ちびっこランドこやま園の記事

三年前なので、もう忘れている人も多い事件ですが、ちびっこランドこやま園の記事:http://www.luci.jp/diary2/?p=263

園長は、調査に対し「たたいたことはあるが、虐待という認識はなかった」と話している。保育者が幼児をたたくということがどれほどの重さを持つか、それが幼児に対するどれほどの裏切りか、園長が理解していないような状況、仕組みを三年前からすでに国が作っている。(許している?)

こういう園長が存在できる状況を規制緩和で作っておいて、それが「待機時対策」優先でしっかり取り締まれていないから、いい保育士があっさり辞めてゆく。

大手株式会社が三割増しで保育士を募集するということは、毎年三割保育士が辞めてゆくこと。こうした営利優先の一部企業や社福の保育士の使い捨てが、保育界全体を追い詰める。
何より怖いのは、それと並行して、「保育は成長産業」という閣議決定がされていること。

ヒュー・マセケラが逝った。

ヒュー・マセケラが逝った。

地球村の番人がまた一人、フリューゲルを吹きながら去っていった。

彼とはずいぶん長く話しあった。マンデラのこと、人種差別のこと、南アフリカのこと、そしてアメリカという国のこと。

チャカ・カーンの後ろで幾度もディップを踊った。

日本で、「朝食の時に日本人が箸を使ってやるあの呪いは、何のためだ?」と聞かれ、よく聴いてみると、納豆を食べている人が口の前で箸をクルクルやっている仕草のことだった。

それを「呪い」と見たところが部族的で、嬉しかった。

彼のような戦い方が消えてゆくようで、寂しい。

でも、その後ろ姿は、楽しそうだった。

https://www.pbs.org/newshour/show/remembering-hugh-masekela-master-musician-who-fought-for-south-african-freedom

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#4 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#4

 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は、単純に、保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び資格を取れば、他人の子どもたちの「子育て」ができると、とんでもない勘違いをした。こういう勘違いがどうして起こるようになったのか。「学問をすれば子育てができる」と思うことが、そもそも人類の営みを理解していない未熟すぎる思考です。そして何よりも、「子育てに関わる養成校」(大学や専門学校)の存在自体が授業内容や教える人間の選択からしてまだまだ不完全で、不自然で、未完成な仕組みだと経済学者たちは気付いていなかったのかもしれません。

別の言い方をしましょう。政府は、資格という言葉で、「子育ての責任」を誤魔化そうとした。

 学校教育と保育の違い、教育と子育ての違いをほとんど理解していない。意識していなかったように思えます。(前回からの関連性から言えば、この時点ですでに「高等教育は、国民の知の基盤であり」えない。)

さらに不幸なことに、養成校が定員割れを起こし学生を募集した時に倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かという、その関係性に気づいていなかった。

子育ては「結果」ではなく、人間対人間が、遺伝子をオンにしあう「体験」だということさえ想像できなかった。

「高等教育が国民の知の基盤」などと国の施策として平気で言う人たちは、保育が学校を支えていた、子育てが教育を支えていた、ということさえ見えていなかったのでしょう。

少子化のおり、ビジネス・生き残り優先の養成校の多くが、政府の望み通り受験者のほとんどを入学させ、資格を乱発し、保育に必要な資質、人間性のチェック機能さえ果たさなくなってしまった。その時点で「高等教育」はその本質と存在意義をすでに失っている。それにも気づかなくなっているのか、マスコミも含めて、見ない振りをしているのか。

(ある保育者養成校の教授が「保育は未来に対する投資だ」と言っていた。政府が保育にお金を使えば、経済的に見返りがあるという論法なのでしょう。大学・養成校、自分のやっている学問を成り立たせたいのでしょうが、「子育て」は本来駆け引きや損得勘定でするものではない。

本来もっと別次元の、弱者に優しい自分自身の性質を親たちが体験し、自身のいい人間性に気づくという、人類の存続に「不可欠の行い」だった。

子育てが学問で捉えられ始めた頃、ある西洋の学者が「1ドル子育てにかければ、6ドルになって返ってくる」という子育て論を展開したことがあったそうです。日本の学者たちの多くがこの損得勘定、欧米的な駆け引きの論法に影響されているのではないかと思うことがあります。

現在進行している保育改革は、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がその原動力になっています。ここで進められる「市場の開放」と「規制緩和」は、80年代に世界経済からモラルと秩序を失わせたトリクルダウンの経済論と重なります。それを安易に保育界にあてはめようとした。しかし、日本の保育界の本質はやはり「子育て」にあって、それをビジネス化しようとしたり、80年代の経済論を当てはめれば、「保育」と「経済」がお互いに傷つけ合う状況を生み出すことになる。保育士たちの子どもを眺める視線と、経済学者たちの視線がちがうことが、子育ての方向性を混乱させる。

子育ての本質は「損得勘定から離れること」。「そうすることによって得られる、利他の幸せに近づくこと」。仏教の「欲を捨て、幸せに向かう道を発見する」という考え方そのものと言っていい。聖書にも同じように、幼児たちこそが天国に一番近い人たち、という説明があります。「信じ切って、頼り切って、幸せそう」、その幼児の姿に人間はパラダイスの在り方を見る。彼らの日々を(男女が一緒に)眺めることによって、人間は根源的な人生の目的を知り、これをやっていれば大丈夫という生き方を学ぶ。

高等教育が真に「高等」でありたいなら、闘うための道具や武器を教えると同時に、「欲を捨てることの意味、そうすることで得られる強さ」を幸福への選択肢として、しっかり教えるべきなのです。倫理学や宗教学、道徳の授業のことを言っているのではありません。もっと深い、自然で本能的な自己実現の機会を作る。毎月一度、幼児たちとまじわるだけでいいのです。高校生、大学生は、毎月幼児たちと数時間過ごす、それだけで、この国はずいぶんいい方向へ動きだす。

「欲を捨てることの強さについて」http://www.luci.jp/diary2/?p=36

子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関(保育者養成校)が自分たちの損得勘定に捕らわれ、産業に組み込まれ、生き残りのために、「資格」の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなっている。すでに高等教育は「教育」から「商売」の領域に移っている。高等教育に関わる人たちはみな一様にそれを知っているはずです。それなのに、その事実から目を逸らしている。

ビジネスは「国民の知の基盤」ではありえない。それを隠すために、学者たちは国の政策の中に「高等教育は、国民の知の基盤であり」という宣伝文句を書くのでしょう。この欺瞞が、良寛さまや宮沢賢治、「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」を生み出してきたこの国の風土、文化と合わない。その嘘が、子どもたちに見破られている。

高等教育を考える人たちに「子育て」が見えていない。教育と子育ては異なる。その動機からすれば、ほぼ相反すると言ってよいもの。だから、「幼児たちの気持ち、社会における役割り、人類に必要な自然治癒力とか自浄作用に関わる働き」が見えない。

いままで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、同僚との意識の差によって混乱し、幼児が優先にされない保育現場の状況に戸惑い疲れ、国の「保育はサービス」「保育は成長産業」という閣議決定を受け入れビジネス優先に考える園長の出現に呆れて、辞めていく。

(以前「保育士の悲しみ」という文章を書きました。 http://www.luci.jp/diary2/?p=740)

 中学校で家庭科の時間に赤ちゃんと触れあう体験を生徒にさせている学校があります。妊婦さんや乳児のボランティアを保健所で募って中学校に行ってもらいます。

 グループになっている中学生の机のところに赤ん坊がきます。お母さんが「抱いてみて」と言います。お母さんは中学生を信頼して大事な赤ちゃんを手渡した。次世代を信じた。信じてもらえた中学生が、誇らしげにクラスの友だちを見ます。いつか自分も次の世代を信じる時が来る。

 赤ん坊を抱くのが上手な男の子がいました。シャツがズボンのそとへはみ出して、不良っぽく見せています。その子には小さな妹がいて、いつも抱いていたのです。みんなが驚いて感心します。彼は、家ではいいお兄ちゃんだったのです。昔の村だったらとっくに知っていたことなのに、いまは、家庭科の授業がなければ知ることのできない友だちの姿です。

 僕も昔はこうだったんだ、と誰かが思います。お母さんたちも、中学生を見て、私も昔中学生だった、と思います。この時、魂の交流が時空を越え人類全体の人間性を形作るのです。選択肢がないことに気づくと、人間は安心するのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#3 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#3

「新しい経済政策パッケージ」の中にこんな文章がありました。

「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある。 」

 トランプ米大統領が自身についての暴露本の出版に反論し、自らのツイッターに、自分は有名大学を卒業しその後企業経営に大成功した、最も精神的に安定した天才だ、と宣言しました。数日後、与野党議員が出席したホワイトハウスにおける移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」shit-houseからではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し大問題になっています。そして、マスコミが露骨な人種差別と報道し、ハイチで抗議デモが起こっているにもかかわらず、37%という大統領支持率に変化がない。高等教育が普及した、先進国と呼んでもいいはずのアメリカでの出来事です。

「高等教育を受けた、自称精神的に安定した天才」の発言でアメリカの学校教育が混乱しています。小学生が教室で黒人の同級生に、「糞溜め」に帰れ、と言ったり、ラテン系移民の子に、壁の向こうへ行け、という子どもが現れ、人種差別が原因の学級崩壊に教師が対応策を失っている。呆然としている。37%いるはずの大統領支持者を親に持つ小学生がひょっとして37%はいるかもしれない。

学校の存在意義が崩壊しかねない、大統領主導の人種や格差、主義主張における分断が始まっているのです。心の中、現実はどうであれ、憲法に書いてある民主主義や平等を正しいこととして教えてきた教師たちが、国民に選ばれた大統領の発言に立ち往生しているのです。忘れてはならないのが、先代の大統領オバマさんも父親がアフリカのケニアから来た移民だったということ。

 高校、大学と高学歴者が増えるほど、社会が本来の姿を失う。家庭中心にまとまらなくなる。自己中心的になり、若者が感性を失い、男女間の信頼が揺らぎ、経済活動に必死になる人が増える一方で、生きる意欲を失ってゆくのではないか、先進国社会で起こっている混乱を考える時の私はそう思うのです。それが事実に近い、と思うのです。1980年代にアメリカで起こった、高卒者が増えることによってその世代の全体的学力が下がったという現象にもそれが表われています。親の世代に50%だった高等学校の卒業率が70%を超え、より多くの人が高等教育を受けるようになったにもかかわらず世代の平均的学力が下がってしまった。目的としたことと反対の結果が出てしまった。だから、1984年当時アメリカ政府はこの問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義して大騒ぎしたのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=1064

義務養育が普及し、子育てが家庭から仕組みにシフトし始め、家庭崩壊が始まると学校教育自体が成立し難くなってくる。同時に、安心感が薄れ社会全体が殺伐としてきて、それが教室にまで影響し始める。

日本でも、似たようなことが起こり始めている。

そして、高学歴社会になり選択肢が増えると結婚しない若者が増えてゆく。高等教育を受けている、またはそれを受けた直後に引きこもりが始まる傾向が強いこと、その引きこもりが長期化していることにも表れていますが、高等教育を受けること、その仕組みの中で育つことの自然人類学的、または生体人類学的な影響を考える時期にきているのです。この国なら、まだ間に合うかもしれない。結婚や家族をつくるという種の存続に伴う「幸福論」が希薄になることによって、人間社会はどのように動いてゆくか、ということを真面目に話し合う必要がある。

(前回にも書きましたが、「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。学校教育の普及を単純に「いいこと」と決めてしまっている状況に、文化人類学的に、または自然人類学的見地から疑問を持っていい時代に入っていると思います。)

学問によって感性を失う典型が、「人づくり革命」と言って、親子を引き離す施策を進め、幼児たちの願いを理解しようとしない学者たちの存在かもしれない。最近、それを強く感じます。幼児たちの存在に気づかない人たち。高等教育の頂点にいるような人々が、長い間「家庭」「社会」を支えてきた「幼児の願いを優先して考える」という想像力と感性を失っている。

幼児たちの前で謙虚になれない高等教育なんて進化に貢献しないし、存在する意味がない、とさえ思うのです。

その人たちの進める施策によって、「家族中心」が「自己中心」になり、「自己実現」などという言葉を使って経済競争を成り立たせるための罠が用意される。その片棒を担がされているのが最近の「高等教育」で、それに騙された自分に気づいた時、すでに人間は存続するという幸福感さえ忘れかけ、男女の連帯感は一層薄れてゆく。家族を持とうとしなくなる。持っても、それを維持しようとする能力、動機が非常に弱まっている。その時点で、「夢は、次の世代に託すもの」という進化の原則を忘れている。家庭崩壊を補うためにいくら福祉が子育ての肩代わりをしようとしても、すでにその限界は見えている。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

高等教育が普及するほど、幼児たちの存在意義、存在感が希薄になってくる。それに気づいてほしい。幼児たち、という一見「国の競争力」とは無関係に見える人たちの価値が高等教育によって見えにくくなってくる。

(最近、中学高校で乳幼児と出会う体験をさせる学校が増えてきました。家庭科の授業を使って中学生の保育者体験をする自治体もあります。親の一日保育者体験も含め、こうした試みを早く増やして欲しい。http://www.luci.jp/diary2/?p=236 http://www.luci.jp/diary2/?p=260)

もともと「人類」は幼児たちによって自分の中にある進化するための人間性(動機)を体験的に教えられ、「社会」は幼児たちによってその絆と存在意義を幸福観と重ねていた。「経済」と呼ばれるものの存在意義もまた、幼稚たちを優先順位の先頭にすることで、そのモラルと秩序を保ってきた。

 

images-1

誰もが気づいていることですが、高等教育の大部分はごく一部の人間にしか役に立たない特殊な技術や情報です。高等教育で学ぶ微分積分や方程式は苦労した割に多くの人にとって使う機会のない、役立たない知識であって、物理や漢文、外国語などもそうでしょう。しかし、それが今日までこれほど「義務」のように受け入れられてきたのは、人間社会に進化する過程の「連帯感」があったからです。「同じ船に乗っている」という意識があれば、ごく一部の人にだけ役立つものでも、それを一時的に全員が苦労して学ぶことを受け入れることは容易でした。「義務として」習わせ、子どもたちを適度に苦しめ社会全体に忍耐力と連帯感を生み出す、それもまたいいことでした。高等教育という位置付けからは外れるかもしれませんが、運動会や組体操などもいい試みだと思います。「輪になって踊る、歌う」は義務教育よりはるかに昔からある人間社会のまとまりの原点ですから。

そして、学校は、利害関係のない友人を作ったり、人間関係を学んだり、恩師に出会ったり、将来の配偶者を見つける、というような役割も果たしてきました。多くの人にとって「学校」は、いまでも素晴らしい場所なのです。

一方、私は不自然で危険な一面だと思っているのですが、高等教育は、「授業」という、聞いていない人たちの前でも平気で話す学者(?)教師を生み出し、話している人の前で眠ったり、私語やスマフォに熱中する学生を放置するというコミュニケーションの異常な状況を日常化する。(全ての授業がそうだと言っているのではありませんが、)つまり、お互いの気持ちを想像する感性を蝕み、言葉の向こうにある「心持ちと人間関係を察する」というコミュニケーションの本質を見失わせる役割も果たしている。高等教育を指導する人たちの感性を奪いコミュニケーションのあり方を「浅く」している。その結果がこういう政府の施策に表われているのではないか。そのあたりが、思ったよりも社会全体を危うくしている、そうも考えられるのです。

コミュニケーションの深さが失われていく過程で、知識や技術を身につけることは危険です。武器を持つと闘いたくなる、道具を持つと使いたくなるからです。

知の基盤は体験的に学ぶべきものであって、イノベーション(意識改革)は「祈り」を伴って創造されるもの。

人づくり革命」が言うイノベーションの意味がよくわからない。「人員整理労働力の再配置 」という意味のイノベーションなのか、「意識改革」という意味なのか。「技術革新」という意味であるならはっきりそう書くべきで、こういう肝心な所に様々に翻訳できる外国語を使うから、あとで学者たちの誤魔化しがまかり通る。英語を知らなければ理解できなような文章を「国の政策」として書くべきではない。もっと日本語を大切にすると、逆に見えてくるものがある。翻訳しようとする過程で、欧米的経済論の、幸福論とは重ならない「浅さ」が浮き彫りになってくる。

何よりも、こう視点で考える「高等教育」を受けたはずの学者たちには、人間は「国の競争力を 高める」ために生きているのではない、という「知」の原点に気づいてほしいと思います。

(以前ブログに、こうした学校教育の矛盾や危うさを予見した「大酋長ジョセフ」の発言について書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=2453 150年前、学校教育や教会の広まりを拒もうとしたジョセフは、神はすでに在るもの、議論の余地のないものと言った。ここで神というのは宇宙のあり方、不動の真実、大自然、というようなものだと思う。学校が先導する西洋的な仕組みを教育しようとした欧米人の意図の本質をついた視点がそこにはある。こういう視点は嬉しくなります。)

3歳くらいの幼児に、全霊で信じてもらって、これほど確実な信頼の絆はないことに気づいた時に、人生が定まり人間は楽になるのだと思う。親たちが授かり、受け入れ、分かち合い、楽になって、子どももまた不思議に落ち着き、頼りきり幸せそうになる。子育てにおけるこうした相乗作用が社会の土台となっていないと、不安が、不安を煽り立てて、幼児たちが生き場所を失い始める。

子どもを育てていると、どうにもならないことがたくさんあります。そのことに守られている気がします。それが自分を体験することなのかもしれません。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

大酋長ジョセフと学校教育

ジョセフ酋長の言葉

joseph1

 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

“Why do you not want schools?” the commissioner asked. 

“They will teach us to have churches,” Joseph answered.
“Do you not want churches?”
“No, we do not want churches.”
“Why do you not want churches?”
“They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places],” Joseph said. “We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that.”
.

images-1

 もともと西洋人が学校を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸に移住してきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見て、学校教育が必要だと考えたのです。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと思っていた。これは学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。こういう視点は嬉しくなります。

 なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。古(いにしえ)の法則で生きている人たちなのでしょう。神を広めようとする白人の行動に、自分が知っている神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる150年前の日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。神はそこら中に居た。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見たのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=205

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が一見原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。インディアンたちに対しては同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがあります。この不思議さは外国人だからこそ気づいた、日本の文化の特徴です。塀や壁や扉をなるべく作らず、作ったとしても昼間は開け放つ。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたのかもしれません。

images-4

 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まります。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に別の次元の現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。

i mages-6

 最近の学校教育へ視点を戻します。先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。

 矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係や現実味が薄いのです

 

 

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#2 理想の(?)子供数を持たない理由

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

images-1

#2

今回の政府の「新しい経済政策パッケージ」の中に、

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

  「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

という文章があります。

少子高齢化という「最大の壁?」の実態が見えていない。真剣に見ようとしていないのではないかとさえ思います。過去15年間やってきた「少子化対策」(エンゼルプランや預かり保育など)の結果ますます子どもは減ってきている。それが現実です。なぜそれを認めないのかと不思議でなりません。負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という幸福論がこの国では成立しない。それは明らかです。モラルや秩序を保つためには大切な、素晴らしいことでしょう。

経済財政諮問会議の、人間社会の心の動きと仕組みを知らない損得勘定本位のビジョン・視点がいまだにこの「新しい経済政策パッケージ」にはある。家族は、お金でまとまってきたのではない。「子育て」で心を一つにしてきたのです。

(「子どもを全員保育園で預かって、母親が全員働けば、それによる税収の方が保育園にかかる費用より大きい」という馬鹿げた計算が経済企画庁の諮問会議から発表されて15年以上になります。http://www.luci.jp/diary2/?p=78 その時も、「だからどうなんだ」と誰も言わなかった。当時、ジェンダー学者や経済学者から目の敵にされた女性の就業率のM字型カーブが、実は乳幼児の願いをかなえようとするこの国の美学ではないのか、と誰も強く言えなかった。自分で育てられないのなら産まない、という意識も含め、この国特有の、子ども優先の常識や考え方が、欧米思考の経済学者たちの「子育て観」とずれていることを誰も指摘しなかった。)

子育てという「負担」は人間社会の基盤を育てる大切な負担で、そこで得られる幸福感の伝承が人類をここまで進化させてきた。先進国社会(豊かな国)に共通する少子化の原因は選択肢が増えることで起こる、人生を支えてくれる幸福論の喪失にある。アメリカと中国という最も真似したくない二つの国を除けば、GDPが世界一位という豊かな国日本で、3割の男が一生に一度も結婚しない。「子育て」という人類の進化に必須の幸福感が人生の目標となり難くなっているからです。

政府の言う、理想の(?)子供数を持たない理由は、「子育て」の幸福感を体験的にも、情報としても、しっかり知らされなくなってきているからでしょう。そんなやり方でネズミ講のねずみを増やそうとしても、日本の文化がそれに抵抗する。

政府が「子育て」を、女性を輝かせない「負担」と位置付け喧伝すれば、家庭を持ちたいという男たちが減って当たり前です。彼らの意欲、存在する動機が希薄になってゆくからです。

同時に叫ばれる「一億総活躍」という掛け声が、あまりにも薄っぺらで、この国の思考や議論を、現実を離れた色あせたものにしている。

(内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、高齢化しているという。注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。次が16~19歳の30.6%。結婚して家族を持とうと思い始める時期に、引きこもりが始まっている。パワーゲームにおける平等論が学校教育を支配し、男女共同参画社会の土台が「性的役割分担」だという文化人類学的に考えればごく当たり前のことが「高等教育」の中で言えなくなって、少子化は進んだのです。)

images-2

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#1

images

 

この国の「新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。

政府が閣議決定した、

「新しい経済政策パッケージ:第2章 人づくり革命」1.幼児教育の無償化 2.待機児童の解消 3.高等教育の無償化 4.私立高等学校の授業料の実質無償化 。・・・。

をある園長先生に指摘され、読みました。

園長先生は電話の向こうで、「政府は、いつになっても幼児たちのことを考えない。保育界がこれほど混乱し、保育士がいなくてベテランの園長さえ右往左往しているのに、こんな馬鹿げた、保育に直接的に関わる施策がいまだに発表される。何がパッケージでしょうか。パッケージで子育てはできませんよね。いい加減にしてほしいし、保育団体の反応も甘過ぎです。現状をしっかり訴えなければいけない時に、いまだに利権獲得、利権誘導みたいなものが下心にあるから、厚労省の天下りに振り回されて、もう無理とわかっていながら気持ちが定まらない。マスコミも含め、誰も現場の保育士と、子どもたちの気持ちを誰も考えていない」と憤るのです。

経済政策パッケージが示す、「人づくり革命」は、経済競争に参加する「人づくり」を政府の都合で進めること。それによって社会の「絆」、その土台となる「家族の絆」「親子の育ちあい」を希薄にしてゆく、この国の将来の「あり方」に影響する施策です。民主党政権が「子ども・子育て新システム」を提案したあたりから、それがはっきりと見え、その片棒を担ぐのが結局自分たち保育者になるから、園長先生は「いい加減にしてほしい、なぜ、わからないのか」と言うのです。

幼児期の子育てに関わる国の施策は、仕組みがある程度確立している学校教育と違い、壊れやすかった保育の現場に直接的に影響を及ぼす。それが身に染みるだけに、園長先生の語気が強くなる。

ここ数年「子ども・子育て支援新制度」で保育界が窮地に追い込まれ、親たちの子育てに対する意識を根本から変えようとしている経済政策の大元に、もう40万人乳幼児を保育園で預かれば「女性が輝く」、という首相の国会演説がある。本当に「輝く」と信じているのか、「経済」を良くするための方便なのかはわからない。

しかし、11時間保育を「標準」と名付け、乳幼児期の子育てを家庭からより長時間奪い、安易に、仕組み(保育)で肩代わりしようとしたら、結果的に取り返しのつかない「保育崩壊」を招くことになる。全体としては、すでに仕組みが成り立っていない。保育士が満足に見つからない。全ての保育所に立入検査をしたら3割近くに違反が出ることを以前から知っているから、それをしない。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1635)

園長は続けます。「最後に名前の出ている、これを決めた学者たちや政治家たちは一体何を考えているのでしょうか。幼児教育の無償化、待機児童の解消などで本当にこの国の経済が良くなるのでしょうか。無責任な親が増えるばかりじゃないでしょうか。親に助言をするのが本当に難しくなった。「家庭」が自転車操業を始めている感じです。経済が良くなっても格差社会が進むだけ。子どもたちが幸せでなければ意味がない」。

国としての「経済」が良くなっても、家族・家庭という形が徐々に崩れ、個々の人生を今以上に孤立化させ、生きる意欲、動機を、この先社会に保てるのだろうか。こんなことをして、人々が愛せる「国」になってゆくと本気で思っているのだろうか。

保育崩壊は家庭崩壊に似ています。保育園は幼稚園よりはるかに「家庭」という形に近いものでした。親より長い時間子どもたちと関わる仕組みは、そうでなければいけなかった。毎年涙で卒園児を送り出すことで、その形はそういう方向に自然に出来上がっていった。

私立保育園では、たとえ先代園長・理事長、二代目園長、主任、の意見や考え方がバラバラでも、一時食い違っても、「家庭」がそうであるように、「園児たちのために」という共通した意識で葛藤や困難を乗り越えることができた。人類の存続に関わる「優先順位」が、仕組みにおける人間関係をまとめてきたのです。その微妙な安定感・連帯感が政府の「子どもの気持ちが視野に入っていない保育政策」でまとまらなくなってきて、主任が辞めたり、保育理念でもめたりして、二代目三代目がビジネスに走って、初代の気持ちや「智」が役立たなくなったり、そこで働く保育士たちが納得しなくなるケースが全国で起こっています。こんなに簡単に崩れるものだったのか、と驚くような窮状が、まさかあの園で、と思うような保育園で起こっている。その崩れ方が「家庭崩壊」と重なって見えるのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

謹賀新年2018

 新年、明けましておめでとうございます。2018年も、どうぞよろしくお願いします。

いろいろ考え、文章にしたり、発言したりしていきたいと思います。
演奏も、もう少しできたらと思います。
講演の最後に演奏する形も状況が許せば、試してみようかと考えています。会話の幅が広がる気がします。

 0歳児との不思議なコミュニケーションがすべての会話の最初にあって、それをほとんどの人間が体験することで、何千年もの間、人間は言葉の向こうにある神秘性を感じ、自らの精神の安定を保ち、生きるために必要な絆を育んできたのだと思います。

images-3

(講演依頼はmatsuikazu6@gmail.comまでお願いします。)

 2017年は忘れられない年でした。

images-5

 
 2017年は忘れられない年でした。
 全国で120回講演、新制度による混乱の影響で保育士さんたちに話す機会が多かったのですが、行政の人や市長さんにも一緒に話せる機会が幾度かありました。
 いま保育にできること(してはいけないこと)、保護者の意識の変化がどう保育者を悩ませ、それがどう学校に影響してくるか、など説明します。
 市長が理解してくれるとずいぶん施策に影響します。子育てはなるべく親がやるもの、その意識が薄れると福祉と教育では財源的にも人材的にも社会のモラルや秩序を支えきれなくなる。そう説明する横で、福祉部長と教育長が頷いてくれれば、ずいぶんいいのです。
 保育者体験も少しずつ広がり香川県でも始まりました。
 県単位で取り組むのは埼玉県、福井県、高知県に続き4県目です。いつか一気に広まってくれることに期待しつつ、精一杯説明します。
 幼稚園や学校での講演も増えた気がします。幼稚園で講演すると、0、1、2歳児とゆっくり時間を過ごし、乳幼児の不思議な役割を肌で感じ理解した親たちが多くいて、間違っていなかったんだ、と自分の決断に頷いてくれます。高等教育が普及したいま、幼児と過ごす時間を正真正銘の「学びの時間」と認識することが難しくなってきている。大学を出ると、そこで得た知識も使わずに「子育て」をしていることに「迷い」や「躊躇」を感じる人もいます。そういう人たちが、私の説明に、笑顔になってくれる。私の講演を聞いて、三日間くらい子どもが神様に見えました、という感想もあって、三日間でもそれが見えればいい。それは自分自身を「見た」ことでもある。その感覚は何度も蘇ってくるはずです、そこに人生の目的があります、と励まします。
 
 幼稚園が一つもない市もありました。そうかと思えば、8割の子どもが公立幼稚園を卒園する市もありました。公立幼稚園は経費がかかりますから全国的には絶滅危惧種と言ってもいいのに、その市での講演会には千人くらい公立幼稚園の保護者たちが来てくれて、一ヶ月後に熱い感想文を送ってきてくれました。公立幼稚園という形は、様々ある保育の形の中では親にあまりサービスをしないので、親子の絆がよく育つ。親同士の絆も助け合うことによってよく育つ。本来の人間社会の姿が見えて来る。
images-7
 既存の園をほとんどこども園にしてしまった市がありました。小規模保育は作らないという市もあれば、増やそうとする市もありました。
 お金がかかっても保育の質は落とさないと頑張る市もあれば、財政削減の手段として公立園の民営化や保育士の非正規雇用化を積極的に進めている市もありました。
 それほど全国的に(子ども子育て支援)新制度に対する解釈が違います。それほど市長さんたちの「保育」に対する理解度に大きな差があるということでもあるのです。
 現場を知らない政府や御用学者の保育(経済)施策によって各地で混乱がますます進んでいます。
 市長さんや保育課長さん、時には議員たちの意識の差で、保育の質の地域格差がどんどん広がっていきます。「保育」の定義や目的さえバラバラになってきて、その結果、義務教育が混乱し、小一プロブレムや学級崩壊、いじめや不登校という子どもの人生を左右する現実に教師たちが追い込まれてゆく。
 
 いまさら保幼小連携などと言っても遅い。
 小一プロブレムに対応するために「壁」を低くし連携をスムーズにしようなどというのは、子育ての意味を知らない人が考える、その場限りの姑息な手段です。子どもの成長に「壁」は必要。転ぶからと言って道をなだらかにしては駄目なのです。
 
 親子関係が安定していれば、「壁」が子どもを育て、親を育てる。家族の絆は遊園地で育つのではない。「壁」や困難でより一層育つのです。
 「オロオロしない親は育たない親」と以前園長先生に言われたのを思い出します。
 そのオロオロを見て、子どもたちの中に何か大切なものが育ってゆく。そう信じればいいのです。
 伝統的に存在した「小一の壁」を仕組み上低くしたら、やがて高校や大学を卒業した時、もっと大きな壁にぶつかってひっくり返るかもしれない。その傾向はすでに現れています。その時の挫折は、人生において取り返しのつかないものになる可能性が高い。
 保幼小連携を、まるでサービス産業のように「親に楽させるために」進めるのはもうやめるべきです。
 手をつないで壁を乗り越えていける「親子関係」を就学前に育てること、就学に備えることは親の責任だということをどのように親に自覚させるかを考えるべきです。
 子育てにおける親へのサービスが、親であることの力を弱め、親子の信頼関係を崩していることにいい加減に気づいてほしいと思います。
 
 共通して、役場の人たちが言うのです。0歳児を預けるのを躊躇しない親が急に増えました、と。それを心配そうに言うのです。怖そうに言う人も居る。その親たちが5年後義務教育をさらに追い詰めるかもしれない。「子ども・子育て支援新制度」、馬鹿なことをしたものです。これに様々な「無償化」が加わったら、親の自覚も育たなければ、子どもたちの感謝の気持ちも育たない。
 そして、保育所保育指針の改定で、保育界に「教育」もやれと言う。しかし、いまそれを押し付けられても、それを受け入れるだけの仕組みにはもうなっていない。
 ここ数年の間に、保育士不足によって安定した保育の姿は壊されてしまった。子育て・保育の原則「子どもの最善の利益を優先する」という人間性の根幹さえ、政府の「経済優先」の雇用労働施策によって見えなくなってきている。募集しても倍率が出ない状況で、仕方なく雇われた質の悪い保育士が、「教育」(実はしつけ)を他人の子どもたちにやろうとしたら、虐待につながってゆく可能性だってある。小規模保育ではすでにそれに似た風景が現れている。
 未満児に話しかけない保育のことを耳にします。保育士にとって都合のいい保育が、親の気づかないところに現れている。「子どもが活き活きしたら、事故が起きる確率が高くなるでしょ」そんなことを平気で言う人が園長をしていたりする。
 そんなことを絶対に許さない仕組みを作ること、それが政府がしなければいけないことの第一。
 親子の将来、子どもの長い人生を考えたら、絶対にあってはならないことなのです。話しかけられなかった子ども、抱っこされなかった子どもも、ずっとこの社会の一員でありつづけるのです。「子どもを丁寧に、育てる。みんなで心を一つにして育てる」。それは難しいことではない。むしろ、みんなが安心することなのです。

教育と子育ての両立

教育と子育ての両立

教育という言葉と子育てが混同され、義務教育の普及によってそれがますます進んでいます。学校教育への「子育て」依存度が増してきていることの表れとも言えるでしょう。これが加速すると学校教育自体が維持できなくなる。アメリカという国が50年前に通った道です。(参考資料ブログを後述)

教育と子育ては、時に表裏一体ですが、本来その動機において著しく異なります。欲と無欲、暴力と非暴力、ほどにも異なる。

政府が進める待機児童対策の裏に、経済論を柱にした「社会で子育て」(仕組みで子育て)という考え方があります。乳幼児期から親子を保育園を使って引き放せば、女性が輝く、とまで首相が国会で言うのです。しかも、マスコミもほとんどそれに異論を唱えない。このまま、子育ては誰かがやってくれるものという意識が広がると、その結果、保育や学校、福祉という仕組みが一気に疲弊してくる。

学校という形でする「教育」は100年ほどの歴史しかない新しい人類未体験の実験で、欧米先進国では「家庭崩壊」というモラル・秩序の崩壊につながる現象を生んでしまった。一方、「子育て」は古代からの進化の過程に属するもの。人間性の原点が、双方向に、そこで培われる。その違いを思い出してほしい。

学校と家庭の両立、教育と子育ての両立、日本なら、まだ間に合うと思うのです。

 

images-10

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(以前、以下のような文章を書きました。現場を知らない文化人や学者によって政府の保育施策が進められることに苛立っていた頃です。すでに十数年が経ち、現場はますます追い込まれています。)

(拙著:「21世紀の子育て」から)

教育改革国民会議という政府の諮問機関の座長に、江崎玲於奈というノーベル賞をとった学者がいて、この人が先日テレビ朝日のニュースステーションに出演して言うのです。

「子どもの個性をのばさなければいけない。200人に一人は数学や物理に才能のある子どもがいるそうで、そういう子どもがのびるような教育をしなければならない。アメリカではちゃんとそれをやっている」

こんな人を座長にしているのですから、この政府が作った「国民会議」のいいかげんさは推して知るべし。(座長自体は人間的に、いい人だとは思います。それは直感的にわかります。)

 「アメリカではちゃんとそれをやっている」と言うなら、その前に、アメリカの教育が200人のうち40人の社会で通用するだけの読み書きのできない高校卒業生を生むこと、200人のうち3人の親がすでに学校を見離しホームスクールで子どもを家庭で教育していること、音楽や美術の授業はほとんどの学校で廃止されているということをどう考えるのかまず言ってほしい。高校の国語の先生の国語力が問われ、カリフォルニア州の司法長官が義務教育を指して「政府には子どもを強制的に危険な環境に送り込む権利はない」と言わしめ、大統領自ら率先して公立学校に制服を取り入れようと発言している現状をどう考えるのか。

生番組の短い時間内で、アメリカの現状を語るのはしょせん無理だとは思いますが、理数系の学校教育が今どうなっているか。

元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員が座長をつとめるアメリカ政府の教育諮問機関が、つい先日、数学と科学に関しては、先進国41カ国中アメリカの子どもたちの学力はほぼ最下位、しかも、学校で理数系を教える教師の20%が、理数系を教える教員資格を持っていない、理数系を教えることができる教員を増やすことが、アメリカにとっては死活問題、という報告をしていました。これが実態です。

なぜ実態を隠すようなことを日本の全国ネットのテレビで言うのでしょうか。その意図が私にはわからない。

ノーベル賞ももらったことだし、いまさら、自分の欧米体験を自慢して稼ぐ必要はないはず。日本は確かに研究者には不利な国ですから、それに苛立って少々欧米かぶれの発言をする学者が出現しても仕方がないとは思います。私が言いたいのは、なぜ、国民会議の座長にしなければいけないのか。なぜマスコミで「アメリカを見習ったほうがいい」という宣伝をしなければならないのか、ということなのです。

この学者は、音楽や美術の才能は「個性」と認めていないのでしょうか、数学とか物理とか、世の中で企業のお金儲けや競争に役に立つものだけが個性だと思っているのでしょう。とてもアメリカ的考え方かもしれません。

芸術は役に立たない、そうした片寄った考え方で、アメリカの公立学校から音楽と美術の授業が消えていったのです。

 私は音楽家でもあるので、こういう発言には腹が立ちます。

音楽という「祈り」と重なる不思議なものが、こういう時代だからこそ必要なはずです。

昨年アメリカでヒットし日本にも来たハリウッド映画「ミュージック オブ ザ ハート」を見ていただければ、アメリカの学校教育の中で、音楽がどれくらい軽んじられているか、その中で、音楽を愛する教師と子どもがどれだけ苦しみ、絶望感を感じ、また損をしているかがわかると思います。数年前に上映された「陽のあたる教室」という映画も、オレゴン州で公教育から音楽の授業が廃止された時の話でした。

こういう映画をアメリカ信仰の日本人が見ると、それは情熱を持った素晴らしいアメリカ人教師の話になってしまうのでしょう。たしかに素晴らしい教師の話かもしれませんが、その背景に、音楽の授業が消える、というだけではなく、アメリカの学校教育システムの崩壊、教師の堕落、子どもたちの心の荒廃、画一教育ができなくなってしまった現実、そうしたものがたくさん映し出されているではありませんか。

《今年のハリウッド映画のヒット作に「Pay it forward」(日本ではペイ・フォワード)というのがあります。是非見て下さい。アメリカ社会のすべてが理解できます。主人公の少年を取り囲む環境、人間関係、家族関係は、もはやこの国ではけっして特殊なものではない。》

 「学問」の対極にあるのが「芸術」なら、システマチックな幸福論と祈りの幸福論のせめぎ合いがそこにあるのかもしれない。しかしアインシュタインの写真をじっと見ていると、この人が「祈る人」であったことは間違いない。回り道をせずにシステムと祈りを直結できる人が必要です。

The high school dropout rate in the United States is 27% – in Japan the rate is 5% and in the former Soviet Union the rate was 2%.

-U.S. Department of Education

Illiteracy is not a problem for just a select group of people. According to the National Education Association, 41% of illiterates are white, 22% are English-speaking African Americans, 22% are Spanish speaking, and 15% are other non-English speaking peoples.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アメリカにおける学校教育やそれに伴う家庭崩壊について。ブログにいくつか書きました。

「ホームスクール(学校教育システムの否定)・第三世界型学校教育・ベトナム難民の子どもたち」

http://www.luci.jp/diary2/?p=1064

「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」

:http://www.luci.jp/diary2/?p=1428

「より良い生活(Better Life)の幻想」

http://www.luci.jp/diary2/?p=1079

「プジェクト2000」国が用意するシステムと家庭の境界線

http://www.luci.jp/diary2/?p=1062

「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」

:http://www.luci.jp/diary2/?p=276