どんな形であれ「抱っこはもういい」と幼児に言われたら、それは人類にとって強い警告です。

去年のアメリカ大統領選挙あたりから毎日CNN、ABC、NBC、CBSのニュース報道を見ています。同じ国に住んでいながら人間たちが競争原理の中で創造してしまった「亀裂」の深さ、分断の深刻さをひしひしと感じます。分断はどんな社会でもあるのでしょう。しかし、それを覆い、包み込む、亀裂にいくつか橋をかける「何か」大切なものが欠けてきている気がしてならないのです。新大統領が言う「ユニティー」という「言葉」が心に響かなくなっている。教育とか理念では埋まらなかった亀裂、そして仕組みが広げた分断が信仰と化し露わになる。暴れ始めている。

私が、その主張に同意できなくてもRBG(亡くなったルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事)に強く惹かれ、彼女を守護神のように感じるのは、彼女の果たした功績や社会的役割の向こうにある、「育ち」に共鳴するからだと思うのです。

以前、山に囲まれた保育園で双方向への治癒力「抱っこ」が消えてゆく場面に出会いました。

最前線に、ひとりの保育士がいたのです。

「問題児だったけど、毎日あんなに甘えて抱きついてきた子が、突然『抱っこはもういい』と虚ろな目で言うんです」それが悲しい、と保育士が言う。そんな保育士が可哀想で、と園長が私に言う。

もともと1対3とか1対6では無理なのです。3歳児は1対20です。それでも、頑張ってきたのです。

毎日「抱っこ」で子どもの魂を鎮めようとしていた保育士が、親から何も相談されずに、処方された薬で心を抑えられた子どもにある日突然、「抱っこはもういい」と言われたのです。

保育という仕組みの切なさ、虚しさを感じます。

心療内科に連れて行くこと、薬を飲ませることを保育士に一言も相談してくれない。長い時間面倒を見て、毎日抱きしめているのに、まるでサービス業のように見なされて、口を挟もうとするとプライバシーの侵害だと役場に駆け込まれたりもする。そうした日々が積み重なって、心を込める保育士たちが使い捨てになっていく。保育士は仕組みの一部のように見えるかもしれませんが、そうではないのです。

実はその子の育ちに一番長く関わっている人たちが知らないところで、子育ての「方針」が決められていく。

「抱っこはもういい」と言われた保育士の誰にも訴えるすべのない悲しみの陰で、この国を支えてきた利他の心が麻痺していく。子どもたちを支えるはずの絆がほどけて行く。

母親が心療内科に子どもを連れて行ったのも「愛」、保育士の悲しみも愛。しかし社会全体の仕組みを考える人たちの心に愛が欠けている。だから、こんなことが起きてしまう。

子どもが「抱っこはもういい」と言った瞬間に、人類が拠り所にしてきたモラルと秩序が壊れていく気がしてなりません。

山の麓の保育園で起こった出来事から、その保育士の悲しみを察し、それを真摯に受け止めないと、この国が修復不可能なほどに壊れていく。誰も気に留めない一人の保育士が感じた切なさから、人類全体に起こっている異常な流れを感じ取ってほしいのです。生きるための「動機」が重ならなくなっている。

なぜそうなるのか。

幼児たちの居る風景を想像し、矛盾を根元から解決していかないと、最近作られた巨大なポピュリズムの陰で、幼児たちと肌を合わせる意味が忘れられていきます。

今、幼児たちの存在を認め、彼らを再認識することに本当の社会改革がある。

私が小さな保育園にも喜んで講演に出かけていくのは、こうした訴えかけてくる風景に出会うからです。ガラス玉を覗き込むように、大切な次元が見えてくる。福祉の向こう側に常にあるべきこの国の民俗学的美しさ、それを保育士や園長先生たちの笑顔から感じるのです。この国はまだ大丈夫。「子育て」という小さなガラス玉の集まりで人類は成り立っているのがわかるのです。

そのガラス玉の反対のところにある話。

東京都の認証保育所に勤め始めた保育士が、園長から抱っこするな、話しかけるなと指導され驚いたという話を思い出しました。確かめると、地方の公立保育園でも似たような話がある。

子どもが生き生きすると事故が起こる確率が高くなる、と園長が言ったそうです。

この説明が迫っている「保育の限界」を表しています。

小規模保育は3分の1資格なしでいい、パートで繋いでもいい、そうした規制緩和が行われ、13時間開所や0歳児保育が補助金を質に推し進められ、意図的に保育単価が決められていく中で、信頼できる保育士を確保できない状況に追い込まれている園長も可哀想ではあるのです。事故が起きないことが最優先になって、それを責められないほどに危なっかしい現場が増えている。

子育てに必要な「ゆとり」がなくなってきている。

子ども6人を一人で受け持って子どもたちの望み通り「抱っこ」しようとしたら保育士が腰を痛めてしまいます、絶対に無理です、というベテラン保育士の指摘もまったくその通りで、普通に保育をしていても、子どもが「抱っこ」される時間は家庭で育っていた時に比べて極端に減っていた。それが、ここ数十年やってきた国基準の保育なのです。そのあたりがそろそろ認識されないと、手の掛かる子の増加に歯止めが掛からなくなってくる。

幼児期の子育てに不可欠なのが心の「ゆとり」でした。人間の心にゆとりを与えるために幼児期の子育てがあったと言い換えてもいい。乳児と不思議な沈黙を共有することで、人類は、未来を創造する瞬間を体験し、思いやりの心を育てていく。絆に必要な静けさを身にまとうための道が、「抱っこ」にはあった。

「抱っこしなければ、落とさない」、その次元に保育がなってきているのに、それでも預かれと政治家たちは言う。「質より量」優先の施策を「子育て安心プラン」と名付けて進めている。保育を子どもの数とお金で計った「仕組み」としか見なしていない。これでは、格差と分断によって、その先にある学校がもたなくなる。そして、欧米を見ればわかるように「教育」でこの分断を是正することはできない。

安全最優先が「抱っこしない保育」につながる。これは見かけ以上に危険な現象です。子どもの成長には決定的と言ってもいい。

それでも、保育という仕組みの空洞化が市場原理によって進められる。「福祉」が人間性を失い、一線を超え始めている。

「子育て安心プラン」は構造的に破綻している「生産性革命と人づくり革命」(安い労働力の創出)の無理と矛盾、男性の引きこもりや未婚化に象徴される次世代の無気力化を覆い隠そうとする短絡的な手段であって、そのための命名です。子育てをしないことで「安心」しようとするという奇妙な論理が「抱っこしない保育」という形になって現れ、この「抱っこしない保育(子育て)」が無理と矛盾をさらに少子化という形で増幅させていく。「子育て」の中心に存在する「安心」は「子どもたちの安心」でなければいけないのです。

仕組みとしてのコーディネーションを完結させずに矛盾を抱えたまま、雇用労働施策によって「生産性」と「人づくり」が重ねられる。しかし、人間の生きる意欲、自己肯定感における幼児たちの役割を考慮しないから歯車が噛み合わない。すぐに行き詰まる。

どんな形であれ「抱っこはもういい」と幼児に言われたら、それは人類にとって強い警告です。

ウィルスという試練が世界中に広がり異なる状況の下で人類の忍耐力を試し、絆を試し、利他の心の有無を問い続けています。欧米で、コロナ禍の中で若者たちがロックアウトに反抗し、マスクもつけずにパーティーを開いたり暴徒化する様子を見て驚いた日本人は少なくないと思います。でも、欧米の犯罪率が軒並み日本の10倍以上と知れば、それなりに納得するはず。弱者に辛い、思いやりに欠けた格差社会がすでに広がっていて、家庭という定義の崩壊がその背景にあるのです。実の両親に育てられる子どもの方が少数派になり、家庭における親子の関係が希薄化し共に過ごす時間が減少すれば、親が子どもの面倒を見ようとする期間は相対的に短くなります。自立をうながすと言えば聞こえはいいのですが、早めに見離すと言い換えてもいいでしょう。制約や連帯責任を嫌うことで、「絆」という利他のネットワークがほどけていく。そこで生まれる子どもたちの孤独感や不安感が4、50年前から蓄積し、限界に近づいているのです。

子育てを優先しない、強者に都合のいい「男女平等論」は責任回避の口実になっていく。「平等」どころか、より一層社会における格差を広げ深刻な不平等を生む。そのことを、アメリカでますます露わになる亀裂と分断から私たちは学ぶべきだと思います。

血のつながり、家族の定義、家庭という制約と連帯責任が、社会のモラルや秩序の維持に果たしてきた役割は確かに大きかったのです。

自由を失うことはそれ自体怖いことではありません。幼児を育てていれば、それが喜びであることさえ理解できます。怖いのは、自由を失うことを恐れること。失うのではないかと思うこと。そう思い込まされること。そして、その思いを利用されること。

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