いろんな人に育ててもらったほうが社会性がつく?・保育は選ばれた人たちがやるもの・義務教育への本能的な抵抗

子供はいろんな人に育ててもらったほうが社会性がつくとかなんて、親族間での話しですよね。(というツイートが着ました)

その通りですね。こういう感覚、地球上どこでもつい最近まで当たり前のように続いてきた子育てのイメージ、育て方というほどのものではないけれど、幼児を囲む風景の常識が見えていない世代が突然増えているようなのが怖い。

増えているのではなく、増やされている、と言ったほうがいいかもしれないのがなお怖い。

私のように「三丁目の夕日」(昭和40年くらいまでの日本)を知っている世代はまだ覚えているし、発展途上国を旅すれば今でもリアルタイムで実感出来るのですが、子育ては親族間や隣近所、小規模な運命共同体の中で「家族的に」行われてきました。何万年もの間。

いま、急速に子育ての原風景が変わってきています。政府や学者によって急速に変えられつつある。「価値観や生活様式の多様化」という言葉が安易に語られる。そういう時代になったから、なおさら、中心になるべき一律の価値観を子育て中心に取り戻さなければならないのに、多様化に合わせて誰かが儲けようとか、選挙に勝とう、仕組みを新たに考えよう、みたいなことになっている。

ここ20年、30年くらいの、先進国社会における非常に限られた実体験しかないと、社会性という言葉にもうはっきりしたイメージがない。学校での集団生活とか、色んな保育士に育ててもらって、程度のイメージしかない。育ててくれている人たちのことさえよく知らない状況が当たり前のように「社会性」とか「社会で子育て」という言葉で現実となっている。そこに信頼関係がない。少なくとも、乳児を預けられる種類の信頼関係は存在しない。

もし親たちが、国や行政や仕組みを本気で信頼するならば、国や行政はその信頼に応える努力を本気でしなければいけない。その努力をせず、保育の質が急速に落ちるような施策が「待機児童問題」「待機児童対策」という経済論で進んでいる。

 三年前、それまで4年連続で減っていた「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」と首相が言った。この二つの乖離した数字の背景に何があるのか。そこを見極めないまま、言葉や数字が当たり前のように繰り返され、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。少なくとも乳幼児たちの願いではない、それだけは確か。

 

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0、1歳児を知らない人に預ける事は、よほどの事情がない限り人類はしなかった。インドに1年以上住んで、村人の生活を眺めていたことがあるからわかるのです。6歳くらいで丁稚に出す、ようなことは確かにありました。しかし、0、1歳を簡単によく知らない他人に預けることはしなかった。

0、1歳は自分の体験を話せないから、大人たちの確かな信頼関係が、その子の一日を守るしかない。

5歳過ぎたらまあいいでしょう、という判断で学校教育が始まったのだと思います。それでも相当の葛藤はあった。義務教育の普及に本能的な抵抗があった。それを最近「小学校に待機児童いないでしょう。保育も義務教育化すれば待機児童は出ないんですよ」と平気で言う専門家や学者が現れた。乳幼児を対象に「社会で子育て」なんて簡単に言う政治家さえいる。保育崩壊がどのように始まっているか、新聞くらいは読んでほしい。

ーーーーーーーーーーーーーー(以前ブログに書いたのですが)
千葉で保育士が園児虐待で警察に逮捕され、園長が取り調べに、「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言ったのが三年前、これは新聞の記事にもなりました。
そしていま全国で、「週末、子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」、「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツも替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないか」という声が保育現場から聞かれる。これでは「子育て」をする信頼関係が育たない。保育の仕組み全体が「子育て」をする限界を超えている。家庭と園の心の連携が毎年、より一層難しくなってきているのです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=779

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昔は、子育ての中心に子どもを労働力にすることがあって、絆を深めるには最適の手段、具体的な目標でした。5歳くらいから労働力ですから、親もしっかり子育てをした。しっかりやらないと一家の生活、村人の生活に影響を及ぼした。それをみんなが知っていた。いま、労働の邪魔にならないように預かるという。誰のために働くのか。生きるのか。本末転倒になっている。

幼児の気持ちが見えなくなっているからだと思う。昔のような社会の仕組みを取り戻すのは無理だとしても、乳幼児の気持ちを想像する習慣だけは様々な手段を使って取り戻していかないと、社会の仕組みが社会を壊すような流れになってゆく。

 

保育は元々選ばれた人たちがやるもの

「保育は元々選ばれた人たちがやるものなのです。学者や政治家や起業を目指すような人たちにはとても務まらない、任せられない、感性で響き合う仕事なのだと思うのです。学校の先生にもちょっと無理かもしれない」とブログに書きました。

もう少し考えを進めて、「そういう人たちでも自分の子どもを育てることはだいたいできるかもしれない」と思いました。しかし、子育てが「苦手」と公言する人たちは確かに増えています。不自然に増えています。人生の始めの方で、何か基礎的な体験が欠けているのだと思います。

でも、中学二年生の女子生徒はだいたい大丈夫なのです。彼女たちが保育士体験をする姿を見ているとわかります。男子生徒は子どもに還って行きますが、女子生徒はお姉さんの顔、お母さんの顔になって活き活きします。この頃が鍵を握っているのかもしれない。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

高等教育が人類の根源的な人間性を弱めるのでしょうか。高等教育における教師とのコミュニケーションが人間性を欠いた、本気ではないものになっているから、感性が衰えていくのでしょうか。

高等教育が闘うための武器、道具のようになっていることが問題なのかもしれません。武器を持つと闘いたくなる、道具を持つと使いたくなる。

しかし、「子育ての意義」は闘いとは正反対のところにある。

子育ては、人間たちに欲を捨てることに幸せがあると教える。利他の気持ちを耕すためにある。

だから、強者たちは子育てを人間から奪おうとするのでしょうか。

 

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義務教育への本能的な抵抗

 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。譲ってはいけないことについて口論をし始める学校という仕組みを見抜いていたような気がします。

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 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

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