「映像に音をつける作業はとても直感的なんだ。どういえばいいかな……。
台本や映像で語られる向こう側に、時間や空間の隠されたすき間を見つけなければ、瑞々しい音は聴こえてこない」
映像に音楽を重ねることは人間のする行為としてはかなり特別なものなのではないか、と気づいたことがあった。
作曲家たちとレコーディングをしていて、音楽が不意にシーンに馴染み、以前から存在していて、やっとその姿が見えたように重なるときがあった。
二次元の平面に、もう一つ要素が現れ、無限の組み合わせを暗示しながら……、風景が身震いし、意識を持つ。
明快に、あるいは意識的に曖昧に、旋律や和音は演技や映像では表現し難い、少し離れた別の次元で心の動きや気配を奏でてみせる。実際には存在しない「過去」と「未来」を意識の中でつなげる。場面が調い、落ち着き、いつの間にか次の場面に気配が移っていく。現実も、いつもこの不思議な次元と平行して流れているようなのだ。
人間が繰り返し墓をつくり、人形を作り、独り言のように子守唄を歌い続けてきた理由が、進化し、形をかえてその場に現れてくるようだった。
次のシーンへ続く気配……。
すでに過去へ去った前のシーンからの余韻。
そうしたものがピアニシモで奏でられ、画面と言葉は観る者の無意識により深く染み込んでいく。
時間と空間をつなげる無意識を物語の中に存在させるには、音楽がふさわしい。人間がそれに気づいた時が、ずっと以前にあったはず。
旋律の中で台詞の意味が変化していく。
足音が向かう先に、生があるのか死があるのか、そうしたことを旋律が描き分けるのだった。
昔、シャーマン(祈祷師)が必ず部族に居たように、作曲家は特別な権限を握ってそこにいる。
撮影所のサウンドステージで、その日、映像に音楽が初めて寄り添った時、監督の顔に驚きと喜びが込み上げることがあった。信頼があれば、作品の中の現実や最後のかたちはより不確実になっていく。朝もやの中で一度失った色彩が、少しずつ、陽を浴び、その日だけに運命づけられた色合いを取り戻していくように、不確実であることは、作り出す者たちの胸を高鳴らせる。旋律が無限であることを思い出させてくれる。
計らいとしか思えない成り行きが作品をかたちづくる最前線に、私も幾度か立ち会ったことがあった。
そんな時は、時がたつのを忘れた。
自分が生れ育った日本を離れて、その国にいることが、すでに理解を越えていて神秘的だった。
Legend of the Fall (ジェームス・ホーナー作曲で尺八吹いています。)