と園長。(果物のブドウです。)

お昼寝の時間に、父親が息子の背中をとんとんしていると、小さな声が「おとうさん、ありがとう」。父の目に涙がポロポロ溢れます。

こういう瞬間に人間が育ってゆき、父親が一人生まれる。保育園でなければ起きないこと。

体育会系父親、帰り際、園長に、やって良かった、やって良かった、と繰り返したそうです。たった一日で自分自身を体験した。昔は、日常的に男たちが体験していた自分のいい人間性。自分の中には、いい人間が居る。そして、幼児だった頃の自分がいる、それに男たちが園児に混じって気づく。それを国が支えなければいけないのに、国はこういう機会を保育の産業化で奪っていく。

魂の震え方を、幼児たちが男たちに教えるのです。

父親の保育士体験に情熱を注ぐ若い武道家園長。この話しをしながらしてやったり、の顔。この世代、しかも男性園長たちが真の保育を理解してくれるとありがたい。ここに預けておけばいいんだ、と思われたら、それは保育ではないんだという女性園長の言葉を受け継いでくれたら、と願います。このままでは保育が、ただの託児、サービス産業になってしまう。いまは難しいですが、時々みんなでうちに来て、飲んだり食べたりしたのです。都議や区議や主婦、音楽家やNPOがまじります。

集まること、祝うことが社会の基本です。

 

「子どもが喜びますよ」

ある園で、父親の保育士体験を薦める私に一人の母親が、「休むと一日2万円損するんですよ」と言いました。年に一日卒園までに3回やって一生に三日、6万円。こんな奇妙な選択肢を夫婦につきつける社会も変ですが、選択は自由。とにかく説明し薦めるしかありません。幼児期は二度と還ってこない不思議な時期で、この時期に園児たちに囲まれると父親の人生観が変わったりします、何より父親が来ると、子どもが喜びます……。

二万円損するので土日にやってほしいと母親は言うのです。園長はじっと母親を見つめ、譲らない。日常を見てほしいのです。他の子たちの夕暮れ時も見てほしい。一回だけでは二万円損したと思うかもしれない。でも、卒園までに3回やれば、人生に三日の体験が6万円以上の価値があると必ず思うはず。そこまで信じているから勧めているわけです。嫌がる保育士だっているのです。それを説得して、保育士と一緒に決断し、父親の保育士体験を願います。

子どもは、父親がくると、お互いに気恥ずかしげですが嬉しそうです。一日平均十時間、4年通ったら千日です。たった三回でも、お父さんがその1日に寄り添ってくれたら、その時の自分を知ってくれたら。一緒に体験してくれることが嬉しいのです。

この嬉しさは本能的で根源的で、それを保育士たちは知っている。自分たちが与えることがけっしてできない親子の一日なのです。

父親が保育士体験をすると二万円損するから土日にやってほしいという母親を、手取り15万円に届かない保育士たちが見つめています。一緒に子どもを育てているのに、その目線に母親は気づかない。問題はそこにあるのです。

それでも子どもたちは懸命に生き、信じ、大人たちの心を一つにしようとする。その視線がいつか経済の係数になる。それに、学者や政治家は気づかない。

 

「普通人間はしない変な風景」

小規模保育や企業型保育所が新制度で奨励され、「子ども優先」という保育の基本を知らない人たちが参入し、保育界の常識が根底から変わり始めています。

親たちを客と考え、親身さに欠ける保育を教育で誤魔化そうとする。英語や音楽、リトミック教室を平行してやる保育所や学童(塾や放課後等デイサービスも含め)が広がり、月に数千円の追加料金でお稽古ごとが出来るという宣伝文句をよく見かけます。内容は様々で、はっきりとした規制もない。中には、同じ部屋の中で、お金を払っている子にだけに飛び飛びで英語で話しかけたり、お遊戯させたりする業者さえいる。普通人間はそういうことをやらない……。そういう変な光景が政府の「保育は成長産業」という閣議決定のもとに現れている。子どもの気持ち、子どもの育ちより自分たちのお金儲けが優先、子育て代行の利便性が優先される。だから、お金を払っていない親の子どもたちの気持ちを平気で無視する、無視出来る保育士たちがサービス産業の現場で誕生して育っている。こんな保育士たちに、親を叱れるはずがない。こういう信頼関係のない大人たちに囲まれて子どもたちが育ち、この国の未来が決まっていく。

時に、いい保育士に出会ったり、学校でいい先生に出会ったり、親との葛藤を経て和解したりして、人間を信じる心を取り戻す子どもたちもいるでしょう。しかし断言しますが、保育のサービス産業化は保育の本質を崩してゆく。全体としては決していい方向には向かっていない。親になる、子育てをする、ということは損得勘定を捨てること、本来、利益追求とは相容れないのです。

保護者のニーズに合わせて予算を組んでいた自治体が、確保できる保育士の数に合わせて予算を組むようになり、保育士たちの心のブレーキが、社会全体にかかっています。親のニーズも、政府の思惑も、新制度も、安心プランも、急速に絵空事になりつつある。自然の流れだと思います。しかし、その過程で幼児たちに取り返しがつかない事が起こっている。

以下に掲げたのはネット上にあった保育で(簡単に)儲けることを薦める広告の一つですが、「保育」は、こんな宣伝文句で始める「勝ち組」になるための「仕組み」ではなかったはず。「保育は成長産業」という閣議決定が、人間から人間性を急速に奪っているのです。

「注目の放課後等デイサービス事業:16人契約で営業利益100万円」

営業利益100万円が可能なビジネスを知っていますか?!我々が選ばれる理由とは? 定着性の高いストック型ビジネス。なぜ勝ち組になれるのか?秘訣はこちらから。安定経営・異業種参入者多数・未経験でも安心・万全の支援体制・FCノウハウ充実。

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「嬉しそうな園長先生」

群馬の保育園で保護者と保育士に講演したときのこと。

講演が終わって親たちも帰り、ホッとして園長先生と職員室で話をしていました。

「園舎の建て替えが終わってくたびれてしまいました」、と七〇過ぎてがんばっておられる園長先生がおっしゃいます。

「親たちもずいぶん変わりました、これからどうなってゆくんでしょうかねえ」

もう一踏ん張りですよ、昔の親たちを知っている方々がもう少しの間がんばっていただかないと、という私の話に耳を傾けながら、園長先生は暗くなった園庭を眺めていました。

そのとき、一人の母親から電話がかかってきました。

子どもが家で泣きやみません。熱にうなされ、担任のN先生に会いたい、と言って泣いているというのです。その日は土曜日、さっきまで園にいたN先生はもう帰宅の途についています。

「困ったわねえ」と言いながら園長先生はなぜかニコニコしています。

そして、「私は恵まれています。いい保育士さんに囲まれて」と主任さんに電話して、N先生を探します。しばらくしてN先生から電話が入ります。主任さんは先生たちの携帯の番号を知っています。園長先生は知らないそうです。それくらいがいいのだそうです。

園長先生はN先生に事情を説明しながら、「あんたも保育者冥利につきるねえ。よかったねえ。はやく電話してあげなさい」と電話口で言います。N先生が電話の向こうで頷いているのが、その会話からわかります。N先生はデート中だったみたいです。

電話を切って、「昔は、お母さんに会いたいと言って保育園で泣く子はいたけど、先生に会いたいと言って子どもが家で泣くんだから、おかしいですよね。でも、やっぱり園長としては嬉しいです」

勤務時間は終わっているのに、泣いている子どもの気持ちに応えようと、ためらいなく担任の先生を探す園長先生。保育士一人ひとりと信頼関係がちゃんと作れているからできること。規則の中で生きていてはできないこと。保育というシステム(仕組み)の中で生きているのではなく、「子育て」が生み出す人間同士の信頼、家族にも似た対応に、私は感心しました。こんな園が、少なくなった。

園長先生はもう七四歳。

「最近の親はどう相手していいかわからないことが多くて……。昔だったらもっとはっきりものが言えたんだけど、近ごろちょっと自信がなくなっているんです」と、さっきから職員室で一時間も愚痴をこぼされていたのです。

その人が一本の電話で急に生き返ったように、ニコニコしながら対応しています。

こんな感じがいいんだな、と思いました。

泣いていた子はインフルエンザでここ三日ほど保育園を休んでいたそうです。きっと、先生と保育園が恋しくなったのでしょう。

園長先生と私は、黙って、主任さんの入れてくださった紅茶をゆっくりゆっくり、いただきました。

おいしくおいしく、いただきました。

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市場原理の導入や規則や仕組みの規制緩和によって、消えてしまいつつあるあの風景を思い出しながら、あの時一番嬉しかったのは誰だったのか、と私は考えて見ました。そして、ふと、N先生とデートしていた彼氏だったにちがいない、と決めました。人間の絆や幸せは、幼児の幸せを願うことによってつながっていく。

そうしながら、迷い、オロオロし、心を一つにして祈る、それが人間という手をつないでいく「子育て」の本質です。

そのことを忘れた政府や専門家たちが、待機児童をなくすことを目標にまた新たな規制緩和を始めています。質が下がるのを知っていないがら、ただ量的拡大を目指している。保育で儲けようと参入した人たちの、今度は生き残りのためにやっているとしか思えないようなこうした規制緩和が、保育界から「親心」を奪っていきます。

子育ての「風景」が消えていく。風景は、それを創造する人たちの「生き方」「決意」の集合体なのです。

 

手紙1

松居先生 

ご無沙汰しています。 お変わりなくご活躍のことと存じます。 

先週公私立の主任会の席上1日保育士体験の報告があったそうでお知らせいたします。  

K市も9月からやっと全園で取り組み初め、いろいろ議論があったようですが、「案ずるより産むが易し」でそれぞれ好感の報告だったそうです。 

ある園では、転勤で埼玉県から引っ越してこられた方があり、向こうですでにお父さんが体験されて K市でも希望されたケースもあり今のところ順調に過ぎております。 

これからいかに継続、発展させていくかが又問題となってくると思いますが、全園児保護者体験を目指して努力してまいりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ささやかなご報告で申し訳ございませんが引き続きご指導よろしくお願いいたします。                                             K市 A.J.

 

返信1

ありがとうございます。嬉しい限りです。

いま、保育界が追い込まれている、人材不足、財源不足、親の意識の変化、規制緩和や水増しによって広がっている質の低下を考えると、一日保育士体験で象徴的に保育の存在意義と子ども優先の姿勢を社会に対して明確にしてゆくことが一番大切だと思います。それにより若い保育士に、保育は親に対するサービスではなく、子どもを優先に、子育てをしているのだということ、それには親との信頼関係が必要なのだという意識を持ってもらう。このままずるずる国のいう「サービス産業化」に進んだら、いい保育士は集まらなくなってしまうと思います。

よろしくお願いします。

手紙2

松居先生

我が園の新しい試みに少しお耳をお貸し頂きたく厚かましくもメールさせて頂きます。保育の理念はあくまでも仏教によっております。そんな関係で、障碍を持つお子さんも皆とともに育ち合ってほしいと統合保育を学級編成は、縦割りを特徴としております。

子どもの行事に関しましては、保育園は、保護者の就労を支える場所ではありますが、保育園は常に幼い人の代弁者でありたいとの思いから、日頃大人のスケジュールに合せられている子どもに対し、行事の際だけは大人が、子どものスケジュールに合わせて頂きたいと4月の時点で、年間計画を保護者に示し、休暇の取得を予めお願いしています。このあたりのことは常々保護者に理解を求めてはいますが、毎回行事の度に出てくるアンケートは土日に行事を開いてほしいというものが多くあります。行事の一つ、毎年、12月8日は釈迦の悟りを開かれた成道会(じょうどうえ)という仏忌に当たりますので、前半セレモニー、後半子供たちの生活発表会の2部仕立てで開催しています。今年も次のようなアンケートがまいりました。

「昨年までは乳児組だったので、あっという間に出番が終わってしまう感じがして、他の学年も見なかったのですが、今年は、見ごたえがあるなと思いました。まずは、物語劇、あれだけの長い科白を全員がよく覚えたなと感心しました。又、毎年違う物語なので衣装も小道具も後ろの背景も全部作るのが大変だったろうなと思いました。先生方のご苦労を思うと有難いです。来年象バッジ(年長組)として、あれだけの大役をこなせるのか、正直心配ですが、たのしみでもあるなと思いました。やはり仏教の教えが根底にあるので、どの出し物も心に響くものがありました。その点で、K保育園はかけがいの無いものであると思います。ただ、1点だけすみません。

職場では平日に行事が行われることに理解が得られないようで、保育園なのに、何故休日に行事をしないのかと言われるたびに心が折れそうになります。職場のあるK市ではそれが普通だとか。もう少し休日の行事が増えると有難いと思っています。」

最近は子どもに対する大人の許容量がうんと狭くなり、世田谷の保育園新設に対し、近隣住民から反対運動が出たニュース等寒々とした報道が次々出ています。保育関係者が、必死に子どもの立場を訴えても、なかなか時代は変わってこないことに気付かされ、行事に参加を可能にしてくれた職場の仲間に園としてもお礼を伝えることで、子どもの立場をアピールできるのではと考え、今回初の試みとして添付のお礼状を職場に届けて頂くようお知らせを出しました。先のアンケートの方は勿論ですが、他にも希望者が出るのではと思いましたが、一向になしのつぶて、いささか落胆していましたら数日後、隣の市の役所に勤務のお父さんから、職場のみんなに伝えたいからと礼状を求められ、思わず、やったー!とガッツポーズでした。

市長さんは住みやすい市を強調されますが、いつも申し上げているのは、卒園後、15年すれば、立派な市民、その時、本当に立派な市民であるかどうかこの乳幼児期のありかたにかかっていることです。1日保育士で、親を巻き込み、お礼状で、一般市民の理解を深めてもらうということにならないかなと考えています。

 

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「魂の次元の相談相手が人間には必要です。子育てはあらゆる方向に、それを探し、作ること」

「家庭的」という言葉が失われようとしている時代に、出来る限り家庭的な園をつくろうとしていた園長が言いました。

「あるお母さんが言うのです。娘が、いもうとがほしい、いもうとがほしい、と言うので、二人目を妊娠したのです。ところが最近、妹はもういらない、と言うんです。どうしたらいいでしょう、って」。そして、笑いながら、「ふん、ふん、それは困ったねー、と話を聴くんです」

園長先生がどんな顔でその相談を聴いているのか、そのあたりが人間のコミュニケーションというもの、いわゆる「家庭的」の中身であって、答えです。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=253:園長からの手紙:厚労省と政治家は心の耳を傾けてほしい。)

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ここに最近ユーチューブで見つけて、気に入っている映像があるのですが、城の中で、ギター弾きと女性の歌い手と、シャボン玉をする人と、クルクル回る男の人がするコンサートです。お時間のあるときにぜひ、観てください。

https://www.youtube.com/watch?v=cT2F-KBIUt8&feature=emb_title

Castle, Bubbles and a Whirling Sound || Estas Tonne & Family

この不可思議なパフォーマンスに集まってくる人たちがいる。そこに救いを感じます。「なぜ?」という理屈を超えた不思議な次元で、人間たちはたやすく、コミュニケーションをしてきた。相談しあってきたのです。

これを見た人たちが、その不思議な次元を理解し、共有する。

このクルクル回る男の人は、ここでクルクル回るために生まれてきたんだ、と感動するのです。

今、先進国社会で進む分断の根っこに、仕組みの進歩とテクノロジーの進化によってコミュニケーションの次元が浅くなり、本来人間が持っていた「感性」が衰えてきていることがあります。様々な理由で亀裂が深まっても、そのもっと先、もっと深いところにある古代からの取り決め、調和が見えていれば大丈夫だったし、そこにある平安を目標にしていればなんとかなった。

子育ての本質を、損得勘定とは離れた、命が交錯する、人間のコミュニケーションの舞台として捉えなければなりません。

 よいお年をお迎えください。

 

「子どもの貧困」

米国大統領選のトランプ支持者の異様な騒ぎ方を見ていると、徴兵制度という踏み絵を一度踏まされた60年代70年代の昔の若者たちが、自分の人生に辻褄を合わせようとしているのを感じる。学校の校長も教会の牧師も、戦場に若者を送る手伝いをしていたことがあったのだ。

あの時の分断、そして、マスコミに踏みにじられた自分たちの「愛国心」を、やはりそれは純粋だったんだと思いたい。

私の音楽家の友人たちも、ベトナム行きの運命にかなり近づいたことがあって、その時の話を冗談交じりに話してくれた。

「前線に行きたくなければ、徴兵される前に軍楽隊に志願するんだ」と話してくれたのはロビンだったか……。ロサンゼルスの軍楽隊には、ハービー・メイソンとマイク・ベアード、そしてトム・スコットがいたという冗談か事実かわからないような話を聞いたことがある。それは、音楽家として最低限可能な反戦運動だったのかもしれないが、たとえ順番が来る前に戦争が終わったとしても、踏み絵を踏まされたことに変わりはない。

真剣に生きようと、戦場に志願していった友人のことを懐かしそうに話してくれた人がいた。ベトナム戦争はその前半、志願兵でほぼまかなわれていた。

「子どものころ、奴は、野球場で国旗を見上げた。その時、横に居たのは父親(オヤジ)だったかもしれない。みんなで一緒に国歌を唄う。すると、魂が震えるんだ」

と彼は言った。

「そういう風に生まれてしまった。どうしようもないことなんだ。わかるかい?」

私は、頷く。この説明の方が、祖国と自由、という実感のない言葉よりも理解できた。

「独立記念日に。軍楽隊を先頭に兵士たちが行進するのを見て、突然何かが溢れてきて胸がいっぱいになる。足音が心に刻まれる。友情や恋愛、郷愁なんてものとは違う、もっと崇高な目標を、その時自分一人で選んでしまうんだ……」

そう言いながら彼は、少し嬉しそうだった。

「不幸になると思って、志願するやつはいない……。覚えておいてくれ。死ぬかもしれない、それもわかっていた」

私は、その言葉を書き留めた。

「当たり前のことだけど……、兵士になるということはそういうこと。すすんで自由と平等というやつを捨てるんだ。それも魅力の一つさ。人生を舐めている奴らには絶対にできない。

持って生まれた資質に誠実な、そういう風に生まれついた少年が一人前になろうとした。それを利用して戦場に送ったんだ。蜃気楼にでも感動できるように、とまでは言わないが、もっとやりようがあるだろう。こんなのはフェアじゃない」

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「子どもの貧困」

 

ある朝、「子どもの貧困」という見出しを新聞で見た。ただ、その言葉に、強い違和感を感じた。

社会現象、社会問題のように、マスコミは報じ批判する。例えば「不寛容な社会」というような言葉を使って。

助けなければいけないとしても、この言葉「子どもの貧困」を黙って受け入れるわけにはいかない。慣れてもいけない。「子ども」が親から切り離されている感じがする。

貧しい一家、貧しい一族、貧しい村、貧しい国、なら違和感はない。子どもは誰かに守られていて、誰かとセット、というイメージの中で捉えることができた。そこに、社会の主人公はいる。

でも、新聞で見た「子どもの貧困」という言葉の裏側には、孤立して、守り手が身近に居ない子どもの集団を感じるのです。あってはならないこと、を感じるのです。

「子どもは親の所有物ではない、一人の人格」などと言う人がいましたが、そんな哲学じみた偽善では、子どものお腹は一杯にならないし、心も満たされない。子どもたちには何も伝わらないし、こういう種類の責任回避を子どもたちは喜ばないと思う。子どもは庇護のもとに生きる人たち、可愛がられる人たち、愛されるためにいる人たちです。

「子育て」は、たぶん八割くらいの人たちが、それぞれに自分の子どもを可愛がって、寄ってたかって甘やかしていれば、全てがうまく回っていく。そういうもの。

ここに一枚の写真がある。タミルナード州のダリットの村で撮った写真です。この母子は貧しいのですが、その姿から私は不幸を感じない。

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信仰の対象となり、無限に多くの人々を励まし勇気づけてきた聖母子像は、母に抱かれる幼子、神の子の姿でした。人間性が生まれる原点がこの組み合わせにあるから、尊ばれ、拝まれてきたのでしょう。

欧米のように家族の定義が崩れ、半数以上の家庭が伝統的な家庭観を(血のつながりという形で)維持できなくなった国々では、「子どもの貧困」は欲(夢)の追求という流れの中で現れた「社会現象」かもしれない。しかし、日本はそこまで崩れていない。正直に、「親の意識の問題」と報道しないと、心の貧困化に歯止めがかからなくなる。

私たちがいま突きつけられているのは戦災孤児や難民の問題ではなく、干ばつや洪水に襲われた結果でもない。

水道の蛇口をひねれば澄んだ水が出て、スーパーマーケットには新鮮なカタチの揃った野菜があふれ、高級外車もたくさん走っている。子どもが怪我をしても、119番に電話をすれば救急車が駆けつけてくれる。塾帰りの小学生が夜道を歩くことができる。豊かさと治安という面では世界一と言って良いこの国で、「子どもの貧困」はすなわち「大人たちの心の貧困」「絆の希薄化」、「弱まってきた家族や親戚、友人の結びつきの問題」と指摘すべき。もし、それを阻むのが、プライバシーの侵害、個人情報、などという絆を分断させようとする言葉なのであれば、こういう言葉の裏にあるものに早く気づいて捨ててしまわないと手遅れになる。

物の豊かさに反比例するように、心の豊かさと信頼関係を捨て始めている人たちがいる。

聖書に、心の貧しき者は幸い、と書かれている。心の豊かさを求める者ということであって、心の豊かさを捨てることではない。仏教でいう他力本願は、幼児の隣に座ることが、易行道の本道ということ。これほど易しい道はない。

繰り返しますが、こういうことがまだ言える国、流れを変えることが出来る国だから私は言うのです。まだチャンスはある。

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一人ひとりの子どもの事情を知ることはできない。だからこそ福祉とか制度、という人もいます。でも、だからこそ家族、だからこそ「子育て」に対する意識、弱者に信頼されることの幸福感だと思う。一つの「貧困」の周りに、数人の「その子の小さい頃を知っている」親身な視線があれば、日本のように豊かな国はだいじょうぶ、弱者が強者の心を育てるという「子育ての道筋」があらわれる。

耕し直しができるとしたら、幼稚園、保育園、しかないのではないか、と私は言い続けてきました。ほぼ全員が親子でそこを通って行くからです。幼稚園、保育園をやっている人たちの意識が、子どもの最善の利益を優先し、親子関係がその根本になければならない、という二点でまとまれば、政府や経済界の思惑に関係なく、子どものための環境を耕すことはできるのです。園という単位がいい。村という単位に似ていて、強い。この数の人間の集団は、強い。

子育てが不得手な親、できない親は一定の割合で室町時代でも、どんな村にでもいたのでしょう。どの村にも二歳児がいるように……。それでも、八割くらいの人たちが、子育てにそこそこ幸せを感じていれば大丈夫だった。不得手な親も、社会に絆を生み出す「いい意味での」必要な欠陥になった。二歳児がどの村にでもいるように……。

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「保育の受け皿」という言葉にも同様の違和感を感じたのです。

「子育ての受け皿」と言い直せば、それがあってはならないこと、なのが見えてくるのに、意図的に人間性の問題を仕組み論に持っていこうとするやり方。祈りの世界を、学問の領域に持っていこうとする。こういう種類の言葉を使って、人間にとって一番大切な領域を、政府や学者が作る施策がポイと捨てようとしている。

ここ五年間で、政府は、保育の受け皿を50万人分作ったそうです。そして、待機児童は半分の1万3千人になったという。この数字に疑問を持ってほしい。そこにとんでもない矛盾があって、落とし穴がある。真の目標が覆い隠されている。

待機児童解消には、0、1、2歳児を保育園に預けて働く女性を八割以上にするという数値目標があって、それを政府は「子育て安心プラン」と名付けているのです。

「子育て安心プラン」は本来、親たちが自分で育てることができる環境を整えることであるはず。それが正反対の方向へ動いている。

乳幼児の親は、自分の親、つまりその子の祖父母に数時間赤ん坊を預けることにも本能的に不安を感じ、それが「普通」、それが子育ての出発点でした。子育ては、信頼関係がなければできないことなのです。信頼関係をつくること、つくろうとすること、つくることができたらそれに感謝すること、が子育てに必要な心の動きだったのです。言い換えれば、子育てを分かち合うことで、人間は、生き抜くための信頼と安心を手に入れてきた。

まだ待機児童がいるということは50万人の受け皿が埋まったということなのです。政府の保育施策は、もともと、預けようとする人を増やすことが目的なのです。労働施策、経済優先の雇用の数値目標が先にあって、だから「人間性」という現実と折り合いがつかなくなる。そこで生み出された現実は、公立保育士の非正規雇用化であり、いきなり50万人の子どもを引き受けさせられた保育士たちの苦労と苦悩であり、人材の自転車操業に追い込まれ疲弊化し続ける仕組み、つまり保育の質の低下なのです。

そして何よりも、親たち(父親たち、そして母親たち)の意識の変化、ここが一番怖い。それに気づいて欲しい。

こうした後戻りが不可能になりつつある失敗の裏に、保育の現実を知らない政治家や専門家たち、幼児と過ごす幸せを忘れた人たちがいる。

この無謀な数値目標をいまだにマスコミが煽り続けている。最近の報道です。

(「待機児童ゼロへ、14万人分の受け皿必要 政府が集計」https://www.asahi.com/articles/ASNB35R5DNB2UTFL01G.html)

マスコミの手助けで経済施策が進められ、幼児が後回しになっていく。

厚労大臣が、資格を持っていて保育の仕事に就いていない人が80万人いる。掘り起こせばいいんだ、と言ったことがあります。資格を持っていれば保育(子育て)ができる、と勘違いしている。この厚労大臣が言う「資格」は学問とビジネスに根ざした消費者の都合に合わせて作られた資格であって、人間性による選択がなされていないし、祈りの伝承も含まれていない。

他人の子ども、3歳児なら二十人と8時間楽しく向き合える人間はそうそういない。生まれつきか、育ちか、この人たちは特別な人たちであって、大切にされるべき人たちです。(私にはできません。)この人たちを使い捨てにしてしまう仕組みを、規制緩和、市場原理、成長産業という言葉を使って政府は作っていった。

政府の思惑に誘導された大人たちの子育てに対する心境の変化で、人間たちが親身な関係を失い始めている。様々な場面で、寂しがっている子どもが増えている。それは未来に繰り越していく悲しみであり、苦しみです。

慣らし保育の風景を見れば、犯している間違いの原点がわかるはず。

しかしその風景はほとんど報道されず、慣れればいい、と思い始めている。それが「進歩、発展」だ、という人たちさえいる。

子どもたちの役割が見捨てられ、それに慣れ始めている。その結果が「子どもの貧困」と母子家庭の苦境です。今、コロナウイルスで様々な苦境が洗い出されています。そして、税収減による福祉予算の削減はこれから数年続くのです。だからこそ、数人の親身な関係を生み出す「子育て」を、仕組みから親たちのもとに返していかないと持ちこたえられなくなる。

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以前、2代目若手男性園長が私に言いました。彼は、保育の風景を見ながら成長したのです。

「中学生の頃、慣らし保育で、『ママがいいー、ママがいいー』と泣き叫ぶ子どもたちを毎年見ていて、こんなことを人間がして良いはずがない。絶対保育の仕事には就くまいと思いました」と。

「一週間の慣らし保育で泣き叫ぶ幼児の映像をまとめて編集し、政治家に見せれば、保育はサービスだ、親のニーズに応えよ、などと安易に言わなくなるのではないでしょうか」と別の園長が言っていました。

慣らし保育。何に慣れるのか。「ママがいいー、ママがいいー」という叫びに慣れるのか、慣れて言わなくなることに慣れるのか。

0歳から預ければ「ママがいいー」という言葉さえ存在しなくなるのです。大切なもの、生きるきっかけのようなものが、一つ一つ消えてゆく。それに慣れようとしている社会に私たちは住んでいる。それに慣れた世代が、いつか気づいて「家族がいいー」と叫ぶでしょうか。

慣らし保育で「ママがいいー、ママがいいー」と叫ばれた母親は、自分がいい親だったから叫ばれたことを憶えていてほしい。それは勲章だったのです。

そして、その時お互いに流した涙は、人生で一番美しい涙だったかもしれない。毎日、子どもを保育園に置いてくるたびに心の中で涙してほしい。それに慣れないでほしい。保育士たちはそう願っています。

この2代目園長は、中学生だった時の、その時の記憶を忘れずにいま保育をやっています。中学生はまだ感性の人たち。してはいけない妥協を本能的に知っている。

だからこそ、一番心の次元での説得がしやすい人たちでもあるのです。私が一時間説明したあと、送られてきた感想文です。

中学生たちとの対話:http://www.luci.jp/diary2/?p=185。

中学生の感想文、その2:http://www.luci.jp/diary2/?p=186

「家族の形」が残っていなければ、幸福の伝承は一部の人間だけに許される特権になってしまう

「家族の形」が残っていなければ、幸福の伝承は一部の人間だけに許される特権になってしまう。

私が出会った絵本作家たち

毎週録画して見ているお気に入りのTV番組「日曜美術館」に、絵本画家(作家)の田島征三さんが出てきました。

ずっと以前、日の出村の御宅にお邪魔したことがあって、タンポポとかドクダミとか違った草や実が入っているお酒を作って、居間に瓶を並べていたのを思い出します。「ふきまんぶく」が出来上がった頃か、「ヤギのしずか」を描いていた頃だと思います。

ふきまんぶく

双子のお兄さんの征彦さん(「じごくのそうべえ」、「祇園祭」)の方を、私はよく知っているのですが、出てきた映像を見ると歳をとってそっくりな感じです。もともと双子ですからそっくりですが、あの頃、征彦さんは角が取れた征三さんみたいな感じだったかもしれない。

地獄の惣兵衛

征彦さんは丹波の田舎で、田んぼでアヒルを飼ったりしながら型絵染をしていました。私がお世話になっていた宅間英夫さんという、オヤジの親友で、今江祥智さんの小説にも出てくる、私にとってもう一人のオヤジさんのような人の家に夏休みに遊びに行くたびに征彦さんの田んぼの端の家に顔を出していたのです。

番組を見ながら、ゴミ焼却場建設に反対する活動に征三さんがあれほどこだわっていた理由がわかった気がしました。大自然、といってもフナとか草とか川とか森とかバッタとかそういうものなのですが、それらと尋常でなく一体の人なのだ、征三さんは。そういうものが踏みにじられるのが身を切るように辛い人なのだ。

絵本作家の人たちのことが、芋づる式に記憶に蘇ってきました。

グルンぱ

二十歳の頃、堀内誠一さんのパリの家に2ヶ月居候したことがあります。「たろうのおでかけ」とか「ぐるんぱのようちえん」他を描いた凄い人です。私が好きなのは、7わのからす、くろうまブランキーで、やはり子どもの頃に読んでもらった絵本は心に残るのです。

インドから始まった一年半の放浪の旅の途中でした。堀内さんは、「こすずめのぼうけん」の中にある塀を高く描き直していました。誰もが時々会って話をしたくなる不思議な人で、私の滞在中も谷川俊太郎さんが現れました。(谷川さんには、私の3冊目の本「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」の帯に推薦文を書いていただきました。感謝です。)

ある晩、堀内さんと絵本関係者、東西奇人変人(いい意味で)番付というのをつくったことがあります。http://www.luci.jp/diary2/?p=48 (関連ブログ。)

東と西は出身地で分け、東の横綱が岸田衿子さん(かばくん、ぐぎがさんとふほへさん他)で、西の横綱は丸木位里先生か秋野不矩さんか迷った末に位里先生(原爆の図、ねずみじょうど他)になりました。

ねずみ浄土

きんいろのしか

私がインドを旅していた時、少しご一緒させてもらった秋野不矩先生(うらしまたろう、きんいろのしか他)は文化勲章受章者で、しかも秋野亥左牟さん(プンクマインチャ他)のご母堂です。この二つの勲章もふしぎに思えるのですが、天龍の秋野不矩美術館は圧巻、お勧めです。何度も何度も巡礼してもいいくらいです。同じ御本尊を拝みにいくように、同じ作品を拝みにいくのです。絶対にあってほしい作品が展示替えになっていると、それはいけません、と思います。

そういえば、亥左牟さんも一度日曜美術館に出てきました。

プンクマインチャ

ずっと以前、ロサンゼルスの私のアパートにふらりと来て数日泊まり、日本から持ってきたお孫さんへのお土産のコケシを、お礼に、と言って置いて行ったのです……。すでに仙人のようなヒゲで、年齢不詳でした。敷物一枚で、床にゴロンと眠ってしまうのが絵になる親子です。

インドへ私を呼んでくれたラマチャンドランさん(まるのうた、おひさまをほしがったハヌマン他)は、西ベンガルのシャンティニケタンにある詩人タゴールの作った大学で不矩先生が教えていた時の教え子です。不矩先生の英語は半分日本語です。それで三年、大学で教えていました。初めての外国だったインドで、不矩先生の半分日本語で話してしまう「英語」を聴いたとき、私は世界中どこへでも旅できる気がしたのです。

ラマチャンドランさんは、私の人生における「灰色のガンダルフ」(瀬田貞二訳「指輪物語」より)のような人。

ある日、ニューデリー郊外のラマさんの家で、不矩先生が、私がついでに洗うから、と私の洗濯物を洗ってくれて、ラマさんが庭に一枚ずつ干していた時、私も何かしなければと思ってラマさんに尋ねたのです。すると、あとてやってもらうから、と笑うのです。夕食が終わって、みんなでシーンとした時、ラマさんが、さあ、笛を吹いてくれ、と言いました。私は尺八をとってきて即興でしばらく吹きました。終わると、不矩先生が、あなたの今日の仕事はこれでいいの、とニコニコ笑いながら言いました。

「フレデリック」のような話です。ありがたい。あの夕べの風景はいまも私の心の中にあります。

 

「絵本関係者奇人変人番付」に話を戻します。

不矩先生は西の張出横綱になって、東の大関は丸木俊先生(原爆の図、うみのがくたい他、私が好きなのは「12のつきのおくりもの」)。関脇、小結あたりを決める時に候補者をとりあえず紙に書いて並べてみました。

12の月のおくりもの

安野光雅先生(ふしぎなえ、旅の絵本他、私の小学校の図工の先生)、梶山俊夫さん、谷川俊太郎さん、長新太さん、渡辺茂男さん、瀬田貞二さん、赤羽末吉さん。(私の推しで)藪内正幸さん……。

いまでも懐かしい薮さんは、上京したばかりの頃、学生服を着てうちに下宿していました。上野や多摩の動物園に通うのが仕事で、パスも持っていたから羨ましかった。ああいう仕事に就かなきゃいけない、と子ども心に思いました。子どもと絵本作家を数人近づけると、だいたい子どもは道を踏み外します。最近、ハイビジョンのテレビ番組で、動物の、特に鳥の羽の細かいところまで綺麗に見える映像がスローモーションで現れるたびに、藪内さんに見せたいなと反射的に思います。薮さんの動物を見つめる目の真剣さと愛情が、今でも私の心の中に生きています。そういえば、今江祥智さん(わらいねこ、山の向こうは青い海だった他)もうちに下宿していたことがあって、これでは、もう子どもは真っ当な道は歩けない。非認知能力がつき過ぎる。言い訳です☺️。

番付の小結(こむすび)あたりまで決まりかけていた時に、突然、アッと気が付いて、石井桃子さん(クマのプーさん、ちいさいおうち、うさこちゃん、三月ひなのつき、他)をどうするかということになりました。

「どうするか」という言い方はちょっと失礼なのですが、堀内さんはその時すでに舌ベロが紫色になるくらいワインを飲んでいました。ちなみに長女の花子さんも、お酒を飲むと目つきが鋭くなってきて、言葉に凄みが出ます。大学生の息子がいる次女のもみちゃんは優しいのですが、保育指針を読んで、「かずくん、こんなの無理だよね~」と、初めて会った五年生の時みたいに真実をズバッと言うのです。「ムリ、ムリ、ぜったい無理」と私も真剣に答えるのですが、やはり堀内家の伝統は受け継がれている。(世田谷区の「おでかけひろば」について、「これ、いいんだ」と教えてくれたのはもみちゃんです。自主的な子育て支援センターを、区が空き家を借りて増やしていく仕組みです。)

さて、石井桃子さんをどの位置、と言うか「地位」にするかという話です。

私は小さい頃、石井さんの自宅の「桂文庫」に毎週通っていて、一人ずつ呼ばれて応接間で絵本を読んでもらったり、愛犬のリュークと遊んだり、メダカのいる池をのぞいたりしていました。お手伝いのミネさんの顔も覚えています。敷地全体が良質の児童文学という感じで、石井先生はいつも背中をしゃんと伸ばして今でもそこにいるのです。ひょっとすると横綱かもしれない、と堀内さんも言った気がします。

田島征三さんは残念ながら番付では前頭でしたが、それだけ絵本関係者には奇人変人が多いということ。いつまでも大人になれない、ならない人が、それを特権のようにして生きている。一人では生きられそうもないから、よほど運がいいのでしょう。

でもこの人たちが社会の視点、定点のようなものを作っている。人間の役割分担みたいなことを強く感じるのです。そして、この定点は、親たちが子どもに読んで聞かせるという役割をすることで、本当の意味で社会の原点になるのです。いくら不思議な指針がそこにあっても、親心が存在しなければ自然治癒力は働かない。それが人間社会です。

あまがさ

そうだ、八島太郎さん(あまがさ、からすたろう)のことをいつか書かなければ……。

堀内さんの家をあとにして五年後に、私はロサンゼルスで大学へ通いながら八島さんの俳句の会に出入りしていました。八島さんの日本語に対する感覚は鋭く、余白、余韻を残した「あまがさ」の文章は、英語で書かれた俳句のようです。存在感のある人物です。色んな意味で……。

ああいう海の渡り方をしたタロウ・ヤシマが、アメリカの今年の大統領選とコロナ禍とBlack Lives Matter(人種差別と不信を増幅している司法・警察の問題)の重なりと混沌を、どう分析、評論するだろうか。息子のマコさん(岩松マコ、砲艦サンパブロでアカデミー賞助演男優賞にノミネート)も交えて話すことができたら……、二人とも亡くなっていますが、そんなことを考え、想像します。(八島さんが、どういう海の渡り方をしたかは、ぜひネットで調べてみてください。ちょっと凄い話です。)

八島さんのペンネームに現れる日本に対する思い入れ。友人の小林多喜二(蟹工船)の死顔をスケッチし、戦前にアメリカに渡り、戦後、チャップリンが事実上の国外追放になった熾烈な赤狩りを目の当たりにした人。そして六十年代の反戦、人権運動のこと。マコさんが主宰していた、私も音楽を担当したことがあるイーストウエストプレイヤーズのこと。アジア系アメリカ人の劇団ですが、自分の顔、姿から逃げられない移民二世、三世の東洋人俳優たちがアメリカのリアルタイムをもがくように生きていました。ある日、音楽好きの韓国系男優キヨニ・ヤンが私に言いました。

「カズ。オーディションに行くだろう? すると、タップダンスはできるか、と訊かれる。もちろんです、と答えるんだ。そしてタップを教えるスタジオを探して、金を払って三日で覚えるんだ。Than’s Hollywood, man.」

人種の壁は厚い。差別は必要な格差として、歴然と、当然のようにある。(私も様々な形で体験しました。その不合理な荒波の中で闘っていると、自分もいつの間にか荒っぽくなっていきました。)それでも俳優になりたければ、何でも、喜んでやるしかない。彼は、典型的な日本人の役、と言ってジョー山田をやって見せてくれました。それは、中国人と日本人の中間あたりに属するふしぎな自虐的なキャラクターでした。

「お前にやってほしくないよ」と苦笑いしたら、クスクス笑いながら「Than’s Hollywood, man.」と言われました。

海を渡った理想とか夢が、叶わずとも魂の質量を持っていた時代があった。それがいま、殺風景な悲しみや苦しみ、橋を架けようもなく深まる分断、やり場のない憎しみや怒りの中で定点を失い空回りしている。

損得勘定ではない原風景の中に、名作「あまがさ」と「からすたろう」はあります。還っていく風景があったから、八島さんは生き続けることができた。でも、それがあるがためにもがき、苦しんでもいた……。

「あまがさ」と「からすたろう」、素晴らしいです。

何が?といえば、小さい頃のモモさんかもしれない。雨の音、それを一緒に聴いていた父親の心情かもしれない。その後、を知っているだけに、それは素晴らしかったんだ、と断言したいのです。

「からすたろう」では師弟の出会い、学校へ毎日通った道のり、カラスの鳴き声、そうしたものの組み合わせが素晴らしいのでしょう。

あの頑固者で面倒くさい、本当は優しい鹿児島男児の波乱万丈の人生を、たった二冊の絵本が表してくれるから絵本描きは特だなあ、ずるいんじゃないの、と思うのです。けれど、あの、子どもがいる風景の静けさが人間にとっては原点の静けさで、いつでも手に入る幸せの可能性を示唆しているから、やはり納得してしまう。全米の図書館に、たぶん全ての小学校の図書館にあの二冊が日本という国の文化を代表して入っている気がするのです。

田島征三さんの番組の最後の方に出てきた最新作と思える、魚をつかむ、魚が逃げる、そんな絵が新鮮で、水の青が綺麗で、まるで音が聴こえるようでした。人間は子ども時代に帰っていく。還っていく次元をしっかり体の真ん中に残しておけばいい。残させてあげればいい。一番完成していた自分に戻っていくことができる。そんな気がしました。
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(「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」に書いてもらった谷川さんの文章です。ありがとうございました。)

「うーんと唸りました。読み進める私のアタマには?と!が交互に現れます。でも松居さんは保育の現場から考えているから、この本の中の具体的な「言葉」には、この時代の抽象的な「決まり文句」を突き崩す強さがあります。」 詩人 谷川俊太郎

 

「おもしろくてアッという間に読み終えた。「子育て」を低級な「仕事」と見始めるところに、人間社会を根本から揺るがす危険がある、という主張に、教師としては強力な援軍を得た気持ちである。」  「学校崩壊」の著者 川上亮一

 

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米国大統領選、結婚しない男たち、人類普遍の価値

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米国大統領選、トランプ大統領とバイデン元副大統領の第一回目の討論会は酷かった。まさに国の現状がそのまま現れたという感じでした。ニューヨークタムスやワシントンポスト紙が「史上最悪」と書き、3大ネットワークが「国の恥」と評し、私も聴いていて途中で気持ちが悪くなった。

終わった直後にテレビのコメンテーターが、まるでサーカス、とコメント、サーカス団からテレビ局に、サーカスを馬鹿にしないでくれと抗議がありアナウンサーが謝罪した、という嘘のようなホントの話。人類の行く末を左右する茶番劇がリアリティーショーとなって続いてゆく。すでに、背後に暴動の匂いがする。銃の売れ行きが加速している。

司会者に、白人至上主義者(white supremacist)たちの活動をこの場を借りて否定しませんか、と問われた大統領は、最後までそれを言葉にすることを拒んだ。そして、武装を楽しむ極右の団体プラウドボーイズを名指しして、後ろへ下がって、控えていろ(stand back and stand by)と言ったのだ。討論中にすかさずPBが、了解です、とツイート。翌日には「Stand Back & Stand By」と書かれたTシャツを売り始める始末。

報道を介さず、ことは進む。社会に反発している若者の反応は早い。緩衝材になるべき温かさに包まれていないから、熱し方が激しい。武器を手にしようとする。

放送後、黒人の母親から、十二歳の息子に真剣に、銃を買ったほうがいいんじゃない、と尋ねられて困っている、という投書がテレビ局にあったそうだ。そこに意識の世界で進む、危うい現実が映し出される。討論会の勝者がどちらか、支持率がどう変化したか、などということよりも、十二歳の子どもがどういう風にそれを見ていたか、何を感じたかが重要で、その意識の中で国の未来が築かれていく。大人たちは、それに配慮すべきなのだ。

この子の発言には様々な伏線がある。二年前大統領は移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」からではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し、マスコミに「露骨な人種差別」と非難された。ハイチで抗議デモが起こり、それでも37%という大統領の支持率に変化はなかった。

当時、ロサンゼルスで教師をしていた友人が言っていた。「メキシコからの移民は罪人ばかりだ、という発言もそうだけど、公の場で大統領がこういうことを言ってしまうと、小学校教育は成り立たないの。教科書で教える民主主義や平等という言葉が偽物だと、生活の中で感じている子どもたちにとっては、トランプの『糞溜め』発言の方がずっとリアルだし、身近なのね……」。でも、と彼女は言った。「そのリアルさがトランプの武器なんだけど、私という存在の方が、クラスの子どもたちにとってはリアルだと思う」。全米のTachers of the yearとして表彰されたこともある、親身に子どもたちの将来を心配する人だった。

この夏、彼女は四〇年間の教師生活に終止符を打った。教員たちの間にできてしまった溝、政府や行政に対する不信感はしばらく続くだろうし、子どもたちともコロナで直接会えないから、と言って……。

高等教育が普及したはずのアメリカで……、小学生並みの罵り合いが公的に続く。そして、それは永遠にネット上に残される。党派やイデオロギーを超えた分断の両側で、子育てをする親たちの困惑と不安、怒りが広がっている。地位を失うと脱税で訴追されるかもしれない大統領が主導する分断が、潜在的暴力を呼び覚ましていく。

現行制度のもと、州によってはすでに期日前投票が始まっている。それにも関わらず、自分が負けたらそれは不正選挙だからだ、と大統領が断言してしまったら民主主義は成り立たない。大統領を支持する共和党の上院議員でさえ、苦虫を噛み潰したような顔で白人至上主義者たちを否定し、選挙に敗北したら認めるべきと言うのだが、憲法と教育の限界が支持率6:4の数字となって、いよいよ明らかになっていく。教室で教える真面目な教師たちが、子どもたちを前に立ち往生している。

長年一緒に音楽をつくった白人の友人が嘆いていた。民主党支持、共和党支持の違いなら、友人関係を保つことはできたんだ。でも、トランプ支持、不支持の違いは、友人を失う種類のもの。この亀裂は一生埋まらないかもしれない。(そして、この亀裂は、家庭内でも起こっている。)

実は、南北戦争は終わってはいない。国の歴史がこれからも続き、憲法に人権や平等が書かれている限り溝はいつかは埋めていかねばならない。しかし、今、これに似た亀裂が世界中に広がっているのだ。

ウイルスとワクチンで人間性が浮き彫りにされている。

調和の方向へ進んでいくのだ、と信じるしかないのだが、いまはとりあえず日本という国で子育てをしていることに感謝する。私たちはそこから始めることができる。それは良きこと、運のいいこと。そして、私の思考は繰り返し、幼児の存在意義へと移っていくのだ。この人たちをどう扱うか、で憲法も教育も成し得ないことが整ってくる。彼らが一番確かな存在だと思う。

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(政府が掲げる「新しい経済政策パッケージ」より)

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、『子育てや教育にお金がかかりすぎるから』が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

ーーーーーーーーー

この人たちには「少子化という壁」の実態が見えていない。過去15年間の「少子化対策」、その柱となったエンゼルプランや預かり保育といった保育時間と三歳未満の園児数を増やす対策の結果、ますます出生率は下がっている。それは、誰もが知っている現実なのだ。

少子化対策の背後には女性の就労率の(出産によって下がる)M字型カーブをなくそうという意図があって、実態は労働施策だった。出生率を上げる対策にもなるはず、という一石二鳥の安易な飛躍がそこにあったのだが、あまりにも軽率な計算で、「子育て」という行為を軽く見過ぎている。

負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という損得勘定は、この国では成立しない。子育ては打算でするものではない。それが結果として出ているのだが、学者たちは、親子を引き離す意識改革を「人づくり」と名付けて進める。子育てはもともと人類が幸せ感じ、信頼や絆を作る「大切な負担」だという進化の常識が理解できていない。負のイメージばかりを広めようとする。

そして、結婚しない男が増えている。

数年後には生涯未婚の男性が三割になるという。少子化の根本には、男たちの意識の変化がある。

(実は、幼稚園や保育園で園の行事に参加する父親は増えていて、本能は確かに働いてもいる。ちょっと導いて、励ませば父性という人間性は喜びを伴って蘇ってくる。http://www.luci.jp/diary2/?p=220)

家族という関係を信じない、それに憧れない男たち、子育ての責任に充実感を感じず簡単に放棄する父親が増えている。(欧米よりは遥かに状況はいいのですが)母親(母性)が追い込まれている。そして、同時に福祉という梯子が、その質という次元で外されようとしている。

「子育て」をしていれば輝けない、「子育て」は損な役割、イライラの原因、お金がかかる、といったイメージを国やマスコミが繰り返せば、「生きる力」が弱くなっている男たちは結婚に躊躇するようになる。小、中学校でも男子生徒がとても幼くなっているという話を聞く。悪い子ではない、どちらかと言えばいい子たちなのだが、担任に甘える、駄々をこねる、忍耐力や意欲を持てない男子生徒が増えているのだ。それもまた自然なこと。無理に少子化を止めようとして、欧米のように「利他」の心持ちに欠け、子どもや弱者に辛い社会へ進んでしまっては、それこそ本末転倒です。

(以前、政府がスローガンにしていた「安心して子どもが産める環境づくり」を、「あれは、気楽に子どもが産める環境づくりです。それは困る。親が育たなくなる」と看破した保育園の園長先生たちがいた。)

伝統的な、この国の個性、美学にも似た子育て観、この国を守ってきた幸福論の書き換えが、「待機児童解消」の掛け声のもとにいまだに進められている。

(参考ブログ)

http://www.luci.jp/diary2/?p=2786:「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

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「理想の子供数」という言葉が施策の中で使われる。

誰にとっての理想で、何を目的とした理想なのか、その辺りを推測すれば、ある思惑が見えてくる。馬脚があらわれる。

この「理想の子供数」と「保育は成長産業」という閣議決定に踊らされ新規参入した小規模園が最近閉園に追い込まれていて、それもまた経済活動、市場原理だが、その過程で、乳幼児たちに何が起こっているかを慮ることが重要なのだ。1日、2日のことではない。年に260日、1日平均11時間、脳が最も発達するとされる彼らの日々なのだ。それを丁寧に、親身に考えないから、「思いつき」「数合わせ」のような規制緩和、あってはならない制度改革の試行錯誤が続き、それが保育の現場を一気に疲弊、荒廃させしまった。

以前厚労省が作った保育指針解説書の最後に、こんな文章があった。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです」

その通り。保育は、「教育」よりずっと古い、人類普遍の価値を守る行いでなければならない。

乳幼児の存在意義を見失い「絆」という社会の安全ネットが壊れていくと、もはや福祉や司法では補えない。四割から六割の子どもが未婚の母から生まれる欧米で、犯罪率が日本よりはるかに高いのだ。人間社会において、モラルや秩序は、主として親子という関係で行われる「子育て」によって維持されてきたのだ。

(法治国家を条件に比較すると、泥棒に入られる確率Burglary rateは、ニュージーランドが日本の25倍、デンマーク20倍、スェーデン15倍、フィンランド、アメリカ8倍。レイプ被害に遭う確率は、スェーデンが日本の60倍、アメリカ40倍、ニュージーランド30倍、フランス、ノルウェー20倍、デンマーク18倍。)

なぜ政府は、この国の子どもたちにとっての安心と安全を犠牲にしうようとするのか。乳幼児期の親子の肌触りを経済の妨げのように扱うのか。現場は納得がいかない。優先順位におけるこの間違いを黙って見ているわけにはいかないから、私は30年間言い続け、書き続けてきました。

「人類普遍の価値の問題」

(左の人たちには右と言われ、右の人たちには左と言われましたが、そんな陳腐な闘争レベルの話ではないのです。人類普遍の価値の問題なのです。)

論旨に同意しない人たちが居て当然です。幼児の存在意義という根源的な部分で理解しない人が居てもいい。しかし、少なくとも雇用労働施策によって保育現場がどう追い込まれているか、その窮状については避けて通れない現実があることを繰り返し述べてきました。

保育士不足は、質の悪い保育士を雇わなければならないという選択を園長たちに強いる。それは「いい園長」には辛い。「園長、辞めるか、良心捨てるか」という選択が保育界の質を下げていく、等々。

「保母の子ども虐待」―虐待保母が子どもの心的外傷を生む、という本が出たのが23年前。その後の安易な規制緩和と絶対的な保育士不足で、0、1、2歳という自ら身を守れない弱者たちを安心して預けられる状況ではなくなっているのだ。子どもたちを守ろうとする園長たちが、私の身を借りて警告した通り、乳幼児たちの絶対的信頼に応えるべき保育は失われていった。

(新聞記事から)

「あっち行け」「ブタ!」 各地で相次ぐ「不適切保育」、園児の心に深い傷:2020年8月31日:https://www.tokyo-np.co.jp/article/52148

グルグル巻きの虐待が日常だった:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73461

認可保育園でも幼児虐待。叩く、突き飛ばす、転ばせる…実際に働いていた女性に話を聞いた:https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20180828-00094721/

自民党の少子化対策委員会で、福祉の拡張に伴う保育の質の低下や家庭崩壊の増加について講演したのが17年前です。党の女性局の全国大会や厚労部会でも講演しました。自民党の依頼で衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をし、民主党の依頼で衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として「無償化が保育の質を下げ、親たちの子育てに対する意識を変えること。保育界はこれ以上人材的に対応できないこと」について意見も述べました。(委員の議員たちに配ったレジュメがhttp://www.luci.jp/diary2/?p=2801に載せてあります。)

埼玉県の教育委員長をした時は、全国教育長・委員長会議で保育の重要性について、保育者体験が親たちを育て保育者との間に信頼関係を生むこと、それが学校を成り立たせる原点になると説明し、県単位で取り組むところが四県になりました。体験した親たちのほとんどがアンケートに「もう一度やりたい」と書く。それがこの国の強み、素晴らしさです。親の保育者体験を国の最重要施策にすれば状況はずいぶん違ってくる。中、高校生の保育体験を加えればさらに「生きる力」が蘇ってくる。幼児たちの集団には、それほど「いい人間性を育てる」力がある。それに気づいて欲しい。 

本も書きましたが、執筆依頼もありました。

2004年版「日本の論点」(変わる国のかたち)(文芸春秋社)に『モラルと秩序は「親心」から生まれた:子育ての社会化は破壊の論理 』を書きました。

日本の論点

安倍元首相が創設に関わった日本教育再生機構の機関誌「教育再生」2014年11月号に、八木秀次氏から依頼され「育てること、育つこと」 というタイトルで、学校教育を支えてきたのは、保育界の意識と就学前の親たちの「育ち」、双方向への「愛着の形成」であること、幼児期の親子を労働施策で引き離すことを続けては、教育の再生はあり得ない、と書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=465

(国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。:教育再生より)

教育再生

  去年、衆議院調査局発行の「論究」第16号に「子供を優先する、子育て支援」というテーマで論文を依頼され、衆議院議員全員に配られたそうです。

論究

政治家たちは、質を保つことが不可能になっている保育界の現状を知っているはず。安倍内閣には、私の講演を聴いただけでなく、直接しっかり話をさせてもらった人が改造のたびに三人は居ました。今度の菅内閣にも三人居られる。厚労大臣と文科大臣と経済産業大臣、これ以上の組み合わせはないと思うのですが……。

0、1、2歳児の安心と願いを優先する、それだけでいいのです。彼らの役割を思い出し、それを果たさせてあげれば、自浄作用、自然治癒力は必ず働き、社会全体が落ち着きを取り戻す。乳幼児が社会の「気」を支配する、それが本来の姿です。

すでに自治体単位で実行に移されているいい方法、効き目が証明され、予算もほとんどかからないやり方がいくつもある。本やブログ、論文にも書きました。

(「いい人間性を育てる」力に関しては、0、1、2歳児がもっとも象徴的で自然ですが、話しかけられるものなら、小さな妹、祖父母、お地蔵様でもいい。もちろん、花でも、ペットでも、野菜でもその範疇です。)

数字は誤魔化せない。経済学者たちも知っているはず。

しかし、この「新しい経済政策パッケージ」を作った優位者たちは、強者主導の優先順位をいまだに変えようとしないのです。優先順位こそが「人間性」であること、絶対的弱者を最優先にすることから「社会」が成り立っていることを認めようとしない。  

現在の政府が(野党も含め)進める保育崩壊、家庭崩壊はこれから数十年に渡ってこの国のあり方に関わってくるのです。「不適切保育」をされた子どもたちだけではなく、その風景を見ていた子どもたちの心にも深い傷を残していると言うことを実感してほしい。

(新聞記事から)

認可園で虐待、おびえる我が子 通報受けた市、遅れた立ち入り:https://www.asahi.com/articles/DA3S14640478.html

「保育士の虐待『見たことある』25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明」:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

乳幼児期にこうした体験をさせられた「心の傷」について、人類は気づいていました。「三つ子の魂百まで」と言います。三歳まではとにかく大切にしなさい、可愛がり、寄り添いなさい……、ということ。

(つい十五年前まで、選択肢があれば、この国では七割以上の子どもが幼稚園を卒園していました。本能的に、まだ喋れない、歩けない幼児の位置を理解していた不思議な国なのです。)

乳幼児期の愛着関係の重要性は、学術研究でも繰り返し言われています。だから、この新聞記事の見出しにも「園児の心に深い傷」とあるのです。忘れてはならないのは、その傷は、その時だけのものではなく、様々な形で社会に連鎖していくということ。

こうした報道がされるときに、マスコミや学者は、政府の質より量を優先した施策で保育界の負担が重くなっている、それを軽くするために、待遇改善と人材確保のための予算を、と言う論調になる。これでは根本的な解決にはならない。本質に迫っていない。幼児の視点、幼児の願いという観点からは、むしろ、本末転倒といっても良い。

親たちの意識の変化こそが保育士たちの負担を重くしているのです。その指摘がされない限り、保育の質は確実に落ちていく。

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内村鑑三が、教育で専門家は育つがひとは育たない、と義務教育が広まり始めた時代に言った。

百年後、増え過ぎた専門家たちが「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)と言って、結果的に教育が成り立たち難くなるほどに「子育て」の基盤である家庭(または愛着関係)を壊している。手遅れにならないうちに、保育という仕組みをもう一度、専門家たちの計らいや成長産業などではなく、人間の営みという本来の姿の方向に戻していかなければ、「保育」は諸刃の剣となる。

専門家が増えれば人が育たなくなる、という新たな現実を、私たちは体験しています。

生産性と人づくりは車の両輪とはなり得ない。動機が異なる。

保育資格を与える大学や専門学校は、資格者を送り出すという「ニーズ」に応えることによって成り立っています。0、1、2歳児保育が今ほど普及していなかった頃は、そのやり方でも通っていた。「保育」は「教育」のフリができた。

しかし、政府が待機児童数の10倍の三歳未満児を預かることを目標に掲げ、親たちが未満児保育に違和感を感じなくなった現実の前で、「専門家」を育成することでまかなう「保育」は、完全に行き詰まってしまった。

0、1、2歳児の保育は、専門性よりも「人間性」を求めるからです。

明らかに現場に出してはいけない、資格を与えるべきではない学生に「保育資格」を与えた時点で、学問としての「保育」はビジネス(経済)の一部になっている。それを忘れてはいけない。

十数年前、実習先で見た虐待を私に伝えようとした学生たちを必死に保育科の教授が止めようとしたことがありました。男性保育士の性的虐待を、行政から止められ告発できなかった保育士たちのことを思い出します。いい保育士の人生が、仕組みの中で潰されていったのです。

保育は、園の経営が成り立てばいいというものではない。その場所がどう回っていくか、そこでどう心がつながっていくかがその存在意義なのです。だからこそ、保育という仕組みは安定していなければいけない。市場原理など持ち込んではいけない。

教育システムやマスコミという経済の守り手と、幼児という人間性の守り手の間に、人類未体験のせめぎ合いが起こっている。

近年、政治家やマスコミが「女性の活躍」という言葉を使って議論する時、その定義の中に「子育て」が入っていない。むしろ「子育てから離れることによって、女性が活躍する」という論旨が定着しつつあります。活躍の意味が議論されないまま、その言葉から逃れられなくなっている。「活躍する」ために必要な保育の質は、その信頼に応えられる状況にはすでにないにもかかわらず。

人間本来の生きるためのインクルーシブ、調和へ向かう姿勢が、授かる乳児の存在意義を忘れることによって、抑圧と支配、暴力による「法と秩序」の方向へ揺れている。それが、コロナウイルスという人類規模の試練によって浮き彫りにされる。イデオロギー以上に、人間性が問われているのに、その現実から目を逸らすために様々な闘いが用意されていく。

だからこそ、まだ意識の流れを幼児優先に戻すことができるこの国の存在とその方向性が、いつか人類にとって重要な意味を持つようになる、そんな気がする。

保育園と幼稚園が、この国を「経済優先の流れ」から救い出す鍵を握っています。保育園と幼稚園が「子どもの最善の利益を優先」し、親たちと子育ての喜びを分かちあう。それがまだ可能な国なのです。

(関連しているブログです。)

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。

http://www.luci.jp/diary2/?p=2902:保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げる場

「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。/ 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

(衆議院議員に配布された論文集です。私の論文は、「子供を優先する、子育て支援」です。)

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf

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二年前のことです。ある私立保育園に講演に行きました。笑いあり、涙あり、平日なのにほとんどの母親たちが講演会に来て熱心に耳を傾けてくれる。(保育園です。)幼児と過ごすこの時期、この特別な時間をどう過ごすといいのか、子育ては親たちが自分のいい人間性に感動することです、等々、一生懸命話しました。70歳になる女性の園長先生は気合の入った方でした。私のファンだそうで、親の保育士体験も数年前から全員にやらせています。そうした日々の耕しがあったから、一体感を感じる、お互いに納得しながらの講演会ができたのだと思います。

私が時々「道祖神」とか「地べたの番人」と敬意をもって呼ぶこの人たちが、実は根っこのところでこの国を支えてきたのです。

驚いたことに、70人定員の園で、年に一度のお泊まり保育には親も含めて200人が参加するというのです。園児一人に大人が二人ついてくる。国が仕切っている今の仕組みの中で、つまり逆風の中で、こういう園長先生が親心を耕し、信頼関係を育てている姿をみるのは嬉しいし、励みになります。「そう、そう、園長がその気になれば、可能なんだ」と笑ってしまいます。これは「教育」のレベルの話ではないのです。もっとずっと古い、古(いにしえ)の法則、大自然のしきたりに属する作業なのです。「祭り」と呼んでもいいかもしれない。

お泊まり保育だけではありません、お泊まりキャンプもあります、と園長は言うのです。この保育の神に出会った一家は、その人生が変わる。親たちも、そういう行事があることを説明され、納得して園を選んでいる。まだまだ日本の親たちは捨てたものではない。

「でも」と二人きりになった時に主任さんが辛そうに言うのです。「あんな園長ですから、親たちを育てるのは難しくないんです、いくつか行事を重ねれば、自然にみんな子育てが喜びに変わって行きます。問題は、若い保育士たちなんです。育てるのが本当に難しくなった。知識はあっても長く続かない。保育の喜びや深さを理解してくれない。昔とは、笑顔の種類がちがってきているように思うんです」

数日後、親たちの書いた素晴らしい感想文が、たくさん送られてきました。この国はまだ大丈夫。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

折々のことば

久しぶりに演奏します。11月10日(火)です。

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恐る恐る、ですが、音楽を四人で再開します。野球場もあんなにお客さん入っていることですし、いつかは始めることですから。どうぞ、よろしくお願いします。ぜひ、ぜひ、聴きにいらしてください。

演奏は、恐る恐るではないです。

 

調和する社会を作るための筋道

 

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以前、経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。正確に言えば「私たちに」言ったのだが、隣にいた保育園の園長先生の肩が怒りに震えていた。

座長は男性、園長先生は女性だった。

この高名な経済学者は、人間を、働けるか働けないかでしか見ていない。「0歳児は寝たきり」という情報を、ただ情報としてインプットされ、幼児の「働き」、「役割り」に関しては見えていない。考えが及ばない。自分が幼児だった時、どういう存在だったのかさえ理解できていないのだ。人間の生きる動機、実はこれこそが「経済」の原動力だったわけだが、それが理解できていないということ。「経済」を調和ではなく、闘い、競争と理解している。勝者(強者)の側からの都合で見る「経済」は破綻する。それが全世界で起こっている。

人間は、遺伝子の中に組み込まれている、誰のために生きるのか、何のために生きるのか、という「人生の目的」を、0歳児を眺めることで思い出す。

表層的な情報に依存して想像力を封印し、感性を忘れる経済学者が多いのは仕方ないこと。しかし、この人が政府の少子化対策が始まった頃に経済財政諮問会議の座長だったことは、政府という、経済で成り立つ仕組みにとって致命的だった。少子化対策の中心にあった保育施策が雇用労働施策の一部として扱われ始めた時だっただけに、あってはならないことだった。強者が仕切る仕組みというはこのように動く。

似た考え方をする経済学者はこの人だけではない。

3年前に閣議決定された政府の「新しい経済政策パッケージ」を作った人たちの名前の横にも、有名大学教授の肩書きが並んでいた。

(政府の「新しい経済政策パッケージ」より抜粋)

『0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。

 

この政策パッケージが作られる10年以上前から、ハローワークで保育士を募集しても一人も応募してこない、という状況は日本中で起きていた。保育士を選べない状況はすでに動かない現実だった。経済学者たちが最優先と決め、無償化によって推し進めようとする32万人分の「受け皿整備」は、確実に幼児たちを世話する労働力の質を落とし、怯える幼児たちを増やすことでしか「着実に進め」られない。それを自治体のベテラン保育課長たちは知っていたし、厚労省も勿論知っていた。

保育士不足による弊害は、すでにマスコミでも繰り返し報じられていた。

ネットで、「保育士、虐待」と検索すれば記事はいくらでも出てくる。それを読みもしないで保育という手段を前提にした政策パッケージを作った学者や政治家を除けば、「子育て安心プラン」が規制緩和と人材不足を一層進め、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということは現場は皆わかっていた。私は、当時年間100以上の講演をし、その半数が保育者たちに呼ばれた講演だったから、そう言い切れる。現場は皆わかっていた。

それでも、いい保育士が怯える「子育て安心プラン」 を前倒しする、と政府は再び決めたのだった。

(イギリス、フランス、韓国の保育制度に関しては、参考にする意味がない。イギリスは四割、フランスは五割の子どもが未婚の母親から生まれ、家庭の定義がすでに日本とは違う。韓国の保育制度に関しては、その破綻の速度と、市場原理の危険性について知るべきだと思うが、無償化をとどまる事例にしてほしい。)

(参考ブログ)

「保育士7人が一斉退職」の新聞記事と、現場からのメール:「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。

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「新しい経済政策パッケージ」に関わった経済学者だけではない。保育士不足の只中で「十一時間保育を標準」と定めた国の子ども・子育て会議の「専門家」たちは、一体何をしていたのか。

「この内閣主導の経済政策パッケージをいずれ支えるのは未来の労働力となる子どもたちではないのか」という単純な理解があれば、「32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め」たらこの国の将来がどういうことになるか、保育の専門家ならわかるはずではないか。

保育の質の低下は、学級崩壊や教師の離職という形になって学校教育を追い詰める。いじめや不登校、引きこもりが増え、社会全体の生きる力が弱まり、将来の労働力の質も下がっていく。

「保育の受け皿」という言い方で誤魔化しても、これは間違いなく「子育て」の受け皿なのだ。そう言い換えれば少しは問題の本質が見えてくる。専門家の机上の仕組み論ではない「人間の営み」が感じられるはず。そんなことは、突然32万人分出来るはずがない。仕組みと資格(学問)で補えることではない。そこに書かれている通り対象の九割が三歳未満児なのだ。脳の発達、将来の思考の道筋がこの時期決まると言われている、その扱いには細心最善の注意を払わなくてはいけない、人間社会において最も繊細で敏感な人たち(大切な弱者たち)なのだ。政府や学者、専門家たちが乱暴に扱えば、そのひずみは必ず出てくる。

そして、この時期の子育ては、育つ側だけでなく、明らかに「育てる」側の体験であって、「寝たきりなんだから」(誰がやっても同じ)で済まされることではない。

「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。

その人は一体何を考えているのか。「誰が」安心しようとしているのか。子育てにおいて、子どもたちの「安心」は二の次なのか。

心ある園長なら、すぐに抱くこうした施策上の矛盾と思考の展開に対する疑問に、学者たちがまったく気づかない。少なくとも、「新しい経済政策パッケージ」と「子ども・子育て支援新制度」に関わった専門家たちは、気づいていない。弱者の願いから生じる、人類が生き残るための常識から逸脱している。

追記:

待機児童はやがてゼロになる。その時が危ない。待機児童解消を優先課題と位置付ける経済学者たちは、そこで働く市場原理を理解しているのだろうか。

乱造とも言える保育施設の設置、規制緩和による人材の質の低下、それと同時に、少子化は確実に進んでいるのだ。地方ではすでに保育園の「定員割れ」があちこちで起こっていて、その波は、近い将来都市部にもくる。

その時、園児の取り合いから、親を「客」と考える保育のサービス産業化に拍車がかかる。それが怖い。数人の欠員が園の存続に直結する自転車操業のような小規模保育では、言い方は悪いが、親子を引き離すサービスに走り始める。生き残りを賭けて。そうしているところはすでにある。

(その結果、保育園が仮児童養護施設のような役割さえ果たさなければならなくなってきている。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391)

10年以上前から、私が講演依頼を受けた保育団体の勉強会の分科会に、「保育でどうやって儲けるか」というテーマで、保育の本質を理解していないビジネスコンサルタント達が講師として入り込んでいた。ビジネスには素人の、市場原理には慣れていない園長、設置者たちをサービス産業化で煽った後、今度は「保育界でいかに生き残るか」という脅し方を始めている。幼稚園がこども園化させられた過程でも、その現象は起こっていた。

子どもたちの最善の利益を優先する、という保育所保育指針の大前提を考えれば、保育は絶対に商売になってはいけなかった。保育の重要性を理解し、国が保育士たちの「心持ち」を守らなければいけなかった。「子育て」そのものと重なるこうした「保育に関わるものたちの様々な心の動き」を考慮せずして、少子化対策は成り立たない。

しかし、介護保険の失敗に懲りずに、市場原理に任せるのがいいという学者たちの安易で稚拙な経済施策が閣議決定され、子どもたちの日常と、取り返しのつかない幼少期の日々を蝕んでいく。

この国の将来の安心と経済を考えれば、まず最優先で保育を立て直すことだと思う。先手を打って、保育園を子育て支援センターに作り変えていく。親子を引き離さずに保育園がより一層大切な役割を果たし、生き残りの不安を感じなくてもいいように制度を変えることはできる。そして、0、1歳児を自ら育てる家庭に、もちろん祖父母でもいい、直接給付金を出すなどして、保育界の人材不足を解消する。(0、1歳児の役割の大切さももちろんだが、0、1歳児保育は、4、5歳児保育の10倍の人手が必要なのだ。)

保育という仕組みが必要不可欠になっている今、保育士たちがゆとりを持ち、喜びを感じる現場にしていくことが、弱者を中心に調和する社会を作る筋道だと思う。

(参考ブログ)

児童虐待がニュースになる度に思います

http://www.luci.jp/diary2/wp-admin/post.php?post=2276&action=edit:保育界の現実(森友学園問題)

卒園児を集め「お泊まり保育」のビデオ

保育園・幼稚園、という人生の故郷(ふるさと)になると丁度いい不思議な場所には、できることがたくさんあります。八王子の共励保育園(現在こども園)では、二十歳になり成人式を迎えた卒園児を園に集め同窓会をして「お泊まり保育」のビデオを見せるそうです。

「一人では生きられなかった自分。でもあの頃、あんなに楽しそうだったんだ、幸せそうだったんだ」映像に映る小さな自分の姿を見て、二十歳(はたち)がそう感じる。

「無力なのに、幸せそう」。昔の自分を眺めて、頼り、信じることの大切さに気づく。幸せの見つけ方を以前、ちゃんと知っていたことを思い出すのです。

幸せは、自分の心の持ち方で砂場に居ても手に入る、一緒に歌えば手に入る、そのことを思い出せば、安心を土台に、これから様々な責任を引き受けていける。

「お泊まり保育」のビデオ鑑賞は、やろうと思えば全ての園で出来ること。

いま混迷している義務教育の中でも、見方を変えれば、道徳教育や英語教育に力を入れる前に、しなければいけない大切なことがたくさんあると思います。仕組みを変えても何も変わらない。

いま子どもたちに教えなければいけないことは、人はひとりでは生きられないこと。そして、みんなで踊ると楽しいこと。その次元のことなのです。

保育は、園児の幸せを願うことで成り立ちます。子育ては、子どもの幸せを願うことなのです。子育ても、保育も、祈りの領域で完結する、そんなことを私に教えてくれた園長先生たちがいました。

毎年保育士が何人も替わる派遣や非正規雇用に頼らなければ運営できない保育では、園が心の故郷になることはできません。待機児童解消を目指す国の施策に、人の心を一つにする祈りの要素がないのです。乳幼児の笑顔は人間たちが「欲を捨てる」きっかけとなる。生きる動機になる、そのことの大切さを忘れてはいけない。

(共励保育園の理事長長田安司先生の著書「便利な保育園が奪う、本当はもっと大切なもの」幻冬舎刊、は保育者だけでなく、経済学者にも、政治家にも読んでほしい。保育実践の中から生まれる知恵、仕組みの問題点が様々な視点から書かれています。)

 

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長田先生も私も、映画「三丁目の夕日」の風景を知っている世代です。

あの頃に比べて私たちはより幸せになったのか、技術が進歩し、国は豊かになったはずなのに、社会としての幸せを実感できない、どこか殺伐としてきている。絆の質が浅くなっている。それは親子関係に現れている。そういうことをひしひしと感じる世代なのです。

アインシュタインが来日した時に驚愕、感嘆した「調和の社会」の残照、名残りを知っている世代なのです。

人間が生きる意味を見失い始めているのではないか。生きる意味を探す方法を捨てようとしているのではないか。時代が変わった、で片付けてはいけない、「もっと大切なもの」が崩れようとしている。

私は、その原因として、人間たちが三歳未満児と過ごす時間の減少を挙げます。それを保育の現場で検証し、警鐘を鳴らし続けているのです。

人間は、なぜ眠っている0歳児を眺めていると孤独を感じないのか。その辺りに答えがある。その瞬間、人間は、自分自身の人間性を見つめている。

(参考ブログ)

愛されることへの飢餓感・荒れる児童

アメリカの道祖神が亡くなった。

RBG(Ruth Bader Ginsburg)ルース・ベイダー・ギンズバーグ米国最高裁判事が逝った。八十七歳だった。連邦議会の国旗が半旗になり、最高裁の前にロウソクが並び始め、日を追うごとに柵のまわりが花束とメッセージで埋めつくされていく。

アメリカの道祖神が亡くなった。

そんな気がする。

男女同権を目指す闘志だったが、男性的パワーゲームには巻き込まれない、ジェンダーの意味を知っていた賢者だと思う。だからこそ、保守系が多数を占める九人の最高裁判事の中で、保守系の男性判事からも尊敬を集め、畏れられ、友情を育んだのではないか。イデオロギーを超える「人格の力」に説得力があった。

九人のうち女性判事は三人、インタビューで、最高裁の判事のうち、何人が女性であるべきだと思いますか、という質問に、「九人」と答えている。性的役割分担を知っていた人だと思う。最高裁判事が九人とも女性だったら、アメリカという国の混沌はこれほど危険な状況にはなってはいなかった、私もそう感じる。想像でしかないのだが、そこに一つの真理があると思う。

この時期に逝くことによって、分断の恐ろしさ、政党政治の醜さ、ポピュリズムが選挙を動かす民主主義の危うさを浮き彫りにしているような、不思議なタイミング、去り方だった。

彼女の残像によって、進むべき道も、示されている気がする。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200920-00199134/

ギンズバーグ判事

 

私は、保育界で道祖神たちから様々なことを教わり、その絶対的存在感に後押しされ、その意図をうかがいながら、考えている。携帯の中には自分で撮った道祖神コレクションがある。保育界は特に、神を育てる場所なのだと思う。幼児という神々と日常的に向き合い、その影響を受ける場所なのだと思う。

私の道祖神たちは、全員女性だった。九十歳を超えた道祖神は、歩いているだけで、座っているだけで園を治めていた。子どもたちだけではなく、親たちの心を見事に鎮めていた。

(参考ブログ)

ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに

保育士の喜び

「同居は福祉における含み資産」。こういう真っ当なことが1978年の「厚生白書」に書かれていた。

 その辺りがこの国の賢さだった。絆や、人々の心持ち、数字には表れない心情を、資産として評価する姿勢が行政や学問の中にあったのだ。つい、40年前のこと。

経済を金の動きという一面だけで見ない、人間の心理、幸福論まで含む経済論が確かにこの国には存在していた。そうした一見非論理的な計算能力を伝承することで、集団としての人間たちが、互いの存在に安心する「知恵や常識」が維持されていた。

子育てを最近の経済学者が「雇用労働施策」に取り込んだあたりから、そうした「知恵や常識」が一気に崩れはじめたのです。

いつの間にか人々をつなぐ「絆」の次元がとても平板に、白か黒かみたいなことになってしまった。税金を納めているかいないかで人間の価値が測られ、「平等」という現実にはあり得ない関係性が指針を惑わし、より多くの人々が競争に追い込まれ、まるで地球温暖化のように市場原理、競争原理がヒートアップしていく。「平等」を目指すパワーゲームに慣れてしまい、戦える者たちの陰で弱者がその存在価値を失っていく。結果的に、格差は、なお一層広まってしまった。

平等という言葉は実は「機会の平等」(Equal Opportunity)であって、民主主義における社会正義として必要ではあっても、結局、強者たちによる勝者の免罪符にすり替わっていく。その過程で捨てられる物差し、「人間性」の喪失が、世界中で様々な形の摩擦や軋轢を生んでいる。

格差で生じる不満、不安が資本主義社会のエネルギーとアダム・スミスは言ったが、それはすなわち利他や無私の心を捨てる道でもあった。その道を行くと、幼児という弱者を可愛がり、彼らに寄り添うという種の保存法そのものでもある本能的な幸福論が見えにくくなる。表層的で短絡的な経済論(欲の幸福論)によって、人間の共生本能が覆い隠されていく。

三歳までに、主として親や祖父母から肌を通して伝えられてきた「何か」の絶対量が決定的に欠けてくると、競争意欲に歯止めがかからなくなり、これでは欧米社会の二の舞になってしまう。

心を伴わない「情報」で頭が一杯になった人たちは、相対的に、拠り所としての自分の感性、本能に基づく判断力を失い始める。すると、正論や事実であっても、自分の思い、願いに合わないものは「フェイクニュース」(偽情報)として簡単に片付けることができるようになる。

思い出してほしい。「千と千尋の神隠し」もフェイクニュースといえば、そうなのだ。人間が社会を形成するのに必要なのは、共有できる真理を見つけ出す力、調和への道を示唆する物差しを嗅ぎ分ける感性なのだ。

「千と千尋の神隠し」という不可思議な作品が日本の映画史上、いまだに観客動員数第一位。そこにこの国の素晴らしさ、本質がある。それを真剣に見てほしい。

 

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保育士の喜び

少人数、透明マスクをつけ、距離を保ちながら保育園の主任さんたちに講演し、その後座談会になった。敢えて、ここ数ヶ月、コロナ禍の中で保育士として嬉しかったこと、を聴いてみた。

保育士や子どもたちの安全を考え、保護者に登園自粛をお願いしたところ、大体どの園も登園児が定員の三分の一になったといいます。その時のゆとりある保育がとても嬉しかった。子どもたちの願い、要求に3倍応えられる、それで保育自体が楽しかった、と言うのです。

保育の基本は、子どもを可愛がる、そして寄り添う。それができた時に保育士は幸せを感じます。そういう人たちなのです。言い換えれば、普段の国基準の1対4、1対6、1対20、1対30の保育が、保育士たちの幸福の基準を超えてしまっているということ。そして、保育士たちの喜びが、保育の質なのです。

その次に、親たちが規則をちゃんと守るようになったのが嬉しかった、という発言がありました。

「コロナの問題がありますから、少しでも熱があったら登園させないでください」と言う園からのお願いを親たちが聴く、のだそうです。普段は、登園前に抗生物質を呑ませて、登園時だけ熱を下げるようなことをする困った親たちが、ちゃんと子どもを休ませる。

お迎えに平気で遅れてくるような親が、「コロナの問題がありますから」と言うと、時間通りにきちんと迎えに来る、と嬉しそうに言うのです。

そう、保育士たちは、親たちが子どものためにルールや規則をちゃんと守ってくれるのが嬉しい。そういうあたり前のことが保育士を元気にする。言い換えれば、そういう当たり前のことをしてくれない親たちが、当たり前のように増えてきたことが、保育士を疲弊させ、保育士不足を生んでいるのです。

そして、最後に、「今年新任で入った子(保育士)が、私が保育士になって最初の年に受け持った子だったんです。先生が好きで、保育士になったんです、って言ってくれたんです」。もう、涙が止まらない。周りに聴いている他の主任さんたち、私も涙が止まらない。これが保育士の本当の喜びなんだなぁ、と思いました。

毎年、保育士がどんどん代わっていくような園では、もう絶対に起こらないこと。政府の「保育は成長産業」という閣議決定が、これほど馬鹿馬鹿しく思えた瞬間はありませんでした。

人間は、生きている意味を探しながら生きる。喜びをわかちあいながら、人生がつながっていくことを嬉しく思う。それが「生きる力」、そんな法則を、主任さんたちから学びました。

政府がつくり出す非人間的な光景と、園長先生からの三通の手紙/集団の中での幼児の発達/追悼ジェームス・ホーナー

「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている

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魂の次元のコミュニケーションが人間社会の土台として存在していて、その伝承が「生きる」喜びになる。それを、祈りという人たちもいれば、思いやりという人たちもいる。最近では、非認知能力と定義する学者もいる。音楽や舞踏などは、その次元をそのまま具現化しているから、私たちは、浅い、深いのちがいはあっても常にこの次元で会話をしている。この次元を互いに分かち合う人間は、宇宙における存在としては不思議で、その不思議さは赤ん坊との会話から始まる。(と私は言ってきました。)

すべての人が生まれてすぐ、実はこの魂の次元のコミュニケーションの源に位置し、それを体現していた。だから、人間たちは「宝」として、それを可愛がった。

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たとえば、子守唄という、始めは一方通行のように見える音楽の形が、人間のコミュニケーションの次元を広げ、種の存続にとって正しい方向へ人々を導いてくれる。子守唄は、人類を祈りという行動に誘う入り口にあって、道筋は、神々や、大自然や、自分自身との会話に繋がっていく。

先進国社会の子育てに、子守唄が聴こえなくなっている。それは、子育てに祈りが、欠けてきているということ。

こうした現象から人間社会の変化を感知してほしい。コミュニケーションの変質は、そのまま社会の変質でもあるのだから。

今、3歳までの幼児と話す機会を社会全体に、積極的に、意識的に取り戻していかないと、と私は言い続けてきた。

 

この映像は、私が作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」からの1シーンで、シャクティのメンバーでリーダー的存在のメリタの婚約式の場面から始まる。

 

その晩、突然激しい雨が降り出し、村全体が停電になった。インドの村ではよくあること。半分冗談のように、誰かが電線を盗んでいった、と一人がつぶやく。すぐにロウソクとランプの灯りが点けられ、思いがけず、つい最近まで、世界中で何千年も続いてきた人々の暮らしが照らし出された。

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幸運だった。嵐が、私に何か大切なことを告げようとしている、と感じた。

炎の揺らぎの中に、神や宇宙を感じる。人間は灯火(ともしび)のもとで心を合わせ、生きてきたのだ……。その風景は見事で、鮮明で、美しかった。

シスター・チャンドラは踊ること、太鼓を打ち鳴らすことでダリット(不可触民)の女性に対する差別や偏見と闘っていた。不可触民の「男性」に、しかも上位カーストの葬儀でしか許されていなかった太鼓を、女性が撃ち鳴らすことで、幾重にも作られた理不尽な壁を打ち破ろうとしていた。舞踏劇の一シーンでは、持参金(ダウリ)目的で台所で灯油をかけられて殺される妻たちが表現される……。

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私とシスターとの出会いも偶然だった。稀有の出会いがたぐり寄せたこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭で、長編ドキュメンタリー部門の金賞を受賞した。音楽は自分のアルバム「Stone Monkey」からCrowを使った。自分の撮った映像と以前作った音楽が不思議に、目的と時を超えて寄り添い、馴染んだ。

人間たちが積み上げ、深めてきた「絆」と、コミュニケーションの様々な手法や形がこの映像に集約された。その意思と意味を汲み取って、私は言い続けなければならない、そう思いながら編集した。

 

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、急激に希薄になっている。「子育て」と「教育」の混同から始まり、親を労働力にするために「子育ての社会化(制度化)」が進められている。子どもを育てる幸福感が、社会構造や人間の「気」の流れから突然欠落し始め、それに伴う家庭崩壊によって、保育や学校教育という制度そのものも危機にさらされている。

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日本の国会で、数年前総理大臣が、当時待機児童が2万人だったにも関わらず、あと40万人保育園で預かれば女性が輝く、と言ってしまった。子育てでは輝かない、経済活動に参加する方が輝く、と言うのだ。幸福を金額で計る近視眼的な経済界の都合が、そのまま国の施策となっていった。子育ては損な役割、イライラの原因というイメージづけが政府とマスコミによって繰り返し行われ、浸透し始め、しかも、論旨に差はあっても、三歳未満児をなるべく親から引き離そうとすることにおいては、与野党一致なのだから、私がいくら叫んでもどうしようもない。それでも、発言の機会が、国会や市役所や園長先生たちの勉強会、保護者会などで与えられてきたのだから、それがこの国の不思議さであり、ありがたい。

(今年は、コロナ問題で講演はほぼ全て中止になったが、それでも先日、参議院会館からズームを使って、地方議員の人たち100名くらいに発言する機会があった。去年、衆議院調査局が年に一度発行する「RESEARCH BUREAU 論究 第16号 2019.12」に提言論文を依頼され、「子供を優先する、子育て支援」―先進国社会における家庭崩壊にどう向き合うか―、というタイトルで書き、年末に発刊されました。衆議院のホームページで読むことができます。誰も聞いてくれなくなるまで、いい続けるしかない。)

保育園と「一緒に」子育てをしていた昔の親たちを覚えている園長先生たちが、顔をしかめて言う。たった十年くらいの間に、0歳児を十時間以上預けることに躊躇しない親たちが驚くほど増えた、と。年配の園長先生たちは、保育を商売とは考えない。保育所保育指針にも、保育園は「子どもの最善の利益を優先する」と書いてある。だから、経済学者たちが保育園の経営が安定していいだろう、くらいに思う、十一時間保育を「標準」と名付ける施策に心を痛め、顔をしかめる。そして「保育は成長産業」とした閣議決定を呑まざるを得ない補助事業としての立場に失望し、気力を失って引退していく。

「この人たちが居なくなったら、学校教育なんかもたいよ!」と叫びたくなる。この国が誰に支えられていたか、誰との会話によって耕されていたのか、経済学者はまったく気づいていない。

政府の思惑通り「保育はサービス産業」と本気で考える園長や理事長もいる。彼らは、政府の子ども・子育て支援新制度を「ビジネスチャンス」と宣伝するビジネスコンサルタントやフランチャイズ型の株式会社の進出に煽られ、保育士の質など考えずに、マネーゲームのように保育園を増やしていく。老人介護で露見した人材不足が生む「心ない福祉」が、保育施策を通して幼児たちの将来にどう影響を及ぼしていくか、政治家やマスコミは真剣に考えてほしい。

学級崩壊やいじめ、不登校、成人男性の早期退職、引きこもり、そして未婚率の増加、増え続ける児童虐待と女性虐待の数字を見れば、幼児期の子育てに関わる施策は、国家の成り立ちに関わる緊急かつ最重要課題だとわかるはず。

全国で相次ぐ「保育士大量退職」:保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない

 

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コロナウイルスの感染拡大の最中に、アメリカやフランスで、大学生や大人たちがマスクも付けずに「コロナ」パーティーで大騒ぎをしている姿が報道で流れてくる。(私は、NHKの世界のトップニュースやCNNなどで見ている。)映し出されるのは名門大学の学生たち。一体どうなっているのか、と驚いている日本人も多いはず。「一部の人たち」とは言い切れない異常さが、あのから騒ぎから見えてくる。

競争に駆り立てられ、優しさを失った人間たちの不穏な空気が欧米先進国を覆っている気がしてならない。傾向は、今年はじめにフランスで起こっていた労働問題のデモ行進が簡単に暴動につながってしまう風景にも見られたし、私は、二十六年前にロサンゼルスで起きた大地震の後の略奪風景からも感じていた。「人間性」と、人間たちが持ち合わせているはずの「社会性」が変質してきている。多くの人間の心の底に不平不満が蓄積し、行き場を失っている。それは多分、突き詰めて言えば、日本における「結婚しようとしない男たち」の増加という現象にもつながっている。

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アメリカで40%、フランスで50%の子どもが未婚の母から生まれ、実の親、血のつながりという概念が成り立たなくなっている今、子育てが、人間たちが信頼関係を育て、輝き合う瞬間だという意識が遠のいている。それにつれ、「利他」「思いやり」という他人の幸せを願う幸福論が希薄になっている。

経済競争を「輝く」手段と刷り込まれた人たちは、お金を稼ぎ、それを使うことで「輝く」と思い始める。稼いでも、使わなければ意味がない。そう思うように仕向けられている。それゆえに、コロナウイルスという「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている只中で、他人と自分の命をリスクに晒してでも、人生の価値を確認するように、尋常とは思えない刹那的などんちゃん騒ぎが広がっていく。高齢者でないかぎり死亡率は低い。ちょっとしたロシアンルーレットのようなギャンブル性が逆に、若者たちにとって魅力になっているようにも思える。

先週、トランプ大統領が選挙戦の最中、大学の人気フットボールリーグ「ビッグ10」の開催をうながし、病気になるのは疾患を持った太った高齢者だけだ、体を鍛えている君たちは大丈夫だ、と言い切った。”People don’t realize it’s a tiny percentage of people who get sick. They’re old. Especially old people with heart and weight problems.”

フットボールリーグのキャンセルが経済に及ぼす影響を考えているのだと思う。アメリカの大学スポーツ、特にフットボールとバスケットボールはプロ以上に人気があるし、開催されれば経済活動復活のシンボルになる。しかし、こうした明らかに弱者を軽視する発言を、国の未来を担っていく名門大学の若者たちに大統領が言ってしまっては、この先人種差別や格差の是正に向かう手立てが、ますます希少になっていく。

調和に向かうための社会全体に共通する常識や、それを支える「モラルや秩序」を考えた時、私は、こういう発言こそが問題だと思う。

その演説をテレビで見て、すでに犠牲者が千人を超えている医療関係者が肩を震わせて憤る。医療崩壊がいつ起きても不思議ではない状況の中で大統領がこれを言っては、隔離や自粛が絵空事になる。大統領には、教育機関が、ビジネスに貢献する以上に、または以前に、人間の品格とか人智を身につける目的がその土台にあったという意識がすでにない。

日本で、首相が「病気になるのは疾患を持った高齢者がほとんど、若者は重篤にならないのだから、経済を回すために積極的に旅行をしましょう」と言ったら大変なことになると思う。それが事実に基づいた発言であったとしても、高齢者(弱者)の気持ちを考えれば立場上言えるはずがない。欧米に比べれば、の話だが、この国は、まだ良識や常識が機能している国なのだ。そのことにもっと気づいて欲しい。この国も、土台から崩れ始めているのだから。

政府や経済界が、経済を回すために主導した子育てに関わる「弱者を忘れた」経済優先の施策が、先進国社会で行き詰まっている。それを、コロナ惨禍が浮き彫りにしている。大自然が人類に、コミュニケーションの原点回帰を要求している。

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(バイデン候補、副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員、元カリフォルニア州司法長官を選んだ。氏の亡くなった息子さんが二人を引き寄せた、というのも偶然ではないと思う。人は死んでも絆は続き、会話は続く。特に親子の関係はそういうもの。会話は永遠に続く。

カマラという名前はサンスクリット語で「紅い蓮の華」だという。母上がチェンナイ出身のインド人で乳がんの研究者。父はジャマイカ出身の経済学者。60年代の公民権運動に幼いカマラさんを乳母車に乗せて参加したというエピソードが、私たちの世代には懐かしい、微笑ましいイメージとして伝わってくる。

それは、「答えは、風の中に……」とボブ・ディランが大衆に唄い始めたころで、彼を見つけ出すことができた時代の幕は、その時すでに上がっていた。

「溺れる前に泳ぎ始めよう」と彼は続けた。

しかし、その後ベトナム戦争は激化し、若者たちの命を奪いながら泥沼化していった。敵は10倍の戦死者を出しているのだから、自分たちは勝っている、と言い続けた軍の上層部、そしてデモを抑えきれなくなった政治家たちが目指した『名誉ある撤退』のために、多くの若者が死んでいった。ヘリコプターの輸送力と先進医療のおかげで戦死する確率は低かったが、負傷する確率はほぼ百パーセント、だから全員勲章をもらった戦争は、当初、志願兵が主体になって成り立っていた。母親たちが育てた、愛国心を持った自慢の息子たちが倒れていった。

そして今、アメリカが抱える混沌は、「愛国心」を利用した利権争いになっている。同様の混沌が世界中に広がっている。国の定義に、幼児たちの日常が優先的に含まれない「愛国心」など、権力闘争の道具でしかない。)

 

 

耕し直していくしかない

コロナウイルスが世界中に広がっています。感染が始まって半年経ち「マスクや隔離、自粛」という対応策が見え始めても、様々な状況の中で第二波が起こっています。その起こり方に、その国、その社会における人間模様や事情が垣間見えます。モラル・秩序の濃淡と、損得を離れた絆の有無が、ウイルスという目に見えない災禍によってあぶり出されているようです。

ロシア、アメリカ、ブラジル、感染者が爆発的に多い国々の特徴を見れば、時の指導者と、国としての対応が、犠牲者(死者)の数に大きな影響を及ぼしているのがわかります。その時たまたまその地位に就いていた首相や大統領のちょっとした性格や人格、個性がこれほど多くの人の命に関わってくる。選挙で成り立っているはずの民主主義ですが、当選した人の資質によって国民の運命が確実に左右される。それはすなわち民意の質や、それを操る「経済」という仕組みの問題でもあるのですが……。

インドでは、タミルナード地方の状況が逼迫していて、ニュースを見ながら心配しています。

私が以前作ったドキュメンタリー映画で出会い、いまも交流が続いている、シスター・チャンドラが只中にいるのです。

「大丈夫ですか?」というメールに、「シャクティのメンバーとマスクを手作りして、村の子どもたち配っています」というメールと写真が送られてきました。 

ドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」(第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞受賞)からの映像です。

私の質問にシスターが答えます。

https://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

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インドの貧しい農村での人々の生活を見ていると、信心も含めて、絆と信頼に守られて暮らしてきた人間たちの確かな営みが見えてきます。

「祭り」の意味をシスターは「集まること、祝うこと」と言い、それを繰り返していれば人間は大丈夫。時々、輪になって踊っていればいいのです、と教えてくれます。シスターはカソリックの修道女ですが、発言の端々にウパニシャッド哲学の流れを感じるようで面白い。絆は、「縁」であって、「円」であること。「祭り」はそれを伝えながら、日々の営みを次の世代につなげていく。人生がその場限りではないこと、人間は「祝っていれば」、「集まっていれば」良い方向に進み始めること、その流れを体感させるのが祭りや儀式でした。

鯉のぼりやひな祭りも含めて、お中元やお歳暮、祝儀・不祝儀も含め、日本人は「祭り」を大切にしてきました。絆に頼って、絆を信じて生きる、その喜びを体現することが好きなのです。

祝うことは、祈ること。そんなメッセージがシャクティの風景から伝わってきます。

こういう次元のつながりを取り戻すことが、いま人類には必要なのです。

日本の小学校で毎朝子どもたちが「輪になって踊る」ことで、人類の進化が正しい方向へ戻ってくる。「気」の流れが変わる、つながりを実感出来るようになる。こういう次元のコミュニケーションの入口に「0歳児が眠っている」と、私は言い続けてきました。

いま、この大きな試練の中で、輪になって踊ることができない人間たちは、家族、家庭という単位に帰っていきます。0、1、2歳児の願い、と言ってもいい。彼らの言葉にならない言葉に耳を傾けて、乳児を育てる、という仕組みの価値を噛みしめる。福祉や教育では代替できない、支え合い、育ち合いを「Good Trouble」良い試練としてもう一度確認する。新たな命を祝うこと、その成長を共に喜ぶことの意味を思い出す。

「自立」ではなく、お互いのために生きることが人生の目的なんだという、幸せの物差しが再発見されるといいのです。そこから、「社会」を再構築していく。

前回の投稿に書いた、アメリカの下院議員ジョン・ルイス氏の葬儀で、前大統領三人(ブッシュ、クリントン、オバマ)が追悼の辞を述べたあと、ペロシ下院議長が追辞の中で「非暴力とサティアグラハー」について語りました。ルイス議員は師のキング牧師と共に、このマハトマ・ガンジーの教えを実践し、「血の日曜日」と呼ばれる行進で頭に重傷を負った人、その後30年以上にわたり下院議員を務め、「連邦議会の良心」とも呼ばれた人です。

WASHINGTON D.C. - MARCH 17: Congressman John Lewis (D-GA) is photographed in his offices in the Canon House office building on March 17, 2009 in Washington, D.C. The former Big Six leader of the civil rights movement was the architect and keynote speaker at the historic March on Washington in 1963. (Photo by Jeff Hutchens/Getty Images)

WASHINGTON D.C. – MARCH 17: Congressman John Lewis (D-GA) is photographed in his offices in the Canon House office building on March 17, 2009 in Washington, D.C. The former Big Six leader of the civil rights movement was the architect and keynote speaker at the historic March on Washington in 1963. (Photo by Jeff Hutchens/Getty Images)

私は、ずっと以前、このガンジーの教えと、「幼児の存在意義」を重ねました。絶対的弱者が強者の人間性を育む、引き出す、この日常的な体験の繰り返しが人類の進化の鍵を握ってきた、と感じたからです。

子育てをしながら明るい顔でいられたら、人生の目的は達成される。

人間は、そういう人間でいるために生まれてくる……。これほどわかりやすい物差しはない。

そして、日本だから、言えることですが、その方向へ人々を導く役割をたやすく担うことができるのが、幼稚園と保育園だと思ったのです。

以前、「親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす」という文章をブログに書きました。 http://www.luci.jp/diary2/?p=220 

十年以上前に講演した幼稚園へ行くと、その時の講演をきっかけに「父の会」ができて、それがとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただいたのです。こういう方法で、耕し直していくしかない。それが一番理にかなっている、自然で、簡単です。予算もいらない。

欧米に比べ、まだまだ「家庭」という形が残っている日本だから、可能な方法です。

楽しそうにしている父親たちを見て、きっと男の子たちも、父親になりたくなる。

少子化の一番の原因は、以前に比べて男たちが結婚しなくなったこと。三割の男たちが一生に一度も結婚しない。これでは、いくら「保育」を充実させても子どもは増えない。いや、保育を充実させたから、こうなったのです。

男たちが、「子育て」に「生き甲斐」や「幸せ」を見出そうとしなくなった。見出せない仕組みになっている。こんなことは人類の歴史始まっていらい初めてのことなのです。

もともと、子育てや、子どもの幸せに対する責任は、男たちの生き甲斐でした。遺伝子がそう組まれていた。それをやりさえすれば、ほとんどの男たちが、自分自身の「いい人間性」に気づき、「幸せに向かう利他の遺伝子」がオンになっていった。

「親父の会」がそれを証明しています。

(私が、20年前に欧米における家庭崩壊の状況と、その対応策のいくつかを書いた文章があります。http://www.luci.jp/diary2/?p=1054 。ぜひ、読んでみてください。)

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、「子育ての社会化(制度化)」とそれに伴う家庭崩壊によって、急激に社会構造から欠落し始めている。そこに突きつけられた新型コロナウイルスの問題なのです。

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