深刻な人手不足

「学校が保護者から『教員募集』 千葉市がチラシ、深刻な人手不足背景に:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190925-00000012-jct-soci.view-000」という記事がありました。小学校の教員募集に関して言えば、東京都で倍率が1.3倍にまで下がっているそうです。以前から教育委員会に、倍率が2.4(だったと思う)を下回ると教師の質を維持できないという「神話」があったのを思い出します。

関連記事の中に、

「ブチ切れ女性教員の本音炸裂 教育困難校「勤務」ブログがすごい。https://www.j-cast.com/2017/02/11290313.html?in=news.yahoo.co.jp」というのがあって、親と教師が心がバラバラになってしまった現場の姿が見えます。

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以前、政権が民主党に変わったころ、後に三党合意で「子ども・子育て支援新制度」と名前を変え現政権が受けついだ「子ども・子育て新システム」が発表されました。保育士たちが「新システムが言う子育て支援は、子育て放棄支援ではないか」と反発する規制緩和と、幼稚園と保育園を一体化させる幼保一体化構想が乳幼児保育の量的拡大を目指して始まりました。

当時「新システム」の中心にいた発達心理学(家族・親子関係)の学者(幼保一体化ワーキングチームの座長)が、「保育の友」という雑誌でこう発言しています。

「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」。

よほど仕組みを充実させたとしても軽々に口にしてはいけない、人類の生きる動機や進化の過程にかかわる発言で、幼稚園教育要領と教育基本法を否定する発言でもあります。(「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」)

子どもの権利条約違反と言ってもよい。

記事を見せに来た園長は、「保育士一人で4、5歳児なら30人、3歳児は20人、家庭的な役割など果たしようがない。毎年担当は代わるのです。どの担当が第一義的責任を担うんでしょうね。絶対に不可能」と言い、別の園長は「やろうとしてはいけない。できるようなことを親に言ってもいけない。若い保育士には繰り返し、親の代わりはできないんだからね、と言い続けなければ保育ではない」と憤っていました。

補助金で成り立つ保育事業は国の施策には反対しにくい。公立保育園の保育士は従わざるを得ない立場にある。だからこそ施策が何を目指しているのか、丁寧に現場を納得させていくことが不可欠になる。国の経済のため、では保育士も子供も納得しない。

国の子ども・子育て会議が、「子ども・子育て支援新制度」で11時間保育を『標準』と名付け8時間勤務の保育士に担わせることは、これに慣れろ、もう親身なるなと言っているようなもの。そのことに会議に出ていた「専門家」たちが気づかない。その日、子供を見る保育士が必ず二人になる。二人目は無資格でいいという。親の意識が「この人にお願いする」から、「この場所(システム・制度)に預ける」に変わる。そして、いつの間にか、たくさん預かる街が「子育てしやすい街」という奇妙な図式が定着する。「第一義的責任」がますます宙に浮いていく。

人間は環境や仕組みに慣れる。それは生きる力でもある。しかし、慣れてはいけないこともある。

親たちの希望やニーズに沿った社会を目指せば、やがてそれは親たちの「子供を育ててくれない社会への不満」につながる。そして、仕組みはこの親たちの不満をフォローできない。それが、育児ノイローゼや幼児虐待、家庭崩壊、犯罪の増加へと進んでいく。

関連記事の中にもう一つ、ホッとする記事がありました。読んでいると、日本の親たちはまだ大丈夫かもしれない、と思えてきました。子育ては一人一人が取り組みさえすれば、人々の絆を深める力がある。一人では子育てができない、それが人類の生きる力です。

「PTAをなくした小学校16年目の真実 「いいことづくめ」の美談のはずが…。https://www.j-cast.com/2017/03/15293108.html?in=news.yahoo.co.jp」