日本人のボランティア精神・一億総活躍・-園長先生からのメール

チャリティー精神、ボランティア精神

熊本地震の報道を見ていて、この国はまだまだ、とてもとてもいい国だ、と思うのです。

いつ誰が言い出したのか、日本人は西洋人に比べて「チャリティー精神、ボランティア精神に欠ける」と言われます。私も講演でこんな質問を受けます。

「アメリカ社会の家庭崩壊の現状はわかりました。犯罪率も確かに日本に比べれば異常に高い。でも、アメリカ人はチャリティー精神に溢れ、ボランティア活動も社会に根付いているといいます。その辺の事も是非聴かせて下さい」。

もちろんアメリカ人にもいい人はいっぱいいます。私も30年間住んで、友達がたくさんいます。比較論としては「嘘も方便」ですからこういう噂は野放しにしておいても良いのです。日本が良い国であり続ければいいのです。より良い国になるために、「絵に描いた餅」でもいい餅は目指していいのです。しかし、欧米コンプレックスは時に日本の欧米化につながるので一応説明したくなるのです。

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公の場で行われるチャリティーコンサートやボランティア活動だけが「慈善、奉仕」ではありません。醤油の貸し借りから、交通費くらいしか出ない民生委員や保護士の活動、いろいろ問題はありますが町内会の会費、公園の草取り、ゴミ収拾所の清掃当番まで、居住地の定まった日本人の生活には社会的労働奉仕や慈善活動が深く関わっているのです。(最近は、急速に弱まって来たとはいえ、です。それは、心がこもっていない、批判する人もいるのですが、日本人は「形」から入るのです。)

 

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以前、日本の学校を視察に来たアメリカの校長先生が私に言いました。小学校で、掃除当番を見たのです。「日本人はさすがです。子どもを使って教育予算を切りつめているのですね。でも、あれをアメリカでやったら、親達から人権問題で訴えられますよ」。日本人は金銭感覚に長けていて、人権意識が遅れていると言いたいのです。子育てや教育に関する視点が根本から違う。この視点の差がある限り、お互いの持っている慈善、奉仕の概念は理解出来ないと思います。国を超えて「幸福度」を比べるなど、数字で幸福を測ろうとする西洋の学者が始めたこと。愚の骨頂です。アメリカ人の「慈善、奉仕」は確かに公に見えやすい。神に自分の心と行いを見てもらうキリスト教のミッションの歴史と、家庭中心ではなくなった社会がそうさせるのかもしれません。

社会における基本は「他人の心配をするより、まず自分の子ども、家族の心配をする」ことだと思います。家庭崩壊が進んだ欧米で、あかの他人に「慈善、奉仕」をしても、自分の家族と親身な交流がなければ、どこか本末転倒な感じがします。チャリティーの多くが、孤独な金持ちの免罪符か、企業のタックスシェルター(税金対策)ではないのか、と少し疑ってしまいます。(アメリカの税法は良くできていて、寄付行為によって、寄付した方も、寄付された方も、寄付する品物を売った方も、三者三様に利益が出るようになっています。)

私は神戸の地震と、その時のアメリカでのテレビ報道を思い出すのです。あの時アメリカ人が何に一番驚いていたか。それは「略奪」がまったくと言っていいほどなかったこと。地震やハリケーンなどの災害が大都市で起こった場合、アメリカ人がまず心配しなければならないのが「略奪」です。災害直後、州警察や軍隊によって治安が確保されるまでの間、普段から武器を持っているひ人々は拳銃やライフルを持って、壊れかけた家の屋根に登り、自分の財産を守ろうとします。(銃社会ですから、三軒に一軒は銃を持っています。気づいたのですが、韓国系移民の人たちは母国に徴兵制があって訓練を受けた人が多くて、銃の構え方が本格的でした。)

大きなハリケーンのあとのテレビニュースで言っていました。一般に、災害によるストレスよりも、略奪の心配をしなければならないストレスの方が後遺症が大きい。悲劇に見舞われている人を平気で襲おうとする人間の浅ましさが、より人々の心に大きなトラウマ(傷痕)を残すのだそうです。自然相手の天災より、人間同士の人災の方が、人間により激しい絶望感や怒りを覚えさせると言うのです。わかる気がします。家庭という信頼関係の基盤が失われていくと、より一層災害時の孤独感は耐え難いものになっていくのです。

「ボランティア精神」が美しいのは、それが利益のためではなく、他人を思いやる心から生まれているからでしょう。助け合い、に人間は「社会の成り立ち」を感じる。そして、その第一は、「災害時に略奪をしない」ことです。略奪をせず整然とボランティア活動が行われた神戸の状況を、なんと美しい光景だろう、と全米にニュースが繰り返し報道していたのを思い出します。

震災後の熊本の風景を報道で見ていると、いろいろ問題はありますが、この国はまだまだ底力を持っていると思えてくるのです。私は熊本の保育園の園長先生たちに知り合いが多いのですが、フェイスブックから伝わってくる他県の園長先生たちから数日うちに自家用車で届く支援物資の画像を見ていると、幼児をいつも眺めている人たちの結束の強さに、嬉しくなります。

「保育園落ちた、日本死ね!」などとは絶対に言ってほしくないのです。保育園が、政治家によって壊されそうになっているこの国を立て直す、鍵を握っているのです。

 

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一億総活躍、雇用117万人創出 諮問会議が具体案 

(2016/4/26付・日本経済新聞 朝刊)

「政府は25日の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)で、名目国内総生産(GDP)600兆円の実現に向けた具体案をまとめた。非正規労働者の賃上げなど働きやすい環境を整え、雇用を2020年度までに117万人増やす。賃金増による約14兆円の消費支出効果も見込むが、税や保険料を抑え可処分所得を増やす改革は具体策を欠いている。」

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結局これなんです。50万人3歳未満字を預かろうという「子ども・子育て支援新制度」は、この一億総活躍施策の一つの柱なのです。わかっていたことなのですが、雇用労働施策です。

10数年前に、経済財政諮問会議の座長が0歳児は寝たきりなんだから、と馬鹿なこと言って、雇用労働施策に保育を取り込み、それが現在の0歳児の事故の増加につながっているのです。 保育は子守り、誰がやっても同じ、みたいな感覚が未だに抜けないのがいまの政府の「子ども・子育て支援新制度」。小規模保育などは資格者半数でいい、と言うのです。小規模保育は3歳未満児を預かる施設です。こういう所こそ、規制緩和してはいけなかった。

「女性が輝く」も「活躍」も表面上つくろっているまやかしで、幼児の気持ちを無視するどころではない、国の施策で積極的に、幼児を母親から引き離すなどというのは、もう人間の人間性を無視している。こんなことを堂々と言われて、黙っているわけにはいかない。もちろん民主党の時も同じことを言っていたのです。共産党もだいたい同じようなことを言っているのです。ほとんどの政治家がこの国の魂とか、個性とか、伝統とかを考えずに、欧米式の平等論や、市場原理的、数合わせのような「ただ働く人間が増えればいい」という薄っぺらな経済論を鵜呑みにしているだけ。こんなやり方で、税収が増えるわけがない。過去10年間、保育所を増やし、保育時間を増やし、少子化の流れは変わりましたか? 働く女性は増えましたか?

(50代、60代の働く女性は確かに増えました。孫が保育所に行ってしまえば、そうなるのかもしれません。)

 

——-園長先生からのメール(本当に活躍している人)———–

 

松居先生

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ございません。
新年度は、支援児以外で多動なお子さんがあり、目が離せませず、先生とのご連絡も役所の事務方に任せっぱなしで申し訳ございません。
私どもは、近くに「母子の家」がある関係上今年度も父親のDVで避難してきている園児や、一方母親の不安定で(母親の虐待でこれまで、何度も問題が起きました)、このGWの間、母親と二人きりの時間が多くなったであろうことを思いますと、明日いつも通り登園してきてくれるか心配な園児もいたりして居ます。問題の、父親、母親にしてもきっと幼いころからの積み重ねが、こうした行為となって表れてきていることを考えますと、周りの大人から、一人一人の子どものこの世への誕生が、祝福されたものであったら、わが子への虐待などには、つながらなかったであろうことを思いますと、卒園して15年もすれば成人の仲間入りとなる、目の前のこの子らの輝きを曇らせることの無い様、ますます保育担当者として身の引き締まる思いです。
ご講演をお願いしましてから、ご著書をいろいろ読ませていただきまして、このご講演後、保育現場にどう根付かせていくかが、大きな課題として迫ってまいりました。「いいお話を伺いました.良かったです」で終わりにならないよう引き続きご指導よろしくお願いいたします。
とりあえず、ご無沙汰のお詫びです。どうぞよろしくお願いいたします。

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