母子の風景を大事にする国・「人権? 」(家庭と社会の境界線?)・ジェンダー

母子の風景を大事にする国
i mages
(ツイッターにこうツイートしました。)
: ブログに「何かが麻痺している・『子どもショートステイ』宿泊型保育」を書きました。大人の都合が子どものニーズと錯覚され、経済上の女性重視、女性の活用、多くの女性が(競争)社会進出を望んでいるように語られる。しかし施設・仕組みが壊れ始めている。
(すると)
 
:「 母乳で育ててたら、子どもと3時間以上も離れていられないはずなんですけどね。」
(という返信があって)
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:父親と母親の違いというのは、たぶんその辺りで決定的になるのでしょうね。男たちが一生懸命追いつこうとする、それが子育てのあり方かもしれません。追いつかないけど、頑張る。追いつけないから、母子の風景を大事にする。そんな順番でしょうか。
 
(という私の返信に、別の方から)
 
「母子の風景を大事にする、夫がまさにそんな感じです。母乳以外なら自分の方が上手いくらいだと一生懸命子育てしながら「ママじゃなきゃ嫌」と私にくっつく子供たちを、それが子供の自然な姿だよねと言うかのように、目を細めて微笑んでいます。」
 
(私も)
母子の風景を大切にすることでは、先進国社会で日本はピカイチです。できちゃった結婚という言葉があり家族に実の親が居る確率が高い。父親が犠牲になっているとは思いますが、母子の過ごす時間がまだ守られている。それが犯罪率や女性・児童虐待の低さに現れています。
 (と書きました。)
 何が正しいとかいうことではなく、子育てにおいて、どういう選択をする人たちがどのくらいの割合でいるか、ということが鍵を握っている。その割合で福祉や学校教育という「子育て」に関わる仕組みが維持できるかどうかが決まってくる、そんな感じがします。多くの親たちが自分で育てるという選択をする、それを維持できるかどうかが、先進国社会において、人々の幸福に一番直接的な影響を及ぼすことを理解してほしい。
 福祉や義務教育という、人類史上最近の、とても新しい仕組みを成り立たせるために必要な、家庭における幸福感のバランスというものがあって、そのバランスによって、そこで「仕事」をする人たちの心の質を保てるかどうかが左右される。
 あえてここで「仕事」という言葉を使うわけですが、この「仕事」と「子育て」の境界線が曖昧であることに細心の注意を払わなければならない。「仕事」にしてしまうと、「子育て」の見えにくい部分、つまり乳幼児が人間の感性やコミュニケーション能力を育ててきたという働きが徐々に失われ、家庭崩壊が始まり、それが福祉・教育の質の崩壊につながり、それがまた、なお一層の家庭崩壊に連鎖してゆく。
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 日本でも最近歪みが出はじめた「子育て」の問題が語られる時、「欧米では、親の働く時間が限られている」とか、「休暇を家族でしっかりとる」とか、言われることがあります。それは確かに良いことだと思いますが、だから日本はダメなんだ、という言い方で言われると反論したくなります。
 親が(母親が)幼児と過ごす時間をこれほど守ってきた国は、欧米にはありません。いくら休暇をたくさんとっても、勤務時間を減らしても、誰が子育てしているのかわからない状況の国と日本を比べてほしくない。
 性的役割分担という言葉が25年くらい前にジェンダーフリーを提唱する学者や評論家から「悪いこと」のように言われたことがありました。しかし、ある時期、特に子どもが小さい時に、母親が「子育て」という役割にまわり、男が経済的にそれを支えるという性的役割分担があった国の方が、結果的にとても治安がいいし、弱者に対する虐待が少ない。社会全体の安心感につながるという側面では、こちらの選択の方が良かった。
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(以下は、25年前に書いた文章からです。この頃、保育は8時間で、園長先生たちは、私の話す欧米での出来事と家庭崩壊に関する警告を、海の向こうのことと感じていた。最近、よくそのことを言われます。回教原理主義と資本主義のぶつかり合いの根本に「家庭像」「子育て観」が存在し、それが広がってゆくという予測はより一層現実となってきています。)

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6章 「人権? 」 (家庭と社会の境界線?)

 富士町文庫の30周年記念講演会は一般の人に宣伝して聴き手を募る、文化講演会的集まりでした。私の講演対象は通常保育者か幼児を育てている親達ですから、富士町文庫の講演会で久しぶりに「一般の」人達を相手に喋ったのです。
 二週間ほどして、お礼の手紙が来ました。
 「受験戦争を肯定した事への疑問(当日、お答えいただきました)や、『子育て』の大切さ、子どもへの無関心への警告には同感だが、母親に家庭に帰れということに結果的になるのではないか、性的役割分担の押し付けにならないか、等など質問は絶えず、いくら討議しても時間が足りないほどでした。」と書いてありました。
 私は、親達にもっと家庭に目を向けてほしい、子育てに幸福感を見つけてほしい、その方が社会的成功を目指すよりはるかに容易で、幸福感としても現実的ではないでしょうか、という話をします。そのことを説明するために、欧米の失敗例をあげ、「女性の社会進出」という名で呼ばれる不明瞭な言葉が、人権、税収といったレベルの論争に利用され、これを盲目的に「進歩」、「良いもの」と信じていると、いずれ社会的規模の家庭崩壊が始まる、と言います。それが結果的に「母親は家庭に帰れ」と聴こえたのだとしたら、それはその通りでいいのです。
 ここで大切なのは、私の言っていることが、結果的に「母親は家庭に帰れ」ということになるかならないか、という次元で討論せずに、そう言っているんだ、と決めてしまって議論をする方が、より深い議論が出来るということです。その一歩手前の議論で終わっているのは、すでに「母親は家庭に帰れ」という言葉が不正義だ、という意識が日本の女性の間で常識になりつつあるということ。少なくとも文化講演会に来るような人達の間ではそうなのです。これは少々恐ろしい。
 「母親は家庭に帰れ」という言葉が何を意味するか、しっかり考えてみる必要があると思います。心を澄まして考えれば、こんな言葉が存在することがそもそも変なのだ、と気づきます。「家庭に帰れ」という言葉が意味する状況は、母親は「家庭にいない」ということです。「帰れ」を否定することは、「いないほうがいい」を肯定することになるのです。
 「母親は家庭に帰るべき」なのでしょうか。それとも「母親は家庭を出るべき」なのでしょうか。
 人にはそれぞれの人生や運命があって、すべての生き方が違い、一律に論じることは出来ませんが、社会の常識、空気としてこの問題を考えることは大切です。空気は幸福観に関わるからです。
 「母親は家庭にすでにいる」ものなのでしょうか、「すでにいない」ものなのでしょうか。いま本当にマスコミなどで言われるように、「日本の父親達は家庭にいない」のでしょうか。
 「家庭に帰れ」「女性の社会進出」などという言葉を、夫婦で農業や漁業をやっている人達、商店を営んでいる人達が同じようなニュアンスで口にするでしょうか。どこからどこまでが「家庭」の内側で、どこからが外側なのでしょうか。境界線を実際に見た人はいるのでしょうか。「家庭」に屋根はついているのでしょうか。心の中の問題なのでしょうか。
 「女性の人権」を声高に叫ぶ人達が「家庭」や「社会」という言葉を使って議論する場合、結局その要求は「女性も大多数の男達がやっているような生活がしたい」という生活スタイルに関する要求であって、それを言うために「家庭」「社会」という言葉をうまく利用しているに過ぎないのです。「人権と平等」を叫ぶ人達の言う「母親は家庭に帰れ」と言う言葉の本質は、「母親は家事をやれ」という職種に関わることなのです。そして、仕事の種類を男女平等にすべきだ、というのがその主張の根底にあります。
 家庭の定義はそんなに単純なものではない。しかし、仕事の種類と考え始めると、学歴が高ければ高い程肉体労働、家事が馬鹿馬鹿しく思えるようになり、そのうち「子育て」という役割分担でさえ家庭内の「低級な役割」に見えてきます。この「子育て」を低級な「仕事」と見始めるところに、人間社会を根本から揺るがす危険がある。そこには明らかに次元を超えた混同があるのですが、言葉に縛られ、空論の積み重ねの中で生活している人達にはそうした次元の違いが見えなくなっています。意識的に見えなくなるように議論を進める人達も多いのです。
 地位の向上や経済的成功、「換金できるもの」が幸福論の中心になって来ると、それは既にパワーゲームの呪縛にかかっているということ。
 (私は独裁国家、全体主義国家、軍国主義国家を脱却した日本という国の状況に応じた人権論を論じているのであって、「人権」という言葉を使うことを否定しているわけではありません。人権と言う概念を使って社会改革をしなければいけない国や地域はまだまだ世界中にたくさんあります。その使い方もまた、バランス、落とし所の問題なのです。)
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 実は、外で稼いでくる男性が、きちんと収入を家庭に入れていれば、それはとても重要な「子育て」の分担をしているわけですし、その役割ですでに男性は立派に「家庭」に居る。「家庭」というのは主に人間関係であって、これは三次元に限られたものではなく、心とか魂と言われる次元の関係を大いに含むわけです。私達が亡くなった祖父母を覚えているとしたら、その人達もいまだに私達の「家庭」の一部です。それが具体的に現れるのが、仏壇であり、先祖を祭る祭礼です。世界各地に見られるミイラ信仰は、家庭の概念が、魂と遺体という次元を越えた存在であることを示しています。
 家庭は記憶や習慣、意識や文化という目に見えない要素を含んでいる。そう考えて、あらためてこの「母親は家庭に帰るべきだ」という言葉を思うと、私の言う「次元」「空論」「言葉遊び」「言葉に縛られる」という意味が見えてくると思います。
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 さて、家に居るよりも、男達主体でやってきたマネーゲーム・パワーゲームの方が楽しそうに見える。重要そうに見える。なぜでしょう。たぶんそれは外で働いていた方が、より沢山の情報に接しているような気がするからでしょう。自分が苦労して学校で習った情報が役に立つのではないか、と思うからでしょう。言葉の上に言葉を重ねてみたい、知識の上に知識を重ねてみたい、と思うのです。これはすでに言葉に支配され始めている考え方です。
 情報を沢山知って死んで行く方が得、満ち足りた人生なんだ、という錯覚はどこから来たのでしょう。これには義務教育の普及が関係がしています。自分で考える習慣を持っていれば、一生楽しめる情報や体験を既に持っているにもかかわらず、情報を得ることそのものに価値があるように思いはじめる。知識がパワーゲームの道具にされる近頃の風潮から来ているのでしょう。
 ここまで考えを進め、次に、誰が幸福か、幸福とは何か、という具合に考えを進めなければならないのです。
 そして、その幸福の比重を社会全体の幸福に置くのか、家庭、親子関係に置くのか、または個人に置くのか、ということを考え、これはバランス・落とし所の問題なのだ、と気づくわけです。それに気づけば、ただ単に「家にいるのは不幸だ」という風には思えなくなります。
 「権利」や「平等」という言葉を強く意識して、多くの男性たちが競争社会でやっているような暮らしを私達もしたい、働き方における男女平等こそが良い目標なのだ、という具合に一度洗脳されてしまうと、これは個人の幸福が優先することになってきます。そのように女性たちが考え、人生の幸福を仕事に見つけるようになることを否定するつもりはありません。幸福のものさしは人それぞれですし、過去の歴史から考えれば、いまこそ尊重されなければなりません。しかし、長い間やってきた「子育て」に重きを置く母親達の幸福論もまたいまこそ尊重されなければなりません。ましてや、腹を立ててはいけません。
 子育ては誰かがしなければいけない。これは我々が進化・存続しようとすれば逃れられない絶対条件です。太陽が毎日昇るようなもの。幸福の多くがここから生まれなければ、大自然の法則が狂ってくる。問題はここです。大自然の法則が狂ってきた時に何が起こるか、ということを少なくとも私達は欧米の状況から学ぶことが出来るではないか、というのが私の主張です。
 親が子どもの犠牲になることを嫌うと、子ども達の幸福が徐々に後ろの方に押しやられて行きます。大人達の方が子どもより強者だからです。そのうち、子ども達の幸福を社会やシステムが「福祉」や「法律」で考えなければならない状況まで進んでしまうと、もう手遅れです。
 子ども達の幸福と大人達の幸福が重なり合っていないと、それは本当の幸福、種の保存の理に適った幸福ではありません。しかもこれが重なり合っていないと幸福という概念の伝承ができない。子どもはやがて大人になる、ということを、花を見ながら、空を見ながら、ジッと考えてみれば、なぜ子ども達と親達の幸福がバラバラであってはいけないか、が見えてきます。
 私はいま、6歳までの幼児が親から虐待される悲しみを、もっとも許されない悲しみと決めて、親子関係に比重を置いた幸福論、そして、子どもを育てやすい社会を維持するための幸福論の重要性を主張しています。言い換えれば「家庭」に比重を置いた幸福論を推薦しているのです。大人達が自分達の「人権」を叫んで、大人主体の幸福を追求することが、結果的に大人達自身の不幸につながる、ということをアメリカ社会に見てしまった以上、子ども中心の幸福論を社会が支えることが大人達のためにも大切なのだと信じています。子ども中心の幸福論は、大人達を優しくするからです。
 あれほど女性の人権運動が進んだアメリカで、なぜ女性虐待が増えているのか。女性の4人に1人が一生のうち一度はレイプを経験する。毎年二千人以上の女性が夫に殺される。そして何よりも、3人に1人が未婚の母となり、ほぼ男の助け無しで子どもを育てて行かなければならない重圧は計り知れないものだと思うのです。大人達の個人的な幸福論は自分勝手な強者の幸福論だと思います。
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 古人類学における「家族」の定義

 富士町文庫の方からの手紙にあった「性的役割分担の押し付け」という言い方。困った現象なのですが、「性的役割分担の薦め」とか、「性的役割分担の人間社会における機能」、「性的役割分担が子育てに果たす役割」と言えばそれほど抵抗なく聞けるのに、「押し付け」と言われれば誰だって嫌な感じがします。人権屋とか弁護士、昔の左翼の生き残りが好んで使う手口で、言葉のニュアンスで事実を曲げるのです。「ラーメンの押し付け」と言われれば急にお腹がいっぱいのような気がしてきますし、「親切の押し付け」という言葉からも、あまりいいイメージは沸きません。でもラーメンも親切もそれ自体は悪い物ではないのです。こうした言葉遊びレベルの議論をしている暇は、私にはありません。どうぞご勝手に、という感じなのですが、実はいまマスコミと、それを囲む論客達のほとんどがこの実感の薄い空論に空論を重ねるレベルでエネルギーの無駄使いをしているわけです。
 最近は母親達でさえこうした人権言葉遊びをします。面倒なことです。保育者や教育者は是非このレベルの議論に巻き込まれず、子ども達の幸福、親子の幸福を親身に思いつづけてほしいものです。言葉のやりとりではなく、心のコミュニケーションが人生を豊かにするのです。
 私の講演が「性的役割分担の押し付け」かどうか、という議論にエネルギーを費やすくらいなら、「性的役割分担の押し付け」なんだ、と決めて、なぜこの人は「性的役割分担の必要性」を言うのだろう、という方向へ進んでいただければ良かったのに、と私は主催者の方に電話で言いました。そして、男女の違いがある人間の遺伝子は、自然界からの性的役割分担の押し付けではないか、と進み、これに反発すると、「親子の役割分担」が崩壊するのではないか、という所まで是非考えてほしい。
 親の役割は子どもを守り育て「犠牲」に幸福感を感じることを学び、それを次の世代に伝える。子どもの役割は親達の精神を浄化し、幸せの見つけ方を大人に教えることです。それが最近、親が幼児虐待をし、子どもが親をイライラさせる役割に転換してきている。この役割分担のずれが、言葉遊びから始まっているということ。人間が与えられた「子育て」における幸福感が、強いものが勝つ競争原理にしたがって、「平等」という言葉を起爆剤に大逆転現象を起こすかもしれない、という所まで考えを進めてほしいのです。
 「性的役割分担の押し付け」「母親は家庭に帰れ」、こうした言葉を聞いただけで、頑なに「不幸」の殻に閉じこもってしまう傾向がすでに社会の中に空気としてある。これが一番不幸なことだと思います。言葉に支配されるようになると、人間は不幸を指摘することにばかり気をとられて、幸福を感じる感性・感覚を失うのです。
 「性的役割分担の押し付け」に反発することが人間の遺伝子の中に組み込まれたいわば人類の運命だ、という風に私も考えないではないのです。そう考えると地球全体を見た時に、平等の名の元に「家庭」から崩壊しつつある欧米に反発するように、回教原理主義が「家庭」を基盤にいま非常に力を得、アフガニスタンやイランで、20年前まで解放に向かっていた女性達がベールを顔にかけはじめている、という現象が、地球全体の自然と人為的なものとのバランスをとる動きのようにも見えてきます。この両極へ進む動きがいつか正面からぶつかるのではないかと思うと、大自然の法則が一体どこにあるのか不安になるのです。
 「性的役割分担の押し付け」という言葉にひっかかって頭だけの理論、人権、平等、民主主義といった言葉に縛られた知的論争方法にいつまでもこだわっていると大変なことになるのではないでしょうか。こうした議論は確かにある時期、独裁とか全体主義、共産主義とか人種差別といった多くの人を不幸にしてきた人類の集団としての負のプロセスを打開するには必要でしたし、常にどこかで社会正義として、ある一定の水準で行われなければいけないのですが、いま、欧米の家庭崩壊を目の当たりにしてみると、そろそろ一歩後退して、幼児の幸福を家庭の基盤に考えた幸福論に戻らなければ、人為的な言葉と大自然の和解は不可能になってしまうのではないかと思うのです。先進国社会の中ではまだかろうじて「家庭」に幸福の基盤を置いている日本は、文化的歴史的に「大自然との和解」の機会を与えられています。
 欧米レベルの人権論議をしていると、いつの間にかアメリカのように「母子家庭じゃ駄目だから政府が孤児院を作って子どもを育てよう」「養育費を払わない父親からは運転免許証を取り上げよう」などという法案が議会に提出されるところまで進んでしまうのです。
 「大自然との和解」が不可能なところまで一旦行ってしまうと、やはり仕組みの中に答えを見つけようとするしか手段がない。私達は、人間社会が人権論議の果てにそうした極端に非人権的な方向に進むことによって軌道修正を図ろうとする可能性を欧米社会に見ているわけですから、その二の舞いだけは避けましょう。
 類人猿や原始人を研究する古人類学では、「家族」という概念は、男は狩りに出、女は子どもを育てるという労働の分業化が行われるようになって生まれた、と考えられています。これは言い換えれば、性的役割分担が薄れる時、家族という概念が薄れるということなのです。
 親の子育て観を変えることは社会全体の幸福論を書き直すことに他なりません。
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ジェンダー

 進化の過程で、ジェンダー、つまり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは「死」を手に入れました。

それまで、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのだと思います。

いま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっています。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴でしょうか。

性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という生を支えてきた意識を少しずつ失う。人類が注意を払わなければいけない、先進国社会で起こっている一つの流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な次世代に譲る幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい現実を生んでいる。

男らしさ女らしさがあって、「親らしさ」が存在する。親になることは、明らかに性的役割分担の結果です。子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ、「親らしさ」に移行するために必要なのが、「子育て」。しかし、パワーゲームに組み込まれた子育ての社会化が、親らしさという視点で心を一つにするという、古代の幸福感を揺るがしている。

死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は意味が異なります。死への恐怖は競争社会を生み、死への理解は人間を謙虚にし、調和に向かわせる。