「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

2014年4月

 「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」

 政府の少子化対策会議で小泉改革の時から発言して来た女性の学者が、少子化の問題を扱ったテレビ番組で言っていた。「女性はみんな結婚しても働きたいし、子どもを産んでも働きたい、それなのに6割がやめざるを得ない。そこが問題なのです」と。 出演者や司会者が頷く。

 言っている意味はわかりますし、気持ちの出所も理解できる。でもこの発言に、発言者本人も気づいていないかもしれない危険なトリック、そして罠がある。この言い方はまずい。簡単に頷いてしまうのは、それが常識みたいに広がるとしたらもっと危うい。

 繰り返しこのブログでも書いてきましたが、この発言を支えることが出来る仕組み(保育)を整えることは、私が知る限りもう無理です。欧米の社会状況を見ていると、それがもっとはっきりします。(良い悪いではなく、福祉や教育が普及すると家庭が成立しなくなってくる。すると、福祉や教育が財政的にも人材的にも限界に達する。それでも、選挙を中心にして社会がまわり続ければ、仕組みが人間性(遺伝子?DNA?)と摩擦を起こし、人間性の内に仕組まれた破壊のメカニズムが動き出す。)

 子育ての問題が話し合われるとき、受け入れられ、使われている「専業主婦」という定義さえ最近作られたもの。人類が、不慣れな「豊かさ」の中で、経済競争を介し、新たに日常に広まった机上の「定義」だと思います。通常女性は、結婚しても子どもを産んでも働いてきました。私が時々原点を探しに出かけて行くインドで、農村に居ると見えますが、子を育て、生きることは即ち働くことでした。

 多くの場合、労働、働くことは生きるための共同作業と役割分担、お金によってその対価が払われる種類のものではなかった。独りでは生きられないことの確認作業の意味合いが強かった。その対価は、祈りとか絆、子どもの健康とか笑顔、悲しみ、といった、人間の幸福感に直接関わる次元に属していたのです。

 テレビ番組で女性学者が言う「6割の女性が結婚や出産でやめざるを得ない」種類の労働は、こうした依存関係を下地に日常的に行われてきた労働とは違ってきている。この仕分け、区切りはどこから起ったのか。立ち止まって冷静に考えれば、6割の女性が結婚や出産で働くことをやめたら、人類は成り立たないのです。金銭の授受を伴わない労働を差別する意識は、なぜ生まれたのでしょう。この差別は、なんのために必要だったのか。女性に対する差別意識への反発が、平等をお金で計る習慣を根付かせ、そこで起こる競争を市場原理が利用しようとしているのか。自由や自立という獲得不可能なステータスを、お金で買えると思わせるほど、人間の想念が経済活動に支配されはじめた、ということかもしれません……。

 学者が言う「子育てとは同時に成立し難い」、家庭を(物理的にも、心理的にも)離れた「経済活動」に参加することが「働く」ことの主流で、もし「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」という女性学者の言葉が本当だったら、集団としての人類はどう変化してゆくのか。どう進化してゆくのか。家族の定義を失いつつある欧米のようになるのであれば、犯罪率、幼児虐待率、麻薬の汚染率から考えると、まだ選択肢がある日本は違う道を選んで欲しいと思うのです。

 子育てをしながら学ぶ「利他の道」を捨ててはいけない。その道が調和に必要な遺伝子がオンになってくる道のような気がするのです。特に「乳児に触れている時間」は、母親にも父親にも、周りの人たちにも貴重な、代え難い時間だと思うのです。

 「女性はみんな働きたいと思っている」その言葉を唱えつつ、インドの農村の母親たちをもう一度思い浮かべると、言葉の前後に普通「子どもたちのために」という一句がつく。この一句にリアリティーがなくなったら、たぶん地球のあちこちで社会の基盤となる男女の信頼関係が崩れてゆくのでしょう。それが崩れても保育所があれば大丈夫なのか。それは絶対に違うと思う。金銭を絡めた次元のすり替えが、ある一線を超えようとしています。

 

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俯瞰的に見ると、

 「女性はみんな働きたいと思っている」という「働き」の中には、音楽活動や祈り、絵を描くことが入ってくる。無報酬のものもあるに違いない。そこまで見極めれば、これは実は選択肢の問題で、「子育て」という「人生の選択肢を狭めるもの」に対する反発かも知れない。しかし、この「選択肢を狭めること」(親子関係)に人間は幸せの基盤を置いてきた。命に限りがあることから始まり、大自然から受ける災害、病気や怪我、部族の一員として生きることなど、選択肢がないことが多いから絆や道筋が生まれた。その絆や道筋の深さを知り、次元的に解放されるために、人間は踊ったり、歌ったり、赤ん坊を眺めたりしてきた。

選択肢があるように思える先進国社会でうつ病が多いのは、明らかに人間が自己責任に耐えられないことを意味しています。連帯責任、神の責任、その次元を感じるために、人間は輪になって踊る。

 

伝統的家庭

 日本の伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多くて困るのですが、それは本当の日本ではありません。この国の伝統は違う。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)の第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前に日本に来た欧米人がみな、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって楽しそうに暮らしている、と驚きを持って書き残しているのです。日本人は幼児をしからない、ほとんど崇拝している、と書いている。それなのに日本人の子どもは六歳にもなれば、良い子になってしまう、この国の子育ては魔法だ、と言うのです。

 江戸で朝、男たちが十人ほど座っていると、それぞれが幼児を抱え子どもの自慢話をしている。その姿が欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常であり原風景です。寸暇を惜しんで幼児と過ごし、それに喜びを見出し、堪能する男たち。それがこの国を支えてきた、穏やかにしていた。それが日本の子育て文化、伝統だったのです。

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 幼児と一体になることで自己を手離し利他に向かう。インドや中国とはひと味違う、日本独特の大乗仏教の核がそこにはある。

 最も理にかなった「易行道」の本質(宇宙と一体になり自分の善性を体験すること)が幼児の横に座ること、です。親になることは損得勘定を捨てること。これほど合理的で、たやすい人生(自分自身)の見つけ方はないのです。

 

エプロンをつけたら

 調布の、一日保育士体験を始めた私立保育園で講演しました。二年前、園長が恐る恐る提案すると、保育士たちがすぐにやりましょうと言ってくれたのだそうです。保育園は、心が一つになっているかどうか、が肝心。幼児を一緒に眺めていると自然にそうなるのです。園長と保育士たちの意欲と願いが説得力になり、親の評判もとても良く、しかも一年目、父親たちの参加の方が多かった、と園長先生が嬉しそうに親たちの感想文を見せてくれました。

 1人の親が「他の親と一緒にした参観日の時は、自分の子どもしか見えず、泣いた時の保育士の対応が遅いのに苛立ったのに、保育士体験で先生と同じエプロンをつけたら、他の子どもたちも見えてきました。泣いても一呼吸置いてから対応するタイミングが、とても参考になりました」と書いていました。

「不思議でしょう? エプロン一枚で」。

 普段家庭では見えなかった種類の自分の子どもが、保育士体験で見えてくる。どの子たちと、どんな遊びをするかで、いままで知らなかったその子が目の前に現れる。一枚のエプロンが人間の視点を変える。選択出来る視点があることを学べば、子育ては楽になります。子どもたちの可能性が嬉しくなるのです。エプロン一枚が人間を変える。

 祈る次元で心を一つにしないと、男女がそれぞれ孤立して自己中心的になる。自立という言葉が邪魔をして、家族という縛り、絆が苦痛になる。そういう時にエプロンが必要になるのかもしれません。エプロンが象徴するものは何か。「一緒に食べること?」「料理をすること?」「働くこと?」たぶん「自分の命は我がものではない、と気づくこと?」

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 福井県教育委員会で始まっている一日保育体験。参加者の63.8%が「大変良かった」、「良かった」も合わせると97.3%という数字が送られて来ました。感想文も沢山あります。幼保と家庭の信頼関係が、「一緒に育てる」という絆につながり学校を支える。どんな形でもいい、大人たちが幼児たちに出会い囲まれる。それを繰り返してゆけば自浄作用が働く。多くの人々が幼児との時間を大切にするようになると、社会の空気が変わってくる。十歳以上の人間たちが一緒に子どもを眺め、自分が失った物差しを確認しあえば、世代を超えた体験がうまく重なり自然治癒力が働く。幼児の笑顔に救われる。そして、待機児童を無くすのではなく、待機児童という言葉が消えてゆくのだと思います。

http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

 

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専業主婦からの自由

 

「専業主婦からの自由」という朝日新聞の1ページを使った特集がありました。

 「『専業主婦』。女性の社会進出を妨げると批判されたり、最近はうらやまれる対象になったり。どこか心に波風を立てがちなこの言葉から、そろそろ自由になってみませんか。」という解説がつき、三人の女性が実体験から思いを語ります。専業主婦という言葉とその意味の危うさについて書いていた時だけに、この言葉が今持っているネガティブな意味合いから自由になろう、という論旨はとてもよくわかります。

 1人はVeryという雑誌の女性編集長。「『仕事は二番』と割り切る」というタイトルです。

 「『家族が一番、仕事は二番』と考える人がどんどん増えてきました。女性たちは職場でのキャリアアップより時短勤務を最優先。子供を持ちながら大企業などでばりばり働くスーパーマザーを、『とてもまねできない』『あくまでリスペクとの対象』と、割り切って見るようになったのです」「特別の条件がなければスーパーマザーは不可能であることが見えてきた結果です」と言う。その通りだと思う。子育ては体験であって結果ではない。家庭を離れた仕事との両立は難しい。

 もう1人は、ハーバード大卒のアメリカ人ジャーナリスト。タイトルは(専業主婦を)「キャリアだと納得したい」。米国で専業主婦が増えている現状を語り(15才以下の子どもがいる母親の専業主婦率が、1994年に20%だったのが2008年には24%に増えている。)、出産休暇が法律で義務化されておらず、多くの企業で有給休暇さえない、社会の仕組みとして育児と仕事の両立が難しい米国の現状を説明。専業主婦というキャリアが追求するに値するものという考え方の広がりを伝えている。

 もう1人は、日本人のシンガー・ソングライター。「部屋とYシャツと私」というヒット曲を書いた人。タイトルは「生きている実感を持つ」

 「かけがいのない存在のために尽くす時、『生きている』という実感がありました」と、病気の娘を育てた時のことを語る。いま若い女性に専業主婦思考が高まっていることの理由に、「家庭以外の働く場所で、生きる実感が持ちにくいせいじゃないでしょうか」と素直な感想を語っている。なんでも経済的理由にしようとする分析よりも、心の動きという、日常的な真実が感じられる。そして「『専業主婦願望は時代遅れ』と批判された昔を知らない彼女たちが思い思いに歌い継いでくれることが、私はうれしいです」と締めくくる。

 『専業主婦願望は時代遅れ』と批判されたのは『昔』なのだ。これには良い意味での驚きがありました。でも、自然な流れだと思います。社会には必ず自浄作用と自然治癒力が働く。それを一番に促すのは「子どもを育てること」。三人の女性の主張(感想)には、体験に基づく無理のない響きがあってとても気持ちがよいのです。イデオロギー優先の論調が多過ぎる最近の新聞紙面の中で際立っていました。ともすれば男尊女卑が見え隠れする間違った伝統主義では社会は決して「子ども優先」には変わっていかない。

 首相の言う、女性の活用、保育園でもう40万人預かれ施策が、現実を見誤った、とても可哀想なものに思えました。

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