幼児を囲む静寂・風景・約束ごと

E01-48

幼児を囲む静寂・風景

 

「地下で保育所可能に:区長会・公設民営で問われる質・心の傷」をhttp://www.luci.jp/diary2/?p=1060に書きました。雇用労働施策が発想が原点があるから、「保育の受け皿」という言葉が先走り、認知され、量の確保が最優先されている。保育の本質や意味が理解されていない。子どもの日常的環境、日々の生活の喜びに対する無感覚さ、無神経さが「地下で保育所可能に」という区長たちの発想につながるのだと思います。

親子関係というのは積み重なる体験の中で育ってゆくもの、築かれるものなのです。子育てを、親子という特別な関係が培われる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでに非人間的です。それに、もう誰も気付かなくなったようです。マスコミによる情報の共有が、不自然を当たり前に見せてゆく・・・。本当は、子育てに受け皿などありえないし、一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない一年。そして、それはあっという間に過ぎていってしまう。もし、その双方向の人類不可欠の体験を、国の経済のために、一日11時間切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。

「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相応の責任がある。

 

C05-71

 

音楽もする私が、ふと自分の子どもを幼児期に毎日十時間どこかに預けざるを得なくなったとしたら、と考えてみました。その時、どうしても欲しいものを考えてみました。そして強く思ったのが「静寂」です。昔から幼児期の子どもを囲んでいた静寂が、いま仕組みの規制緩和によって忘れられている気がしてならないのです。

背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていく。風景が見えなくなってゆく。

 

新しい園舎と広い園庭が完成したら噛みつきがなくなった、と言っていた園長先生の言葉を思い出します。ゆとりのある空間と景色に、保育士たちが落ち着き、無愛想だった親たちが自然に朝、挨拶するようになったというのです。不思議です。風景から挨拶が生まれる。今の時代、保育園は人間たちの重要な出会いの場。そこは、信頼関係が育まれる場でなくてはならない。

風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていた。言葉でも理屈でもない。まさに、幼児の居る風景が整ってゆく。そして、幼児の居る風景が、人間社会を整えてゆく。その風景が人間たちの安心を支えるのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この文章をfacebookに載せたら、所沢市長からメッセージが来ました。facebookのありがたいところ。

藤本 正人 例えば、抱っこして眠る幼な児のおむつのおしりをとんとんとたたきながら、例えば、広場でベンチに座って抱っこしながら同じ風景を見ているとき、たとえば「・・・だねぇ」といわれて、「・・・だねぇ」とこたえたり、その逆に、子どもが親の言葉づかいをまねてくれる時、そして、もちろん子守唄を謳いながら寝顔を眺めているとき、安心感とともに静寂があるような気がします。

私の返信:

言葉の喋れない人たちとの会話が、人間に静寂を感じさせたり、その感覚が「祈り」というコミュニケーション能力を教えてくれたりするのですね。子守唄という、一方的に見えるけれども、親は自分の子どもだけではなく、まわりの風景や神々と交流しているような音楽のかたちが、人間社会に戻ってきてほしいと思います。

 

C05-85

 

「地下で保育所可能に」 http://www.luci.jp/diary2/?p=1060 というニュースを受けて、

「保育室の窓から眺める外の風景は、保育士にとっても、子どもたちにとっても人生の大切な一部であって、生きてゆくには重要な体験です」とツイートしました。雨の日に、「外で遊びたいね、雨、やまないかな」と無言で心を重ねてくれる保育士がそばにいるかどうかで、幼児たちの人生が変わってくる、それが保育です。

このように、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか、で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらのように理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、幸福感が相対的なものであって、自分の想像力の中にあることがわからなくなってくる。すると必然的に、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。わかりやすく言うと、いじめの質が粗くなってくる。その積み重ねの結果と言ってもいいかもしれない、学校を卒業し競争社会に入って行った時の体験が、年々、殺伐としたものになってきている。それが、最近わかります。

社会全体を見える範囲で見渡すと、信頼関係の薄さにアップアップして、みんなでもがいている感じがするのです。競争社会は、誰かと競争するだけではなく、一緒に闘う人間との信頼関係に安心する、ということでもありました。もし、心の重なり合いが薄ければ、闘ったとしても、勝ったとしても、それは虚しい体験でしかない。体験を、お金で計ろうとしても、虚しさは必ず残ってしまう。

損得勘定とは離れた、「忠誠心」みたいなもの、約束ごとに、人生は支えられている。

 

私が一人で公園に座っていたら変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら「いいおじさん」。

そんな宇宙の法則、遺伝子の働きみたいな約束ごとを実際に感じると、そこに居るというだけでこれだけの働きをする幼児たちに、すでに存在する法則のようなものが見えて、もっと楽に生きられると思うのです。こういう流れの中に居ることに感謝すると、流れ全体にいい感じの責任を感じる。こういう種類の責任というものは、良いものだな、と理解する。

 

images-11

ツイッターは不思議な次元で会話が成立します。(@kazu_matsui)
 
『土曜日に、親たちはスキーを車に積んで出かける。
「お兄ちゃん、お父さん、お母さんはお休みなんだけど、僕は保育園があるの」と園児が言う。そんな話を岩手で保育士から聞きました。土曜日も就労証明なしでも預かれという施策が広がっています。』と私がツイートに書くと、
 
『子どもは夏休みがないんだってさ。私たち保育士は交代で休みを取れるけれど、一日も夏休みがない保育園だから(休んじゃダメだから)子どもは休みなし。「夏休める日」の希望保育日などの手紙もダメで「お子さんと一緒に休める日はありますか?」と聞くのもダメ。親が休みでも全部来る子どもが殆ど。』
 
という呟きが返ってくる。
 
自分の子どもを日々育てている保育士たちの気持ちを、親たちが考えない。その現実、そしてそれを言おうにも本音の会話を制してしまう仕組みが見えてくる。
「福祉だから、仕事だから、私たちの権利だから、税金払ってるんだから」で、「子どもの成長」とか、「保育園での保育士と子どもの日常」について考えたり想像するのをやめてしまった親が、ここ数年の間に急に増えている。
 
10数年前、地方では、お盆に「希望保育」(園の要望に応えて、親たちが自主的に、できる限り子どもを休園させる)で保育士たちが交代で数日休みをとれた。「保育士だって墓参りはするんだ」という園長の一言で、親たちが納得していた。そんな、互いの立場を慮る、助け合う日本がつい最近まであったのです。そろそろ地理的な「地域」では保てなくなってきていた「一緒に育てる」という信頼関係が、まだ保育園という場所で根強く育っていたのです。保育園とは、そういうものだったのです。
 
そんな人間同士の育ちあいや、気遣いが、「保育は成長産業」、そして「11時間保育が標準」とした閣議決定や施策でどんどん消えてゆく。失ってはいけないはずの、この国の気質や、存在意義が消えてゆく。そのスピードに驚きます。
 
別の保育士から、
 
『お姉ちゃんたちだけUSJ連れてって、一番下は保育園って子いたよ。ほんとに、馬鹿だよね。子どもをなんだと思ってるの?土曜保育、安易に使うなや( ´・ω・` )』
 
というツイート。
 
土曜保育、長時間保育、病児保育、預かり保育、ひととき保育、子どものショートステイ、学童保育、「安易に使うなや!」というのが保育士たちの本音だと思う。「安易に」という言葉の陰に、子どもたちと保育士の「無理を承知の」時間があることに、誰も気を留めなくなっているのです。福祉が権利ではなく「利権」になっている。
 
そして、
 
『台風の日に大雨の中赤ちゃんを連れてくる育休中のお母さんもいる、と公立園の園長が切ない顔をしてました。育休とっても、保育園をやめたら育休明けに行き場がなくなるとかで。何のための育休?』
 
これでは、育児をするための育休ではなく、育児から逃れるための育休になっていく。待機児童がたくさんいる地域では起こりにくい現象ですが、もともと「Needs:ニーズ:必要」ではなく「Wants:そうしたい」で保育園に預ける親が相当数いたのが現状。幼稚園という選択肢が一つも存在しない自治体が2割以上あったのですから、無理もないことだったのです。
 
三人目は就労証明なし、保育料無料という施策もそうですが、現場が「おかしいな」と思われる施策は、だいたい親たちの子育てに関する意識を、保育が成り立たなくなる方向へ導いてゆく。
 
土曜日は保育園に子どもを預け、親が休む日。リフレッシュして日曜日に子どもとしっかり遊びますと保育士に堂々という親もいる。政府が作った仕組みを利用して、何がベストか計画を立て、合理的といえばそうなのですが、幼児と一緒にいる時間が「重荷」「負担」という認識に近づいていくのを感じます。
 
人類が進化するための幸せの原点であった負担、幼児の存在意義が、薄れてゆくのです。この方向へ進んで、はたして学校教育が成り立つのか。そこを考えなければいけない。
 
そして一方で、こんな切羽詰まった呟きが届きます。
 
『乳児クラスでは、其々が休憩時間など取っていたら何も出来ません。個別のお便りを書く、0歳児が多い中(勿論、午睡リズムもそそれぞれですし)就寝中は呼吸確認、寝返り出来る子をうつ伏せから仰向けにさせる等(そして動かすから泣いてしまう)何人保育士がいても休憩なし』
 
『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』
 
政治家たちは、有権者の利便性だけではなく、今は選挙権がないけれど将来国を支えるはずの子どもたちの日々、家庭を基盤とした約束ごと、国全体の行く末をしっかり見据えてほしい。特に学校教育が健全に行われることを念頭に、いま施策を考えないと、市場原理に巻き込まれた保育界が限界に来ています。

 

 

images-1

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です