母乳のアレルギー予防効果「なし」 厚労省が新指針:(乳児の視点が欠けている?)

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母乳のアレルギー予防効果「なし」 厚労省が新指針:

『赤ちゃんへの授乳に関する国の指針に、母乳によるアレルギーの予防効果はなく、粉ミルクを併用する混合栄養でも肥満リスクが上がらないことが明記されることになった。母乳の良さの過度な強調が養育者を追い詰めている、との指摘を背景に、粉ミルクを使う親へも支援を求める内容になっている。(中略)

「3歳までは常に家で母親の手で育てないと、その後の成長に悪い影響がある」という考えは、3歳児神話と呼ばれてきました。でもこの考え方は、以前にコラムで触れた通り、すでに否定されています。(中略)

 98年の厚生白書では、「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言及されました。』

(以上のような新聞報道がありました)

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少子化による税収減に対応する「労働力掘り起こし施策」(「新しい経済政策パッケージ」)に基づいた恣意的な指摘だと思いますが、母に抱かれての授乳という体験を望んでいるであろう乳児にとっては、迷惑な話です。

「授乳の良さ」が「母乳の良さ」にすり替えられている。

人間同士の愛着関係の育みの場をアレルギーの予防効果の有無にすり替えるなど、学者や政府による「人間の想像力や、絆という幸福感」に対する冒涜のように思えてならない。こういう手段を使って親子を引き離し、人間同士の生きる動機を希薄にし、果たして彼らの思惑通り経済は良くなるのか、甚だ疑問なのです。

子育てにおける授乳は、「母乳によるアレルギーの予防効果はなく」と学者が言ったから母乳で育てなくても大丈夫、という話ではまったくない。アレルギーの問題は、母子間で「授乳」という、男性には絶対にできない体験を1、2年するかしないかということとは別次元の問題です。

記事には、「『3歳までは常に家で母親の手で育てないと、その後の成長に悪い影響がある』という考えは、三歳児神話と呼ばれ」と書いてあるのですが、これは政府の経済優先施策に沿って「女性の就労率」を上げる(M字型カーブをなくす)ための誘導的な言い回しで、まず、常識的に考えて「常に家で母親の手で育てる」など人間には不可能なこと。いくら想像しても、ありえない。

さらに、「成長に悪い影響がある」と意図的に「悪い」を加えて書くから話が本題からずれていく。単に、「成長に影響がある」と書けばいいのです。それなら、だれも反論しない。

保育園で他人である保育士に、保育士一人対乳児三人の関係で育てられた子どもと、家で親や祖父母に育てられた子どもの体験には明らかに違いがあり、「成長に影響がある」。脳の発達時期でもある乳児にとって、これほど異なる体験はないはずです。福祉や学校教育の歴史の浅さを考えれば、同年齢の子どもたちを毎日繰り返し集団にすることさえ、人類がほとんど経験したことのない体験です。遺伝子との関係を考えれば、生態学的にも文化人類学的にも、なんらかの影響はある。

さらに、子どもの「成長に影響がある」だけでなく、親の人生(成長?)にも影響があるはず。それがどういう「影響」かは分かり難いし、その影響が「悪い」かどうかは測るものさしによって違ってくるのでしょう。(優しさで測るか、安定感で測るか、学力や競争力で測るか、犯罪率で測るか、いろいろです。)

題なのは、政府が、乳幼児を保育園に標準11時間預けても「影響がない」という印象を親たちに与えようとすること。確たるものさしも提示せずに、雇用労働施策の観点から、子どもの願いを無視して、もっと踏み込めば授乳という「風景」が人間社会に与える影響を無視して、「国がそれを言ってしまうこと」が問題なのです。

3歳未満児をもう30万人保育園で預かるという数値目標を国は立ててしまっている。(3歳以上児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていますから、国の言う「もう30万人」は3歳未満児です。)ですから、「影響がない」と言いたいのでしょうが、影響はもちろん、様々な形で、ある。これほど多くの無資格者を保育の現場に規制緩和で入れれば、その日の保育士の当たり外れによってその影響はさらに大きく、不透明に、深刻になってくる。

自分の子どもの脳の発達過程を他人に委ねるという賭けにも似た行為が、当たり前のことのように、国の経済施策によって親たちの間に広がっていこうとしている。

例えば、お祖父さんに育てられた子と、お婆さんに育てられた子では、当然そこに影響の違いがある。美しい景色の中で育った子どもとそうでない子では、感性が違う、絵を見ればわかる、と以前芸大の先生が言っていましたが、だからこそ、ゴッホやゴーギャンのように住む環境を芸術家は選ぼうとする。建築家やインテリアデザイナーなどという職業が成り立つ。「アルプスの少女ハイジ」やワイルダーの「大草原の小さな家」、リンドグレーンの「やかまし村」シリーズや「パディントン」を読んでも、人間関係も含め、環境と育ちの関係については分かりやすく繰り返し書かれています。いわば当たり前のこと。

極端な例を挙げれば、以前アメリカの連邦議会に提出された「タレント・フェアクロス法案」は、犯罪率を下げるために母子家庭への援助をやめ政府が孤児院を作ってそこで子どもを育てようというとんでもない法案でした。予算の膨大さもあり否決されましたが、法案を提出した議員だけでなく下院議長も賛成していた。背後にあったのは、学者たちの環境と育ちに関する調査でした。http://www.luci.jp/diary2/?p=1054

乳幼児期の環境と育ち、特にその時期に親子を引き離すことの弊害については、キブツ(イスラエルの共同体)を研究したイスラエルの学者や、旧ソ連の共同体を研究した学者からも国際会議において色々聞きました。幼児期の不十分な愛着関係と犯罪との関連性はNHKのクローズアップ現代でも取り上げられ、現場の人や専門家が繰り返し証言しています。http://www.luci.jp/diary2/?p=267

百歩譲って、国が「影響がない」と言い続けたいのであれば、保育士不足が決定的になる前に、保育の質を規制緩和で下げていくような施策を続けるべきではなかった。養成校の学生の質、保育のサービス産業化に伴う園長設置者の意識の変化、多様化を考えれば、保育界全体の質を、幼児の最善の利益を優先する方向へ回復することはもはや不可能で、何をやっても手遅れです。子育てを、親に返していくしかない。

(直接給付や子育て支援センターの拡張、土曜日保育の就労証明提出義務化など、保育士不足からくる「親へ返す動き」は自治体レベルではすでに始まっています。これは、日本だからできること、です。)

自ら子育てをしている人たちが損をしているのではないか、と思うような「保育の無償化」もそうですが、社会における絆や人間性を犠牲にしながら進んでいく政府の雇用労働施策が、最近あまりにも露骨です。エンゼルプランや子ども・子育て支援新制度といった、自分で自分の首を絞めるような「少子化対策」がいよいよ行き詰まっているからでしょう。マスコミがその報道姿勢の中で、もう少し本質を見極めた論議を展開してくれれば、と思います。

話を「新聞記事」に戻します。

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厚生白書では、「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言及されました。』と記事が言及するように、白書自体は、三歳児神話が間違っているとは言っていない。「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言っているだけ。

そして、「少なくとも合理的な根拠は認められない」ものは世の中にたくさんあって、ピノキオやスーパーマン、スターウォーズやドラえもん、「犬も歩けば棒に当たる」や聖地巡礼などもそうですが、そういうものの存在はそれなりに大切なのです。(当たり前のことです。)

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0、1、2歳児との不思議な関係、時に言葉を介さない会話は、私たち人間をバーチャルな祈りの世界に引き込む入り口でもあって、言ってみれば自分との会話、宇宙との会話のようなもの。このあたりの「会話」で、人類は自ら主体的にモラル・秩序を保とうとする。

子守唄という音楽の分野がなぜ成り立つか、逆に、子守唄という音楽の分野が先進国社会でなぜ存在感を失いつつあるのか、私たちは真剣に考えてみる必要があるのです。先進国社会の子育てに「祈り」がなくなってきている。学力や競争能力が子育ての目的になりすぎて、育てる側に生まれる「祈る心」や「優しさ」「忍耐力」の大切さが忘れられ始めている。幼児との会話が「人間性」を培ってきたことを忘れている。

我々が気をつけなければいけないのは、こういうことを白書で言及する政府が「鯉のぼりには、少なくとも合理的な根拠は認められない」とも、「初詣には、少なくとも合理的な根拠がない」とも言わないこと。もっと突飛な出来事から主張を展開する「法華経」や「聖書」の合理的な根拠についても言わないこと。

最近の「子育て支援」施策に関して言えば、「合理的な根拠」という都合のいい言葉を使って、御用学者や学問を盾に意図的に労働力を増やす方向へ社会を誘導しようとしている。

政府によるこうした扇動にも似た意識の操作は、過去にもたくさんありましたし、現在でも様々な国で行われています。いわばよくあること、それが人間社会の宿命ですが、今回の場合は、人間の進化の根底にある意識・常識を変えようとしている、だから見過ごせないのです。

日本という国が、文化的に「合理的な根拠は認められない」様々なことをよく理解し、神話がまだ成り立ち、実の親に育てられる確率が欧米に比べ奇跡的に高く、悪くなってきたとはいえ子どもたちにとって非常に安全な国だからこそ、この動きは見過ごせないのです。こんなことをしていては、この国の存在意義がなくなってしまう。

『母乳のアレルギー予防効果「なし」』と言う政府の意図は、乳幼児と母親が11時間離れることには何の問題もないという、すでに閣議決定された施策を正当化させるための常識の書き換えにあります。しかし、これをやったら、福祉どころか、保育界も学校教育も成り立たなくなってくる、その兆候はすでに保育士・教員不足に現れているのです。

ある時から、親に子育てを返そうとすると犯罪が増える、という欧米社会が30年前に越えてしまった一線の前で、日本はまだ踏みとどまっているのです。

一度超えると戻れないこの一線を、この国ももうすぐ越えようとしています。3歳未満児と母親が過ごす時間を減らすことによって、少子化による税収不足を補おうとする場当たり的な経済学者、一部の社会学者、そして政治家たちによって、社会全体が大切な常識を失おうとしているのです。

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虐待:高齢者施設最多 10年連続増加 人手不足が一因 https://mainichi.jp/articles/20180310/dde/041/040/017000c、という報道がありました。

「人手不足」この言葉が殺伐としてきた社会や学級崩壊の原因だということに気づいてほしい。人間の絆や、子育てによって育まれる信頼関係は「人手」によって補えるものではない。

衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として意見を述べました。

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衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として意見を述べました。

「親心を育む会」にも度々出席して、保育園のあり方、そこで親心を育てるにはどうしたらいいか意見交換してきた森田俊和衆議院議員の指名でした。感謝です。

無償化で助かる親たちがたくさんいます。しかし、俯瞰的に見て、保育の無償化が、すでにぎりぎりまで来ている保育士不足による保育崩壊の最後の一撃になるような気がしてなりません。そして、子育てを損得勘定で考えることを国が助長しているように思えます。それが「待機児童」という言葉とともに隅々まで広がってゆく。

過去15年くらい行われてきた少子化対策、エンゼルプランや子ども・子育て支援新制度もそうですが、子どもを「負担」と捉える風潮を国が作り出している。その究極のところに「無償」という言葉があります。

負担を軽減すれば子どもをたくさん産む、という考え方は経済学者やごく一部の社会学者たちの視点であって、この人たちは子育ての本質を見ていない。宗教学、倫理学、人類学的視点が著しく欠けている。この視点で行う少子化対策はこれまでことごとく失敗しているのです。

子育てを「負担」と位置付ける施策で、出生率が上がらないどころか、結婚しない男がますます増えている。子どもたちの成長を「喜び」、子育てを「人生の美しい負担」「生きがい」と感じる人間本来の姿を取り戻さなければ、義務教育の崩壊どころか、この国のモラル・秩序が崩壊していく。

今回の無償化は、子どもの最善の利益がまったく優先されていない、その点を必死に訴えました。それが保育士たちにはわかってしまう。もし、子どもを可愛がる、子どもの心に寄り添う保育士であれば、「11時間保育を『標準』と名付けた」時点で、政府の施策に反発する、背を向ける。

「無償化」という言葉自体が、児童福祉法、子どもの権利条約、保育所保育指針に書いてある「子どもの最善の利益を優先する」という人類存続の決まりに反しているのです。「弱者を優先する」そこに人間社会の「成り立ち」があったはずです。

 現場では、無償化をすることで預ける子ども、預ける時間が必ず増えると言われています。もしそうなった場合、すでに限界を超えている保育士不足に拍車がかかって対処しきれない。すでに、ほとんどの保育園が現場にいるべきではない保育士を抱えている状況が、幼児たちの目に晒されることによって保育士たちを苦しめている。多くの子どもたちが、強者が弱者をぞんざいに扱う風景を幼児期に見ている。その体験をする。それが「いじめ」や小一プロブレム、学級崩壊につながっている。保育の質の低下がますます進んでしまうどころか、これでは学校教育がもたない。

一度この無償化が実施されると後戻りできないのです。子育ての「無償化」という奇妙な言葉が、「幼児たちが、信じ切ることによって親たちを育てる」という人類本来の存続の形を根本から覆していく気がしてなりません。

(「幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。http://www.luci.jp/diary2/?p=2591」)

参考人に決まってからの数日間、幾人かの人たちに電話で無償化で起こりうる状況について確認してみました。30年間も家庭崩壊や保育の問題について毎年100回近く講演してきたので、忌憚なく話せる知り合いが全国にいます。

状況の異なる自治体の役場の福祉部長、保育課長(ほとんど公立の保育園で保育をしている市もあれば、私立の幼稚園と保育園主体の市もある)、保育士会の前会長、保育団体の青年部長、元保育課長で現在私立保育園の主任をしている人、私立幼稚園連合会の幹部などですが、一様に預ける人数の増加、預ける時間の長時間化が起こるであろうこと、それに関して今の体制では人員的にまったく対応できないという認識です。すでに無資格者が保育現場にこれだけ多く入っているにもかかわらず、(政治家が選挙公約にした)「無償化」に対応するため、さらなる規制緩和が行われれば、質の低下による人間関係の不信感が、どれほど混乱と無理を現場に強いるかが目に見えているのです。

私がいう「現場」は、子どもたちを含む現場です。子どもたちにとっての現場と言ってもいい。3歳までは、脳の発達に充分な話しかけをしてもらえるか、抱っこしてもらえるか、5歳までに、どれだけ可愛がってもらえるか、寄り添ってもらえるか、その「現場」です。経営の現場、条例の現場、仕組みや制度の運営の現場ではありません。

幼児との「現場」が人間を優しくし、社会に忍耐力を生んできたことは、ちょっと考えれば誰でもわかるはず。どれだけたくさんの人たちが、どれだけたくさんの時間をこの「幸せそうな絶対的弱者」と過ごすかで社会の質が決まってきた。経済なんていうものも、この社会の質の上に成り立ってきた。

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これだけ、現場で「無理だ」と言っていることをなぜ政治家は進めようとするのか。自分たちの選挙やキャリアよりも、日本の未来でもある、子どもたちの日々のことを優先的に考えるべきではないのですか。

親になるということは、損得勘定を捨てることに幸せを見つけること。仏教やキリスト教など、主要な宗教が薦めてきた「利他」の道を歩むこと。遺伝子という、すでに持っている幸せのものさしを体験し、自らのいい人間性に気づくこと。

参考人を終えた後、幾人かの議員たちが、右も左も、与党も野党も超えて「そうですよね」と言って寄ってきてくれたのが嬉しかった。旧知の顔も幾人かいました。子どもたちの願いを優先する、それで心は一つになるのです。

「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

「生産性革命と人づくり革命」

政府の「新しい経済政策パッケージ」にこんな文章があります。

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

  「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

この政策パッケージを書いた人たちには少子高齢化という「最大の壁?」の実態が見えていないのか、それとも見ようとしないのか。過去15年間やってきた「少子化対策」(エンゼルプランや預かり保育など)の結果ますます子どもは減ってきている。子育ての負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という損得勘定のような幸福論は、この国では成立しない。伝統的な(この国の個性、美学でもある)幸福論の書き換えをするしかない。

政府の施策やマスコミの宣伝によって、この美学の書き換えが進んでいる。いまこれを止めなければこの国も欧米のようになってしまう。

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ジェンダーフリーを目標に掲げる社会学者や、欧米を成功例と位置付ける経済学者から目の敵にされた「日本における女性の就業率のM字型カーブ」(妊娠出産が原因である時期女性の就業率が低くなる)が批判されていた頃、このM字型が、乳幼児の願いをかなえようとするこの国の利他の美学ではないのか、と誰も強く言わなかった。自分で育てられないのなら産まないという意識も含め、この国の伝統や文化を基盤にした子ども優先の常識と、自分の体験に基づかない欧米思考でキャリアを重ねた学者たちの「子育て観」と次元がずれていることを誰も指摘しなかった。

「欧米先進国ではこうで、日本は遅れている」という言葉に代表される発言が、果たして欧米先進国は真似るべき国なのか、という論議の先に立ってしまっていた。特に保育施策に関しては、いまだにマスコミでこの欧米コンプレックスからくる安易な改革、伝統を否定する姿勢が、考え方の主流になっているのです。

先日も保育の無償化を問題視しつつ、「フランスでは3歳から義務教育と同じ仕組みで、無償化されている。日本は遅れている。日本も幼児期から教育をしなければいけない」というような解説がテレビのニュース番組でされていました。その時、そこに座っている専門家や有識者は誰も、フランスでは50%の子どもが未婚の母から生まれ、家族という形が土台から崩れていること、強盗に襲われる確率が日本の10倍を超えていること、毎週のようにデモが暴徒化し略奪が行われていること、を言わない。ベルギーやデンマークなどでも起こっている最近のそうした市民の暴徒化の報道を見ていると、「植民地支配的な構造が崩れただけで調和どころかすぐに暴力につながっていく現状は、家庭崩壊と子育ての社会化がその根底にある、幸福論の書き換えの結果ではないのか」とさえ思うのです。彼らの進んだ「子育ての社会化」による「家庭崩壊の道」から、私たちが別の道を模索するために学ぶべきことはたくさんあるはずです。(国連の幸福度調査について:http://www.luci.jp/diary2/?p=1990)

マスコミは日本という国を批判することで視聴率を稼ぎ、その結果社会に不信感を煽っているように思えてなりません。保育、教育に関するかぎり、「フランスというモラル・秩序に欠ける国がやっているならやめておいた方がいいのではないか」という常識的な指摘が、「欧米では」という発言がある度にあってもいいはず。保育に関して論じることは、「子育て」について論じること、つまりその国のモラル・秩序に直結してくる論点なのです。

(デンマークの幸福度について:http://www.luci.jp/diary2/?p=976)

 

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「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

教育と保育はちがう、そして教育と子育てはもっとちがう、そうした根本的な発言がされないまま、保育士の待遇を良くすれば保育園でも「教育」ができる、といった現場の保育とは懸け離れた論法がまかり通っている。

新しい保育指針に「教育」という言葉がいくつか入りました。これは多分に義務教育が成り立つための「しつけ」をしろということであって、質の良くない保育士にこれを押し付けると、子どもがとても辛い思いをする。いい保育士がそれを見て辞めていってしまうような虐待まがいの風景が保育界に広まることになる。そういう追い詰められた状況を「新しい経済政策パッケージ」を作った人たちは知らない。もっと根本的な、幼児期の愛着障害が学級崩壊やいじめ、将来の犯罪につながっているのではないか、というような議論が中々されない。

(NHKのクローズアップ現代では、以前されていました。『~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』http://www.luci.jp/diary2/?p=2525 そして、犬に関してはすでに、母犬から子犬を早く引き離すと「噛み付き癖」「吠え癖」がつくから、子犬は一定期間(8週間)母犬から離さないように、という法律が国会で6年前に審議され、与野党一致で通っている。人間だって同じこと。哺乳類なら当たり前。子犬の8週間はもう小走りに走っています、人間なら2歳くらいかもしれません。)

理想の(?)子供数を持たない理由は、国による「教育費への支援」が足りないのではなく、「子育て」の幸福感を体験的にも、情報としても、しっかり知らされなくなってきていることが第一でしょう。

政府が「子育て」を、女性を輝かせない「負担」と位置付け喧伝すれば、家庭を持ちたいという男たちが減って当たり前です。彼らの意欲、存在する動機が希薄になってゆくからです。中学生くらいから、経済競争に駆り立てる教育よりも、幸せになる方法は勝つことよりも、弱者を育て慈しむことにあると教えることの方が理にかなっているし、大切です。その本道が「子育て」なのだ、そこに人生の一番の「価値」があるのだ、ということを説明すれば、ほとんどの中学生は理解してくれます。http://www.luci.jp/diary2/?p=726

「自分が親になって困ることより『いいな』と思う方が多くなる日が来ると思うと、とても楽しみになりました」

「幸せについて、きちんと語る人はめずらしいです。ぜひ、次の講演も頑張ってください」

「親になりたいと思いました。今日のお話しは、私の成長につながったと思います」

「私たちは親に育てられているだけではなく、私たちも親を育てているとゆう話を聞いて、なんていえばいいかわかりませんが、話にひきつけられました」

中学生のする保育士体験は感動的です。自分自身のいい人間性に幼児と向き合うことによってほとんどの中学生が気づき、幸せと重なった本能の仕組みに安心するのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=260

4歳の幼児と一時間4対2の関係で過ごすだけで、14歳の男子生徒たちは生き生きと子どもに還り、女子生徒たちは生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮に、キラキラ輝き始める。保育士にしたら最高の、幼児に好かれる人になってゆく。(遺伝子学の村上和雄教授が「命の暗号」の中で書いている「遺伝子がオンになってくる」というのはこういうことなのだろうと思います。)

中学生と幼児たちの出会いから始まる不思議な育てあいの光景を見ていると、少子化対策と同時に叫ばれる政府の「一億総活躍」「人づくり革命」という掛け声が、あまりにも薄っぺらで、この国の「子育て」をめぐる思考や議論を現実離れした色あせたものにしているのがわかります。

(内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、高齢化しているという。注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。次が16~19歳の30.6%。結婚して家族を持とうと思い始める時期に、引きこもりが始まっている。幼児という絶対的弱者の存在意義を理解していない、パワーゲームを土台にした経済力や地位で測る平等論が学校教育を支配し、男女共同参画社会の土台が「性的役割分担」だという文化人類学的に考えればごく当たり前のことが「高等教育」の中で肯定できなくなって、平行するように少子化は進んだのです。こうして進められた少子化は、やがてこの国の経済を破綻させるかもしれない。しかし、この国の子育てに基づく幸福論を自ら破綻させることさえしなければ、この国は大丈夫だと思う。

WHOが人生の最初の千日間の重要性を指摘するまでもなく、三歳までの乳幼児の扱い方、そして、その時に親がどう育つかに、変更や上書きのできない「国の未来」がかかっているのです。)

「社会で子育て」の実態と虚偽

「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://www.luci.jp/diary2/?p=2498

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11時間保育を標準としたこの政策パッケージが言う「保育の受け皿」は、「子育ての受け皿」で、子育てを「保育」が肩代わりすれば「親が安心する」と言っているのです。「社会で子育て」の実態と、不可能な現実、虚偽がそこにある。

「幼児を可愛がる」、一番簡単に幸せになれる人たちを、生きる指針として大切にする、育てる、という大自然の作った一つの「かたち」が土台にあれば、人間の作った福祉や教育という「仕組み」もそれほど崩れない。しかし、「幼児を可愛がる『かたち』」が日常生活から欠け始めると「自分のいい人間性を体験する」という生きる動機そのものが崩れていく。そして、社会全体で、モラル・秩序の崩壊が始まる。

AIや技術(特にコミュニケーション能力)の進歩とは異なる次元で、人間の作った子育てに関わる「仕組み」の崩壊がすでに始まっています。AIや技術の進歩は正直ですから、「平等」などという有りもしないまやかしをその係数には入れません。

すると、人間性を失った技術の「進歩」は、様々なかたちの「戦い」での決着を目指そうとする。

そうならないように、「幼児を可愛がる」という「かたち」を意図的に取り戻していかなければならないと思う。しかし、現実は真逆の方向に動いている。

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「保育の現場 潜む虐待 突き飛ばす、怒鳴る、差別する。」東京新聞 http://www.tokyo-np.co.jp/…/…/201811/CK2018111602000147.html

これが政府による保育の規制緩和とサービス産業化の結果なのです。保育士不足と質の低下が止まらない。園児たちが、強者が弱者をいじめる姿を日常的に見ている。強者が弱者を手荒く扱う風景を、毎日見ている。そこにこの国の未来があることに気づいてほしい。

幼児を扱う「作法」を、仕組みを動かす政治家や専門家たちは忘れてはいけない。

先日、福岡の300人規模の40年続いている認可保育園で、日常的に行われていた保育士たちによる園児虐待が報道されました。待機児童をなくせと安易に叫ぶ前に、保育園における現実、実態を、幼児のために把握してほしい。

28年前、まだ保育士が保母と呼ばれていた頃、すでに「保母の園児虐待―ママ たすけて!」という本が出版されています。私が、親の一日保育士体験(年に一日8時間、親が一人ずつ園で幼児たちと過ごす)を広めようとし始めたきっかけになったのが、15年前に「実習先の園で、保育士による虐待を見る」という保育者養成校に通う多くの学生たちからの「内部告発」でした。これは、すでに法律で取り締まることができる種類の問題ではない。あってはならないこの問題にブレーキを掛けられるとすれば、保護者と保育者が一緒に「子育て」しているという実感を取り戻し、信頼関係を築き直すしかない、と考えたのです。一日保育者体験はある程度の広がりを見せていますが、まだまだ先は遠い。最近増えてきた密室型の小規模保育施設まで広めるとしたら、条例で保育所の義務とするしかないでしょう。

告発できない3歳未満児は、最新の注意を払って絶対に守られなければならない。優先的にそれをしないと、義務教育の存続に関わる問題になってくる。

(参考)

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。 http://www.luci.jp/diary2/?p=2591

主任さんの涙 http://www.luci.jp/diary2/?p=1983

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5年前、2014年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で警察に逮捕される事件がありました。

 「千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)」

悪い保育士は昔から居た。内部告発も繰り返しあった。しかし当時の新聞報道を読むと、危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、警察の取り調べに対し、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。この証言によって、保育士個人の資質の問題が、この国が抱えるいま最も重要な社会問題、政治姿勢の問題に変容するのです。

失政から生じた保育士不足が直接的に保育園内の信頼関係や保育の質に影響を及ぼす状況が、全国の保育園で当時すでに起っていた。現在も起こり続けている。

明らかに保育現場にいるべきではない保育士を排除できない。その風景に耐えられず、心ある保育士が辞めてゆく。発言できない乳幼児たちの周りで起っているこうした出来事を放置することで、子育ての現場から人間としての「常識」が消えていく。福祉や教育にとって致命的な、この国の将来のあり方に関わる負の連鎖が始まっている。http://www.luci.jp/diary2/?p=465

しかし、もっと危機的なのは、この施設長の保育士不足が原因で「注意できなかった」という発言が全国紙の一面に載ったにもかかわらず、政府や政治家たち、その後の保育施策に関わった有識者たちが、保育の質の低下に直結する量的拡大と規制緩和を止めようとしなかったことです。

「保育園落ちた、日本死ね!」という親の発言が、もっとたくさん預からなければ駄目でしょう、という趣旨で国会で取り上げられたのがこの報道の3年後です。政治家たちはいったいどこを見て、何を考えているのか。新聞報道を通して聞こえてくる幼児たちの叫びを「この国の叫び」と捉えてなぜ耳を傾けないのか。国旗や国歌よりはるかに大切な、この国の本質が崩れようとしているのです。この国が欧米先進国に比べて奇跡的に犯罪率が低く、モラル・秩序が保たれてきたのは、幼児を大切にし、彼らの成長に喜びを見出してきたからです。http://www.luci.jp/diary2/?p=1047 http://www.luci.jp/diary2/?p=976

この千葉市の保育施設で起った事件が、学校教育という仕組みの中で起こっていたら、と想像してみてください。

教師が生徒の口に無理やり食事を詰め込み、頭を叩き、それが繰り返されていたとして警察に逮捕される。警察の取り調べに校長が「教員不足のおり、辞められると困るので強く注意できなかった」と答えたら大問題でしょう。校長はマスコミから非難され、国会で取り上げられ発言の責任をとって辞職するかもしれない。同時に、これは校長個人の資質の問題ではない。学校教育という「子育て」に関わる仕組みが成立していないということに皆が気づき、少なくとも、再発を防ぐ手立て、校長がそこまで追い詰められないような対策がとられるはず。

口に無理やり食事を詰め込まれ、大人に叩かれる相手が自ら主張できない2歳以下の子どもたちで、福祉という(「経済活動に必要な」と思われている)仕組みの中で起こった場合、その根本的な原因を追求し止めようという真剣な動きが起こらない。それどころか事件後、もっと012歳を預かれ、小規模保育や企業内保育は資格者半数でいい、11時間保育を「標準」と名付けるなど、保育士不足に拍車をかける方向へ動いていったのです。

園長、主任が保育士を叱れなくなっていっている。保育士に辞められ国の配置基準を割っても、子どもたちは毎朝登園していくる。連絡帳に書いてくる親たちの言葉は、ますます乱暴に、容赦ない感じになってきている。「子育て」の意味は、人間がお互いに育て合う、育ちあうということ、信頼を築くこと。その原理が、保育園で機能し難くなっている。

「保育(子育て)は成長産業」という閣議決定のもと、「いま、儲けるなら保育に関われ」というビジネスコンサルタントの無責任な言葉がインターネット上に溢れます。保育の意味さえ知らない、保育所保育指針さえ読んでいない素人の園長、設置者が参入してきています。数百万円の投資で小規模保育を始めた人たちが、一年も経たずに自転車操業に追い込まれるようなことが全国で起こっている。

少子化により定員割れを起こしている社会福祉法人や、園児確保のために子ども園化した幼稚園も含めて、経済学者のいう(質を高める?)競争原理によって生き残りに必死になっている。「私たちが預かっているから、土曜日も夫婦で遊びにいってらっしゃい」という本末転倒のサービス産業化さえ起こっている。親にとってのサービスであって、幼児にとっては質の低下でしかない。 http://www.luci.jp/diary2/?p=1292

数年間良くない保育をされた子どもたち、過密状態の中で噛みつかれるなどの異常な体験をした子どもたち、そして乳幼児期に特定の人間と愛着関係を築けなかった子どもたちが確実に義務教育に入っていくのです。教師たちの生きる力も弱っています。その影響が学級崩壊という形で現れれば、クラスの子どもたち全員の人生に連鎖していくのです。親の責任だけでは、もはや子どもの人生を守れなくなってきている。

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家庭内暴力、保育士による虐待、小一プロブレム、学童の質の低下、様々な子育てに関わる問題が双方向に誘発しあっている。すべてが連鎖していることを忘れてはいけない。このままでは、社会全体がもっと殺伐としてくる。幼児たちが本来の役割を果たせなくなる、家庭、家族という浄化作用、自然治癒力が失われるということはそういうことなのです。

もし、政治家や専門家たちの言う「保育園でもっと預かれば女性が輝く、経済が良くなる、少子化問題が解決の方向に向かう」という思惑が外れたら、もしこの国の経済力がこの先落ちていって、財源が枯渇していったらどうなるのか。

「女性が輝く」と首相が国会で言った意味、輝き方については確かに人それぞれで、正論はない。しかし、15年来の政府の「少子化対策=保育の量的拡大」の施策の元で、少子化がますます進んでいることは確かなのです。韓国の例を見るまでもなく、経済財政諮問会議の予測は完全に外れている。

そして、一生に一度も結婚しない男性が3割になろうとしている。

男たちが「生きる力」「幸せになる方向性」を見失ってきている。無責任になってきている。親になる幸福が伝承されていない。人類をつないでゆく「動機」がわからなくなっているのです。これで本当に経済が良くなるのか。

3歳児だったら親に、保育士に叩かれた、と報告ができます。だからほとんどの保育士が叩かない。012歳は親に訴えられない。だから、よけいに注意し、気を配り、「みんなで心を一つにして親身な絆を作って、彼らを大切にしなければいけない」、それが人間社会の原点。この原点さえ守っていれば、紆余曲折、困難があっても人類は「利他」(弱者のために生きる)という幸福感の伝承をつないでいくことができる。いつかより良い方法で社会を作っていくはず。

幼児は、人間を信じることによって存在し、輝く。その光に照らされて、人間たちが輝く。自分の「価値」を知る。

幼児を扱う「作法」を、仕組みを動かす政治家や専門家たちは忘れてはいけない。

児童虐待がニュースになる度に思います。

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児童虐待がニュースになる度に思います。

対応すべき児童相談所も、受け皿になるべき児童養護施設も保育所も、人員・人材的にも施設・予算的にもすでに限界を超えている。一昨年始まった「未就学児の施設入所を原則停止」に見えるように、一般の人が気づかないところで財政削減が幼児の福祉を脅かす方向に進んでいる。ほとんど議論されないまま「施設入所、原則停止」に変えられている。

子育て支援員、地方限定保育資格、小規模保育、企業主導型保育事業、次々に作られた新しい制度は、15年前の認可保育園の基準から考えれば常軌を逸した、量を増やすための安易で危ない規制緩和でしかない。これに追い打ちをかけるように保育の無償化が加わろうとしているのです。「待機児童対策」「雇用労働施策」「少子化対策」という面ばかりが強調され、幼児たちの「願い」どころか「安全」さえもが脅かされている。

そうした政府の「子育て」に関わる施策の乱暴な姿勢が家庭にまで影響し、それが浸透し広がっているように思える。

「週末、48時間子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」。

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないでしょうか」。

そういう声が頻繁に保育現場から聞かれるようになって久しいのです。エンゼルプランあたりから、すでに保育界は親たちの意識の変化に気づいていました。こうした週末に現れる兆候が将来の児童虐待を示唆していることに現場は気づいていました。

親の子育てに対する意識の変化を、ほぼすべての保育現場で聞くようになったのが新エンゼルプランが、民主党が提唱した「子ども・子育て新システム」に移ったころでしょうか。兆候があったにもかかわらず、三党合意の「子ども・子育て支援新制度」によって、「子育て」が以前にも増して保育現場に押し付けられるようになっていった。同時に、親たちが「子育て」を自分の責任と思う意識が薄れていった。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せば女性が輝くと言えば、「子育て」は損な役割りのような気がしてもおかしくはない。そして、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げ続けたのですから、乳幼児を11時間預けることに躊躇しない親たちが増えてもおかしくはない。

しかし、それを保育所もこども園も受け切れない。保育士がいない。いい保育士がいない。子育てを「代行」する保育所の質を、これほど急速に悪くしておいて、同時に家庭においても、子育てがイライラの原因になるような状況を国が作っている。

「過密(かみつ)が噛みつきを生んでいる」、「一歳児を10人以上一部屋に入れると噛みつくようになる」と心配していた保育者たちが、「一歳児は噛みつく頃なんだから」と平気で言うようになってきた。

乳幼児にとって噛みつく体験、噛みつかれる体験が将来どういう行動に発展するのか、はっきりはわかりませんが、通常起こり得ない体験であることは確かです。

(2017年の記事です。)

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞:https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

この記事にある「家庭に近い環境」という言葉は、政府の保育施策の失敗と財政のつじつま合わせをするための、厚労省や有識者の誤魔化しに過ぎない。

本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けない。8時間勤務の保育士に11時間保育を「標準」として押し付け、最後の2、3時間は無資格者でもいいとすることは、保育士に親身にならなくていい、と言っているようなもの。本来「家庭に近い環境」とは、親身さに囲まれている環境です。

新制度によって、無資格者や営利を目的とした業者が保育現場に入れるような規制緩和が行われ、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がそれに拍車をかけた。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような、「家庭に近い環境」からますます遠ざかる施策が、012歳をもう40万人預かれという政府の数値目標のもとで行われていった。そして、養護施設が予算的にも人材的にも破綻し始めると、今度は7年以内に75%を里親に委託せよ、などと言う。

政府の子育てに関わる施策は制度疲労を起こしているどころか、論理的に破綻している。経済優先の「無責任な施策」と「場当たり的言い訳と対処」の繰り返しが、家庭も含めた「子育ての現場」を急速に荒廃させている。それがすでに義務教育にまで達している。

当時講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみました。すでに市町村をまたいだ地区の児童相談所から説明を受けた課長もいます。まだ知らない人もいました。

数値目標を挙げて「里親を増やす」ことに関して、実の親の元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか、という原則論を言う声がありました。

施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と判断の難しい複雑な状況、そして何より「子どもたちの未来」があるのです。簡単には判断できない。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場なのです。そして、虐待があるからすぐに親子を引き離せるだけの仕組みには、予算的にも人材的にもなっていない。

(園長先生が、いま親を叱ったほうがいいのか、ここは見守ったほうがいいのか、悩むのが保育でした。最近では、親から「プライバシーの侵害だ!」と怒鳴られるのを恐れて、口を閉ざすようになっている。「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから、連絡帳に書いてくる親たちの暴言が急増しました。一緒に「子育て」しているという意識がなくなってきている。)

「里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とする」、こうした数値目標を掲げた欧米志向の施策を上からの指示で進めることによって、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が薄れ、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が崩れます、という危惧があがりました。

この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題なのです。

いま問題になっている虐待死の悲劇は、児相や教育委員会の連携によって、確かに防ぐことができたのではないかと思います。

しかし欧米で起こってしまった現実を見ていると、福祉や教育に家庭の代わりはできない、というのが私の結論です。

(荒れている社会の象徴として、「傷害事件」の発生率を比べると、ベルギーが日本の30倍、フランス、オランダ、オーストリアが15倍、アメリカが11倍、ドイツ、カナダが7倍です。その背後に、実の両親揃って育てられる確率が半数を切っている異常な家庭崩壊率が存在している。福祉国家と言われる国ほど家庭崩壊は進んでいる。欧米を目標にするなどあってはならないこと。比較すること自体が間違っている。)

未来の不確かな国家予算に頼る「福祉」より、親子という育ちあい、そこで育つ「人間性」に頼るほうが確実ではないのかと思うのです。この国は、先進国で唯一その方向に進む可能性を残した国だと思うのです。「子育てを通して育まれる人間たちの絆」を信じることがこの国の使命ではないかと思うのです。

仕組みをしっかり整備すると同時に、「子育て」を、人間社会の心を一つにする、人間たちが自分のいい人間性に感動する、素晴らしいものという意識を、常識として取り戻していかなければならないと思うのです。

 

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一ヶ月後の謝恩会

 若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。
 「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する」と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくるのだそうです。
 なるほど、という指摘です。(学校と保育園は、その趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。)
 ですから、卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている。相談相手がまだいない。
 そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付づき合う。お互いに相談し始める。親身になることの幸せに気づく。
 お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。
 一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。
 
 (人類に必要なのは「相談相手」。時にそれは、お地蔵さんだったり、盆栽だったり、海や山や川だったり……。0歳児が、その橋渡しをするのです。)
 
 (一ヶ月後の謝恩会が、DVや児童虐待に歯止めをかけるかもしれない。それが当たり前になるような環境づくりが、社会を温かくするのだと思います。)
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 義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。

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義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。子育てを社会(仕組み)に依存しようとする親を、政府が経済施策として意図的に増やしている限り小一プロブレムや学級崩壊は止められない。そのことに気づいてほしい。子育てと「教育」を混同すると、心をともなわない「仕組み」はその責任を負えなくなる。

福祉や教育で壊された「心」を福祉や教育では補うことはできない。それが私が30年住んで欧米社会に見た結論でした。虐待防止と言って政府がチェック機能を強化しても、一度子育てに対する意識が変わってしまうと焼け石に水。価値観の変化、などと言っているうちに進む人間性の欠如は、本来、法律で取り締まれる問題ではありません。(家庭崩壊が進んだアメリカで、人口の140人にひとりが刑務所にいて、そこに市場原理が働く。刑務所が成長産業になっています。)

日本の保育(子育て)も、こういうことが起こりやすい仕組みに政府の施策によって作り変えられつつあります。欧米より安定していたこの国の家庭を、福祉によって親子関係が育ちにくい仕組みにしている。そうしておいて虐待防止ダイヤルとか、乳児期における身体検査、法律の強化を進める政治家のやったふり施策が、この国の義務教育のみならず、未来のあり方を追い詰めているように思えてなりません。

「人が仕組みをつくるのであって、仕組みが人をつくるのではない。」

保育の無償化を「人づくり革命」と名付ける人たちは、人間性の根元に流れる「生きる動機」、「人づくりは、人が自分自身を発見し体験すること」だということを忘れている。労働力を得るために親子を引き離しても、保育や教育で「人づくり」が出来るという発想は、「新しい経済政策パッケージ」を書いた「子育てを教育と勘違いしている人たち」の思い上がりだと思う。

子育ては、育てる側が人間性を身につけ(人間性を引き出され)、育てるもの同士が心を一つにすることが第一義でした。そして、一人で子育てはできないからこそ、人脈や絆が生まれ、弱者を見つめる思いの絆が社会の土台となって、人間は助け合うことに幸福を感じ進化してきた。

保育にしても学童にしても、「子育て」を市場原理に任せて誰でも参入できる仕組みにする方向に国は動いています。保育に理解のない人たちの参入を国が促しています。

子どもたちが利益追求の対象にされている。子育てはもう国に任せられるものではない。みんなで、それに気づいてほしい。

不思議な次元を知ること

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以前書いた『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』http://www.luci.jp/diary2/?p=2541 に対してこんなメールが来ました。
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「長らくのご無沙汰をお許し下さい。その節は色々お世話になりましてありがとうございました。今回の記事を拝読し是非お耳に入れたい体験を思い出しメールさせて頂きます

 20数年前の新聞記事に『母のない子に母の日つらい』というのがありました。我園でもその頃当たり前に母の日、父の日にカードを作っていましたが、どうしようかと話し合った結果、子供達に脈の取り方を教えました。そして、今たとえお父さんお母さんと一緒に暮らせていなくてもあなたの生命の誕生の時にはお父さんお母さんがいて下さったのだからそのお父さんお母さんにプレゼントする為にカードを作ろうと職員で話しあいカード作りは続けることにしました。お父さんお母さんはいつもあなたと一緒なのだから。
去年のお泊り会の時のことです。
乳児組でのクラス毎の入浴、園舎屋上でのカルピスガーデン、園庭での夕食、花火大会、スイカ割り等々一通りの活動を終え、歯みがきをしていよいよ寝むためにホールへ集まってきた時のことです。
一人の女児がホールの入り口で、左手の手首の脈を一生懸命さがしているのです『どうしたの』と聞くと「寝る時ママがいなくて寂しいから、ママのとっくんとっくんを聴いているの 」と言うのです。思わず涙が出てきました。もうこの子は何があっても大丈夫。いつもお父さんお母さんと一緒なのだから。
複雑な世の中になればなるほど、子供達は、いつも、命の原点を教えてくれる存在です。
勝手な時の勝手なメールで申し訳ございません。いつも思うことですが、年寄りには一票があるのに、乳幼児には全くそれが与えられていない事、歯軋りする思いです。
これからもずっとご活躍を願っております。」

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(ここから私です。)
自分の手首の脈の中に母を探し、母を感じる。現実を超えている現実を知る。こうした不思議な次元を知ることが生きる力なのでしょう。幼児を育てる現場で、こういう人間の本来の姿、伝承の中に社会が生まれる瞬間が現れる。これが保育だと思いました。

相互作用

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子どもが一歳前後のとき、よく物を散らかして喜びます。

嬉しそうに、上にある物は落とし、片づけてある物を引っ張りだし、閉まっている物は開けようとします。

言葉もわからないし、言って聞かせられる時期ではありません。しかも嬉しそうにしているのです。この時期、親は子どもの嬉しそうな顔を見るのが好きなのです。それが第一。

叱ってはいけません。この時期の子どもを叱ると、安心感のある人間社会はできません。散らかしたら、親は片づける。ただ黙々と片づけます。理屈や理論で考えても仕方ない。宇宙の平和を願って、親は何度でも片づける。この時間は長くはつづきません。もうすぐ言葉がわかるようになります。違った段階の関係が始まるのです。

それまでは数カ月、繰り返し、ただ片づける。静かに、落ち着いて、これは私の責任だ、と独りでつぶやくといいのです。そして、ある日、これは散らかさないでね、とお願いすると、子どもはちゃんと親の願いを聞き入れてくれるのです。

そうした独り言とつぶやきに、夫婦がお互いに耳をそばだてます。そのために、子どもは散らかすのだと思います。

様ざまなことに、子ども中心に自然に反応する姿を眺めあうことで、家族や社会が一つになっていきます。

人間社会が一つになるためには、理屈を越えた、本来持っているいい人間性の確認が必要なのでしょう。「これは私の責任」と言いながら。

(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)より。)

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これを書いた時、子どもはまだ1歳半くらいで、近所の児童館の乳幼児室に二人でよく遊びに行きました。その時、黙々と、散らかった玩具を片付けるお母さんたちの笑顔を見ながら、ああ、そういうことだったのだ、と思って書いてみた文章です。