「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている

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魂の次元のコミュニケーションが人間社会の土台として存在していて、その伝承が「生きる」喜びになる。それを、祈りという人たちもいれば、思いやりという人たちもいる。最近では、非認知能力と定義する学者もいる。音楽や舞踏などは、その次元をそのまま具現化しているから、私たちは、浅い、深いのちがいはあっても常にこの次元で会話をしている。この次元を互いに分かち合う人間は、宇宙における存在としては不思議で、その不思議さは赤ん坊との会話から始まる。(と私は言ってきました。)

すべての人が生まれてすぐ、実はこの魂の次元のコミュニケーションの源に位置し、それを体現していた。だから、人間たちは「宝」として、それを可愛がった。

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たとえば、子守唄という、始めは一方通行のように見える音楽の形が、人間のコミュニケーションの次元を広げ、種の存続にとって正しい方向へ人々を導いてくれる。子守唄は、人類を祈りという行動に誘う入り口にあって、道筋は、神々や、大自然や、自分自身との会話に繋がっていく。

先進国社会の子育てに、子守唄が聴こえなくなっている。それは、子育てに祈りが、欠けてきているということ。

こうした現象から人間社会の変化を感知してほしい。コミュニケーションの変質は、そのまま社会の変質でもあるのだから。

今、3歳までの幼児と話す機会を社会全体に、積極的に、意識的に取り戻していかないと、と私は言い続けてきた。

 

この映像は、私が作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」からの1シーンで、シャクティのメンバーでリーダー的存在のメリタの婚約式の場面から始まる。

 

その晩、突然激しい雨が降り出し、村全体が停電になった。インドの村ではよくあること。半分冗談のように、誰かが電線を盗んでいった、と一人がつぶやく。すぐにロウソクとランプの灯りが点けられ、思いがけず、つい最近まで、世界中で何千年も続いてきた人々の暮らしが照らし出された。

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幸運だった。嵐が、私に何か大切なことを告げようとしている、と感じた。

炎の揺らぎの中に、神や宇宙を感じる。人間は灯火(ともしび)のもとで心を合わせ、生きてきたのだ……。その風景は見事で、鮮明で、美しかった。

シスター・チャンドラは踊ること、太鼓を打ち鳴らすことでダリット(不可触民)の女性に対する差別や偏見と闘っていた。不可触民の「男性」に、しかも上位カーストの葬儀でしか許されていなかった太鼓を、女性が撃ち鳴らすことで、幾重にも作られた理不尽な壁を打ち破ろうとしていた。舞踏劇の一シーンでは、持参金(ダウリ)目的で台所で灯油をかけられて殺される妻たちが表現される……。

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私とシスターとの出会いも偶然だった。稀有の出会いがたぐり寄せたこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭で、長編ドキュメンタリー部門の金賞を受賞した。音楽は自分のアルバム「Stone Monkey」からCrowを使った。自分の撮った映像と以前作った音楽が不思議に、目的と時を超えて寄り添い、馴染んだ。

人間たちが積み上げ、深めてきた「絆」と、コミュニケーションの様々な手法や形がこの映像に集約された。その意思と意味を汲み取って、私は言い続けなければならない、そう思いながら編集した。

 

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、急激に希薄になっている。「子育て」と「教育」の混同から始まり、親を労働力にするために「子育ての社会化(制度化)」が進められている。子どもを育てる幸福感が、社会構造や人間の「気」の流れから突然欠落し始め、それに伴う家庭崩壊によって、保育や学校教育という制度そのものも危機にさらされている。

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日本の国会で、数年前総理大臣が、当時待機児童が2万人だったにも関わらず、あと40万人保育園で預かれば女性が輝く、と言ってしまった。子育てでは輝かない、経済活動に参加する方が輝く、と言うのだ。幸福を金額で計る近視眼的な経済界の都合が、そのまま国の施策となっていった。子育ては損な役割、イライラの原因というイメージづけが政府とマスコミによって繰り返し行われ、浸透し始め、しかも、論旨に差はあっても、三歳未満児をなるべく親から引き離そうとすることにおいては、与野党一致なのだから、私がいくら叫んでもどうしようもない。それでも、発言の機会が、国会や市役所や園長先生たちの勉強会、保護者会などで与えられてきたのだから、それがこの国の不思議さであり、ありがたい。

(今年は、コロナ問題で講演はほぼ全て中止になったが、それでも先日、参議院会館からズームを使って、地方議員の人たち100名くらいに発言する機会があった。去年、衆議院調査局が年に一度発行する「RESEARCH BUREAU 論究 第16号 2019.12」に提言論文を依頼され、「子供を優先する、子育て支援」―先進国社会における家庭崩壊にどう向き合うか―、というタイトルで書き、年末に発刊されました。衆議院のホームページで読むことができます。誰も聞いてくれなくなるまで、いい続けるしかない。)

保育園と「一緒に」子育てをしていた昔の親たちを覚えている園長先生たちが、顔をしかめて言う。たった十年くらいの間に、0歳児を十時間以上預けることに躊躇しない親たちが驚くほど増えた、と。年配の園長先生たちは、保育を商売とは考えない。保育所保育指針にも、保育園は「子どもの最善の利益を優先する」と書いてある。だから、経済学者たちが保育園の経営が安定していいだろう、くらいに思う、十一時間保育を「標準」と名付ける施策に心を痛め、顔をしかめる。そして「保育は成長産業」とした閣議決定を呑まざるを得ない補助事業としての立場に失望し、気力を失って引退していく。

「この人たちが居なくなったら、学校教育なんかもたいよ!」と叫びたくなる。この国が誰に支えられていたか、誰との会話によって耕されていたのか、経済学者はまったく気づいていない。

政府の思惑通り「保育はサービス産業」と本気で考える園長や理事長もいる。彼らは、政府の子ども・子育て支援新制度を「ビジネスチャンス」と宣伝するビジネスコンサルタントやフランチャイズ型の株式会社の進出に煽られ、保育士の質など考えずに、マネーゲームのように保育園を増やしていく。老人介護で露見した人材不足が生む「心ない福祉」が、保育施策を通して幼児たちの将来にどう影響を及ぼしていくか、政治家やマスコミは真剣に考えてほしい。

学級崩壊やいじめ、不登校、成人男性の早期退職、引きこもり、そして未婚率の増加、増え続ける児童虐待と女性虐待の数字を見れば、幼児期の子育てに関わる施策は、国家の成り立ちに関わる緊急かつ最重要課題だとわかるはず。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2822(全国で相次ぐ「保育士大量退職」:保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない)

 

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コロナウイルスの感染拡大の最中に、アメリカやフランスで、大学生や大人たちがマスクも付けずに「コロナ」パーティーで大騒ぎをしている姿が報道で流れてくる。(私は、NHKの世界のトップニュースやCNNなどで見ている。)映し出されるのは名門大学の学生たち。一体どうなっているのか、と驚いている日本人も多いはず。「一部の人たち」とは言い切れない異常さが、あのから騒ぎから見えてくる。

競争に駆り立てられ、優しさを失った人間たちの不穏な空気が欧米先進国を覆っている気がしてならない。傾向は、今年はじめにフランスで起こっていた労働問題のデモ行進が簡単に暴動につながってしまう風景にも見られたし、私は、二十六年前にロサンゼルスで起きた大地震の後の略奪風景からも感じていた。「人間性」と、人間たちが持ち合わせているはずの「社会性」が変質してきている。多くの人間の心の底に不平不満が蓄積し、行き場を失っている。それは多分、突き詰めて言えば、日本における「結婚しようとしない男たち」の増加という現象にもつながっている。

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アメリカで40%、フランスで50%の子どもが未婚の母から生まれ、実の親、血のつながりという概念が成り立たなくなっている今、子育てが、人間たちが信頼関係を育て、輝き合う瞬間だという意識が遠のいている。それにつれ、「利他」「思いやり」という他人の幸せを願う幸福論が希薄になっている。

経済競争を「輝く」手段と刷り込まれた人たちは、お金を稼ぎ、それを使うことで「輝く」と思い始める。稼いでも、使わなければ意味がない。そう思うように仕向けられている。それゆえに、コロナウイルスという「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている只中で、他人と自分の命をリスクに晒してでも、人生の価値を確認するように、尋常とは思えない刹那的などんちゃん騒ぎが広がっていく。高齢者でないかぎり死亡率は低い。ちょっとしたロシアンルーレットのようなギャンブル性が逆に、若者たちにとって魅力になっているようにも思える。

先週、トランプ大統領が選挙戦の最中、大学の人気フットボールリーグ「ビッグ10」の開催をうながし、病気になるのは疾患を持った太った高齢者だけだ、体を鍛えている君たちは大丈夫だ、と言い切った。”People don’t realize it’s a tiny percentage of people who get sick. They’re old. Especially old people with heart and weight problems.”

フットボールリーグのキャンセルが経済に及ぼす影響を考えているのだと思う。アメリカの大学スポーツ、特にフットボールとバスケットボールはプロ以上に人気があるし、開催されれば経済活動復活のシンボルになる。しかし、こうした明らかに弱者を軽視する発言を、国の未来を担っていく名門大学の若者たちに大統領が言ってしまっては、この先人種差別や格差の是正に向かう手立てが、ますます希少になっていく。

調和に向かうための社会全体に共通する常識や、それを支える「モラルや秩序」を考えた時、私は、こういう発言こそが問題だと思う。

その演説をテレビで見て、すでに犠牲者が千人を超えている医療関係者が肩を震わせて憤る。医療崩壊がいつ起きても不思議ではない状況の中で大統領がこれを言っては、隔離や自粛が絵空事になる。大統領には、教育機関が、ビジネスに貢献する以上に、または以前に、人間の品格とか人智を身につける目的がその土台にあったという意識がすでにない。

日本で、首相が「病気になるのは疾患を持った高齢者がほとんど、若者は重篤にならないのだから、経済を回すために積極的に旅行をしましょう」と言ったら大変なことになると思う。それが事実に基づいた発言であったとしても、高齢者(弱者)の気持ちを考えれば立場上言えるはずがない。欧米に比べれば、の話だが、この国は、まだ良識や常識が機能している国なのだ。そのことにもっと気づいて欲しい。この国も、土台から崩れ始めているのだから。

政府や経済界が、経済を回すために主導した子育てに関わる「弱者を忘れた」経済優先の施策が、先進国社会で行き詰まっている。それを、コロナ惨禍が浮き彫りにしている。大自然が人類に、コミュニケーションの原点回帰を要求している。

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(バイデン候補、副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員、元カリフォルニア州司法長官を選んだ。氏の亡くなった息子さんが二人を引き寄せた、というのも偶然ではないと思う。人は死んでも絆は続き、会話は続く。特に親子の関係はそういうもの。会話は永遠に続く。

カマラという名前はサンスクリット語で「紅い蓮の華」だという。母上がチェンナイ出身のインド人で乳がんの研究者。父はジャマイカ出身の経済学者。60年代の公民権運動に幼いカマラさんを乳母車に乗せて参加したというエピソードが、私たちの世代には懐かしい、微笑ましいイメージとして伝わってくる。

それは、「答えは、風の中に……」とボブ・ディランが大衆に唄い始めたころで、彼を見つけ出すことができた時代の幕は、その時すでに上がっていた。

「溺れる前に泳ぎ始めよう」と彼は続けた。

しかし、その後ベトナム戦争は激化し、若者たちの命を奪いながら泥沼化していった。敵は10倍の戦死者を出しているのだから、自分たちは勝っている、と言い続けた軍の上層部、そしてデモを抑えきれなくなった政治家たちが目指した『名誉ある撤退』のために、多くの若者が死んでいった。ヘリコプターの輸送力と先進医療のおかげで戦死する確率は低かったが、負傷する確率はほぼ百パーセント、だから全員勲章をもらった戦争は、当初、志願兵が主体になって成り立っていた。母親たちが育てた、愛国心を持った自慢の息子たちが倒れていった。

そして今、アメリカが抱える混沌は、「愛国心」を利用した利権争いになっている。同様の混沌が世界中に広がっている。国の定義に、幼児たちの日常が優先的に含まれない「愛国心」など、権力闘争の道具でしかない。)