未就学児の施設入所を原則停止・政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになる。

 以前この連載に、国が薦める「子どもショートステイ」について書きました。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1150)

 「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」と杉並区のチラシにありました。

育児疲れ、冠婚葬祭でも二歳未満児を知らない人に一泊五千円で預けることを「OK」と若い親たちに行政がチラシで薦める、この国の政府は一体何を考えているのだろうか。それほど自信のある仕組みを用意しているのか。福祉という名の下、仕組みで人間性を壊そうとしているのではないか、幼稚園を通して配られていたチラシを手に唖然としたことを覚えています。

当時、すでに受け入れ先の乳児院や児童養護施設自体の質が問題視されていたのです。職員の待遇改善や資格の問題などが置き去りにされ、施設の負担は増すばかり。同時に、子どもを「負担」と考える、親に成りきらない親たちによる児童虐待が増えていました。

通常の認可保育園なら一週間かけて行われる「慣らし保育」も経ず、そこで様々な不幸な状況下で育つ子どもたちに囲まれ、親に連れられ、区に勧められ、幼児が宿泊する。その時過ごす時間は、ひょっとして乳幼児期の育ちや発達に、(将来の学校教育や治安維持に)、誰も気づかないところで負の影響を及ぼすかもしれない。それは誰にも予知できないし、照明もできない。だからこそ、崩してはいけない「意識」がある。

「幼児たちの気持ち」への想像力、配慮が、子育てにおける利便性を煽る政府の施策の考慮すべき要素に入っていない。だから、保育園、乳児院、児童養護施設、学童など子育てに関わる様々な現場で、いい指導員たちが精神的にも、肉体的にも、疲れ果てて辞めて行く。

保育を市場原理にまかせよう、成長産業としてとらえようという、国の方針が、子育てに対するとんでもない意識改革を進めています。

以前、新聞の夜間保育特集に、夜間保育が広がらない背景に「夜に子供を預けて働くことに対してまだ社会全体で抵抗感があり」と夜間保育園連盟会長が発言していたことを取り上げ、この「抵抗感がなくなること」こそが怖い、と書いたのですが、http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2026 保育が産業に取り込まれてゆく過程で、保育をする側からも、家庭崩壊を助長するような動きが出てくる。これもまた大きな問題です。政府に勧められ仕組みに加わった人たちの、生き残るための死活問題が「幼児の気持ち」を超えるのです。

 

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脳の発達を考えれば、3歳未満児は何を教えられたかより、どう扱われたかが人生を決める。丁寧に、みんなで「可愛がる」が基本です。親や祖父母、兄弟姉妹の代わりをしなければならないとしたら、このまま進めば、保育士の「人間性」がより問われてくるのです。しかし、保育士不足で現場が保育士を人間性で選ぶことができなくなっている。選択肢がなくなっている。

政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになるのです。

三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=255

利益優先の小規模保育が明らかに規則違反をしていて、それを行政が把握しながら防ぐことができなかった。そして、こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策に対する警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、危うい保育が、むしろ増える方向に進んだ。同時に、小一プロブレム、いじめ、不登校、学級崩壊に歯止めがかからなくなっている。

義務教育という仕組みは、一部の家庭や親子関係のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いまさら「就学前教育」などと言って責任転嫁を図っても、いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育がさらに破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国の保育のサービス産業化が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

 

そうした経緯があって、さらに最近の毎日新聞の報道なのです。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

乳児院や児童養護施設は子ども一人あたりの運営費が非常に高くつきます。このままでは、財源と人材が追いつかない。だから、未就学児の「施設入所停止」が必要なのです。施策の失敗を「家庭的がいいんだ」という言葉で誤魔化すのです。

「家庭的」がいいのです。しかし、長時間保育で3歳未満児が親と過ごす時間を減らし、「家庭に近い環境で子どもが養育されないように」しておきながら、雇用労働施策で愛着障害、家庭崩壊、虐待を増やしておきながら、いまさら「家庭的養育」へ一歩、というのはあまりにもおかしい。「虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する」というやり方はひどい責任逃れというより、論理が支離滅裂です。

家庭的養育への第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた施策をやめることでしょう

子はかすがい、ではなく、子育てが人類のかすがいだった。それを保育という仕組みで代替できると思う方がおかしい。子育てを福祉で家庭から奪えば、人間らしい「かすがい」が急速に希薄になり、そのひずみが、ますます福祉や教育を追い詰める。少し考えればわかることだし、もう引き返せないほど現場に兆候はでている。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいいのです。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする社会です。(「捨てられる養子たち」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2063)

いま一番福祉でしっかり守らなければいけない、家族を失った未就学児の養護施設入所を原則停止し、「幼児教育の無償化」などと安易に公約を掲げる政治家たちのやり方に腹を立てているのは私だけではないはず。

突然、「原則停止」と言えないのが家族、親子だった。だからこそ、幼児は時間をかけて親を育て、家族の絆を育てることができたのです。

 

https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c