子育て、というコミュニケーション

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アメリカやヨーロッパで起こっているコロナウィルスの広がりを見ていると、天災は常に人災と重なっていて、今、こういう時代に集団としての人類、人間社会のあり方が問われているのを感じます。進歩したはずの先進国社会で、「利他」の気持ちが薄れ、絆が揺らぎ、分断が進んでいる。仕組みによって人類の感性の退化が始まっているのではないか。人々が孤立し、結びつきが心の次元ではなく、より一層自分中心の損得勘定になっている。全米のニュースで報道された、自由と自立を叫び、笑いながら焚き火にマスクを投げ込む若者たちの姿を見ていると、困惑とともに情けなさが湧いてくるのです。その怒りが何に向いているのか、彼ら自身も知らないのかもしれない。

 

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日本は多分そこまではいかないだろうと思いつつ、そしてそのことに感謝しつつ、与えられた試練に対する根本的な解決や解答にならずとも、ワクチン(薬物)が状況をとりあえず沈静化させてくれるのを祈るばかりです。

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昔、といってもつい30年くらい前のことです。保育士たちがまだ親と一緒に「子育て」をしている感覚があって、園長先生たちが祖母の心に近い視点で園児たちを眺め、保育という新しい仕組みに不信感を抱き始めていた頃、私にいろんなことを教えてくれた保育園の園長先生が言いました。

職員室の窓から園庭を眺め、0、1、2歳の保育に関して話していた時です。

「ここに預けておけば大丈夫、と親たちが思うことが怖い。ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」

これほどわかりやすい発言はありませんでした。この強さと優しさが保育の真髄、とその時心に刻みました。政府や学者は理解しなかった、もしくは耳を塞いだのでしょう。その後、厚労省の課長さんたちにも伝えましたが、乳児保育や長時間保育を雇用労働施策と位置付け推進するやり方に変化は起きませんでした。

園長先生は保育士たちに言っていました。

「できる限りいい保育はする。それぞれにする。それは当たり前のこと。でも、できることなら親に隠れてしなければいけないのよ」。保育士が幸せを感じる瞬間があったら、それは親たちのものだったんだ、と後ろめたさを感じなさい。それが保育士ですよ、と。

子どもが初めて歩けたら、親に言ってはいけないの。もうすぐ歩けるようになりますね、と言うんだよ、と。親たちに人生の宝物を出来る限り返していかなければいけない。どんなにいい保育をしても、乳幼児期に奪われた時間は補うことはできない、と知っている人でした。

幼児たちの安心を優先する先輩の言葉と信念を理解しようと、多くの保育士が一生をかける仕事として保育の本質を探ろうとしていた時代でした。

知っている人は気付いたと思いますが、園長先生は公立保育所の所長さんでした。

同じ「保育」という名で括られても、公立と私立では仕組みや考え方がずいぶん違います。保育という人類未体験の概念の捉え方、あり方の模索、保育士の育ち方が、それぞれに違っていたのです。公立の先生は基本的に地方公務員。異動したり、定年があります。園長先生の定年は60歳。本当にもったいないことですが、そろそろ地域の顔役になり始めた頃に退職になる。

公務員という立場上、市長や国の方針には従わなければなりませんが、解雇される心配をせずに現場から主張したり、市長たちにその気があれば、彼らに保育とは何か、国の施策の何が間違っているか、教えることもできました。ほぼ全てが公立保育園という市では、園長先生が役場の保育課と人事交流していることが、その地域の学校教育も含めた「子育て」を支える、とても重要な要素でした。

正規雇用、非正規雇用の割合、幼稚園という選択肢があるかどうかなど、地域によって異なる状況が、保育という仕組みが育つ過程に大きく影響を及ぼしていました。私は、それぞれに多様な保育文化が育っていくのをこの目で見てきました。ですから、講演に呼ばれると、駅に迎えにきた役場の人に、まず、幼稚園と保育園の割合、公立と私立の割合、正規と非正規の割合などを尋ねるのです。

7割の子どもが幼稚園を卒園する県もありました。幼稚園が一つもない自治体もたくさんあるのですよ、と言うとびっくりされました。

私立の社会福祉法人などでは、園長や理事長がその土地に根付いた人かどうか、そして行政や政治家との繋がり方なども、微妙にその町の保育に影響を及ぼしてきました。

公立がいい、私立がいいとかではないのです。それぞれに様々な事情があって、違う。

わかりやすい例として、無償化で消えていく公立の幼稚園と、私立の幼稚園の仕組み的な違いについて書いたことがあります。(「親心のエコシステムが無償化で廃園に」http://www.luci.jp/diary2/?p=2916)

保育園の場合、それがいま、小規模保育や企業主導型、社福型、フランチャイズ型、家庭的保育事業、こども園と、「子どもの最善の利益を優先する」という理念ではまとめきれない混沌とした状況になっているのです。

冒頭の発言は、いまのように営利目的の会社の参入が政府によって奨励され、園長が雇われた人だったら絶対に言えないことなのです。しかし当時は、私立保育園の園長でも、この程度のことを言う人は結構いた。保育が、労働施策よりもずっと「子育て」の側にあって、親たちがそのことに感謝していた。

そこで培われ、行われていたなるべく子どもを優先にしようという「保育」の伝承が一般財源化で揺らぎ、長時間保育で崩れていくのを見ました。シフト制が当たり前になり、一日一回、保育士たちが揃ってお茶を飲んだり、子どもについて話したり、親や家庭について意見交換する時間があちこちの園で消えていきました。

それがいかに保育にとって致命的だったか、知っている人さえ少なくなっています。

養成校の保育科では、このあたりの保育に対する視点の変遷や現場の様々な葛藤について教えているのでしょうか。資格者たちは本当の園長や主任を見分ける力を身につけているのでしょうか。今や、子ども優先の保育理念を学生に教えると、サービス産業化した現場の園長や経営者とぶつかるという奇妙な時代になっているのです。

(個人情報保護法を盾に、非正規の保育士には家庭に関する情報を教えてはいけない、という「子育てで育つべき絆」を度外視した杓子定規なお達しが厚労省から来たことがありましたが、財源不足で非正規雇用が増え、そんなことは言っていられない状況にあっという間になってしまいました……。
内閣府が作った新制度の家庭的保育事業に「1:3」という数字を見た時には皆唖然としました。保育に、「1」はあり得ない。トイレにもいけない、病気になったらどうするのか、という保育界の常識を内閣府や政府が意見を聞いた専門家は知らなかったのでしょうか。)

子どもの最善の利益を優先する。この言葉は、子どもの権利条約を日本が批准している限り保育指針から消されることはないでしょう。

ただし、それ以外に指針に書いてあることや政府の保育施策=雇用労働施策の多くの部分が、この保育指針の柱ともいえる「精神」「哲学」と相入れないことを、子ども優先で考える園長たちは知っている。親のニーズに応えることと、子どもの最善の利益を考えることが相反する時代になっている。どちらが優先か、と問われれば、保育においては子どもなのだ、という、その思いをできる限り伝えておきたいと思います。子育ての本質はここに預けておけば「大丈夫だ」とか、「この方がいいんだ」という次元のことではなく、ずっと続いてきて、また永遠に続くもの、人間性(遺伝子情報)の確認なのだ、ということ。

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たとえば0歳児の担当制を1対3にするのか、3対9にするか、乳幼児期に保育士との愛着関係がどこまで育つのがいいのか、これは永遠に答えが見つからない問いでした。

担当は半年、一年で交代する。愛着関係ができるほどに、乳幼児期の担当替えが子どもにとって辛いものになる。私が講演にいった先の保育園で目の前で起こったことですが、家庭で熱を出した子どもが、うなされて担当の保育士の名を呼び親から電話がかかってくる時代なのです。いい保育士に当たったからそうなる、それを喜びつつ、でも、あってはいけないこと、と園長は心を痛めるのです。

生まれついた性格、親との関係によっても違ってきますが、三歳未満児の脳の発達を考えた時、心の傷、トラウマにならないためにはどういう関係がいいのか、園長・主任なら誰もが心配し続ける宿命的な課題。この永遠に続く悩みは、こんな仕組みでいいのかという疑問につながり、この課題が存在し続けている以上、保育という仕組みは常に諸刃の剣なのです。

「生まれついた性格、親との関係によっても違ってくる」と言えば、保育士だってそうです。0歳児は1対4という国基準がありますが、1対1で本領を発揮するタイプの保母型保育士もいれば、1対4で資質が生きてくる保育士型保育士もいます。前者は0歳児の要求を満たすことが得意で、後者は国の施策に資質が適しているとも言えるでしょう。資質の価値基準の次元が違うのです。保育園という仕組みには両方が必要なのでしょうが、前者の保母型保育士の激減が保育の質を下げ、今の保育界の保育士が長続きしないゆえの混沌を生み出しているのです。規制緩和によって、常勤がいなくてもパートの組み合わせでいい、となれば、子育て、という意識は薄れていく。こういう政府の施策に憤慨した一人の園長先生が、これではもう保育ではなく飼育です、と私に言いました。

乳幼児保育が諸刃の剣だということを大学の保育科では教えているのでしょうか。0、1、2歳を保育することに少しも疑問を持たない学生を創り出しているのだとしたら、保育にとって一番大切な指針と想像力が、「教育」によって意図的に失われていくことになる。

最近の脳科学でも、三歳までにほぼ終わると言われる脳の発達、シナプスとかニューロンネットワークの構築が、その子の一生を様々に左右すると言われ、それが定説として受け容れられています。(http://www.luci.jp/diary2/?p=239)

この時期に脳を環境に合わせて発達させ、一生続く信頼関係をつくり、それを生きる力、安心の土台の指針として身につけることが人類の進化の根本にあったのです。乳児が絶対に一人では生きられないことが、脳の発達に必要な環境であり、育てる側とともに双方向へ調節し合い「人間らしい」思考の基礎を作っていく。それが「社会」という形(定義)を生み出す道筋だったのです

このやり直しの効かない大切な時期に、半年、一年で交代していく(最近では、日に何度も交代する)愛着関係を子どもに体験させる不自然さに、私が知る園長たちの多くが気づいていました。

 

(保育者の思いと仕組みの間に生じるこうした葛藤は、三十五年間、全国津々浦々、毎年50から100講演し、たくさんの園長たちに会い、私が実感したことです。ある大会で、3歳未満児の受け入れ枠の拡大、延長保育・休日保育を進めるエンゼルプランの計画が専門家から発表された時、そんなことをしては親が育たない、絶対にやってはいけないこと、と呟いた私の発言に、会場にいた園長主任たちから突然割れんばかりの真剣な拍手が来たことを今でもハッキリ覚えています。これでは子育て支援ではなく、子育て代行になる、と皆すでに気づいていたのです。この大会はパネリストに文化人類学者の原ひろ子さんが同席していたのでよく覚えているのです。会の後、もう少し話しましょう、と言われて二人で喫茶店に行き、ジェンダーフリーの危うさと社会における乳幼児の役割についてかなり突っ込んだ話をしたのを覚えています。文化人類学者は園長先生たちの拍手から、フィールドで何が起こっているかを読み取ったのだと思います。話しているうちに、ふと気づいて、あれ、私が本の中で批判しているのは原先生でした、と言ってそのページを見せると、それを読みながら、これは私ですね、と言って大笑いになったのを覚えています。文化人類学者だなあ、と嬉しくなりました。フィールドワークは絶対です。そして、文化人類学におけるフィールドワークはアンケート調査やQ&Aではなくひたすら「観察」です。

もう一つ、保育協議会か保育士会の県大会に二千人近くの保育士たちが集まってきた時のこと。私の講演の前に県知事の挨拶と市長の挨拶があって、まず県知事が「女性の社会進出に伴い、保育の受け皿を増やし、待機児童をなくすために皆さんに頑張ってもらいたい」という趣旨の、当時の厚労省のお達し文をほぼなぞった挨拶をしました。次の市長の挨拶が代読だったのです。そのために文言がほぼ同じになってしまった。しかも、この人たちは、その日なぜ私がその人たちに呼ばれていたかまったく気づいていなかった。何かが沸点に達し、私が発する言葉を待っているのを感じました。壇上に立って、ああいう人たちには絶対投票しないでください、と言った時に起こった地響きのような拍手を覚えています。あの音が地球のどこから聴こえてきたのか……。私は今でも再確認しています。あの音を基準に発言し続けます。

施策を作る人たちは、その頃誰もあの人たちを観察しようとも、理解しようとも、現場の葛藤について真剣に考えようともしなかった。あの響きには、子育ての現場と乖離した人たちが「経済優先」で進める施策に、そこに居た人たちがどれほど憤慨していたかが露われていました。現場(フィールド)の思いをそこまで無視することの繰り返しで現在の保育施策は進んできたのです。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=279;育休退園・所沢市の決断/石舞台/「子どもの楽園」に驚く欧米人/「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋)

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保育士との愛着関係をどうするか、という話に戻ります。1日4、5時間であれば、つまり子育ての主体が家庭であれば、それほど悩むことではないのかもしれません。中川李枝子さんがご自身の体験をもとに書いた児童文学「いやいやえん」に出てくるチューリップ保育園のように……。そして、その中で子グマが園長先生に書いた手紙のように、一人で色々できるようになりました、保育園に入れてください、という親たちの子どもの将来を慮る気持ちが常識として世の中にあれば、子どもたちの愛着の主体が微妙に変わっていくこともまた「成長」という過程に組み込むことが可能だったのかもしれない。

しかし、8時間保育が11時間開所になり、それが経済界の都合で13時間開所になっていった。乳児保育を、政府が主任加算を盾に保育界に強要し、睡眠時間を除けば、子どもたちが家庭で親と過ごす時間よりも保育園にいる時間の方が多くなっていった。当然のように「手のかかる子」が増えていった。「手のかかる子」は、すなわち「手をかけてもらえなかった子」だと多くの保育士たちが気づいていた。

明らかに、政府は保育界に「子育て支援」ではなく「子育て代行」を求めているのです。しかし、一年ごとに担当が変わっていく仕組みに家庭(親)の代わりはできない。だから園長は言ったのです、大丈夫と親に思わせてはいけない、と。親たちが「ここに預けておけば大丈夫」と思い始めることによって、本当に長時間保育を必要としない親まで保育園に子育てを頼るように必ずなる。そうなったら、保育は絶対に受けきれない。いま起こっている、様々な現実を園長たちは三十年前に見抜いていました。福祉全体の人材不足で、資格が形骸化し、保育園がやがて仮児童養護施設のように使われることにも気づいていた。現場の園長だからわかる。保育園が無かった時代を知っている人たちだから直感的にわかったのです。(http://www.luci.jp/diary2/?p=211)

本当に保育が必要な子どもを、親の勤務時間と通勤時間を足した時間だけ預かるのであれば保育士は足りています。

そして、保育園で就学前の子どもを全員預かれば、親から得る税収が保育にかかる予算を上回るという経済企画庁の二十年前の試算、新聞の一面に「その方がお得」と記事が出た経済財政諮問会議のいい加減な目論見はとっくに外れている。数年前に国会でも議論されましたが、25歳から44歳の働く女性の数の推移 は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばいで、2014年から15年にかけては減っている。つまり、女性の就業者数は受け皿確保や待機児童の増減とは原因と結果の関係にはない。それを追及された首相が、エッという感じで、すぐに答えられなかったことが一番問題なのかもしれません。経済学者たちの思惑と、現場を知らない計算違いが生み出した仮想現実の中で保育施策が進められてきた。その結果が、いまの矛盾だらけの保育界の現状であり、混沌なのです。

「ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」。

子どもたちのことを考えれば、この時期に親がどう育つかの方が優先、と言って、問題のある父親たち(子どもに無関心な父親)を二十四時間のお泊まり保育に引っ張りだすような園長でした。言って理解しない親には毎日毎日手紙を書き続けるような人でした。(http://www.luci.jp/diary2/?p=983

子育てに関して、保育士や園長が家庭に介入できなくなったらそれはもう保育ではない、毎日一番長く子どもを見ている者として、親を指導するのは園の責任です、指針にも書いてあります、と言い切る人でした。先生は、この時期に親心が育たないと、やがて保育という仕組みが限界に達し、質的に破綻していくことを当時すでに見通していました。その兆候は現れていたのです。

いま、国は八時間勤務の保育士に十一時間保育を「標準」と名付け、補助金を盾に押しつける。ほとんどの現場で担当が必ず一日一回は交代し、最後の三時間は無資格でもいいということになっている。その子の過ごした一日を、誰かが親に物語る機会もなくなっていった。

以前は一日四時間働けば十一時間預けることができる、だったのが、新制度によって二時間でよくなり、0歳児保育を増やすために設定された保育単価によって、0歳児、1歳児を預かっていないと保育園の経営が成り立たち難くされ、それが保育士不足に拍車をかけた。そして、政府主導のサービス産業化により経営者の損得勘定が色濃く入りこむようになると、保育単価の高い三歳未満児の保育に特化する人たちが出てくる。こうした乱暴な規制緩和や仕組みの変更、保育界の分断は、保育士たちにもう親身ならなくていいと宣言しているようなもの。

法律では親が主体と言いながら、実際には、子育ての主体がますますあやふやになって、それによって保護者と保育士の心が一つにならなくなっている。だから保育士が長続きしない。保育士が長続きしないと、親身な園長が保育を伝承する気力を失っていく。いい園長の心の萎え方が最近ひどいのです。

毎年二割の保育士が入れ替わる保育など以前は考えられませんでした。

保育の質はすなわち人材の質。来年、どんな体制が取れるのか見えない。それだけでも「大丈夫」とは言えないはず。人材が自転車操業になっていて、資格さえ持っていれば、どんな保育士でも採用しなけばならない、まるでババ抜きのような状況になっている。保育士を選べないことが保育界全体の「子ども優先」の意識を萎えさせている。最低限、良くない保育士をすぐに解雇できる状況は保たなくてはならなかったのですが、それさえできないのです。(http://www.luci.jp/diary2/?p=2801:衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」)

保育は、仕組みではなく、その日の一人の保育士の心持ちで成り立っている。なぜなら、幼児たちがそこを問うからです。

保育士を育てるのは幼児たち。だから、たった一人良くない保育士が混じっていることが保育室の空気を一変させるし、それを許している仕組みに対する諦めが蓄積し、福祉が天職のような人が、ある日突然起き上がれなくなって辞めていく。(ネットを調べればわかりますが、行政処分が繰り返される放課後等デイサービスなどでも、まったく同じようなことが起こっている。)

派遣会社に頼らなければやっていけないような状況が認可園にも広まり、定着してしまった。保育はサービス産業、親のニーズに応えればいい、と平気で言う園長さえ現れている。

そして政府は、この一連の施策を「子育て安心プラン」と名付けているのです。誰にとっての「安心」なのか。

(「安心プラン」には程遠い、逆にその目標から遠ざかっていくような現場の実態は繰り返しマスコミでも報道されています。しかし政府の経済優先の基本方針は変わらない。「子育て安心プラン」の実態は失敗続きの生産性向上施策と、幸福論と結びつかない奇妙な「人づくり」施策です。以下の報道で明らかなように、政府の「人づくり」は子どもの日々を犠牲にした「労働力確保」でしかない。30年前、「ここに預けておけば大丈夫、と親たちが思うことが怖い。ここに預けておいた方がいいんだ、と親に思わせたら、それはもう保育ではないんです」と言った園長の言葉をその時理解できなくても、保育からこれほどモラルや秩序が消えていっている状況を見れば、政治家たちも遅ればせながら理解できるはずです。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakanoma…/20160617-00058938/

「企業内保育所、質は誰が担保するのか 働く親の「最後の砦」、復職への強制力にも」

https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明。

https://www.asahi.com/articles/ASN9Y61BTN9YUTFL00C.html:保育園で虐待、まさか… 施設急増の中で起きている異変

「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

そしていま、新しい内閣の閣議決定で、常勤の保育士がいなくても、つぎはぎのパートで繋ぐ保育でも構わない、と正式になってしまった。「短時間勤務の保育士の活躍促進」。物は言いようです。

すでに追い詰められている現場に四年間でもう14万人の「保育の受け皿」を課すために、または成長産業という言葉で未満児保育に参入を促した保育士不足の実態を知らなかった新規参入者を撤退させないためになのか、子どもたちの日常の質を二の次にした規制緩和が進みます。こんなやり方しか手立てが浮かばないのでしょう。

保育士たちを悩ませた、保育士と乳幼児の関係はどこまで深まるのがいいのか、という愛着関係の議論さえ、仕組みの変化によって無意味になりつつある。それを今度は「新子育て安心プラン」と名付ける。以下、政府の発表です。)

待機児童の解消を目指し、女性の就業率の上昇を踏まえた保育の受け皿整備、幼稚園やベビーシッターを含めた地域の子育て資源の活用を進めるため、「新子育て安心プラン」を取りまとめましたので公表します。:(厚労省のホームページから)
「新子育て安心プラン」では、4年間で約14万人の保育の受け皿を整備するほか、1.地域の特性に応じた支援、2.魅力向上を通じた保育士の確保、3.地域のあらゆる子育て資源の活用を柱として、各種取組を推進してまいります。
短時間勤務の保育士の活躍促進
(待機児童が存在する市町村において各クラスで常勤保育士1名必須との規制をなくし、それに代えて2名の短時間保育士で可とする)

 

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「愛着障害と薬物」

学級崩壊に端を発して、12年前にスタートした就学前の発達障害児の早期発見対策。保育士不足の現実を知らなかったのか、すぐに顕れた加配の限界と専門家の力不足と人員不足、準備不足で付け焼き刃の施策が現場を混乱させます。

専門家に見せたがる親たち、見せたがらない親たち、親の子育て意識の変化、様々な要素が重なって、一緒に子育てしているはずの保育士たちが子育てに口を挟めなくなっている。「専門家」が現れることによって、昔気質の園長が「あなたの子ですよ」と親に言えなくなってきている。

専門家の薦めと、親の要望で、行動や発達に問題のありそうな幼児に薬を飲ませておとなしくさせるケースが出てきています。子どもや親たちを一人一人を観察できる余裕のない、親子関係まで見極める時間のない「専門家」たちは、愛着障害を薬物でごまかそうとする。

「問題児だったけど、毎日あんなに甘えて抱きついてきた子が、突然『抱っこはもういい』と虚ろな目で言うんです」それが悲しい、と保育士が言う。そんな保育士が可哀想で、と園長が言う。大自然からもらった治療法、双方向への自然治癒力、自浄作用である「抱っこ」が薬物に代わられてゆく。その最前線に保育士たちがいました。もともと1対3とか1対6では無理なのです。それでも、頑張ってきたのです。

毎日「抱っこ」で子どもの魂を鎮めようとしていた保育士が、親から何も相談されずに、薬で心を抑えられた子どもにある日突然「抱っこはもういい」と言われる。その気持ちを考えると、保育という仕組みの切なさをひしひしと感じました。

心療内科に行くこと、薬を飲ませることを保育士に相談してくれない。こんなに長時間面倒を見ているのに、毎日抱っこしているのに、まるでサービス産業のように見なされ、口を挟もうとすると、プライバシーの侵害だと役場に駆け込まれたりもする。そんな日常の中で心ある保育士が使い捨てになっていくのです。

都の認証保育所に勤め始めた保育士が、園長から抱っこするな、話しかけるな、と指導され驚いたという話を思い出します。(地方の公立保育園でも似たような話がありました。)

子どもが生き生きすると事故が起こる確率が高くなる、と園長は言ったそうです。

その説明が保育の限界を示しています。小規模保育は3分の1資格なしでもいいなどと様々な規制緩和がされる中で、信頼できる保育士を確保できない状況に追い込まれている園長も可哀想ではあるのです。事故が起きないいことが最優先になり、それを責められないほど、危なっかしい保育士が増えている。

安全最優先が「抱っこしない保育」につながる。子育てに必要な「ゆとり」がないのです。

それでも預かれ、と政治家たちは言う。その施策を「子育て安心プラン」と名付ける。「抱っこしなければ、落とさない」、その次元に保育がなってきている。保育を「仕組み」で考えるから結局こんなことになる。これでは、この先学校がもたなくなる。

(繰り返しますが、親の勤務時間と通勤時間だけ預かっているのであれば、保育士は足りているのです。就労証明をきちんととって、三人目を産んだらタダ、などという本末転倒の少子化対策をしなければ、そして、「成長産業」などという言葉を使って保育で儲けることを奨励しなければ、こんなことにはなっていないのです。まだ、ギリギリ方向転換できると思います。0、1歳だけでも月に五万円程度の直接給付と子育て支援センターの組み合わせで乗り切れば、かなり人材に「ゆとり」が生まれるはず。そこから仕切り直せると思う。)

「生活のため」とマスコミは言う。

一体「生活」とは何なのだろうか。幼児たちが抱っこされなくなったら、それは人類にとって「生活」なのだろうか。幼児たちを眺めながら、ベテラン保育士は考えるのです。

「抱っこは母と子の共同作業です。と力説している先生がおられたのを思い出しました」。その通り。抱っこは双方向の作業です。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=279:育休退園・所沢市の決断/石舞台/「子どもの楽園」に驚く欧米人/「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋)

アメリカでは、小学生の10人に一人が学校のカウンセラーに薦められ薬物を飲んでいる。薬物で画一教育を可能にし、教師の精神的健康を保とうとしているのですが、4割の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になるまでに40%が親の離婚を体験するという土壌はもはや耕しようがない。「子育て」が夫婦の絆をつなぎとめられなくなって家庭が崩壊し始めると、薬物や警察に頼らないと義務教育が成り立たなくなってくる。学校のカウンセラーが薦める薬物が、将来、麻薬中毒やアルコール中毒につながっている、という研究発表がされ、学校教育における薬物使用の背後に製薬会社の利権がある、と言われます。どうしても薬物が必要な場合もあるでしょう。それに救われる人生もあるでしょう。しかし、薬物の利用は、人間の絆の崩壊、家庭崩壊、孤立化と比例して増え続けます。

アメリカで毎年5万人が薬物の過剰摂取で命を落とす。子育てが中心にならない社会で、驚くほど人々の孤立化が進んでいる。

 

東京都で休職している先生の7割が精神的病で休職しているといわれます。

教師の精神的健康が保たれるかどうか、から逆算して福祉や教育を考え、再構築していく必要がある。学校は最後のセーフティーネットで、それを支えるのが保護者と保育者、そう考えるのが一番わかりやすく、その方法で順番を整えれば、まだこの国は大丈夫だと思うのです。

(NHKのクローズアップ現代『~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/index.html)

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「いないほうがいいんだ」

いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護師を一人ずつ配置したのです。職員室で看護師さんがため息まじりに私に言いました。

「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」

自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園にいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えていない気がする。看護師さんが心配するのはそこなのです。理性が支配し、感性が育っていない、と言うのです。

最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、将来の院内感染が怖い、と看護師さんが言いました。

「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で薬をもらってくるんですよ。内科。しかも、呑ませたことをちゃんと私に言わない。だから怖いんです」

薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。

「私が、ここにいないほうがいいんです」

その声が、町長には届かない。マスコミにも、専門家にも届かない。

待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬ではないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師さんは知っている。だから怒っているのです。「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚生労働大臣の声が遠くに聞こえます。

看護師の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。

こういう風景が存在していることを、保育士の養成校で教えているのでしょうか。子育ては、常に葛藤で、心配で、育ちあい、それゆえに輝く喜びの積み重ねなのですけれど、葛藤や心配の次元が「子育て安心プラン」などという政府の言葉によって損得勘定の方向へ変化している。心がすれ違い、育ちあいが生まれない環境が作られていく。

(「子育て安心プラン」は、2018~2020(平成30~令和2)年度までの3か 年計画であり、待機児童解消を図り、女性の就業率8割に対応できるよう、 2020(令和2)年度末までに32万人分の保育の受け皿を確保することとして います。:厚労省)

以前、中堅保育士さんからこんなメールが来ました。/本音、本気で言う人

 

お久しぶりです。

長らく連絡できずに申し訳ありませんでした。本当に色々ありました。現在進行形で問題勃発しています。新制度になったからなのか、もうとっくの昔に日本は終わっていたのかはわかりませんが、親心を空っぽにするために保育園があるような気がしてなりません。親も、上も、メディアも、政治も、みんな◯◯です。言い過ぎかもしれませんが、最近そんなやつとそんな画面しか入ってきません。

子どもの成長ではなく、子どもの寂しさを育んでいるだけのような気がします。

本当はもっともっと前に、連絡してお話しようと何度も思っていたのですがただの愚痴になりそうで、なんだか申し訳なくて連絡できずにいた次第です。

お金です。

女性に働いてもらって、経済を豊かにする。

そこだけ。

それを謳えば好感度が上がるから、バカみたいに保育園増設、待機児解消と言っておけ精神。

それらに反対すると、古い、の一点張り。 ありえないです。

なぜ、保育士が足りないのか、その原因を分かっていないから、エンドレスでしょうね。

なんだかパワーがでなくて。

少し前まで怒りがパワーになってぶつかっていけたのですが、その力もどっかいっちゃって。

保育園の在り方も託児所化しています。親は自分の都合で預けたい、優先順位は自分です。それが一人や二人じゃない。

自分の時間が一番なんです。

親が、親である前に「個」でいようとするのです。

親になった以上、親でなければいけないのに。特に乳児期は。

そこを支援せず、親の個としての生き方を援助しているだけです。

人の土台を作るのが親ではなく、保育士であっては絶対にならないのです。

もういやです。

 

(私の返信がここに挟まります。下関の自民党女性局で講演し、そこに安倍さんの地元秘書が来ていました。講演の前に大きなクスノキに出会い、「気」をもらいました、というメッセージと一緒にクスノキの写真を添付。)

 

是が非でも安倍総理の秘書の方から安倍総理本人に、どうか、どうか、松居先生の言葉、思いがまっすぐ、まっすぐ届き、少しでも子どもに寄り添った政策になりますように。

本当の意味での子どもの幸せを、もう一度考えて頂けますように。

そして、今の危機的状況を理解しますように。

 

松居先生、講演など、お忙しいと思いますが、時間があります時に是非またお会いしてお話させて頂ければと思っております。

私だけでなく、前回共にいた先生方のモチベーションがだだ下がりです。

様々なことによってエネルギーをチャージしないと、潰れてしまいそうです。

(ここから私です:

地方の公立保育園で、親と保育士に一緒に講演を聴いてもらい、穏やかな園長先生と役場の人とお茶を飲みながら話していて、ふと憶い出して携帯に入っていたこのメールを読んだとき、園長先生と役場の人の目に涙が浮かんだ気がしました。そして、その奥に炎が見えました。

状況を真剣に考え、把握し、怒りをエネルギーにして頑張ってきたひとたちが潰れてしまいそうになっている。親に言えない。上に言えない。役場に言えない。保育園だけではないのです。幼稚園や障害児デイ、児童養護施設や児童館も含め、本音が言えない人たちが幼児期の子育てに、より深く関わっている。その歪みが出て来ている。一番長時間関わっている人たちの気持ちが尊重されていない。それが学級崩壊や引きこもり、老後の孤立化という現象になって出てきている。)

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朝日新聞の「折々のことば」に私の文章が紹介された時のこと。哲学者が拙著から「ことば」を見つけてくれました。

『赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。』:松居和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

新聞のコラムを読んだ園長先生からメールが来ました。

「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?」と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。園長先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れ、遠のいていく。「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくる。

保育は仕事であってはならない。そんな風に自分を戒め、境界線の上を綱渡りのように歩いていく保育士たちがいます。慣れてはいけない、慣れてはいけない、と呟きながら。園長は知っています。自分だって慣れてしまっていた。それは、その子の「親」ではないからです。

師匠は、いまだに目指している、「本当の保育士」を……。「秩序」はこの園長たちの心の揺れの中にあった……。

別の園長が、「一年目の保育士にかなう保育士はいない」と言っていたのを思い出します。理屈でも正論でもなく、真実が普通に、時には相反するような言葉で、語られていた時代があった。それを伝えていくのは、聞いた者の役割だと思います。親は、常に一年目だった。だからこそ不安。だからこそ真剣。だからこそ信頼が育っていった。そこで「専門家に任せておけばいいんだ」という心理が動いたら、保育は絶対にそれを受けきれないのです。

子育ては、人類にとって大きな一律の伝承の流れです。その流れは「親の質」を問うてはいない。そうだとすれば、何が伝承されてきたのか。大学や養成校という仕組みの中で,何が伝えられるのか。伝えるべき中心は何なのか。「子どもの最善の利益を優先する」、それでしょう。

保育という仕組みを今すぐにでも、「雇用労働施策」の枠組みから解放しなければ保育は生き返ってきません。

保育がその本来の意味を取り戻し、「親の責任」を保ちつつ「園単位の責任」「園単位の喜び」にまで広げることができれば、私たちは強者の企てから簡単に逃れることができる。全員が幼稚園、保育園を通過していく。そこで親たちに子育ての喜びを実感させることが可能なこの国なら、できる。人生の輝きを幼児たちの中に見て、みんなで目的地を思い出すことができる。

それはきっと人類の進化に関わるいい「展開」で、それを指揮するのは幼児たちなのです。

(参考ブログ)

保育士を目指す学生たちに/園長先生からの手紙

『家庭崩壊が進んだアメリカで、いま「ワーキングマザーの約85%が家で子育てに専念したいと答え」ている。(東洋経済Online,会社人生にNO!米国、専業主婦ブームの真相:共働き大国の、驚くべき実態:https://toyokeizai.net/articles/-/32455)』

保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる:http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

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「父親が泣く日」

父親の一日保育士体験を、全員を目指して進める若い武道家男性園長から聴いた話です。

体育会系の父親が「俺は向いてねえんだよ、こういうの」と不平顔。

「いいからやるんだよ。ぶどう組だよ」と園長。(果物のブドウです。)

お昼寝の時間に、父親が息子の背中をとんとんしていると、小さな声が「おとうさん、ありがとう」。父の目に涙がポロポロ溢れます。

こういう瞬間に人間が育ってゆき、父親が一人生まれる。保育園でなければ起きないこと。

体育会系父親、帰り際、園長に、やって良かった、やって良かった、と繰り返したそうです。たった一日で自分自身を体験した。昔は、日常的に男たちが体験していた自分のいい人間性。自分の中には、いい人間が居る。そして、幼児だった頃の自分がいる、それに男たちが園児に混じって気づく。それを国が支えなければいけないのに、国はこういう機会を保育の産業化で奪っていく。

魂の震え方を、幼児たちが男たちに教えるのです。

父親の保育士体験に情熱を注ぐ若い武道家園長。この話しをしながらしてやったり、の顔。この世代、しかも男性園長たちが真の保育を理解してくれるとありがたい。ここに預けておけばいいんだ、と思われたら、それは保育ではないんだという女性園長の言葉を受け継いでくれたら、と願います。このままでは保育が、ただの託児、サービス産業になってしまう。いまは難しいですが、時々みんなでうちに来て、飲んだり食べたりしたのです。都議や区議や主婦、音楽家やNPOがまじります。

集まること、祝うことが社会の基本です。

 

「子どもが喜びますよ」

ある園で、父親の保育士体験を薦める私に一人の母親が、「休むと一日2万円損するんですよ」と言いました。年に一日卒園までに3回やって一生に三日、6万円。こんな奇妙な選択肢を夫婦につきつける社会も変ですが、選択は自由。とにかく説明し薦めるしかありません。幼児期は二度と還ってこない不思議な時期で、この時期に園児たちに囲まれると父親の人生観が変わったりします、何より父親が来ると、子どもが喜びます……。

二万円損するので土日にやってほしいと母親は言うのです。園長はじっと母親を見つめ、譲らない。日常を見てほしいのです。他の子たちの夕暮れ時も見てほしい。一回だけでは二万円損したと思うかもしれない。でも、卒園までに3回やれば、人生に三日の体験が6万円以上の価値があると必ず思うはず。そこまで信じているから勧めているわけです。嫌がる保育士だっているのです。それを説得して、保育士と一緒に決断し、父親の保育士体験を願います。

子どもは、父親がくると、お互いに気恥ずかしげですが嬉しそうです。一日平均十時間、4年通ったら千日です。たった三回でも、お父さんがその1日に寄り添ってくれたら、その時の自分を知ってくれたら。一緒に体験してくれることが嬉しいのです。

この嬉しさは本能的で根源的で、それを保育士たちは知っている。自分たちが与えることがけっしてできない親子の一日なのです。

父親が保育士体験をすると二万円損するから土日にやってほしいという母親を、手取り15万円に届かない保育士たちが見つめています。一緒に子どもを育てているのに、その目線に母親は気づかない。問題はそこにあるのです。

それでも子どもたちは懸命に生き、信じ、大人たちの心を一つにしようとする。その視線がいつか経済の係数になる。それに、学者や政治家は気づかない。

 

「普通人間はしない変な風景」

小規模保育や企業型保育所が新制度で奨励され、「子ども優先」という保育の基本を知らない人たちが参入し、保育界の常識が根底から変わり始めています。

親たちを客と考え、親身さに欠ける保育を教育で誤魔化そうとする。英語や音楽、リトミック教室を平行してやる保育所や学童(塾や放課後等デイサービスも含め)が広がり、月に数千円の追加料金でお稽古ごとが出来るという宣伝文句をよく見かけます。内容は様々で、はっきりとした規制もない。中には、同じ部屋の中で、お金を払っている子にだけに飛び飛びで英語で話しかけたり、お遊戯させたりする業者さえいる。普通人間はそういうことをやらない……。そういう変な光景が政府の「保育は成長産業」という閣議決定のもとに現れている。子どもの気持ち、子どもの育ちより自分たちのお金儲けが優先、子育て代行の利便性が優先される。だから、お金を払っていない親の子どもたちの気持ちを平気で無視する、無視出来る保育士たちがサービス産業の現場で誕生して育っている。こんな保育士たちに、親を叱れるはずがない。こういう信頼関係のない大人たちに囲まれて子どもたちが育ち、この国の未来が決まっていく。

時に、いい保育士に出会ったり、学校でいい先生に出会ったり、親との葛藤を経て和解したりして、人間を信じる心を取り戻す子どもたちもいるでしょう。しかし断言しますが、保育のサービス産業化は保育の本質を崩してゆく。全体としては決していい方向には向かっていない。親になる、子育てをする、ということは損得勘定を捨てること、本来、利益追求とは相容れないのです。

保護者のニーズに合わせて予算を組んでいた自治体が、確保できる保育士の数に合わせて予算を組むようになり、保育士たちの心のブレーキが、社会全体にかかっています。親のニーズも、政府の思惑も、新制度も、安心プランも、急速に絵空事になりつつある。自然の流れだと思います。しかし、その過程で幼児たちに取り返しがつかない事が起こっている。

以下に掲げたのはネット上にあった保育で(簡単に)儲けることを薦める広告の一つですが、「保育」は、こんな宣伝文句で始める「勝ち組」になるための「仕組み」ではなかったはず。「保育は成長産業」という閣議決定が、人間から人間性を急速に奪っているのです。

「注目の放課後等デイサービス事業:16人契約で営業利益100万円」

営業利益100万円が可能なビジネスを知っていますか?!我々が選ばれる理由とは? 定着性の高いストック型ビジネス。なぜ勝ち組になれるのか?秘訣はこちらから。安定経営・異業種参入者多数・未経験でも安心・万全の支援体制・FCノウハウ充実。

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「嬉しそうな園長先生」

群馬の保育園で保護者と保育士に講演したときのこと。

講演が終わって親たちも帰り、ホッとして園長先生と職員室で話をしていました。

「園舎の建て替えが終わってくたびれてしまいました」、と七〇過ぎてがんばっておられる園長先生がおっしゃいます。

「親たちもずいぶん変わりました、これからどうなってゆくんでしょうかねえ」

もう一踏ん張りですよ、昔の親たちを知っている方々がもう少しの間がんばっていただかないと、という私の話に耳を傾けながら、園長先生は暗くなった園庭を眺めていました。

そのとき、一人の母親から電話がかかってきました。

子どもが家で泣きやみません。熱にうなされ、担任のN先生に会いたい、と言って泣いているというのです。その日は土曜日、さっきまで園にいたN先生はもう帰宅の途についています。

「困ったわねえ」と言いながら園長先生はなぜかニコニコしています。

そして、「私は恵まれています。いい保育士さんに囲まれて」と主任さんに電話して、N先生を探します。しばらくしてN先生から電話が入ります。主任さんは先生たちの携帯の番号を知っています。園長先生は知らないそうです。それくらいがいいのだそうです。

園長先生はN先生に事情を説明しながら、「あんたも保育者冥利につきるねえ。よかったねえ。はやく電話してあげなさい」と電話口で言います。N先生が電話の向こうで頷いているのが、その会話からわかります。N先生はデート中だったみたいです。

電話を切って、「昔は、お母さんに会いたいと言って保育園で泣く子はいたけど、先生に会いたいと言って子どもが家で泣くんだから、おかしいですよね。でも、やっぱり園長としては嬉しいです」

勤務時間は終わっているのに、泣いている子どもの気持ちに応えようと、ためらいなく担任の先生を探す園長先生。保育士一人ひとりと信頼関係がちゃんと作れているからできること。規則の中で生きていてはできないこと。保育というシステム(仕組み)の中で生きているのではなく、「子育て」が生み出す人間同士の信頼、家族にも似た対応に、私は感心しました。こんな園が、少なくなった。

園長先生はもう七四歳。

「最近の親はどう相手していいかわからないことが多くて……。昔だったらもっとはっきりものが言えたんだけど、近ごろちょっと自信がなくなっているんです」と、さっきから職員室で一時間も愚痴をこぼされていたのです。

その人が一本の電話で急に生き返ったように、ニコニコしながら対応しています。

こんな感じがいいんだな、と思いました。

泣いていた子はインフルエンザでここ三日ほど保育園を休んでいたそうです。きっと、先生と保育園が恋しくなったのでしょう。

園長先生と私は、黙って、主任さんの入れてくださった紅茶をゆっくりゆっくり、いただきました。

おいしくおいしく、いただきました。

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市場原理の導入や規則や仕組みの規制緩和によって、消えてしまいつつあるあの風景を思い出しながら、あの時一番嬉しかったのは誰だったのか、と私は考えて見ました。そして、ふと、N先生とデートしていた彼氏だったにちがいない、と決めました。人間の絆や幸せは、幼児の幸せを願うことによってつながっていく。

そうしながら、迷い、オロオロし、心を一つにして祈る、それが人間という手をつないでいく「子育て」の本質です。

そのことを忘れた政府や専門家たちが、待機児童をなくすことを目標にまた新たな規制緩和を始めています。質が下がるのを知っていないがら、ただ量的拡大を目指している。保育で儲けようと参入した人たちの、今度は生き残りのためにやっているとしか思えないようなこうした規制緩和が、保育界から「親心」を奪っていきます。

子育ての「風景」が消えていく。風景は、それを創造する人たちの「生き方」「決意」の集合体なのです。

 

手紙1

松居先生 

ご無沙汰しています。 お変わりなくご活躍のことと存じます。 

先週公私立の主任会の席上1日保育士体験の報告があったそうでお知らせいたします。  

K市も9月からやっと全園で取り組み初め、いろいろ議論があったようですが、「案ずるより産むが易し」でそれぞれ好感の報告だったそうです。 

ある園では、転勤で埼玉県から引っ越してこられた方があり、向こうですでにお父さんが体験されて K市でも希望されたケースもあり今のところ順調に過ぎております。 

これからいかに継続、発展させていくかが又問題となってくると思いますが、全園児保護者体験を目指して努力してまいりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ささやかなご報告で申し訳ございませんが引き続きご指導よろしくお願いいたします。                                             K市 A.J.

 

返信1

ありがとうございます。嬉しい限りです。

いま、保育界が追い込まれている、人材不足、財源不足、親の意識の変化、規制緩和や水増しによって広がっている質の低下を考えると、一日保育士体験で象徴的に保育の存在意義と子ども優先の姿勢を社会に対して明確にしてゆくことが一番大切だと思います。それにより若い保育士に、保育は親に対するサービスではなく、子どもを優先に、子育てをしているのだということ、それには親との信頼関係が必要なのだという意識を持ってもらう。このままずるずる国のいう「サービス産業化」に進んだら、いい保育士は集まらなくなってしまうと思います。

よろしくお願いします。

手紙2

松居先生

我が園の新しい試みに少しお耳をお貸し頂きたく厚かましくもメールさせて頂きます。保育の理念はあくまでも仏教によっております。そんな関係で、障碍を持つお子さんも皆とともに育ち合ってほしいと統合保育を学級編成は、縦割りを特徴としております。

子どもの行事に関しましては、保育園は、保護者の就労を支える場所ではありますが、保育園は常に幼い人の代弁者でありたいとの思いから、日頃大人のスケジュールに合せられている子どもに対し、行事の際だけは大人が、子どものスケジュールに合わせて頂きたいと4月の時点で、年間計画を保護者に示し、休暇の取得を予めお願いしています。このあたりのことは常々保護者に理解を求めてはいますが、毎回行事の度に出てくるアンケートは土日に行事を開いてほしいというものが多くあります。行事の一つ、毎年、12月8日は釈迦の悟りを開かれた成道会(じょうどうえ)という仏忌に当たりますので、前半セレモニー、後半子供たちの生活発表会の2部仕立てで開催しています。今年も次のようなアンケートがまいりました。

「昨年までは乳児組だったので、あっという間に出番が終わってしまう感じがして、他の学年も見なかったのですが、今年は、見ごたえがあるなと思いました。まずは、物語劇、あれだけの長い科白を全員がよく覚えたなと感心しました。又、毎年違う物語なので衣装も小道具も後ろの背景も全部作るのが大変だったろうなと思いました。先生方のご苦労を思うと有難いです。来年象バッジ(年長組)として、あれだけの大役をこなせるのか、正直心配ですが、たのしみでもあるなと思いました。やはり仏教の教えが根底にあるので、どの出し物も心に響くものがありました。その点で、K保育園はかけがいの無いものであると思います。ただ、1点だけすみません。

職場では平日に行事が行われることに理解が得られないようで、保育園なのに、何故休日に行事をしないのかと言われるたびに心が折れそうになります。職場のあるK市ではそれが普通だとか。もう少し休日の行事が増えると有難いと思っています。」

最近は子どもに対する大人の許容量がうんと狭くなり、世田谷の保育園新設に対し、近隣住民から反対運動が出たニュース等寒々とした報道が次々出ています。保育関係者が、必死に子どもの立場を訴えても、なかなか時代は変わってこないことに気付かされ、行事に参加を可能にしてくれた職場の仲間に園としてもお礼を伝えることで、子どもの立場をアピールできるのではと考え、今回初の試みとして添付のお礼状を職場に届けて頂くようお知らせを出しました。先のアンケートの方は勿論ですが、他にも希望者が出るのではと思いましたが、一向になしのつぶて、いささか落胆していましたら数日後、隣の市の役所に勤務のお父さんから、職場のみんなに伝えたいからと礼状を求められ、思わず、やったー!とガッツポーズでした。

市長さんは住みやすい市を強調されますが、いつも申し上げているのは、卒園後、15年すれば、立派な市民、その時、本当に立派な市民であるかどうかこの乳幼児期のありかたにかかっていることです。1日保育士で、親を巻き込み、お礼状で、一般市民の理解を深めてもらうということにならないかなと考えています。

 

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「魂の次元の相談相手が人間には必要です。子育てはあらゆる方向に、それを探し、作ること」

「家庭的」という言葉が失われようとしている時代に、出来る限り家庭的な園をつくろうとしていた園長が言いました。

「あるお母さんが言うのです。娘が、いもうとがほしい、いもうとがほしい、と言うので、二人目を妊娠したのです。ところが最近、妹はもういらない、と言うんです。どうしたらいいでしょう、って」。そして、笑いながら、「ふん、ふん、それは困ったねー、と話を聴くんです」

園長先生がどんな顔でその相談を聴いているのか、そのあたりが人間のコミュニケーションというもの、いわゆる「家庭的」の中身であって、答えです。

(http://www.luci.jp/diary2/?p=253:園長からの手紙:厚労省と政治家は心の耳を傾けてほしい。)

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ここに最近ユーチューブで見つけて、気に入っている映像があるのですが、城の中で、ギター弾きと女性の歌い手と、シャボン玉をする人と、クルクル回る男の人がするコンサートです。お時間のあるときにぜひ、観てください。

https://www.youtube.com/watch?v=cT2F-KBIUt8&feature=emb_title

Castle, Bubbles and a Whirling Sound || Estas Tonne & Family

この不可思議なパフォーマンスに集まってくる人たちがいる。そこに救いを感じます。「なぜ?」という理屈を超えた不思議な次元で、人間たちはたやすく、コミュニケーションをしてきた。相談しあってきたのです。

これを見た人たちが、その不思議な次元を理解し、共有する。

このクルクル回る男の人は、ここでクルクル回るために生まれてきたんだ、と感動するのです。

今、先進国社会で進む分断の根っこに、仕組みの進歩とテクノロジーの進化によってコミュニケーションの次元が浅くなり、本来人間が持っていた「感性」が衰えてきていることがあります。様々な理由で亀裂が深まっても、そのもっと先、もっと深いところにある古代からの取り決め、調和が見えていれば大丈夫だったし、そこにある平安を目標にしていればなんとかなった。

子育ての本質を、損得勘定とは離れた、命が交錯する、人間のコミュニケーションの舞台として捉えなければなりません。

 よいお年をお迎えください。