#5 「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

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#5

「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

「人づくり革命」を目指す政府の「新しい経済政策パッケージ」「高等教育は、国民の知の基盤であり」という言葉が書かれています。本当にそうなのでしょうか。

幼児たちを保育する人を育てる保育者養成校は、高等教育の一つです。国の将来や、人々が安心したり、幸せを感じる社会を目指す、それに必要なモラルや秩序の存続を考えれば、四年生の国立大学よりもよほど身近で重要な役割を担う「高等教育」と言ってもいいでしょう。

いま、進んでいる「保育崩壊」の一番危ない現実は、保育士不足とともに、保育士養成校の授業と学生の質の変化が急速に落ちてきている点ある。国の言う「保育ニーズ」に反比例するように、何人も他人の子どもたちを長時間任せられる人たちがこの種の「高等教育」の中で育たなくなってきている。それは、実は保育士だけではなく、教師も、企業に勤める人たちも、親たちも、社会全体が、そうなのかもしれません。「教育」という言葉がもっと大切な「人間が育ちあう」「体験を分かち合う」という人生の意図を覆い隠し、わからなくしているからではないか、そう思えてなりません。

女性の社会進出という言葉が使われる時に、(本当はそれは「女性の経済競争への参加」に過ぎないのですが)子育てによって女性の自己犠牲が促されている、みたいなことが言われるのです。女性だけが、という不平等感に対する反発があるのかもしれない。しかし、文脈からは、「自己犠牲」が良くないもののような響きが聞こえる。もしそうなら、仏教もキリスト教も、長い間一体何を人々に「薦めて」きたのか。

「子育て」は、自己犠牲が幸せにつながるという「宗教」の教義を、その宗教が地球上に現れる以前から支えてきた進化の法則です。それがいま一般論として否定されようとしているから話がややこしい。高等教育が「経済」を支えようとするからこういうことになる。これではネズミ講のネズミが増えるばかりで、社会は安心と平和からますます遠のいてゆく。

定員割れしそうな養成校に、高校で進路を指導をする一部の教師たちが、様々な問題を抱えた生徒を送り込んでいる。「子ども相手ならできるでしょう」、「ここなら入れるよ、そのまま就職にもつながるから」と、安易に、または熱心に、薦める、指導する。それが仕事だから、「教育?」だから。

進路指導の教師たちが数年後その進路の先にいる幼児たちの時間の質をほぼ考えない。教育の分業化が進み、「子育て」という一本の筋が見えにくくなる。幼児たちがいま過ごす時間の質が、将来自分たちの「教育の質」に関わってくることを考えない。これが仕組みとしての「高等教育」の欠陥であり、実態になりつつある。

高等教育に関わる人たちが、子どもの幼児期における人間関係や環境がその子の人生に与える影響の大きさについて知らないのか、教えられていないのか、興味がないのか。

仕組みとしての高等教育が「子育て」から離れはじめ、人間の想像力を失わせてゆく典型的な姿です。

高等教育が自らを破壊し始めている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478

3歳までは親が育てる、その後も子育ての主体が親という「幼稚園」ならまだ影響は少ないのかもしれません。園生活の中に悲しみや苦しみがあれば、3歳以上児は、たぶんそれを言葉で親たちに伝えることができる、そう思いたい。

しかし、政府が3歳未満児を保育園で預かることをこれほど強く奨励しているいま、誰でも養成校に入ることができ、ほぼ全員が国家資格を取得でき、誰でも採用する、採用せざるを得ない仕組みがその先にあって、そこに人間の信頼関係に包まれて成長すべき0、1、2歳児が居ることを、高等学校の進路指導の教師が意識しなくなっていることに社会として気づいて欲しい。「高等教育」という仕組みの中で、自分の立場と責任を高等教育をする人たちが理解していないということ。

教育や子育てにビジネスやキャリアが絡むと、必ずこういう現象が起こります。教育が産業に隷属し始める。

技術や情報を伝えることに加え、国が真剣に、「人づくり」を高等教育に求めるのであれば、その意図は、「保育資格」を巡って起こっている「この実態」によってすでに崩れている。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー