調和する社会を作るための筋道

 

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以前、経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。正確に言えば「私たちに」言ったのだが、隣にいた保育園の園長先生の肩が怒りに震えていた。

座長は男性、園長先生は女性だった。

この高名な経済学者は、人間を、働けるか働けないかでしか見ていない。「0歳児は寝たきり」という情報を、ただ情報としてインプットされ、幼児の「働き」、「役割り」に関しては見えていない。考えが及ばない。自分が幼児だった時、どういう存在だったのかさえ理解できていないのだ。人間の生きる動機、実はこれこそが「経済」の原動力だったわけだが、それが理解できていないということ。「経済」を調和ではなく、闘い、競争と理解している。勝者(強者)の側からの都合で見る「経済」は破綻する。それが全世界で起こっている。

人間は、遺伝子の中に組み込まれている、誰のために生きるのか、何のために生きるのか、という「人生の目的」を、0歳児を眺めることで思い出す。

表層的な情報に依存して想像力を封印し、感性を忘れる経済学者が多いのは仕方ないこと。しかし、この人が政府の少子化対策が始まった頃に経済財政諮問会議の座長だったことは、政府という、経済で成り立つ仕組みにとって致命的だった。少子化対策の中心にあった保育施策が雇用労働施策の一部として扱われ始めた時だっただけに、あってはならないことだった。強者が仕切る仕組みというはこのように動く。

似た考え方をする経済学者はこの人だけではない。

3年前に閣議決定された政府の「新しい経済政策パッケージ」を作った人たちの名前の横にも、有名大学教授の肩書きが並んでいた。

(政府の「新しい経済政策パッケージ」より抜粋)

『0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。

 

この政策パッケージが作られる10年以上前から、ハローワークで保育士を募集しても一人も応募してこない、という状況は日本中で起きていた。保育士を選べない状況はすでに動かない現実だった。経済学者たちが最優先と決め、無償化によって推し進めようとする32万人分の「受け皿整備」は、確実に幼児たちを世話する労働力の質を落とし、怯える幼児たちを増やすことでしか「着実に進め」られない。それを自治体のベテラン保育課長たちは知っていたし、厚労省も勿論知っていた。

保育士不足による弊害は、すでにマスコミでも繰り返し報じられていた。

ネットで、「保育士、虐待」と検索すれば記事はいくらでも出てくる。それを読みもしないで保育という手段を前提にした政策パッケージを作った学者や政治家を除けば、「子育て安心プラン」が規制緩和と人材不足を一層進め、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということは現場は皆わかっていた。私は、当時年間100以上の講演をし、その半数が保育者たちに呼ばれた講演だったから、そう言い切れる。現場は皆わかっていた。

それでも、いい保育士が怯える「子育て安心プラン」 を前倒しする、と政府は再び決めたのだった。

(イギリス、フランス、韓国の保育制度に関しては、参考にする意味がない。イギリスは四割、フランスは五割の子どもが未婚の母親から生まれ、家庭の定義がすでに日本とは違う。韓国の保育制度に関しては、その破綻の速度と、市場原理の危険性について知るべきだと思うが、無償化をとどまる事例にしてほしい。)

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2643:「保育士7人が一斉退職」の新聞記事と、現場からのメール:「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591:幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実

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「新しい経済政策パッケージ」に関わった経済学者だけではない。保育士不足の只中で「十一時間保育を標準」と定めた国の子ども・子育て会議の「専門家」たちは、一体何をしていたのか。

「この内閣主導の経済政策パッケージをいずれ支えるのは未来の労働力となる子どもたちではないのか」という単純な理解があれば、「32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め」たらこの国の将来がどういうことになるか、保育の専門家ならわかるはずではないか。

保育の質の低下は、学級崩壊や教師の離職という形になって学校教育を追い詰める。いじめや不登校、引きこもりが増え、社会全体の生きる力が弱まり、将来の労働力の質も下がっていく。

「保育の受け皿」という言い方で誤魔化しても、これは間違いなく「子育て」の受け皿なのだ。そう言い換えれば少しは問題の本質が見えてくる。専門家の机上の仕組み論ではない「人間の営み」が感じられるはず。そんなことは、突然32万人分出来るはずがない。仕組みと資格(学問)で補えることではない。そこに書かれている通り対象の九割が三歳未満児なのだ。脳の発達、将来の思考の道筋がこの時期決まると言われている、その扱いには細心最善の注意を払わなくてはいけない、人間社会において最も繊細で敏感な人たち(大切な弱者たち)なのだ。政府や学者、専門家たちが乱暴に扱えば、そのひずみは必ず出てくる。

そして、この時期の子育ては、育つ側だけでなく、明らかに「育てる」側の体験であって、「寝たきりなんだから」(誰がやっても同じ)で済まされることではない。

「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。

その人は一体何を考えているのか。「誰が」安心しようとしているのか。子育てにおいて、子どもたちの「安心」は二の次なのか。

心ある園長なら、すぐに抱くこうした施策上の矛盾と思考の展開に対する疑問に、学者たちがまったく気づかない。少なくとも、「新しい経済政策パッケージ」と「子ども・子育て支援新制度」に関わった専門家たちは、気づいていない。弱者の願いから生じる、人類が生き残るための常識から逸脱している。

追記:

待機児童はやがてゼロになる。その時が危ない。待機児童解消を優先課題と位置付ける経済学者たちは、そこで働く市場原理を理解しているのだろうか。

乱造とも言える保育施設の設置、規制緩和による人材の質の低下、それと同時に、少子化は確実に進んでいるのだ。地方ではすでに保育園の「定員割れ」があちこちで起こっていて、その波は、近い将来都市部にもくる。

その時、園児の取り合いから、親を「客」と考える保育のサービス産業化に拍車がかかる。それが怖い。数人の欠員が園の存続に直結する自転車操業のような小規模保育では、言い方は悪いが、親子を引き離すサービスに走り始める。生き残りを賭けて。そうしているところはすでにある。

(その結果、保育園が仮児童養護施設のような役割さえ果たさなければならなくなってきている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391)

10年以上前から、私が講演依頼を受けた保育団体の勉強会の分科会に、「保育でどうやって儲けるか」というテーマで、保育の本質を理解していないビジネスコンサルタント達が講師として入り込んでいた。ビジネスには素人の、市場原理には慣れていない園長、設置者たちをサービス産業化で煽った後、今度は「保育界でいかに生き残るか」という脅し方を始めている。幼稚園がこども園化させられた過程でも、その現象は起こっていた。

子どもたちの最善の利益を優先する、という保育所保育指針の大前提を考えれば、保育は絶対に商売になってはいけなかった。保育の重要性を理解し、国が保育士たちの「心持ち」を守らなければいけなかった。「子育て」そのものと重なるこうした「保育に関わるものたちの様々な心の動き」を考慮せずして、少子化対策は成り立たない。

しかし、介護保険の失敗に懲りずに、市場原理に任せるのがいいという学者たちの安易で稚拙な経済施策が閣議決定され、子どもたちの日常と、取り返しのつかない幼少期の日々を蝕んでいく。

この国の将来の安心と経済を考えれば、まず最優先で保育を立て直すことだと思う。先手を打って、保育園を子育て支援センターに作り変えていく。親子を引き離さずに保育園がより一層大切な役割を果たし、生き残りの不安を感じなくてもいいように制度を変えることはできる。そして、0、1歳児を自ら育てる家庭に、もちろん祖父母でもいい、直接給付金を出すなどして、保育界の人材不足を解消する。(0、1歳児の役割の大切さももちろんだが、0、1歳児保育は、4、5歳児保育の10倍の人手が必要なのだ。)

保育という仕組みが必要不可欠になっている今、保育士たちがゆとりを持ち、喜びを感じる現場にしていくことが、弱者を中心に調和する社会を作る筋道だと思う。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2736:「児童虐待がニュースになる度に思います」

http://kazu-matsui.jp/diary2/wp-admin/post.php?post=2276&action=edit:保育界の現実(森友学園問題)

卒園児を集め「お泊まり保育」のビデオ

保育園・幼稚園、という人生の故郷(ふるさと)になると丁度いい不思議な場所には、できることがたくさんあります。八王子の共励保育園(現在こども園)では、二十歳になり成人式を迎えた卒園児を園に集め同窓会をして「お泊まり保育」のビデオを見せるそうです。

「一人では生きられなかった自分。でもあの頃、あんなに楽しそうだったんだ、幸せそうだったんだ」映像に映る小さな自分の姿を見て、二十歳(はたち)がそう感じる。

「無力なのに、幸せそう」。昔の自分を眺めて、頼り、信じることの大切さに気づく。幸せの見つけ方を以前、ちゃんと知っていたことを思い出すのです。

幸せは、自分の心の持ち方で砂場に居ても手に入る、一緒に歌えば手に入る、そのことを思い出せば、安心を土台に、これから様々な責任を引き受けていける。

「お泊まり保育」のビデオ鑑賞は、やろうと思えば全ての園で出来ること。

いま混迷している義務教育の中でも、見方を変えれば、道徳教育や英語教育に力を入れる前に、しなければいけない大切なことがたくさんあると思います。仕組みを変えても何も変わらない。

いま子どもたちに教えなければいけないことは、人はひとりでは生きられないこと。そして、みんなで踊ると楽しいこと。その次元のことなのです。

保育は、園児の幸せを願うことで成り立ちます。子育ては、子どもの幸せを願うことなのです。子育ても、保育も、祈りの領域で完結する、そんなことを私に教えてくれた園長先生たちがいました。

毎年保育士が何人も替わる派遣や非正規雇用に頼らなければ運営できない保育では、園が心の故郷になることはできません。待機児童解消を目指す国の施策に、人の心を一つにする祈りの要素がないのです。乳幼児の笑顔は人間たちが「欲を捨てる」きっかけとなる。生きる動機になる、そのことの大切さを忘れてはいけない。

(共励保育園の理事長長田安司先生の著書「便利な保育園が奪う、本当はもっと大切なもの」幻冬舎刊、は保育者だけでなく、経済学者にも、政治家にも読んでほしい。保育実践の中から生まれる知恵、仕組みの問題点が様々な視点から書かれています。)

 

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長田先生も私も、映画「三丁目の夕日」の風景を知っている世代です。

あの頃に比べて私たちはより幸せになったのか、技術が進歩し、国は豊かになったはずなのに、社会としての幸せを実感できない、どこか殺伐としてきている。絆の質が浅くなっている。それは親子関係に現れている。そういうことをひしひしと感じる世代なのです。

アインシュタインが来日した時に驚愕、感嘆した「調和の社会」の残照、名残りを知っている世代なのです。

人間が生きる意味を見失い始めているのではないか。生きる意味を探す方法を捨てようとしているのではないか。時代が変わった、で片付けてはいけない、「もっと大切なもの」が崩れようとしている。

私は、その原因として、人間たちが三歳未満児と過ごす時間の減少を挙げます。それを保育の現場で検証し、警鐘を鳴らし続けているのです。

人間は、なぜ眠っている0歳児を眺めていると孤独を感じないのか。その辺りに答えがある。その瞬間、人間は、自分自身の人間性を見つめている。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1676:「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」