依存されること、甘えられることで育ってゆく絆

人間性を失った経済優先主義が国主導で広がっている感じがします。

「母親は赤ちゃんのそばにいたいし、赤ちゃんも母親のそばにいたい。節約して欲しいものを我慢しても子供を手元において愛情一杯の子育てをしたい、そんな当たり前の事が経済的に男性に依存する甘えた女という批判の対象になる風潮がおかしい。」

というツイートがありました。

その通りだと思います。一歩進めて、社会が、依存すること、甘えることを悪いことのように受け止め始めることの「怖さ」を最近感じるのです。

「自立」という資本主義社会を回してゆくための不自然な幸福論がその根元にあるのだと思うのですが、これでは幼児の存在を否定することにつながりかねない。依存されること、甘えられることで育ってゆく何かがあって、それが人類の存続にとって結構大切な鍵を握っていたのだと、みなで一緒に乳幼児を眺めながら、思い出さなければならない時なのだと思うのです。

 

仕事をするということには社会的責任がある。だから、「個人的な」子育てより優先されなければならない、というような言葉を聞くこともあります。これは本末転倒です。形の上ではそうであったとしても、人間が本気でこんなことを思い始めたら「社会」が成り立ちません。

幼児期の子ども(子育て)を最優先することが本当の意味で社会的責任なのではないか、という意識が社会全体に欠けてきている。とくに、社会人という言葉に現れるように、「社会」という定義が、それすなわち「経済競争」のように捉えられるようになって、年月が流れ、「言葉」に支配され始めている。

義務教育が語られる時に頻繁に登場する「自立」という言葉。それを目指すことが目的になり、そうすることが本当に幸福なのか、という議論も検証もない。この国の将来を考えた時、「自立」という言葉の呪縛から離れ、本来「社会」というものは、自立と反対の方向に位置するもの、助け合いなのだという記憶が戻ってくるといいのですが。

社会的責任は支え合いの幸せに基づいていて、一人では生きられないことを宣言すること。すべての人間が生まれて数年の間、幼児期にその宣言をしてきたということ。つまり、「社会的責任」は家族という単位から始まっていることを思い出し、それが施策に反映されるようになるといいのです。

親たちの意識が子ども優先の方向に戻らない限り、国の今の経済優先で人間性を失ってゆく方向性は変わらない。アメリカ大統領選とその後の価値観の混乱を見ればわかる通り、民主主義の危険性は経済優先で人間性を失ってゆくこと。しかし、人間性を失った経済優先主義では、多数が生きる力を失い始め、いずれ経済そのものも破綻し始める。政府やマスコミが、そこに気づいて、思考や報道の経済優先主義からの方向転換を計ってほしい。それが可能な唯一の先進国が日本という国だと思うし、この国の個性だったはずです。

 

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都議選が近づき、選挙絡みの講演依頼があります。発言できるチャンス、候補者に聴かせるチャンスですから一生懸命やります。でも同時に、受かってしまったらそれっきりの場合が多い。選挙の時だけ真剣に耳を傾ける、みたいな人が候補者になっていることが最近とくに増えている。志をもった政治家がいない。

全国で、話しかけない、抱っこしない未満児保育がじわじわと密室で広がっています。これが日本という国を土台から蝕んでいる。保育士に都合のいい子、事故が起こりにくい子、親が知らないうちに、後天的な発達障害が進んでいる。

そして、345歳児で簡単に薬物が処方されるようになってきている。

「もうすぐ学校ですから、そろそろお薬を飲み始めましょう」みたいな言葉が普通に聞かれるようになっています。政府の言う保育の「受け皿」とは、実質的に質の悪い保育と子育てにおける向精神薬の普及に進むための乗り物のような気がします。予算的にも人材的にも、義務教育には致命的な感じがして恐ろしい。この広がりの影響は対処しようがないということに早く気づいて欲しい。

外国人を雇っている東京都の認可保育園で、園長が保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。それが10年前です。人情味があって幼児にいい外国人は確かにいます。でも園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。雇用労働施策になっている、ということなのです。