地方版子ども・子育て会議/「たよりにならない人」の大切な存在意義/道徳教育/欧米との比較。/どうぞの椅子。

 国からの指示で、子育てに関する地方の状況を知り、ニーズを把握し意見を聴くという地方版子ども・子育て会議。保育関係者がメンバーに入ることが多く、知人から会議の進行状況、実態報告が入ってきます。

 一番嫌なのは、発言をしても、それが国の路線と異なると、議事録から削除されていること。これでは本気のメンバーがやる気をなくす。こういう提言の場所や本音で話すべき会議を、国はアリバイ工作に使っているだけで、本当に現場の声を聴く気がないのだと思う。


(保育と学童に関わっている人からの報告)


 今回の会議はヒアリング対象団体と内容についての会議のはずが質問票のたたき台も何もない上に、青少年課の課長に至ってはビジョンがない、どう育って欲しいかイメージがない。子育ては仕事の息抜き、仕事は子育ての息抜き、「新しい制度を各事業者に説明し、こういう制度になることを理解してもらって...」なんて、いきなりいうものだから、思わず、


 「国と地方が同時に子ども・子育て会議をしている意味は、地方の実情にあった制度を

国の制度とすりあわせながら作るためというふうに私は理解していますが、違うのでしょうか? まず、国の制度ありきではなく、その制度をどう地方にマッチングさせるのか、もしくはその制度には乗らずとも地方としてやっていけるのか、ということを話し合うのがこの会議ではないんですか? 先に事業者に新制度(認定こども園や小規模型保育)の説明って順番おかしくないですか?」と、噛み付いてしまいました。


 キョトンとした課長の顔をみて、がっかりしていると会長が、


「今、本質を突いた厳しいご意見がありましたが、市としてはいかがですか?」と聞いてはくれたのですが、しどろもどろで返答になっていませんでした。


 これもきっと会議録からは削除されると思います。



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「たよりにならない人」の存在意義


 講演で、一通り話したあと、私の好きな園長先生と数人の母親たちと、お茶を飲みながら懇談しました。大きな街の公立保育園で、公立は異動がありますから、この園長先生の保育園で話すのは二つ目です。学童保育の人、療養士の人、仕事に復帰したばかりで疲れてしまった人。

 その母親の疲れと涙がどこから来たのか、見極めようとしてみます。こういう疲れと涙は、普通、その人の子どもが要求していることなのです。

 親身な会話が続きます。療養士の人が突然思いついたように話し始めます。


 「子どもが病気がちで、頻繁に保育園から職場に『迎えに来て下さい』と電話がかかる母親です」。笑顔で「たよりにならない人って、職場では呼ばれてます。でもクビにならない。みんなわかってるから大丈夫」。

 横で、園長が笑っています。いい話です。きっと母親の、堂々とした笑顔が同僚を安心させ、それが職場でも必要とされているのです


 子ども思いで、そのとき「たよりにならない人」の事情や心情を受け入れ、助け合うのが人間社会だったはず。病気がちの子どもの気持ちをみんなが思いやる、それが「社会で子育て」の本質です。

 最近、「社会で子育て」と言いながら、部族的思いやり・助け合いの幅がどんどん狭くなっている。福祉や教育、法律や政府が「社会」ではない。人間の想像力と許容量が「社会」だと思うのです。そういうことを学校で教えてほしい。道徳教育を義務教育に入れると言いつつ、一方では職場で「たよりにならない人」を問題視し、子どもが病気でも保育所で預かれるようにしようとする政府。これでは人間性という道徳の基本は育たない。


 絶対的にまだ「たよりにならない人」(幼児)、そして、もう「たよりにならない人」(老人)も含め、その時「たよりにならない人」が居るから、社会に人生の目標と喜びの芽が育ちます。


 私は保育園で、みんなに「職場では、たよりにならない人です」と笑顔で宣言する「子どもにはたよりになる母」の言葉を聴き、その人を見つめる他の母親たちの活きている顔を眺めながら、この国は、まだ大丈夫かもしれない、と思いました。


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 三年育休をとられたら職場復帰されても使い物にならない、と言う人がいたのです。その三年間に乳幼児たちが、この国にとって「本当にたよりになる人」を育てる仕組みを理解していない。親が子を思い、子が親を思うことが、実は社会全体を動かす「生きる力」の根底にあった。それさえもすでに忘れている。


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 長く学童保育に関わってきた人が、「最近の親の態度、何でも行政や職員のせいにしようとする言い方で、現場から少しずついい人がいなくなります」と怒っていました。

 すでに人材不足の状況で指導員が一人やめると、アッという間に児童館が吹きだまりになることがある。そして、子どもたちが荒れる。強い子が弱い子を支配しようとする。「十年後どうなるんでしょう」と顔をしかめます。

  待機児童解消を目指せば目指すほど、未だルールさえ確立されていない学童保育の負担と混乱が増すのは、誰が考えても当たり前のことなのですが、政府も行政も目先のことだけ考えて、完全に後手に回っている。

 そして、学童保育の外注化や指定管理化が進む中、指定を受けた会社を「子育てに関わる人材不足」が直撃しています。どんなに仕組みをうまく作っても、最後は子どもと直接対峙する人たちの気持ちが問題なのです。親との愛着関係が希薄な子どもたちは、それを試し続ける。0、1、2歳の育ち方が、将来にわたって国の秩序に影響を及ぼす。日本が欧米並みの犯罪率に達しないと政治家もマスコミも気づかないのでしょうか。


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 今まで人間性と利他の心に依存してきた日本の福祉は、奇跡の福祉だったのです。重要で大変な仕事のわりに良くなかった民生委員・保護司、学童の指導員、保育士や福祉士の待遇が、先進国の中では突出した奉仕の心で補われてきた。仏教の土壌とアニミズムの文化がそうさせたのかもしれません。しかしなによりも、家庭という定義がまだ残っていたからできたのだと思う。伝統的に、子育てが男女を繋ぎ止めていた。その国が欧米の仕組みや価値観を真似て、崩れようとしている。


(以前、米国でジェンダーフリー・フェミニズムの活動を長く続けてきた知人の女性に、日本の「民生委員」の仕組み、冠婚葬祭、祝儀不祝儀でまわる巨額なお金のことを説明したら、驚愕していました。お中元とお歳暮、お年玉、まで加えたら、それはもうチャリティーの領域を越え、部族的わかちあいの伝統なのです。)

 

 世界の国々の心の荒廃を比べようと犯罪率の統計を見ても、警察力、司法制度、刑務所を作る財力、異なる様々な要素が加わり実態が見えにくいのですが、私は暴行事件の被害者(assault victims)になる確率を比べることにしています。すると、英国は日本の28倍、フィンランドは21倍。福祉と教育のあり方はこの数字から遡って考察すべきだと思います。漠然としたイメージと欧米コンプレックスで「日本は遅れている」とか、「欧米先進国では」と言うのはもうやめてほしい。欧米でやっていることは真似ない、くらいで良いと思います。

 施策を考える人たちに、これだけ状況がいいこの国の本質から学ぼうとする姿勢がない。

 

 最近、養育権を失った父親が子どもと無理心中をはかるという痛ましい出来事がありました。家庭を失うことは、ときに人生を失うこと。

 日本で子どもの誘拐が年に二百件、半数が親によるという。しかし、人口が約二倍の米国で、誘拐が年に十万件、そのほとんどが未解決で親によると言われるのです。親権を失った親、家族を失った焦燥感、孤独。米国で発砲事件が起こる可能性が最も大きい裁判所は家庭裁判所。犯罪の増加は、子育てを手放し、家庭を失ってゆく社会の宿命です。

 日本はまだいいのだ、という言い方はしたくありませんが、まだ奇跡的にいいからこそ、20年後のこの国をイメージして、方向性を考え直してほしい。

 

images.jpeg(嬉しい知らせが、年の瀬に届きました。茅野市からで、
「どうぞの椅子」の見本が出来たと言うのです。
 「どうぞの椅子」は祖父母たちが、のんびり一日保育士体験を年に何度でも、半日でも、よかったら毎日でも出来るように、と園庭に設置されるベンチです。今年、茅野市で、すべての園で祖父母にお話ししました。そこに座っているだけで意味がある。園の空気が変わること。お友だちのおじいちゃんおばあちゃんに見守られている、と日々感じながら育つことで、子どもたちの意識が変わり、とても安心すること。そして、その風景が、学校に入ってからイジメを減らすこと。

 保育士は、毎日八時間、3才児なら1人で20人受け持ちます。4、5才児は1人で30人の人生に日々関わります。一日何度か「いま、この子を誰かが30分抱っこしてくれたら、一時間背中をさすってくれたら、きっとこの子は落ち着く。人生が変わるかも知れない」という瞬間があるのです。
 そんな時に、ふと「どうぞの椅子」の方を見ると、だれかの祖父母たちがお茶を飲んでいる。「すみませんけど......」という具合に、一対一の関係をお願い出来れば、日本が生き返ってくる。社会における人生の目標が自然に見えてくるかもしれない。

 ある園長先生から、「どうぞの椅子」の話を聴いたのは十年くらい前でしょうか。もともと園の外側に、園の方を向いてあったのです。その椅子に、時々中学生たちがたむろして、うらやましそうに園児たちを眺めている、園長が「ちゃんとやっていますか?」と声をかけると恥ずかしそうに頷く。幼児を眺める場所と機会を、すべての人にふやしていけば、それできっと自然治癒力が働くと思うのです。)


 松居先生


 こんにちは。茅野市幼児教育課長の牛山です。
 今年も大変お世話になりましてありがとうございました。
 先ほど、「どうぞの椅子」の試作品ができあがったとの報告を受け、早速確認に行って
まいりました。
 大人が4人掛けできる大きさで、作りも良く値段もお手頃でしたので、年明けから順次
市内保育園、幼稚園(私立含む。)の全ての施設に配備いたします。
 次回おいでいただく折には、先生にもご覧いただけるものと楽しみにしております。
 また一つ、一日保育士体験事業の取り組みとして、市の姿勢を示すものができあがりま
した。先生のご指導のお陰と厚くお礼申し上げる次第です。
 今年の業務も今日で終了となりますが、新しい年が茅野市にとって飛躍の年となるよう
精一杯取り組む所存です。
 また、先生にとって幸多きすばらしい年となりますことをご祈念申し上げます。良いお
年をお迎えください。
 今年も色々とお世話になりました。ありがとうございました。


(本当に、ありがとうございます。理解者、同志が役場にいてくれることが、私の、心の支えになっています。)


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