幼児を囲む静寂・風景
「地下で保育所可能に:区長会・公設民営で問われる質・心の傷」をhttp://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060に書きました。雇用労働施策が発想が原点があるから、「保育の受け皿」という言葉が先走り、認知され、量の確保が最優先されている。保育の本質や意味が理解されていない。子どもの日常的環境、日々の生活の喜びに対する無感覚さ、無神経さが「地下で保育所可能に」という区長たちの発想につながるのだと思います。
親子関係というのは積み重なる体験の中で育ってゆくもの、築かれるものなのです。子育てを、親子という特別な関係が培われる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでに非人間的です。それに、もう誰も気付かなくなったようです。マスコミによる情報の共有が、不自然を当たり前に見せてゆく・・・。本当は、子育てに受け皿などありえないし、一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない一年。そして、それはあっという間に過ぎていってしまう。もし、その双方向の人類不可欠の体験を、国の経済のために、一日11時間切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。
「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相応の責任がある。
音楽もする私が、ふと自分の子どもを幼児期に毎日十時間どこかに預けざるを得なくなったとしたら、と考えてみました。その時、どうしても欲しいものを考えてみました。そして強く思ったのが「静寂」です。昔から幼児期の子どもを囲んでいた静寂が、いま仕組みの規制緩和によって忘れられている気がしてならないのです。
背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていく。風景が見えなくなってゆく。
新しい園舎と広い園庭が完成したら噛みつきがなくなった、と言っていた園長先生の言葉を思い出します。ゆとりのある空間と景色に、保育士たちが落ち着き、無愛想だった親たちが自然に朝、挨拶するようになったというのです。不思議です。風景から挨拶が生まれる。今の時代、保育園は人間たちの重要な出会いの場。そこは、信頼関係が育まれる場でなくてはならない。
風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていた。言葉でも理屈でもない。まさに、幼児の居る風景が整ってゆく。そして、幼児の居る風景が、人間社会を整えてゆく。その風景が人間たちの安心を支えるのだと思います。
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この文章をfacebookに載せたら、所沢市長からメッセージが来ました。facebookのありがたいところ。
藤本 正人 例えば、抱っこして眠る幼な児のおむつのおしりをとんとんとたたきながら、例えば、広場でベンチに座って抱っこしながら同じ風景を見ているとき、たとえば「・・・だねぇ」といわれて、「・・・だねぇ」とこたえたり、その逆に、子どもが親の言葉づかいをまねてくれる時、そして、もちろん子守唄を謳いながら寝顔を眺めているとき、安心感とともに静寂があるような気がします。
私の返信:
言葉の喋れない人たちとの会話が、人間に静寂を感じさせたり、その感覚が「祈り」というコミュニケーション能力を教えてくれたりするのですね。子守唄という、一方的に見えるけれども、親は自分の子どもだけではなく、まわりの風景や神々と交流しているような音楽のかたちが、人間社会に戻ってきてほしいと思います。
「地下で保育所可能に」 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060 というニュースを受けて、
「保育室の窓から眺める外の風景は、保育士にとっても、子どもたちにとっても人生の大切な一部であって、生きてゆくには重要な体験です」とツイートしました。雨の日に、「外で遊びたいね、雨、やまないかな」と無言で心を重ねてくれる保育士がそばにいるかどうかで、幼児たちの人生が変わってくる、それが保育です。
このように、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか、で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらのように理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、幸福感が相対的なものであって、自分の想像力の中にあることがわからなくなってくる。すると必然的に、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。わかりやすく言うと、いじめの質が粗くなってくる。その積み重ねの結果と言ってもいいかもしれない、学校を卒業し競争社会に入って行った時の体験が、年々、殺伐としたものになってきている。それが、最近わかります。
社会全体を見える範囲で見渡すと、信頼関係の薄さにアップアップして、みんなでもがいている感じがするのです。競争社会は、誰かと競争するだけではなく、一緒に闘う人間との信頼関係に安心する、ということでもありました。もし、心の重なり合いが薄ければ、闘ったとしても、勝ったとしても、それは虚しい体験でしかない。体験を、お金で計ろうとしても、虚しさは必ず残ってしまう。
損得勘定とは離れた、「忠誠心」みたいなもの、約束ごとに、人生は支えられている。
私が一人で公園に座っていたら変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら「いいおじさん」。
そんな宇宙の法則、遺伝子の働きみたいな約束ごとを実際に感じると、そこに居るというだけでこれだけの働きをする幼児たちに、すでに存在する法則のようなものが見えて、もっと楽に生きられると思うのです。こういう流れの中に居ることに感謝すると、流れ全体にいい感じの責任を感じる。こういう種類の責任というものは、良いものだな、と理解する。