人間は、親孝行を三歳までにすると言う。

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乳幼児の成長が守られなければ、人類は存続できない。

子育てが喜びでなければ人類は進化できない。「子育て」は信頼関係を築くために人間たちが分かち合う最初で最後の砦。この単純で当たり前の法則が、保育施策に関する議論の中で忘れられている。忘れるように仕向けられている。

人間は、親孝行を三歳までにすると言う。生きる動機、喜びの伝承がそこで行われる。それが途切れ初めている。

20年前、新エンゼルプランで少子化対策と雇用労働施策が重なり、以降、「子育て」をしていれば誰もが気づくはずの幸福感に気づきにくくなる誘導と、仕組みの改革が「経済優先」で行われてきた。ここ数年、それが政府の進める保育施策(子ども・子育て支援新制度:「新しい経済政策パッケージ」)でますます露骨になっている。

11時間保育を「標準」と政府が名付け、推奨することで、親より長時間子育てをしている保育士たちが、子どもの幸せを願う自分の人間性と、子どもたちの気持ちをないがしろにする制度との間で板挟みになり、辞めていく。

それもまた、人類が持つ自然治癒力、自浄作用だと思う。社会全体のあり方、学校教育も含めた子育てに関わる仕組みのあり方が問われている。

(新エンゼルプラン:1999年12月19日に、大蔵・文部・厚生・労働・建設・自治の6大臣合意で策定された少子化対策の2004年度目標の実施計画の通称。「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について」が正式名称。少子化傾向を食い止めるため、共働き家庭の育児を援護するなどさまざまな施策が盛り込まれている。)

この方向へ進んで、少子化傾向を食い止めることはできなかった。それどころか、ますます進んだ。それが現実、誰も異論はないはず。

施策を作った時点で、本気で少子化を食い止めようとしたのであれば、現場を知らない「保育の専門家」と、「人間の生きる動機」を理解しない経済学者によって進められた愚策。

もしこれが、(分母である母親が減り続けるため)数字上少子化は食い止められないことを知った上で、少子化対策を装い、女性の労働力で税収を確保しようという作略だったのであれば、国の存続を軽んじる暴挙といっていい。エンゼルプランという名前そのものが、胡散臭い、と言った保育者が当時たくさん居た。保育士会の幹部から「エンゼルプランは虐殺プランです」という憤りの声を聞いたのもこの頃だった。

(「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』)

ネット上に名を連ねていた新しい経済政策パッケージ」を作った学者たちは、新エンゼルプランの失敗から学ばない。学ぼうとしない。受け皿を増やすことで合計特殊出生率は上がらず、過去最低を更新しつづけた。その事実からどう目を背けられるのか。

待機児童解消を優先し、「子育て安心プラン」 という本末転倒な名前をつけ、「子どもたちの安心」を犠牲にした規制緩和が進められた。保育現場に次々と無資格者を入れ、訳のわからない付け焼刃の「資格」をつくり、同時に利益を求める素人の保育事業参加を促した。その結果、保育現場の混沌と愛着障害が連鎖し義務教育が維持できなくなってきている。

都市部だけではなく全国で、小学校の教員の募集倍率が危険水域に達している。この倍率では学校教育の質は保てない。保育士の募集倍率はとっくに消えている。

しかし、「2020 年度までに 32 万人分」という「受け皿」の数値目標を設定し、(保育の質、学童の質、学校教育の質を犠牲にして)常軌を逸した経済政策だけがいまだに進められて行く。この状況で、保育単価(公定価格)の引き下げを行ったら、どうなるのか。以前公立保育園の運営費が一般財源化されたときに何が崩れたのか。その後の民営化の動きも含め、子どもの最善の利益という観点から検証されないまま、「社会で子育て」という実態を失った言葉が、政府の都合で一人歩きしている。

最近、サービス産業化に迎合する園長に呆れて辞めていく保育士たちから、どこかに子どもを優先に考えるいい保育園はありませんか、とよく聞かれる。いい園長がいても、よくない保育士を雇わざるを得ない状況では、ここなら大丈夫、となかなか言えないのが辛い。保育の良し悪しは、特に乳幼児の場合、その部屋の微妙な空気感に左右される。保育士の人柄や組み合わせに左右される、と言ってもよい。派遣に頼らざるを得ない状況で、半年先の「いい現場」は、もう誰にも保証できない。

保育、学校教育、先進国社会における家庭崩壊について講演するようになって35年、毎年50から100講演し、たくさんの現場を見てきた。現場で保育観について私に色々教えてくれた園長たちが、最近疲れ果て、精神的に落ちていく人もいる。子どもの幸せを願っても、それが親の「都合」に跳ね返され、行政も支えてくれない。

保育の質の低下、そして、それを許すことは、幼児を大切にするという「人間性の根幹」を社会が失っていくこと。それに代わる価値基準は存在しない。「保育士不足」という言葉そのものが「人間性不足」と裏表だ、ということに気づいて欲しい。

愛されることへの飢餓感・荒れる児童