新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#3 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

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#3

「新しい経済政策パッケージ」の中にこんな文章がありました。

「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある。 」

 トランプ米大統領が自身についての暴露本の出版に反論し、自らのツイッターに、自分は有名大学を卒業しその後企業経営に大成功した、最も精神的に安定した天才だ、と宣言しました。数日後、与野党議員が出席したホワイトハウスにおける移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」shit-houseからではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し大問題になっています。そして、マスコミが露骨な人種差別と報道し、ハイチで抗議デモが起こっているにもかかわらず、37%という大統領支持率に変化がない。高等教育が普及した、先進国と呼んでもいいはずのアメリカでの出来事です。

「高等教育を受けた、自称精神的に安定した天才」の発言でアメリカの学校教育が混乱しています。小学生が教室で黒人の同級生に、「糞溜め」に帰れ、と言ったり、ラテン系移民の子に、壁の向こうへ行け、という子どもが現れ、人種差別が原因の学級崩壊に教師が対応策を失っている。呆然としている。37%いるはずの大統領支持者を親に持つ小学生がひょっとして37%はいるかもしれない。

学校の存在意義が崩壊しかねない、大統領主導の人種や格差、主義主張における分断が始まっているのです。心の中、現実はどうであれ、憲法に書いてある民主主義や平等を正しいこととして教えてきた教師たちが、国民に選ばれた大統領の発言に立ち往生しているのです。忘れてはならないのが、先代の大統領オバマさんも父親がアフリカのケニアから来た移民だったということ。

 高校、大学と高学歴者が増えるほど、社会が本来の姿を失う。家庭中心にまとまらなくなる。自己中心的になり、若者が感性を失い、男女間の信頼が揺らぎ、経済活動に必死になる人が増える一方で、生きる意欲を失ってゆくのではないか、先進国社会で起こっている混乱を考える時の私はそう思うのです。それが事実に近い、と思うのです。1980年代にアメリカで起こった、高卒者が増えることによってその世代の全体的学力が下がったという現象にもそれが表われています。親の世代に50%だった高等学校の卒業率が70%を超え、より多くの人が高等教育を受けるようになったにもかかわらず世代の平均的学力が下がってしまった。目的としたことと反対の結果が出てしまった。だから、1984年当時アメリカ政府はこの問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義して大騒ぎしたのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=1064

義務養育が普及し、子育てが家庭から仕組みにシフトし始め、家庭崩壊が始まると学校教育自体が成立し難くなってくる。同時に、安心感が薄れ社会全体が殺伐としてきて、それが教室にまで影響し始める。

日本でも、似たようなことが起こり始めている。

そして、高学歴社会になり選択肢が増えると結婚しない若者が増えてゆく。高等教育を受けている、またはそれを受けた直後に引きこもりが始まる傾向が強いこと、その引きこもりが長期化していることにも表れていますが、高等教育を受けること、その仕組みの中で育つことの自然人類学的、または生体人類学的な影響を考える時期にきているのです。この国なら、まだ間に合うかもしれない。結婚や家族をつくるという種の存続に伴う「幸福論」が希薄になることによって、人間社会はどのように動いてゆくか、ということを真面目に話し合う必要がある。

(前回にも書きましたが、「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。学校教育の普及を単純に「いいこと」と決めてしまっている状況に、文化人類学的に、または自然人類学的見地から疑問を持っていい時代に入っていると思います。)

学問によって感性を失う典型が、「人づくり革命」と言って、親子を引き離す施策を進め、幼児たちの願いを理解しようとしない学者たちの存在かもしれない。最近、それを強く感じます。幼児たちの存在に気づかない人たち。高等教育の頂点にいるような人々が、長い間「家庭」「社会」を支えてきた「幼児の願いを優先して考える」という想像力と感性を失っている。

幼児たちの前で謙虚になれない高等教育なんて進化に貢献しないし、存在する意味がない、とさえ思うのです。

その人たちの進める施策によって、「家族中心」が「自己中心」になり、「自己実現」などという言葉を使って経済競争を成り立たせるための罠が用意される。その片棒を担がされているのが最近の「高等教育」で、それに騙された自分に気づいた時、すでに人間は存続するという幸福感さえ忘れかけ、男女の連帯感は一層薄れてゆく。家族を持とうとしなくなる。持っても、それを維持しようとする能力、動機が非常に弱まっている。その時点で、「夢は、次の世代に託すもの」という進化の原則を忘れている。家庭崩壊を補うためにいくら福祉が子育ての肩代わりをしようとしても、すでにその限界は見えている。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

高等教育が普及するほど、幼児たちの存在意義、存在感が希薄になってくる。それに気づいてほしい。幼児たち、という一見「国の競争力」とは無関係に見える人たちの価値が高等教育によって見えにくくなってくる。

(最近、中学高校で乳幼児と出会う体験をさせる学校が増えてきました。家庭科の授業を使って中学生の保育者体験をする自治体もあります。親の一日保育者体験も含め、こうした試みを早く増やして欲しい。http://www.luci.jp/diary2/?p=236 http://www.luci.jp/diary2/?p=260)

もともと「人類」は幼児たちによって自分の中にある進化するための人間性(動機)を体験的に教えられ、「社会」は幼児たちによってその絆と存在意義を幸福観と重ねていた。「経済」と呼ばれるものの存在意義もまた、幼稚たちを優先順位の先頭にすることで、そのモラルと秩序を保ってきた。

 

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誰もが気づいていることですが、高等教育の大部分はごく一部の人間にしか役に立たない特殊な技術や情報です。高等教育で学ぶ微分積分や方程式は苦労した割に多くの人にとって使う機会のない、役立たない知識であって、物理や漢文、外国語などもそうでしょう。しかし、それが今日までこれほど「義務」のように受け入れられてきたのは、人間社会に進化する過程の「連帯感」があったからです。「同じ船に乗っている」という意識があれば、ごく一部の人にだけ役立つものでも、それを一時的に全員が苦労して学ぶことを受け入れることは容易でした。「義務として」習わせ、子どもたちを適度に苦しめ社会全体に忍耐力と連帯感を生み出す、それもまたいいことでした。高等教育という位置付けからは外れるかもしれませんが、運動会や組体操などもいい試みだと思います。「輪になって踊る、歌う」は義務教育よりはるかに昔からある人間社会のまとまりの原点ですから。

そして、学校は、利害関係のない友人を作ったり、人間関係を学んだり、恩師に出会ったり、将来の配偶者を見つける、というような役割も果たしてきました。多くの人にとって「学校」は、いまでも素晴らしい場所なのです。

一方、私は不自然で危険な一面だと思っているのですが、高等教育は、「授業」という、聞いていない人たちの前でも平気で話す学者(?)教師を生み出し、話している人の前で眠ったり、私語やスマフォに熱中する学生を放置するというコミュニケーションの異常な状況を日常化する。(全ての授業がそうだと言っているのではありませんが、)つまり、お互いの気持ちを想像する感性を蝕み、言葉の向こうにある「心持ちと人間関係を察する」というコミュニケーションの本質を見失わせる役割も果たしている。高等教育を指導する人たちの感性を奪いコミュニケーションのあり方を「浅く」している。その結果がこういう政府の施策に表われているのではないか。そのあたりが、思ったよりも社会全体を危うくしている、そうも考えられるのです。

コミュニケーションの深さが失われていく過程で、知識や技術を身につけることは危険です。武器を持つと闘いたくなる、道具を持つと使いたくなるからです。

知の基盤は体験的に学ぶべきものであって、イノベーション(意識改革)は「祈り」を伴って創造されるもの。

人づくり革命」が言うイノベーションの意味がよくわからない。「人員整理労働力の再配置 」という意味のイノベーションなのか、「意識改革」という意味なのか。「技術革新」という意味であるならはっきりそう書くべきで、こういう肝心な所に様々に翻訳できる外国語を使うから、あとで学者たちの誤魔化しがまかり通る。英語を知らなければ理解できなような文章を「国の政策」として書くべきではない。もっと日本語を大切にすると、逆に見えてくるものがある。翻訳しようとする過程で、欧米的経済論の、幸福論とは重ならない「浅さ」が浮き彫りになってくる。

何よりも、こう視点で考える「高等教育」を受けたはずの学者たちには、人間は「国の競争力を 高める」ために生きているのではない、という「知」の原点に気づいてほしいと思います。

(以前ブログに、こうした学校教育の矛盾や危うさを予見した「大酋長ジョセフ」の発言について書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=2453 150年前、学校教育や教会の広まりを拒もうとしたジョセフは、神はすでに在るもの、議論の余地のないものと言った。ここで神というのは宇宙のあり方、不動の真実、大自然、というようなものだと思う。学校が先導する西洋的な仕組みを教育しようとした欧米人の意図の本質をついた視点がそこにはある。こういう視点は嬉しくなります。)

3歳くらいの幼児に、全霊で信じてもらって、これほど確実な信頼の絆はないことに気づいた時に、人生が定まり人間は楽になるのだと思う。親たちが授かり、受け入れ、分かち合い、楽になって、子どももまた不思議に落ち着き、頼りきり幸せそうになる。子育てにおけるこうした相乗作用が社会の土台となっていないと、不安が、不安を煽り立てて、幼児たちが生き場所を失い始める。

子どもを育てていると、どうにもならないことがたくさんあります。そのことに守られている気がします。それが自分を体験することなのかもしれません。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー