引きこもり・愛着障害・幼い中学生

2017年6月1日

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内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、そして高齢化しているという。

注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」です。

20〜24歳が増えトップで34.7%。次が16〜19歳の30.6%。引きこもりというと小学生や中学生の時に始まる問題のように思いがちですが、意外とそうではないのです。三歳未満児保育を国が経済、雇用のために数値目標を掲げて奨励し、幼児期に親子関係における安心の土台をしっかり作れないままに、保幼小連携などといって小一の壁を低くしようとしたり、「保育は成長産業」として子育てをサービス産業化しようとすると、20〜24歳で「世間の壁」「社会の壁」に跳ね返される、そして、ここで跳ね返されると引きこもりは長期化する、ということです。

「子育ての社会化」、現在の混乱状況にあってはもはや意味不明ともいえる言葉ですが、子育ての外注化と言った方がいいかもしれない、これが進んで、根本的な人生における目的意識、幸福論がゆらいでいる。幸福になるには自分自身の成り立ちを知らなければならないのに、それが伝えられていない。わからなくなっている。以前書いた文章ですが一例を挙げます。

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 高校生の保育士体験でのことです。ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児に「ズボンこうやってはくん大よ」と説明されて慌ててズボンを上げるのです。校長先生や教頭先生が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。これは一体どう言うことなのか。三才児の存在意義は、ひょっとすると高等教育よりもはるかに人類にとって大切なものなのです。
 三才児は無心に。無意識に、人間たちを「いい人間にする」という自分の存在意義を表現し、高校生の成り立ちを指摘する。
 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が絶対に必要、ということなのです。
  遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったのです。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は誰と、何と、誰が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなる。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

そして、もう一つ「引きこもり」について・・・。

欧米に比べ日本には奇跡的に家族という概念が残っていて、引きこもらせてくれる環境がある。江戸時代からの次男、三男の部屋住みなどの伝統文化があったことも一因でしょうか。役に立たないように見える人にもその価値があると考える。その存在が成り立つようにする。

3歳未満児と真面目に付き合っているとそういう価値観が身につくのだと思います。こういう人たちがいないと、社会というパズルが組めなくなる。以前書いた文章から引用します。

 (障害児、障害者、認知症のお年寄り、この人たちはどんな時代にも社会の一員として居た。最近名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。与太郎さんのような古典落語の重要な脇役は、いまの分け方から言えば障害者かもしれません。日本の昔話や民話の主人公に意外と多いのが「怠け者」です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないひとたちと、パズルのように組み合わさって生きてきた。様々な次元で、お互いに育てあうのが人間社会だったのです。
 そのパズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児との、ゆっくりと時間をかけた付き合いが人間が支え合うために必要だったのではないか、と思うのです。この、絶対に一人では生きていけない人たち、すべての人間が一度は身をもって体験するその人たちを理解すること、または理解しようとすること、が一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに教えてきたのだと思います。)

いまの、日本特有のと言ってもいい引きこもりの状況を見ていると、経済的戦力にはなりませんが、とりあえず犯罪の抑止にはなっていると思います。「引きこもり」を研究している学者が、引きこもっている人の多くが親への殺意を感じたことがある、と発表していました。それが最近限界に来ている。家族の定義が「待機児童をなくす」といった言葉によって変化し、支え合う絆が薄れ、引きこもらせてくれる人たちが高齢化しているのです。

そして、中学生が非常に幼い。この現象は自然界からの警告のようにも受け取れます。遺伝子からの警告かもしれない。必死に果たせなかって「役割」を果たそうとしているのではないか。保育の質の問題もありますが、親の意識の変化がより大きな原因でしょう。保育のサービス産業化と福祉が、親の子育てに対する意識をこれからさらに変えてゆく気がしてなりません。

子どもたちが、親を育てる、弱者が強者を育てるという、人間社会にモラルや秩序を生み出す法則をもう一度思い出さないと、日本という国がその個性として持っていた「子どもに優しい社会」が崩れてゆく。

立ち止まって、心静かに考える時です。

 

(数年前、猪瀬知事が「スマート保育」というのを始めた時のブログがありました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211:いまだに手を変え品を変え、待機児童対策は保育士や幼児の気持ちを考えずに数合わせで進められている。この程度の意識からまだ抜け出ていないのです。)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211