「生命の暗号」

筑波大名誉教授の分子生物学者、村上和雄氏が亡くなりました。

著書の「生命の暗号」という本に、遺伝子がたくさんオンになるほど良い研究が出来る、感性が磨かれる、と書いてあります。そして、遺伝子をなるべくオンにするには、感謝すること、Give&Giveの気持ちで生きること、その典型が乳児を育てる母親、と書いてあるのを読んで感動したことがあります。

わかりやすい、真実は、とってもわかりやすい。

ここまで歩んできた人類の道筋が見えてくるようです。直感は度々宗教っぽく聞こえることがありますが、それを真実と見抜く力が遺伝子に存在する。その源に、次の世代を優先することがあって、それはつまりGive&Give、利他の心。そのあたりの遺伝子がオンになってくると、人類は、より一層調和するということですね。

村上先生の本を読んでいると、0、1、2歳という特殊な人たちと過ごすこと、環境、景色としての幼児たちの存在、子育てという体験が「人間性」という、『遺伝子が充分にオンになった状態』と密接に関係しているのがわかります。笑う、という行為が遺伝子をオンにするという主張も、とてもわかりやすい。遺伝子は「心」とオン、オフという関係で常に交流している。「想い」によって遺伝子がオンになる。

その「想い」のスイッチになっているのが、0、1、2歳との交流、可愛がる、をベースにしたプロセスなのでしょう。

 

生命の暗号 

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笑わない一歳児。園長が母親と面接するが母親も笑わない。父親を呼び出すと不機嫌。祖父母を呼び出した時点で誰もこの小さな命に感謝していないのでは、と気づく。保育士に号令「くすぐってもいいからこの子を笑わせろ!一日中!」。子どもが笑う。母親が少し笑う。やがて一家が命のまわりで笑い出す。

「あの子ですよ」と園長先生が指差す先で、元気な三歳児が遊んでいる。これが保育。保育とは、人間の遺伝子がオンになるプロセスを助けること。

「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています

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言葉のしゃべれない乳幼児の要求通りに、(言葉がしゃべれないのですから、主としてそれを想像しながら、自問自答しながらですが)ゆっくりと時間をかけて関わって、寄り添って、次に集団で遊ぶ幼児たちをなんとなく眺めていれば、それが助走路となって人間はそう簡単に道を見失わない、そう考えています。

150年前の、日本人の子どもと遊ぶ風景やその可愛がり方に関心する欧米人の証言を集めた「逝きし世の面影」(渡辺京二著)第10章「子どもの楽園」(http://www.luci.jp/diary2/?p=1047 :に抜粋があります)を読み、私が実際にインドで見た世代をつないていく手段と原風景を重ね合わせて、そう確信するのです。

だから、日本がその個性を生かして特別な役割を果たすのだとしたら、幼稚園・保育園が鍵を握っていると思うのです。

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政府の言う「一億総活躍」、そんな経済競争のお金儲けの次元とは違う、本物の選択肢が常に並行して存在するということを、本来の生き甲斐や、人生の目的などを人間に憶い出させるために幼児たちがいてくれる、そんな風に考えてほしいのです。「子育て」という行いは、縦糸横糸でつながっている、だから、みんなの問題だということが自然にわかる仕掛けになっていた。

みんなの問題は、みんなの心の問題であって、仕組みの問題ではないのです。

 

前々回指摘した新内閣で進められている「新子育て安心プラン」には子ども優先の姿勢が欠けています。誰にとっての安心なのか、いつの間にか本末転倒になっているのです。こんな姿勢の中で作られる「こども庁」など推して知るべし。雇用労働施策から離れて、子どもの日々の生活を優先し、子どもたちの安心を第一に考える庁ならいいのですが、ただ名前だけの(実は労働施策の)隠れ蓑にならないことを祈るばかりです。

四月に施行された「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています。

保育はパートでつなげばいい、その子がどういう一日を過ごしたか親が知る必要などない、と言っているようなもの。「保育の質が落ちないようにと、自治体には指示している」そうですが、同じ言い訳、言い逃れです。不可能なことを「指示した」って何の意味もない。

乳幼児期に子どもが築くべき愛着関係(誰と、どれだけ)に気を使いながら、保育の質を憂い、親とのコミュニケーションを維持しようと頑張ってきた園長が「この施策はまるで政府に横っ面を叩かれているようなものです」と言いました。

(厚労省のホームページから)

 「新子育て安心プラン」では、4年間で約14万人の保育の受け皿を整備するほか、1.地域の特性に応じた支援、2.魅力向上を通じた保育士の確保、3.地域のあらゆる子育て資源の活用を柱として、各種取組を推進してまいります。

短時間勤務の保育士の活躍促進

(待機児童が存在する市町村において各クラスで常勤保育士1名必須との規制をなくし、それに代えて2名の短時間保育士で可とする)

 

学校教育が「義務」である限り、教育界の将来にとって致命的とさえ思える「短時間保育士で可とする」という異常な規制緩和に、幼児たちと毎日過ごしている保育界が表立って反対しない。一部反対の署名運動もありましたが、マスコミが大きく取り上げない。

保育界がまとまらなくなっています。子ども優先か、経済優先か、ますます両極へと広がり続けている。ここ10年くらいの間に、異業種と見なした方がいい新たな保育の仕組みが政府によって次々に作られ、保育界が分裂、分断されてしまっている。

三歳未満児に限定された小規模保育と、0歳から5歳児までいる認可保育園では仕組みや保育の内容が違います。幼稚園が土台になった「こども園」と、元々保育園だった「こども園」では旧幼稚園と旧保育園くらいの違いがまだある。(そうあって欲しいと思います。)そこに利潤追求型の旧認可外的小規模保育、家庭的保育事業、企業型、ベビーシッター紹介業、学童保育などが入り混じり、団体が乱立し歩調が合わない。意図的にバラバラにされた後に、保育の根幹に関わる法的変更が、政府と経済界の都合で施行されていく。

保育指針にある「子どもの最善の利益を優先する」という支柱が、実質取り払われようとしているのです。

この柱が政府によって壊されることは、国家(人類)の存続に関わる重要な問題です。マスコミも学者も本当に気づいていないのでしょうか……。

パートの保育士が悪いと言っているのではありません。自分も子育てしていて、子どもが学校から帰った時に家に居たいとパートを希望する保育士には頼りになる保育士が多い。だから午前中だけでもそんな人に保育をお願いしたいと言う園長先生もいます。派遣会社が「パートならいい保育士がいるんですけどね」と言うのがこのケースです。そこにも、いま社会全体の「子育て」が抱えている奇妙な矛盾が現れています。仕組みに心を込めるはずの、優先順位の確かな人たちが仕組みに当てはまらない。内心、仕組みが進む方向性に疑問を持っている。「子育て安心プラン」が作られた「動機」が、この人たちの生きる「動機」と異なるのです。

「市場原理」と「子育て」は、一見両立するように見えて、相反する動機によって成り立っている。幼児たちがそれを自然の摂理の中で実証してしまう。

市場原理に巻き込まれた以上規制緩和しないと生き残れない、という理屈は理解できます。元々「保育は成長産業」という閣議決定が後押しした保育の産業化で、屋根に上がって梯子を外されてはたまらない。しかし、それは子どもの成長と日常を後回しにすること、犠牲にすることで、正論を言うベテラン保育士たちの切り捨てを容易にすることでもあるのです。保育科の学生に対する青田買いで、「三年経ったら園長になれます」とか、「みんなで一緒に新しい保育園を立ち上げましょう」などと言うとんでもない勧誘の言葉が使われ、それが「資格」を持った若者を惹きつけるのですから、仕組みの成り立つ「流れ」がすでに保育の本流から大きくずれている。

閣議決定に後押しされるように、いま儲けるなら「保育」、というビジネスコンサルタントの宣伝がネット上に載ります。「保育はサービス産業」と割り切った人たちが急速に増えているのです。その人たちが保育界を業界として仕切って、子どもの願い不在の少子化対策を政治家に進言しているのではないか、ビジネスを得意とする人たちのビジネスセンスが「保育の心」に代わろうとしているのではないか、とさえ思えるのです。その人たちは「短時間勤務の保育士の活躍促進」をビジネスチャンスと捉えている。

子どもの安全を第一に考えて、事故があった時に冷静に対応できるベテラン保育士を常駐させる体制を整えようとしたら支出の八割を人件費に回さないとできないと言われます。保育指針に沿って保育をしたら利益は望めないということ。その現実を無視した矛盾だらけの産業化であり、「保育は成長産業」という閣議決定なのです。その矛盾を、子どもの安全を犠牲にした規制緩和で穴埋めし、それを続けているうちに、引き返すことが不可能な状況にまで質の低下が進んでいる。

(コロナ禍の中で、国から補助が出ているにも関わらず、保育士を休ませその収入を削って利潤を追求しようとした園長・設置者については、去年繰り返し報道されました。違法行為も問題ではありますが、保育界で運営に携わる人たちのモラルの低下は、子どもたちの過ごす日々に数値に現れない様々な影響を及ぼしていく、そこが問題なのです。https://toyokeizai.net/articles/-/357849?page=4  https://dot.asahi.com/wa/2020111200011.html

http://kaigohoiku-u.com)

初心者といってもいい親たちは、こうした後戻りが難しい制度変更にあまり気づかない。「保育は全員パートで構わない」という規制緩和が子どもたちの成長にどういう意味を持つのか、よく知らない。親子の一生に関わることですからきちんと説明すれば慌てると思うのですが、政府がやっていることだし、みんな預けているのだから、くらいの認識の人が多くなってしまった。だからこそ、マスコミがしっかり伝えてほしいのです。親に自分の身に起こったことを報告できない三歳未満児の発達に、良くない保育士と過ごす一日がいかに決定的か。たった数時間の心ない扱いが、子どもの一生の心の傷になって残る可能性があることを繰り返し書いてほしい。少なくとも、そういう保育士を排除できない状況に園長たちが国によって追い込まれているという警鐘を鳴らし続けてほしい。

親たちの自覚がなければ政府と経済界主導の保育崩壊は止まりません。すでに、システム論や親の権利などを論じている状況ではないのです。

 

提言を依頼されて書いた衆議院調査局発行の「論究 第16号 2019.12」にこう書きました。

(共励保育園・こども園の長田安司理事長のツイートから)

「本年度の入園説明会が終了した。0歳児保育を希望する人が34名もいた。そこで、0歳から6歳までの発達の特徴 と、0、1、2歳児における母子関係の大切さを説明した。 世の中0歳児から預けようとする風潮が広がっているけど、それは間違いですと伝え、なぜ育休を取らないのか?と訴えた。 説明会終了時、拍手が起きたのには驚いた。夫婦が寄ってきて『説明会を聞いて本当に良かった!』と感謝された。その目には、自分で育てようとする意思がはっきりと見て取れた。」

拍手が起こった。そこに希望がある。きちんと説明すれば親は「この時期の大切さ」を理解する。この国の素晴らしさ、土壌だと思う。幼児と暮らしている人間は、自分を知ろうと、感性が開いている。遺伝子学の権威村上和雄教授は「命の暗号」という本の中で、 利他の気持ち、乳児を抱くことが人間の遺伝子をオンにすると書く。

(以下も、「論究」からの抜粋です。全文は、衆議院のホームページで読むことができます。)

乳幼児期における特定の人間との愛着関係(個別的継続的な養育者との関係)の大切さは、国連の子どもの権利条約にも「権利」として書かれている。母子関係の重要性と、その欠如が子供の将来の行動に及ぼす影響に関しては、60年代70年代にイギリスの児童精神分析学者ボウルビーの「愛着理論」や精神分析学者フロイト、「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンの論文にも繰り返し書かれている。世界の標準認識と言ってもよい。

 (エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか?」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるという。欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘する。)

 以下は、文科省が2005年に出した「情動」に関する検討会の報告書からの抜粋。

(資料6) 情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会報告書()

 情動の形成は、生まれてから5 歳くらいまでにその原型が形成されるとする知見がある。また、1 ~3 歳の時の記憶・感情は普段は忘れているが、脳の中には残っていて、ある引き金が引かれると動き出すという説もある。

 適切な情動の発達については、3 歳くらいまでに母親をはじめとした家族からの愛情を受け、安定した情緒を育て、その上に発展させていくことが望ましいと思われる。生まれてから5歳までの情動の基盤を育てるための取組は大変重要であり、その後の取戻しは不可能ではないが、年齢とともにより困難になると思われる。

 また、最近の脳研究によると、ヒトは過去の体験によって脳の各領域の発達度合いが異なってくると想定されるが、このことは、子どもの心の問題については、特に乳幼児・学童期の経験が重要であること、そして、学校教育についてみるならば、特に小学校までの教育が重要であることを示していると考えられる。

(ここまで「論究」からの抜粋です。)

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「子どもの権利条約」で特定の養育者との愛着関係が乳幼児の「権利」として書かれ、文科省がその重要性について報告していることが、「短時間勤務の保育士の活躍促進」という偽善的で誤魔化しとも思われる言葉によって無視されていく。

10年前に保育の質を下げる様々な規制緩和が始まった頃、役場の保育課の人が、「おおむねで始まって、望ましいで終わるような条例で子どもを守ることはできません」と、講演会のあと私に言ったのです。現場では政府による規制緩和以前に、すでに形は崩れ始めていた。子どもの命に関わることでありながら罰則規定が曖昧で、待機児童がいる自治体が規則違反で保育施設を閉園にすることはほぼあり得なかった。そして、首長選挙で「待機児童解消」は票を獲得するための決まり事のように叫ばれていた。(http://www.luci.jp/diary2/?p=2276  :保育界の現実……森友学園問題)

 

もう一つの問題は、政府にアドバイスするはずの「専門家」たちが声を上げないこと。

ひょっとするとこの方針を作ったのは、この保育の「専門家」たちかもしれない。「子ども・子育て会議」で11時間保育を「標準」と名付けたのですから、やりかねない。待機児童をなくすといえば何でも通ると思っている。こうした乱暴な雇用確保のための労働施策を「一億総活躍」「女性が輝く」と言って現場に押し付ければ、保育という仕事に昔ほどやりがいを感じない、長続きしない、パート希望の若者が増えてもおかしくないでしょう。このどんぶり勘定のような「待機児童対策」「保育のビジネス化」が実はめぐりめぐって子育てのイメージを崩し、質を落とし、「少子化」に拍車をかけているのですから本末転倒というより滑稽でさえあります。

少子化ですから、待機児童はいずれ無くなります。しかし、その前に起こる生き残りをかけた市場競争によって保育界はすっかり様変わりしてしまうように思えるのです。

マスコミが、もっと強い警鐘を鳴らさないことが不思議でなりません。政府が、「活躍」とか「輝く」とか「安心」という言葉を使ったら、まず背後に隠された意図があると思っていい。当座の労働力を確保しようという作為がある。だからこそ思い出さなければいけない。待機児童の中身である三歳未満児は、親から11時間離れることを「待っている」人たちではないということを。その時期の脳の発達を考えれば、彼らが過ごすやり直しのきかない日常が私たちの未来を決定づけているということを。彼らをどう「扱うか」が、国の「将来」そのものなのだという現実をもっともっと切実に報道して欲しいのです。

保育という仕組みを利用しているようで、実は、みな利用されているのです。

(あまり目立ちませんがこの施策に反対する報道もあって、これは「保育園を考える親の会」代表の普光院さんの書いた文章です。https://toyokeizai.net/articles/-/405631 :『保育士「全員パート化」容認が招く現場の疲弊』政府は「保育士不足解消」の一手としているが…。

保育に関してこれほど長く発言してきた人の意見を政府は政策を閣議決定する前に聴かなかったのでしょうか。聴かなかったのであれば、それ自体が問題で、聴いて無視したのであれば、子どもたちに対する裏切りです。)

人間社会において乳幼児は絶対な存在で、彼らは大切な役割りを果たしてきたということ、それを理解することがいま起こっている混沌を鎮める鍵なのです。子育ては、人間が子どもたち、特に幼児たちによって自分の人間性を照らされ、親らしくしてもらうプロセスであって、この「親らしく」が「人間らしく」の基本にあったわけです。その時生まれる「利他」の心が、社会におけるモラルと秩序の土台になっていた。仏教的に言えば、自分自身と向き合う機会を回避すると真の安心は得られない、ということ。

親子という選択肢のない関係を受け入れるゆとりが、夫婦や社会の自然な育ちあいを生み、寄り添うことを覚えた集団の行為が連鎖して、いつか地球の向こう側の紛争をなくすのかもしれません。

専門家か神社のお守りか、学問か祈りか、条例か子守唄か、資格か人間性か、私たちは不思議な選択を迫られています。選択肢はないにも関わらず……。

(最近のニュース報道でもお分かりかと思いますが、アメリカの民主主義は、選挙権とか人権という面で見ても実質55年の歴史しかなく、まだまだ中身が整っていない、形でしかないのです。1月6日の連邦議会への暴徒乱入(ほとんどが白人)、その後の民主党対共和党の議席をめぐる争い、罵り合いを見ていると、中身が固まってくる前に壊されようとしている立憲民主主義のもろさを感じます。異論はあっても、一応民主主義の象徴のように言われてきた国における人種や階層の分断が、いかに簡単に暴力に向かうか、私も実際に有色人種として差別を体験してきただけに、改めて最近の分断の凄まじさについて考えさせられるのです。根底で何が崩れていたのか検証する時が来ています。

自称愛国者による連邦議会への乱入、その後も続く警察官やシェリフによるヘイトクライムと言ってもよいような人権侵害を見ていると、人間の欲望が、「自由」という言葉を権利ではなく「利権」と重ねていった構造がよくわかります。ジェンダー(性差)という男女間の調和のために与えられた個性さえ、男女が闘うための道具に利用され、そこで生まれる不信感が根元的な分断を進めている。

学校「教育」も、実は形だけのものでしかなく、経済競争における道具や武器を子どもたちに手渡すことはできたとしても、民主主義の概念や憲法上の「平等」という趣旨さえ伝えきれていなかった。

所詮、資本主義社会のエネルギーは「平等」を目指すこととは相反するものですが、高等教育の普及とともに格差はますます広がり、今では全人口の1%が9割の富を握っているというのです。彼らの言う「平等」は「機会の平等」であって強者が勝つための免罪符でしかない。経済競争の助長と子育ての社会化が不信感と恐怖を生んでいる。その結果が、ここ五十年間に一気に進んだ家庭崩壊なのです。それに伴う児童虐待、DV、ヘイトクライムの広がりを見ていると、言葉(理念)に操られる危険性を感じるのです。)

「短時間勤務の保育士の活躍促進」、こうした「強者優先」の市場原理を進める言葉に騙されてはいけない。受け入れてはいけない。欧米も、コロナ禍の中、「怒りの矛先」の誘導ではもうどうにもならない「理念の空洞化」に気づいています。政治家たちは、争いへの誘導、扇動をやめ、人々の「怒りを鎮めること」を考えなければならない時なのです。この時期を逸してはならない。

誰が人間の心を鎮めるのか、それを考えることに新たな出発点があるのです。

遊んでいる幼児たちを眺めること。あの姿に憧れるのがいい。あの姿を守るために存在するのが一番自然で、簡単で、いい。

彼らの喜びがなぜあれほど本物なのか、なぜ夢中になれるのか、損得勘定を横に置いて、そのあたりを素直に、じっと考えることから気持ちを整えていくしかない。幼児たちが社会の一員として常に視界に入っていれば、民主主義は機能すると私は思っています。

幼児のいる風景の中で、人生を楽しむ。歌い、踊り、食べ、祝う、そんな日常が民主主義の土台であって、教育活動や福祉の主軸だととらえ、保育園、幼稚園、学校の中でだけでも保護者と一緒に0、1、2歳児と過ごす原体験を繰り返していれば、たぶん大丈夫なのだと思います。

(以前私が作ったドキュメンタリー映画の部分映像がユーチューブに載っています。そこに出てくるインドの風景に様々なヒントがある。インド人の修道女との会話があるのですが、輪になって踊ること、それが人生を豊かにする、と教わりました。調和しようとする人間の心の動きが見えてくると、やはりそこには善性が社会の土台を作る「働き」があって、希望が湧いてきます。ぜひ、このアドレスからご覧になってみてください。

シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

ヒューストン国際映画祭の長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。)

IAMのライブ配信演奏に参加します。京都からです。

IAMのライブ配信演奏に参加します。京都からです。

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https://www.ragnet.co.jp/livespot/25323が申し込みページです。

コロナ禍で、世界中でミュージシャンが演奏する機会を失ってしまい、どうしよう、どうしよう、という感じです。何しろ集まってはいけないのですから、こんなことが起こるんだ、と思いつつ試行錯誤をしています。インターネットが普及して、しかもその画質音質がとても良くなり、最近ライブ配信という手段も使われるようになりました。

今回は、私にとって初めてのライブ配信、京都からのIAMの特別ライブに参加します。同じ会場で前日にやるSayaさんのライブにも参加します。https://www.ragnet.co.jp/livespot/25322

 

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最近、ユーチューブで色んな音楽に触れる機会が増えました。検索すると、昔一緒に演奏した人たちの映像がたくさん出てくるのです。以前、自分が演奏した音楽と30年ぶりに再会したりできるのです。ライ・クーダーとやったSouthern Comfortという映画のサウンドトラック、音楽全体で30分くらいしかなかったため一度もCDやLPにならなかったのですが、検索したら出てきました。

ザキル・フセインというタブラ奏者がいるのです。

タブラはインドの太鼓。私が彼の演奏を初めて見たのは46年前、インドのデリーで、シタール奏者のビラヤト・カーンとのセッションでした。個人的にはシタールではニキル・ベネジーが好きで、もうずっと前に亡くなっているのですが、ザキルとの演奏映像がありました。そしてビスミラカーンというシャナイ奏者が好きです。カルカッタに居た時コンサートのハシゴをしていました。

インド音楽は即興演奏が主体ですから、タブラ奏者が誰になるかで随分グルーブ感が変わります。その頃は、サンタプラシッド、カナイダッタ、ザキル・フセインが三者三様で、面白く、のちに私がセッションをしたドラマーで言えば、ビンス・カリユタ、ジョン・ロビンソン、ジェフ・ポルカロの違いのような感じ。

人間には持って生まれたグルーブ感があって、お互いに影響し、お互いの音色を醸し出し合うのでしょう。今回京都で一緒にやるIAMもそのいい例です。尺八とディジュリドゥ、そしてピアノとパーカッション、楽器自体が三者三様の歴史を持っていて、人類のたどった異なる道筋がインターネット上で重なり合います。

インドの本式のコンサートは夕方に始まり、翌朝終わったりして、その場合、深夜と夜明け前に真打ちが登場します。その時間帯に、いいラーガ(音階:月のラーガ、夜明けのラーガなど)があるからです。2千人くらいいた観客も明け方にはすっかり減ってもう三割くらいしか残っていません。それで構わないのです。人間が大自然(神)と交わした取り決め、約束を守っている。

過去の約束や束縛に捉われなければ、もっとたくさんの人たちに聞いてもらえるし切符もたくさん売れたかもしれない。いえいえ、合理的とか自由とか言って、損得勘定で物事を考えてはいけないのです。

美しさは、度々最初の約束事の中に存在するのです。

インドで色々あたりを見回していた私はその頃二十歳、ザキルも同い年くらいだったでしょう。舞台と観客席に分かれていましたが不思議な出会いでした。10年後に彼の父親アララカとシタール奏者のラビ・シャンカルのコンサートで共演することになるのですが、当時は知る由もなく、ただただ彼の手の動きとそのリズム感の確かさに魅了されていたのです。その後、ラビジのコンサートでザキルとも共演しました。ジョージ・ハリソンがプロデュースしたラビ・シャンカルの全集にその音源が残っています。

モーリス・ジャール(ドクトルジバゴ、アラビアのロレンス、インドへの道ほか)の作曲で、「ジェイコブズラダー」というマニアックで伝説的なSF映画でもザキルと共演しました。ザキルのタブラ、バイオリンのL.シャンカルとブルガリアンコワイア、そして私の尺八という時空を超えた不思議な組み合わせでした。

ザキルはその絶対的な才能で不思議な糸を繋いでいきます。様々な分野の人たちとのセッションがユーチューブに載っているのですが、リズム、鼓動こそが生きる力で、それは常に鳴っているということがよくわかります。そうしたセッションの一つに、ダファー・ユセフというウードゥ奏者とのコンサートがあって、リンクを下記に張りましたので、よろしければ時間がたっぷりある時に聴いてみてください。(時間がたっぷりある時に……。)

人間は四歳の時の自分を手離してはいけない、そんな風景です。言葉を発しないコミュニケーションによってもう一つの次元を織り成す人間の魂が常に存在し、「絆」はこの次元で私たち自身が創造し続けている。そんな感じです。IAMでもそんな風景をつくりたいと思っています。

Dhafer Youssef, Ustad Zakir Hussain, Husnu Senlendirici – Sounds Of Mirrors Live:

https://www.youtube.com/watch?v=4Elh8WytKfA