育休退園・所沢市の決断/石舞台/「子どもの楽園」に驚く欧米人/「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋

育休退園問題の意味/所沢市の決断


 新潟市で講演後の質疑応答の時に「所沢市の育休退園」について一人の保育士さんが意を決したように手を挙げ、発言しました。


 (新聞やテレビの報道でも話題になった育休退園問題は、これからの日本の子育て環境の「質と役割」を決定づけるかもしれない象徴的な問題なのです。

 家庭における子育て事情は違いますし、一昔前とは違い人間同士の助け合いが薄れ、一概に保育はこうあるべきということは困難なのですが、仕組みを考える上で今回の問題は、「保育は親たちの希望に応えるのか、ニーズに応えるのか」という点に行き着く。その向こうに「保育を雇用労働施策・国のニーズ」と考える政府の意向がある。そして、「子どもたちの希望に応えるのか、ニーズに応えるのか」という人間性を問われる視点を掘り起こす。さらに、現実的には「希望にもニーズにも応えられない保育士不足と財源不足」が問題全体を覆っているのです。

 施策の内容は簡単に言えば、育児休業をとっている親の在園三歳未満児は、弟か妹を出産後、母親が育休に入って三ヶ月までは預かるが、それ以降は原則退園してもらう、という方針です。もっと簡単に言えば、育児休暇をとっているのですから二歳以下の上の子は一緒に育てて下さい、ということ。三才以上の在園児は一号認定で保育園に残れますし、幼稚園に入ることも可能です。

 この方針は、以前、少子化がこれほど危機的ではなかった頃は当たり前で、それを継続している自治体もかなりあります。それが、厚労省が保育をサービスと言い始めたころから、保育の定義が混乱し、親が育休中でも兄姉は退園しなくてもいいとする自治体が増えていったのです。それと同時に、少子化も進みました。)


 保育士さんが言います。「市長さんの、『子どもは親と居たいはず』という答えに感動しました。誰も言わなくなりましたが、あれが本当の答えでなければいけないはずです。他に待機児童がいるから、なんていう答えではいけないんです。どう思われますか?」と。

 この保育士さんは、子どもに囲まれ、その気持ちを身近に感じ、想像し、生きている。幼児期が子どもの人生の重要な一部で、親が育てるか保育士が育てるかではまったく違う。それは子どもの人生を左右する重大事だと思っている。それを自分の子育て、そして保育の体験からも感じているのでしょう。

 「保育、学校教育には限界がある、一対一の関係を求める子どもたちの願いに応えていないことを、このまま見過ごしてはならない」そんな声を聴いた気がしました。

 マスコミが半ば呆れ批判していた「市長が言ったこと」が、実は一番深い次元で、遺伝子のレベルで、双方向に正解で、それが土台になければ保育も子育ても成り立たない。子どもの思いを優先しなければ、保育自体が現状から立ち直れない、それを最近のサービス産業化する保育全体の流れの中でこの保育士さんは直感的に感じていたのだと思います。何かが根本的に間違っている。どこかで誰かがこの流れを変えなければ、自分たちの意志とは関係なく、自分たちの存在が子どもたちの不幸に連鎖していく、その現実が一番歯がゆいのだと思います。

 保育園に通う子どもたちの日常を足し算すると、預ける時間が十時間近くになってきた今、子どもの気持ち、願いが一番気になっているのは保育士かもしれない。その視点や気持ちを施策の中心部に置いていない、ほとんど考慮もしていないことが、現在の保育に関わる施策の決定的な欠陥なのです。この人たちの気持ち、そして存在が保育そのものだという当たり前のことを忘れて議論が飛び交っている。

 この保育士さんは、市長がこういう施策を「当選するため」にしていないのを知っている。

 (子ども・子育て支援新制度が現実のものとなった去年、私は例年になく多い全国180カ所で講演をしました。半数以上が保育者からの「指針」を求める講演依頼でした。そして、講演の前後に、時には行政の人も含め様々なことを話合いました。政府の施策と子どもたちの願いの間で板ばさみになっている人たちの気持ちをたくさん聴きました。)

 この国の保育士たちは日常的に、預ける必要のない親たちが子どもを保育園に置いていく姿を眺めているのです。待機児童がたくさんいるような地域では理解出来ないことかもしれませんが、全体的に見れば、すでにそういう仕組みなのです。全国に、幼稚園が一つもない自治体が二割ある。それだけ考えてもわかると思いますが、儀式的に三割くらいの親が真実ではない就労証明書を出さなければいけない仕組みだった。まだ未完成の仕組みなのです。そこへ、市場原理や規制緩和を政府が全国一律に持ち込んだのですから混乱します。

 そして今年、首相が、待機児童は二万一千人しかいないのに、保育園であと40万人乳幼児を預かれ、そうすれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンもエールを送ってくれました、と国会で言ってしまった。致命的なのは、8時間保育を「短時間」、11時間保育を「標準」と名付けてしまった。幼児の親の多くが親であることに初心者。11時間を標準と言われると、それが権利、と考える親たちが出てきても不思議はない。本来「子育て」である保育を、行政サービスの一部、福祉の一部、と認識し始めてもおかしくはない。しかも周りを見れば、働いていないのにサービスを受けている親たちがたくさんいる。保育が利権争いの構図になっていってもそんなに不自然ではない。

 現場で、「幼児も国民でしょう、少しは幼児の気持ちも想像しなさいよ」という思いが政治家や行政に対してフラストレーションになって溜まっているのです。そして、保育をサービスと思い込んだ親たちの保育所に対する態度がみるみる変わってゆく。それが一番辛い、情けないのです。政府が身に染みて感じなければいけないのは、いい保育士たちは日々子育てをしている、ということ。ただの「仕事」や「労働」をしているのではないのです。「仕事」になってしまうことは自分の遺伝子と幼児たちが許さない。

 「こういう市長さんがいるなら保育士は頑張れますよ」、と講演後に役場の人が言った言葉が心に残りました。新制度をきっかけに、これ以上子どもを親から引き離してどうする、子どものためになっていない、と言って辞めてゆくベテラン保育士を何とか引き止めようと行政も苦労の連続で、その努力も限界に近づいています。定年まで数年を残して辞めてゆくベテラン保育士たちの価値はお金では計れない。二度と元には戻らない貴重な時間の積み重ねが、次に伝わることなく消えてゆく。新制度を作った人たちは、保育が養成校で教えられるものではなく、現場で伝承されてきた祈りにも似た心持ちだということさえ知らない。だから平気で幼保一体化などと言う。現場に出ていない資格者を掘り起こせ、などと馬鹿なことを言う。

 預かれ預かれと言いながら、保育の重要性を認識していない市長たちの財政削減で、公立でも正規での募集はほとんど出来ず、非正規雇用では、欠員を埋めるために募集してもほとんど応募して来ない。倍率が出ないということは、危ない、と思っても、資格がさえあれば誰でもいいから雇ってしまうしかないということなのです。政府の愚策に手を貸さなければならない役人たちは、新国立競技場よりも、幼児の日々の生活の方が大切でしょう、と心の中で日々思っている。


 今回の新制度は、去年行われた保育ニーズ調査の段階から、そうした政府の子どもの気持ち無視し、現場の実状は後回しの姿勢があからさまに出てしまった。その態度・姿勢に保育士たちは傷ついている。だからそこ、その保育士には、所沢の市長の発言が一筋の光りのように見えたのでしょう。


 保育サービスという言葉がどれほど三歳未満児の心を傷つけているか、誰にもわからない。三歳未満児をこれだけ親から引き離し集団で保育することが将来どういう影響を社会に及ぼすか、明確に計算出来る学者はいない。

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 イスラエルの学者がキブツという制度の中で乳幼児を意図的に親から引き離し公教育的に集団保育し、それがどのように失敗だったか、という研究発表を15年位前に国際会議でしていました。ビデオを使って、ベビーベッドで乳児が泣き出した時の親と保育士の反応時間の違いを説明していました。米国の家庭崩壊と日本の現状を説明しながら、乳幼児がどのように親を育てるか、というテーマで基調講演をした私は、その晩、そのイスラエルの学者、イギリスの学者、そして米国のサラ・フリードマン氏とかなり突っ込んだ議論をしたことがあります。

 十数年前に日本の厚労省も、当時八時間だった長時間保育は子どもに良くない、と白書に書いていたことがあるのです。

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 三歳未満児が、弟か妹とその時期に過ごす時間が、7、80年続く兄弟、姉妹の関係にどういう影響を及ぼすのか。私たちは、ただ想像するしかない。でも、この想像力の範疇に人間性が存在し、社会にモラル・秩序が生まれるのです。

 読売新聞の調査によると、マスコミの市長批判報道にもかかわらず、所沢市の施策に賛成が65%だそうです。日本の子育ての常識は、まだそんなに崩れていないのかもしれない。

 ネット上に、市長の発言に対し、「三歳児神話は神話に過ぎない、三歳未満児が親と一緒にいたいと思っているということは証明されていない」という主旨の反論が、育休退園に反対する人たちから出ていました。いまだにこんなことを言っている。

 「三歳児神話は神話に過ぎない」。15年位前に日本である学者がこれを言った時、思わず耳を疑いました。この学者の思考レベルの浅さに意図的なものさえ感じました。

 これは、目の前にある神社に向かって「この神社は神社に過ぎない」と言っているようなも。「犬も歩けば棒にあたる」と言われ「噂に過ぎない」と反論する人は居ないでしょう。聖書や法華経の中身を「話がべらぼう過ぎる、あり得ない」「初詣には科学的根拠がない」と難癖をつける人も通常、居ないのです。

 人間性は神話の領域に属するもの。文化人類学や民俗学を少しやれば理解出来るはず。だからこそ、国連の子どもの権利条約にも「児童は、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と書いてある。子どもはそれを言えない場合が多いから、想像力の次元で、人類の過去の体験と重ね合わせ、「すでに有している権利」としてそれを擧げている。その条約を日本はすでに批准している。

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 「一歳児は噛みつく頃なんだから」と平気で言ってしまう園長が、この国でも現れ始めています。保育では一対一の関係を要求する乳幼児たちの要求に応えられない。そういう状況の中で、なるべく子どもは親と一緒に居た方がいい、と身を賭して発言する市長が出てこないと、この国は守れない。いつか日本の家庭崩壊も犯罪率も欧米並み(十倍以上)になってしまうでしょう。

 子どもは、通常親と一緒に居たいだろう、特に三歳未満児はそうだろう、という思いを「証明されていない」と言って否定しようとする人たちの意図がこの国の未来を左右しないことを祈ります。「子どもは絶対に親といるべきだ」と言っているのではないのです。人生には確かに様々な事情があり、その事情もまた「絆」を生むための要素です。ただ、「一緒に居たいだろう」という意識が人間社会には不可欠なモラルと秩序を創造していることを忘れてはいけない、ということなのです。


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 所沢市の決断に対して訴訟が起っています。

 所沢市が負けるとは思いませんが、確かに今回の市の決定は、サービスという名で保育が本当に必要でない場合でも、親がそれを望めば預かり、それによって労働力を増やそうという国の方針とは相反している。国内法より優先されるべき国連の子どもの権利条約に一致している所沢市の決断が、「地方の状況に合わせて」と指示されたはずの政府の保育・子育て支援新制度によって、もし法廷で負けるようなことがあれば、それは連鎖的に保育の質の低下を招くことになり、結果的に親たちの敗北になってゆく。訴訟を起こした親たちだけではなく、後に続く多くの、本当に保育が必要な親たちの敗北になる、それに親たちは気づいているのでしょうか。保育はすでにそこまで追い込まれているのです。

 親の利便性で保育が進められれば、良い保育士はどんどん辞めてゆく。そして、すでに現在の保育士養成の仕組みは、現場に出てはいけない学生に資格を与えている。それを考えれば、保育の質を元に戻すのはもう無理なのです。このままこうした施策が進めば、この訴訟を起こした人たちは保育・教育の崩壊という大きな犠牲を払って、やがて気づくのだと思います。


石舞台


石舞台.jpg



 新潟市で講演をした同じ週に、長野の飯田市で保育士たちに講演をしました。その帰りに、偶然寄った神社の前の石舞台です。

 ディジュリドゥー奏者のノブ君が一緒にいたら絶対奉納演奏していたはず。私も楽器を持っていたら誘われて加わっていたかもしれません。

 古(いにしえ)の「気」のたたずまい。きっと遺伝子の中に組込まれている、不思議な動き、調和が、その辺りにありました。

https://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s

 After the speech, I came to a shrine in the
mountains. This picture is the stone stage in front of the shrine. The place
was with “Chi” prehistorically defined, I felt. If I was with Knob, the
Didgeridoo (Yidaki) player, I am sure that he dedicated a note or two there.

 石舞台というとナルニア国物語を思い出します。人々が忘れている古(いにしえ)の法則が森の中にあって、それは宮崎アニメの中にも度々出て来ますが、まだ私たちの生活の中にひっそりと、歴然と存在している。所沢市の育休退園という問題提起は、他に待機児童がいるからという次元の論争では、遺伝子の中に組込まれている不思議な動きにまで行き着かない。

 経済という損得勘定ではなく、この国の将来のあり方を論じるなら、「子どもは親と居たいと思う」という古(いにしえ)の法則へ意識を戻すことでいいのだと思う。そうすれば、子育てに失敗などあり得ないことが理解出来るし、育休退園など何ともいうこともない。ただの日常でしかない。石舞台がそう語っているようでした。

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 いま、この問題の争点になっている多くの発言が、学校という存在を絶対条件にして成り立つ議論でしかない。学問という最近のものに支配されている。しかし、その前提は「養成校が明らかに現場に出るべきではない学生に資格を与えている現状」を見れば、すでに崩れている。

 所沢市長が元中学校の教諭、というところが興味深い。元教諭だからこそ、石舞台が見えるのかもしれない。子育てが損得勘定や経済論、利権争いに巻き込まれたら、学校が成り立たないことがわかっているのだと思う。




 石舞台を見ていると憶い出すのです。怠け者でも、踊り手でも、歌い手でも、そこそこ楽しく生きていける社会がいいのだということを…。

 幼児たちは、舞台が無くてもそれを永遠に体現し続けるのです。

 森の中で、静かに、人間が楽しみを感じる次元を石舞台は体現している。なぜここにあるのか、真剣に、記憶をたどるべき時が来ているのです。





 

本来の日本の姿

 以前にもブログに書いたのですが、「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋を再度掲げたいと思います。江戸の末期、明治の初期に来日した欧米人の証言です。欧米人が何に驚いたのか。

 「いま、なぜ政府は40万人の乳幼児を政府は母親から離そうとするのか」。

 日本人が、「子どもに囲まれ、子どもに育てられ生きてゆく」という自分たちの個性や役割を否定しては、私たちが私たちである意味がなくなる。




 街はほぼ完全に子どもたちのもの、日本の子どもは馬や乗り物をよけないのは、大事にされることになれているから、と書き残されています。朝から幼児を抱えた男たちが腰を下ろして並んで、お互いの子どものことを話し合っている。日本人の子どもへの愛はほとんど崇拝の域に達している。

 玩具を売っているお店が世界一多い国、そして大人たちも一緒に遊ぶ国。日本の子どもは父親の肩車を降りない。子どもの五人に四人は赤ん坊を背負い、江戸ほど赤ん坊の泣き声がしない街はない。

 赤ん坊を泣かせないことで、人間と人間社会が育っていた。赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と自然に思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点かもしれません。そうすれば、大人でも子どもでも老人でも青年でも、人間が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思うようになるのです。

 最近は親が、泣いている自分の赤ん坊を見て、勝手に泣いていると思ったり、迷惑だと感じてしまったりする。抱き上げれば泣きやむことを知っているのであれば、泣いているのは自分の責任。よく考えてみれば、「産んだ責任」までたどりつく。その責任を感じたとき、人間は本来、自分の価値に気づくのです。そうやって何万年も生きてきた。親が泣いている自分の子どもに責任を感じなくなった瞬間に、人間社会が長い間保ちつづけていた「絆」が切れてしまうのです。

 赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。

 この国では、親が子どもを叱るところも見ない、多くの欧米人が同様に証言します。

 欧米人には、日本人は子どもを必要以上に甘やかしているように見えました。四歳くらいまで子どもは王様女王様。みんなからちやほやされ、やりたい放題。それなのに、子どもたちは五歳にもなれば幼いながらも落ち着き、自然に仕事を覚えたり、年長者や老人を敬ったりするようになる、と言うのです。

 街を離れ村へ行くと、日中すべての家の中が見渡せる、と驚いています。障子や襖、雨戸の開け放たれた家々は、中が丸見えです。日本人にとって当たり前の風景に欧米人が驚きます。そしてその不思議さを書き残します。

 「時空をわかちあう文化」がそこにある。時空の「空」をわかちあうことは、襖や障子を開けること。「時」をわかちあうことは、子育てをわかちあうことでしょう。

 私は保育者に「幼児の集団を使って親心を耕してください。信頼の絆を育ててください。人間社会をいまの状況から救えるとしたら、幼稚園・保育園が親を園児に漬け込むこと、それによって親心を育み、幸せのものさしに気づくことしかありません」と言いつづけてきました。私が幼稚園・保育園を使って日本に取り戻そうとしていたのは、この本に書かれている、この世界、この風景、この文明だった、と感慨深いものがありました。

 日本人にとって「夢」は、自分の幸せを願うことではなく、次世代の幸せを願うこと。幼い次世代の中に神を見、仏を見て、時々自分もそうだったことを思い出し、毎日ゲタゲタ笑いながら幸せに暮らしていた。「親心」と重なる文明が、この国の「美しさ」でした。人間は、幼児を眺め、「貧しくても生きられる方法」を思い出すのです。

 儒教的な背景から戦いの中で育まれた武士道、禅を基盤に、利休、世阿弥が書き残した日本の宇宙的文化は、確かに一人ひとりの人間のあるべき姿や宇宙との関係、欲を離れた安心の境地について、欧米とは違った道を示してくれています。しかし、欧米人が驚愕した「国としての境地」は、幼児を眺める笑いの中にあった。

 私は、日本を見て、その様子を書き残してくれた欧米人に感謝しています。たしかに時空を超え守りあう彼らとの「絆」がそこに存在するのです。



 

 

第十章「子どもの楽園」から

 

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838〜1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている(バード)』

 

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

 

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』

 

日本について「子どもの楽園」という表現を用いたのはオールコックである。(初代英国公使・幕末日本滞在記著者)

彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで半身または全身裸の子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのにでくわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用することとなった。事実日本の市街地は子供であふれかえっていたスエンソン(江戸幕末滞在記著者)によれば日本の子供は「少し大きくなると外へだされ、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。

 

ワーグナー著の「日本のユーモア」でも「子供たちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担った運搬夫が、独楽(こま)を踏んだり、羽根突き遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、少しのまわり路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や駆者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」ブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧を揚げており、馬がそれを怖がるので馬の乗り手には大変迷惑である。親たちは子供が自由に飛び回るのにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が乳母の足下で子供を両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」こういう情景は明治二十年代になっても普通であったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきえ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ。」

 

 『ヒロンやフロイスが注目した事実は、オランダ長崎商館の館員たちによっても目に留められずにはおかなかった。ツユンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。「船でも」というのは参府旅行中の船旅を言っているのである。またフィツセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」と述べている。

 このことは彼らのある者の眼には、親としての責任を放棄した放任やあまやかしと映ることがあった。しかし一方、カッテンディーケにはそれがルソー風の自由教育に見えたし、オールコックは「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっている」と感じた。「すなわち日本の子供たちは自然の子でありかれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ大人ぶることがない」。

 オイレンブルク伯は滞日中、池上まで遠乗りに出かけた。池上には有名な本門寺がある。門を開けようとしない僧侶に、つきそいの幕吏が一分銀を渡してやっと見物がかなったが、オイレンブルク一行のあとには何百人という子どもがついて来て、そのうち鐘を鳴らして遊びはじめた。役僧も警吏も、誰もそれをとめないでかえってよろこんでいるらしいのが、彼の印象に残った。

 日本人は子どもを打たない。だからオイレンブルクは「子供が転んで痛くした時とか私達がばたばたと馬を駆って来た時に怖くて泣くとかいう以外には、子供の泣く声を聞いたことがなかった。

 日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」。

 レガメは一八九九(明治三十二)年に再度の訪日を果したが神戸のあるフランス人宅に招かれた時のことをこう記している。「デザートのときお嬢さんを寝かせるのにひと騒動。お嬢さんは四人で、当の彼女は一番若く七歳である。『この子を連れて行きなさい』と、日本人の召使に言う。叫ぶ声がする。一瞬後に子供はわめきながら戻ってくる。—–これは夫人の言ったままの言葉だが、日本人は子供を怖がっていて服従させることができない。むしろ彼らは子供を大事にして見捨ててしまう」。つまり日本人メイドは、子どもをいやいや服従させる手練手管を知らなかったのだ。日本の子どもには、親の言いつけをきかずに泣きわめくような習慣はなかった。』

 

 『日本についてすこぶる辛口な本を書いたムンツィンガIも「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」と言っている。チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しきを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」。モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛いい子供」だった。』

 『モースが特に嬉しく思ったのは、祭りなどの場で、またそれに限らずいろんな場で大人たちが子どもと一緒になって遊ぶことだった。それに日本の子どもは一人家に置いて行かれることがなかった。「彼らは母親か、より大きな子どもの背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り回し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるすべてを見物する。

 ブスケによれば「父とか母が一緒に見世物に行くときは、一人か二人の子どもを背中に背負うか、または人力車の中に入れてつれてゆくのがつねである」。

 ネットーの言うところでは「カンガールがその仔をその袋に入れてどこえでもつれて行くように、日本では母親が子どもを、この場合は背中についている袋に入れて一切の家事をしたり、外での娯楽に出かけたりする。

 子どもは母親の着物と肌のあいだに栞のようにはさまれ、満足しきってこの被覆の中から覗いている。

 その切れ長の目で、この目の小さな主が、身体の熱で温められた隠れ家の中で、どんなに機嫌をよくしているか見て取れることが出来る。」

 

 「ネットーは続ける「日本では、人間のいるところならどこを向いて見ても、その中には必ず、子どもも二、三人はまじっている。母親も、劇場を訪れるときなども、子どもを家に残してゆこうとは思わない。もちろん、彼女はカンガルーの役割を拒否したりしない」

 チェンバレンはまた「日本の少女は我々の場合と違って、十七歳から十八歳まで一種のさなぎ状態にいて、それから豪華な衣装をつけてデビューする、というようなことはない。ほんの小さなヨチヨチ歩きの子どもでも、すばらしく華やかな服装をしている。」と言っている。彼は七・五・三の宮参りの衣装にでも目をとめたのであろうか。彼が言いたいのは、日本では女の子は大人の衣装を小さくしたものを着ていると言うことだ。

 

 フレイザーは1890年の雛祭りの日、ある豪族の家に招待されたが、その日のヒロインである五歳の少女は「お人形をご覧になられますでしょうか、別の部屋においでくださる労をおかけしますことをどうかお許し下さい。」と口上を述べ「完璧に落ち着き払って」メアリの手をとっておくの間に導いた。

 彼女のその日のいでたちをメアリは次のように描写する。

 「彼女は琥珀色の縮緬のを着ていたが、その裾には青に、肩は濃い紫をおび、かわいらしい模様の刺繍が金糸でほどこされ、高貴な緋とと金の帯がしめられていた。頭上につややかに結い上げられた髪は、宝石でちりばめたピンでとめられ、丸いふたつの頬には紅がやや目立って刷かれていた。」

 メアリの著書に「私の小さな接待役」とキャプション入りで揚げられている写真を見ると、彼女は裾模様のある振袖の紋服を着、型どおりに右手に扇子を持ち、胸には懐刀を差している。つまりこの五歳の少女は完璧に大人のいでたちだったのである。

 しかしそれは服装だけのことではなかった。

 イザベラ・バードは明治十一年、日光の入町村で村長の家に滞在中、「公式の子どものパーテイー」がこの家で開かれるのを見た。

 主人役の十二歳の少女は化粧して振袖を着、石段のところで「優雅なお辞儀をしながら」やはり同じ振袖姿の客たちを迎えた。

 彼女らは「暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだ」が、

それは葬式、結婚式、宴会といった大人の礼儀のまねごとで、バードは「子どもたちの威厳と落ち着き」にすっかり驚かされてしまった。』

 

『日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである。」。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だという」。かのフロイスも言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。

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