幼児の姿・聖書から、そして仏教も・政府によって作られた保育新時代の悩み・就労支援か子育て支援か・一ヶ月遅れの謝恩会

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幼児と聖書、そして仏教も(人間は幼児をどう見るのか)

「幼な児(おさなご)のような心にならねば。天国には入れません」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れることです」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

一つ目の言葉を、私は、子どものころに聖書カルタで覚えました。子ども用のカルタになるくらいですから、キリストの教えの中でも、重要なフレーズなのだと思います。

二つ目は、もっと率直に「幼児の存在意義」を表しています。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書に書かれているこうした言葉を2000年以上、人々は生きる指針にしてきた。今や世界中にくさんいる、経済競争への参加を薦め、豊かになることを目標とする種類の経済学者たちは、きっと「聖書は神話に過ぎない」と言うのかもしれない。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。

しかし、神話であっても、ことわざであっても、そこに幸せになるための、人間たちが世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが、そうした言葉を生きるよりどころにしてきたのだと思います。

生きる指針が不透明になってきているこういう時代だからこそ、神話にこそ真実があるのではないか、と考え始めてほしい。

仏教の方は、もっと端的に教えの中で「欲を捨てること」を薦めます。そうすることで人間は執着から解放され、宇宙と一体になるというのです。「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」がシリーズになるくらいですから、日本という国は伝統的にこのやり方を愛し、信じてきた。そして、それが親心と重なっていた。親になることは、損得勘定を捨てること。そこに生きがいを感じること。「愛国心」を言う政治家たちは、まずそのことを思い出してほしい。この国の伝統文化や宗教的幸福論にもう一度丁寧に、慎重に耳を傾けてほしい。人類にとって、とても大切な「何か」がそこにあると思うのです。

お経を勉強するよりも子どもと遊ぶ時を大切にした良寛さま。幼児の中に仏性を見たのでしょう。人間が求める、生き生きとした美しい人間の姿が一番に顕れるのが幼児たちの遊ぶ姿なのです。

人は何のために生きるのか、それを考えさせ、幸せでいるために生きる、と教え続けるのが無心に遊んでいる幼児たちの姿なのでしょう。

 

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子どもと一緒にいるとイライラする、と言う親が時々います。(マスコミなどは、そう決めつけるような報道の仕方をします。)イライラしなければいいでしょう、と言うしかない。それが成長で、人間としての修行です。幸福を得るために自分を変えていけばいいのですが、こういう簡単なことを教えてもらっていない。修行が苦手ならば絆をつくればいいのです。自立なんて目指すよりよほど簡単で自然です。子育ては育てる人間たちの信頼と絆を生むためにある。子育てという最善の機会を与えられながら友達や相談相手をつくることをサボっていると、自分に嫌気がさし、イライラしてくる。子どもにイライラしているのではなく、自分にイライラしているのです。

そして、子どもがイライラしている、と親が私に言うのです。親のイライラが移ったのでしょう。まず、親側が落ち着いて、心を鎮めて、「イライラしちゃいけないよ」と言えばいいのです。言うことを聞いてもらえなければ、何か肝心なところが伝わっていないのですから、抱きしめて、可愛がって、甘やかせばいいのです。一緒に遊んでやればいい。話をすればいい。何でもかんでも要求を聞いてやればいいのです。一週間もそれをすれば何かが伝わります。時間がない、などと言っては、とても大切な機会を失うことになる。時間はあるのです。大切なものを伝える方法はいくらでもあります。その方法を考えることが人生の目的かもしれない。誰かが解決してくれると思うと、不平不満になって、それこそイライラの原因になる。社会制度や福祉などという仕組みで解決できることではない。それに頼っていると、いつか仕組みが壊れた時に自浄作用が働かなくなっている。子どもは、親がいれば大丈夫、それだけ思っていればいい。

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私は、キリスト教徒の家に生まれましたが、親鸞上人が好きです。祖母は毎日念仏を唱えていましたから、ご先祖様まで入れれば、真宗の家なのかもしれません。

幼児たちの「信じきって、頼り切って、幸せそう」、その姿に他力本願そのもの、目指すべき「安心」があると思うのです。人間の完成形、理想の姿が幼児、4歳児くらいにあると考えます。だから、常に幼児を眺めていないと人間はしくじるのだと思うのです。「社会で子育て」などと言って保育園を増やそうとする人たちは、なぜか忘れている。「子育て」が「社会」をつくってきたということを。

幼な児(おさなご)をたたえ、幼な児に信じてもらって、人間は自分に納得する。宗教はだいたいそんなことを言ってきたのです。

いま、「幼児を40万人保育園であずかれば、女性が輝く。みんなが活躍できる」と指導的立場にある総理大臣が国会で言うことに、もう少し、真面目に宗教者は異論を唱えないといけない。この国に、信仰を持つ政治家はいないのでしょうか。少しは、いるはずです。こういう時に声を上げないで、いつ発言するのでしょうか。

40万人の3歳未満児を親から引き離そうとする。そして、それをあたかも幸福論と結びつけようとする。こんなことは人類の歴史の中でありえなかったやりかたです。みんなで声を上げる時がきています。

 

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政府によって作られた保育界、新時代の悩み

私立の保育園は、保育士が一人辞めたり病気になったら、最近では、派遣会社に電話するしかない。そういう状況になってきました。すると派遣会社に「フルタイムの人はあまりお薦めできるひとがいないのですが、6時間、午後2時までのひとならいいひとがいます」と言われたりする。「子どもが学校へ行っている間なら」とか、「どうせ時給なのだから、疲れない程度に」とか、理由は様々ですが、短時間ならいいという人の中に「いい保育士」が意外といる。子どもを親から離して6時間以上預かると、預かっている方も幸せにはなれない、という種類の人類の法則が動いているのかもしれません。

6時間でいいから『いい保育士』にお願いするか、フルタイムで『お薦めでない』人にするか、こんな悩みは保育界にとってはまったく新しいものなのです。よく考えれば、様々な要素を含む、難しい決断です。それについて一冊の本とは言いませんが、本の一章、論文が一本が書けるかもしれない。

「いい保育士」の定義は非常に曖昧で、千差万別。その園の保育の仕方によっても、保育室の雰囲気によっても、保育士の組み合わせによっても基準は違ってくる。ある園で「いい保育士」が、他の園では「やりにくい保育士」だったりする時代です。だから最近、保育士たちが職場を転々として、「自分に合った」園を探そうとするのです。自然な動きに見えますが、一方で、選択肢があると迷いが生じ、育つべきものが育たなくなる。保育が伝承である限り、やがてこの「選択肢があること」が保育を異質なものに変えてゆく。

(親子という関係には元々選択肢がなかった。そこで人間社会の基本になる絆が子育てを通して作られた。)

そして、0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えた時に、先進国社会で、保育士は生きる指針を失い、学校教育が崩れてゆく。

(いまほど、保育の仕組みが多様化し、同時に保育(子育て)の定義が揺らぎ、園の方針に違いが出てきてしまったことはない。それが「保育士の当たり外れ」が余計頻繁に起こる原因になり、保育士不足の一因にもなっている。)

 

いい保育士とは

「しっかりしている」「任せられる」「子どもと居て、活き活きしている」「やさしい」「あたたかい」「きびしい」「他の保育士とうまくやれる」、色々ありますが、いい保育士の定義は実は子どもとの相性によっても変わる。

そこを辞めてきた人に聞いたのですが、サービス産業を自認する保育園では、「接客態度」「要領がいい」みたいな項目さえ「いい保育士」の条件として入れているようです。(この場合、「接客態度」の「客」は親たちです。これは非常に問題で、いい保育士というよりいい従業員というべきでしょう。)

6時間のいい保育士がいいのか、8時間のお薦めでない保育士がいいのか考える時、最低でも8時間、最長では国が標準と名付けて目標にしている11時間以上保育園で過ごす子どもたちにとって、担当の保育士が途中で替わる頻度が、どの程度心の安定や発達に影響を及ぼすのか、ということをまず考えてしまいます。

(最近では13時間開所が当たり前になっていますが、十数年前まで保育園は8時間開所だったのです。それを厚労省が長時間保育といい、白書で子どもに良くない、と言っていた。そして、朝、預かった人が夕方親に子どもを返していた。保育所、この場所に預けるというより、この人に預ける、という感覚が親側にもあったのです。)

早番、遅番、正規、パート、今では一日三人に担当される場合も少なくない。保育士の当たり外れだけではなく、交代する人との引き継ぎ、保育士同士のコミュニケーションの問題も重要になっている。引き継ぐ人が毎日替わる状況もある。保育園における「引き継ぎ」は、すでに子どもの一日をつなげない状況になってきている。そういう状況の中で、保育士が「いい保育」をあきらめている。親身になることをあきらめ始めている。そこが一番あぶない。

保育という仕組みを「子どもが育ってゆく環境」と考えれば悩みは尽きません。子育てと同じで、それが保育です。悩みが尽きなくて当たり前、それが親心というもの。だからこそ、「親身さ」だけは保てるような仕組みでなければいけない。

こういう今までありえなかった奇妙な悩みを、園長先生たちに与えないようにするのが、国が施策を考える時に最優先されるべきだと思うのですが、いま政府の進める新制度は、保育の根元に関わる解決しようのない「悩み」をどんどん増やしている。

「仕事」と割り切ることが絶対にできないのが、保育なのです。

大手の株式会社保育園の離職率を見れば、それがわかります。保育士やめるか、良心捨てるか、保育士は追い込まれている。

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就労支援か子育て支援か

病み上がりの子どもを連れてきた親に、もう少し一緒に居てあげてくださいと園長が言う。保育指針に「子どもの最善の利益を優先する。親を指導する」とあるのですから当然のことなのです。加えて、病気の時にこそ親子の関係は普段よりもっと深まる、と園長は思っているのです。自分が楽しようなどとは、絶対に思っていません。

すると、親が役場に文句を言いに行ったのです。そして、役場の保育担当が園長に「保育園は就労支援なのだから、そういうことを言ってもらっては困る」と言うのです。保育担当の役人が、保育所のあり方を法律で規定した保育指針を読んでいないということです。

埼玉県は、園と保護者の信頼関係を築くために「一日保育士体験」を奨励しているのですが、ある市でそれを進めようとした保育園が役場から「保育は就労支援なのだから、こういうことはしないでくれ」と言われた。保育所保育指針という法律に「保育参加」という言葉が入り、一日保育士体験が厚労省の解説DVDに入っていて、県がそれを奨励しているにもかかわらず、「就労支援」という言葉の方が役人の意識の中では勝っている。

保育は子育てであって、就労支援が第一義ではない、という意識を取り戻さないかぎり、いまの混乱は治らない。

 

一ヶ月後の謝恩会

最近、若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する、と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくる。なるほど。いい指摘です。(学校と保育園はその趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。もちろん子育ての方がはるかに深く、面白い。)

卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている、相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付き合う。お互いに相談し始める。お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

 

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国会での討論。

25歳から44歳の働く女性の数の推移は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばい。25歳から44歳の働く女性の数は2014年から15年にかけて減っている。女性の就業者数は待機児童の増減とは原因と結果の関係にならない。

この国会での質問に、首相がすぐに答えられないことが一番問題だと思うのです。就労支援、少子化対策と待機児童の問題は政治家や学者のイメージの中で進められた施策で、現実はそのように動いていない。現在の急激な待機児童の増加は、就労していなくても預けられるという規制緩和が主な原因だと思います。11時間保育を標準とし、就労証明なしで土曜日も預けられるようにしたり、三人目は保育料無料としたり。子育てに対する意識の変化が待機児童という現象に現れている。そして、それによる保育士不足が止まらない。

政治家が、保育士が去ってゆく姿から、幼児たちの主張を読み取らなければ、これからますます世の中が荒れてゆく。

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ツイッター(@kazu_matsui)の会話から

「保育園で親子遠足にいくと、お父さんの参加が多くなってきた。クラスの3割以上が参加してくれる。会社も「遠足か!」「行ってこい!」と休みをくれるようになった。」(園長)

「父親の保育参加、鍵ですね。調布の私立保育園で一日保育士体験を始めた一年目、父親の方が多かったと言われました。男たちも気づいている。競争社会よりも保育園の方がよほど自分のいい人間性を体験できる。それを体験しないと幸せになれない。」(私)

「所沢での1日保育士体験でも、だいぶん父親の参加が増えてきたように思います。少なくとも私の子供の通っている園では。他もそうだと期待したい。」(父親)

「嬉しいです。各地で園長たちが、父親の参加が増えたと言います。入園式や卒園式も含め、父親の行事参加が増えたのは10年くらい前からでしょうか。幼児期に実の父親が家庭に居ない率が3割を超えた欧米に比べ、日本の父親たちは何か気づいている。」(私)

(解説)所沢市では、すべて公立幼稚園・保育園で「一日保育者体験」が始まっています。市長さんから保育園に預ける家庭に、こういうのをやります、という手紙が行ったそうです。板橋区などもそうですが、市がバックアップしてくれると現場もとてもやりやすい。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1360914331329/index.html …

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html …

福井県:http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

高知県:http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/files/2014033100475/2014033100475_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_113264.pdf …

(ツイッターから)

ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/ に『保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について』を書きました。やはりここが分岐点になる。保育は就労支援なのか子育て支援なのか。サービスなのか一緒に子育てなのか。子ども優先、と保育指針には書いてある。そこが保育の質そのもの。

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「幼子が来るのを止めてはいけません。天国はこのようなものたちのためにある」

パズルの組み方が上手になること/一日保育士体験、高知県教育委員会の取り組み

2012年4月

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 埼玉県の特別支援学校で教師による虐待があったのでなないか、という報道がありました。状況を録音した音がテレビから流れて来ました。罵声と何かを激しく叩く音。怒鳴る相手が、母親にうまくその出来事を伝えられる能力のなかった、障害を持っている子どもだったことを考えると、その女性教師の叫び声はまさに異常でした。見るに見かねた職員によって録音されなければ、親にも知れず、そのまましばらく過ぎて行ったかもしれない。それが本来の人間の絆で成り立っているわけではないシステム・仕組みの恐ろしさだと思います。社会が子育てに関わることの恐ろしさだと思うのです。社会の実態が「人間たち」だったら良いのですが、システムが社会そのものになってゆくと必ず弱者を守りきれなくなる。だから、現実的問題は色々あったとしても、親の代わりはいない、ということを私たちは一つの常識として意識し続けなければいけないと思うのです。

 一昨年までその仕組みの一員として県の教育委員を4年つとめた私には、身内で起こった出来事のようで報道を見ながら呆然としてしまいました。無力感を感じました。

 保育士による虐待が家で報告出来ない三歳未満児によく起きるように、発言能力が著しく低い者たちに対してしばしば人間はこういうことをする。だからこそ、まわりの人間が気をつけて、いつでもどんなことでも話し合える絆をたくさんお互いに持っていなければならない。システム依存から起きる信頼関係の欠如が進み、社会全体の生きる力が著しく疲弊している状況のなかで、あってはならないことが起こっています。それを私たちは知っているはずです。

 児童養護施設でも、学童でも、老人介護の現場でも毎日どこかで起こっている。この国の根幹を崩してゆく不信感の連鎖です。それをどこで止めるのか。間に合うのか。

 でも一番はっきりしていることは、これからも幼児たちは生まれてくる。そして私たちには努力する責任がある。

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 私たちからいい人間性を引き出し、言葉の通じないコミュニケーションを私たちに強いることで想像力や理解力を高めてくれるはずの人たちが、虐待され始める。30年前にアメリカで私が見た福祉の現場が人間性を失ってゆく風景そのままです。性的虐待が高齢者福祉から始まり低年齢層に降りてゆく。そして、少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者という状況まで進むと、もはや止めることは至難の業です。人間たちに絶対的に必要な「絆」がゆがみだすと、強者が幸せを求めることが弱者の不幸につながりはじめる。家庭が原点になり学校教育が崩壊してゆく。優秀な教師、良識のある人材がある日突然ベッドから起き上がれなくなり、 教育現場から去ってゆく。そして、急速にシステムは心を失い形骸化してゆく。そのスパイラルが、日本にも確実に起こり始めている。その方程式に日本も組み込まれ始めているのです。


 「子育て」という選択肢のない一つの「苦労」が社会に信頼関係と祈りと絆を生む、という自然の流れが止まりつつある。

 数年前、埼玉の特別支援学校で、教師たちが重度の障害を持った子どもたちに立派に育てられている姿を見ました。身動きが満足に出来ない中学生が、言葉にはならない言葉で、教師をゆっくりゆっくり育てている風景を見ました。その日教えたことが次の日には無になっているような関係だからこそ、結果を求めず、教える側の人間性が育つ。

 親心とは心の底で損得勘定から離れること。特別支援学校で私が見た教師と生徒の関係は、親が乳幼児を育てる風景、乳幼児が親を親らしくする風景と重なるものでした。

 視察のあとに私が、そう感想を述べると、そうなんです、私たちが育てられているんです、と涙を流す先生がいました。だからこそ今度の出来事は悔しいし、腹が立つ。管理する者たちの手で止めることが出来たはずだから、言い訳がなりたたない。言い訳してはいけない。

 こうしたことが起こっていることが現在の子どもたち、特にコミュニケーション手段を制限された弱者を囲む環境なのだということを社会全体で認識し、福祉や教育といったシステムが人間性を育む場、教師や保育者と親たち祖父母たちの間に信頼関係が育つ場になるように変えていかなければなりません。一緒に幼児をながめれば、かならず人間の心は一つになります。それがスタートだったのです。

 

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 障害児、障害者、認知症のお年寄り、0才児も含めて寝たきりの人、一人では生きられないであろう弱者はどんな時代にも社会の一部として存在しました。最近専門的な名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい普通に一員として居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。

 古典落語の重要な脇役与太郎や若旦那は非生産的愛すべき人間です。そして、日本の昔話や民話の主人公に意外に多いのが怠け者。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見まわりの負担になったり、一人ではなかなか生きられそうにないひとたちと、パズルのように組み合わさって私たちは生きてきました。彼らを愛し、

 受け入れること、が幸せだと知っていたのでしょう。母性の国なのかもしれません。幼児たちから日常的に学んだのかもしれません。この人たちがいないと人間は淋しさに包まれる。生きている意味が見えにくくなる。自然を見つめ、自分の弱さを自覚出来ないとパズルの楽しささえ見えなくなる。ほんとうに様々な次元で、お互いに少しずつ教えあい、助け合い、生き甲斐を交換しあい、感性を育てあうのがこの国の伝統だったのです。

 そのパズルの組み方が上手になるために、なるべくたくさんの人たちが、0歳から5歳までの幼児とゆっくり時間をかけて付き合うことが必要だと思うのです。とくに0歳から3歳までの人間たちは特別です。この人たちを理解すること、否、「理解しようとすること」が人間社会が調和する元にあった。一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに、それとなく教えてきたのだと思います。

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 親と保育者、教師の心が「子育て」で一つになっていれば、保育者や教師による虐待は起こらない。だからこそ見張り合いではない信頼関係の土壌を耕す意味で、「一日保育者体験」を進めていかなければならない、と思います。

 2年前、全国教育委員長教育長会議の分科会で目の前に座った高知県の教育長に、私は一日保育者体験について熱心に説明しました。分科会での教育長の発言を聴いていて、情熱の人だ、この人には通じる、と思い、気合いを入れて説明しました。一ヶ月後に高知県の教育委員会から埼玉の教育委員会に部長さんと課長さんがやってきました。埼玉県の福祉部が作った事例集やポスターを見せて説明したのだと思います。(この辺りは、もうよく憶えていないのですが、高知県のホームページを見ていると品川区の影響もあるような気がしますし、埼玉県の事例集の影響があるような気もします。はぐくむ会の雰囲気も取り入れています。本来仕組みというのは、互いに育てあい育ちあう証。改良しあう、進化してゆくのがいいのです。子育てに正解がないように、仕組みにも実は正解がないのです。子どもたちのために、という物差しを中心に、確認しながら進化してゆくのがいいのです。)

 高知県から来たひとたちが「親心をはぐくむ会」に参加している園に、実際に「保育士体験」の見学にこられました。「はぐくむ会」から花園第二保育園の高木園長先生が代表で高知県まで説明に行きました。そして、最近になって、高木先生のところにきれいな高知の「事例集」が送られてきました。すぐに、それを高木先生が「速達」で、私に送ってくれました。とてもわかりやすく、取り組みの成果と意気込みが載っていました。良かったという親たちの感想と、よかったという保育者たちの感想が各園ごとに並んで載っていました。両者の思いの上に、子どもたちの日々の生活があるのです。すごい、すごい、と高木先生と電話で喜びを分ちあいました。

(「プロセスと目的は一体でなければならない」:マハトマ・ガンジー。)

 一日保育士体験の元にあるのは、「弱者が強者から善性をひき出す」というガンジーのサティアグラハ。保育士体験をした親たちの感想文を読むとそれがよくわかります。父親たちの感想文を読むといっそうわかります。親心をはぐくむ会のホームページにその瞬間がたくさん積み上げられています。


一日保育者体験/

高知県教育委員会の取り組み



保護者の一日保育者体験推進事業

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/hogosyanoitiniti.html

一日保育者体験実施園一覧表

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601//hogosyanoitinitijisien

保護者の一日保育者体験実施マニュアル

http://www.pref.kochi.lg.jp/uploaded/attachment/53460.pdf

茅野市の取り組み

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/03091001/03091001.html

茅野市の保育士たちの感想文

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/Files/1/03091001/attach/hk_taiken_9.pdf

品川区の取り組み

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000011100/hpg000011037.htm

 他にも、さいたま市、春日部市のホームページでも「一日保育士体験」の取り組みが紹介されています。「子どもたちが喜ぶからやる」それが根幹です。大人たちの心が一つになる原点です。

 埼玉県議の森田俊和さんの県議会での「一日保育士体験」に関する質問と福祉部の答弁は以下のページで見ることができます。森田議員は子どもが「育む会」の会場にもなっている熊谷のなでしこ保育園に通っていて(今年卒園?)、育む会の准メンバーといってもよい人、三度に一度くらい毎月の勉強会にこられます。

http://www.pref.saitama.lg.jp/page/gikai-gaiyou-h2206-j030.html

映像で見る一日保育士体験

 http://www.youtube.com/watch?v=jvu4mKfzmJU

大学生の早期退職、詩人、内閣府





 同じテーマに関心を持っているひとの輪から、選ばれた情報が送られて来ます。

 新聞に、「就職できず・早期退職」/大学生ら2人に1人/高校生は3人に2人(一昨年春・内閣府調査)という記事がありました。(毎日3/20)八王子の共励保育園の長田先生がFAXで送ってくれました。

 内閣府は、「ミスマッチ(求職者と雇用者の意識の食い違い)」対策などをいそぐため、近く有識者による組織を設置し、6月をめどに就職支援の拡充策をまとめる、と書いてあります。

 ミスマッチが問題ではないですよね、これは政府の就職支援で解決出来ることではなく、若者たちに働く意欲がなくなっているだけですよね、と電話で長田先生としばらく話します。幼児と人間たちの関係(幼児も人間ですが…)、人生の初期の体験が社会の土台を築いている、特に意欲という面でかなり影響を及ぼしている、そんなテーマで二人でしばらく意見交換します。

 少子高齢化問題もそうなのですが、こういう現象の背後に、現在2割、10年後3割の男たちが一生に一度も結婚しない、という一つの集団としての意思があると思うのです。ひとつの国の中で、ある条件のもと、集団としての無意識の意識が動く。たぶん人間の進化にかかわる力学がそこにあって、その原因をだいたいでいいから探り、想像して対応しないと意味がない。対応の仕方がすでに動いている力学に要素として組み込まれている場合があるので、視点や思考の次元を変えて渦巻きの外に一度出て考えないと、対処するほどはまって行ったりする。ひと世代前の常識ではかり、ちゃんと働けとか忍耐力が足りないと彼らを責めても、自らの意思で辞めて行く者を引き止めることはできません。いまの「社会」という観点からは間違っていようとも、彼らは彼らなりに幸福になろうとしている。

 

  「三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは安心の土台がないから新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもには、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる」

 長年現場で保育に携わってきた長田先生が常日頃言っていることですが、もちろん全ての子どもに当てはまるわけではありません。人生には出会いがあり、祖父母との関係、保育士や教師との関係も人格を形づくる重要な要素です。しかし、人間が哺乳類である以上、まず親子関係、特に母子関係に特別な意味を持たせるのは正しいと思います。これまで人間たちがその進化の過程でほぼ選択肢がないこととしてやってきたことが急激にされなくなってきているとしたら、それは人間の遺伝子、仏教で言えば修羅のようなものと摩擦をおこし始めてもおかしくない。その第一に福祉や教育の普及で「子育ての時間と意識がかなりの割合で親から離れたこと」が挙げられると思うのです。

 幼児期の発達を観察し現場で試行錯誤し、同時に親子関係を見つめてきた保育園の理事長の発言です。これが正しければ、国会に消費増税法案と抱き合わせで提出される「子ども・子育て新システム」は、長期的な国家戦略上の最重要案件といってもいい。雇用労働施策の一部として、5年以内にもう45万人未満児(三歳未満の乳幼児)を様々な手段を使ってシステムが預かる(社会で子育て)という政府の方針が増々意欲に欠ける子どもを増やしてゆくことになる。子育ての第一義的責任は親にある、という常識が崩れてゆく。

 人間が社会を形成する時、子はかすがいではなく、実は子育てが根底にあるかすがいでしたから、社会で子育てという施策はますます絆を希薄にし、崩壊家庭を増やし、生活保護受給者を増やしてゆくのでしょう。

 生きる意欲が減少しているいま、家庭崩壊の流れは一度崩れ始めたら止まらない。


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 子ども・子育て新システムで幼保一体化プロジェクトチームの座長をつとめている学者さんが言うのです。「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある」(NHK視点論点)。放送を聴いていると、社会(保育所)が育ててくれば産む、ということらしい。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする美学ととらえることもできます。この方が自然でしょう。自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれない。人類にとって危険な一線がそこにあると思えてなりません。

 

 最近の高校生男子の草食系化や、平均年齢34歳二百万人ともいわれるひきこもりの数を考えれば、「がんばりなさい、君たちには無限の可能性がある」「夢を持ちなさい」といった安易なモチベーショントークではどうにもならないところまで来ています。励ましのように聴こえるこうした常套句は、真面目に受け止めると自己責任につながる。経済競争が社会の基盤になり義務教育が普及してから広まった強者の論理から出ている言葉だと思います。生まれつき自力精進型の人か強運の持ち主を除けば、自己責任は自己嫌悪につながる可能性が高い。そして、この自己嫌悪に人間は弱い。他人の責任か神様の責任にするほうが健康的です。地球上に現存する神や仏を祀る場所の多さを考えれば、それは明らかです。祠や神殿、社や神像の数を精神科医の数が上回った時、人類はどういう時代を迎えるのか。

 連帯責任と神様の責任は、人間社会に「絆」を育てます。

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 自立の先に「孤立」があるのでは、と若者たちは気づいています。無意識のうちにそれを避ける。

 経済政策にいま必要なのは文化人類学的視点と幸福論でしょう。欲に頼って経済をのばす時代は終わっています。この国では。

 (草食系男子は実は育ちの良さそうないい子たちで、繁殖しないかもしれませんが、地球の平和に貢献しそうなひとたちだと私は感じます。母親たちの意識が動いているのかもしれない。人間が豊かさに弱いことの反動だと思えばいいのかもしれません。)

 

 こんなことも考えます。

 現在、若者の多くは消費者であって、生産者にはなれない。

 育つ過程で消費者であることに慣らされている。消費者であることを義務づけられていると言ってもいいかもしれません。数人の小学生がゲームに熱中する姿を見ていて特にそう思います。

 嫌な上司に当たって早期退職しても、内閣府がミスマッチ対策と言って有識者を集めてくれる。それを当然のことと思う。

 内閣府の姿勢はサービス産業的発想です。消費者と生産者の中間に位置するサービス産業が意識の主体になり始めている。学者と政治家というサービス産業の中核を成す人たちが施策を考えているのですから仕方ありません。若者たちはますます消費者の立場に置かれて行くのです。

 福祉もそうですが、社会全体のサービス産業的発想への偏りは、政治家が次の選挙に受かりたいという心理が動機で起こっているような気がします。これもまた民主主義の一つの欠陥と言えるのかもしれません。

 (歴史の浅い民主主義という仕組みの一番の欠陥は、親しか投票出来ないこと。「親心」という人間性が薄まると、発言できない者たち、特に幼児の希望、願いを想像しなくなるか、後回しにするようになる。)

 生産者はめぐり巡って自分のために働くのですが、そこには必ず「誰かのため」という意識が存在します。それが人間の本能に沿ったかたちで社会に経済力を与えてきました。経済力の基本は絆をつくろうとする力です。

 簡単に言えば、人間は自分のためには中々頑張れない。誰かのため、友人や恋人、特に家族のためになら頑張る、ということです。家族を持とうとしない男性がこれだけいる、ということが問題の根本にあるのです。

 日本の昔話の主人公には怠け者が多いし、古典落語の重要な登場人物が与太郎です。人間が意欲を持つためには、必ず弱者、先天的な非生産者の存在が必要です。弱者や非生産者の役割を理解して、意欲が生まれるのです。だからこそ乳幼児とつきあうことが宇宙から義務づけられていたのです。

 

 人間の心理は不思議で、例えば「男女共同参画社会」という言葉を市庁舎に掲げ、ニュースや報道で流したり、法律をつくったりすると、宇宙に向けて男女が共同していない、と宣言することになってしまい、実際そのような社会になってしまうことがよくあります。「言葉」は背後で人間を誘導し支配することがあるのです。

 特に法律になる言葉には気をつけないと、言葉でがんじがらめになってゆきます。法律は作ればつくるほどいいのではない。17ヶ条くらいで治まっている社会が良い、ということを忘れてはいけません。特に法律家や立法者はそれを念頭に置いて活動しなければいけない。法律で、「助け合っていない」と宣言するより、遺伝子の進化の歴史に近い所にある慣習とか本能とか伝統、常識と呼ばれるものの存在理由をもう一度理解し、移動手段の発達とコミュニケーション網の発達で異常に膨らんだパワーゲームに巻き込まれないようにするといいのです。自然に近い体験から自分自身をまず体験する方が重要です。だからこそ、一番効き目がある方法として、一日保育士体験、保育者体験を薦めているのです。

 

 すごい感性で見抜く人がいます。私が子育ての詩を送ってもらい感銘した小野省子さん。http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

 この人の詩を読むと、詩人というのは、一番感性の磨かれた人たちではないか、と思います。他の芸術家に比べて生産活動から遠いところにいるからでしょうか。レオ・レオーニのねずみ「フレデリック」を思い出します。



  不特定多数のだれでもいいだれかへ   

                  by 小野省子



すべてがくるまって並べられて
売られている時代に
私たちは産まれたんだ
不特定多数のだれでもいいだれかのために
どこかのだれかが機械じみて作った何かを
私たちは整列して受け取って生きてきた

手の届かない品物はあきらめ
商品が無くなれば終わり

ああ 私たちはだんだん
熱い欲望を失ったと思わないか?
(私たちの体は クローンのような寸分たがわぬ商品に
育てられすぎたんだ)

自分のことを
くるまって並べられた
不特定多数のだれでもいいだれかだと思った瞬間
私たちはもう
不特定多数のだれかの中からだれかを
選ぶことができなくなるんじゃないのか?

私のためだけに作られた熱いスープをすすり
あなたのためだけに作った甘いデザートを差し出し

むかいあって わらいあって こぼしあって
おこりあって なぐさめあって ないたりして

そうして口に運びながら
そんな延長線上に
セックスはあったんじゃないのか?



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園長先生からのメール/システム疲労及び人類にとっての選択肢

もう春です。

卒園児が旅立ち・・・

新しいお友達が入ってきます・・・

私はこの季節が大好きです。

では、またお目にかかる日を楽しみににております。

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先日講演した保育園の園長先生から、親たちの感想文に加えて、メモが届きました。

こんな心持ちが、この国を支えているのだな、と私も暖かい気持ちになりました。

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 今年も、色んなところへ行って講演しています。

 人間は、生きて試みをしています。市政においてもそこに生きようとする人間が関わっていれば、試行錯誤があり、様々な試みや状況を目にします。呼ばれて行った市の保育の様子子育て環境を知るのは楽しみでもあります。毎年100を越える市に行くのです。たくさんの事情と考え、習慣と知恵に出会います。そして、一日保育士体験を薦めています。

 駅まで迎えに来てもらった役場の人に車の中で質問します。

 幼稚園と保育園の割合、公立と私立の割合を聞いて、それに窓から見える景色を関数として加え、次の質問を考えます。

 保育という仕組みとしてはこの国の将来の心のインフラを担う分野で、いまの制度内でこれほど多様な体制を組むことが出来るのかと思うと、驚きです。子育てを取り巻く環境は様々で、家庭保育室という名で100人規模の認可外が営利目的で動いている市があるかと思えば、保育園に待機児童がいないのに、幼稚園に待機児童がいる、という市もあります。そういう市では、三歳で入れなかった子は一年待って二年保育に入ります。五才児はほとんど全員が一年保育の幼稚園に行く、保育園の卒園式は四才児、という風習を祖父母の意識でしょうか、伝統として維持している県があります。

 新システムを踏まえこの先どうなるのかと、子どもたちを思い不安になりますが、同時に、子育てに対する首長の意識によってどういう方向にでも行ける気がするのです。良い意味で。

 7万人規模の市でした。4、5歳児は全員幼稚園、保育園は3歳まで、という方針を決めて施策をしているのです。こんなことも可能なんだ、と思いました。市全体で幼稚園型認定子ども園を目指している感じです。なるべく親が育てる、という日本的考え方が背後にありました。幼稚園プラス預かり保育で共働き家庭を支援しているのですが、考え方としては、幼稚園に学童保育がついているという方向性でしょう。松伏の若盛先生に報告したら喜びそうです。

 日本には、田舎で100年くらい前に学校教育が幼稚園とともに発達した地域があって、まれにそういう所では、住民たちが地域や家庭で乳幼児の子育てをするという意識を強く持っています。それが人間が集団として結束する土台だという、昔からの伝統や本能が自然に働くのでしょうか。そういう可能性を秘めている地域は、公立幼稚園が私立より多いかどうかで見分けることが出来きます。遡っていくと、江戸時代の藩主の考え方、藩校や寺子屋の充実、地域の進歩的大地主の意識といった、歴史の水脈のところへいきつくような気がしてとても面白いのです。(この辺の歴史を垣間みると、役に立たない「学問」の方が、役に立つ「福祉」よりもはるかに人類にとって安全で無害だということがわかります。ただし、「学問」が「福祉」をコントロールする、という段階に入ってゆくとこれは非常に危ない。)

 時間はその地域で縦につながっていて、人類にとっての大切な選択肢、オプションなのだろうと思います。(地球規模で見れば、日本という国が大切なオプションだと思います。)こういう多様な選択肢を持つことが、現在私たちがシステム疲労によって直面している諸問題の解決の糸口になるはずです。時間をさかのぼって考える、失ったものを検証する、ある集団が育ててきた意識を社会の安定という視点から分析する。それが時間を越えて糸口になるからです。

 ある地域の集団が持つ「あたりまえ」という次元の絆を研究することで、いま行き詰まってしまった経済論主体の絆の希薄化を方向転換しなければいけません。

 その市も,最近になって新興住宅街が出来たとはいえ、何かそういう人間らしい非論理的な雰囲気を持っていました。

 幼稚園がすべて公立で保育園もほとんど公立という状況があるから出来ることではありますが、ちょっとびっくりしました。

 人権課の男女共同参画推進委員の研究会で講演を頼まれたのです。

 男女共同参画の第一は子どもを作ること、第二は育てること、その感覚が失われると弱者たちがその天命を果たせなくなる、という講演をしました。盆栽や人形が、どうやって私たちを人間らしく育てるか、という話をしました。

 質問の時に女性委員の一人が、委員をしていて何かおかしい、おかしいと思っていたのですが、少しすっきりしました、と言ってくれました。

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ロータリークラブでの講演と園長先生たち

 茅野市の諏訪大社ロータリークラブで講演しました。会員の方たちは揃いのエンブレムのついたブレザーにネクタイをきちっと締めて前の列から順番に座っています。一般参加も可能だったので、その後ろに保育園の園長先生たちが座っています。園長研修会や親たちへの講演会で私の話を一度聴いたことのある方たちが、もう一度と集まっていました。茅野市周辺の市町村からわざわざ聴きにきて下さった園長先生たちもいました。二つの集団の違いがこれほどくっきりハッキリしている講演会はいままでなかったような気がします。ロータリークラブ集団は全員男性、園長集団は全員女性、ビジネスをして来たひとたち、保育をしてきたひとたち。しかし、年齢は近いのです。

 講演翌日、園長先生集団の代表的存在の方から電話をいただきました。ロータリークラブ男性集団が感性豊かに、時に大笑いしながら、、「保育、子育て、親心、祖父母心」の話や一日保育士体験の話を聴いているのを見て、園長先生たちがとても嬉しそうでした、ちょっと子どもにも見えるあの男性たちの反応を見たのがとても良かった、安心した、という報告でした。
 ひょっとすると、男女で一緒に子育てをし、大笑いしながら心を一つにするということが本当は簡単で、充分可能なんだ、という証明の瞬間だったのかもしれません。それが園長先生たちには嬉しかったのだと思います。こういう時代だからこそ、子どもたちのために、この国の将来のために、自分自身をより深く体験するために、経済競争の次元ではなく、もっと古い時代の感性で、男女が年齢を越えて、幼児を眺め心を一つにすることが望まれているのだと思いました。違った選択肢を選んで異なる道を歩いた人間たちが、お互いにホッとする風景がもっと生まれなければいけないのでしょう。
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言葉、翻訳、古さ、と次元2

 150年くらい前に、日本で,欧米語の翻訳という過程で「社会」とか「自由」という言葉が現れ、使われるようになった時に、本来「ある」もの(語らずともよいもの)が人為的なもの「概念?」になり始めたような気がします。一見広い範囲を持つように思われる「概念」が現実と混同され、TPOまたは趣味と都合によって中身(意味、共通理解)にばらつきがでてくる。宇宙の意識が,人間の意識の枠のなかに治まると思ったのが、解体され、人間の意識を一体に保つ役割りが希薄になってくる。体験から生まれるはずだった「言葉」が一人立ちして、人の意識を支配するようになると、人間は宇宙の意思によって作られたことを忘れて、だから、いまこれほどシステムにこだわるのか。水増しされ膨張しすぎている学問(本来の意味ではない)が加わると、言葉を発しないひとたち物たちとの会話がないがしろになってゆく。

 以前、沈黙との対話が人間の絆を支えていたことが、記憶の中でぼやけてくる。
 フィギアと話し始める若者たちは、ひょっとして人間性を守ろうとしているのかもしれない。

 品川で、誕生日に、プレゼント要らないから、と言って一日保育士体験を親に頼む子どもの話を聴きました。子どもたちは自分の親を自慢したい。親たちに園での生活を自慢したい。その気持ちを大切にすれば,利害関係ではない絆が自然に生まれるはず。

 子どもたちは何か出来るようになるのが嬉しいのではない。出来るようになったのを親に見てもらうのが嬉しい。子どもたちは生きることが、育てることと一体になっている。それに気づいた時に、損得ではない関係の心地よさに親たちが引き込まれていゆく。

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「行政アドバイザー」を依頼されて/部族の感覚

 今月、茅野市の子どもたちの育ちに関する「行政アドバイザー」を依頼されました。去年から続いてきた市との関係は、野菜や手作りのゼリーをお土産にもらったり、料理の仕方を添えたかんぴょうをもらったり、保育園を全部まわったりしているうちに、市長や教育長さん、子育て支援課のひとたちと本音で話せる関係になっていました。就任式があって、そのあと市長さん教育長さん、福祉部のひとたちと夕食をいただきました。

 学校を管轄する教育委員会が、幼児期の保育をどうとらえるか、はいまとても重要です。あの子たちがこっちへ来る、ということを忘れて進むと、学校教育を支えて来た保育が「雇用・労働施策」に取り込まれてしまいます。
 (経済財政諮問会議がいまの保育や親のあり方にどのように影響を与えてきたか繰り返し書くことはしませんが、経済学者の多くが、子育てが生みだす絆がめぐり巡ってどのように経済と関係しているか、理解していないように思えます。経済と幸福の関係さえ理解していないと思ってしまうことがよくあります。家族の絆が安定しなければ競争力は落ちます。競争原理で動いているアメリカで、英語も満足にしゃべれない移民一世が、二世三世に比べて経済的に成功する確率が高い。発展途上国の家庭観を持ち、発展途上国の教育を受けた人がなぜ市場原理の中で成功するか。そのあたりを経済学者たちが理解していない。
 システムを市場原理や競争原理に変えたからといって保育がすぐに変わるわけではないのですが、これまで保育を支えてきた経験豊かなな主任さんが定年退職になりはじめています。新任の保育士が数週間で辞めてしまったり、理事長設置者が子どもを第一に考えなくなったり、雇用・労働施策に振り回されてすでにこの20年くらいに起ってしまった保育界の変化は、やはりそうとう日本のいまの姿を形づくっていると思います。現場を耕していけばそれがいいのだ、と思うようにしています。上で何が行われようと、ひたすら幼児の私たちを信じてくれる力を信じればいい。彼らは一人では生きられないのですから。それは人類にとって素晴らしいことなのですから。)
 「一日保育士体験」を親たちがすることで、子どもたちが「どの子にもおとうさん、おかあさんがいる」と理解する。親たち全員にさせたいのはそのためです。子どもたちからの信頼を取り戻すために「全員」に向かって努力することが必要だと思います。毎年「おともだち」のお父さんお母さんとひとりずつ順番に、一日遊んでもらったり、教えてもらったり、抱っこしてもらったり、本を読んでもらったりすることによって、卒園して学校へ行ってからのいじめがなくなる。なくなることはないとしても、半減するのです。「おともだち」が個人ではなく「一家」として意識されれば、親子としての存在が認められれば、いいのです。いじめは、その子の一生を左右する体験です。この体験が、数十年日本の社会に意識として残る。できることはすぐにやらねばなりません。
 お父さんお母さんが、毎年一日、卒園までに三・四回これを体験することで、自分の子どもの成長だけではなく、一緒に育っていく子どもたちの成長を一つの敷地の中で見る。「自分はほかの子たちにも責任があるかもしれない」と頭の隅でふと感じます。我が子の環境問題は他の子たちなのだ、と理解します。人類が何千年も感じてきた「部族」の感覚です。石器時代にすでにあった、人類が生きていくために一番大切な運命をわかちあう者たちの絆です。それを司っていたのが「子育て」でした。
 子育ての周辺に存在した様々な儀式は、主にそれを確認する儀式でした。
 幸い茅野市では、学校と保育園・幼稚園が垣根を越えて子どもたちの成長を一緒に考えようとしています。第一に学校側が0歳から5歳までの子どもの成長の重要性を自分たちの問題として認識することから始まります。将来その子たちの成長を支える親たちをいま育てるのは自分たちだ、ということも意識します。高校生は数年後には、親になってこの仕組みの中に還ってくるかもしれない。
 保幼少連携と言われるのですが、まだ本質が理解されていません。授業がやりやすくなるために、くらいの視点で行われていることが多い。乳幼児、幼児たちがどのように人間社会に人間性を与えてきたか、彼らがどのように人間たちから良い人間性をひきだし、言葉で確認するものではない沈黙の次元の絆を生み出してきたか、までは理解されていません。思考がシステムの範疇を出ないのです。
 学校教育を支える土台がどのように作られて来たか、ひとり一人の教師が知ることは大切です。0歳、1歳、2歳で乳幼児がどのような役割を社会で果たし、三歳、四歳、五歳という特徴的な発達の段階で子どもがどのように自制心を身につけるか、そのあたりを教師も知ると子どもが違って見えてきます。
 この時期に親がどう親らしくなるのか。家庭と、保育・教育をする側との信頼関係がなければ学校教育は成り立たなくなる、成り立ったとしてもそれは子どもたちの笑顔と一体のものではないかもしれないことを知る必要があるのです。
 いじめは、「絆を作っていない」大人たちに対する子どもたちの警告です。
 子どもたちを教育して解決しようとすれば本末転倒になる。親身になって教師が生徒を指導し、いじめをなくそうとすることは重要ですし尊いことです。たとえば、学校で毎朝必ず輪になって踊ったり歌ったりすることはもっと古い、遺伝子にかなった石の時代のやり方です。しかし、いじめの本質は親同士、そして家庭と学校の信頼関係の希薄化にあるのだ、ということを前提に取り組まないと、ますます親たちは学校に子育てを依存し、教師は苦しい立場に追い込まれてしまいます。
 「一日保育士体験」で、父親を早いうちに人間らしくすることができれば、それが出発点になると思います。入園した年から「全員」を目指して、教育委員会と福祉部が協力しながら努力すれば地域の空気が変わってきます。
 焦点をしぼって徹底的に、ほとんど選択肢がないまでに進めようとしなければ意味がありません。進むことで生まれる絆もまた大切です。目的はそれを達成する過程がすでに目的を果たしたことになっている、のが一番いいのです。
 子育てをするということに選択肢はない。子どもは親を選べない、親も子どもを選べない。だからこそ人類は幸せだった。
 育てあうしかなかった、という感覚を社会全体に取り戻さなければなりません。

 茅野市がいつか、県の教員の異動があるたびに、「あそこへ行って教師をやりたいね」と囁かれるような市にならないかな、と願います。学校教育の質は教師の精神的健康、幸福感です。こういう時代です。社会は、教師にとっても子どもたちにとっても学校教育が気持ちよく成り立つかどうかで、その善し悪しを計られるべきだと思います。そして、それが成り立っていることに親たちが感謝する。感謝をする人間が一番成長することになっているのです。
 (私が学校に関してこうしたビジョンを持つのも、人生を振り返って学校のイメージがとてもいいからだと思います。教師の感性が感謝に磨かれていれば、学校はなんとかなります。そこで頼りあう、信じ合うことを学べばいいのだと思う。自立、という言葉は、まだまだいまの時点では人類には早いのだと思います。)

園と家庭の信頼関係



(一日保育士体験の実施を始めた保育園からお手紙をいただきました。保育士たちを、もうこれしかない、という予測でこんな立場に追い込んでいる私も辛いのですが、これから子どもたちが過ごす大切な時間の質のために、お願いし続けるしかないのです。子どもを思う保育士たちが理解してくれる、それが救いです。ぜひ、親たちに知って欲しいのです。この挑戦を受け入れてくれる保育士たちの心は「利他の心」だということを。

 行政や政治家が子どもを優先して考えようとしない現状の中で、いつでも親に見せられる保育をし続けるということは簡単ではないということを。)

(中略)

 保護者様には、4月の保護者会、また詳細は書面にてお知らせしましたが、特に質問を受ける事は無く、対象の保護者様全員がすぐに予定を入れて下さいました。ただ、始めて2回実施しただけなのでまだ何とも言えませんが、アンケートには・・・

 「3年のうち1回で十分(今回の一回で十分)」

 「働いている保護者が毎年参加するのは疑問!」

 と言った声が聞かれます。当園も来年度からは全学年にて実施したいと考えておりますが、こういった声が多いと正直こたえます。

 子どもは日々成長しますし、保育士(園)と保護者が理解し合い、同じ方向を向いて子育てできるようになるには、とうてい2、3年に1回でできることではないですし、年に1回でも少ないくらいだと感じています。要は、こちらの想いがまだ保護者の方に伝わっていないのだと感じました。

(後略)

 

(私の返信)

「3年のうち1回で十分(今回の一回で十分)」

「働いている保護者が毎年参加するのは疑問!」

 意図が善意であるだけに、こうした反応を乗り越えてゆくには、遠くを眺めての根性が要ります。すみません。でも、乗り越えてゆくしかないのです。乗り越える、と決めてしまって下さい。

 「中学校で連立方程式を学ぶのは疑問」とは誰も言わない。いつか、保育と一日保育者体験はセット、という風にならなければ本当の普及にはなりません。ご苦労をおかけします。

 保育界全体を視野に、保育の質を保つため、未来の無数の親子関係のために、よろしくお願いします

 自信をもって、「子どもたちが喜びます」と繰り返すこと、そして、夫婦が両方とも参加することを目指すのも、意図を伝えるための鍵でしょう。

 この園では全員参加、毎年参加を目指します、とはっきり宣言したほうがいい、とおっしゃる園長もいます。法律となり告示化された保育所保育指針に保育参加が書かれ、こういうことをするのが保育園の義務の一つになったのだ、と伝えることも場合によっては必要かもしれません。

 本当に子どもたちの将来を考えれば、祖父母まで範囲を広げたいくらいですよね。

 いつか、保育者たちが親子の幸せを願ってやっているのだ、という意図が通じる日が来るはずです。

  園と家庭の信頼関係を作ることを目標に、努力や試行錯誤をすることによって、職員の心が一つになってゆくことも、実はとても大切なことなのかもしれません。そうすることによって自分たちの直面している子育ての現実と生き方を把握、確認することにもなります。

 「要は、こちらの想いがまだ保護者の方に伝わっていないのだと感じました」とお書きになっていらしたので、心配はしていません。その通りです。そしてそれこそが保育界にとって一番重要な課題なのです。子育てを共にしながら、保育士と親たちの心が一つになっていない。これは、良い課題を与えられたぞ、という解釈をそこに加えていただければ、揺るがない生き甲斐になるかもしれません。

 よろしくお願いいたします。

松居


 2008年新待機児童ゼロ作戦に「希望するすべての人が子どもを預けて働くことが出来る社会」を目指す、と書かれたとき、「希望するすべての子どもが親と一緒にいることが出来る社会」を目指すことの方がよほど自然で、社会に「絆や人間性」を取り戻すことになるのではないのか、と心を痛めた保育士が日本中にたくさんいたのです。一緒にいることは出来なくても、せめて年にたった一日、一人ずつ、親たちが「さあ、今日はあなたが優先だよ」という姿勢を自分の子どもだけではなく、ほかの子どもたちにも見せてくれたら、それは社会に信頼関係を取り戻す意味で、大きな一歩になるはずです。

 「すべての子どもが、親と一緒にいることを希望する」これが哺乳類。それが揺らいだとき、人類は幸福になるために一番必要な宇宙からの「信頼」を失うのです。

待たない園長先生の話

 以前、「待つ園長先生と待たない園長先生の話」を著書に書きました。

 先日久しぶりに、待たない園長先生の園で講演をしました。あの時書いた引き受けて8年目になる保育園は、親子全員でバスに乗って潮干狩りに出かける活気のある保育園としてすっかり定着していました。ところが、今度は幼稚園の方で、津波が心配だから潮干狩りは行かせない、という親がたくさん出て困っている、というのです。ここ三ヶ月の日本の状況を考えれば、そこまでは理解出来ないことではないのですが、他の園もそうしているから遠足の行き先は親が決めるべきだ、という要求が出てきて、親の代からもう何十年もそこで幼稚園をやっている園長先生、怒っていました。少子化で園児数が減り、政府の保育を雇用労働施策と位置づける方針で、保育界全体がサービス産業化させられようとしていることが伏線にあるのです。園長先生の苦労は続きます。親たちに手紙を書きました。園長先生が怒っている本当の原因は、親たちの要求ではないのです。親と園の関係が利害関係の方向へ変化していくことが心配なのだと思います。子どもは利害関係に囲まれて育ってはいけな。直感的に、園長先生が思い描く「親らしさ」を、こうした要求が変質させてゆくように思えるのです。子どもを育てる幼稚園という環境のどこかに、家族という選択肢のない、利害関係のない、育てあい育ちあいをするしかない、信頼関係に基づいた、しっかりとした絆を残したいのだと思います。


待つ園長先生と待たない園長先生の話

 

 公立保育園の民営化が進んでいます。公立保育園は公務員である職員が高齢化してお金がかかります。民営化すれば、お金をかけずに、しかも競争原理が保育の質を保つ、というのです。公立保育園の補助が一般財源化され、この動きに拍車がかかりました。しかし、いまある現実は、行政が「預かれ、預かれ」と言って、現場が「水増し保育」をして対応せざるをえないという状況です。

 公立の保育園を一つ頼まれて引き受けた園長先生の話です。仮にK園長としましょう。

 幼稚園や保育園は、園長先生の人柄と意識でずいぶん雰囲気が変わります。親の雰囲気も、子どもたちや保育士の雰囲気も変わります。この「雰囲気」が子どもの日常で大切なのですが、これが保育園によってかなり違うのです。保育園は人間が心をこめて日々を創造する場所ですからそれでいいのですが、公立の場合、園長先生が四、五年で異動します。一つの園に道祖神や地べたの番人が根づくことがむずかしい。その結果、親の要望が園の雰囲気を作ることがあります。

 K園長先生は、もと私立保育園の主任さんでした。子どもは子どもらしく、遊びを中心に園で楽しい時間を過ごさせたい、という保育観を持っていました。ところが、先生が引き受けた公立保育園が民営化されるとき、親たちが役場と掛けあって、保育のやり方を変えない、という同意書をとりつけていたのです。公立のときに入園した子どもが卒園するまでやり方を変えてはならない、それが権利だ、というわけです。役場は、とにかく公務員を減らし民営化を進めなければなりません。予算と議会決定のことで頭がいっぱい。園は子どもが育つところ、親心が育つところ、などという考え方は、彼らにしてみればおとぎ話のように思えます。親の要求を丸呑みしてしまいました。

 一人の園長が主のように存在する私立の園とは違い、公立の場合はどうしても親の主張が強くなります。保育園が仕組みとして扱われ、保育士が保育を「仕事」と割り切る傾向があるからです。そして、役所は「親のニーズに応えてください」と園長先生に言いつづけてきたのです。厚生労働省も「福祉はサービス、親のニーズに応えましょう」と言ってきたのですから、役所を責めるわけにもいきません。親も保育園を子育ての「道具」くらいにしか考えていないようです。親と保育士という一緒に子育てをする人が、「役場の窓口経由」で話しあうなんて、そうとう馬鹿げた状況です、文化人類学的に考えれば。

 「親のニーズに応えたら、親が親でなくなってしまう」という叫びを現場の園長から聞いたのがもう二五年も前のことですから、この役場と現場の意識の差がいまの日本の混乱した状況をつくっていると言っても過言ではないでしょう。親のニーズを優先するか、子どものニーズを優先するか、という視点の違いです。これは、人類の進化の方向を決定づける選択肢です。親の要望とニーズの第一が、この園の場合「しつけ」だったのです。大人の言うことをよく聞く「いい子」に保育園でしてほしい、と言うのです。こういう子どもを作ることは可能です。子育ての手法、目的としては楽かもしれません。しかし、これを集団でやるには子どもに対する「情」を押さえなければなりません。

 K園長はその園にきて、ああ、この子たちは萎縮している、かわいそうだ、と感じました。子どもが子どもらしいことは園長先生の幸せでもありました。同意書があったとしても、楽しそうなのがいい、無邪気なのがいい、という気持ちが勝って、そういう雰囲気を作ったのです。途端に、一部の親たちから文句が噴出しました。「子どもが言うことを聞かなくなった」と。

 子どもが言うことを聞かなくなるには意味があります。子どもたちには、親を育てる、という役割があるのです。

 園長はあきれ顔で私に言いました。「あと二年残っているの。二年すればみんな卒園して、それから本当の保育ができるの」

 モンスターペアレンツは、紙一重で「いい親」。いや、いい親だからこそモンスターになるわけですが、もしこのとき、彼女たちが、もう少し時間をかけてK園長先生の真心に耳を傾けるだけの心の余裕があったら。目を見つめ、親身さを感じることができたら、視点を変え、きっと親子で違った人生を送ることになったのです。役所の受付の人が一言、「こんどの園長先生は素晴らしい方ですよ」と笑顔で親たちに言ったなら、ひょっとすると、それだけで何かが変わっていたかもしれない。

 保育士がどんなにしつけても、しょせん五歳までの関係です。継続性がないのです。しつけを支える「心」は、子どもの幸せを願う心、子どもの発達をみつめながら自らも育っていく、育ちあいの継続性を持っていることが大切なのです。親が子どもをしかるとき、たとえ子どもが成人していても、親の記憶の中には三歳のときのその子が存在します。それが親子関係の意味です。

 一見「いい子」が小学五、六年生で突然おかしくなったりする原因の一つが、このあたりにあります。保育園と親たちの心が一つになっていない。大人の心が一緒に子どもたちを見つめていない。子どもたちが安定した幼児期を送っていない。親が子育てやしつけを保育園に頼りすぎると、子どもたちが言うことを聞かなくなるときがくる。親を育てる役割を果たせていないからです。そのときにはやり直しはきかない。人生の修行のやり方はいろいろですから、いつか親が真剣に子どもと向きあえば手遅れということはないのですが、お互いにつらいことになります。親がその子が幼児だったときのことをなかなか思い出さないからです。

 私はK園長の思い、そして人柄を知っているだけに、この人の真意を見抜けない親は、いったい何に駆り立てられているのだろう、何を急いでいたのだろう、と考えずにはいられません。「自由に、のびのびと、個性豊かに」なんていう教育が、こんな親を増やしたような気はします。

 いい園長先生の「心」を、立ち止まってしっかり見てください。子どもが幼稚園や保育園で楽しそうにしていたら、それを当たり前と思わないで、先生に感謝してください。私が説明しなくても、そうなるように、一日保育士体験を根付かせなければなりません。

 

 ある日、知人のお医者さんが悲しそうに言いました。患者が感謝してくれないんだ、と。ひどいときは、疑わしそうな目でみられたり、ほかの病院に行ってもいいんですよ、という表情をするのだそうです。いいことをしようと思って医者になった知人には、それが一番つらいことのようでした。

 病院があって、そこにお医者さんがいて、119番を回せば救急車がくる。それだけでも感謝することはできるのに、もう誰も感謝しなくなった。このままいくと、いつか日本もアメリカのように、お金か保険がないと医者に診てもらえない社会になるかもしれません。目の前に救える人がいるのに、お金がなければ救わなくなったとき、人間は進化するための人間性を放棄するのでしょう。

マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「シッコ」をご覧になってみてください。保険に入っていないからと、病院が患者を捨てる映像が映し出されます。いま先進国と呼ばれるアメリカの現実です。人類がシステムを作って人間性を失ってゆく実態です。背後にあるのは経済論です。

 

 幼稚園を二つやっていた園長先生が、役場に頼まれて保育園を一つ引き受けました。県議会議員もやっているので、行政の方針には協力しようと思ったのです。引き受けた保育園は、まったく行事をしない、親の言いなりになってきた保育園でした。四時間のパートでつないできた保育園です。園長先生は、そういう保育に慣れて気の抜けた半数の保育士を入れ替え、潮干狩りの親子バス遠足をやることにしました。ほとんどの親が反対です。行事なんてやったことがないのです。結束してボイコットしようとしました。最近の寂しい親たちはこういう馬鹿げたことで団結するのです。子どものためではなく、自分の権利(利権?)のために結束するのです。自分たちの保育園が、新しい園長先生の保育園になってゆくのが嫌なのです。許せないのです。

 「なんでバスで行かなければならないのか、自家用車で行きたい」と言う親がいました。

 園長先生は「だめです。みんなでバスで行くのです」

 「じゃあ、行きません」

 もう、子どもの遠足なのか親の遠足なのか本末転倒、むちゃくちゃです。

 参加者が半分に満たなかったために、最初の年、園長先生はバス代をずいぶん損したそうです。でも、そんなことではめげません。親たちに宣言します。

 「私は絶対に変わらない。それだけは言っておきます。あなたたちが変わるしかない」

 わずか三年で、親子遠足全員参加の保育園になりました。親も楽しそうな、子どものための保育園になりました。

(「なぜ 私たちは0歳児を授かるのか」国書刊行会より)


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ひたちなか市、宇都宮、茅野市

 日曜日、茨城のひたちなか市で梶山ひろし代議士主催の講演会で、600人の主に年配の女性の方たちに話しました。子どもをもっと眺めよう大切にしよう、と熱い思いで会場全体が一体になり、ずっと日本を守ってきたひとたちの前に立っているような気がしました。人間は自分のためにこんな風に一体になれません。子どもたちのため、孫たちのため、他の人の子どもであっても、幼い命のためだから心を一つにできるのです。言葉の話せない0歳児のために、想像力を働かせ、みんなが共感しなければなりません。

 エンゼルプランなど、結構、過去の自民党の施策の批判もしたのですけれど、日本の利他の幸福論は、子育てをしてきた女性の中にちゃんと生きている、通じる。この女性たちの世代で親心・祖父母心が途切れてしまったら取り返しがつかないことになる、と思いました。たくさんの笑顔とエネルギーをいただきました。梶山先生も最前列で聞いてくれ、2時間の陳情のつもりで話しました。具体的な方法として、一日保育士体験が常識になりさえすれば、いいのです、とお願いしました。
 参加してくれる予定だった熊本の金子代議士は台風で飛行機が飛ばず、残念ながら来れませんでしたが、国会でほんの少しでも理解者がつながっていると知るのは心強いことです。民主党では、私の説明を聴いて「これは国家戦略の問題だね」と言ってくれた長島昭久議員が梶山さんの友人だそうです。それを知ったのもこの日の収穫でした。
 帰りに強い風の中、ひたちなかの港を見ました。

 月曜日、宇都宮で栃木の保育士たちに話しました。二度目三度目の保育士たちも居ます。民主党の子ども・子育て新システムにはみなが反対しています。そこを聴きたい、詳しく説明して下さい、と言われます。まず基本にあるのは、五年以内にあと25万人三歳未満児をあずかれ、という雇用・労働施策です。これをやるには保育士がいません。資格を持っていて働いていない保育士が90万人居る、と厚労省は言うのですが、その人たちのほとんどが未経験のペーパードライバー。現実は、いまのままでも、公立私立を問わず保育園で保育士の欠員ができると埋めるのが大変なのです。資格を持っていないパートの保育士でさえです。それを、保育の国基準を緩和して無理に進めようとしている。現場は、もうこれ以上水増し保育は許さない、子どもたちの毎日の生活を犠牲にしないでほしい、という気持ちでまとまってきています。雇用・労働施策で子育てを考えるのはもうやめにしないと、この国から人間性が失われていきます。
 大学や専門学校の保育科があちこちで定員割れを起こしている状況で、保育士の青田買いが進みます。学校丸ごと買い占め、なんていう話もを耳にします。企業保育や派遣会社が保育界に市場原理を持ち込んでいる。母親の近くに子どもたちが居る、という視点で、企業保育自体はけっして悪くない。しかし、日本の保育はただの託児ではありません。保育士たちが長年にわたって勉強し、検討し話し合いを繰り返し、学校教育の準備を担うところまですでに進化しています。確かなリーダーや経験者なしにすぐに進められるような簡単な仕組みではありません。もし、保育界が「ただの託児でいいんだね」ということになって匙を投げたら、すでに危ない所にきている学校教育が急速に疲弊していくでしょう。日本のモラル?秩序を支えていた次世代育成能力が根本から崩れて行きます。
 小泉・竹中路線が押し進めた市場原理・競争原理の裏にあるのは、サービス産業の論理です。保育にこれを当てはめようとすると、必ず「親へのサービス」になっていってしまう。しかし、保育は「子どもたちのために」まず存在しなければならない。10年前に私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられた時に、園長先生たちがどれほど違和感を感じ傷ついたか、行政も政治家も学者もわかっていない。この違和感は、親心の崩壊の流れに気づいている園長たちの、それはもう直感的なものでした。
 国基準を規制緩和することで、予算を増やさずに待機児童をなくそうとしている。しかし、保育界の市場原理はかならず行き詰まる。なぜなら保育は常に幼児たちの目にさらされているからです。現場で良心を捨てなければ、この大人優先の市場原理は成り立たない。
 待機児童はなくそうとすればするほど増える。政府はそれを目指しているのですからその通りになりつつあるということなのですが、一連の現場を知らない施策の弊害が保育界を蝕んでいます。
 保育士の補充がこれほど困難になっているということは、明らかに保育の現場に居てはいけない保育士を園長が排除出来なくなってくるということなのです。一度、園長や主任が、保育の現場であってはならない光景を故意に見過ごすと、保育界から良心が欠け落ちてゆく。保育の現場は、言葉のしゃべれない子どもを相手にする、本質がイマジネーションの次元にある育ちあいの現場なのです。人間たちの意識が問われるフィールドです。心ある保育士があってはならない光景に耐えられずに辞めていく。そんな風景が日本全国で頻繁に起こっている。そして、犠牲になっているのは子どもたち。この現状を、なんとか予算をかけずに食い止めるには「一日保育士体験」しかないのかもしれない。「育てる側が心を一つにしようとする」ことを子どもたちは望んで産まれてきたのです。茅野市の保育士たちが「一日保育士体験」にすぐに賛同してくれたのは、いつでも親に見せられる保育をしている、という自信があるから。そのことだけでも茅野の親たちは恵まれている。茅野の保育士たちが作って来た伝統に感謝してもいい。感謝が、育てる者たちの心を一つにします。
 認可保育所を増やさずに待機児童をなくそうとするため、都市周辺では認可外保育所がどんどん増えています。家庭保育室という名で、60人規模の保育所がゆるい規制のもと参入している市もあります。『「おおむね」とか「のぞましい」という言葉で子どもを守れるわけがありません』と、規則を守らせる立場の市職員が嘆いています。
 火曜日、台風一過、きれいに空気が澄み山の緑の濃淡が美しい中央道を運転し、茅野市で最後の2園で話しました。市長、教育長、教育委員、市議、も一緒に聴いてくれました。これで、17園すべてで話し終わりました。役場の担当の方たちは17回聴いて、まだ聴きたい、と言ってくれました。一回一回違う母親たちとの一体感が気持ちいい。出会いを感じるのです。子育ては人間たちが出会うために
ある。もう、同士といってもいい仲になりました。寂しいですね、また来ます。お土産をたくさんいただきました。これから企業に、親たちの一日保育士体験への協力を呼びかける手紙も、出来上がっているのを見せてもらいました。
 隣町から園長先生が一人聴きにきてくれました。町長が良い事をしているつもりで福祉を進め、三人目の子どもは保育料を無料にしたので、0歳児が急に増えてきたそうです。保育が利権になり始めている。
 なぜ、町長は園長の話に真剣に耳を傾けないのでしょうか、なぜ政治家は現場の声に耳を傾けないのでしょうか。本当に子どもたちのことを考えているのは誰なのか。真実を語っているのは誰なのか。人間が安心して本音で話し合うことができるだけで、方向性は必ず見えてくるはずなのです。優先順位が見えてくるはずです。
 市長に、育休に入っている学校の先生が、赤ちゃんを生徒に毎月見せに来るのもいいですよ、という話をしました。小学生、中学生の保育士体験はやはり三日がいいです。寂しさや、別れる悲しみが生まれます。それが感性を育てる。高校生の保育士体験は、少人数で男女の生徒が混ざって、幼児の前にいるお互いを盗み見るのがいいのです。男女がいい人間だと確認しあうために幼児がいるのです。そうすればきっと少子化対策にもなります、と伝えました。
 みんなで幼児を眺める、その目線が人間社会の基本にあれば、大丈夫です。そんなに難しいことではないのです。
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 シスターとシャクティの踊り手たち、今月末アメリカへ行きます。アメリカの独立記念日に踊ります。私も演奏して下さいと招待する団体から誘われたのですが、山口で保育士たちの大きな大会が入っていて帰国が間に合わず残念ながら参加出来ません。でも、踊り手たちがアメリカで踊っている姿をイメージするだけでワクワクします。別の道を行きながら、意識の世界で一緒に旅をしている、そんな感じがいいのでしょう。
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 日本のために祈りを捧げてくれているひとたちがいます。毎日日課のように、祈ってくれている踊り手たち。