チンパンジーとバナナ/人類学と民主主義

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。五十年以上も、アフリカのタンザニアにあるゴンベ国立公園でチンパンジーの研究をした、フィールドワークを思考の原点にした現代人類学の草分け的女性です。(龍村監督のガイアシンフォニー第四番に出演しています。チンパンジーとの感動的なシーンがあります。)初めてそのレクチャーを直接聞いたのが三十五年前、カリフォルニア州立大学(UCLA)での特別講演でした。そのときのテーマが、チンパンジーのカニバリズム(共食い)でした

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 元々ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえした人でした。アフリカで野生のチンパンジーの群れと何年も過ごし観察した研究成果は、研究所主体だった当時の動物学や文化人類学に大きな影響を及ぼしました。彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがカニバリズムの研究でした。仲間同士の殺しあい、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、その時、映像とともに発表されました。

 それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いと言われています。

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 最近になって、このしばしば残酷で、時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究している群れに限られることがわかってきました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないのです。

 ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが五十年間餌づけをされていたことでした。野生の群れに近づくため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えていたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡るように工夫をしたのです。

 いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわないように観察することが常識になっていますが、当時、草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。

 この報告を真摯に受け入れたジェーンが、インタビューで、「いま私が持っている知識があれば、絶対に餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。


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 このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。

 ジェーンの群れで起こったチンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つでしょう。様々な要素によって作られた序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいや、カニバリズムにまで群れを駆り立てたのだと思います。しかも、集団として駆り立てたのです。

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 進化の過程で、ジェンダー、つまり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは、「死」を手に入れました。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれません。しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっています。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。

 性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という生を支えてきた意識を少しずつ失います。いい悪いの議論はとりあえず置いておくとして、これが現在、先進国社会で起こっている一つの流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な次世代に譲る幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい現実を生んでいます。

 そうした中で、何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。

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 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在します。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ、「親らしさ」に移行するために必要なのが、「子育て」なのだと思います。しかし、パワーゲームに組み込まれた子育ての社会化が、親らしさという視点で心を一つにするという、古代の幸福感を揺るがしているのです。

 親らしさが弱まると、当然、男らしさ女らしさが台頭します。ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺すわけです。

 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は意味が異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にするのです。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。

 九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーでは繊細さ・複雑さがちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナかもしれない言葉や意識を並べれば、学校、教育、知識……。自由、平等、人権……。

 (さらに、言葉、文字なども、相当可能性があります。でもそれでは虚しいので、資本主義? 共産主義? 民主主義? それとも宗教? 身近なもので、水道? ファミリーレストラン? インターネットはどうでしょう。)

 これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。しかし、まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。


ゾウがサイを殺すとき

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 チンパンジーとバナナの関係によく似ているドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。もちろん殺して食べるわけではありません。ただ、殺すのです。

 ゾウがサイを殺しても、警察や裁判で止めることはできません。言葉が通じませんから、ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像します。環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、絶対に起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べなかった。それが可能になり、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って、若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。そうしたら、ゾウがサイ殺しを始めた。

考えたすえ、試しに年老いた一頭のゾウを移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しがすぐに止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳みそもあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は、とても参考になるような気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考えるのかもしれません。幼児を眺める行為と似ています。

 

(埼玉県の社会福祉協議会でボランティアコーディネーターに講演しました。六〇歳を過ぎた団塊世代のボランティアが何千人も登録しています。この人たちを「子どもと遊ぶボランティア」として、幼稚園や保育園に二人ずつ送り込んだらきっと何かが変わる。

 子育てをあまり経験してこなかった団塊世代の男たちが、幼児と遊んで人間性に目覚めれば、社会の空気が少し変わる。全県でできれば、経済対策にもなるはず。)

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「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会より)

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