新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#4 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

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#4

 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は、単純に、保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び資格を取れば、他人の子どもたちの「子育て」ができると、とんでもない勘違いをした。こういう勘違いがどうして起こるようになったのか。「学問をすれば子育てができる」と思うことが、そもそも人類の営みを理解していない未熟すぎる思考です。そして何よりも、「子育てに関わる養成校」(大学や専門学校)の存在自体が授業内容や教える人間の選択からしてまだまだ不完全で、不自然で、未完成な仕組みだと経済学者たちは気付いていなかったのかもしれません。

別の言い方をしましょう。政府は、資格という言葉で、「子育ての責任」を誤魔化そうとした。

 学校教育と保育の違い、教育と子育ての違いをほとんど理解していない。意識していなかったように思えます。(前回からの関連性から言えば、この時点ですでに「高等教育は、国民の知の基盤であり」えない。)

さらに不幸なことに、養成校が定員割れを起こし学生を募集した時に倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かという、その関係性に気づいていなかった。

子育ては「結果」ではなく、人間対人間が、遺伝子をオンにしあう「体験」だということさえ想像できなかった。

「高等教育が国民の知の基盤」などと国の施策として平気で言う人たちは、保育が学校を支えていた、子育てが教育を支えていた、ということさえ見えていなかったのでしょう。

少子化のおり、ビジネス・生き残り優先の養成校の多くが、政府の望み通り受験者のほとんどを入学させ、資格を乱発し、保育に必要な資質、人間性のチェック機能さえ果たさなくなってしまった。その時点で「高等教育」はその本質と存在意義をすでに失っている。それにも気づかなくなっているのか、マスコミも含めて、見ない振りをしているのか。

(ある保育者養成校の教授が「保育は未来に対する投資だ」と言っていた。政府が保育にお金を使えば、経済的に見返りがあるという論法なのでしょう。大学・養成校、自分のやっている学問を成り立たせたいのでしょうが、「子育て」は本来駆け引きや損得勘定でするものではない。

本来もっと別次元の、弱者に優しい自分自身の性質を親たちが体験し、自身のいい人間性に気づくという、人類の存続に「不可欠の行い」だった。

子育てが学問で捉えられ始めた頃、ある西洋の学者が「1ドル子育てにかければ、6ドルになって返ってくる」という子育て論を展開したことがあったそうです。日本の学者たちの多くがこの損得勘定、欧米的な駆け引きの論法に影響されているのではないかと思うことがあります。

現在進行している保育改革は、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がその原動力になっています。ここで進められる「市場の開放」と「規制緩和」は、80年代に世界経済からモラルと秩序を失わせたトリクルダウンの経済論と重なります。それを安易に保育界にあてはめようとした。しかし、日本の保育界の本質はやはり「子育て」にあって、それをビジネス化しようとしたり、80年代の経済論を当てはめれば、「保育」と「経済」がお互いに傷つけ合う状況を生み出すことになる。保育士たちの子どもを眺める視線と、経済学者たちの視線がちがうことが、子育ての方向性を混乱させる。

子育ての本質は「損得勘定から離れること」。「そうすることによって得られる、利他の幸せに近づくこと」。仏教の「欲を捨て、幸せに向かう道を発見する」という考え方そのものと言っていい。聖書にも同じように、幼児たちこそが天国に一番近い人たち、という説明があります。「信じ切って、頼り切って、幸せそう」、その幼児の姿に人間はパラダイスの在り方を見る。彼らの日々を(男女が一緒に)眺めることによって、人間は根源的な人生の目的を知り、これをやっていれば大丈夫という生き方を学ぶ。

高等教育が真に「高等」でありたいなら、闘うための道具や武器を教えると同時に、「欲を捨てることの意味、そうすることで得られる強さ」を幸福への選択肢として、しっかり教えるべきなのです。倫理学や宗教学、道徳の授業のことを言っているのではありません。もっと深い、自然で本能的な自己実現の機会を作る。毎月一度、幼児たちとまじわるだけでいいのです。高校生、大学生は、毎月幼児たちと数時間過ごす、それだけで、この国はずいぶんいい方向へ動きだす。

「欲を捨てることの強さについて」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=36

子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関(保育者養成校)が自分たちの損得勘定に捕らわれ、産業に組み込まれ、生き残りのために、「資格」の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなっている。すでに高等教育は「教育」から「商売」の領域に移っている。高等教育に関わる人たちはみな一様にそれを知っているはずです。それなのに、その事実から目を逸らしている。

ビジネスは「国民の知の基盤」ではありえない。それを隠すために、学者たちは国の政策の中に「高等教育は、国民の知の基盤であり」という宣伝文句を書くのでしょう。この欺瞞が、良寛さまや宮沢賢治、「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」を生み出してきたこの国の風土、文化と合わない。その嘘が、子どもたちに見破られている。

高等教育を考える人たちに「子育て」が見えていない。教育と子育ては異なる。その動機からすれば、ほぼ相反すると言ってよいもの。だから、「幼児たちの気持ち、社会における役割り、人類に必要な自然治癒力とか自浄作用に関わる働き」が見えない。

いままで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、同僚との意識の差によって混乱し、幼児が優先にされない保育現場の状況に戸惑い疲れ、国の「保育はサービス」「保育は成長産業」という閣議決定を受け入れビジネス優先に考える園長の出現に呆れて、辞めていく。

(以前「保育士の悲しみ」という文章を書きました。 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=740)

 中学校で家庭科の時間に赤ちゃんと触れあう体験を生徒にさせている学校があります。妊婦さんや乳児のボランティアを保健所で募って中学校に行ってもらいます。

 グループになっている中学生の机のところに赤ん坊がきます。お母さんが「抱いてみて」と言います。お母さんは中学生を信頼して大事な赤ちゃんを手渡した。次世代を信じた。信じてもらえた中学生が、誇らしげにクラスの友だちを見ます。いつか自分も次の世代を信じる時が来る。

 赤ん坊を抱くのが上手な男の子がいました。シャツがズボンのそとへはみ出して、不良っぽく見せています。その子には小さな妹がいて、いつも抱いていたのです。みんなが驚いて感心します。彼は、家ではいいお兄ちゃんだったのです。昔の村だったらとっくに知っていたことなのに、いまは、家庭科の授業がなければ知ることのできない友だちの姿です。

 僕も昔はこうだったんだ、と誰かが思います。お母さんたちも、中学生を見て、私も昔中学生だった、と思います。この時、魂の交流が時空を越え人類全体の人間性を形作るのです。選択肢がないことに気づくと、人間は安心するのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf