「プジェクト2000」国が用意するシステムと家庭の境界線

西暦二千年に向けて、20年ほど前にアメリカの首都で「プジェクト2000」という施策が始まった時のことを、今でもよく覚えています。当時全米で、すでに3人に1人の子どもが未婚の母から生まれ、ワシントンDCでは、子どものいる家庭の実に60%が、父親像となり得る男性がいないという状況でした。

「父親像となり得る男性がいない」この表現はアメリカ的ですが、母親がボーイフレンドや恋人と暮らしていれば、父親像となり得る男性が家庭にいると計算します。離婚、再婚、同棲、未婚の母がほぼ日常的になり、「実の父親」がいる家庭が少数派になりつつある国で、肉身、血のつながりという概念は、その意味を失いつつありました。大人の男性が家庭にいれば、それが誰であれ、父親像となり得る男性がいる、そう計算しても、ワシントンDCやデトロイトでは60%の家庭に大人の男性がいなかったのです。

日本の首都、東京で60%の子育て中の家庭に大人の男性がいない状況を想像してみてください。これは人類が体験したことのない情景です。それが今から20年前にアメリカの首都で起こっていた。日常になっていた。こういうことはもっと知られていていいと思います。特にいま、保育の仕組みがこれほど親子を引き離す方向に変えられようとしている。そして、首相が国会で、40万人3歳未満字を保育園で預かる施策を発表し、そうすれば女性が輝く、「ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」と去年言ったのですから。

当時、ワシントン市が「プロジェクト2000」という実験を始めました。これは「公立の小学校を使って子ども達に父親像を教えよう」というものでした。

男の子は家庭に父親像がないと、5歳、6歳からギャング化する、理不尽な序列を作ろうとする、という研究発表が同時にニュース番組で報道されていました。アメリカの小学校は伝統的に女性教師が多いので、ボランティアの男性に小学校に来てもらって、子ども達に大人の男性と接する機会をもっと与えようというのです。(最初は、成功した男性を呼んでいたのですが、数年後、良い仕事をしている男性も加わっていきました。)

学校が父親像を子どもに提供する、こんなサイエンスフィクションのようなプロジェクトがすでに20年前に存在し、その国を我々は先進国という名で呼んでいました。先進国社会で、国が用意するシステムと家庭の境界線がここまでわかりにくくなってきている、ということに我々はもっと注意を払うべきです。(一度そうなってしまったら、ほぼ、戻ることはできないのです。)

そして一番問題なのは、3人に1人のアメリカ人の男性が自分の子どもが生まれた瞬間から父親としての役割を果たそうとしていない、家庭に対する責任を持とうとしないということです。1ヶ月でも父親をやってみて、やっぱり嫌だ、うるさい、面倒くさい、それでやめるのであれば、まだ理解できる。1年でも一緒に暮らしてみて、やっぱりこの女性と暮らすのは嫌だ、失敗した、それで離婚するのならまだ理解できます。3人に1人の男性がはじめから「子育て」に関わろうとしない、それが平気になっている。ここが尋常ではない。日本における「できちゃった結婚」という言葉が輝いて見えます。できちゃったら、結婚する、この感覚は社会全体にとって「いい感覚」だと思います。

アメリカやイギリスで現在4割、フランスで5割、スウェーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれる。先進国社会の中に、自分の子どもを育てるということがひょっとすると自分の人生の一番の幸福につながるかもしれない、という「空気」が薄くなってきている。

アメリカ人の男性も幸せになりたいと思って生きている。人間は誰もが幸せになりたいと思って生きているはず。方法は人によって違うでしょう。しかし、もし社会に空気として、自分の子どもを育てるということが、ひょっとして自分の幸福に繋がるかもしれない、という漠然とした思いがあれば、1日でもやってみると思うのです。

やってみさえすれば、10人中10人が子育てに幸福を感じるようになるとは私も思いません。20人に1人、30人に1人はどうしても子育てに幸福を見つけることができない人、見つけたがらない親が昔からいたでしょう。それが人間というものでしょう。それで進化するのかもしれません。しかし、社会の中に、自分の子どもを育てることの中にけっこう大切な、手っ取り早い幸せがあるのかもしれない、という空気があって、皆が何となくでもいいですからその可能性に取り組んでみれば、ほとんどの親達がそこに何らかの幸福感を見つけ、続けようという気持ちになるはず。それが哺乳類である人間の本能だったはずです。親子の出会いがあれば、親は子育てを通して自分のいい人間性を体験し、そこに人生の目標を持てるはず。親は幸福感を媒体に子育てをする、そのようにDNAは仕組まれていたはずです。過去と未来という概念を持つ唯一の種である人間にとって、子育てはまだ見ぬ未来への希望だったはずです。

親が自分の子どもを育てることに幸福感を見つけることができなかったら、人間社会は1000年も2000年も前に希望を失い、大混乱に陥っていたはずです。いま、先進国社会は「親達の(特に男達の)子育て放棄」という、希望を大量に放棄する混沌の前兆期を迎えようとしています。希望を持たずに生きられるほど人間は完全でも善良でもありません。希望は人間だけが意識出来る道しるべなのです。

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