米国大統領選、結婚しない男たち、人類普遍の価値

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米国大統領選、トランプ大統領とバイデン元副大統領の第一回目の討論会は酷かった。まさに国の現状がそのまま現れたという感じでした。ニューヨークタムスやワシントンポスト紙が「史上最悪」と書き、3大ネットワークが「国の恥」と評し、私も聴いていて途中で気持ちが悪くなった。

終わった直後にテレビのコメンテーターが、まるでサーカス、とコメント、サーカス団からテレビ局に、サーカスを馬鹿にしないでくれと抗議がありアナウンサーが謝罪した、という嘘のようなホントの話。人類の行く末を左右する茶番劇がリアリティーショーとなって続いてゆく。すでに、背後に暴動の匂いがする。銃の売れ行きが加速している。

司会者に、白人至上主義者(white supremacist)たちの活動をこの場を借りて否定しませんか、と問われた大統領は、最後までそれを言葉にすることを拒んだ。そして、武装を楽しむ極右の団体プラウドボーイズを名指しして、後ろへ下がって、控えていろ(stand back and stand by)と言ったのだ。討論中にすかさずPBが、了解です、とツイート。翌日には「Stand Back & Stand By」と書かれたTシャツを売り始める始末。

報道を介さず、ことは進む。社会に反発している若者の反応は早い。緩衝材になるべき温かさに包まれていないから、熱し方が激しい。武器を手にしようとする。

放送後、黒人の母親から、十二歳の息子に真剣に、銃を買ったほうがいいんじゃない、と尋ねられて困っている、という投書がテレビ局にあったそうだ。そこに意識の世界で進む、危うい現実が映し出される。討論会の勝者がどちらか、支持率がどう変化したか、などということよりも、十二歳の子どもがどういう風にそれを見ていたか、何を感じたかが重要で、その意識の中で国の未来が築かれていく。大人たちは、それに配慮すべきなのだ。

この子の発言には様々な伏線がある。二年前大統領は移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」からではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し、マスコミに「露骨な人種差別」と非難された。ハイチで抗議デモが起こり、それでも37%という大統領の支持率に変化はなかった。

当時、ロサンゼルスで教師をしていた友人が言っていた。「メキシコからの移民は罪人ばかりだ、という発言もそうだけど、公の場で大統領がこういうことを言ってしまうと、小学校教育は成り立たないの。教科書で教える民主主義や平等という言葉が偽物だと、生活の中で感じている子どもたちにとっては、トランプの『糞溜め』発言の方がずっとリアルだし、身近なのね……」。でも、と彼女は言った。「そのリアルさがトランプの武器なんだけど、私という存在の方が、クラスの子どもたちにとってはリアルだと思う」。全米のTachers of the yearとして表彰されたこともある、親身に子どもたちの将来を心配する人だった。

この夏、彼女は四〇年間の教師生活に終止符を打った。教員たちの間にできてしまった溝、政府や行政に対する不信感はしばらく続くだろうし、子どもたちともコロナで直接会えないから、と言って……。

高等教育が普及したはずのアメリカで……、小学生並みの罵り合いが公的に続く。そして、それは永遠にネット上に残される。党派やイデオロギーを超えた分断の両側で、子育てをする親たちの困惑と不安、怒りが広がっている。地位を失うと脱税で訴追されるかもしれない大統領が主導する分断が、潜在的暴力を呼び覚ましていく。

現行制度のもと、州によってはすでに期日前投票が始まっている。それにも関わらず、自分が負けたらそれは不正選挙だからだ、と大統領が断言してしまったら民主主義は成り立たない。大統領を支持する共和党の上院議員でさえ、苦虫を噛み潰したような顔で白人至上主義者たちを否定し、選挙に敗北したら認めるべきと言うのだが、憲法と教育の限界が支持率6:4の数字となって、いよいよ明らかになっていく。教室で教える真面目な教師たちが、子どもたちを前に立ち往生している。

長年一緒に音楽をつくった白人の友人が嘆いていた。民主党支持、共和党支持の違いなら、友人関係を保つことはできたんだ。でも、トランプ支持、不支持の違いは、友人を失う種類のもの。この亀裂は一生埋まらないかもしれない。(そして、この亀裂は、家庭内でも起こっている。)

実は、南北戦争は終わってはいない。国の歴史がこれからも続き、憲法に人権や平等が書かれている限り溝はいつかは埋めていかねばならない。しかし、今、これに似た亀裂が世界中に広がっているのだ。

ウイルスとワクチンで人間性が浮き彫りにされている。

調和の方向へ進んでいくのだ、と信じるしかないのだが、いまはとりあえず日本という国で子育てをしていることに感謝する。私たちはそこから始めることができる。それは良きこと、運のいいこと。そして、私の思考は繰り返し、幼児の存在意義へと移っていくのだ。この人たちをどう扱うか、で憲法も教育も成し得ないことが整ってくる。彼らが一番確かな存在だと思う。

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(政府が掲げる「新しい経済政策パッケージ」より)

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、『子育てや教育にお金がかかりすぎるから』が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

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この人たちには「少子化という壁」の実態が見えていない。過去15年間の「少子化対策」、その柱となったエンゼルプランや預かり保育といった保育時間と三歳未満の園児数を増やす対策の結果、ますます出生率は下がっている。それは、誰もが知っている現実なのだ。

少子化対策の背後には女性の就労率の(出産によって下がる)M字型カーブをなくそうという意図があって、実態は労働施策だった。出生率を上げる対策にもなるはず、という一石二鳥の安易な飛躍がそこにあったのだが、あまりにも軽率な計算で、「子育て」という行為を軽く見過ぎている。

負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という損得勘定は、この国では成立しない。子育ては打算でするものではない。それが結果として出ているのだが、学者たちは、親子を引き離す意識改革を「人づくり」と名付けて進める。子育てはもともと人類が幸せ感じ、信頼や絆を作る「大切な負担」だという進化の常識が理解できていない。負のイメージばかりを広めようとする。

そして、結婚しない男が増えている。

数年後には生涯未婚の男性が三割になるという。少子化の根本には、男たちの意識の変化がある。

(実は、幼稚園や保育園で園の行事に参加する父親は増えていて、本能は確かに働いてもいる。ちょっと導いて、励ませば父性という人間性は喜びを伴って蘇ってくる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=220)

家族という関係を信じない、それに憧れない男たち、子育ての責任に充実感を感じず簡単に放棄する父親が増えている。(欧米よりは遥かに状況はいいのですが)母親(母性)が追い込まれている。そして、同時に福祉という梯子が、その質という次元で外されようとしている。

「子育て」をしていれば輝けない、「子育て」は損な役割、イライラの原因、お金がかかる、といったイメージを国やマスコミが繰り返せば、「生きる力」が弱くなっている男たちは結婚に躊躇するようになる。小、中学校でも男子生徒がとても幼くなっているという話を聞く。悪い子ではない、どちらかと言えばいい子たちなのだが、担任に甘える、駄々をこねる、忍耐力や意欲を持てない男子生徒が増えているのだ。それもまた自然なこと。無理に少子化を止めようとして、欧米のように「利他」の心持ちに欠け、子どもや弱者に辛い社会へ進んでしまっては、それこそ本末転倒です。

(以前、政府がスローガンにしていた「安心して子どもが産める環境づくり」を、「あれは、気楽に子どもが産める環境づくりです。それは困る。親が育たなくなる」と看破した保育園の園長先生たちがいた。)

伝統的な、この国の個性、美学にも似た子育て観、この国を守ってきた幸福論の書き換えが、「待機児童解消」の掛け声のもとにいまだに進められている。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2786:「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=247:「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

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「理想の子供数」という言葉が施策の中で使われる。

誰にとっての理想で、何を目的とした理想なのか、その辺りを推測すれば、ある思惑が見えてくる。馬脚があらわれる。

この「理想の子供数」と「保育は成長産業」という閣議決定に踊らされ新規参入した小規模園が最近閉園に追い込まれていて、それもまた経済活動、市場原理だが、その過程で、乳幼児たちに何が起こっているかを慮ることが重要なのだ。1日、2日のことではない。年に260日、1日平均11時間、脳が最も発達するとされる彼らの日々なのだ。それを丁寧に、親身に考えないから、「思いつき」「数合わせ」のような規制緩和、あってはならない制度改革の試行錯誤が続き、それが保育の現場を一気に疲弊、荒廃させしまった。

以前厚労省が作った保育指針解説書の最後に、こんな文章があった。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです」

その通り。保育は、「教育」よりずっと古い、人類普遍の価値を守る行いでなければならない。

乳幼児の存在意義を見失い「絆」という社会の安全ネットが壊れていくと、もはや福祉や司法では補えない。四割から六割の子どもが未婚の母から生まれる欧米で、犯罪率が日本よりはるかに高いのだ。人間社会において、モラルや秩序は、主として親子という関係で行われる「子育て」によって維持されてきたのだ。

(法治国家を条件に比較すると、泥棒に入られる確率Burglary rateは、ニュージーランドが日本の25倍、デンマーク20倍、スェーデン15倍、フィンランド、アメリカ8倍。レイプ被害に遭う確率は、スェーデンが日本の60倍、アメリカ40倍、ニュージーランド30倍、フランス、ノルウェー20倍、デンマーク18倍。)

なぜ政府は、この国の子どもたちにとっての安心と安全を犠牲にしうようとするのか。乳幼児期の親子の肌触りを経済の妨げのように扱うのか。現場は納得がいかない。優先順位におけるこの間違いを黙って見ているわけにはいかないから、私は30年間言い続け、書き続けてきました。

「人類普遍の価値の問題」

(左の人たちには右と言われ、右の人たちには左と言われましたが、そんな陳腐な闘争レベルの話ではないのです。人類普遍の価値の問題なのです。)

論旨に同意しない人たちが居て当然です。幼児の存在意義という根源的な部分で理解しない人が居てもいい。しかし、少なくとも雇用労働施策によって保育現場がどう追い込まれているか、その窮状については避けて通れない現実があることを繰り返し述べてきました。

保育士不足は、質の悪い保育士を雇わなければならないという選択を園長たちに強いる。それは「いい園長」には辛い。「園長、辞めるか、良心捨てるか」という選択が保育界の質を下げていく、等々。

「保母の子ども虐待」―虐待保母が子どもの心的外傷を生む、という本が出たのが23年前。その後の安易な規制緩和と絶対的な保育士不足で、0、1、2歳という自ら身を守れない弱者たちを安心して預けられる状況ではなくなっているのだ。子どもたちを守ろうとする園長たちが、私の身を借りて警告した通り、乳幼児たちの絶対的信頼に応えるべき保育は失われていった。

(新聞記事から)

「あっち行け」「ブタ!」 各地で相次ぐ「不適切保育」、園児の心に深い傷:2020年8月31日:https://www.tokyo-np.co.jp/article/52148

グルグル巻きの虐待が日常だった:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73461

認可保育園でも幼児虐待。叩く、突き飛ばす、転ばせる…実際に働いていた女性に話を聞いた:https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20180828-00094721/

自民党の少子化対策委員会で、福祉の拡張に伴う保育の質の低下や家庭崩壊の増加について講演したのが17年前です。党の女性局の全国大会や厚労部会でも講演しました。自民党の依頼で衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をし、民主党の依頼で衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として「無償化が保育の質を下げ、親たちの子育てに対する意識を変えること。保育界はこれ以上人材的に対応できないこと」について意見も述べました。(委員の議員たちに配ったレジュメがhttp://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2801に載せてあります。)

埼玉県の教育委員長をした時は、全国教育長・委員長会議で保育の重要性について、保育者体験が親たちを育て保育者との間に信頼関係を生むこと、それが学校を成り立たせる原点になると説明し、県単位で取り組むところが四県になりました。体験した親たちのほとんどがアンケートに「もう一度やりたい」と書く。それがこの国の強み、素晴らしさです。親の保育者体験を国の最重要施策にすれば状況はずいぶん違ってくる。中、高校生の保育体験を加えればさらに「生きる力」が蘇ってくる。幼児たちの集団には、それほど「いい人間性を育てる」力がある。それに気づいて欲しい。 

本も書きましたが、執筆依頼もありました。

2004年版「日本の論点」(変わる国のかたち)(文芸春秋社)に『モラルと秩序は「親心」から生まれた:子育ての社会化は破壊の論理 』を書きました。

日本の論点

安倍元首相が創設に関わった日本教育再生機構の機関誌「教育再生」2014年11月号に、八木秀次氏から依頼され「育てること、育つこと」 というタイトルで、学校教育を支えてきたのは、保育界の意識と就学前の親たちの「育ち」、双方向への「愛着の形成」であること、幼児期の親子を労働施策で引き離すことを続けては、教育の再生はあり得ない、と書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465

(国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。:教育再生より)

教育再生

  去年、衆議院調査局発行の「論究」第16号に「子供を優先する、子育て支援」というテーマで論文を依頼され、衆議院議員全員に配られたそうです。

論究

政治家たちは、質を保つことが不可能になっている保育界の現状を知っているはず。安倍内閣には、私の講演を聴いただけでなく、直接しっかり話をさせてもらった人が改造のたびに三人は居ました。今度の菅内閣にも三人居られる。厚労大臣と文科大臣と経済産業大臣、これ以上の組み合わせはないと思うのですが……。

0、1、2歳児の安心と願いを優先する、それだけでいいのです。彼らの役割を思い出し、それを果たさせてあげれば、自浄作用、自然治癒力は必ず働き、社会全体が落ち着きを取り戻す。乳幼児が社会の「気」を支配する、それが本来の姿です。

すでに自治体単位で実行に移されているいい方法、効き目が証明され、予算もほとんどかからないやり方がいくつもある。本やブログ、論文にも書きました。

(「いい人間性を育てる」力に関しては、0、1、2歳児がもっとも象徴的で自然ですが、話しかけられるものなら、小さな妹、祖父母、お地蔵様でもいい。もちろん、花でも、ペットでも、野菜でもその範疇です。)

数字は誤魔化せない。経済学者たちも知っているはず。

しかし、この「新しい経済政策パッケージ」を作った優位者たちは、強者主導の優先順位をいまだに変えようとしないのです。優先順位こそが「人間性」であること、絶対的弱者を最優先にすることから「社会」が成り立っていることを認めようとしない。  

現在の政府が(野党も含め)進める保育崩壊、家庭崩壊はこれから数十年に渡ってこの国のあり方に関わってくるのです。「不適切保育」をされた子どもたちだけではなく、その風景を見ていた子どもたちの心にも深い傷を残していると言うことを実感してほしい。

(新聞記事から)

認可園で虐待、おびえる我が子 通報受けた市、遅れた立ち入り:https://www.asahi.com/articles/DA3S14640478.html

「保育士の虐待『見たことある』25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明」:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

乳幼児期にこうした体験をさせられた「心の傷」について、人類は気づいていました。「三つ子の魂百まで」と言います。三歳まではとにかく大切にしなさい、可愛がり、寄り添いなさい……、ということ。

(つい十五年前まで、選択肢があれば、この国では七割以上の子どもが幼稚園を卒園していました。本能的に、まだ喋れない、歩けない幼児の位置を理解していた不思議な国なのです。)

乳幼児期の愛着関係の重要性は、学術研究でも繰り返し言われています。だから、この新聞記事の見出しにも「園児の心に深い傷」とあるのです。忘れてはならないのは、その傷は、その時だけのものではなく、様々な形で社会に連鎖していくということ。

こうした報道がされるときに、マスコミや学者は、政府の質より量を優先した施策で保育界の負担が重くなっている、それを軽くするために、待遇改善と人材確保のための予算を、と言う論調になる。これでは根本的な解決にはならない。本質に迫っていない。幼児の視点、幼児の願いという観点からは、むしろ、本末転倒といっても良い。

親たちの意識の変化こそが保育士たちの負担を重くしているのです。その指摘がされない限り、保育の質は確実に落ちていく。

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内村鑑三が、教育で専門家は育つがひとは育たない、と義務教育が広まり始めた時代に言った。

百年後、増え過ぎた専門家たちが「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)と言って、結果的に教育が成り立たち難くなるほどに「子育て」の基盤である家庭(または愛着関係)を壊している。手遅れにならないうちに、保育という仕組みをもう一度、専門家たちの計らいや成長産業などではなく、人間の営みという本来の姿の方向に戻していかなければ、「保育」は諸刃の剣となる。

専門家が増えれば人が育たなくなる、という新たな現実を、私たちは体験しています。

生産性と人づくりは車の両輪とはなり得ない。動機が異なる。

保育資格を与える大学や専門学校は、資格者を送り出すという「ニーズ」に応えることによって成り立っています。0、1、2歳児保育が今ほど普及していなかった頃は、そのやり方でも通っていた。「保育」は「教育」のフリができた。

しかし、政府が待機児童数の10倍の三歳未満児を預かることを目標に掲げ、親たちが未満児保育に違和感を感じなくなった現実の前で、「専門家」を育成することでまかなう「保育」は、完全に行き詰まってしまった。

0、1、2歳児の保育は、専門性よりも「人間性」を求めるからです。

明らかに現場に出してはいけない、資格を与えるべきではない学生に「保育資格」を与えた時点で、学問としての「保育」はビジネス(経済)の一部になっている。それを忘れてはいけない。

十数年前、実習先で見た虐待を私に伝えようとした学生たちを必死に保育科の教授が止めようとしたことがありました。男性保育士の性的虐待を、行政から止められ告発できなかった保育士たちのことを思い出します。いい保育士の人生が、仕組みの中で潰されていったのです。

保育は、園の経営が成り立てばいいというものではない。その場所がどう回っていくか、そこでどう心がつながっていくかがその存在意義なのです。だからこそ、保育という仕組みは安定していなければいけない。市場原理など持ち込んではいけない。

教育システムやマスコミという経済の守り手と、幼児という人間性の守り手の間に、人類未体験のせめぎ合いが起こっている。

近年、政治家やマスコミが「女性の活躍」という言葉を使って議論する時、その定義の中に「子育て」が入っていない。むしろ「子育てから離れることによって、女性が活躍する」という論旨が定着しつつあります。活躍の意味が議論されないまま、その言葉から逃れられなくなっている。「活躍する」ために必要な保育の質は、その信頼に応えられる状況にはすでにないにもかかわらず。

人間本来の生きるためのインクルーシブ、調和へ向かう姿勢が、授かる乳児の存在意義を忘れることによって、抑圧と支配、暴力による「法と秩序」の方向へ揺れている。それが、コロナウイルスという人類規模の試練によって浮き彫りにされる。イデオロギー以上に、人間性が問われているのに、その現実から目を逸らすために様々な闘いが用意されていく。

だからこそ、まだ意識の流れを幼児優先に戻すことができるこの国の存在とその方向性が、いつか人類にとって重要な意味を持つようになる、そんな気がする。

保育園と幼稚園が、この国を「経済優先の流れ」から救い出す鍵を握っています。保育園と幼稚園が「子どもの最善の利益を優先」し、親たちと子育ての喜びを分かちあう。それがまだ可能な国なのです。

(関連しているブログです。)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591;幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2902:保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げる場

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400:「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2466:新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。/ 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

(衆議院議員に配布された論文集です。私の論文は、「子供を優先する、子育て支援」です。)

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf

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二年前のことです。ある私立保育園に講演に行きました。笑いあり、涙あり、平日なのにほとんどの母親たちが講演会に来て熱心に耳を傾けてくれる。(保育園です。)幼児と過ごすこの時期、この特別な時間をどう過ごすといいのか、子育ては親たちが自分のいい人間性に感動することです、等々、一生懸命話しました。70歳になる女性の園長先生は気合の入った方でした。私のファンだそうで、親の保育士体験も数年前から全員にやらせています。そうした日々の耕しがあったから、一体感を感じる、お互いに納得しながらの講演会ができたのだと思います。

私が時々「道祖神」とか「地べたの番人」と敬意をもって呼ぶこの人たちが、実は根っこのところでこの国を支えてきたのです。

驚いたことに、70人定員の園で、年に一度のお泊まり保育には親も含めて200人が参加するというのです。園児一人に大人が二人ついてくる。国が仕切っている今の仕組みの中で、つまり逆風の中で、こういう園長先生が親心を耕し、信頼関係を育てている姿をみるのは嬉しいし、励みになります。「そう、そう、園長がその気になれば、可能なんだ」と笑ってしまいます。これは「教育」のレベルの話ではないのです。もっとずっと古い、古(いにしえ)の法則、大自然のしきたりに属する作業なのです。「祭り」と呼んでもいいかもしれない。

お泊まり保育だけではありません、お泊まりキャンプもあります、と園長は言うのです。この保育の神に出会った一家は、その人生が変わる。親たちも、そういう行事があることを説明され、納得して園を選んでいる。まだまだ日本の親たちは捨てたものではない。

「でも」と二人きりになった時に主任さんが辛そうに言うのです。「あんな園長ですから、親たちを育てるのは難しくないんです、いくつか行事を重ねれば、自然にみんな子育てが喜びに変わって行きます。問題は、若い保育士たちなんです。育てるのが本当に難しくなった。知識はあっても長く続かない。保育の喜びや深さを理解してくれない。昔とは、笑顔の種類がちがってきているように思うんです」

数日後、親たちの書いた素晴らしい感想文が、たくさん送られてきました。この国はまだ大丈夫。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

折々のことば