カナダのケベック州における「全員保育」という試み。

「全員保育」

カナダのケベック州で「全員保育」という試みがされました。それがどういう影響を子どもの育ちに及ぼしたかという報告があるのです。

「全員保育universal daycareプログラムが子どもにどのような影響を与えるか。ケベックの(全員保育)システムで育った子どもたちは、他の地域に比べ、10代以降、主観的な健康状態も低く、生活に対する満足度も低く、犯罪率も高かった」http://itsumikakefuda.com/child_Quebec.html

(「全員保育」「ケベック」でネット検索すると報告が読めます。)

いま欧米で、子どもはなるべく親が育てた方がいい、という考え方が施策の主流に還ってきています。北欧では、子どもを持つ親の労働時間を制限する動きも進んでいます。子育ての社会化で家庭崩壊が始まると福祉の予算が追いつかなくなり、それに加えて治安が悪化することは、ケベック州の報告だけでなく、すでに繰り返し実証されている。最近、家庭に居場所がなかった子どもによる犯罪が増え、裁判で生育歴、愛着障害が減刑の理由になる事件が日本でも起こっているでしょう。(以前この連載にも書きましたが、『クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』という放送が去年ありました。http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/index.html)

しかし、日本は家庭が崩壊していないという面では、数字的に見ても欧米の半世紀くらい前の状況で、まだまだ奇跡的にいい。欧米の数倍の確率で実の父親が家庭に存在する。子育てが人々の生活の中心にあったからだと思います。

日本の父親は子育てをしない、などと言う馬鹿げた学者がいましたが、家庭に居て、収入を入れているというだけでも相当立派なもの。家庭に居ない、収入も入れない実の父親が半数近い欧米に比べれば、驚くほど子育てをしているのです。だからこそ、いま父親の一日保育士体験を実施して、幼児に囲まれる幸せ、幼児に信じてもらう幸せを取り戻して欲しい。(まだ間に合います。日本を救うと思って、よろしくお願いします。)

昔から幼稚園と保育園の選択肢がある地域(例えば埼玉県とか横浜市)では、3歳までは自分で育てそのあとは幼稚園という選択をする親がまだ7割いる。それをもってして「日本は遅れている」という人もいるのですが、それは遅れているのではなく、欧米が4、50年前に選んだ「社会で子育て」という選択を前に踏みとどまっている、ということ。人類の長い歴史を考えれば、この躊躇は適切で合理的だと思います。

「女性の議員が少ない」とか「会社の役員に女性が少ない」と批判されても、パワーゲームやマネーゲームに勝つことに目標を置く偏ったものさしは、日本の風土には本来合わない。文化や歴史が違う。「欲は、なるべく捨てた方がいい」と教えてきた仏教や儒教の価値観と相容れない。しかも、すでに欧米の失敗を遠目に見ている。日本ではあり得ないほど露骨に差別的な発言を繰り返した選挙中のトランプ大統領やクルーズ候補があれだけの支持を得ているアメリカを見ていれば、彼らの言う「平等」は「機会の平等」でしかないことがすぐわかる。心の中では誰も「平等」なんて信じてはいない。

突然右傾化しはじめたヨーロッパの状況を見ていると、景気が悪くなると、人種差別も民族主義、排他主義も簡単に還ってくることがわかります。欧米人が言う「機会の平等」は、経済戦略に利用されて来た弱肉強食、適者存続を正当化するための方便です。だから「家族」「家庭」という「利他や無私」の出発点がその犠牲になった。

日本人には、欧米の真似をしない方が経済的にもうまくいく、という体験があります。戦後の日本の発展は、親が子どものため、子どもが親のために頑張った結果だと思います。人間は自分のためにはあまり頑張れない。1人では生きられないことを知り、助け合うことに幸せを感じるようにできている。平等などと言うパワーゲームの裏返しのような言葉に操られるよりも、子どもを育てる者たち、弱者を眺める者たちの「和」で成り立つ国であってほしい。

だらら、保育園に子どもが落ちたからといって、「日本、死ね」と本気で言ってはいけない。こういういい国は大事にしなければならないと心の底から思うのです。

 

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。未婚の母から生まれる子どもが4割、専業主婦になれる状況にいる母親の割合を考えるとこれは大変な数字です。

性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めている。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかる。状況はすでに一周している。日本もそのあとを追おうとしている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。自然回帰は始まっています。

保育界の現実(森友学園問題)

保育界の現実

森友学園問題で、テレビのニュースカメラの前で、「高等森友学園」の園長が保育園の国基準違反をあっさりと認め、でも、うちの無資格者は資格者よりいいんです、と堂々と行政に言っていました。

『会談後は市が会見。諄子氏には配置基準の認識がなかったといい「園長は『6人も必要ないでしょ? 3人で足りる』と話していたので『それは違う』と申した」。諄子氏は保育所を継続する意向を示し、保育士確保について「5月まで頑張ってやっていきます」と話したというが「『どんな手立てを?』と聞いても具体策は何も出なかった」と説明。保育士紹介施設の利用も促したという。』

園長・設置者の良識が問われる風景ですが、これが保育界の現実です。保育という、幼児の命を預かる現場で、しかも認可された保育園の園長の姿です。しかも、園長先生は安倍首相の知り合いで、首相夫人が保育理念に感動しました、と系列幼稚園で挨拶をした園の理事でもあるのです。総理大臣を知っているのだから、私は何を言っても構わない、という風にも見えますが、それよりも、国基準など少々無視しても大丈夫、他でもやってることでしょう、と思っている、と見る方が正解なのではないかと思います。

カメラの前でここまで言われたら、行政も見逃すわけにはいきません。本当に閉園にする方向へ動いた。それを見て日本中で、「エッ」と思った園長・設置者がたくさんいたはず。何をしても閉園にならないのが保育園、ビジネスコンサルタントがそう言っていたではないか、と思った人もたくさんいたはず。

ニュース報道を見れば明らかなように、認可保育園という一見確立されているように見える仕組みでさえ、実はまだまだ園長・設置者の意識がバラバラで、保育に対する姿勢もいろいろです。一定の常識、良識が通用しない。しかも、保育の新制度を進めようとした人たち(一部学者と政治家)は、すでに保育者養成校が市場原理の一部になっていたことを見落としている。次の世代の、保育に対する意識が下がっている。これでは負の連鎖は止められない。

確かにあの園長先生が言うように、無資格者で資格者よりもいい保育士はいくらでもいます。最近の保育者養成校の「資格の乱発」と、「子ども相手ならできるでしょう」と平気で言う高等学校の進路指導の結果、この発言はいよいよ真実味を増している。でも、考えてみてください。どこかの学校の校長が、うちの教師は資格を持っていない人もいるけれど、資格を持っている人よりよほどいいんです、だから法律に違反してもいいんですよ、とニュースカメラの前で行政に向かって堂々とは言わない。

最近の保育のサービス産業化を見ていると、保育所保育指針という法律に書いてある、園児の最善の利益を優先して、という理念さえ徹底されていない。それどころか国が保育の根幹にある理念を壊している。ここ数年間に小規模保育、家庭的保育事業、こども園、学童保育の増加、障害児デイ施設など、待機児童解消を最優先に、新たな仕組みがどんどん参入してきています。それに伴う資格の規制緩和や利益優先のサービス産業が加わって、子どもたちを囲む状況はさながら無法地帯のようになりつつある。

あの(知り合いの)園長先生の傍若無人な行政への説明を見たら、首相だって、本来は、あと40万人保育の受け皿を確保します、などと言えないはずです。

保育園の義務教育化など夢のまた夢。

保育士の質を落としておいて、「就学前教育」などと言う詐欺のような施策と同じで非現実的、学者の机上の空論。保育園の義務教育化は、義務教育を崩壊させる。

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加えて、こんなことを書くのは矛盾しているように思えるかもしれませんが、私は実は、あのちょっと支離滅裂な園長先生は「子どもたちにとって」、全国平均よりも上の、いい園長のような気がしているのです。社会とか仕組みの中では通用しにくい人でしょう。補助金でずるいこともしなのでしょう。でも、「必要な時に親を叱れる園長」だったような気がするのです。

「必要な時に親を叱れる」。信じたこと、思ったことを言える。保育指針の第6章あたりに該当する重要な項目なのですが、この国の現状を考え、その先にある義務教育の存続を考えると、保育園の役割としては、私は、ここが一番大切だと思っています。的外れでもいいのです。思ったことを率直に言い合える関係が育てる側にあれば、子どもはちゃんと育って行く気がするのです。

私は、福祉という仕組みの中で、保育にしても老人介護もそうですが、親身さではなくて、知識や手法で人と接する「専門家」たちが増えていることを危惧するのです。「専門家」の存在によって、他人の人生に親身になれる、本当の保育士や介護士が福祉の現場から去っていったり、その心を閉ざしたりしていくことを一番心配しているのです。学問と仕組みが、人間社会から人間性を奪ってゆく。

あの園長の、うちの保育士は資格を持っている保育士よりもいい保育士なんだ、という叫びが、たぶん真実で、本気なのが、なんとなくわかるのです。

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(付記)

知らない人が多いのですが、保育園の園長は、実は保育資格を持っていなくてもいい。それがこの国の保育の心を支えてきた側面があるのです。資格を取って「保育は福祉、親のニーズに応える」みたいな知識を植え付けられ、それを優先する人に園長はできない、と思う。保育は福祉という形をしていますが、「子育て」なのです。

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる)

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる):

 
11時間保育を「標準」と名付け、保育の質の低下を考えずに安易に子ども園や小規模保育を奨励し、3歳未満児を親から離そうとする国の施策を作った「子ども・子育て会議」のメンバー、経済論でそれを主導した政治家たちに、ぜひ、この映画を見てほしいと思うのです。
当たり前、といえば、これほど当たり前のことはない。3歳までの育ち方が子どもの人生を左右する。それは即ち親の人生を左右するということ。
 
世界全体で、いま乳幼児期の愛着関係の欠如が問題になっているのです。子育てを、どういう視点で捉えるか、が改めて問われています。人類が、これではいけない、と自問し、乳児を眺め、彼らの存在意義を考え始めている。
 

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる)http://www.uplink.co.jp/hajimari/

 
「人格の土台が形成される乳幼児期(生後~就学前)の脳では、毎秒700個から1000個もの神経細胞が新たに活性化しています。この神経細胞同士の接続によって脳は発達し、後の健康や精神的な幸福、学習能力が決定づけられます。
 
この成長でもっとも大切なのは、大人との触れあい。血のつながった“親”に限らずとも、周囲の大人が乳幼児に安全で愛情に満ちた環境を与えることができれば、より良い社会を創造する未来が開かれます。
 
本作は、世界9カ国で家族や育児現場を取材し、さまざまな文化・民族・社会的背景における子育ての今を伝えます。さらに、早期幼児教育の専門家たちへのインタビューを織り交ぜながら、親をはじめ子育てに関わる周囲の大人たちが、安心して育児に取り組めるような公共政策の必要性を訴えます。
 
世界的ファッションモデルのジゼル・ブンチェンや、ノーベル経済学賞受賞歴もあるシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授、ユニセフ本部で「ECD=Early Childhood Development(乳幼児期の子供の発達)世界キャンペーン」を統括するピア・ブリット氏、先進的な幼児教育で注目を集めるイタリアのレッジョ・エミリア市の保育者らも出演。彼ら自身の経験と研究に基づいたメッセージが胸に迫ります。
 
「この映画を製作していた2年間で、赤ちゃんにはそれぞれの世界があり、彼らを世話することはその特別な世界を慈しむことなのだ考えるようになりました。人は誰かを大切にすると変わります。それは単なる自己犠牲ではなく相互的な関係です。”あなたがいるから私がいる”と専門家の1人は言いました。人とのつながり、特に乳幼児期における人間関係によって、世界はこれまで以上に素晴らしいものになり得るのです」
 
─エステラ・ヘネル監督
 
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なぜ、いま日本政府は40万人の乳児を親から引き離すことを政策目標にするのか。なぜ、マスコミはもっと乳幼児の立場に立って報道しないのか。この国の未来を見据え、考えながら報道しないのか。
 
保育士不足がこれほど決定的ないま、これ以上預かろうとすれば市場原理に向かうしかない。サービス産業になっていけば、保育は、ますます親へのサービスになってゆく。それによって親の「子育て」に対する意識が変わってくる。そして、いい保育たちが去ってゆく。
子どもに話しかけない保育、抱っこしない保育が、市場原理の中で、ぎりぎりの金儲けを維持するために広がっている。

二つの命が存在している。その思いが一心同体ではない

0歳児と一緒に空を見上げる。

1歳児と一緒に空を見上げる。

2歳児と一緒に空を見上げる。

それぞれに、違う体験で、それぞれの深さや次元がずいぶん違うから、不思議さの種類が違うから、絆がなければ生きていけない人類ために必要な体験なのだと思う。

こんなことをしながら、人間の遺伝子はオンになってゆく。そうすることによって、コミュニケーション能力が少しずつ身につき、知らないうちに深まり、年をとっても、お地蔵さんや盆栽と会話できたり、海や山を相談相手にしたり、自分自身や宇宙と会話ができる余地を残せるのだと思う。人間が相談相手を増やすための、いにしえの法則をもう一度確認する時期がきています。

 

二つの命が存在している

去年、「保育園落ちた、日本死ね!」と、親がネットに書きました。どちらに行くのか定かではないのですが、これをきっかけに、いい方向に向かうのだと思いたい。

「保育園落ちた、日本死ね!」という言葉が繰り返し報道され、国会でも論議され、流行語大賞にまでノミネートされ、、いつの間にか曖昧になってしまったことがあります。

この言葉の中には二つの命が存在しているということ。保育園を落ちたのは3歳未満児であって、自らの願いを主張できない乳幼児。そして、「日本死ね!」と言っているのはその母親です。二つの命、がそこに存在している。そして、その思いが一心同体ではない。そのことに気づかせるために、この言葉は生まれたはず、なのです。

もともと一心同体だったものが、これほど早く、たった数十年で、お互いが見えなくなるほど離れ離れになってゆく。政府という仕組みがそれを進めている。それが人類の存在自体を成り立たせなくしてゆくのではないか。そこに気づいてほしいのです。

この発言に登場する親子二人の願いがあまりにも相反している。そこに、保育士不足や質の低下といった小一プロブレムに直結してゆく保育現場が抱える様々な問題の根本的原因があります。保育という仕組みがいつの間にか、当たり前に存在し、その仕組みの不自然な性質が、預けられる主役である乳幼児の存在感を消してしまう。そして、仕組み自体がますます人間性を失ってゆく。すると、もう一人の当事者である保育士たちが苦しくなって去ってゆく。(または、いい加減な保育、都合のいい保育をし始める。)

乳幼児たちが、育てる人間の遺伝子をオンにし、その人たちをいい人間にする働きが、仕組みに逆らい、仕組みを壊そうとする。

政府が簡単に口にする「保育の受け皿」は、012歳の「子育ての受け皿」です。その時期の子育て、親子がする特別な体験は、人間の一生にとって貴重な体験だった。双方向に貴重だった。モラルや秩序が、遺伝子レベルから湧き出るために必要な、人類にとって不可欠な体験だった。親にとっても、子どもにとっても。

 

保育園入園時の「慣らし保育」の時の子どもたちの泣き顔と、母親にしがみつく際の悲鳴にも似た叫びを聞いていると、一瞬、「保育園受かっちゃった、日本死ね!」と叫んでいるようにも思える。そう思ってくれる人を命がけで探しているのではないか、という気がするのです。

もちろん、命そのものを体現している、神様のような存在でもある幼児たちは、「死ね!」とは絶対に言わない。それはわかっています。でも、誰かに早く、その泣き声、叫びの本当の意味を汲み取ってほしい、と思うのです。あの姿を、テレビで報道してほしいし、学者たちは大学の授業で学生たちに見せてほしい、と思うのです。あの泣き声の意味を、国という仕組みを左右している政治家たちが汲み取らなかったら、国の存在意義が、それこそ死んでしまうような気がするのです。

乳児は、実は「保育園落ちた、嬉しい、良かった」と心の中でささやいている。もし落ちずに受かっていたら、「0歳児保育を進める政治家、行政、学者、なんで、そんなことするの?」と遺伝子レベルで叫んでいるかもしれない。その辺りのことなのです、マスコミがいま、しっかり議論していないのは。

 

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何がいままで保育という仕組みを(かろうじて)支えてきたのか、と考えてみたことがあります。その時、ふと思ったのは、0、1歳児を預けようとする時の親の「躊躇」と、0、1歳児を預かる時の保育者の「躊躇」だと思いました。それが、いま「受け皿」という言葉によって、少しずつ消されようとしているのです。

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ツイートをひとつ

「最近いった研修の講師の大学(短大?)で、卒業生300人に対し2800件の求人があったとか。また、パートしか経験の無いおばちゃんが新設園の園長になるのだとか。その他20代の園長予定者が多数来ていました。本当にやばい状況です。」

 

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 こういう状況だから、こういう無責任な進め方をするから、現場で保育に都合のいい子どもにするため、012歳児に話しかけない、抱っこしない保育が増えているのです。事故を防ぐにはそうするしかないほど、現場が追い込まれている。
 でもこれは、3歳までの脳の発達を思えば、親の知らないところで政府が用意する「受け皿」によって意図的に子どもたちの発達が歪められているということ。
 そして、「やった振り対策」として政府が進めた安直なカウンセラーや相談員の普及。「専門家」と呼ばれる人たちが園にやってきて障害児を認定し親子を心療内科に送り込む。人間が対応できる現実的な施策は考えられていませんから、結局対処できるのは薬物しかない。
 
 「もうすぐ小学校ですからそろそろ薬(向精神薬)を呑ませましょう」などという助言が、「専門家」によって親にされる。
 
 こうして、「社会で子育て」(仕組みで子育て)という学者の言葉で広がる無理と歪み、専門家の薦める薬物が、この国の将来の重荷になって雪だるま式に増えているのです。

園児と薬物(子育てと相談相手)

 

依存されること、甘えられることで育ってゆく絆

人間性を失った経済優先主義が国主導で広がっている感じがします。

「母親は赤ちゃんのそばにいたいし、赤ちゃんも母親のそばにいたい。節約して欲しいものを我慢しても子供を手元において愛情一杯の子育てをしたい、そんな当たり前の事が経済的に男性に依存する甘えた女という批判の対象になる風潮がおかしい。」

というツイートがありました。

その通りだと思います。一歩進めて、社会が、依存すること、甘えることを悪いことのように受け止め始めることの「怖さ」を最近感じるのです。

「自立」という資本主義社会を回してゆくための不自然な幸福論がその根元にあるのだと思うのですが、これでは幼児の存在を否定することにつながりかねない。依存されること、甘えられることで育ってゆく何かがあって、それが人類の存続にとって結構大切な鍵を握っていたのだと、みなで一緒に乳幼児を眺めながら、思い出さなければならない時なのだと思うのです。

 

仕事をするということには社会的責任がある。だから、「個人的な」子育てより優先されなければならない、というような言葉を聞くこともあります。これは本末転倒です。形の上ではそうであったとしても、人間が本気でこんなことを思い始めたら「社会」が成り立ちません。

幼児期の子ども(子育て)を最優先することが本当の意味で社会的責任なのではないか、という意識が社会全体に欠けてきている。とくに、社会人という言葉に現れるように、「社会」という定義が、それすなわち「経済競争」のように捉えられるようになって、年月が流れ、「言葉」に支配され始めている。

義務教育が語られる時に頻繁に登場する「自立」という言葉。それを目指すことが目的になり、そうすることが本当に幸福なのか、という議論も検証もない。この国の将来を考えた時、「自立」という言葉の呪縛から離れ、本来「社会」というものは、自立と反対の方向に位置するもの、助け合いなのだという記憶が戻ってくるといいのですが。

社会的責任は支え合いの幸せに基づいていて、一人では生きられないことを宣言すること。すべての人間が生まれて数年の間、幼児期にその宣言をしてきたということ。つまり、「社会的責任」は家族という単位から始まっていることを思い出し、それが施策に反映されるようになるといいのです。

親たちの意識が子ども優先の方向に戻らない限り、国の今の経済優先で人間性を失ってゆく方向性は変わらない。アメリカ大統領選とその後の価値観の混乱を見ればわかる通り、民主主義の危険性は経済優先で人間性を失ってゆくこと。しかし、人間性を失った経済優先主義では、多数が生きる力を失い始め、いずれ経済そのものも破綻し始める。政府やマスコミが、そこに気づいて、思考や報道の経済優先主義からの方向転換を計ってほしい。それが可能な唯一の先進国が日本という国だと思うし、この国の個性だったはずです。

 

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都議選が近づき、選挙絡みの講演依頼があります。発言できるチャンス、候補者に聴かせるチャンスですから一生懸命やります。でも同時に、受かってしまったらそれっきりの場合が多い。選挙の時だけ真剣に耳を傾ける、みたいな人が候補者になっていることが最近とくに増えている。志をもった政治家がいない。

全国で、話しかけない、抱っこしない未満児保育がじわじわと密室で広がっています。これが日本という国を土台から蝕んでいる。保育士に都合のいい子、事故が起こりにくい子、親が知らないうちに、後天的な発達障害が進んでいる。

そして、345歳児で簡単に薬物が処方されるようになってきている。

「もうすぐ学校ですから、そろそろお薬を飲み始めましょう」みたいな言葉が普通に聞かれるようになっています。政府の言う保育の「受け皿」とは、実質的に質の悪い保育と子育てにおける向精神薬の普及に進むための乗り物のような気がします。予算的にも人材的にも、義務教育には致命的な感じがして恐ろしい。この広がりの影響は対処しようがないということに早く気づいて欲しい。

外国人を雇っている東京都の認可保育園で、園長が保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。それが10年前です。人情味があって幼児にいい外国人は確かにいます。でも園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。雇用労働施策になっている、ということなのです。

引きこもり・愛着障害・幼い中学生

内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、高齢化しているという。注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」。20〜24歳が増えトップで34.7%。次が16〜19歳の30.6%。引きこもり、というと小学生や中学生で始まる問題のように思いがちですが、意外とそうではない。幼児期に親子関係における土台をしっかり作らず、保幼小連携などといって小一の壁を低くしようとしたり、三歳未満児保育を国が進め、子育てを安易にサービス産業化すると、20〜24歳で世間の壁に跳ね返される。そして、ここで跳ね返されると引きこもりは長期化する。

原因は複合的ですが、まず二点言うと、一つは、人類未体験の「豊かさ」が生きる力を削いでいること。「子育ての社会化」、現在の混乱状況にあってはもはや意味不明の言葉ですが、子育ての外注化と言った方がいいかもしれない、これが進んで人生の目的、幸福論がゆらいでいる。幸福になるには自分を知らなければならないのに、それがわからなくなっている。以前書いた文章ですが、その一例を挙げます。

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 (高校生の保育士体験で、ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。
 三才児は無心に無意識に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。
 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が絶対に必要、ということなのです。
  遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)、身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだった。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は誰と、何と、誰が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなる。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。)

そして、もう一つは、欧米に比べ日本には奇跡的に家族という概念が残っていて、引きこもらせてくれる環境と、江戸時代からの次男、三男の部屋住みなどの伝統文化があったことでしょうか。役に立たないように見える人にもその価値を見る。その存在が成り立つようにする。

3歳未満児と真面目に付き合っているとそういう価値観が身につくのだと思います。こういう人たちがいないと、社会というパズルが組めなくなる。以前書いた文章から引用します。

 (障害児、障害者、認知症のお年寄り、この人たちはどんな時代にも、社会の一部として居ました。最近名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。与太郎さんのような古典落語の重要な脇役は、いまの分け方から言えば障害者かもしれません。日本の昔話や民話の主人公に多いのが「怠け者」です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないひとたちと、パズルのように組み合わさって生きてきたのです。様々な次元で、お互いに育てあうのが人間社会。
 そのパズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児との、ゆっくりと時間をかけた付き合いが人間が支え合うために必要だったのではないか、と思うのです。この、絶対に一人では生きていけない人たち、すべての人間が一度は身をもって体験するその人たちを理解すること、または理解しようとすること、が一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに教えてきたのだと思います。)

いまの、日本特有のと言ってもいい引きこもりの状況を見ていると、経済的戦力にはなりませんが、とりあえず犯罪抑止にはなっていた。それが限界に来ている。家族の定義が、「待機児童をなくす」といった言葉によって変化し、支え合う絆が薄れ、引きこもらせてくれる人たちが、高齢化している。

そして、いま中学生が非常に幼いのです。それが加速している。これは自然界からの警告のようです。人間の遺伝子からの警告かもしれない。保育の質の問題もありますが、親の意識の変化がより大きな原因でしょう。保育のサービス産業化と福祉が親の子育てに対する意識をこれからさら変えてゆく。

子どもたちが、親を育てる、弱者が強者を育てるという、人間社会にモラルや秩序を生み出す法則をもう一度思い出さないと、日本という国がその個性として持っていた「子どもに優しい社会」が崩れてゆく。

立ち止まって、心静かに考える時です。

 

(数年前、猪瀬知事が「スマート保育」というのを始めた時のブログがありました。いまだに手を変え品を変え、待機児童対策は保育士や幼児の気持ちを考えずに数合わせで進められている。この程度の意識からまだ抜け出ていないのです。)

スマート保育、プロジェクト2000、3歳児神話

小一プロブレム・仕組みで子育ては出来ない

「小一プロブレム・保育や学校という『仕組み』で子育ては出来ない」

「保育士にとって都合のいい幼児にするために、0、1歳児には話しかけない、抱っこしない保育が少しずつ増えていて、この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来てしまう。それを親たちが知らない」と以前、現在進行形の現状について書きました。

園長設置者の意識の問題もあります。こんなひどいこと園長・主任が許さなければできるはずがないのです。私には、「話しかけない保育」は、人間の未来に対するもっともたちの悪い犯罪行為のように思えます。こうした子どもの将来を考えなくなっている現象に拍車をかけているのは、政府の目指す保育の市場原理化や、雇用確保のために行われている「親たちの意識改革」です。

0、1歳児を預けることに後ろめたさを感じる必要はない。それは当然の権利なのだという考え方を広げ、一方で規制緩和によって子育ての受け皿の質を落としてゆく。無理に無理を重ね、保育界全体が無感覚になる方向へ追い込まれているのです。その流れに、実は親たちが加わっていることについて書きます。

この「保育士に都合のいい子」が、最近、親にとっても都合のいい子になってきている。そこが一番恐ろしいのです。問題が仕組みの問題から、人間性の領域に入ってきています。

以前、既存の園の運営を引き受け、子どもが活き活きするように保育内容を園長が変えたら、親たちから「子どもが、言うことを聞かなくなった」とクレームがきて、その子たちが卒園するまでは保育内容を変えないように行政指導された園長の話をブログに書きました。数年前の話です。この辺りにすでに出発点がありました。保育サービスという言葉を厚労省が使い始めたころから、親たちも、保育園に、自分にとって都合のいい子に育てるよう要求するようになってきた。そして数年後、民主党政権の厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せとけばいいのよ」と私に言い放ったのです。

一緒に子どもを育てているはずの親たちと保育者の心が一つにならない。「サービス」という言葉を保育園の定款に政府が無理矢理入れられた頃から、そんな景色が広がり始めたのです。

待つ園長先生と待たない園長先生の話

 

優先順位

政府の「子ども・子育て支援新制度」が、大人の都合(経済優先)で組まれているのと似ているのですが、社会全体の子育てにおける常識、優先順位が、ここ10年くらいの間に急激に変わってきています。

障害児支援のデイでも似たようなことが起こっています。これも以前ブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=269。無資格の指導員でいい「デイ」で訓練のような「しつけ」を受けた子どもが保育園に戻って暴れる。どんな訓練をしているのか園側が問い合わせても教えない。その上、親に「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ている、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と熊本である園長先生が話してくれました。競争で成り立つ市場原理が、一貫したルールが確立されないまま、「子育て」における対立関係をあちこちで生んでいるのです。

 

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親子という運命にも似た関係、選択肢がほとんどない状況で長い間行われていた「育てあい」「育ちあい」(時に、しつけと呼ばれる育てあい)が、仕組みの手に移って行った時に、仕組みを維持する人たちの質、心構え、絆が、人手不足の陰で一気に崩れてゆく。

こんなツイートが保育士からありました。

『私も1年目の時、2年目の先輩と理事長に「なんで人が育たないのにどんどん新園建てるんですか?」って聞いたなぁ。そしてその答えは、「それでもやるって決めたから」的なこと言われて、まったく納得いかなかった。1ミリも。』

親たちよりも長く子どもたちと付き合い、「子どもを優先して考えている」保育士の気持ちが、先輩保育士や園長の「やるって決めたから」という言葉に押し切られてしまう。その向こうにあるのが、無知な学者にそそのかされた「保育は成長産業」「市場原理に任せれば質が保てる」という現場を知らない安易な閣議決定です。

そんな優先順位の狂った環境で育った(育たなかった)親子関係が、小一プロブレムを一気に進めている。こんな記事がありました。

「小1プロブレム 県内急増」

http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20170521-OYTNT50020.html 保育新制度が押し進める学級崩壊がいよいよ始まっている。数年後もっとひどいことになる。このままでは教師の精神的健康がもたない。

この記事にある「小一プロブレム」に対するマスコミや学者の分析と対処法が、実は、ますます小一プロブレムを増やしていくのです。保幼小連携と言われますが、それは小学校に入る時の壁を低くしようとすることでしかない。保育園や幼稚園を学校という仕組みに近づけても、本当の解決にはならない。5歳まで特定の人たちに可愛がられること、特定の人たちを信じることで子どもは安心し、安定する。それが何千年もやってきた子育ての基本です。そうすることによって、人間は人生に必要な価値観や絆の土台を作る。その土台さえあれば、子どもたちは壁を乗り越えられる。むしろ、その壁が、子どもを育てる。その壁が、親を育てる。親子の絆を強くする。

壁をなだらかにする、そんなごまかしでは、いずれ、高校や大学を卒業した時にもっと大きな壁に跳ね返されるだけです。それが人生の致命傷になりかねない。それがひきこもりや暴力を生んでいるのでしょう。人間の成長、そして絆が存在するために、常に壁は必要です。

百歩譲って、この記事にあるように、学校教育を成り立たせるために、本気で幼稚園や保育園を学校という仕組みに近づけようとするなら、つまりしつけをちゃんとしろということなのですが、小規模保育や家庭的保育事業の規制緩和は何なんだ。3歳未満児を40万人預かるために、資格者は半数でいいなどと安易な規制緩和をしておきながら、しつけもちゃんとしろ、というのは無理難題どころか本末転倒、施策としては意味不明です。

未満児保育は脳の発達と直接関わる大切な役割です。それを知っている園長が、いい加減な保育をされた3歳児は預かりなくないと思っても不思議はない。自分の園で未満児保育した子どもたちでなければ預かれません、とはっきり言う園長もいます。「子育て」を真剣に考えれば、当然でしょう。

未満児の時に親をしっかり指導できなければ保育は成り立ちませんから、親にサービスだけしているような園から来た3歳児は引き受けません、と言う園長もすでにいます。

園長先生たちは、この慢性的な保育者不足という困難な時期に、必死に保育士を守らなければならない。保育は、保育者の元気と楽しさがその中心になければ保育ではない。それが、幼児という「幸せを体現する人たち」と付き合う責任でもあるからです。

幼児が5歳くらいまで、特定の大人たちに可愛いがられていれば、学校教育は成り立っていたのです。幼児は、他人に無理やり「学校教育がなりたつために」しつけられるものではありません。

記事はこう締めくくられています。

『鳥取大地域学部の塩野谷斉教授(幼児教育学)は、「小学校と幼稚園、保育園などが一体となって子どもを育てる意識が大切。学校の教員と保育士らが連携すれば、子どもの発育を連続した視点でとらえ、より充実した保育、教育ができる」と話している。』

学者や政治家は、仕組みで子育ては出来ないことにいつ気づくのでしょう。仕組みが手を替え品を替え子育てを肩代わりしようとすることが親心の喪失を進め、より一層仕組みの機能不全を招いているのです。

この括りの文章・発言に、「親」が登場しないことが致命的なのです。「誰かが、育ててくれるんだ」という親の意識が、小一プロブレムの中心にあるのです。

学問が子育てから「心」を奪っている。

 

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こんなツイートがありました。

「保育現場で悲鳴が上がっている。子供だけでない、保育士を育てなければならないからだ。育て直し‥大人になった人を育てることは子育て以上に難しい。だから子供時代が一番大切なのだ。乳児期が一番大事なのだ。それなのに、今の保育園はどうだ?本当に子供が大事にされているだろうか・・。」

そして、「子どもを安心して保育園に預けられない理由」という記事がありました。これがすでに現状、現実なのです。 https://news.nifty.com/article/magazine/12210-20170519-9559/?utm_

子どもたちからの警告・学問が子育てから心を奪っている

子どもたちからの警告

待機児童解消、保育士不足、少子化対策、幼児の気持ちを置き去りに、言葉だけが「社会」と呼ばれるものの中を飛び交います。

久しぶりに保育に復帰した人が言っていました。新しい、小規模の保育園だったのですが、保育士の資格は持っていても幼稚園しか体験したことのない主任さんだった。保育園の保育を理解していない、と思い、すぐに辞めました、というのです。

それでも、その保育園には毎日子どもが通ってくる。多くが、期待に胸をときめかせ、ワクワクしながら・・・、通ってくる。その期待に応えようとしなければ、国が成り立たないことを、政治家たちは知ってほしい。考えてほしい。感じてほしい、と思います。

 

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子供たちがなりたい職業ランキング(ソニー損保生命)
保育園の先生は上位から消えました。
2015年は第3位。2017年は第11位。
 
 厳しく辛い、子どもたちからの警告ですね。現場の保育士と子どもたちが過ごす日々を考えず、安易に「預けて、働け」「預けて、働け」と親たちに言う政治家たち、そして、その動きを「権利」「権利」と扇動するマスコミ。このランキング調査は、そうした経済中心の動きに対する「子どもたちからの」警告だと思います。
 保育士たちが活き活きとしていないのかもしれない。保育が「子育て」であること、幼児にとっては一対一であることを忘れ、「仕事」なってきているのかもしれない。子どもたちが、いつか大きくなって、幼児と関わることに惹かれなくなっている。
 0、1歳児を躊躇せずに預ける親が増えたからかもしれない。子どもたちは、敏感に育てる側の本心を見抜きます。繰り返し許してはくれますが、見抜きます。
 保育の現場から、幼児たちが本能的に感じていた「子育て」の魅力が、ここ数年間の間に突然、欠け始めているのです。
 このリサーチは、将来、本当に保育資格をとってほしい、心ある子どもたち、資質のある選ばれた生徒たちが保育者養成校に来なくなることを意味しているのです。
 もうすでに、そういう状況に入っている。
 以前、保育士が子どもたちの「夢」だった頃、なりたい職業のトップ3だった頃、子どもたちは、賃金とか労働条件とか、そんなことでこの仕事に魅かれていたのではなかった。あの「先生」が好きで、あの「先生」に憧れていたはず。「賃金とか労働条件」よりもっと大切で、魅力的な「人間の優しさが作り出す雰囲気」、「家族的な空気」、「自分がいい人になれる時間」に子どもたちは引き寄せられたのだと思います。そのことに政治家たちは気づき、いま、子どもたちによる警告を見て、肝に銘じてほしい。このままでは、この国の根幹が壊れてゆく。
 
 子育てを、国や学者が、一生に数度しかできない素晴らしい体験と位置付けないから、「育てる側を育てる」という、その貴重な意味を、理屈ではなく「常識」としてマスコミが伝承しようとしないから、巡り巡ってこういうことになる。男たちが結婚しなくなっているのと似ています。みんな、自分の持っているいい人間性に感動する体験をしようとしない。それどころか、自分自身を体験することから、逃げ始めている。
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学問が子育てから心を奪っている

 

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び、資格を取れば、他人の子育てができると勘違いした。学問で子育てができると考えた。そこがそもそも異常なのですが、養成校の存在自体が不自然で、まだまだ不完全だと気付いていなかった。資格という言葉で責任を誤魔化そうとした。

その上一番悪いのは、養成校が定員割れを起こし倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かということに、まったく気づいていなかった。

ビジネス・生き残り優先の養成校は、政府の望み通り資格を乱発し、人間性のチェック機能さえ果たさなくなった。子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関が、資格の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなった。それまで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、幼児が優先にされない状況に疲れ、国の「保育はサービス」という言葉を受け入れビジネス優先で考える園長の出現に疲れ、辞めていった。その結果がこれです。

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景” (週刊朝日)https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html

 やっとです。ここまで保育界が追い込まれ、子どもたちの日常が保育という仕組みでは守れなくなって、子どもが何年も怒鳴られ続け(もちろん一部ではありますが)、やっとマスコミが真面目に取り組み始めた。
「遅い!」と言いたい。でも、これからでもいい。真剣に取り上げ続けてほしい。

書籍では「保母の子ども虐待」という本がすでに20年前に出ていました。当時本の内容に関して報道もされましたし、みんな実は気付いていたはずです。それなのに、規制緩和と市場原理で、ここ数年、保育界は一気に追い込まれている。週刊誌、新聞、テレビが、幼児の立場に立って、繰り返し、「こういう状況が止まるまで」徹底的に報道してくれないことが、政治家の安易な「子育てに対する姿勢」と現在の「子どもの立場に立たない保育施策」を生んできたのだと思います。
こんな状況になっているのに、「あと40万人保育の受け皿を用意します」と去年首相が国会で言い、それが今年は「50万人」になっているのです。もちろん、全ての野党が(こういう状況であるにもかかわらず)「待機児童をなくせ」と言っているのですから、与党がダメだと言っているのではありません。安倍さんだったら、もう少し日本の未来は子どもたちの育ちにかかっている、ということを理解してくれるのではないかと、期待していたくらいです。(萩生田さんにも何度も説明しましたし。)

いま、問題なのは、こうして実態が報道され始めても、それでも躊躇せずに0、1、2歳を預ける親が増え続けていること。
そして、待機児童を自園の人気と勘違いし、親の保育士に対する正当なクレームに「じゃあ、やめればいいだろう」と平気で言う園長さえ現れていること。

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 三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=255

こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策の警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、むしろ増える方向にいまだに進んでいる。だから小一プロブレム、学級崩壊が止まらない。
義務教育という仕組みは、一部の親子関係、家庭のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育が破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

『「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム』http://www.luci.jp/diary2/?p=208

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スコセッシ監督の映画「沈黙」を見てきました。http://chinmoku.jp 良かったです。

遠藤周作さんのキリスト教への視線は、以前原作を読んだ時、「死海のほとり」のイエス像でも共感できて、それをスコセッシ監督がしっかり受け止め表現していて嬉しかったです。東洋的な解釈、仏教との対比からキリスト教会を見ていて、本当はカトリック信者でありながら遠藤さんは易行道が好きだったのではないかと思います。日本という国、泥沼と例えられていたのですが、不思議な表現で、いまとても意味があることに思えました。それぞれの文化や宗教で異なる神とのスタンスを見誤ったり、誤解することがここ数千年の人類の歴史なのでしょう。

映画の中で、神の声がモーガン・フリーマンの声だった気がして、エンドクレジットで一生懸命探したのですが見つかりませんでした。もしそうだったとしたら黒人の声を神の声に使っているわけで、スコセッシ監督のメッセージが隠れている気がしました。モーガンが監督したボパという作品に演奏で参加したことがあります。

0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること

全国を講演して回っていると、保育士不足と、それに伴う保育の質の低下は限界を越えています。義務教育がもたない。小一プロブレムはもはや止められない。政府主導の保育士不足が義務教育によって、すべての子どもの人生に「いじめ、不登校、学級崩壊」という形で影響を及ぼし始めている。

保育士は、資格を持っていれば誰にでもできる「仕事」ではない。(私は、30人の他人の4歳児を二時間世話できないし、笑顔ではいられない。それが8時間できる人、毎日笑顔でできる人は、選ばれたごく少数の人、生まれつきの才能、個性なのだろうと思います。)
しかし、政府の子ども・子育て支援新制度は、それが始まった当時、2万4千人の待機児童に対し、あと40万人「保育の受け皿」を用意するという雇用労働施策でした。幼児の最善の利益が優先されることなく、保育士たちの気持ちを考えることなく、受け皿だけ「待機児童をなくす」という掛け声のもとに増やしていった。小規模保育、子ども園、家庭的保育事業、3歳未満児を預かるために、資格も含め制度の規制緩和を一気に進めていった。(その先にある学童保育の混乱状態も待ったなしの状況です。最近、学童の指導員さんたちに講演して思いました。こんないい加減な仕組みでは、いい指導員さんたちの心がもたない。その人達がいなくなったらどうするつもりだろう。民間委託や下請けといった市場原理では支えられない。)

忘れてはならないのは、政府が新制度を始める前に、3、4、5歳児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていたということ。「あと40万人」(今年はそれを50万人に増やしている)と政府が目標にしたのは3歳未満児だということ。皮肉にも、その掛け声と、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉と言葉遣いの流布、待機児童をなくします、いう政治家の安易な選挙公約などに背を押されるように、親の「子育て」に対する意識が一気に変わってきている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、と役場の人達が口をそろえて言うのです。それが、待機児童の増加に拍車がかかるという結果を生み出している。保育の現場を追い込んでいる。
新聞に「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと」などと書かれています。しかし、それは経済でしかものを考えない学者や政治家たちの「誤算」であって、待機児童を減らそうとすれば増えますよ、ということは現場では10年も前から言われていました。東京23区などでは現象としてすでに現れていたのです。

「保育はサービス、保育は成長産業」という政府の指示を鵜呑みにした保育関係者の中に、保育の質を考えずに「ただ預かればいい」というとんでもない意識を持つ園長・設置者もでてきているのです。
 0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること、という意識がない。
人間が生まれて三年間の脳の発達を考えれば、その時期の話しかけや抱っこ、接し方、声の調子や叱り方、刺激や関わりがその子の将来の行動パターンに様々な影響を及ぼすことは証明されていて、だからこそ、国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書にも特定の人間(主に家族)と乳幼児が過ごす権利や、その大切さが謳われている。それすら保障されない状況にこの国が、政府の経済施策によって追い込まれているのです。

保育士に都合のいい幼児にするために、0、1歳児に話しかけない保育が少しずつですが、増えています。この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来上がります。それを親たちが知らない。
質の悪い保育士を雇わされて、事故が起きないようにするためには仕方ない、子どもがじっとしている方が安全という園長もいれば、政府に11時間保育を標準と言われ、乳幼児を3人、4人、次々に抱っこしていたら保育士の腰が持たない、労災の問題です、と堂々という園長もいる。そこまで言われると、そうですね、所詮仕組み自体が無理なのです、0、1、2歳児を今の仕組みで預かることが間違っているのです、と答えるしかありません。

脳細胞、シナプスの相対的関係

脳細胞、ニューロン、人間の魂の分野に属することを科学的に話すのはあまり好きではないし、不得意なのですが、時々そうだろうな、と思うことがあります。
ニューロン(脳細胞)の数が一番多いのは人間が生まれる直前で、生まれるときに大量に捨てるのだ、というのです。その捨て方には個人差があるそうです。その捨て方は人生に影響を及ぼすはずです。(ひょっとして、この「意識が働いているか」、それが「誰の意識なのか」はっきりしない出来事が運命や宿命と呼ばれ、仏教でいえばカルマ、修行の目標なのかもしれません。)
そして、人間は、このニューロン(脳細胞)をシナプスというものでつないでゆくのだそうです。それをニューロンネットワークといって、個人で異なる「思考」の仕方はこのネットワークのつながり方、その回路・通路のあり方の違いだそうです。そのニューロンネットワークは、生まれて一年くらいで最多に達するというのです。そこから、こんどは思考の回路を自ら削除してゆく。環境や体験にあわせ、どういう考え方がそこで生きて行くために重要かという優先順位を、それぞれその時の体験から決めていくわけです。
人間としての基本的な生き方に加えて、言語や文化、伝統、習慣、常識といったその社会で生きるための知恵や知識が、共有する思考形態として定まってゆくのでしょう。脳の重さはほぼ五歳で成人並みになると言われていますから、生きるために減らしてゆくニューロンネットワークの数と脳の大きさが一番相乗効果を生んでいるのが四歳くらいで、人の思考の可能性、感性がそのころ最大となるのではないでしょうか。
私はその状態を、「信じきって、頼りきって、幸せそう」というものさしから、四歳児で完成、最も幸せでいられる可能性を持っている姿としたのです。

一人の人間をニューロンに置き換え、人間同士の「絆」をシナプスと考えると、人類の目的が見えてきます。「生きる力」とは個の自立を目指すことではなく、「絆」を作る力です。信じあい、頼りあうことが「生きる力」です。

(だからこそ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://www.luci.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現は進化のプロセスにおける強い警告だと思います。)

実際、四歳児が完成された人間かどうかは、別の議論に任せます。しかし、そのように四歳児を眺めることで、先進国で起こっているほとんどの問題が解決するのです。
そこに人類の進化における相対性理論が見えます。

なぜ「四才児」完成説なのか。脳細胞、シナプスの相対的関係

講演で、「四歳児が一番完成している人間」と言います。「完成」という言葉さえ本当は変で、「目標とする姿」と言ったほうが近いのかもしれない。
「頼り切って、信じ切って、幸せそう。これは宗教の求める人間の姿です」と付け加えます。
仏像や聖母子像や観音様のように、人間は具体的に崇拝したり、目標とする何かが近くにあったほうがいい。これを拝んでいれば大丈夫、という共通した何かがあると、心が一つになりやすい。仏教やキリスト教が現れる前から、それはあったはず。

保育園で、〇歳から五歳児の部屋で三〇分ずつ過ごしてみたのです。すると、四歳から五歳になる時、何かが変わるような気がしました。集団の雰囲気が、馴染みのあるものになった。園長先生に言ったら、そうですね、とうなずかれました。四歳児までは神や仏の領域。存在としてはまだ宇宙の一部なのでしょうか。五歳で人間?。
園長先生が言います。
三歳児はやりたい放題、鬼ごっこをすれば自分から捕まりにいってしまう。四歳ごろから、ルールを守った方が面白い、ということを学ぶ。鬼ごっこでは、ちゃんと逃げるし、捕まったら鬼になることも理解する。他者との関係がわかってくるのです。自制心を持って他者と関われば、もっと面白いということがわかってきます。相手もそのルールを守ってくれることで信頼関係が芽生えるのです。このあたりの幼児の発達過程は人間社会がどうあるべきか、どのように形成されるかという次元まで重なってくる、とても興味深い変化・進化です。
それを親が眺めるといい。
自分が通ってきたプロセスのおさらいをするように。〇歳から四歳までの子育ては、無意識のうちに一人の人間の完成、人類の進化の歴史を四年かけて眺めることなのかもしれません。そうして、人は自分という人間を人類の一員として理解し、安心したのでしょう。幼児を理解しようとするプロセスが、人間を作るのです。

世界が宗教間の軋轢や、人種や民族間の争いに満ちていても、もし四歳のときに子どもたちを混ぜてしまえば、そしてそこに親心があれば、平和や調和は可能でしょう。先進国は、その可能性に気づき、その可能性を大事にしなくてはいけません。
なぜ、人間は四歳で完成したのに、情報や知識を得て不完全になろうとするのか。自ら不完全になることによって、集まって大きな完成を目指そうとしているのではないか、そんな風に考えます。人類全体で「絆」を作って完成するために、一度自分を見失う、という苦難の道をゆくのでしょう。
人類としての完成、それが何百年先になるのかわかりません。でも、運命(宿命)はそんなところにあるのでしょう。だからこそ我われは、時々、四歳児という完成品、目標を眺めていないと、人類全体としての道を間違う。
人類の歴史の中で、いまが一番大切な時かもしれない。私たちは、人類の進化を決定づける不思議な時代に生きています。
だからこそ仕組みの発達と、経済という進化のエネルギーでもある欲の具現化が生んだ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://www.luci.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現が恐い。

園長先生と刺しゅう

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「園長先生と刺しゅう」
 
 全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。
 
 親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。そういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。
 
 もう二十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにするのです。こういう園長たちが大地の番人のように、居たのです。
 
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 先日(注:20年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。
 
 講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。
 
 母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。
 
 園長先生は言います。
 
 「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」
 
 子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。
 
 本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。
 
 そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。
 
 「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」
 
 「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」
 
 「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」
 
 「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」
 
 「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」
 
 「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」
 
 「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」
 
 「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」
 
 「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」
 
 「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」
 
 「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」
 
 
 
 すべての鍵がここにあります。人間社会を家庭崩壊の流れから救うすべての鍵があるのです。学者の教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばすすべてがあります。
 
 幼稚園版「幸せ家族計画」とでも言いましょうか。でもこの場合には賞品はありません。母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょう。(祖母のような方です。)
 
 園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」
 
 すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」
 
 私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。
 
 「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」
 
 わが子の絵を刺しゅう絵にする。
 
 この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。
 
 自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。
 
 将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。
 
 こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。
 
 これは理論ではないな、と思いました。
 
 子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。
 
 発想が全然違う。
 
 幸福感の次元が違う。
 
 宇宙に対する見方が違う。
 
 魂に対する理解度が違う。
 
 園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。
 
 親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。
 
 「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。
 
 人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。
 
 さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。
 
 「すごい!」
 
 「鳥肌がたつわ」
 
 「私も頑張らなきゃ!」