幼児教育や高等教育の無償化

選挙対策なのでしょうか、こんな報道がありました。
「安倍総理大臣は、ニューヨークのウォール街にある証券取引所で演説し、衆議院の解散・総選挙で掲げる「人づくり革命」に関連して、消費税率を10%に引き上げた際の増収分の使いみちを見直し、幼児教育や高等教育の無償化に充てることに強い意欲を示しました。」

最近の保育のサービス産業化を見ていると、保育所保育指針という法律に書いてある、「園児の最善の利益を優先して」という理念さえ、閣議決定において大臣たちに周知、徹底されていないのではないかと思えます。彼らは、その言葉が、保育を支えるための法律に書いてあることさえ知らないのだと思う。だから「子ども・子育て支援新制度」で、11時間保育を標準と名付けたり、「保育は成長産業」と閣議決定で決めたりするのです。
国が、幼児優先という保育の根幹にある理念を自ら制度で壊している。その矛盾が保育界を超えて他の子育てに関わる福祉や学校教育をも、崖っぷちまで追いつめているのです。

 一つのいい例が学童保育です。未満児の「受け皿」を短絡的に、将来を見据えない馬鹿げた経済施策で進めたために、民営化や指定管理制度で逃げようとしていた学童保育が人材的にも財政的にも逃げ場を失っている。学童保育に来る子どもたちの状況を考えれば、いまそこが一番ケアされなければいけないはずなのに、制度の仕組みも、指導員の資格も、待遇改善の方向性も定まらない。迷走している。資格や仕組みが確立されないまま市場原理にまかせようとした障害児デイ施設など、資格の規制緩和や利益優先のサービス産業の参加によって、子どもたちを囲む状況はさながら無法地帯になりつつある。与党も野党も、子育てに関するビジョンが、ただの親の利便性対応になっている。子育てが、損な役割のように位置づけられ、幼児や子どもたちの、願いや思いが政治家の頭から忘れられている。
それは、あと40万人保育園で預かれば、女性が輝く、と国会で言った首相の言葉にも表れているのですが、女性を子育てから「解放し」経済競争に組み込めば、それが国にとっていいことなのだ、と多くの政治家が信じ込んでいるような気がする。だから、子どもたちの気持ちを感じてしまう、いい保育士が辞めてゆく。保育士不足が止まらない。

森友学園問題の報道を思い出してほしい。あの(知り合いの)園長先生の規則を無視した、傍若無人な行政への説明を見たら、首相だって、あと40万人保育の受け皿を確保します、などと軽々しく言えないはず。

保育園の義務教育化など夢のまた夢。保育士の質を落としておいて、小一プロブレムや学級崩壊の責任を「就学前教育」などと言って、保育界に押し付ける詐欺のような施策と同じです。教育という言葉を入れさえすれば、それができると思うこと自体がおかし。
幼児教育無償化など、本質的に考えれば、つまり「教育」という責任論から言えば、いまの保育界に受け切れるわけがない。非現実的、学者の机上の空論。失政の責任転嫁。教育は家庭という土台がなければ成り立たない。学校は、親が親らしいという前提のもとに作られている。(民主主義も福祉も、幼児たちが、その存在感で生み出す「モラルと秩序」が社会に存在することが前提に作られている。)
就学前に親が親として育っていない、幼児期に特定の人間と(家族と)愛着関係が築かれていないのが、保育・教育問題の本質です。保育園の義務教育化、無償化は義務教育を崩壊に向かわせる。高等教育の無償化も含め、子育ての無償化は家庭という社会の土台を崩壊の方向へ導く。
働く動機、愛する人のために頑張る、責任という言葉に生きがいを感じる、それがなければ経済は破綻するのだと思う。破綻するプロセスで、一部の強者がいい思いをするためにいまの経済施策は進んでいるのだと思う。

 

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「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」

来年施行される新しい保育指針には、3歳未満児の保育、発達の重要性について、以前よりスペースを割いて詳しく書かれています。それ自体は、いいことです。これからますます負担が増えてゆく未満児保育の、親子の人生における位置、大切さ、負っている責任を考えれば、ただ資格者を揃えて預かればいいということではありません。その資格者がどういう保育をするか、乳幼児期の発達をどのように理解しているかがますます重要です。
子ども・子育て支援新制度で小規模保育や子ども園、家庭的保育事業などを増やし、待機児童対策と銘打って、実は雇用労働施策なのですが、政府はこれだけ未満児保育の枠を広げたのですから、指針により詳しく書くのは当然だと思います。
腹立たしいのは、枠を広げることで起こっている慢性的な保育士不足、つまり募集しても倍率が出ない状況が全国で起こっていて、それが一方で保育界全体の保育の質を下げているのですから、保育指針の改訂が問題の根本的対応にまったくなっていないこと。指針にいくらいいことを書いても実行する保育士の質がますます危うくなっているのですから、保育の質は上がらない、意味がない。

 (本当は意味があるのですが、政府の思惑や、すっかり後手に回っている、保育・教育における施策を見ていると手厳しく言いたくなってしまう。意味はあります。がんばりましょう。)

続けます。3歳未満児主体に保育をする小規模保育は資格者半数でいい規制緩和をして、保育指針の内容を充実させても、本末転倒です。結局、政治家や学者の「やったふり」、失敗した施策の責任逃れにしか見えない、私には。しかも、小規模保育や家庭的保育事業は、この指針に「準ずる」保育でかまわない、と指針の中に書いてある。最初から逃げ道をつくっているのですから狡猾です。これで、本気で未満児の命、日常を守る気があるのか、と憤りさえ感じます。

(以前、役場の人が言っていました。「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」と。)

確かに、保育士の待遇改善は進んでいますが、待遇改善をしてもらうには研修を受けなければならない。単に給料を上げればいいだけなのに、ハードルを作って格好をつけようとする。誰に向かって何を正当化しようとしているのか知りませんが、ただでさえ保育士不足で困っている現場から、研修の名で保育士を奪ったら、それだけ、その日、同僚の保育士たちが困るのです。現場が見えていない。加えて、研修で「保育はサービス、親のニーズに応えるのが保育」などと、今進められている施策を説明され、それが昇給の条件でもあるかのように押し付けられたら、保育における「子育て」「親育て」という本質はますます失われてゆきます。
昔、未満児保育をしないと主任加算をしない、などと、トンチンカンで理不尽な要求をされた記憶がよみがえります。