江戸川双葉幼稚園のブログから「お弁当について」/七月、認可外保育施設の宿泊保育で女児死亡/シャクティからの手紙

 小さい頃に、人間の本質は自然に輝く。その繰り返しが波のように続き、生きる力になった。まわりがそれを見つめ、可愛がるほど力が輝きを増し強くなる。そして、全員が輝いていた。なぜなら、1人では生きられなかったから。

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 保育も教育も、家族という体験に代わることは出来ない。家庭での子育ては学校教育がなくてもなりたつ。何千年もの間だいじょうぶだった。学校教育は家庭での子育てがなければなりたたない。学校と家庭は、その意味、目的の次元が異なります。「子育て」と「教育」が混同されると次元の違いが見えなくなる。歴史の長さが違うことを常に意識するべきです。


 江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生とは父の代からもう30年くらいのお付き合いで、何度か園にも講演に行きました。久子先生は保育界では論客で、何度かお互いの文章が隣り合わせになることがありました。私が衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をした時には、お願いして、後ろに座っていただきました。

 先日江戸川区の幼稚園教職員の全体研修会で息子さんの創先生にお会いしました。給食のある幼稚園を探していた親が、創先生の書いた園のブログから「お弁当について」の記事を読んで、「お弁当の意味」に納得し、子どもが入園してきたそうです。講演をしていて思うのですが、便利なことは必ずしもいいことではない。特に幼児を育てている時は、知らないうちに親の「思い」がおもわぬ瞬間に子どもに伝わっていたり、毎日のちょっとした努力の積み重ねがとても大切なものを育てていたりする。丁寧に説明すればたいていの親は理解してくれる。

 (政府が保育施策を「親の利便性」と「労働力確保」でやっているから、スマフォやゲームに平気で長時間子守りをさせる親が増えるのです。でも、どういう園に当たるか、で一家の人生はずいぶん変わる。そんな時代になりました。)

 


江戸川双葉幼稚園のブログから、お弁当について

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http://blog.goo.ne.jp/futaba_kindergarten/e/ff7ba42e15b022a6ca46da572da80ad8

「ここの幼稚園はお弁当ですか?」

 幼稚園を見学に来られる保護者の方から、必ずと言っていいほど聞かれることです。

 ふたば幼稚園のお昼ご飯はお弁当です。保護者の方々にとって、お弁当よりも給食の方が楽であることはわかっています。わたし自身、以前は給食を出す幼稚園にいましたが、幼稚園にとっても経営的にかなりプラスになります。でも、やっぱり幼稚園はお弁当の方がいいと思います。それはなぜだと思いますか?

 子どもたちは、給食をよく残します。親御さんは、給食なら嫌いなものも食べられるようになるだろうと期待しますが、幼児期の子どもは、まず食べることはありません。毎日そんな感じですので、かえって残すことが当たり前になってしまいます。教師たちは、食べ残しを捨てることに心を痛めながらも、誰が何をどれだけ食べ、何をどんな理由で残したかを把握することは不可能です。

 子どもたちは、お弁当は残しません。毎日親御さんが何を作ってくれたのかを楽しみにしてお弁当箱を開け、嬉しそうな顔をして全部食べます。もちろん、時には全部食べられないこともあります。しかし、残すには残す理由があります。教師は親御さんに残したときの様子などをお帰りの時に伝えます。親御さんは、残菜やお子さんの顔を見て、また前後の経緯を思い浮かべて考えます。例えば、昨日夫婦げんかを見せてしまった翌日、お弁当を残してきたとか、お弁当を残して帰ってきた日の夜、熱を出したとか。そういうことの繰り返しを通して、子どもたちの言葉にならないサインを読み取ることができるようになっていきます。

 このようにして、子どものことをしっかり理解して育てるというのは、とても大事なことだと思います。このプロセスを通じて、親は子どものことを感覚的に理解できてしまうようになります。このようにしてできていった親子関係は、一生続きます。

 みなさんも記憶があるはずです。お子さんがまだ赤ちゃんだった時、泣いている理由がわからず苦労したはずです。おっぱいかな?眠いのかな?うんちかな?最初はわからなかったものが、だんだんわかってきたはずです。新生児の泣く理由って、4種類ぐらいしかないんですけどね(笑)。でも、最初はわからないものなのです。

 子どもが成長し世界が広がってくると、またわからないことが出てきます。2歳の子どもの情緒は10種類ぐらい、3歳になると数十種類になると言われています。そして、いやなことがあっても泣かないことも出てきます。どこまでわかっていたら十分なのか。それが、幼児期までの子どもの心です。ここまでしっかりつかんでいれば、それ以降は多少ルーズにしていても大丈夫です。

 子育ては、幼児期以降もまだまだ続きます。思春期になると、どんな子どもでもそれなりに不安定になります。子どもが荒れた時、子どもの荒れる理由が感覚的にわかる。そういう親子関係だったら、子どもはすぐに落ち着くでしょう。しかし、親が全然理解できなかったら、子どもは救われません。

 では、しっかりした親子関係を作っていくには、どうしていったらよいでしょう。

 幼稚園のお弁当は、その方法の一つです。これがすべてではありませんが、これに代わるものもありません。この特別な時期だけでも、ちょっと頑張ってみませんか?

 

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悲しい出来事がまた起きました

宇都宮の認可外保育施設で宿泊保育中に女児死亡


 (産経ニュースから、前略)愛美利ちゃんが死亡した施設は、児童福祉法が定める保育所に該当しない認可外保育施設。市保育課によると、こうした施設は市内に19カ所あり、設備やサービス内容などを記した運用状況報告書の提出が義務付けられているほか、年に1回立ち入り検査を実施しているという。

 施設では、パンフレットやホームページで24時間預かりや夜間保育をうたい、「看護師がおり、嘱託医とも提携しているので病気の場合も迅速な対応が可能」などと宣伝していた。

 だが市に提出された報告書には、一時預かりのみで夜間保育などは行っていないと記載され、看護師も常駐していなかった。嘱託医として名前が挙げられていた医療機関は、両親の問い合わせに対して「そんな事実はない」と否定したという。

 市は、愛美利ちゃんが死亡する以前に報告書の内容と宣伝内容が違っているのを把握し施設側に指摘。施設側は「対応する」と返答していたが、「事故」は起きた。

 市の担当者は「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と明かすが、両親は「違反車両を認識していたが、そのまま取り締まらずに走らせておいて死亡事故を起こしたようなものだ」と話している。

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 死亡事故にまでつながることは稀ですが、乳幼児の安全を確保出来ない状況が現在進行形で全国に急速に広がっています。子どもの安全が守れないような、子どもが大人を信じなくなるような、心ない保育が政府によって前倒しで、少しずつ確実に広められているのです。それは国家の存続に関わる最重要問題・危機であり現実なのですが、政治家たちは気づこうとしない。気づいていても選挙優先、政権維持優先、経済優先で真面目に向き合おうとしない。国の成立以前からの自然の法や摂理を国が無視しては、国自体の存続が危うくなる。こういう乳幼児の死亡事故は事故ではなく、仕組みの欠陥であって、それは政治家が作ったもの。そのくらいの自覚は持ってほしい。一体何を考えているのだろう。
 乳幼児の安全に責任を持たなければいけない市がすでに「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と言っている。この市だけで19カ所、その状況の下で乳幼児が日常的に繰り返し預けられている。なぜそれが出来るようになったのか、よく考えてほしい。
 こうした、様々な形の小規模保育の状況を市が監督・指導できない状態はもう十年以上放置されている。監督しようとしても罰則規定がないから取り締まれない。(取り締まれば「待機児童対策」が進まないから罰則規定を作らない?)その現実を私も本に書きました。政治家にも機会のあるたびに伝えました。厚労省の局長にも言った。知らないとは言わせない。知らなかったら政治家の資格はない。
 その現実を知りながら、今の内閣は来年始まる子ども・子育て支援新制度で、「すべての子どもたちが、笑顔で成長して いくために」とパンフレットに書き、もう40万人保育園で預かることを目標に掲げて施策を進める。犠牲者が出るような規制緩和で保育の質を下げておいて、まだ歩けないうちから親と離され「すべての子どもたちが笑顔になる」はずがない。たとえ園庭で笑顔になっても、いい保育士に当たって笑顔になっても、それは父母や祖父母と視線を合わせる笑顔とは違う。
 たくさん預かれば女性が子どもをもっと産む、などという政府の考え方は人間性に対する暴言だと思う。日本はそういう国ではなかったはず。幼児の気持ちを優先するのがこの国の伝統文化だったはず。いまでも、幼稚園に子どもを預ける親のほうが保育園に預ける親よりも子どもを多く産む。まだ伝統は生きている。

 新制度では、労働力確保を目的に、保育資格者が半数でいい小規模保育を自治体に奨励し、家庭的保育事業は資格がなくても2週間の研修で誰にでもできるようになる。その研修を誰がするのか、中身をどうするのか、待ったなしの無理な施策を押し付けられた県が右往左往している。4月の実施に合わせ11月には研修を始めなければならない。小規模保育が監督できないのに、より細分化された規制緩和・家庭的保育事業を市町村が監督できるとは思えない。何かあったら誰が責任をとるのか。それさえも曖昧なのだ。
 国は、自治体を使って、今まで以上に保育界を市場原理という無法地帯にしようとしている。一体何人の小さな命が失われればこの動きをやめるのか。
 保育界が追い詰められ、乳幼児の安全がすでに確保出来なくなっていることをマスコミがなぜもっと厳しく書かないのか。待機児童を無くすことばかり報道するマスコミの姿勢は「働く女性のため」のように見えるが、実際は先の見えない経済論に振り回されているだけではないのか。本当に懸命に働いている、保育が必要な親子のための保育が壊されてゆく。
 
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シャクティからの手紙
 南インド、タミルナード州、シャクティ・センターのシスター・チャンドラから手紙が着ました。新しいホームページが出来ました、と書いてある。
 私の作ったドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像がうまく使われています。NHKの国際テレビのインタビューもありました。
 冷蔵庫も洗濯機も水道もない村人たちが、より良い生活を求めて娘たちをシャクティセンターに預けます。歴然としたカースト制の続くインドで、女性の地位向上は中々思うように進みません。経済成長の名のもとに貧富の差がますます広がっています。犯罪が増え、センターでも停電になる回数が増えたそうです。
 でも、シスターは一歩一歩、歩いていきます。一人一人、教え、導きます。時々顔をしかめますが、笑顔で日々の努力を続けます。そして、みんなで踊ります。
 そのエネルギーの源は、貧しいけれど,親が子を思い、子が親を思うダリットの村人たちの助け合う姿勢、笑顔なのでしょう。助け合わなければ生きていけない。貧しさと子育てが絆を育てます。それがあれば、人間は自分の欠けている部分、良くない資質を抑制することができるのです。絆の安心感が薄くなると、社会から笑顔が消えます。そして、不可解な犯罪がより一層不安をかき立てるのです。
ドキュメンタリーの中でシスターが言いました。

Unity, Equality, Harmony.
"We all come out of the oneness."
"There should be no divisions, hi caste, low caste, rich, or poor, No. We are one."
-- Sister Chandra
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 毎年会いに行こうと思いながら、今年はまだ行けていません。
 でも、あっちとこっちで、二人で頑張っている感じはしています。今年は二人で還暦になりました。
Dear Loving Kasuzan,
How is yoko san and Ryo san
How is your health. Are you ok kasuzan.
Sorry we could not mail to you for long time.
But we very often talk about you and our friends.
are you very busy
Can you not make a trip to visit us
We are eagerly waiting to see you
Now we have created a new website.www.sakthifolk.org 
The previous one we could not update.so it will not open.
waiting to hear from you.
Love to yoko ,Ryo and all our friends.
Love from all our sakthi dancers.
With much love,
Sr.Chandraand felci


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