0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること

全国を講演して回っていると、保育士不足と、それに伴う保育の質の低下は限界を越えています。義務教育がもたない。小一プロブレムはもはや止められない。政府主導の保育士不足が義務教育によって、すべての子どもの人生に「いじめ、不登校、学級崩壊」という形で影響を及ぼし始めている。

保育士は、資格を持っていれば誰にでもできる「仕事」ではない。(私は、30人の他人の4歳児を二時間世話できないし、笑顔ではいられない。それが8時間できる人、毎日笑顔でできる人は、選ばれたごく少数の人、生まれつきの才能、個性なのだろうと思います。)
しかし、政府の子ども・子育て支援新制度は、それが始まった当時、2万4千人の待機児童に対し、あと40万人「保育の受け皿」を用意するという雇用労働施策でした。幼児の最善の利益が優先されることなく、保育士たちの気持ちを考えることなく、受け皿だけ「待機児童をなくす」という掛け声のもとに増やしていった。小規模保育、子ども園、家庭的保育事業、3歳未満児を預かるために、資格も含め制度の規制緩和を一気に進めていった。(その先にある学童保育の混乱状態も待ったなしの状況です。最近、学童の指導員さんたちに講演して思いました。こんないい加減な仕組みでは、いい指導員さんたちの心がもたない。その人達がいなくなったらどうするつもりだろう。民間委託や下請けといった市場原理では支えられない。)

忘れてはならないのは、政府が新制度を始める前に、3、4、5歳児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていたということ。「あと40万人」(今年はそれを50万人に増やしている)と政府が目標にしたのは3歳未満児だということ。皮肉にも、その掛け声と、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉と言葉遣いの流布、待機児童をなくします、いう政治家の安易な選挙公約などに背を押されるように、親の「子育て」に対する意識が一気に変わってきている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、と役場の人達が口をそろえて言うのです。それが、待機児童の増加に拍車がかかるという結果を生み出している。保育の現場を追い込んでいる。
新聞に「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと」などと書かれています。しかし、それは経済でしかものを考えない学者や政治家たちの「誤算」であって、待機児童を減らそうとすれば増えますよ、ということは現場では10年も前から言われていました。東京23区などでは現象としてすでに現れていたのです。

「保育はサービス、保育は成長産業」という政府の指示を鵜呑みにした保育関係者の中に、保育の質を考えずに「ただ預かればいい」というとんでもない意識を持つ園長・設置者もでてきているのです。
 0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること、という意識がない。
人間が生まれて三年間の脳の発達を考えれば、その時期の話しかけや抱っこ、接し方、声の調子や叱り方、刺激や関わりがその子の将来の行動パターンに様々な影響を及ぼすことは証明されていて、だからこそ、国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書にも特定の人間(主に家族)と乳幼児が過ごす権利や、その大切さが謳われている。それすら保障されない状況にこの国が、政府の経済施策によって追い込まれているのです。

保育士に都合のいい幼児にするために、0、1歳児に話しかけない保育が少しずつですが、増えています。この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来上がります。それを親たちが知らない。
質の悪い保育士を雇わされて、事故が起きないようにするためには仕方ない、子どもがじっとしている方が安全という園長もいれば、政府に11時間保育を標準と言われ、乳幼児を3人、4人、次々に抱っこしていたら保育士の腰が持たない、労災の問題です、と堂々という園長もいる。そこまで言われると、そうですね、所詮仕組み自体が無理なのです、0、1、2歳児を今の仕組みで預かることが間違っているのです、と答えるしかありません。

脳細胞、シナプスの相対的関係

脳細胞、ニューロン、人間の魂の分野に属することを科学的に話すのはあまり好きではないし、不得意なのですが、時々そうだろうな、と思うことがあります。
ニューロン(脳細胞)の数が一番多いのは人間が生まれる直前で、生まれるときに大量に捨てるのだ、というのです。その捨て方には個人差があるそうです。その捨て方は人生に影響を及ぼすはずです。(ひょっとして、この「意識が働いているか」、それが「誰の意識なのか」はっきりしない出来事が運命や宿命と呼ばれ、仏教でいえばカルマ、修行の目標なのかもしれません。)
そして、人間は、このニューロン(脳細胞)をシナプスというものでつないでゆくのだそうです。それをニューロンネットワークといって、個人で異なる「思考」の仕方はこのネットワークのつながり方、その回路・通路のあり方の違いだそうです。そのニューロンネットワークは、生まれて一年くらいで最多に達するというのです。そこから、こんどは思考の回路を自ら削除してゆく。環境や体験にあわせ、どういう考え方がそこで生きて行くために重要かという優先順位を、それぞれその時の体験から決めていくわけです。
人間としての基本的な生き方に加えて、言語や文化、伝統、習慣、常識といったその社会で生きるための知恵や知識が、共有する思考形態として定まってゆくのでしょう。脳の重さはほぼ五歳で成人並みになると言われていますから、生きるために減らしてゆくニューロンネットワークの数と脳の大きさが一番相乗効果を生んでいるのが四歳くらいで、人の思考の可能性、感性がそのころ最大となるのではないでしょうか。
私はその状態を、「信じきって、頼りきって、幸せそう」というものさしから、四歳児で完成、最も幸せでいられる可能性を持っている姿としたのです。

一人の人間をニューロンに置き換え、人間同士の「絆」をシナプスと考えると、人類の目的が見えてきます。「生きる力」とは個の自立を目指すことではなく、「絆」を作る力です。信じあい、頼りあうことが「生きる力」です。

(だからこそ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://www.luci.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現は進化のプロセスにおける強い警告だと思います。)

実際、四歳児が完成された人間かどうかは、別の議論に任せます。しかし、そのように四歳児を眺めることで、先進国で起こっているほとんどの問題が解決するのです。
そこに人類の進化における相対性理論が見えます。

なぜ「四才児」完成説なのか。脳細胞、シナプスの相対的関係

講演で、「四歳児が一番完成している人間」と言います。「完成」という言葉さえ本当は変で、「目標とする姿」と言ったほうが近いのかもしれない。
「頼り切って、信じ切って、幸せそう。これは宗教の求める人間の姿です」と付け加えます。
仏像や聖母子像や観音様のように、人間は具体的に崇拝したり、目標とする何かが近くにあったほうがいい。これを拝んでいれば大丈夫、という共通した何かがあると、心が一つになりやすい。仏教やキリスト教が現れる前から、それはあったはず。

保育園で、〇歳から五歳児の部屋で三〇分ずつ過ごしてみたのです。すると、四歳から五歳になる時、何かが変わるような気がしました。集団の雰囲気が、馴染みのあるものになった。園長先生に言ったら、そうですね、とうなずかれました。四歳児までは神や仏の領域。存在としてはまだ宇宙の一部なのでしょうか。五歳で人間?。
園長先生が言います。
三歳児はやりたい放題、鬼ごっこをすれば自分から捕まりにいってしまう。四歳ごろから、ルールを守った方が面白い、ということを学ぶ。鬼ごっこでは、ちゃんと逃げるし、捕まったら鬼になることも理解する。他者との関係がわかってくるのです。自制心を持って他者と関われば、もっと面白いということがわかってきます。相手もそのルールを守ってくれることで信頼関係が芽生えるのです。このあたりの幼児の発達過程は人間社会がどうあるべきか、どのように形成されるかという次元まで重なってくる、とても興味深い変化・進化です。
それを親が眺めるといい。
自分が通ってきたプロセスのおさらいをするように。〇歳から四歳までの子育ては、無意識のうちに一人の人間の完成、人類の進化の歴史を四年かけて眺めることなのかもしれません。そうして、人は自分という人間を人類の一員として理解し、安心したのでしょう。幼児を理解しようとするプロセスが、人間を作るのです。

世界が宗教間の軋轢や、人種や民族間の争いに満ちていても、もし四歳のときに子どもたちを混ぜてしまえば、そしてそこに親心があれば、平和や調和は可能でしょう。先進国は、その可能性に気づき、その可能性を大事にしなくてはいけません。
なぜ、人間は四歳で完成したのに、情報や知識を得て不完全になろうとするのか。自ら不完全になることによって、集まって大きな完成を目指そうとしているのではないか、そんな風に考えます。人類全体で「絆」を作って完成するために、一度自分を見失う、という苦難の道をゆくのでしょう。
人類としての完成、それが何百年先になるのかわかりません。でも、運命(宿命)はそんなところにあるのでしょう。だからこそ我われは、時々、四歳児という完成品、目標を眺めていないと、人類全体としての道を間違う。
人類の歴史の中で、いまが一番大切な時かもしれない。私たちは、人類の進化を決定づける不思議な時代に生きています。
だからこそ仕組みの発達と、経済という進化のエネルギーでもある欲の具現化が生んだ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://www.luci.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現が恐い。