「一ヶ月後の謝恩会」

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講演する機会が少し戻ってきて、一年半ぶりに保護者たちの前に立ちました。時間がとても貴重に思えて、前ほど沢山解説することはできませんでしたが、ゆっくりと、肝心の、深いところを説明できた気がします。

2歳児の存在意義について、公園で横に座ってくれるだけで私たちが「いい人」という存在になれること……、など。その相対的な心の動きが人間社会を成立させることなど、思いを込めて……、演奏のように。

 

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以前、若手園長から聞いた、いい話があって、真の保育園の姿を模索し、元気に、一生懸命やっている男性園長でした。

「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝します」と嬉しそうに言うのです。

子どもが学校に入ると、保育園のありがたさが身に染みてわかる、どれほど親身にやってもらったかが見えてくる、と言うのです。

なるほど、という指摘でした。一瞬、森の中で聴こえてきた言葉のように感じました。

学校と保育園は、その趣旨が違うのです。違って当然、違わなければいけません。教育と子育てでは、歴史と深さ、次元が違う。もちろん「子育て」が優先で、絶対です。

園長先生、園児が卒園して一ヶ月後に親たちの謝恩会をするそうです。

保育園の価値に気づき、懐かしく思い始めている。感謝したくなっている。新たな悩みを抱えている親もいるでしょう。まだママ友ができなかったり、子どもたちも環境に馴染んでいない。みんながオロオロ、ウロウロ、人間が自分を見つめ一番成長する季節です。

保育園や幼稚園の価値は、一緒に育てているという「感覚」が育つことにあります。

幼い命を一緒に育ててきた実感、小さかった「あの頃」の思い出を共有しているという連帯感が園での生活の実りであり成果です。親身さ、のようなもの。人からであれ、物からであれ、それこそが「社会」と呼ばれる連帯感なのですが、それが子どもが学校に入って仕組み上突然途切れたようになる。

その時、子どもを一緒に育ててくれた人たちに再会し、保育室や遊具を眺め「あの頃」を懐かしく思えば、一生の相談相手がそこに居ることに気づく。帰ってくるところがある、と安心するのです。

そこに集まったお互いの存在が特別なものだと気づけば、それだけで新たな「悩み」はずいぶん解消するのです。

お互いの子どもの小さい頃を知っている、この関係が人間社会の原点にありました。

人類は、身近な、そういう関係に支えられ過ごしてきました。オロオロしながらも一生懸命やって、一緒に祈ってくれる人が数人いれば、それでいい。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園を永遠にしてくれます。

こんな行事が、少しずつDVや児童虐待に歯止めをかけ、学級崩壊やいじめを減らすのだと思います。いま地道に耕し直さねば、荒れてしまった地面は砂漠化してしまいます。

「謝恩会」という命名はわかりやすい。法律や規則ではなく、子育てから生まれる「感謝」が社会を住みやすくするのです。

子どもが世話になったら、感謝する。

歌や踊りを教えてもらったら、それを見て、夫婦で感謝する。

本当は、足し算や掛け算を教えてもらっても、感謝する。

楽しい時間を過ごせたら、心の底から、みんなで何かに向かって感謝する。

九年間の義務教育に比べれば大したことではないのです。法律で決めてしまえばいい。

いえいえ、法律で決めるより、園長先生が決めてしまうのがずっといい。親たちに気持ちが伝わります。この人(園長先生)は、子どもたちの幸せを願っている、卒園した後も願っている……。その記憶、そして一ヶ月後の謝恩会を思いついた園長先生の「動機」が社会を耕し直し、その願いが、荒れている社会を鎮める。

11時間保育を「標準」と名付ければ、保育士は必ず一回交代し、朝、お願いする人と、帰り際に挨拶する人が別人になります。感謝する相手が曖昧になる。この人に預ける、から、この場所に預ける、この仕組みに預ける、に変わるのです。「仕組み」や「場所」に感謝するのは中々難しい。そして、今年の四月から正規の職員がいなくてもパートでつなぐ保育で構わないことになりました。それをビジネスチャンスと捉える人たちがすでに保育界にはいる。そうしないと維持できない、と言う人もいます。しかし、これでは大学や専門学校の保育科で教えてきた「愛着」や「発達」の問題も、保育指針にあった親を指導するという園の役割も机上の空論になってしまう。何が優先なのか、が忘れられている。

30年ほど前にアメリカで、自治体の予算が逼迫したときに、財政削減の最初のターゲットに音楽の授業がなって学校教育から削除されていったことを思い出します。そのニュースを聞いたとき、えっ、その順番? と驚きました。経済優先に考えるとそうなるのです。しかし、その手順はあまりに短絡的で、人間のコミュニケーションの深さや可能性を忘れている。

「教育」を過信している。

人々の優先順位が、密かに神の采配に代わろうしている。

子どもたちを見つめ人間は未来を眺める。安心が続いていくことを祈る。その姿が社会を形づくってきた。

前回書いた、遺伝子研究の村上和雄教授(生命の暗号)なら、それが遺伝子情報をつなげていく善循環なのだと言うかもしれない、遺伝子がオンになる道筋がそこに現れる。一緒に過ごした時間を未来に生かすこと、それが遺伝子情報の意義です。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3495

福祉が「利権」となり、人間性の継承に不可欠な「子育て」という行いが機能不全に陥っています。「感謝」の絶対量の減少が人間社会には致命的なのです。そういう時期だからこそ、「一ヶ月後の謝恩会」という、園長の一手がより輝いて見える。

子育ては、システムでやるものでも、制度でできるものでもない。親たちの感謝の積み重ねです。そこに気づかなければ保育崩壊は止まらない。園長の、次の世代がそれに気づいて育って欲しいと願います。

幼稚園・保育園が、いつか親心を耕すだけでなく、行事の組み合わせによって祖父母心をも耕す役割を担うまでに回復すれば、幼児たちの「存在意義」が復活してくる。人間が幸せを追求する意思を持つかぎり、音楽を奏で輪になって踊ることをやめないかぎり、四歳児たちの「輝き」は必ず指針となる。同じ仕組みの中で生きている、という錯覚から離れ。同じ時間を生きている、という自覚に戻る。そのために、幼稚園・保育園が、いい役割を果たすことができるのです。

(二曲ユーチューブに加えました。)

https://youtu.be/fm9KjKpoggE

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “Black Bird & the Bamboo forest,” and “Legend of the lake”. 

(関連リンク:実際にできること、やっていることを中心に。)

*板橋区の一日保育士体験/感謝!!/「子どもが喜びますよ」の繰り返しで;http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=261

*中学生の保育士体験/「あの人、変」/役場の人からのメール: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

*一月に講演をした市の園長先生から/保育士体験を始めて(+首相の発言):

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=226

*パズルの組み方が上手になること/一日保育士体験、高知県教育委員会の取り組み: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=161

*運動会4:4:2の法則/騎馬戦:運動会で社会が変わる http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=228