大酋長ジョセフと学校教育

ジョセフ酋長の言葉

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 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

“Why do you not want schools?” the commissioner asked. 

“They will teach us to have churches,” Joseph answered.
“Do you not want churches?”
“No, we do not want churches.”
“Why do you not want churches?”
“They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places],” Joseph said. “We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that.”
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 もともと西洋人が学校を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸に移住してきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見て、学校教育が必要だと考えたのです。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと思っていた。これは学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。こういう視点は嬉しくなります。

 なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。古(いにしえ)の法則で生きている人たちなのでしょう。神を広めようとする白人の行動に、自分が知っている神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる150年前の日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。神はそこら中に居た。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見たのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=205

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が一見原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。インディアンたちに対しては同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがあります。この不思議さは外国人だからこそ気づいた、日本の文化の特徴です。塀や壁や扉をなるべく作らず、作ったとしても昼間は開け放つ。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたのかもしれません。

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 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まります。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に別の次元の現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。

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 最近の学校教育へ視点を戻します。先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。

 矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係や現実味が薄いのです

 

 

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#2 理想の(?)子供数を持たない理由

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

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#2

今回の政府の「新しい経済政策パッケージ」の中に、

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

  「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

という文章があります。

少子高齢化という「最大の壁?」の実態が見えていない。真剣に見ようとしていないのではないかとさえ思います。過去15年間やってきた「少子化対策」(エンゼルプランや預かり保育など)の結果ますます子どもは減ってきている。それが現実です。なぜそれを認めないのかと不思議でなりません。負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という幸福論がこの国では成立しない。それは明らかです。モラルや秩序を保つためには大切な、素晴らしいことでしょう。

経済財政諮問会議の、人間社会の心の動きと仕組みを知らない損得勘定本位のビジョン・視点がいまだにこの「新しい経済政策パッケージ」にはある。家族は、お金でまとまってきたのではない。「子育て」で心を一つにしてきたのです。

(「子どもを全員保育園で預かって、母親が全員働けば、それによる税収の方が保育園にかかる費用より大きい」という馬鹿げた計算が経済企画庁の諮問会議から発表されて15年以上になります。http://www.luci.jp/diary2/?p=78 その時も、「だからどうなんだ」と誰も言わなかった。当時、ジェンダー学者や経済学者から目の敵にされた女性の就業率のM字型カーブが、実は乳幼児の願いをかなえようとするこの国の美学ではないのか、と誰も強く言えなかった。自分で育てられないのなら産まない、という意識も含め、この国特有の、子ども優先の常識や考え方が、欧米思考の経済学者たちの「子育て観」とずれていることを誰も指摘しなかった。)

子育てという「負担」は人間社会の基盤を育てる大切な負担で、そこで得られる幸福感の伝承が人類をここまで進化させてきた。先進国社会(豊かな国)に共通する少子化の原因は選択肢が増えることで起こる、人生を支えてくれる幸福論の喪失にある。アメリカと中国という最も真似したくない二つの国を除けば、GDPが世界一位という豊かな国日本で、3割の男が一生に一度も結婚しない。「子育て」という人類の進化に必須の幸福感が人生の目標となり難くなっているからです。

政府の言う、理想の(?)子供数を持たない理由は、「子育て」の幸福感を体験的にも、情報としても、しっかり知らされなくなってきているからでしょう。そんなやり方でネズミ講のねずみを増やそうとしても、日本の文化がそれに抵抗する。

政府が「子育て」を、女性を輝かせない「負担」と位置付け喧伝すれば、家庭を持ちたいという男たちが減って当たり前です。彼らの意欲、存在する動機が希薄になってゆくからです。

同時に叫ばれる「一億総活躍」という掛け声が、あまりにも薄っぺらで、この国の思考や議論を、現実を離れた色あせたものにしている。

(内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、高齢化しているという。注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。次が16~19歳の30.6%。結婚して家族を持とうと思い始める時期に、引きこもりが始まっている。パワーゲームにおける平等論が学校教育を支配し、男女共同参画社会の土台が「性的役割分担」だという文化人類学的に考えればごく当たり前のことが「高等教育」の中で言えなくなって、少子化は進んだのです。)

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「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#1

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この国の「新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。

政府が閣議決定した、

「新しい経済政策パッケージ:第2章 人づくり革命」1.幼児教育の無償化 2.待機児童の解消 3.高等教育の無償化 4.私立高等学校の授業料の実質無償化 。・・・。

をある園長先生に指摘され、読みました。

園長先生は電話の向こうで、「政府は、いつになっても幼児たちのことを考えない。保育界がこれほど混乱し、保育士がいなくてベテランの園長さえ右往左往しているのに、こんな馬鹿げた、保育に直接的に関わる施策がいまだに発表される。何がパッケージでしょうか。パッケージで子育てはできませんよね。いい加減にしてほしいし、保育団体の反応も甘過ぎです。現状をしっかり訴えなければいけない時に、いまだに利権獲得、利権誘導みたいなものが下心にあるから、厚労省の天下りに振り回されて、もう無理とわかっていながら気持ちが定まらない。マスコミも含め、誰も現場の保育士と、子どもたちの気持ちを誰も考えていない」と憤るのです。

経済政策パッケージが示す、「人づくり革命」は、経済競争に参加する「人づくり」を政府の都合で進めること。それによって社会の「絆」、その土台となる「家族の絆」「親子の育ちあい」を希薄にしてゆく、この国の将来の「あり方」に影響する施策です。民主党政権が「子ども・子育て新システム」を提案したあたりから、それがはっきりと見え、その片棒を担ぐのが結局自分たち保育者になるから、園長先生は「いい加減にしてほしい、なぜ、わからないのか」と言うのです。

幼児期の子育てに関わる国の施策は、仕組みがある程度確立している学校教育と違い、壊れやすかった保育の現場に直接的に影響を及ぼす。それが身に染みるだけに、園長先生の語気が強くなる。

ここ数年「子ども・子育て支援新制度」で保育界が窮地に追い込まれ、親たちの子育てに対する意識を根本から変えようとしている経済政策の大元に、もう40万人乳幼児を保育園で預かれば「女性が輝く」、という首相の国会演説がある。本当に「輝く」と信じているのか、「経済」を良くするための方便なのかはわからない。

しかし、11時間保育を「標準」と名付け、乳幼児期の子育てを家庭からより長時間奪い、安易に、仕組み(保育)で肩代わりしようとしたら、結果的に取り返しのつかない「保育崩壊」を招くことになる。全体としては、すでに仕組みが成り立っていない。保育士が満足に見つからない。全ての保育所に立入検査をしたら3割近くに違反が出ることを以前から知っているから、それをしない。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1635)

園長は続けます。「最後に名前の出ている、これを決めた学者たちや政治家たちは一体何を考えているのでしょうか。幼児教育の無償化、待機児童の解消などで本当にこの国の経済が良くなるのでしょうか。無責任な親が増えるばかりじゃないでしょうか。親に助言をするのが本当に難しくなった。「家庭」が自転車操業を始めている感じです。経済が良くなっても格差社会が進むだけ。子どもたちが幸せでなければ意味がない」。

国としての「経済」が良くなっても、家族・家庭という形が徐々に崩れ、個々の人生を今以上に孤立化させ、生きる意欲、動機を、この先社会に保てるのだろうか。こんなことをして、人々が愛せる「国」になってゆくと本気で思っているのだろうか。

保育崩壊は家庭崩壊に似ています。保育園は幼稚園よりはるかに「家庭」という形に近いものでした。親より長い時間子どもたちと関わる仕組みは、そうでなければいけなかった。毎年涙で卒園児を送り出すことで、その形はそういう方向に自然に出来上がっていった。

私立保育園では、たとえ先代園長・理事長、二代目園長、主任、の意見や考え方がバラバラでも、一時食い違っても、「家庭」がそうであるように、「園児たちのために」という共通した意識で葛藤や困難を乗り越えることができた。人類の存続に関わる「優先順位」が、仕組みにおける人間関係をまとめてきたのです。その微妙な安定感・連帯感が政府の「子どもの気持ちが視野に入っていない保育政策」でまとまらなくなってきて、主任が辞めたり、保育理念でもめたりして、二代目三代目がビジネスに走って、初代の気持ちや「智」が役立たなくなったり、そこで働く保育士たちが納得しなくなるケースが全国で起こっています。こんなに簡単に崩れるものだったのか、と驚くような窮状が、まさかあの園で、と思うような保育園で起こっている。その崩れ方が「家庭崩壊」と重なって見えるのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

謹賀新年2018

 新年、明けましておめでとうございます。2018年も、どうぞよろしくお願いします。

いろいろ考え、文章にしたり、発言したりしていきたいと思います。
演奏も、もう少しできたらと思います。
講演の最後に演奏する形も状況が許せば、試してみようかと考えています。会話の幅が広がる気がします。

 0歳児との不思議なコミュニケーションがすべての会話の最初にあって、それをほとんどの人間が体験することで、何千年もの間、人間は言葉の向こうにある神秘性を感じ、自らの精神の安定を保ち、生きるために必要な絆を育んできたのだと思います。

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(講演依頼はmatsuikazu6@gmail.comまでお願いします。)

 2017年は忘れられない年でした。

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 2017年は忘れられない年でした。
 全国で120回講演、新制度による混乱の影響で保育士さんたちに話す機会が多かったのですが、行政の人や市長さんにも一緒に話せる機会が幾度かありました。
 いま保育にできること(してはいけないこと)、保護者の意識の変化がどう保育者を悩ませ、それがどう学校に影響してくるか、など説明します。
 市長が理解してくれるとずいぶん施策に影響します。子育てはなるべく親がやるもの、その意識が薄れると福祉と教育では財源的にも人材的にも社会のモラルや秩序を支えきれなくなる。そう説明する横で、福祉部長と教育長が頷いてくれれば、ずいぶんいいのです。
 保育者体験も少しずつ広がり香川県でも始まりました。
 県単位で取り組むのは埼玉県、福井県、高知県に続き4県目です。いつか一気に広まってくれることに期待しつつ、精一杯説明します。
 幼稚園や学校での講演も増えた気がします。幼稚園で講演すると、0、1、2歳児とゆっくり時間を過ごし、乳幼児の不思議な役割を肌で感じ理解した親たちが多くいて、間違っていなかったんだ、と自分の決断に頷いてくれます。高等教育が普及したいま、幼児と過ごす時間を正真正銘の「学びの時間」と認識することが難しくなってきている。大学を出ると、そこで得た知識も使わずに「子育て」をしていることに「迷い」や「躊躇」を感じる人もいます。そういう人たちが、私の説明に、笑顔になってくれる。私の講演を聞いて、三日間くらい子どもが神様に見えました、という感想もあって、三日間でもそれが見えればいい。それは自分自身を「見た」ことでもある。その感覚は何度も蘇ってくるはずです、そこに人生の目的があります、と励まします。
 
 幼稚園が一つもない市もありました。そうかと思えば、8割の子どもが公立幼稚園を卒園する市もありました。公立幼稚園は経費がかかりますから全国的には絶滅危惧種と言ってもいいのに、その市での講演会には千人くらい公立幼稚園の保護者たちが来てくれて、一ヶ月後に熱い感想文を送ってきてくれました。公立幼稚園という形は、様々ある保育の形の中では親にあまりサービスをしないので、親子の絆がよく育つ。親同士の絆も助け合うことによってよく育つ。本来の人間社会の姿が見えて来る。
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 既存の園をほとんどこども園にしてしまった市がありました。小規模保育は作らないという市もあれば、増やそうとする市もありました。
 お金がかかっても保育の質は落とさないと頑張る市もあれば、財政削減の手段として公立園の民営化や保育士の非正規雇用化を積極的に進めている市もありました。
 それほど全国的に(子ども子育て支援)新制度に対する解釈が違います。それほど市長さんたちの「保育」に対する理解度に大きな差があるということでもあるのです。
 現場を知らない政府や御用学者の保育(経済)施策によって各地で混乱がますます進んでいます。
 市長さんや保育課長さん、時には議員たちの意識の差で、保育の質の地域格差がどんどん広がっていきます。「保育」の定義や目的さえバラバラになってきて、その結果、義務教育が混乱し、小一プロブレムや学級崩壊、いじめや不登校という子どもの人生を左右する現実に教師たちが追い込まれてゆく。
 
 いまさら保幼小連携などと言っても遅い。
 小一プロブレムに対応するために「壁」を低くし連携をスムーズにしようなどというのは、子育ての意味を知らない人が考える、その場限りの姑息な手段です。子どもの成長に「壁」は必要。転ぶからと言って道をなだらかにしては駄目なのです。
 
 親子関係が安定していれば、「壁」が子どもを育て、親を育てる。家族の絆は遊園地で育つのではない。「壁」や困難でより一層育つのです。
 「オロオロしない親は育たない親」と以前園長先生に言われたのを思い出します。
 そのオロオロを見て、子どもたちの中に何か大切なものが育ってゆく。そう信じればいいのです。
 伝統的に存在した「小一の壁」を仕組み上低くしたら、やがて高校や大学を卒業した時、もっと大きな壁にぶつかってひっくり返るかもしれない。その傾向はすでに現れています。その時の挫折は、人生において取り返しのつかないものになる可能性が高い。
 保幼小連携を、まるでサービス産業のように「親に楽させるために」進めるのはもうやめるべきです。
 手をつないで壁を乗り越えていける「親子関係」を就学前に育てること、就学に備えることは親の責任だということをどのように親に自覚させるかを考えるべきです。
 子育てにおける親へのサービスが、親であることの力を弱め、親子の信頼関係を崩していることにいい加減に気づいてほしいと思います。
 
 共通して、役場の人たちが言うのです。0歳児を預けるのを躊躇しない親が急に増えました、と。それを心配そうに言うのです。怖そうに言う人も居る。その親たちが5年後義務教育をさらに追い詰めるかもしれない。「子ども・子育て支援新制度」、馬鹿なことをしたものです。これに様々な「無償化」が加わったら、親の自覚も育たなければ、子どもたちの感謝の気持ちも育たない。
 そして、保育所保育指針の改定で、保育界に「教育」もやれと言う。しかし、いまそれを押し付けられても、それを受け入れるだけの仕組みにはもうなっていない。
 ここ数年の間に、保育士不足によって安定した保育の姿は壊されてしまった。子育て・保育の原則「子どもの最善の利益を優先する」という人間性の根幹さえ、政府の「経済優先」の雇用労働施策によって見えなくなってきている。募集しても倍率が出ない状況で、仕方なく雇われた質の悪い保育士が、「教育」(実はしつけ)を他人の子どもたちにやろうとしたら、虐待につながってゆく可能性だってある。小規模保育ではすでにそれに似た風景が現れている。
 未満児に話しかけない保育のことを耳にします。保育士にとって都合のいい保育が、親の気づかないところに現れている。「子どもが活き活きしたら、事故が起きる確率が高くなるでしょ」そんなことを平気で言う人が園長をしていたりする。
 そんなことを絶対に許さない仕組みを作ること、それが政府がしなければいけないことの第一。
 親子の将来、子どもの長い人生を考えたら、絶対にあってはならないことなのです。話しかけられなかった子ども、抱っこされなかった子どもも、ずっとこの社会の一員でありつづけるのです。「子どもを丁寧に、育てる。みんなで心を一つにして育てる」。それは難しいことではない。むしろ、みんなが安心することなのです。

教育と子育ての両立

教育と子育ての両立

教育という言葉と子育てが混同され、義務教育の普及によってそれがますます進んでいます。学校教育への「子育て」依存度が増してきていることの表れとも言えるでしょう。これが加速すると学校教育自体が維持できなくなる。アメリカという国が50年前に通った道です。(参考資料ブログを後述)

教育と子育ては、時に表裏一体ですが、本来その動機において著しく異なります。欲と無欲、暴力と非暴力、ほどにも異なる。

政府が進める待機児童対策の裏に、経済論を柱にした「社会で子育て」(仕組みで子育て)という考え方があります。乳幼児期から親子を保育園を使って引き放せば、女性が輝く、とまで首相が国会で言うのです。しかも、マスコミもほとんどそれに異論を唱えない。このまま、子育ては誰かがやってくれるものという意識が広がると、その結果、保育や学校、福祉という仕組みが一気に疲弊してくる。

学校という形でする「教育」は100年ほどの歴史しかない新しい人類未体験の実験で、欧米先進国では「家庭崩壊」というモラル・秩序の崩壊につながる現象を生んでしまった。一方、「子育て」は古代からの進化の過程に属するもの。人間性の原点が、双方向に、そこで培われる。その違いを思い出してほしい。

学校と家庭の両立、教育と子育ての両立、日本なら、まだ間に合うと思うのです。

 

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(以前、以下のような文章を書きました。現場を知らない文化人や学者によって政府の保育施策が進められることに苛立っていた頃です。すでに十数年が経ち、現場はますます追い込まれています。)

(拙著:「21世紀の子育て」から)

教育改革国民会議という政府の諮問機関の座長に、江崎玲於奈というノーベル賞をとった学者がいて、この人が先日テレビ朝日のニュースステーションに出演して言うのです。

「子どもの個性をのばさなければいけない。200人に一人は数学や物理に才能のある子どもがいるそうで、そういう子どもがのびるような教育をしなければならない。アメリカではちゃんとそれをやっている」

こんな人を座長にしているのですから、この政府が作った「国民会議」のいいかげんさは推して知るべし。(座長自体は人間的に、いい人だとは思います。それは直感的にわかります。)

 「アメリカではちゃんとそれをやっている」と言うなら、その前に、アメリカの教育が200人のうち40人の社会で通用するだけの読み書きのできない高校卒業生を生むこと、200人のうち3人の親がすでに学校を見離しホームスクールで子どもを家庭で教育していること、音楽や美術の授業はほとんどの学校で廃止されているということをどう考えるのかまず言ってほしい。高校の国語の先生の国語力が問われ、カリフォルニア州の司法長官が義務教育を指して「政府には子どもを強制的に危険な環境に送り込む権利はない」と言わしめ、大統領自ら率先して公立学校に制服を取り入れようと発言している現状をどう考えるのか。

生番組の短い時間内で、アメリカの現状を語るのはしょせん無理だとは思いますが、理数系の学校教育が今どうなっているか。

元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員が座長をつとめるアメリカ政府の教育諮問機関が、つい先日、数学と科学に関しては、先進国41カ国中アメリカの子どもたちの学力はほぼ最下位、しかも、学校で理数系を教える教師の20%が、理数系を教える教員資格を持っていない、理数系を教えることができる教員を増やすことが、アメリカにとっては死活問題、という報告をしていました。これが実態です。

なぜ実態を隠すようなことを日本の全国ネットのテレビで言うのでしょうか。その意図が私にはわからない。

ノーベル賞ももらったことだし、いまさら、自分の欧米体験を自慢して稼ぐ必要はないはず。日本は確かに研究者には不利な国ですから、それに苛立って少々欧米かぶれの発言をする学者が出現しても仕方がないとは思います。私が言いたいのは、なぜ、国民会議の座長にしなければいけないのか。なぜマスコミで「アメリカを見習ったほうがいい」という宣伝をしなければならないのか、ということなのです。

この学者は、音楽や美術の才能は「個性」と認めていないのでしょうか、数学とか物理とか、世の中で企業のお金儲けや競争に役に立つものだけが個性だと思っているのでしょう。とてもアメリカ的考え方かもしれません。

芸術は役に立たない、そうした片寄った考え方で、アメリカの公立学校から音楽と美術の授業が消えていったのです。

 私は音楽家でもあるので、こういう発言には腹が立ちます。

音楽という「祈り」と重なる不思議なものが、こういう時代だからこそ必要なはずです。

昨年アメリカでヒットし日本にも来たハリウッド映画「ミュージック オブ ザ ハート」を見ていただければ、アメリカの学校教育の中で、音楽がどれくらい軽んじられているか、その中で、音楽を愛する教師と子どもがどれだけ苦しみ、絶望感を感じ、また損をしているかがわかると思います。数年前に上映された「陽のあたる教室」という映画も、オレゴン州で公教育から音楽の授業が廃止された時の話でした。

こういう映画をアメリカ信仰の日本人が見ると、それは情熱を持った素晴らしいアメリカ人教師の話になってしまうのでしょう。たしかに素晴らしい教師の話かもしれませんが、その背景に、音楽の授業が消える、というだけではなく、アメリカの学校教育システムの崩壊、教師の堕落、子どもたちの心の荒廃、画一教育ができなくなってしまった現実、そうしたものがたくさん映し出されているではありませんか。

《今年のハリウッド映画のヒット作に「Pay it forward」(日本ではペイ・フォワード)というのがあります。是非見て下さい。アメリカ社会のすべてが理解できます。主人公の少年を取り囲む環境、人間関係、家族関係は、もはやこの国ではけっして特殊なものではない。》

 「学問」の対極にあるのが「芸術」なら、システマチックな幸福論と祈りの幸福論のせめぎ合いがそこにあるのかもしれない。しかしアインシュタインの写真をじっと見ていると、この人が「祈る人」であったことは間違いない。回り道をせずにシステムと祈りを直結できる人が必要です。

The high school dropout rate in the United States is 27% – in Japan the rate is 5% and in the former Soviet Union the rate was 2%.

-U.S. Department of Education

Illiteracy is not a problem for just a select group of people. According to the National Education Association, 41% of illiterates are white, 22% are English-speaking African Americans, 22% are Spanish speaking, and 15% are other non-English speaking peoples.

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アメリカにおける学校教育やそれに伴う家庭崩壊について。ブログにいくつか書きました。

「ホームスクール(学校教育システムの否定)・第三世界型学校教育・ベトナム難民の子どもたち」

http://www.luci.jp/diary2/?p=1064

「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」

:http://www.luci.jp/diary2/?p=1428

「より良い生活(Better Life)の幻想」

http://www.luci.jp/diary2/?p=1079

「プジェクト2000」国が用意するシステムと家庭の境界線

http://www.luci.jp/diary2/?p=1062

「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」

:http://www.luci.jp/diary2/?p=276

帰って来れる場所

子どもにとって母親の仕事は母親の時間を争うライバルでしかありえません。それがどんなに素晴らしい、その母親にしかできない、社会的に意味のある仕事であっても関係ありません。そこで母親が輝けば輝くほどますます腹を立てるのが普通です。

母親が働くことが一家の生活に不可欠であることを繰り返し説明し理解させる。そして、働きながらも母親の心の中で優先順位はまぎれもなく子どもであることを感じさせるしか、子どもとの良い関係を保つ方法はありません。「あなたが優先なの」と子どもに感じさせようと思ったら、本気でそう思うしかありません。本気で悩む、本気で後ろめたさを噛みしめる、逃げずに本気で思えば結構通じるものです。

 時間がかかるかもしれません。伝わるのが、子どもが親になった時になるかもしれません。親が死んでしまってからかもしれません。しかし、通じるのです。親子関係というのはやり方でも成果でもなく、ましてやタイムリミットがあるものでもありません。心のあり方とコミュニケーションだということを忘れてはいけません。

(親として悩んだ時、いい親でいたいと思った時、子どもの幸せを願う時、優しい顔をしていない人のアドバイスや意見には絶対に耳を傾けないこと。強者の意見は子育てには向きません。)

(子どもに幸せになってほしければ野心を抱かせないことです。どうしても夢を追求する子に育てたいのなら、夢破れた時に帰って来れる場所、家庭という異なった幸福のものさしを用意しておいてやることが大切です。帰って来れる場所を作れる子どもに育てることです。)

 

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「夢」が奨励されればされるほど、不安やイライラが社会全体に蓄積し、子育てをしている母親たちに少しずつ伝染していく。

子育ては、まさに「現実」。

「自己表現」も「自己主張」も通用しない、思うようにならない「生活」そのものです。それを宇宙は私たちに与えたのです。そこから真の幸福論をつかみとれ、と。

 

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「一度しかない人生、自分らしい生き方」

「人生輝いていなくてはいけない」

「一人の女にかえれ」

こんな言葉が頭に浮かんでくると自分の人生が色褪せたものに見えてくる。

そして自分の「夢」(本当は「欲」の場合が多いのですが)をさまたげているのが子どものように思えてくる。

「欲」は持たないほうがいい、と言えばうなずく人が多いのに、「夢」は持たないようがいい、と言われれば納得できない。それで良いのですが、最近、「夢」のほとんどが社会的成功、経済的成功や有名になることになってきていることに気づきませんか?

「夢」は、もっと幸福論に近いものでなければいけないはず。

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「夢」と「欲」

「夢」と「欲」の区別はつきにくい。それはたぶん表裏一体のものでしょう。夢を持てば不安になって当然です。「夢を持って生きる」という言葉の響きは美しいけれど、「不安を手に入れよう」と言っていることと大差ない。その不安を克服しつつ、夢に向かって進み続ける強い人間もいるでしょう。しかし、よほどの強さか運を持ち合わせていないかぎり、現実はそんなに甘いものではない。

(アメリカでは5%の人が90%以上の富を握っている。競争社会で成功する、「勝つ」ことを目標にしてもその「夢」は、ほとんどかなわない。それが現実です。失敗する人が多いから、一部の人が儲かる。経済論というのはネズミ講のネズミをいかに増やすか、みたいなものなのです。)

学校教育は子どもたちに与える目標として、何かを達成する、成し遂げる幸福感ではなく、それに取り組む過程における「人間関係」に幸福感を見い出すように子どもたちを導かなければなりません。目標はあくまで目標であって懸命に努力さえすれば、たとえそこに到達しなくても、場合によっては共に失敗したからこそ、より一層親密な人間関係がまわりに生まれるのだということを体験させるべきなのです。(子育ての幸福感と重なります。)

学校を使って、親密な人間関係に幸福感の土台があるのだということを子どもたちに教えることが出来たらと思います。

夢破れた時に、帰るところがあればいいだけのことなのです。

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 夢を追いつつ人間関係を作ってゆけばいいのです。夢を追い競争する中で、逆に、競争に勝つことではない、人間どうしの助け合い、優しさに目覚めていけばいいのです。

 でも、それと同時に、わらしべ長者や三年寝太郎のような人たちの存在感、その意味、みたいなものを教えていく。それは、幼児と接するということでできます。誰が一番幸せそうか、と考えたときに、3、4歳児が一番幸せそう、幸せに簡単になれる人たち、ということを学校教育の中で、保育体験などをさせて、体験的に学ばせてゆくといい。

未就学児の施設入所を原則停止(返信)

(未就学児の施設入所を原則停止について書いた文章にコメントをいただき、それに対する返信です。)

ありがとうございます。乳児院の子どもたちに興味を持たれていること、嬉しいですね。以前、ブログに「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」
http://www.luci.jp/diary2/?p=1676 を書きました。とても難しい問題で、社会全体の流れの中で起こっていること、と捉えないと、個々の状況があまりにも違いすぎて解決策などありえないのですが、いきなり原則停止みたいなことが行われてしまう現状に、当事者たちは何も言えない。それを実行しなければいけない行政の人たちも何も言えない。

だからこそ福祉という仕組みに関しては安易な改革は危険だと思います。幼保一体化、無償化、保育の規制緩和、安易な待機児童施策、最近あまりにも早い速度で、学者と政治家(主にそう思われる)による無責任な改革が進んでいて、保育・教育の現場が混乱し疲弊しています。0歳児がしゃべれないからこそ、大人たちの想像力が大切です。保育・教育は「感謝」でなりたっていたことを思い出さないと、いい保育士、いい教師が去ってゆく。そこに気づいてほしいと思います。

教育という視点 (保育園の背負う重荷が増えています。)

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(都市部の役場の人から。)

なぜ、ここまで保護者は怒り憤るのでしょう…

世の中が、世知辛くなってしまったからでしょうか…

そのイライラを、こどもを叩いたり、私にぶつけてくるのであれば、時間を惜しまず全身全霊で受け止めた甲斐があるというものなんですが。

それだけ、孤育になっているということなのかもしれません…

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i mages

 

講演する保育士会から前もって質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

学者や政府は小一プロブレム、学級崩壊の問題をいよいよ保育園・幼稚園に押し付けようとしている。

大学を卒業、就職した若者たちが会社に入って三年もたない、続かない、そんな話をよく聞きます。確かに中学生くらいで、特に男の子が幼い、私もそれを感じます。そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。それが少子化の大きな原因でしょう。

男たちに、意欲、忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、生きる力が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにある。

大学教育が問題だ、いや、それ以前の高校教育の問題だ、中学校が問題だ、小学校の問題だ、と順番に言われ、仕組みがお互いに責任転嫁をして、いよいよ「保育の問題だ」となったのです。

「保育」をさっさと飛び越して「親の問題だ」とはっきり言えばいいのに、学者やマスコミはその現実を指摘するのをいまだに避けている。自分たちが干渉・操作できる教育という「仕組み」の問題を越えてしまうようで踏み込めないのかもしれない。しかも、総理大臣が3歳未満児をもう40万人親から引き離せ、と言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を異常に早期に引き離す施策を公約などに掲げているのですから、いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」とは言いにくい。

NHKのクローズアップ現代は、実は言っていた。(「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)」http://www.luci.jp/diary2/?p=267)国連の子どもの権利条約や、ユネスコの子ども白書などでも、この親子関係の問題、特定の人との愛着関係の重要性についてはずっと言っていた。解釈はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」ということわざは、様々な国、様々な宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われてきた。学校教育、学問などというごく最近のものが現れるずっと前から言われていた。

「教育」という言葉を保育所保育指針に入れれば、それで何とかなるのではないか、と思っていることがおかしい。本気かどうか知りませんが、姑息です。問題の本質がわかっていない。学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという学者の無知と傲慢さが腹立たしい。

それなら、非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろよ、と言いたいくらいですが、それで本当に学校教育が成り立つようになるとも思えない。でも心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、これ以上もう要求するな、とは言いたい。

教育が成り立たなくなってきたのは、「教育」の問題ではありません。就学前に親が育たなくなってきたからです。義務教育が存在する以前の「子育てが親を育てる」という本来の法則が、ここ百年くらいの間に、「システムとしての教育」「システムとしての福祉」の出現により成り立たなくなってきているところに問題はあるのです。

教師の質の低下も確かにある。しかし、本当に教師たちが言いたいのは、子育てを当たり前のように保育や学校に依存しようとする親が増え、家庭や家族の中で感じるべき安心感、安定感を欠いた子どもたちによってクラスがまとまらなくなってきた、ということでしょう。一人の担任に30人の子どもの子育てはできない。学校教育は、親たちがそこそこ子どもをしつけ、学校の先生にそこそこ感謝して成り立つもの。

「子育て」は育てる側を育て、育てる側の心を一つにする、それが人類としての基本です。

今回の保育指針の改定は、結局、「教育」という言葉で誤魔化し保育園に「しつけ」をさせようとしているのです。

しかし、それは家庭の協力なしにはできないし、保育をサービス、成長産業と政府が定義付けたら、そのことをはっきり親たちに言うこともできなくなっている。この矛盾が保育界を追い詰める。

(規制緩和され、無資格者の存在が当たり前になってきている)小規模保育や障害児デイサービスなどで、親に、「家庭でも、もっと規則ただしい生活をさせてください」と言おうものなら、親が息巻いて役場に駆け込む、プライバシーの侵害だ、と訴えるような状況がすでに始まっている。

政府の無理な(無知な)労働施策と規制緩和で、ただでさえ質が下がってきている保育士たちに、他人の4、5歳児を30人しつけろと要求したら、虐待まがいの風景が現れる。(以前にも書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=1400)

たとえそこで子どもたちが一時的に座っているようになっても、保育士にしつけられ、笑顔が消えた子どもたち、特に親との愛着関係ができていない子どもは、小学校4年生5年生くらいでキレるという。http://www.luci.jp/diary2/?p=233

しつけた人がもうそこにいないのだから仕方ない。親も育っていない。(しつけというのは、しつける側がどう育つか、というのがその行動の本質。)土台や継続性のないしつけは数年しかもたない。小一プロブレムが、小四プロブレムになってゆくだけのこと。子どもの「しつけ」は、本来「みんなで可愛がる」という子育ての土台があってされるものです。

みんなで可愛がる、という土壌があれば、しつけさえ必要なくなってくる。欧米人が日本の伝統を見てそのことを書き残しています。http://www.luci.jp/diary2/?p=205

こうした欧米人が書いた日本の子育てについての記述を読んで思い出すことがあります。以前、ある学者が私に「可愛がると、甘やかすは違いますよね」と言ったのです。「そんなもの、同じでしょう」と私は答えました。厳密に言えば、言葉が違うのですから違うのでしょう。でも、そんなことを考えながら「子育て」はできない。

保育士の3割を派遣に頼る園が現れ、ますます保育室が荒れてきている現状で、「教育」(しつけ)という言葉を保育に持ち込める状況ではすでにない。いや、持ち込んではいけない。もっと先に整えなければいけない問題がある。

 

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