市、虐待疑いの母 確認せず保育士に採用

堺・9歳暴行死:市、虐待疑いの母 確認せず保育士に採用 

堺市で今年2月、小学3年生の長男、福本陽生(はるき)さん(9)を殺害したとして両親が殺人容疑で逮捕された事件で、市は2日、大阪府警から虐待の疑いを指摘されたのに、本人に確認しないまま母親の裕子容疑者(34)を保育士として採用し、こども園で勤務させていたことを明らかにした。(毎日新聞)https://mainichi.jp/articles/20180803/k00/00m/040/194000c

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もう、限界は来ています。保育士は、ただの働き手、保育はただの仕事、就労支援とみなされている。人間性が問われていない。少なくとも幼児という絶対的弱者に日々関わる者としてのチェックが行われなくなっている。人選にほとんど注意が払われなくなっている。市の行政でさえそうなのです。募集しても倍率が出ない保育士不足が、資格さえ持っていればいい、という状況を生んでいて、現場は人を選べなくなっている。実は、数年前から公立の保育園でも起こっていたこと。私立では十年以上こういう状況が続いてるのです。

(千葉で保育士が警察に園児虐待で逮捕され、園長が取り調べに、「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言ったのが5年前、新聞の一面の記事になっていたのです。園長が悪い保育士を注意できなくなったら、家に帰って親にちゃんと報告できない3歳未満児を預かってはいけない。少なくとも、それを政府が奨励してはいけない。そういう危険性があることは伝えなければいけない。http://www.luci.jp/diary2/?p=779)

幼児の存在、願いだけではなく、安全性を無視して雇用・労働施策を進める政府や政治家、経済学者の保育施策に対する姿勢によって、行政も含め、現場が完全に追い込まれている。

子ども思いの保育士にとって、「大阪府警から虐待の疑いを指摘されたのに、本人に確認しない」行政の姿勢に対する、あきらめに近い失望感が、全国に蔓延してきています。

子どもに対する行動に疑問のある人を職場の同僚に抱えて保育をするということがどれほど辛いことか。見て見ぬ振りをせざるを得ない保育士の悲しみや、園児たちを守れない辛さが、幼児の日々の一瞬一瞬にどれほど影響しているか。幼児たちの日々が、この国の将来にどれほど影響するのか。ちょっと考えればわかるはずです。

そうした人間の心の動き、見えないところを想像し、乳幼児の願いを汲み取ろうとする能力が社会全体から欠け始めている。事故が起こらなければいい、表沙汰にならなければいい、親にバレなければいい、という問題では絶対にないのです。

人間社会が存続するために必要だった弱者を守ろうとする意識、社会というものを作ろうとする「意図」が変質してきている。

こんな状況を知らなかったとは、もう誰も言えない。

24時間型保育所を増やす、などと言っている東京都の知事も、現場が保育士不足によってこれほどにまで追い込まれている、ということは知っているのです。知らないとしたら、あまりにも勉強不足。保育施策を語る資格なしです。

この子どもを虐待し、殺害した容疑に問われている母親は保育資格をもっていたのだろうか。持っていたとしたら「資格」の意味が問われる。持っていないとしたら、誰でも保育士として雇うことができる仕組みの危うさが問われる。

以前、ある厚生労働大臣が「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と私に言ったことがある。「専門家」という言葉で誤魔化そうとする政治家、「専門家」という言葉に誤魔化される親たち、「専門家」という言葉に頼ろうとする一部の親たち、幼児たちの存在意義が見失われてゆく。親を育てる専門家(幼児)たちが、その役割を果たせなくなってゆく。

「専門家」が「専門家」を作り出すように見えてしまう学問や教育の普及が、本来の「人間としての感性、判断能力」を社会全体から失わせ、「人間としての成長」を危うくしている。絆をつくる役割分担から「心」を奪っていく。

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子育ては、経済的損失?

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 「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円 (民間研究所試算)」という新聞記事。テレビなど他のマスコミも一斉にニュースとして報道していました。

産まれたばかりの子が親と居たい、出産したばかりの親が子と居たい、そう思う気持ちを1.2兆円の損失と計算する経済学者たちの異常さ、馬鹿馬鹿しさ。それを真実のように報道する新聞の無感覚さ、いい加減さ。あきれるばかりです。いったい、いつからこんな世の中になっていたのでしょう。幼児期の子育てに関する常識はどこへ消えてしまったのでしょう。

ここでいう「損失」とは、誰にとっての損失なのか。子どもの立場にたった「損失」を誰か考えているのか。そうしたことを誰も、しっかり考えずに、情報は真実として流れていく。

経済と幸福は、本来一体でなければ意味がないはず。そして、幸福は金額で計れるものではない。そんなことは、昔話にだって繰り返し書いてある。

富を幸福と勘違いすると、弱者(特に幼児)の居場所、存在意義が消えてゆく。「いい加減にしてほしい!」と叫びたくなります。こういう報道の向こうに保育士不足のなかで、子育てを押し付けられ、立ち往生している保育士たちがいる。「学校を託児所だと思っている親が増えてきた」と悩む校長先生がいる。国が経済的損失1.2兆円を出さないようにするために、この人たちの精神的健康が崩れていくのを放置するのだとしたら、そして親たちの意識が経済優先、自分優先に変化していくのをそのままにしておくのだとしたら、その損失こそ計り知れないものなのだ、といつか気づくはず。それに、いま気づく学者や政治家はいないのか。

限られた財源の中で、こうした人間性に関わる意識の変化を補うために、保育を含む福祉や、学校教育の質がどんどん落ちてゆくのであれば、その損失の方がはるかに恐ろしい。子育てがたらい回しにされることによって、消えていくモラル・秩序に対応するために、司法や警察力に頼るのであれば、それにかかる経費はこの先加速度的に増えてゆく。
「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円」、こうした馬鹿げた計算の裏には、富を幸福と勘違いさせないと、資本主義は回らない、と思っている人たちがいる。でも、そのやり方はネズミ講と同じで、ごく一握りの人たちしか「幸福」を得られない。
子育ては、人間が損得勘定から離れることに幸せを見出す体験で、これをすると、優しさとか忍耐力といったいい人間性が社会に満ちてくるし、より多くの人たちが、信頼関係に囲まれる安心感を得ることができる。「自立」を眼差すことよりはるかに安定した「信頼関係」という幸福感を得ることができる。
イエスは、貧しきものは幸いなれ、と言った。お釈迦様も欲を捨てる方が幸せになれる、と言っていた。そして二人とも、幼児たちに指針を求めよ、と教える。砂場で遊ぶ幼児たちを眺め、なぜ彼らが一番幸せそうな人たちなのか、を考えれば、その人たちを見習うやり方のほうが、より多くの人たちが幸福感を得られる道だと思う。

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出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円 民間研究所試算

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018073090065813.html出産を機に仕事を辞める女性は年間二十万人に上り、名目国内総生産(GDP)ベースで約一・二兆円の経済損失になることが、第一生命経済研究所の試算で明らかになった。女性が仕事を続けられる環境の整備は、経済政策としても重要なことが裏打ちされた。 (奥野斐)

第一生命経済研究所の熊野英生(ひでお)首席エコノミストが、国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査などを基に試算した。

調査などによると、第一子を出産した女性のうち出産に伴い仕事を辞めたのは33・9%。同様に第二子出産を機に辞めるのは9・1%、第三子出産時は11・0%。二〇一七年に生まれた約九十四万六千人について、第一子、第二子、第三子以上の内訳を過去の出生割合から推計し、それぞれに離職率を掛け合わせ、出産を機に離職する女性は二十万人と算出した。

この二十万人は正社員七万九千人、パートや派遣労働者など十一万六千人、自営業など五千人。それぞれの平均年間所得を掛け合わせると計六千三百六十億円。これが消費や納税などに回らなくなるため、経済損失となる。

一方、企業の生産活動による付加価値のうち人件費は約半分を占める。熊野さんは、女性退職による生産力低下などの企業の経済損失は退職した女性の人件費とほぼ同額とみなすことができるとして、損失総額を一兆一千七百四十一億円と試算した。

また、企業などの育休制度の充実が、離職を食い止めていることも出生動向基本調査などから明らかになった。

第一子出産後に育休制度を利用して仕事を続ける人の割合は二〇〇〇~〇四年は15・3%だったが、一〇~一四年では28・3%とほぼ倍増した。

熊野さんは「企業にとっても、せっかく育てた女性を出産退職で失うのは大きな損失。離職者を抑えることが今の日本の課題。保育施設の整備や育休制度の充実が重要だ」と話す。

◆非正規の離職率は7割超

「子育てに専念したいという人も一定数いるだろうが、職場環境や雇用条件によって辞めざるを得ない人が多い」。女性の働き方の問題に詳しい労働経済ジャーナリストの小林美希さんは「出産退職」の現状をこう指摘する。

特に厳しい立場に置かれているのが、パートや派遣など非正規雇用やフリーで働く女性たちだ。今回の試算では、育休制度を利用して仕事を続ける人の割合が増えていることも明らかになった。しかし、出生動向基本調査によると、二〇一〇~一四年に第一子を産んだ妻の離職率は、正社員が約三割なのに対し、パート・派遣は七割を超えた。

小林さんは「女性の約半数は非正規雇用だが、育休取得者は全体の3%だけ。働き続けたいすべての人が育休を取れるよう国が法整備すべきだ」と指摘する。

長時間労働の是正など、出産後の働きやすさも課題だ。保育政策に詳しい第一生命経済研究所の的場康子主席研究員は「時間や体力面の不安で働き続けることをためらうケースもある。企業側の環境整備によって出産退職を免れる人は増えるはずだ」と分析。「企業は、女性だけでなく男性も育休を取りやすい環境づくりをすべきだ」と話す。 (坂田奈央)

(東京新聞)

保育園落ちた、万歳!

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「保育園落ちた、万歳!」という言葉が去年くらいから、子育て支援センターや子育て広場で聴こえてくるようになりました。落ちることによって正式に育休が伸びる、それを願っている人たちの間で密かに囁かれていた言葉ですが、普通の声で、普通の会話の中で言われるようになってきた。マスコミでも取り上げられるようになりました。

「なぜ、さっさと保育園に預けて職場復帰しないのか」という言葉に肩身の狭い思いをしていた親たちには、こうした報道がうれしい。小さいうちはなるべく子どもと居てやりたいという、ごく自然な感情が、非常識であるかのように否定されること、その雰囲気自体がおかしいのです。

50年前なら考えられなかったような保育界の非常識、11時間保育を標準と名付け、3歳未満児を40万人保育所で預かれば、女性が輝く、と首相が言ってしまう状況がこれ以上続くことが危ない。だからいい保育士がやめていってしまう。学校教育も追いつめられる。

質の低下を野放しにし、保育は成長産業などと閣議決定する政府の施策に騙されてはいけない。子育ての大切さに気づく親たちが現れています。3歳までにどれだけ話しかけられるか、どれだけ抱っこされるかで子どもの人生が変わる、親子の人生が変わる、それに再び気づき始めている。いまやっと流れが、また少し変わり始めている。

そうした報道記事の一つです。

保育園「あえて落ちる」人が続出する本質理由 「不承諾通知狙い」は良いのか?悪いのか?(東洋経済オンライン :保育園にあえて落ちるため、不承諾通知を狙う人たちがいる)

2018年2月、認可保育園に落選するために入れそうもない人気園を1園だけ希望する「不承諾通知狙い」の入園申請があることが話題になりました。待機児童問題が深刻化する一方で、この動きは何年も前からひそかに広がっていたようです。なぜそんなことが起こるのか。それは批判されるべきことなのか。「保育園を考える親の会」代表で保育事情に詳しい普光院亜紀さんが実情を掘り下げます。

(中略)

なぜ不承諾通知が必要なのか

 育休延長は、単純に育児休業期間が2歳までに延長されたのとは意味が違います。誰でもできるわけではなく、育休期間が終わる時点(1歳・1歳半)で認可保育園などの利用申込みをしたのに、保育園による保育が実施されないなど、やむをえない事情がある人にだけ認められるものです。

 この証明のために、自治体が発行する認可保育園などの「不承諾通知」「入所保留通知」(呼称は自治体による)が必要になります。

 「育休を延長できると聞いて安心してしまい、1歳前に入園申請をしなかった」

 「認可に入れそうもないから認可外だけ申し込んだけど、入れなかった」

 というような場合は、育休延長制度を利用する権利を失ってしまいます。

 そんな「うっかり」に注意を促すためもあったでしょう。1歳半までの延長制度ができた後から、ネット上に「不承諾通知のもらい方」を教える情報が流れ始めました。やがて、最初から育休を延長したい人たちの間で、「わざと落ちた」体験が共有されるようになりました。

(後略)

『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』という記事がありました。

朝日新聞デジタルに、『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』という記事がありました。https://www.asahi.com/articles/ASL5W4F1ZL5WTNAB00D.html

実は、友人(インドにいる教え子)からメールが来て、記事について教えてもらったのです。

「朝日新聞、真摯な姿勢で紹介してますね。全くその通りですよね。取り上げ方が丁寧でびっくりしました。萩生田さんを認める書き方ですね」と彼女は書き添えていました。読んでみて私も、そう思いました。

乳児(0歳、1歳児)の思いを想像する。

その想像が当たっているかどうかではなく想像すること、理解することではなく理解しようとすることが人間社会に必要な調和や絆の原点だと思います。人類の歴史をイメージすれば、つい最近まで、ほとんどの人間たちがなんらかの形で乳幼児と数年間は関わってきた。これをしないと人類は滅んでしまう。「子育て」という側面からすれば、ある一定の時期かもしれませんが、ほとんどの人間が自分の子だけではなく、子育てに関わり、その時期に幼児によって育てられ、遺伝子の大切な部分がオンになっていった、そう考えるのが自然でしょう。

現在の、追い詰められている保育事情や、国の雇用労働施策に煽られた親の子育てに対する意識の変化を考えれば、「赤ちゃんはママがいいに決まっている」といま発言することは、子どもの気持ち、そして多くの保育士たちの気持ちを代弁する大切な発言だと思います。政治家がそれを言わないでどうする。もう最後のチャンスかもしれない。この「気持ち」を無視続ければ、福祉や学校教育がもたない。社会で(仕組みで)子育てなど出来るはずがない。

(以下、記事の内容です。)

 自民党萩生田光一幹事長代行は27日、宮崎市内で「0~3歳児の赤ちゃんに『パパとママ、どっちが好きか』と聞けば、どう考えたって『ママがいい』に決まっている。お母さんたちに負担がいくことを前提とした社会制度で底上げをしていかないと、『男女平等参画社会だ』『男も育児だ』とか言っても、子どもにとっては迷惑な話かもしれない」と語った。

 党宮崎県連の会合で講演した。萩生田氏は「待機児童ゼロ」をめざす政府方針を紹介したうえで、0歳児保育をめぐり、「生後3~4カ月で、『赤の他人』様に預けられることが本当に幸せなのだろうか」と疑問を呈した。さらに「慌てずに0歳から保育園に行かなくても、1歳や2歳から保育園に入れるスキーム(枠組み)をつくっていくことが大事なのではないか」と訴えた。(小出大貴)

 萩生田氏の発言要旨は次の通り。

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 東京ではいま0歳の赤ちゃんの保育園が足りないことが問題になっていて、国では「待機児童0」を目指すと言っています。もちろん今の対処として待機している赤ちゃんを救済していくのは大事なことでしょう。しかしみなさんよく考えて頂きたい。0歳の赤ちゃんは生後3~4カ月で赤の他人様に預けられることが本当に幸せなのでしょうか。

 子育てのほんのひととき、親子が一緒にすごすことが本当の幸せだと私は思います。仕事の心配をせず、財政的な心配もなく、1年休んでも、おかしな待遇をうけることなく、職場に笑顔で戻れるような環境をつくっていくこと。もっと言えば慌てず0歳から保育園にいかなくても、1歳や2歳からでも保育園に入れるスキーム(枠組み)をつくっていくことが大事なんじゃないでしょうか。

 子育てというのは大変な仕事です。これを「仕事をしていない」というカテゴリーに入れてしまうのがおかしい。世の中の人みんなが期待している「子育て」という仕事をしているお母さんたちを、もう少しいたわってあげる制度が必要なんだと思います。

 (子育ての話のなかで)「お母さん」「お母さん」というと、「萩生田さん、子育てを女性に押しつけていませんか。男の人だって育児をやらなきゃだめですよ」とよく言われるんです。その通りだと思います。だけど、冷静にみなさん考えてみてください。0~3歳の赤ちゃんに、パパとママどっちが好きかと聞けば、はっきりとした統計はありませんけど、どう考えたってママがいいに決まっているんですよ。0歳から「パパ」っていうのはちょっと変わっていると思います。ですから逆に言えば、お母さんたちに負担がいくことを前提とした社会制度で底上げをしていかないと、言葉の上で「男女平等参画社会だ」「男も育児だ」とか言っても、子どもにとっては迷惑な話かもしれない。子どもがお母さんと一緒にいれるような環境が、これからはやっぱり必要なんじゃないかと私は思います。

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報道後、毎日新聞が萩生田氏の発言に対し、「父子家庭への配慮欠如」という記事を書いたそうです。「配慮」という言葉で、意図的に言論統制、言葉狩りが行われているような気がする。朝日新聞に載っている発言を読む限り、萩生田氏の発言は、自然な発言に思えます。「父子家庭への配慮欠如」という解釈や報道姿勢の方が「子どもにとっては迷惑な話」なのだと思います。(こういう配慮は、父子家庭にとっても迷惑な話かもしれません。「ママがいいに決まっている」という思いを噛み締めながら、ママの代わりはできない、という思いで頑張るから、より一層父と子の絆が深まるのではないか、そう考えることの方が自然だと思います。)

こういう不自然な「配慮」やあり得ない平等論で、「母の日」や「父の日」の行事が中止になっていったりする。それが人権先進国だと思っている人たちがいる。そういう人たちの平等という名のパワーゲーム、人権闘争に巻き込まれて、子どもたち(弱者)の権利や立場が失われてゆく。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1150:何かが麻痺している。)

よく考えれば父子家庭に母親が居ないという考え方がそもそも浅いのです。家族という概念は「意識」の中にあるもの。子どもがお盆に親の墓参りに来たら、親は死んでも「子育て」している、ということが忘れられている。

ママがいいに決まっている」と言われて傷つく父親はそんなにいない。そう感じる父親は、0、1、2歳児にあまり関わらなかったのではないか。まだ親に成りきれていない父親だと思います。0歳1歳の子育てを経験すれば、男には「お手上げ」の状況が必ずある。子育ては明らかに役割分担でなりたつのです。「ママがいいに決まっている」といわれて、そうだよな〜、と思う父親、それを補うために自らの、独自の絆を増やそうとする父親は、伸びしろのある父親です。子育ては一人でするものでもないし、出来るものでもない。

そして、実は「いい親でありたい。いい親になりたい」と思った瞬間その親はいい親なのです。子育てとはそういう次元のものです。

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先進国社会では、母親の孤立化が「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)という方向性を生んでいて、そこに「子育て」で儲けようという人たちが政府に奨励され、参入してきている。それもまた現実でしょう。だからこそ、「母親がいいに決まっている」という思いを噛み締めなければいけない。そして父親たちが相応の責任を感じ、母子のために頑張らなければいけない。

未婚の母から生まれる数が半数に近づいている欧米では多くの国で「実の父親」という概念がすでに形骸化しているのです。それで大丈夫なのか。仕組みで補えるのか。人類はかつて経験したことのない、家族という概念の崩壊に直面している。欧米で、子どもが18歳になった時に、実の両親が揃って家庭にいる確率が半数を切っている。当然のように、母親にはますます負担がかかり、女性たちが追い詰められている。同時に、義理の父親による虐待や近親相姦が異常に増え続けているのです。しかしそのような状況になっても、いまさら親子を引き離そうにも福祉という仕組みが人材的にも財源的にもまったく追い付かない。アメリカでは養子縁組が人身売買のような市場原理に頼らざるを得なくなっている。福祉や学校という仕組みで「子育て」をすることの限界を、すでに超え、市場原理がモラル・秩序を失い、社会全体が人間性を失っている。(捨てられる養子たち:http://www.luci.jp/diary2/?p=1413)

 

欧米ほどではないにしても、日本でも同様の福祉の限界、仕組みの崩壊が始まっていて、子育てを中心にモラル・秩序の崩壊が進んでいます。保育士・教員の不足、その質の低下という待ったなしの現状があって、それをみれば「仕組みで子育て」の限界点はすでに過ぎているのだと思います。何より、保育士たちが昔はどんな保育士たちも言っていた「ママがいいに決まっている」という感覚を失いつつある。あと40万人保育園で預かるなどという政府の目標が止まらない限り、ある一線を越えると引き返せなくなる。早く、子育てを家庭・家族に返していかないと、社会で子育てなどと言っている間に、修復できないほどに「家庭」は崩壊してゆく。

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萩生田さんの発言、三年遅いと思います。首相の側近と言われる人なら、「11時間保育を標準」と定義づけた今度の新制度が施行される前に、なぜ止めようとしなかったのか。その頃すでにこうなることは知っていたはずです。

でも、いまからでも言ってほしい。マスコミの反応など気にせずに、「右」だとか「左」だとかいうくだらない仕分けに囚われず、子どもたちの代弁者として、こんどはしっかり言ってほしい。

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ここ数十年に起こってしまった先進国社会における「孤立化」は、まわりに親身な相談相手がほとんどいないという、人類未体験の異常な「孤立化」です。それは「子育ての社会化」で起こった現象でもあるのです。相談相手ばいないと、子育てがますます辛くなる。その孤立化を少しでも解消するために、保育園や幼稚園、子育て支援センターなどを中心に、「子育てを通して」社会に絆と親身さを取り戻していく、土壌から耕しなおしていくしか方法はない。だからこそ、いま、「0歳の赤ちゃんは生後3~4カ月で赤の他人様に預けられることが本当に幸せなのでしょうか」という自問自答を社会全体で「優先順位」を見極めながらしなければならない。

 

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家事労働はまだしも、子どもに対する責任は確かに切れ目がない。必ずと言っていいほど目の前で怪我をしたりもしますから、そうなると言い訳が出来ない。祈ったり、謝ったりして暮らすしかない。三歳までの子どもを育てていると、常に、ヒヤヒヤする。でも、そのヒヤヒヤや、オロオロが親を育て、社会における親身な絆を育む。

子育ては、自分で判断し、想像し、創造しなければならないことがたくさんあるから、逃げ出したくなることもあるでしょう。本来、一人でやるものではないですし、必ず、一緒に祈ったり、一緒に謝ったり、一緒に喜んだりする人が必要になる。それが子育ての一番素晴らしいところです。

単純に、会社を辞めて子育てに逃げる人と、子育てから会社に逃げる人が居たとして、動機を比べてみると、どちらが幸せを探しているか、そんなことを、最近考えます。

本来逃げられないものから逃げられるようになった社会が、本当に幸せなのか。選択肢が増えるということは自己責任が増えること、実はそんなにいい事ではない。自己責任は自己嫌悪につながることが多い。自己嫌悪が人間には一番辛い。連帯責任か、神様の責任にするのが、絆に守られる人間社会を作るコツなのかもしれません。

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衆議院内閣委員会での森田俊和議員の質問です:それでも、無理な保育施策が進んでいきます。

こういう質疑応答が国会でなされている。

これから、幼児たちをどういう視点で眺めるか、幼児たちの人間社会における役割りをどのように再発見するか、そこに国のみらいのあり方がかかっています。

ここを間違うと、保育や学校教育だけでなく、この国のモラル・秩序、そして経済さえも崩れてゆく。

実の両親に育てられる子どもの方が少数派という欧米社会では不可能な「可能性」をまだこの国は持っている。

以下は、衆議院委員会での森田俊和議員の質問です。この時期に、この質疑応答がされたことに意味があるのです。議員には感謝です。

ここに出てくる保育施策に関する国の回答は、市区町の役場の返事と同じで、これだけやっていると言いながら、こんな対応ではまったく解決にならない。それは現場が一番わかっています。保育の質の低下、保育士不足は止まらない。答える側もわかっているはず。わかっていながら、無理な保育施策が雇用労働施策、保育は成長産業という閣議決定の元に進んでゆく。

しかし同時に、一連の国の回答の中に、保育者体験を中心に、これを徹底して進めていけば自浄作用や自然治癒力が働く、という施策もすでに入っている。ここが重要です。今すべきことは、すでに法律の中で言われている。出来ることです。

 

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森田委員 希望の党の森田俊和でございます。

(前略)

そこで、まず議論の前提として、松山大臣にお伺いさせていただきたいと思いますが、この少子化の原因、どのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。

松山国務大臣 お答えいたします。

森田委員に御指摘いただいたように、昨年末公表されました平成二十九年の人口動態統計の年間推計ですけれども、これにおきましても、平成二十九年の出生数は九十四万一千人と過去最少となっておりまして、出生数から死亡数を引いた自然増減数もマイナス四十万三千人と、過去最大というふうになっております。また、婚姻件数におきましても、戦後最少の六十万件という状況になっておるところでございます。

少子化の問題は、若者の、一つは経済的な不安定さというもの、また長時間労働、あるいは仕事と子育ての両立の難しさ、また子育て中の孤立感あるいは負担感、そして教育費の負担の重さ、あるいは身体的な理由や年齢的な理由、これら、結婚、出産、そして子育ての希望の実現を阻むさまざまな要因が絡み合っているものというふうに認識をしているところでございます。

森田委員 どうもありがとうございます。

子供が少ないという問題でございますけれども、更にもう一歩踏み込んで考えてみますと、先ほど御答弁の中にもちらっとお話が出てまいりましたけれども、子供が少ないという前に、まず、結婚をされないという方がふえておられます。この未婚率の増加ということについても、あわせて大臣から御答弁をお願いしたいと思います。

松山国務大臣 お答えいたします。

未婚率ですけれども、我が国では五十歳時点での未婚者の割合が、平成二年の段階で、男性で五・六%、女性で四・三%でございました。二十五年後の平成二十七年のデータを見ますと、男性で二三・四%、約四倍になっております。女性で一四・一%に上昇しているところでございます。

国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査によりますと、若い世代では、男女ともに、いずれ結婚するつもりと答える人たちは約九割いらっしゃるんですけれども、その一方で、結婚の意思のある未婚者が独身にとどまっている理由ということでお聞きすると、適当な相手にめぐり会わない、あるいは結婚資金が足りない、また、まだ必要性を感じない、自由さや気楽さというものを失いたくないというものが挙げられておりまして、特に、結婚資金が足りないという項目と仕事に打ち込みたいとする理由は上昇傾向にございます。

こういう状況でございます。

森田委員 どうもありがとうございました。

このあたりのことが、恐らく、いろいろな議論の出発点になってくるんだろうなというふうに思っております。

御答弁の中にもございましたけれども、お金の問題もあると思います。自分が食べていくのに精いっぱいだということでは、とても、結婚しよう、子供を持とうという気にはなりません。これもわかります。また、労働時間が長いと、自分の時間が持てないということもあろうかなと思います。家族や友人と過ごす時間、あるいは、趣味やスポーツに使える時間、地域のことに使える時間。残業だったり休日出勤であったり、こういうことで自分で使える時間が少ないと、とても家族を持とうという気になれないというのは、確かにそのとおりだなというふうに思っております。

確かにそういった原因もあるかなとは思っておるんですけれども、これは私は今の日本の根本的な問題だなというふうに思っているんですが、私たちは一体何のために生きるのかということが、ちょっと違う方向に行ってしまっているのかなという私は危惧を抱いております。

例えば、よい給料をもらうだとか、あるいは出世をするだとか、確かにそういう成功といったようなものも大事かもしれませんけれども、そのために生きているのではないというふうに思います。例えば、よい学校に入って、よいお給料をもらって、出世して、それでどうなのかということが大切になってくるのではないかなというふうに思っております。

これは国に当てはめてみましても同じことが言えるんじゃないかなと思っておりまして、例えば、国の経済が成長する、GDPが幾らになった、こういうことも確かに大事なことだとは思いますけれども、では、例えば、成長したらどうなるのか、GDPが上がったら何が私たちの人生にとってプラスになるのか、よいことがあるのかということが、なかなか、まあ、これは誰ということではなくて、社会全般の風潮として、見えてきていないという気がしております。

私は、もちろん経済を否定しません。経済は大事です。しかし、経済だけで人間は幸せになれないということも、また一つの考え方だろうというふうに思っております。

心理学者のマズローという人がいますけれども、欲求五段階説を唱えました。第一段階では、飲んだり食べたりする生理的な欲求、第二段階では、安心、安全の欲求、第三段階は、社会的な欲求、すなわち、家族がいたり、友人がいたり、地域の人たちとのつながりがあったり、人間はこういうことを求めるというのが第三段階に来ておりまして、さらに、第四、第五と行きますと、尊厳であったり自己実現の欲求というふうに続いていくわけです。

どうも、この五段階に当てはめてみますと、私たちの身の回りというのは、大体この第一段階、第二段階ぐらいまででとまってしまっているような気が私はしております。よいお給料をもらえればそれで幸せになれるということではなくて、人間同士のつながりがないと第三段階に行けないということでございまして、こういった基本的な人生に対する考え方というものが共有できない限りは、いつまでたっても、経済だけでは何となく満たされない生活、何となく満たされない人生ということになってしまうのではないかなというふうに思っております。

こういったことを踏まえて、保育のことについて伺っていきたいなというふうに思います。

先ほどの御答弁の中で、子育ての負担というお話が出てまいりました。負担が大きいというお話が出てまいりました。確かに、乳飲み子を育てる、きかん坊の幼児を育てるというのは大変な御苦労があると思います。

そこで、お伺いをさせていただきますけれども、まず、保育所の最も重要な役割というのは何でしょうか。御答弁をお願いします。

成田政府参考人 お答え申し上げます。

保育園は、保育を必要とする子供の保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする児童福祉施設でございます。

このため、保育園では、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携のもとに、子供の健康と安全を確保しながら、その状況や発達過程を踏まえた、きめ細かな養護及び教育を行っていくことが求められております。

また、保育園は、入園する子供を保育するとともに、家庭や地域のさまざまな社会資源との連携を図りながら、入園する子供の保護者に対する支援や地域の子育て家庭に対する支援等を行う役割も求められているところでございます。

森田委員 ありがとうございます。

御答弁の中に保護者の支援というような言葉が出てまいりましたけれども、これが二番目に来るということでございまして、まず初めに来るのは健全な心身の発達ということで、子供たちのためにあるのが保育所だということになります。

しかし、私たちが子育て支援の政策を考えるときに、一体子供たちが何を望んでいるのかということを聞いているかといえば、これは聞くことができません。しゃべれない乳児、乳幼児にそれを聞くことはできないわけでございます。でも、やはり恐らくは親と一緒にいたいというふうに思っているはずです。私も、小さいころ、年少のときだったと思いますけれども、登園拒否を、保育園に行かないということをやりましたので、その気持ちは痛いほどよくわかります。

こういった子供の思いとは別のところで、これまで大人の都合で、受皿を五十万人ふやすということで保育所などの増設をやってきているわけです。その結果、確かに保育の施設はふえております。しかし、今度はそれを担う人材、人手が足りないという問題が出てまいりました。

私は、親心を育む会というのがあるんですけれども、これは主に埼玉県内の保育園の園長先生ですとか主任の先生方の勉強会なんですけれども、このメンバーに入れていただいておりまして、いろいろな話をさせていただいております。例えば、三人保育士を募集したいというところに応募が二名しか来なかったというような状況があるということもございました。この人はどうかなと思っても、どうかなというのは、割と否定的な意味でどうかなと思っても、配置基準の問題が当然ありますので、法規上採らざるを得ないというようなことが出てきております。

そこで、伺いたいと思いますけれども、保育士の不足の問題、これについてはどういうふうに捉えていらっしゃいますでしょうか。

成田政府参考人 お答え申し上げます。

保育の受皿整備に伴って、全国的に保育士の有効求人倍率は高い水準で推移しており、保育人材の確保を図ることが重要であると認識しているところでございます。

このため、保育人材の確保に向け、政権交代後、合計一〇%の処遇改善を実現するとともに、これに加えて、技能、経験に応じた月額最大四万円の処遇改善を行ったところでございます。

また、平成二十九年度補正予算及び平成三十年度予算において、昨年度の人事院勧告に伴う国家公務員の給与改定に準じた一・一%の処遇改善を行ったところでございます。

さらに、昨年末に閣議決定されました新しい経済政策パッケージでは、保育士の確保や他産業との賃金格差を踏まえた処遇改善に更に取り組むこととし、二〇一九年四月から更に一%の賃金引上げを行うことを盛り込んでおります。

こうした処遇改善のほか、新規の資格取得、就業継続、離職者の再就職といった支援に総合的に取り組むことにより、保育人材の確保に努めてまいりたいと考えております。

森田委員 ありがとうございました。

いろいろと処遇改善をしていただいたりということで、いろいろな対策をとっていただいているということでございますけれども、現実としては足りていないという状況がございます。現場は今、大変な状況になっているというお声が聞こえてまいります。場合によると、今までは採用できなかったような方まで採用しないと手が追いつかない、そういう状況になっております。そうすると、当然の流れとして、今度は保育レベルの低下というような問題が出てきてしまいます。

さらに、お伺いをさせていただきますけれども、こういった人手不足の中で、保育所はその役割を適切に果たしているというふうにお考えでしょうか、お答え願います。

成田政府参考人 お答え申し上げます。

保育園等における保育は生涯にわたる人格形成の基礎を培うものであることから、保育の受皿の拡充と同時に、保育の質の確保、向上を車の両輪として進めていかなければならないと考えております。

このため、保育園の保育の質や子供の安全を確保するため、各都道府県等において、毎年一回以上、人員配置基準を満たしているか等について実地監査を行う仕組みとしております。

また、保育の質の向上に向け、保育人材の専門性の向上を図るため、平成二十九年度には、技能、経験に応じた月額最大四万円の処遇改善の仕組みを創設するとともに、乳児保育、障害児保育、保護者支援、子育て支援といった職務分野に対応した研修の体系化を行い、保育士等キャリアアップ研修を創設したところでございます。

保育園の役割や機能が適切に発揮されるよう、こうした取組を通じて、引き続き保育に携わる方の専門性の向上を図り、保育の質が向上されるよう取り組んでまいりたいと考えております。

森田委員 ありがとうございます。

お話、御答弁にありましたように、指導監督をしていただいている、都道府県、小さい規模の保育所ですと市町村が見ていただいているということでございますけれども、しかし、現場に近い方でしたらおわかりになっていらっしゃることだと思いますけれども、今、ブラック保育園といったような言葉まで出てきているほど、保育所での虐待が深刻な状況になってきてしまっているということです。

先ほど人格形成というお話もございました。確かに、特に生まれてからゼロ、一、二歳という間で、人間関係、例えば愛情を受けて、信頼関係を親との間で築いていくとかいうことも含めて大事な時期なわけでございますけれども、乳児にかなり深刻な虐待が出てきているという例で、例えば手足を縛る、こういう拘束ですよね、あるいは話しかけずに放っておく、ネグレクト、こういった実態がございます。

ゼロ、一、二歳児は人手がかかるということでございまして、三歳以上はクラス単位で保育士さんがクラス担任として見るわけでございますけれども、ゼロ、一、二歳児は、例えばゼロ歳児で見ますと、配置基準で三人の子供さんに対して保育士さんが一人というようなことでございまして、複数の保育士でかかわっていくということになってきております。待機児童も、このゼロ、一、二歳の層がどうしても多くなってきております。

ここで確認をさせていただきたいんですけれども、ゼロ、一、二歳児の保育に係る一人当たりの保育の費用、おわかりになりますでしょうか。

小野田政府参考人 お答えいたします。

保育を利用している児童の一人当たりの費用についてでございますが、財務省の財政制度等審議会の分科会において示された資料によりますと、国の基準に基づく平成二十九年度の予算上の平均値ではございますが、市立保育所等を利用する場合、ゼロ歳児は月額二十万六千円となっており、そこから利用者負担額の月額平均三万六千円を引いた月額十七万円が公費負担額でございます。一、二歳児は月額十二万八千円となっており、そこから利用者負担額の月額平均三万六千円を引いた月額九万三千円が公費負担額となってございます。

なお、当該額でございますが、あくまでも国の予算上かつ平均値の数字でございまして、実際には、各自治体において独自の負担で上乗せ補助を行っているところもございますので、これよりも多い場合がございます。

森田委員 平均値というようなお話がありましたけれども、二十万というのは本当にその一部であろうと思いまして、もっと大きな額のお金がここに注ぎ込まれているというのが実態でございます。

実際の、実際というか、親御さんの負担そのもので見ますと数万円という負担になってくるわけですけれども、公費ということを考えますと、何十万という額の保育のお金がそこには注ぎ込まれているということでございまして、待機児童の問題を考えても、また、先ほどのゼロ、一、二歳の、特にそういった小さい乳児の保育のコスト面を考えても、やはり乳児を預かるというのは、現実的にはもう限界に近いところまで来ているのかなというふうに思っております。

今は、枠をふやすたびに新たな需要を掘り起こしているというような状況になっております。数万円で預けられるということで、私も預けようという流れになってきているという面もあろうかなと思います。これは保育の人手という意味でも限界ですし、また、子供たちのことを考えると、やはり親元にいたい、親御さんが育てられるということが好ましいということもあろうかと思います。

鳥取県で、ゼロ歳児を自宅で見ているお宅に三万円を上限として子育ての手当を出すという制度が、これは二十九年度の制度として始まったというようなことがございました。これは一つの考え方かなというふうに思っております。

そこで、お伺いしたいのですけれども、ゼロ、一、二歳児、なるべく親御さんに育てていただくという意味で、子育て支援の給付を行っていくということについてはどのようにお考えでいらっしゃいますか。

小野田政府参考人 お答えいたします。

働くことを希望する人が仕事と子育てを両立できるよう、保育所の受皿整備などの環境整備に取り組むとともに、御自宅で子育てをされている方々への支援もあわせて実施していくことが重要であると認識してございます。

そのような観点から、例えば児童手当につきましては、ゼロ歳から二歳児までの児童に対しては五千円加算し、月額一万五千円を支給することとしており、また、御自宅で子育てをされている方々への支援といたしまして、例えば、一時預かり事業の実施、親子の交流や子育てに関する不安、悩み等を相談できる場としての地域子育て支援拠点、妊娠期から子育て期までの切れ目ない支援を行う子育て世代包括支援センターの整備などを進めているところでございます。

現金給付と現物給付のバランスを踏まえつつ、全体として子育て世帯への充実した支援が行われるよう、引き続き取り組んでまいりたいと考えてございます。

森田委員 当然、財源、お金の話になってまいります。しかし、今後のさらなる需要の増大といったものも含めて考えますと、ゼロ、一、二歳児の保育の枠を確保するのにかかる費用、これからかかるであろう費用、それから何よりも保育の現場の深刻さといったものを考えますと、こういった給付も現実的な選択肢になってくるのではないかなというふうに考えております。

その際には、先ほどお話にもあったように、支援拠点、支援センターを、親御さんを孤立させて負担が集中し過ぎることがないようにしないといけないというふうに思っておりますので、そういった支給と支援センターといった意味で、セットで支援をお願いしていきたいなというふうに考えております。

私が日ごろ、すごく難しいなと思っておりますのは、保育は単なるサービスではないということですよね。子供たちの人生の本当に最初の、最初の最初の部分を形づくっていくという大切な役割を担っていただいております。子供たちのためということもあり、また、親も子育てをしながら親として成長していくという面もございます。

(中略)

特に男親は、形式的には親になったとしても、本当の意味で親になるというのがかなり難しいことだというふうに思っております。自分で経験しないと、なかなか親になり切れないという面もあるんじゃないかなと思っています。

そこで、保育所をふやすのはやむを得ないとしても、せめて親としてのかかわりを密にしていくべきだろうということを考えております。

そこで、保育士体験のことを取り上げてみたいと思います。

保護者による一日保育士体験を全ての幼稚園、保育園、それから認定こども園で取り入れていただきたいというふうに考えておりますけれども、いかがでしょうか。これはそれぞれの御担当でお答えいただきたいと思います。

成田政府参考人 保育園についてお答え申し上げます。

厚生労働省では、保育園が行うべき保育の内容等について定めた保育所保育指針において、「保育の活動に対する保護者の積極的な参加は、保護者の子育てを自ら実践する力の向上に寄与することから、これを促すこと。」との内容を盛り込んでおり、保育園と保護者との相互理解の観点から、保育園における保育活動への保護者の参加を促しているところでございます。

本指針を踏まえ、各保育園において、保護者の就労や生活形態にも配慮しながら、一日保育士体験など、保育活動への保護者の積極的な参加の機会を提供いただきたいと考えております。

小野田政府参考人 認定こども園についてお答えいたします。

幼保連携型認定こども園の教育及び保育の活動に保護者が積極的に参加することは、保護者の子育てをみずから実践する力の向上に寄与するだけでなく、地域社会における子育てをみずから実践する力の向上や子育ての経験の継承につながるきっかけとなります。このため、幼保連携型認定こども園教育・保育要領におきましては、このことを記載するとともに、「保護者の参加を促すとともに、参加しやすいよう工夫すること。」としてございます。

本教育・保育要領を踏まえ、各園におきましては、保護者の生活形態が異なることへの配慮や、保護者参加の意義や目的についての理解を高めるための努力を行いながら、保護者が一日を通してかかわることも含め、保護者が参加できる時間や日程を選択しやすくするなどして、保護者の積極的な参加を促していただきたいと考えてございます

白間政府参考人 幼稚園についてお答えさせていただきます。

幼稚園におきましては、幼児期の教育に関する保護者からの相談に応じたり、あるいは必要な助言を行う、こういった積極的に子育ての支援を行うということが重要だと考えております。

幼稚園の教育要領がございますけれども、この中では、子育ての支援のために幼稚園と家庭が一体となって幼児とかかわる取組を進め、「地域における幼児期の教育のセンターとしての役割を果たすよう努める」、こういった記述がなされているところでございます。

各幼稚園におきましては、こうしたことを踏まえまして、例えば保護者が教諭とともに保育に参加をする取組ですとか子育て公開講座の開催、こういったさまざまな取組が地域の実情に応じてなされていると承知しております。

文部科学省としては、今後とも、こういった子育て支援の取組が充実するように努めてまいりたいと考えております。

森田委員 ありがとうございました。

国が親に対して子育てにもっと参加しなさいと言うのは大変難しいと思いますし、また、国から強制するというのもまた違うことだと思いますけれども、ぜひ、よい例を積極的に紹介をしていただきたいなというふうに思っております。

自治体でも大分取り組むところがふえてきておりまして、私も県議をやっているときから埼玉県にはかなりお願いをしてきたんですけれども、埼玉県も全県で取り組んでおります。私も、子供が保育園に通っているときには保育士体験に行きました。先ほど申し上げた親心を育む会というところのホームページには、多くの体験談、親から寄せられた体験談が載っております。

保育士体験をやれという話をすると、一日保育園なんかにいられるか、俺は仕事で忙しいんだという親御さんももちろん出てくると思います。でも、ぜひやってみてください。やっているうちに、できる親から体験に来てくれます。そうすると、子供たちは、うちはいつ来てくれるの、そういうふうに子供たちから自分の親にリクエストが出てくるというふうになるわけですね。

子供が小さいときなんというのは、ほんの何年間しかないわけです。そのうちの年に一日有休がとれないような、そんな社会には私はすべきではないというふうに思っております。親もせめて子供のために年に一日有休をとってもらいたいなと思うし、会社もそれを温かく認められるような、そういう社会になれば、日本は私は必ずよい国になるというふうに思っております。

特に、男親を引っ張り出すようにうまく誘導していただきたいなと思います。殺伐とした大人の社会、競争社会をいっとき抜けて、子供たちの輪の中に入る。学歴、肩書、一切関係なし。子供は親を、親の心を見ます。ああ、これが人間本来の姿だ、本来の世界なんだなということを感じていただくことができると私は確信をいたしております。ぜひ、これは世の中を変えることだと思っておりますので、取組をお願いできればなと思っております。

また、次の質問ですけれども、これからの日本を担う若い世代に乳幼児とのかかわりを身をもって体験していただきたいという意味で、一日保育士体験を小学校の高学年あたりから大学でカリキュラムに取り入れていただけないものかなと考えておりますけれども、いかがでございますか。

白間政府参考人 お答え申し上げます。

初等中等教育、小学校、中学校、高等学校におきましては、学習指導要領が定められておりますけれども、ここにおきましては、保育や乳幼児との触れ合いなどに関する教育を行うこととされております。

具体的に申し上げますと、小学校の家庭科、これは平成二十九年に新しく改訂をしておりますけれども、この中では、家族や地域の人々とのかかわりについて学習をする際には、幼児など異なる世代の人々とのかかわりについても扱うことといったことを新たに規定をしたところでございます。

また、中学校の技術・家庭科におきましては、幼児とのかかわり方を学ぶ際に、幼児との触れ合いができるように留意することといった記述。

また、高等学校の家庭科の家庭基礎におきましては、子供の生活と保育ということを学ぶ際に、乳幼児との触れ合いや交流などの実践的な活動を取り入れるよう努めること、これを引き続き明記をしているところでございまして、これを受けて、各学校、地域の実態に応じて乳幼児と触れ合う活動が行われている、このように承知をしています。

また、大学につきましては、御指摘のとおり、大学の自主的、自律的な判断でカリキュラムが編成されますので、なかなか義務づけということは難しゅうございますけれども、一方で、少子化等に関する問題について学生がみずからの問題として考える、あるいは対処できるようにする、こういった観点から、保育士体験は重要な機会になることもある、このように考えております。

文部科学省としましては、関係省庁とも連携をしながら、子育てについて実感を持って学んでいけるような、そういった教育が充実できるよう努めてまいりたいと考えております。

森田委員 ありがとうございます。

昔というか、何世代か前の日本の社会であれば、自然と身の回りに親戚だとか近所の子供たち、乳幼児がいるという、かかわりを持つというような生活が当たり前に行われていたわけでございますけれども、今それがなかなか難しい社会になってきている。

ぜひ、これから子供たちとのかかわりの中で、子供、乳幼児のすばらしさ、ひいては家族のすばらしさ、とうとさを感じてもらうことができる、こういった取組をうまく誘導していただきながら進めていただきたいなと思います。

こういった若いときに、これから数年後に結婚したり家庭を持つといった世代にその意義を身をもって感じてもらえるということが、子供を大切にする社会の基礎、基盤をつくるものというふうに思っておりますので、ぜひお願いできればなと思います。

さらに、お尋ねをいたしますけれども、一日保育士体験を学校の教職員の研修に取り入れていただきたいなと思いますが、これについてはいかがでしょうか。

白間政府参考人 お答え申し上げます。

教職員が保育士の業務を体験する、こういった御指摘でございますけれども、これは、福祉の現場における社会経験を積むことができるといったことのほかに、やはり、幼児期における教育と小学校における教育の円滑な接続、こういったことを図る上で効果が期待できるものと考えております。

教職員の研修でございますけれども、基本的には、研修を実施される都道府県教育委員会等においてその内容を検討していただくという必要がございますけれども、現実にそれぞれの地域においては、例えば教職五年目の小学校、中学校の教員が保育所などで体験研修をする例ですとか、あるいは、小学校の教員を対象として、保育所などで一定期間研修をするといった例が現実にございます。

こういったことも含めまして、文部科学省としましては、それぞれの地域において、その地域の実情を踏まえながら、こういった研修が充実するよう、また努めてまいりたいと考えております。

森田委員 おっしゃるとおり、学校の問題というのは、保育園、幼稚園からずっとつながってきている問題なわけです。例えば小一プロブレムへの対応といった意味でもそうだと思いますし、それから、今、若い世代の先生方がとてもふえております。団塊世代の先生方が退職をされて、若い世代の教員の方がふえております。特に若い先生方が、今、生意気なことを言っている子供たちの、そのルーツがどういうところなのかということを身をもって認識をしてもらうだけでも、とても、教育の現場に立つ先生方にとっても貴重な機会だと思いますので、ぜひ、実際に研修をされているのは市町村、あと都道府県だと思いますけれども、促しをしていただきたいなと思います。

まとめの質問になりますけれども、最後に松山大臣にお伺いをさせていただきます。

少子化に歯どめをかけるべく、ぜひ、五十年、百年といった長期的な視点も含めて、御決意をお聞かせいただきたいと思います。

松山国務大臣 お答えいたします。

御指摘のように、日本は、急速に進む少子高齢化という、まさに国難ともいうべき課題に直面をしているところでございます。人口減少が進む中に、この少子化のトレンドに歯どめをかけることが喫緊の課題でございます。

先ほど参考人からも御答弁ありましたように、働くことを希望する人が仕事と子育てを両立できるように、保育の受皿整備を、しっかりと環境整備に取り組む、また、御自宅で子育てをされている方々への支援、これもあわせてしっかり実施をしてまいります。

これらのほかに、長時間労働の是正や同一労働同一賃金の実現等の働き方改革、また不妊治療への支援、さらには幼児教育、保育の無償化、また真に必要な子供に限った高等教育の無償化、加えて、育児休業等の取得を促進する機運の醸成というものを、しっかりと関係省庁と連携して取り組んでまいりたいと思っております。

また、現在、社会全体で取り組むべき対応策ということで、幅広い視点から検討するために、少子化克服戦略会議というものを設けまして、この会議においても、その成果を早く、できることから速やかに実施をすべく取り組んでまいりたいと思っております。

森田委員 大臣、ありがとうございました。

心理学者、精神科医のビクトール・フランクルは、人間は楽を求めるのではない、価値ある目標に向かって困難を乗り越え、それを達成することで人間は幸福を感じることができるというふうに言っております。

子育てはとうといものです。大変ですけれども、それを親子一緒になって乗り越えることで、人間は幸せを感じることができます。子供がいて、家族がいて、大変なことはたくさんあるけれども大きな幸せを感じることができる、そんな社会、国に向けて政策を組み立てていき、また実践していただくことを切にお願いをして、私の質問を終わらせていただきます。

ありがとうございました。

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http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000219620180411009.htm

#11 保育と教育は違う。「子育て」と「教育」はもっと違う。

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#11

教育という視点:

講演依頼を受けた保育士会から質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

小一プロブレムや学級崩壊の問題に加えて、大学を卒業、就職した若者たちの半数が会社に入って三年も続かない、そんな話を耳にします。確かに中学生くらいでも、特に男の子が幼い。私も時々中学校で全校生徒に講演するので感じます。いい子たちに見えるのですが、何かが欠けている。そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。これが少子化の一番の原因でしょう。男たちが、どう生きていいかわからなくなってきている。意欲や忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、誰かの幸せを願うという幼児と接していれば自然に湧き上がってくる「生きる力」が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにあるのではないか、と想像します。だから、いま中学生たちを繰り返し幼児の集団と出会わさなければいけません。http://www.luci.jp/diary2/?p=260

でも、学者たちは幼児たちが人間社会にモラル・秩序を生み出していたことにさえ気づいていない。

大学教育が駄目なんだ、それ以前の高校教育が悪い、中学生活が鍵を握っている、小学校が混乱している、と順番にいろいろ言われ、仕組みの中での責任転嫁を重ね、いよいよ「保育の問題だ」となったのでしょう。

「保育」をさっさと飛び越して「親子の問題」と言えばいいのに、学者やマスコミはその現実を指摘するのに躊躇する。「親の問題」ということはすなわち、保育をサービス産業化しようとして保育界の意識崩壊、それに続く家庭崩壊を進めている政府が悪い、それを政府に勧めた経済学者や保育の専門家と呼ばれる学者が悪い、子どもたちの気持ちを考えずに親の都合、大人の都合を優先して報道するマスコミの姿勢の問題、ということに行き着きそうで、踏み込まない。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せ、そうすれば女性が輝くと言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げているのです。いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」「愛着障害だ」とは言いにくい。

NHKのクローズアップ現代では言っていました。(「クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)」)

当時も書きましたが、子ども・子育て支援新制度が始まる少し前の放送でした。

発育過程で、家庭で主に親との愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容でした。(詳しくはNHKのアーカイブ:http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/1.htmlをお読みください。)

番組からの抜粋です。

 関東医療少年院 教育部門 斎藤幸彦法務教官「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています。」(中略)

 愛着障害特有の難しさに加え、さまざまな事情が複雑に絡むので、更生といっても従来の対処法だけでは困難な面があるといいます。(中略)

 愛着形成の期間、何歳までが大事?

 高岡健さん(岐阜大学医学部准教授):これはあくまで目安という意味ですけれども、大体3歳ぐらいを過ぎますと、自然にその港から外に行く時間が長くなってきます。(中略) 

 養護施設の職員「養護施設に来る子供たちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました。ここ11年間、それは大変でした。」

放送のあと、ある行政の方から電話がありました。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。(あれから3年。小一プロブレムはますます広がり、社会全体が荒れてきている。)

国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書でも、親子関係、特定の人と乳幼児期に愛着関係が育つことの重要性については言っています。解釈や説明の仕方はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」という諺は、様々な国や宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われ続けてきました。学校教育や学問という最近のものが現れるずっと前から、人間が生きていくために必要なこと大切なこととして理解されてきました。

「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。発言の経緯からすれば、三歳未満児を保育園に預けても問題ないと言いたかったのかもしれません。でも、学者の言葉をその背景にある文脈を無視して喧伝されると、「そうなんだ」「問題ないんだ」「じゃあ預けよう」という人たちが確かに増えてきました。楽だからと、オムツもとってくれるし、とまったく躊躇しない親も現れているのです。100歩譲って、そうした動きに対応するだけの保育の量的質的充実が同時に図られていたのならまだしも、量的充実を進めるあまり幼児たちの日常の質はますます悪くなっています。保育士不足や親対応で右往左往する園長主任たち、毎日公園に集まってくる園庭もない保育園の子どもたちの表情、保育士の表情を見れば、全部とはいいませんが、だいたいわかります。

「三歳児神話は神話に過ぎない」という学者の発言は、神社の前で「これは神社に過ぎない」と言っているようなもの。文化人類学的に考えれば、神話や伝説の中にこそ過去の人類が積み重ねてきた生きるための真理はある。法華経や聖書は言うに及ばず、「長くつ下のピッピ」「ムーミン谷」「ドラゴンボール」や「アンパンマン」も含めて、一見現実を離れて見える話の中に、学ぶべきこと、自ら考えるヒントがたくさんあるのです。

しかも、厚労省が言ったのは、三歳児神話には「少なくとも、合理的根拠は認められない」ということであって間違っていると言ったわけではない。

(一昨年、母犬から子犬を早く引き離すと「噛み付き癖」がつくから、子犬は一定期間母犬から離さないように、という法律が国会を通りました。人間だって同じこと。哺乳類なら当たり前。子犬の8週間は、人間の2歳くらいかもしれません。)

それでもなぜ、こういうおかしな発言がまかり通ってしまうのか。神話に過ぎないと学者がいうことによって、親が幼児から毎日繰り返し(政府が「標準」と名付けた)11時間も離れるという、進化の優先順位を書き換えるような一線を飛び越えられると思ったからです。そうしたいという意識を持つ親が、過半数とは言わないまでも常識を脅かすくらい増えてきたからでしょう。マスコミと民主主義と選挙、そして市場原理が、幼児たちの願いを置き去りにして、人気取り(金儲け)に動いたからでしょうか。

しかし、やがて幼児たちの寝顔や笑顔が、「教育」があおる「欲」を打ち負かす日が必ずくる。「子どもの最善の利益を優先する」という保育所保育指針を盾に、保育者たちが本気で立ち上がれば、それは意外とすぐにくると思います。幼児と人間の接点を増やすことによって、社会全体に「感性」と「想像力」が戻って来る。

保育士たち(または人類)の意思表示でもある「保育士不足」によって、学者や政治家、マスコミも実はかなり追い込まれています。無理なものは無理、できないことはできない、と現場の保育者たちが子どもたちのために言ってほしい。

学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという短絡さには本当に腹が立ちます。保育と教育は違う。「子育て」と「教育」はもっと違う。

それなら、さっさと非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろ、と言いたいくらいですが、それで学校教育が成り立つようになるとも思えません。保育の質が突然回復するとも思えません。心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、もうこれ以上無理な要求、変な要求、新人保育士が保育を勘違いするような指導はするな、とは言いたい。でも、待遇改善とは別の次元で意識の変革は進んでいる。

幼児たちの存在意義が揺らいでいる。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

#10「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないもの

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#10「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないもの

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今回、政府が示した「新しい経済政策パッケージ」の一部でもある、保育の質より量を優先する経済学者+社会学者主導(または経済界+政治家主導?)の福祉施策や学校教育に関わる施策を読んでいると、経済競争を促し労働力を確保するための短絡的な方向性ばかりが目について、国の施策の中心となるべき人間性に根ざした幸福論がまったく見えてこない。長期的に見れば、こんなやり方で経済がはたして良くなるのか、少子化に歯止めがかかるのかさえ疑わしい。

経済政策だから、と言えばそれまでなのですが、人間の幸福感に「子育て」が直結している、そこで生まれる幸福感が「経済」に直結しているという意識がほとんどない。現在の「子育て」に関わる「子ども・子育て支援新制度」は雇用労働施策の一部として進められていて、子どもを優先した施策ではなくなっている。それにもっと多くの人たち、マスコミや親たちが気づいてほしい。この経済政策に国の「子育てに関わる仕組み」保育とか学校という仕組みがどれほど追い詰められているか気づいてほしい。

なぜ、こういうことになってしまうのか。

社会全体に想像力とそれを支える「感性」が急速に薄れてきているのです。感性の喪失に関しては、やはり学校教育のあり方、その目指す方向性に問題があるのだと思います。

高等教育を受け、そこで能力を発揮している人たち、マスコミの情報や国の政策を左右する位置まで登りつめた人たちの多くが、「幼児は親(特に乳幼児期は母親)と一緒に居たいと思っているはず、心情的にも本能的にも」という人類の進化に関わる大事な、決定的と言ってもいい視点をほとんど持たないか、忘れてしまっている。幼児がそう願うことによって、人間たちの生きる動機が決定づけられるという想像力さえないのです。

遺伝子に種の存続の条件として組み込まれている「弱者優先」の視点を忘れているから、社会で起こっている人間性を覆すような現象や問題に対する読解力・理解力がないのです。人口の減少とか経済上の数字は見え、慌てても、その後ろにある人類学的な方程式や図式が見えていない。それにもかかわらず、政府や学者は、政策パッケージの中で、「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある。 」と言い続ける。

保育を「子育て」の「受け皿」と見なすこと自体が相当偏った、想像力に欠ける視点です。子どもがどう育つかよりも、子育てによって親がどう育つか、社会が子育てによってどう心を一つにするか、絆を深めるか、の方が大切だったということにまったく考えが及んでいない。社会の成り立ちを支えてきた「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないもの。宇宙が何千年もそうしてきたように、これからは社会の仕組みとして、人間たちと幼児たちをしっかり出会わせることを「義務」とするしかないと思う。

政府は、「保育の受け皿を増やす」という言い方で「子育ての受け皿を増やす」事実を誤魔化そうとしたわけですが、こういう意図的な誤魔化しや誘導、視点の操作をしているうちに、彼ら自身の感性がなくなってゆく。体験を伴わない「学問」や「情報」に依存することによって、直感的に本質を見抜いたり、心の動きを想像したりする力が弱まってゆく。だから、預けられる0、1、2歳児の「願い」や、預かる保育士たちの子どもに対する「思い」が意識されない施策が「国の子育て支援策」としてまかり通ってしまう。そして、それにマスコミがほとんど反応しないのです。

「みんなが子育てしやすい国へ」と銘打った内閣府のパンフレット「すくすくジャパン・子ども・子育て支援新制度」を読み、それを実施する立場の現場の保育士たちが、「子育て支援策」ではなく「子育て放棄支援策」ではないのかと言って顔をしかめている。自分たちの仕事が子どもたちの幸せにつながっていないどころか、不幸につながっているのではないか、と日々、ますます不安になっている。

先日もマスコミを通して京都大学の家庭社会学の教授という人が、日本は世界で一番子育てが難しい国、と批判していました。子育て環境、安心して子どもが育つ環境としては、確かに悪くなってきているとはいえ、日本は先進国の中では抜群にいい状況だと、私は思っています。実の両親に育てられる子どもが半数を切ろうとしている欧米先進国に比べ、はるかに親たちが親らしい。まだ、子どもに関心がある。だから治安が決定的にいい。

政府もそうですが、こういう学者がいう「子育てが難しい」の反対側にある「子育てしやすい」が、育てる側の利便性を高めること、「子育てを簡単にする」になっている。親子を引き離し子育てから親を「解放?」する方向を向いている。その向こうにある目論見は、親の幸せというより低賃金の労働力の確保なのですが、あまりそれははっきり言わない。

この「子育てを簡単にすればいい」という発想が私には理解できないのです。学級崩壊の広がり、親による虐待、DVの急激な増加を見れば、その危険性にそろそろ気づいてもいい頃だと思うのです。ここまで進めて来たのだから気づきたくないのかもしれない。しかし、欧米の犯罪率や麻薬の汚染率を見ても明らかなように、子育てを簡単にすれば、社会から優しさや忍耐力、幸福感が薄れてゆく。その現実から目を反らすわけにはいかない。

子育ては、親や親戚たち(その他の人たち)が喜びはもちろん、迷いや不安の中で自分の人間性に気づき、それを磨き、自分の善性に感動する体験であって、仕組みの利便性で補い簡単にするものであってはならない。たぶん、この家庭社会学者のいうところの「社会」は保育施設や学校、福祉といった最近できた仕組みや市場原理のことで、家族の絆とか、ともに祈り、祝う、一緒に幼児を愛でるという次元の「社会」ではないのだと思う。

(欧米は、福祉の充実を進歩的社会と勘違いし、保育が市場原理(経済活動)に組み込まれ、4割以上の子どもが未婚の母親から生まれる、という伝統的家庭観の崩壊にまで一気に進んでいった。http://www.luci.jp/diary2/?p=976。精子の売買が合法化されているデンマーク。実の親、血のつながりという概念が薄れたアメリカの里親制度など、市場原理に頼らざる得なくなり、人身売買に近づく様相を見せています。

NHK世界のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」 https://www.youtube.com/watch?v=Pke65F7Hb00

(内容)比較的簡単に父母になり、簡単に解消できるアメリカの養子縁組制度。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられているという。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る養父母候補の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

原題 DISPOSABLE CHILDREN。制作 BABEL DOC production (フランス 2016年))

「ストロー菅の愛」NHK世界のドキュメンタリー

(内容)未婚のままアラフォーを迎えた2人の女性、シグネとマリア。子供を持つために精子バンクの扉をたたく。精子の売買が合法化されているデンマークの、近未来的な幸せ探し。

(詳細)詳細

結婚相手はなかなか見つからないが子どもが欲しい38歳のマリアと40歳のシグネは精子バンクへ。シグネは精子購入後に自宅で人工授精にチャレンジするが、なかなか成功しないため、貯金は減る一方で、欲しい“高額精子”も買えない。パソコンで精子を選ぶことに違和感を覚えたマリアは、ネットで知り合ったスペイン人男性に子作り旅行を持ちかける。デンマーク女性たちの挑戦を赤裸々に描く。

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義務教育が普及すると数十年で、人間社会は様々な形のパワーゲーム(マネーゲーム)に巻き込まれてゆき、「平等」という言葉を使って行われるパワーゲームもその一つだと思います。その結果、子育ての社会化(?)が進み、社会全体から男女間の「子育て」を基盤にした「信頼関係」が失われてゆく。同時に、子育てを労働と見なし始めると、それを保育者や教師、福祉士(他)による「労働」で補おうとする。家族という形が市場原理、損得勘定で動き始め、家庭における「子育て」が損な役割のように思われ始める。欧米先進国が避けられなかったこの流れに、日本だけは呑み込まれないでほしいと思うのです。幼児たちを眺める機会を意識的に増やすことによってそれはできると思います。)

土曜日・日曜日、48時間子どもを親に返すのが心配だと言い始める保育士たちがいるのです。「五日間、せっかくいい保育をしても、月曜日、また噛みつくようになって戻ってきます。せっかくお尻がきれいになったのに、また真っ赤になって戻って来る」。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは自分たちなのではないかというジレンマが、子ども思いのいい保育士たちを自責の念に駆り立てる。

欧米に比べ子育ての本質をはるかに捉えていた日本の保育士たちは、親のニーズに応えるほど、親子が不幸になっていくのではないか、その矛盾と葛藤を抱え30年やってきました。その心の摩擦が限界にきている。しかし、いまだに学者や政治家たちは、「新しい経済政策パッケージ」のようなものを作って、労働力の創出を優先し、ここまでかろうじて頑張ってきた現場の保育者たち、学校の教師たちを精神的に追い詰める。

こういう人たち(学者たち?)に幸福感と一体であるべき福祉施策の主導権を握らせる道筋の一部なのであれば、それだけで「高等教育は、国民の知の基盤であり」えない。

最近目に付く、高等教育におけるエリート中のエリートたちが起こしている、一連の事件を見ていると、この人たち、(11時間保育を法律で「標準」と名付け、一方で規制緩和によって保育界全体の質を下げている学者や専門家も含め)仕組みのトップに登り詰めた人たちの中に、とても大切な「何か」が欠けている人たちがいる。社会に一番大切な、「子どもたちを含んだ連帯感」のようなものが感じられない。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

#9 「ワーキングマザー」の短歌/施策の中のカタカナ語/未就学児の児童養護施設入所を原則停止

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#9

「ワーキングマザー」の短歌/施策の中のカタカナ語/未就学児の児童養護施設入所を原則停止

園長先生から聴いたことがあります。「ワーキングマザー」から「母」の顔に戻るのは中々難しい。

言い得て妙。深い発言だと思います。

「働く母親」は一人の人間でありうるのに、なぜ「ワーキング」と「マザー」は対立し、そこに葛藤が生まれるのか。http://www.luci.jp/diary2/?p=265

浅羽佐和子さんの歌

(講演に来て下さり、いただいた短歌集「いつも空をみて」を読みました。そこには、身が引き締まるような母の「本音」が詠まれていました。本の帯の宣伝文句に「ワーキングマザー」とあって、たぶん出版社がその言葉を選んで使ったのだと思います。「働く母親」では?と、一瞬思いましたが、それでは宣伝文句には向かない。それは、私にもわかります。「母」という言葉にある伝統的なイメージを払拭し前へ進まなければ、「マザー」にはなれない、社会全体にそんな意識が働いているのかもしれません。しかし、マザーだけでなく、母はみな働いている。)

 

浅羽佐和子さんの歌

昇進の見送り理由を幼子とする ぼろ布のような私

私のキャリアをどうしてくれるの と考えたってあふれる乳汁

仕事中だけはあらゆる不安からのがれられるの、どうしようもない

保育園で描く絵はいつもママばかり、ママがぽつんといる絵ばかり

「お母さん、疲れたとだけは言わないでください」若い保育士のメモ

「ママうちにかえろう」ってただ手をつなぐために 私はずっとここにいる

代役のない本当のママという役を演じる 地球の隅で

 

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ワーキングマザーは結果を求める世界に生きている。しかし、母親は、いい親でいたい、いい親になりたい、と思った瞬間すでに「いい親」です。結果ではなく、その親の心持ちに価値がある。いい親でいたい、と思った親たちが子どもに愛され、許され、救われて生きてゆく。そのプロセスが、「人づくり」などと言って子育てに結果を求める経済論・成果論主体の方向へ歪められてゆく。

この句集からにじみ出る母の苦しみや悲しみは、いい母親であるほど増してゆく。だからこの葛藤を、不公平だと言って減らしてゆく方向に意識が動くと、その同じ量の悲しみを知らないうちに幼児たちが負っていったりする。そして、その悲しみは連載しやがて増幅してゆく。いい親であるがゆえの母親の苦しみや悲しみは、そのまま負っていけば、やがて喜びや期待になって増幅され、連鎖してゆく。

親たちは、よく子どもの笑顔や、寝顔に幸せを感じるといいます。目の前で安心しきって眠っている姿に不思議な幸せを感じ、自らの真の価値を知る。何千年にも渡って、幼児たちに全身全霊で頼られ、幼児たちの安心した姿に囲まれて人間は生きてきた。初めて笑った時、初めて歩けた時、初めて呼ばれた時、親たちにとってそれは自分との会話で、自らの成り立ちを確認する自問自答のような作業にもなっていました。

幼児たちに繰り返し愛され、許されることによって、自分がその信頼によって守られていることに気づく。そこに人類の進化の法則、生きる動機が見えるのです。

この短歌を詠んだ母の人間としての葛藤を、多くの父親たちがあまり経験していない。そこに男たちが生きる力を失っていく、結婚したがらなくなっていく原因があるような気がしてなりません。(だからこそ、一日保育者体験はなるべく父親から、と保育者たちに薦めます。http://www.luci.jp/diary2/?p=261)

日本という国で、西洋の言葉を意図的に利用する場合に生まれる様々な対立は、東洋と西洋、幸福論と資本主義の対立のようにも思えます。英語にしてしまうことで、過去の価値観や評価、この国が大切にしてきた古(いにしえ)の法則が見えにくくなり、変化することへの抵抗感が薄れる。守り続けてきた理(ことわり)を進歩の名の下に飛び越え易くなる。そんな感じでしょうか。

異様なのは、最近の政府の施策が書かれた文章やその解説書に、読む側が辟易とするほど外来語、外国語が多いこと。ただの外国語がいつの間にか「専門用語」となり、その種の学問をしている「専門家」でないと意味がわからない仕掛けになってくる。本当はただの英語に過ぎないのに、日本語的発音のカタカナにするから余計わかりにくくなる。西洋志向の学者たちが、自分自身の創造力の欠如を外国語で覆い隠そうとしているようにさえ見える。多くの学者たちが、学者ではなくただの伝令役になって、「専門家」という名のごっこ遊びに浸っている。

日本の施策においてカタカナ語を利用することは、人間性と経済論のような、次元の異なる対立を可能にするための手法なのかもしれません。

厚労省が全国の児童相談所に通達してきた「未就学児の施設入所を原則停止」の時もそうでした。説明する厚労省の文章(「新しい社会的養育ビジョン」)にもカタカナが溢れていました。専門用語(ただの英語)を知らなければ読み進むことの困難な政府の文章と説明で、それが改革であり進歩であるように装われ、マスコミが検証しないことでいつの間にか国民が納得したような雰囲気がつくられ、幼児の立場を顧みない施策が経済政策として次々実行に移されている。子育てに関しては成功とは言えない欧米の進んだ道をなぞっただけの文章が、専門家、有識者会議を素通りしてゆく。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞

この記事に載っている「家庭に近い環境」という言葉は、政府の財政のつじつま合わせを実行するための厚労省の誤魔化しに過ぎません。日本でも家庭崩壊が始まり福祉の財源が底をつき始めているいま、(たぶん欧米並みの)「里親への委託率」75%を達成したいための方便です。欧米の数字を目標にすることは、欧米並みの家庭崩壊に近づくことでもある。もし、本当にそれ(「家庭に近い環境」)がいいものと信じるなら、去年始まった「子ども・子育て支援新制度」で11時間保育を「標準」とは言わない。女性の就労率が子育てによって下がるM字型カーブを経済優先でなくそうとはしないはず。8時間勤務の保育士に「11時間保育=標準」を押し付けて「保育を仕事化」しないはず。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような安易な規制緩和はしないはずです。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

こうした政府の(学者の)ご都合主義的な矛盾だらけの経済・福祉政策が、家庭崩壊や人間の孤立化を招いている。そして失敗した施策の隠蔽や誤魔化しに「家庭に近い環境」という言葉が使われる。

確かにいまの児童養護施設や乳児院は量的にも質的にもほぼ限界に近づいています。このままでは「子どもたちが育ってゆく環境」としては疑問で、保育園の状況と同じです。施策を進めた者たちの無知、無責任で、人材がいない、待遇が悪い、対応しなければならない問題が悪い方向へ変質してきている。しかし、だからと言って、突然里親への委託率75%という不可能な目標を設定し、原則入所停止という現実が残れば、そのしわ寄せは必ず「保育園」にまわってくる。これ以上後手後手にまわってしまう前に、基本的な方向性を経済論から幸福論に戻さないと、まさに取り返しのつかないことになる。

途上国へ行けば、多くの子どもたちは5歳位で働いていますし、私が1年以上居たインドの村々でもそうでした。子守りや水汲み、道端での物売りや畑仕事、家畜の世話、一人前になった自分が嬉しいのか、結構みんな活き活きと、美しく、働く。そして一緒に祈る。彼らを眺めていると働くことはいいことだ、とわかります。働くことは人々にとってただ食べるための行いではなく、人生を守る絆を育て、助けあい頼りあう幸せを教え、教えられること。生きてゆくための日常であり、形は様々ですが人は皆してきたこと、信頼関係という幸せの基盤でした。

そして、時には「三年寝太郎」や「わらしべ長者」、古典落語に出てくる与太郎のような生活力のないように見える人たちが重要で、その人たちには「労働」を超えた、人間社会における「働き」があったのだろうと思うのです。社会の役に立たないように見えるその人たちが、実は三歳未満児の社会における大切な役割を体現していたのだろうと思います。こういう人たちがいないと本当のパズルは組めない。

日常的に働くことで生まれる絆を主体に、社会は成り立つ。「子育て」は働くというよりも、「働き」に近いのですが、それが中心にあるから人間は「働く」。

保育と子育てが本当は重ならないように、保育と仕事も実は重ならない。それを一番よく知っている幼児たち、特に乳児たちが発言できないのですから、これはもう大人たちが想像力の世界で視点や思いを重ねて行くしかない。自分も幼児だったと思い出せば、見えてくる人生があるのでしょう。人間は絶対に一人では生きられない。自立できない。その辺りで社会の本当の「絆」が生まれる。

国連の幸福度調査第1位(日本は51位)のノルウェーでは、殺人事件の被害者になる確率が日本の2倍、泥棒に入られる確率が4倍、女性がレイプにあう確率が20倍なのです。13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっている。http://www.luci.jp/diary2/?p=1990。「精子の売買が合法化」され、ネット上で男たちの精子に容姿や学歴によって値段がつけられるほど「家庭や家族」観が変質してしまった国を、幸福度第2位にするようなものさしは根本的に病んでいる、歪んでいる。

こんな奇妙な幸福度調査を気にして女性の社会的地位の低さが問題だと政治家や学者たちは言うのですが、社会的地位を幸福論とすり替えて、女性議員の割合や管理職の割合で「幸福度」を決めるのは極めて欧米的な偏った考え方だと思います。そうした考え方や施策が、巡り巡って、保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる。保育所はすでに崩壊寸前の限界に来ています。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

保育崩壊の原点:以前、NHKの視点論点で専門家が言ったこと。

九州の若手保育園経営者の集まりで講演する機会があり、6年前、今の「子ども・子育て支援新制度」が民主党政権下「子ども・子育て新システム」と呼ばれていた時に保育雑誌に書いた文章を配りました。三党合意で進められた「子ども・子育て支援新制度」の原点です。

現在の異様とも思える保育士不足、待遇の問題と言われることが多いのですが、もっと根深い、保育・子育てに対する視点そのものが外側からも内側からも変質してきている。

こうした保育崩壊といってもいいような混乱状況を招いた出発点がこの「視点論点」にあると思います。「待機児童をなくせ」という観点から、保育園を増やせという目標を掲げて子育てを考えている。だから、現在の野党も今度の「子ども・子育て支援新制度」に関してはほとんど何も質問しないし、追求もしなかった。(11時間保育を標準と名付けるような仕組みに、誰も反論しなかった。犬には法律ができたのに。http://www.luci.jp/diary2/?p=174)

保育施策を雇用労働施策と見る点において与党も野党も政治家たちの視点にいまも変わりはない。だからこそ規制緩和と幼稚園の保育園化が進み、保育士不足が一気に加速してしまった。進む方向と動機が悪いから、保育士不足も質の低下もこのままでは改善しない。保育現場で心が一つにならない。そこに本当の危機があるのです。

 

(6年前の文章です。)

視点論点

NHKの視点論点という番組で、子ども・子育て新システムについて専門家が順番に語りました。大日向雅美氏(大学教授)、山村雄一氏(大学教授)、普光院亜希さん(保育を考える親の会)。保育に関わっている人が意見を述べられなかったことは残念でした。山村氏は新システムが「子どもの思いを受け止めていない」、普光院さんは「こども園が、幼稚園と保育園のそれぞれの機能を弱くするのではないか」という論点で、新システムに反対しました。

大日向さんの放送は、公共的放送で新システムを進める委員によって国民に語られた、という意味で責任が大きいので、私なりの反論をしておきたいと思います。

大日向さんは、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」と述べました。

保育園や学校で起っている摩擦や軋轢を見れば、自分の子どもの育ちさえ支えようとしない、保育園や学校に子育てを依存しようとする親が出始めている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」なんてことができるとは思えません。夢のまた夢のような、人類史上かつてあり得なかった社会です。部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。

大日向さんは、「保育の友」九月号(当時)でも、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と発言しています。

これは大変な発言です。人類の進化にかかわる発言です。

(現在の幼稚園教育要領と教育基本法を否定する発言でもあります。「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」私は、本来こういう人間性の根源にかかわることは法律などで言うべきでないと考えています。ですからこういう論法は避けたいのですが、幼保一体化ワーキングチームの座長による発言ですから、幼保一体化の意味と意図を明確にするために書きます。)

この「社会」の意味が怖い。このインタビューでは(保育所)とキャプションがついていますが、通常誰もはっきり定義しません。視点論点では、「社会皆で支える」と言っています。(女性の社会進出、という言葉の意味さえ、あえて誰も定義しようとしない。経済競争という意味でしょうけれど、経済競争は社会のほんの一部でしかありません。)NHKのクローズアップ現代でも大日向さんから同様の発言がありましたが、「社会」が何を意味するか明確な説明はありませんでした。こういう曖昧な感じで「社会」という言葉を使うひとたちは、いつでもその意味をもっと幅広い、「家庭を含む」「隣近所のおじちゃんおばちゃん」まで広げて逃げる準備をしています。ところが、子育てを「社会化」すると、地域の絆どころか、夫婦揃ってやる子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れてゆくのです。夫婦が子育てによりお互いの人間性を確認し、育て、信頼関係を作ってゆく。そして、損得を離れた絆を社会に育み続けるために子育ては存在するのです。

思い出すのは、以前頻繁に使われていた「介護の社会化」という言葉です。それを進めて孤立する老人が急増し、無縁社会といわれる状況に一気に進んでしまったのです。(北欧で20年前に起ってしまった現象とほぼ同じです。)親身な関係を生むための助け合いと育ちあいを「社会化」することによって、人間性が社会から失われていく。結果から判断すると、学者や政治家がこの問題について発言するとき、「社会」はどうやらシステムのことらしい。

システムの変革が、人間の意識や本能が支えていた社会の構造を加速度的に変えて行く、人類史上かつてない過渡期に私たちは直面しています。子ども・子育て新システムが、介護保険制度と非常に似ていることを忘れてはいけません。これほど無縁社会を進めた介護保険を、厚労省は財政削減につながったとして、「成功」と見ているふしもあるのです。

大日向さんは、「働き方の見直しと、子育てと仕事の調和を目指す。何よりも、子供の健やかな成長を議論の大前提としている」と付け加えます。

「子どもの健やかな成長のために」というなら、子育てと仕事の調和を目指す前に、子育てを中心にした家族の調和を目指すべきなのです。こういう言葉をつけるだけで、状況に気づいていない人を言葉の上だけで説得しようとするのですが、何万年と続いてきた子育ての第一義的責任を親から「社会」へ替えるのであれば、それは人類の進化の根本にあった心の動きと親子の育て合いを放棄することになる。ヒトの遺伝子組み換えでもしないとこんなことはできない。

親と一緒にいたい、と思い、本能的に親をいい人間にする役割を担ってきた子どもたちの存在理由を想像すれば、幼稚園の保育園化を目指すよりも保育園しかない市町村に幼稚園を増やしてもいいはず。保育園を文科省管轄にしようという発想があってもいい。未満児を持つ父親の残業を制限するとか、この時期だけでも母親が子育てに集中できるように守るとか、子どもの願いを中心に「子育てと仕事の調和を目指す」べきだと思います。

新システムを考える時、絶対に忘れてはならないのは、これが始めから「雇用・労働施策」と定義されていることです。5年以内に新たに25万人の未満児を保育所であずかる、という数値目標が始めにあるのです。しかし、これをやるには、保育士の数が決定的に足りません。今ほとんどの地域で、保育士に欠員が出たら埋めるのが大変です。それでも進めようとしている。実は「子どものためではない」と知っているから、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と言ってごまかそうとする。子どもたちに対して、これほど白々しい嘘はありません。まだ満足にしゃべることさえ出来ない未満児に対する嘘は、自分の良心、人間性に嘘をつくことです。手ひどいしっぺ返しが社会に返ってきます。だからこそ、未満児たちを毎日見つめている保育士たち、そして、母親たちが子どもたちのために立ち上がらなければならないと思います。本気でいま、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と声を上げなければならないのです。

大日向さん:「なぜ新システムが必要か。子育て、働き方に関するこれまでの考え方や制度が、時代の変化と共に人々の生活スタイルや価値観に合わなくなっているから」。

人間性が失われてもかまわない、というなら別ですが、あきらかに現代社会はシステムが子育てを引き受けることによって、つまり親が親らしくなくなってくることで起こる多くの問題を抱えています。

児童養護施設は親による虐待が主な原因で満員になっています。いじめや不登校、モンスターペアレンツといった問題を抱え、学校の先生が精神的に限界に近づいています。埼玉県で6割、東京都で休職している先生の7割が精神的病です。引きこもりの平均年齢が30歳を越え、信頼関係を失った人間たちに生きる力がなくなってきています。日本とは一桁違う欧米の犯罪率を見れば、親が親らしくなくなること、特に父親が未満児との体験を持たないことは、人間社会からモラル•秩序が欠落していくことだとわかります。百歩譲って、価値観に合わなくなっているからシステムを変えるべきならば、その度に変えなければなりません。すでに20代の女性で専業主婦を望む人は増え始めている。経済競争だけが人生ではない。経済競争だけが社会でもない。日本人は気づき始めていると思います。欲を捨てることに幸せへの道がある、と説いた仏教の土壌がまだ色濃く残っている国なのです。

大多数の人間が子育てに幸せを感じることができなかったら、人類はとっくに滅んでいる。ごく最近まで、人類はその幸福感の第一を「子育て」に見ていたのです。損得を忘れることができるからです。発展途上国の貧しい農村へ行くと、村人たちの表情に心を洗われる、と海外へ経済援助に行って来た人たちがしばしば言います。人間は「子育て」を取り巻く信頼関係に幸せを感じ続けてきたのです。

大日向さん:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少して社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」

日本の少子化の大きな原因は結婚しない男が現在2割、十年後3割に増えようとしていることです。貧しい国々で経済状況が日本より悪いもかかわらす、人口増加が問題になっていることを考えると、これは性的役割分担の希薄さが原因で、経済問題ではない、という考え方もできます。男たちに「責任を感じる幸福感」がなくなってきている。ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、性的役割分担がはっきりしてきたときに人類は「家族」という定義を持つようになった、と言います。性的役割分担が薄れた時に、人類は家族という単位で生きようとしなくなる、ということかもしれません。それでいい、という考え方もあっていい。しかし、それは人類が数万年拠り所にしてきた、頼りあう、信じあうという「生きる力」を土台から失うことでもあります。男女間の絆と信頼関係を失ってゆくことになるのです。

大日向さん:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

経済的理由で、と言いたいのだと思います。社会が育ててくれれば産むのだ、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする日本の美学、ととらえることもできます。この考え方の方が、自然だと思います。日本人は、欧米とは違った考え方をする人たちなのです。

自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。

大日向さん:「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、更には近年の経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている。」

心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって対策は違わなければなりません。仕方なく希望しているのであれば、子育てを心の中では希望している女性のニーズに応えていくべきです。頼ろうとする、信じようとする、そのことこそが社会参加の基礎であることをもう一度学び直さなければなりません。

子育てが家庭のかすがいであって、子育てが育む信頼関係が人間社会を支えてきたのだ、という意識を強くもてば、子育てを親のもとに返してゆくことは財政的に充分可能です。未満児を育てている家庭に一律7万円支給したとしても、いま未満児に使っている予算に二千億円プラスくらいでしょう。欧米社会で起ってしまったモラル崩壊の流れを考えると、それによって抑えられる犯罪率や児童養護施設や乳児院、裁判所や刑務所にかかる費用を想像すれば安いものです。子育ての社会化を防ぎ、親たち、祖父母たちの手に出来るかぎり子どもたちを返すことは、財政だけではなく、この国の魂のインフラにかかわる緊急かつ最重要問題だと思います。

大日向さん:「依然として職場環境は厳しく、仕事か家庭かの選択を迫られている」

子供が乳幼児の場合、家庭(子ども)から離れる仕事と家庭(子育て)は本来両立出来ません。だから選択を迫られているのであって、選択を迫られるのは生き方の選択を迫られること。どちらがいいとは言いませんが、女性だけが選択を迫られるのは不平等というなら、そういう論議にするべきで、「すべての子供たちのために」と言うべきでない。

大日向さん:「更に、安心して子供を預けられる環境の整備が遅れている。」

その通り。認可外保育所がどんどん増え、規則が曖昧なため百人規模の「家庭保育室」がすでにあります。親へのサービスを主体に考える市場原理に基づいた保育をしようとする園長設置者が参入して来ています。犠牲者が出ています。新システムは、さらにこれを進めようとしています。

保育は市場原理では機能しません。なぜなら、保育士たちが「良心」を持った人たちだからです。日々、子どもたちに「心」を磨かれている人たちだからです。だから実は私は、新システムなんか怖くない。しかし、それが進められ、やがて市場原理が成り立たなくなる過程で、子どもたちがどういう体験をするか、ということを考えると恐ろしくなるのです。

「子どもの健やかな成長」は、「その子の命を感謝する人を増やす」ことです。そういう人がまわりに数人いれば、子どもは見事に生き、その役割りを果たします。

大日向さん:「都市部では深刻な待機児問題が続いている」

その深刻さは、待機児童が増えていることではありません。そこにどのような理由があろうとも、子どもを保育園に預けようという親が増え続けていることが深刻なのです。

待機児童は減らそうとすればするほど増える、現場で親を知る保育士たちは10年前から予言していました。

保育は親たちの意識の中で、権利から利権になりつつあります。

横浜市では待機児童の倍の数の欠員があります。待機児童の問題は単純ではない。最近目立ってきた偽就労証明書、偽装離婚、偽うつ証明書などの問題を、新システムを進めようとしている人たちはどうとらえているのか。気づいていないのか、いずれ仕分けするつもりでいるのか。覚悟のほどを聴きたい。

大日向さん:「保育所を整備すれば問題は解決するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、修学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」

この文章は論点が飛躍しすぎています。なぜ幼稚園と保育園にわかれることが「子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける」ことを妨げるのかがわからない。

幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもとは一般的に家庭の事情、親の意識が違う。わかれる方が健やかな育ちを守る、と考えるのが自然です。しかもそうしてきた日本が、欧米に比べ、経済だけではなく、モラル•秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題でははるかに状況がいいのです。

5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変です。私は、すでに地方で始まっている幼保園でそれを見ています。

「大きな問題」が誰にとってのどのような問題なのか。保育所に「平気で預けたい」人にとって問題なのでしょうか。それでは子どもがかわいそうです。幼児をシステムに10時間も毎日預けるのであれば、それなりの不安やうしろめたさを感じなければ哺乳類の一員ではないと思います。

大日向さん:「幼稚園は学校教育法に位置づけられているが、4時間保育を中心としているために、事実上、専業主婦家庭の子供しか利用できません。その結果、幼稚園は入園希望者が減り、特に地方では減少の一途を辿っている。幼稚園の無い自治体は2割、人口1万人未満の自治体では5割に及んでいる。」

幼稚園のない自治体が2割、これは主にその自治体の歴史がそうさせてきたのであって、幼稚園が親の生き方の変化によって淘汰されたのではありません。幼稚園が選択肢としてあるところでは、例えば埼玉県では幼稚園を選ぶ親と保育園を選ぶ親の比率は7:3、恵庭市や小樽市では8:2、現在の経済状況を考えれば、自分で育てたいと願っている親の方が圧倒的に多い。自分で育てる、そういう本能が人間の遺伝子に組み込まれているのでしょう。本能から来る願いを優先することが、社会に人間性を保つのです。その願いは子どもたちの願いと一致する。親子がなるべく最初の数年を一緒に過ごすことができるように、この国は施策を進めるべきだと思います。多くの親子が何を望んでいるか、という視点が「新システム」には決定的に欠けています。

大日向さん:「保育所は、働く女性の数が増え、保育所の整備が追いついていません。女性の社会進出は経済成長を支える鍵でもあり、保育所の果たす役割は、今後も更に大きくなっていきます。保育所は、幼児教育をしていないという、誤解が一部にあります。子供を幼稚園に通わせるために、仕事を辞める女性もいます。」

「女性の社会進出は経済成長を支える鍵」と言う根拠がない。この論理が正しいのであれば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるヨーロッパ諸国の経済がなぜこれほど悪いのか。社会進出して稼いでも、加速度的に福祉に吸い取られ、家庭崩壊によるモラル•秩序の崩壊に国の予算が対処しきれなくなっているのが現状でしょう。EUの経済危機が「家族」という概念の崩壊に根ざしていることを、なぜ日本の学者は理解しないのか。しようとしないのか。

終戦直後の混乱期を除けば、ヨーロッパの国々が一度として経済的に日本を上回った時はない。親が子どものために、子どもが親のために頑張ったから高度経済成長があったわけですし、先進国の中では奇跡的に家族という定義がまだ色濃く残っている日本が、なぜアメリカや中国という大国に続いていまだに世界第三位の経済大国なのか。実は、家庭や家族がしっかりしている方が、経済成長につながるのです。絆が安心感の土台になり、家族のために頑張るのが人間だからです。人間は自分のためにはそんなに頑張れるものではないのです。本来、頼りあう、支えあう、信じあうのが好きなのです。

アメリカという資本主義社会を代表する国で、家庭観を発展途上国で身につけ、教育も発展途上国で受けた英語も満足に話せない移民一世が、二世や三世よりも経済的に成功する確率が高いのです。家族がいて、子育てが中心にあると、人間は、生きる力が湧いてくるのです。

民主主義も学校も幼稚園も保育園も、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとに作られています。人間らしさを失ってくると、人間の作ったシステムは人間に牙を剥き始める。地球温暖化と似ています。

子どもを幼稚園に通わせたいという親たちは、教育を求めてというよりも、子供の成長を自分の目で長く見ていたい、という本能的な気持ちが出発点にあるのではないか。子育ては、この国では、未だに仕事よりもはるかに幸せの原点になっている、人生の華なのです。

大日向さん:「これはあきらかな誤解です。保育は、養護と教育が一体となったもの。保育所は幼児期の教育を十二分に行っている。」

幼稚園によっては意識的に教育的保育を避け、子どもたちの「遊び」を尊重する保育をやっています。幼稚園よりもっと教育的保育をやっている保育園もあります。どちらでもかまいません。しかし残念ながら、「保育所は幼児期の教育を十二分に行っている」と言われても認可外を含め、保育の内容のばらつきは今でさえ見過ごせるものではありません。ここ10年くらいの間に、規制緩和により保育資格のない保育者を増やし、認証保育所や家庭保育室、保育ママを行政が薦め、園庭のない一部屋保育や駅中保育、短時間のパートでつなぐような保育園が意図的に増やされている状況で、大日向さんのこの発言は事実ではありません。公立保育園の非正規雇用化が進み、自治体によっては九割が非正規雇用という市もあります。まず、保育とは何か、どういう役割りを社会で担っているのか、その意識を整えなければならない段階なのです。

新規参入を奨励する新システムを進めようとしている人たちは、全国的に起っている大学や専門学校の保育科の定員割れをどう考えているのか。願書さえ出せば入学でき、ほぼ全員国家資格がとれるような仕組みの中で、子育てを任せられる保育士を確保するのは急速に難しくなっています。実習に来る学生たちの態度の悪さに驚愕している園長たちに話を聴けば、とても「社会で子育て」などと言えないはずです。

新システムは、客観的に見て、保育園のさらなる託児所化と、幼稚園を雇用労働施策に取り込むことによって託児を兼任させることを目指しています。

自治体が、財政上の理由で規則をゆるめ、罰則規定も整備されていない状況で、財政難+新システムでは、「大人たちの都合で」ますます保育は認可外へ移行するかもしれません。

大日向さん:「保育の必要性については、市町村が客観的な基準に基づいて認定し、それに基づいて、保護者は施設を選択して契約する、いわゆる公的契約とするが、待機児の多い場合、障害や虐待、経済的事情がある子供の行き場がなくならないよう市町村が調整に勤めることも責務としています。」

ここが問題。「勤める」という言葉が使われる時は、できなかったら仕方ないという場合が多いのです。認可外保育の規則がたびたび「おおむね」と「望ましい」という言葉を使い、規則を守らせる立場の役人たちでさえ、設備の不備、人材不足の問題を取り締まりようのない状況になっているのです。

大日向さん:「第三に、保育の質と恒久財源の確保を目指します。新システムは単なる待機児対策ではありません。すべての子に良質な発達環境を整備することを目指している。施設の物理的な環境整備。保育士の人員配置、待遇改善、研修システムの充実など、保育に携わる人の就労環境の整備があってこそ、保育の質が守られる。財源確保は最重要項目です。」

保育の質が子ども主体に守られ、財源確保が行われればいいですが、新システムは、現時点では何も保証していない。財源の議論をしようとしても、保護者負担の割合さえ決まっていない状況では試算しようがありません。実は、新システムを導入は、消費税がらみの増税に理解を得るための看板に使われようとした可能性が高い。(財務省か厚労省が、増税のため、民主党や学者を操った可能性も少し感じます。)

大日向さん:「第四に政府の推進体制、財源を一元化する。これまで、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、財源も制度ごとにばらばらでした。新システムでは、こども園給付を創設して、財政と所管を一元化して二重行政の解消をめざす。就学前の子が過ごす場が親の生活状況によって幼稚園と保育園に別れて60数年です。幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」

23年にわたって保育の現場を見、多くの関係者と話をしてきましたが、「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではない。政府の幼保一体化ワーキングチームの座長が、公共放送で問題の本質に関わるまったく事実ではないことを言うことに、保育団体は、政府に正式に強く抗議するべきだと思います。

業界的考え方をする経営者の一部が地方の幼稚園の生き残り策として望んでいたかもしれない。しかし絶対に幼稚園全体の希望ではなかった。それは去年から全国の私立幼稚園で進んでいる幼保一体化反対署名運動の広がりを見ればすでにあきらかでしょう。

保育園で保育士が幼保一体化を望んでいた、という話も聴いたことがありません。預かる人数を増やし、しかも支出を抑えたい行政が望んでいたかもしれない。ジェンダーフリー的考え方をするひとたちが差別感を解消するために望んでいたかもしれない。幼稚園を厚労省管轄にし、雇用労働施策に取り込むことによって労働力を確保しようという財界が望んでいるのかもしれない。しかし、当事者である親や子供たちがそれを望んでいるという調査結果はないはずです。

大日向さん:「新システム中間の取り纏めはまだ完璧なものではありません。財源は一元化されますが、施設類型、保育所指針の一元化、3歳未満児の保育に、法制度上の教育をいかに保障するか。市町村との調整、事業主負担の在り方など、今後引き続き検討を進めていく予定。幼稚園と保育所の歴史、文化の違いを考慮して、改革を拙速に過ぎてはいけないという意見もあるが、今日の子供や親の生活実態を見れば、改革は待ったなしです。」

引き続き検討を進めていく予定の中に、システムの根幹にかかわる部分が多過ぎます。なぜそれでも進めようとするのか。「今日の子供や親の生活実態を見れば」というのがまた意味不明です。どういう地域のどういう親子をイメージしているのかがわからない。私が見た「今日の子供や親の生活実態」からすれば、子育ての幸福感を親たちに取り戻してもらい、家庭と保育現場の信頼関係を築いていくことの方が大切です。「改革は待ったなし」と言っているのは誰なのか、そろそろそれをはっきりさせないと、正しいように思える言葉のやりとりで、人間にとって一番大切な「子育て」が親の手から離れていくような気がしてなりません。

大日向さん:「子供の今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を実現すべく、恒久財源を確保して時代に即した、新たな歴史を築いていくことが必要と考えます。」

子どもの今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を否定し、保育の質を上げるために恒久財源を確保し、人間性に即した、子ども中心の保育を築いていくことが、必要なのです。この新システムを議論することによって、保育の大切さ、それがこの国の土台を支えているのだ、という意識が高まることを期待します。

子ども・子育て新システムの出典?

小宮山洋子著「私の政治の歩き方」(すべての子どもたちのために)という本があります。著者は、現厚生労働大臣です。

本の副題が新システムのサブタイトルになっていて、新システムはこの本から出発したのではないか、とも思えます。だから、民主党はこの人をいま厚生労働大臣にしたのでしょう。けれども、本の中身も新システムも、出発点から「子どもたちのため」になっているとは思えない。「子どもたちのために」と繰り返し、繰り返し書かれていますが、大人たちのために考えられている。

児童虐待が増えたから、それを守るために社会が育てなければいけない、というのですが、子育ての社会化によって人間性が失われると、人間は孤立化しよりいっそうモラル•秩序が希薄になり、それが犯罪率に反影するのです。家庭という概念が希薄になり、子育ての社会化が進んだ欧米で、犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。日本がなぜこれほどまだ良いのか。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。0才児を預ける親は一割以下なのです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。子どもを生み育てる、という大自然が我々に課した「男女共同参画社会」が、この国には根強く残っている。アメリカで3割、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれています。欧米で「男女共同参画子育て社会」(つまり家庭)がこれほどまでに崩壊してしまった今、日本が、「子育て」という男女共同参画の根本にある人間性を維持していけば、いつか人類の大切な選択肢になるはずです。

  1. :子ども・子育て応援政策」にこう書かれています。

「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。==幼保一体化など」

私は、言い続けるしかない。子どもたちは希望していない。

待機児童のほとんどが未満児(0.1.2歳)です。未満児は希望を発言できない。だからこそ、未満児たちが何を希望しているかを想像するのが人間性。未満児は、親と一緒にいたいと思っています。(老人だって、孫や子どもと一緒にいたいと思っています。)

自ら発言できない人たちの希望を想像することは宇宙のエネルギーの流れを知ろうとすること。注意深く、感性をもって行わなければなりません。なぜなら、それは自分の生き方を決定づけることになるからです。

「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」

人類の歴史を考えれば、子どもたちの希望は家庭に居場所があることです。それがまわりにない状況ならば、だいたい親の人間性と社会の絆の欠如の問題です。家庭以外の場所に意識的に子どもたちの居場所を作ることは、家庭という居場所が減る動きにつながります。もし、子どもたちが親と一緒に過ごすことを希望しなくなってきたとしたら、希望するように親が変わらなければならない。社会の仕組みが変わらなければいけない。

それが、人類が健やかに進化し、自分を「いい人間」として体験するための道です。

「最近では、働いていなくても、子どもと接する時間の長い専業主婦に、育児不安などで子どもを虐待してしまう人が多いのです。このことからも、保護者が働いていない家庭の子どもにも、質のよい居場所が必要なことは、おわかりいただけると思います。」

育児不安の原因になる子どもを家庭から取り除いても、子どもが園から帰ってくれば、そこにいるのは育児不安になりやすい親に変わりはありません。

「子育て」は、子どもが親を人間らしくするためにあるのです。親たちが忍耐力や優しさ、祈る気持ちや感謝する姿を、育児を通して身につけ、頼りあい、助け合うことに生き甲斐を感じ、絆をつくり、社会に信頼関係を生み出す。そのためにあるのです。

母親の不安は夫の育児参加が足りていないことや、孤立化から起っているのであって絆の欠如の問題です。子どもに新たな居場所を作っても問題の解決にはなりません。

孤立化や絆の欠如に福祉や教育で対処しても、やがて財政的に追いつかなくなります。親心や親身さに福祉や教育が代わることはできません。

いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを返すのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。

母親が、妊娠中に預ける場所を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か、社会全体が気づかなくなっています。

 

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ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変です。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたり、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

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救われている

子どもたちに許され、愛され、救われて私たちは生きていきます。子どもたちは、見事に信じきって、頼りきって私たちを見つめます。その視線に、私は感謝します。

子どもたちによってすでに救われている、そう感じた時に、人間は安心する。

「人づくり革命」「新しい経済政策パッケージ」「子育て安心プラン」

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#8

(再び、政府の「新しい経済政策パッケージ」より)

0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。 

ここで言う「子育て安心プラン」が、規制緩和と無理な施策によって保育の質を急速に落とし、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということはすでにみなわかっているはず。(保育士不足で休園する園がすでにでてきている。)「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。「誰が」安心しようとしているのか。子どもたちの「安心」はどうでもいいのか。

2014年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

 千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

4年前にすでに危機的だったのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたことなのです。それが当時全国紙の記事になっていた。厚労省も政治家も当然知っていたはず。この、幼児たちを危険にさらし、一生のトラウマとなって残るかもしれない状況が、程度の差こそあれ全国の保育園で起っているのです。園長が保育士を叱れない、注意できない、悪い保育士を解雇できない。

(園長や責任者が園児を守れない状況下心労がたまってゆく。)

3歳未満児保育は複数担任制で、一部屋で複数の保育士が6人以上の子どもたちを育てている。悪い保育士が子どもにするその風景に耐えられず、いい保育士が精神的に追い込まれてゆく、場合によっては辞めてゆく。これが保育園での日常になりつつあるのです。

しかも、普通の職業と異なり、これはある日突然、子どもたちが、いままで抱っこしたり、話しかけたり、一緒に笑ったり、寝かしつけ、育ててくれていた人を失うことでもある。保育士と一緒に過ごした時間が「いい時間」であればあるほど、その悲しみや驚きは心の傷になって残るでしょう。その心の傷は誰にも正確には見えませんが、この国の将来を傷つけ続けることにもなる。致命的な負の連鎖が始まっています。http://www.luci.jp/diary2/?p=465

繰り返し報道されたこの事件を知りながら、政府は、「子育て安心プラン」をいまだに進めようとする。それを、学者たちも経済界も、どの政党も一様に支持しているとしか思えない。マスコミも子どもたちの立場では、ほとんど報道しない。

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新しい経済政策パッケージを書いた学者たち(?)が大学で教えている。それが「高等教育」の実態です。昔は誰でも知っていた、幼児という弱者の立場に立つことの意味、その気持ちを想像することの大切さがまったくわかっていない人たちが、「子育て安心プラン」(=経済政策)という名の施策をつくる。「自立」とか「人材」という言葉を使い、ものごとを損得で考える人間をつくることが高等教育の役割のようになってきていて、それに誰も疑いを抱かない。

「人づくり革命」を標榜するこの「新しい経済政策パッケージ」の中に、「子育て安心プラン」の当事者である幼児たちの願いを想像する視線が皆無であること。そこに「高等教育」の普及充実から起こる問題点が見えます。子育ての視点が「教育」に向かうことの致命的欠陥が見える。「高等教育」の普及が進むにつれ、0、1歳児の「思い」や「願い」を想像する力が社会から消えてゆく。人間が本来持っているはずの感性が消えてゆく。これでは教育は本当の意味で「知の基盤」にはなり得ない。

義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり、それが始まると義務教育が追い詰められ、社会全体が急速に変質してゆく、犯罪率が異常に増えるという欧米の通った道がそこに見えます。

(無償化が行われたイギリスで4割、フランスで6割の子どもが未婚の母から生まれ、犯罪率も日本よりはるかに高い。保育士による虐待を防ぐために監視カメラを保育所に設置する韓国における保育の質の低下については、すでに日本でも報道されています。政府の政策に、単純に諸外国においても、「例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる」と書いてしまう学者たちのいい加減さ。学問のご都合主義。無償「だから、これらの国々はこのようにいい」という具体的な説明もなく、ただ日本はダメだ、遅れている、みたいな論法に外国の名前を入れていまだに発言している人たちが政府に選ばれ施策立案に関わっているのです。幼児教育の普及と「無償化」を混同し、それによって親たちの意識がどう変わってゆくかを考えない。

この経済最優先のトリック、無責任さをなぜマスコミは指摘しないのか。見過ごすのか。現場を知らない「学者」を専門家と呼んではいけない。彼らに「子育て」や「人づくり」に関する政策立案をさせてはいけない。http://www.luci.jp/diary2/?p=208

「米疾病対策センター(CDC)は27日までに、米国内における薬物の過剰摂取による死亡者数が昨年、計4万7055人の過去最高を記録したと報告した」社会で子育てという言葉で家庭崩壊の方向に向かった国で、絆を失った人たちが苦しんでいます。http://www.luci.jp/diary2/?p=1014)アメリカの小学生の1割が学校のカウンセラーに勧められて薬物(向精神薬)を飲んでいると言われる。そんな方法で、辛うじて教師の精神的健康を保とうとしている。アメリカでは、カウンセラーという「専門家」が児童に勧める「薬物」が、将来の麻薬中毒、アルコール中毒につながっているという研究さえとっくに終わっているのです。それでも、なぜ「専門家や薬物」に頼らざるをえないか。親が、「子育て」を仕組みに依存することによって、親らしさと絆、相談相手を失ってきているからです。

アメリカで以前、子どもを殺された母親がインタビューに答えて「1人の子どもを育てるには一つの村が必要だけど、1人の子どもを殺すには、たった1人の犯罪者しかいらない」とテレビのニュースで言っていました。「It takes whole village.」久しぶりに聴くフレーズでした。http://www.luci.jp/diary2/?p=1014

学問や教育ではなく、一つの村が子どもを育てるのです。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー