ディジュリドゥ奏者のノブ君と相談して、セッションを動画にしてアップしてみました。Knob & Kazu Matsui (Didgeridoo and Shakuhachi Session) ディジュと尺八、両方とも不思議な歴史を持った楽器です。心理学や哲学の存在意義が問われそうな単純な仕掛けは、それに気づけば、の話ですが、「技」の働く次元がちがっている。
調和に対する理解や、姿勢が異なるような気がします。色々試してみようと思います。ぜひ、チェックしてみてください。
世界各国のニュース番組をテレビで見ていると、明日食べることができるか、つまり経済をどうするか、ということと、人間関係における信頼関係の崩壊をどうするか、という二つの問題が人類を襲っているように思えます。前者に関しては、私は素人です。専門家や政治家たちがいい判断をして、苦しみと悲しみを最小限にとどめてほしい、と祈るしかない。明日の生活が出来なければどうしようもない、という論旨に配慮しつつ、主に後者に関して書いてみます。
(前者が深刻になればなるほど、後者が重要になってくると思うからです。)
日本でトイレットペーパーが品薄になっている時に、アメリカでまず銃弾が品薄になり、続いて拳銃が品薄になる。疑心暗鬼が不安を煽り、より深刻な対立構造を生んでいる。先進国において、人間社会は一体何を失ってきたのか。「先進」の実態は何だったのか。未体験の災いが、私たちに質問状を突きつけているようです。この質問状には、注意を払って答えないと、より激しい難問を突き付けられる。質問状の真意を読み間違えないことが重要です。
欧米で、隔離や自粛が解け、自由を取り戻すことによってこれから何が起こってくるのか、未来のことははっきりわかりませんが、私には、そこに家庭という信頼の基盤を失いつつある人間たちが引き起こす混沌と混乱が垣間見えるのです。(その問題について、ずっと考え、書いてきたのですから。)
社会におけるモラルと秩序は、子育て(または、絶対的弱者を守ること)が生み出す優しさと忍耐力の結果であって、経済競争や圧政で生まれる力による秩序や、仕組みに頼る福祉で補い、成り立つものではない。それが浮き彫りになってきている。
私は、いま人類全体に降りかかっている困難と試練をみつめ、オロオロしています。ウイルスの怖さもありますが、試されることによって引き出される人間性に不安を感じているのです。
神戸の地震と、その時のアメリカでのテレビ報道を思い出します。
あの時アメリカ人が何に一番驚いていたか。それはこの国に、災害のあとの「略奪」がまったくと言っていいほどなかったこと。
地震やハリケーンなどの災害が大都市で起こった場合、アメリカ人がまず心配しなければならないのが「略奪」です。災害直後、州警察や軍隊によって治安が確保されるまでの間、普段から武器を持っている人は拳銃やライフルを持って、壊れかけた家の屋根に登り自分の財産を守ろうとします。
銃社会ですから、三人に一人は銃を持っている。(その時、気づいたのですが、韓国系移民の人たちは母国に徴兵制があって訓練を受けた人が多く、銃の構え方が本格的です。注:徴兵制がいいと言っているのでではありません。)
以前、南部を襲ったハリケーン災害のあと、テレビのニュースで言っていました。一般に、災害によるストレスよりも、略奪の心配をしなければならないストレスの方が、後遺症が大きい。悲劇に見舞われている人から平気で奪おうとする人間の浅ましさが、より人々の心に大きなトラウマ(傷痕)を残すのだというのです。
天災より、人間同士の不信感、人災の方が、人間により激しい絶望感や怒りを覚えさせる。
わかる気がします。
家庭という信頼関係の基盤が希薄になっていくと、より一層災害時の孤独感は耐え難いものになっていくのです。
私たちの意識は、つながっている。
天災はそれを浮き彫りにします。
米中関係や、欧米における人種間、宗教間の軋轢の増加を見てもわかるのですが、人間同士の信頼関係を強め、絆を深める道筋でもあった災害が、不信と不安を強め、混沌の方へ人々を煽っている。
先進国の中では、悪くなったとはいえ、奇跡的に家庭崩壊が進んでいない日本という国で、これから何が起こるのか、人類が注目していると思います。
とりあえず、私は楽器を演奏するところから始めてみます。
自然界と、人と、音楽は、補い合う関係にあった。
ハーモニーでお互いの存在に辻褄を合わせようとするシンプルな公式と努力が対(つい)になって新たな命を生むし、作法どおり、その命を真ん中に置いて遊び、愛でていれば血は確実に繋がっていく。
そして、石器、青銅器、鉄器と、道具や武器がその材質を変える度に、人間の心の合わせ方は少しずつ変わっていったにちがいない……。