帰って来れる場所

子どもにとって母親の仕事は母親の時間を争うライバルでしかありえません。それがどんなに素晴らしい、その母親にしかできない、社会的に意味のある仕事であっても関係ありません。そこで母親が輝けば輝くほどますます腹を立てるのが普通です。

母親が働くことが一家の生活に不可欠であることを繰り返し説明し理解させる。そして、働きながらも母親の心の中で優先順位はまぎれもなく子どもであることを感じさせるしか、子どもとの良い関係を保つ方法はありません。「あなたが優先なの」と子どもに感じさせようと思ったら、本気でそう思うしかありません。本気で悩む、本気で後ろめたさを噛みしめる、逃げずに本気で思えば結構通じるものです。

 時間がかかるかもしれません。伝わるのが、子どもが親になった時になるかもしれません。親が死んでしまってからかもしれません。しかし、通じるのです。親子関係というのはやり方でも成果でもなく、ましてやタイムリミットがあるものでもありません。心のあり方とコミュニケーションだということを忘れてはいけません。

(親として悩んだ時、いい親でいたいと思った時、子どもの幸せを願う時、優しい顔をしていない人のアドバイスや意見には絶対に耳を傾けないこと。強者の意見は子育てには向きません。)

(子どもに幸せになってほしければ野心を抱かせないことです。どうしても夢を追求する子に育てたいのなら、夢破れた時に帰って来れる場所、家庭という異なった幸福のものさしを用意しておいてやることが大切です。帰って来れる場所を作れる子どもに育てることです。)

 

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「夢」が奨励されればされるほど、不安やイライラが社会全体に蓄積し、子育てをしている母親たちに少しずつ伝染していく。

子育ては、まさに「現実」。

「自己表現」も「自己主張」も通用しない、思うようにならない「生活」そのものです。それを宇宙は私たちに与えたのです。そこから真の幸福論をつかみとれ、と。

 

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「一度しかない人生、自分らしい生き方」

「人生輝いていなくてはいけない」

「一人の女にかえれ」

こんな言葉が頭に浮かんでくると自分の人生が色褪せたものに見えてくる。

そして自分の「夢」(本当は「欲」の場合が多いのですが)をさまたげているのが子どものように思えてくる。

「欲」は持たないほうがいい、と言えばうなずく人が多いのに、「夢」は持たないようがいい、と言われれば納得できない。それで良いのですが、最近、「夢」のほとんどが社会的成功、経済的成功や有名になることになってきていることに気づきませんか?

「夢」は、もっと幸福論に近いものでなければいけないはず。

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「夢」と「欲」

「夢」と「欲」の区別はつきにくい。それはたぶん表裏一体のものでしょう。夢を持てば不安になって当然です。「夢を持って生きる」という言葉の響きは美しいけれど、「不安を手に入れよう」と言っていることと大差ない。その不安を克服しつつ、夢に向かって進み続ける強い人間もいるでしょう。しかし、よほどの強さか運を持ち合わせていないかぎり、現実はそんなに甘いものではない。

(アメリカでは5%の人が90%以上の富を握っている。競争社会で成功する、「勝つ」ことを目標にしてもその「夢」は、ほとんどかなわない。それが現実です。失敗する人が多いから、一部の人が儲かる。経済論というのはネズミ講のネズミをいかに増やすか、みたいなものなのです。)

学校教育は子どもたちに与える目標として、何かを達成する、成し遂げる幸福感ではなく、それに取り組む過程における「人間関係」に幸福感を見い出すように子どもたちを導かなければなりません。目標はあくまで目標であって懸命に努力さえすれば、たとえそこに到達しなくても、場合によっては共に失敗したからこそ、より一層親密な人間関係がまわりに生まれるのだということを体験させるべきなのです。(子育ての幸福感と重なります。)

学校を使って、親密な人間関係に幸福感の土台があるのだということを子どもたちに教えることが出来たらと思います。

夢破れた時に、帰るところがあればいいだけのことなのです。

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 夢を追いつつ人間関係を作ってゆけばいいのです。夢を追い競争する中で、逆に、競争に勝つことではない、人間どうしの助け合い、優しさに目覚めていけばいいのです。

 でも、それと同時に、わらしべ長者や三年寝太郎のような人たちの存在感、その意味、みたいなものを教えていく。それは、幼児と接するということでできます。誰が一番幸せそうか、と考えたときに、3、4歳児が一番幸せそう、幸せに簡単になれる人たち、ということを学校教育の中で、保育体験などをさせて、体験的に学ばせてゆくといい。

未就学児の施設入所を原則停止(返信)

(未就学児の施設入所を原則停止について書いた文章にコメントをいただき、それに対する返信です。)

ありがとうございます。乳児院の子どもたちに興味を持たれていること、嬉しいですね。以前、ブログに「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」
http://www.luci.jp/diary2/?p=1676 を書きました。とても難しい問題で、社会全体の流れの中で起こっていること、と捉えないと、個々の状況があまりにも違いすぎて解決策などありえないのですが、いきなり原則停止みたいなことが行われてしまう現状に、当事者たちは何も言えない。それを実行しなければいけない行政の人たちも何も言えない。

だからこそ福祉という仕組みに関しては安易な改革は危険だと思います。幼保一体化、無償化、保育の規制緩和、安易な待機児童施策、最近あまりにも早い速度で、学者と政治家(主にそう思われる)による無責任な改革が進んでいて、保育・教育の現場が混乱し疲弊しています。0歳児がしゃべれないからこそ、大人たちの想像力が大切です。保育・教育は「感謝」でなりたっていたことを思い出さないと、いい保育士、いい教師が去ってゆく。そこに気づいてほしいと思います。

教育という視点 (保育園の背負う重荷が増えています。)

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(都市部の役場の人から。)

なぜ、ここまで保護者は怒り憤るのでしょう…

世の中が、世知辛くなってしまったからでしょうか…

そのイライラを、こどもを叩いたり、私にぶつけてくるのであれば、時間を惜しまず全身全霊で受け止めた甲斐があるというものなんですが。

それだけ、孤育になっているということなのかもしれません…

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講演する保育士会から前もって質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

学者や政府は小一プロブレム、学級崩壊の問題をいよいよ保育園・幼稚園に押し付けようとしている。

大学を卒業、就職した若者たちが会社に入って三年もたない、続かない、そんな話をよく聞きます。確かに中学生くらいで、特に男の子が幼い、私もそれを感じます。そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。それが少子化の大きな原因でしょう。

男たちに、意欲、忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、生きる力が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにある。

大学教育が問題だ、いや、それ以前の高校教育の問題だ、中学校が問題だ、小学校の問題だ、と順番に言われ、仕組みがお互いに責任転嫁をして、いよいよ「保育の問題だ」となったのです。

「保育」をさっさと飛び越して「親の問題だ」とはっきり言えばいいのに、学者やマスコミはその現実を指摘するのをいまだに避けている。自分たちが干渉・操作できる教育という「仕組み」の問題を越えてしまうようで踏み込めないのかもしれない。しかも、総理大臣が3歳未満児をもう40万人親から引き離せ、と言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を異常に早期に引き離す施策を公約などに掲げているのですから、いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」とは言いにくい。

NHKのクローズアップ現代は、実は言っていた。(「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)」http://www.luci.jp/diary2/?p=267)国連の子どもの権利条約や、ユネスコの子ども白書などでも、この親子関係の問題、特定の人との愛着関係の重要性についてはずっと言っていた。解釈はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」ということわざは、様々な国、様々な宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われてきた。学校教育、学問などというごく最近のものが現れるずっと前から言われていた。

「教育」という言葉を保育所保育指針に入れれば、それで何とかなるのではないか、と思っていることがおかしい。本気かどうか知りませんが、姑息です。問題の本質がわかっていない。学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという学者の無知と傲慢さが腹立たしい。

それなら、非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろよ、と言いたいくらいですが、それで本当に学校教育が成り立つようになるとも思えない。でも心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、これ以上もう要求するな、とは言いたい。

教育が成り立たなくなってきたのは、「教育」の問題ではありません。就学前に親が育たなくなってきたからです。義務教育が存在する以前の「子育てが親を育てる」という本来の法則が、ここ百年くらいの間に、「システムとしての教育」「システムとしての福祉」の出現により成り立たなくなってきているところに問題はあるのです。

教師の質の低下も確かにある。しかし、本当に教師たちが言いたいのは、子育てを当たり前のように保育や学校に依存しようとする親が増え、家庭や家族の中で感じるべき安心感、安定感を欠いた子どもたちによってクラスがまとまらなくなってきた、ということでしょう。一人の担任に30人の子どもの子育てはできない。学校教育は、親たちがそこそこ子どもをしつけ、学校の先生にそこそこ感謝して成り立つもの。

「子育て」は育てる側を育て、育てる側の心を一つにする、それが人類としての基本です。

今回の保育指針の改定は、結局、「教育」という言葉で誤魔化し保育園に「しつけ」をさせようとしているのです。

しかし、それは家庭の協力なしにはできないし、保育をサービス、成長産業と政府が定義付けたら、そのことをはっきり親たちに言うこともできなくなっている。この矛盾が保育界を追い詰める。

(規制緩和され、無資格者の存在が当たり前になってきている)小規模保育や障害児デイサービスなどで、親に、「家庭でも、もっと規則ただしい生活をさせてください」と言おうものなら、親が息巻いて役場に駆け込む、プライバシーの侵害だ、と訴えるような状況がすでに始まっている。

政府の無理な(無知な)労働施策と規制緩和で、ただでさえ質が下がってきている保育士たちに、他人の4、5歳児を30人しつけろと要求したら、虐待まがいの風景が現れる。(以前にも書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=1400)

たとえそこで子どもたちが一時的に座っているようになっても、保育士にしつけられ、笑顔が消えた子どもたち、特に親との愛着関係ができていない子どもは、小学校4年生5年生くらいでキレるという。http://www.luci.jp/diary2/?p=233

しつけた人がもうそこにいないのだから仕方ない。親も育っていない。(しつけというのは、しつける側がどう育つか、というのがその行動の本質。)土台や継続性のないしつけは数年しかもたない。小一プロブレムが、小四プロブレムになってゆくだけのこと。子どもの「しつけ」は、本来「みんなで可愛がる」という子育ての土台があってされるものです。

みんなで可愛がる、という土壌があれば、しつけさえ必要なくなってくる。欧米人が日本の伝統を見てそのことを書き残しています。http://www.luci.jp/diary2/?p=205

こうした欧米人が書いた日本の子育てについての記述を読んで思い出すことがあります。以前、ある学者が私に「可愛がると、甘やかすは違いますよね」と言ったのです。「そんなもの、同じでしょう」と私は答えました。厳密に言えば、言葉が違うのですから違うのでしょう。でも、そんなことを考えながら「子育て」はできない。

保育士の3割を派遣に頼る園が現れ、ますます保育室が荒れてきている現状で、「教育」(しつけ)という言葉を保育に持ち込める状況ではすでにない。いや、持ち込んではいけない。もっと先に整えなければいけない問題がある。

 

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保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる

どうしても、この子たちのことが気にかかる。この子たちを大事にしなければ福祉という仕組み全体が壊れて行く気がする。

親に守られなかった子どもたち。自分を守れない年齢の子どもたち。家庭という生きる場所を失った子どもたち。だからこそ、福祉が心を込めて助けなければいけないひとたち。政府の言う「福祉の歳出削減」の最初の犠牲者になってはいけない人たち。

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞

この記事に載っている「家庭に近い環境」という言葉は、政府の財政のつじつま合わせを実行するための厚労省の誤魔化しに過ぎない。本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けないはず。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような規制緩和はしない。

講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみます。すでに市町村をまたいだ地区の児童相談所から説明を受けた課長もいます。まだ知らない人もいる。

親元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか、という声がありました。

施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と複雑な状況、そして子どもたちの未来があります。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場です。

こうした施策を上からの指示で進めることによって、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が薄れ、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が薄れるのではないか、という危惧があがります。この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題です。

政府やマスコミ、政治家は簡単に、それが正論のように、みな「待機児童をなくせ」と言いますが、それは同時に乳幼児を家庭から保育園に移すこと。子どもたちから長時間「親と過ごす時間」「親を体験する時間」を奪うことでもあります。親子の絆、就学前に親子が過ごす時間の質は、いまや学校教育が成り立つか成り立たないかを左右する問題です。肉親とか家庭という言葉の意味を真剣に考え、その存在意義や価値を大切にしておかないと、やがて福祉は重荷を背負いきれなくなる。それが見えています。

親に虐待される、家庭が崩壊するなどして、身勝手な大人たちによって追い詰められた就学前の弱者たちにとって、人生の岐路ともなる選択を、「施設入所原則停止」という決定で政府が決めてしまっていいのか。親身になるほど現場で(神の役割にも似た)重要な判断を迫られる人たちの悲鳴、葛藤が聞こえてきます。

何気なく進められる国の施策の陰で、実際に現場でその子たちと関わり、懸命にその子たちの幸せを考えようとする行政の人や指導員が追い詰められている、そして、やる気を失ってゆく。11時間保育を標準と名付けた施策もそうですが、こんな乱暴なやり方をしているから、行政や福祉という仕組みに「心」がなくなってくるのです。いい人材が去ってゆくのです。

児童養護施設や乳児院はお金がかかる。今の状況ではよほどの待遇改善が行われない限り有能な指導員は確保できないし仕組みとしての限界を超えている。たぶん、その辺りがこの施設入所原則停止の主な理由なのでしょう。しかし表向きには「家庭に近い環境」と言い、欧米では里親制度が主流だから、という学者たちの意見や受け売りの研究を政府が鵜呑みにし、渡りに船とばかり利用しているのではないか。この施策を説明する厚労省の文書に出てくる横文字の多さには辟易とします。英単語を知らなければ理解できないような文章から、施策の向こうに欧米かぶれの、日本の状況を知らない学者たちの存在を感じます。こういう問題で政府が数値目標を出してくるとき、たいていその裏に「欧米の数字しか見ていない」御用係のように集められた「専門家」たちがいる。(保育新制度の議論の時もそうでした。)

「福祉という仕組みの一部としての里親制度」は、実の両親に育てられる子どもが半数を切ったような国々で定着し、常態化し、里親先進国アメリカにおいてはネット上で子どもをやりとりするような、大人たちの市場原理に近い異常な状況を生み出しています。ドキュメンタリー「捨てられる養子たち」(http://www.luci.jp/diary2/?p=1413)。それは「家庭に近い環境」というより、市場原理に頼らざるを得なくなった「福祉」の成れの果ての風景です。

欧米に比べて奇跡的にまだ家庭が崩壊していない日本で、欧米並みにこの国も、という考え方はあまりにも短絡的で無責任。

欧米など、まったく真似する必要はない、価値もない。

以前フログに、「幸福度1位と51位・国連のものさし、この国のものさし」http://www.luci.jp/diary2/?p=1990を書きました。

「国連の幸福度1位のノルウェーでは、女性がレイプにあう確率が日本の20倍。殺人事件の被害者になる確率が2倍、泥棒に入られる確率が4倍。14ヶ月の徴兵もある。」「そして、13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっているのです。」

政府は、こういう強者の幸福度でしか見れない国連が決めた「日本に女性の地位の低さ」を気にしているようです。

「政治家になる女性が少ないこと」でその「地位」を決めるような愚かなものさしをなぜ真に受けるのか。最近の政治家たちの醜いドタバタを見れば、よほど「欲」を持たない限り、そんなものに成りたくないという判断の方が賢明なように思えます。

経済的に成功すれば「幸福」という欧米的なものさしから、幼児たちが「女性が輝く」ための障害になっているという考え方が生まれるのでしょう。こういうひとたちは、砂場で遊んでいる三歳児四歳児が一番幸せそうなひとたちだ、ということにさえ気づかない。

政府が主導する「仕組みとしての里親制度」は、実の親、血のつながりという言葉にまだ価値を見出している日本では制度として定着しない。(たぶん、役場や保育園に里親募集のポスターを貼っておしまい。「虐待ダイヤル189」と同じ。)誤解を恐れずに言えば、この定着していないことを、「いいこと」と考える人がなぜ政府にいないのか。40万人保育所で預かれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンもエールを送ってくれました、と国会で首相が言ったことにも表れているのですが、欧米ではこうだから、(こうしないと国連の幸福度調査が上がらないから、)という欧米コンプレックスが未だに日本の福祉施策(雇用労働施策)の土台にあるような気がしてなりません。

そのコンプレックスが、「欧米では」という言葉を持ち出すことによって行われる利権争いや、経済施策や失政の言い訳に利用されている。そして日本の文化、弱者を優先する伝統的家庭感、価値観が崩れてゆく。施策で家庭崩壊を進めながら、福祉で支えきれなくなると、「家庭に近い環境」などと言って逃げようとする。歳出削減の犠牲者が抵抗できない幼児たちであることを誤魔化そうとする。政府の施策で、日本の美しさが消えてゆく。

最近常套句のように言われる、「生活スタイルの変化や価値観、多様化するニーズに応えること」より、いまこそ、将来福祉が成り立つために、「変えてはいけない価値観」がある。そう考える政治家が現れて欲しい。

現在、制度としてはまだ定着していない日本の里親制度は、実は欧米よりも心がこもった、子どもたちの安全に細心の注意を払おうとした、より真剣な人たちによって支えられている制度ではないのか。だからこそ、広がらない。高いハードルをクリアできない。希望者が少数しか見つからない。そう考えるほうが自然です。

里親という幼児の一生に責任を持とうという人たちは、待遇を改善し、規制緩和し、ハードルを下げ、掘り起こせば簡単に見つかるわけではない。

保育士不足対策として行われている「資格者半数でいい小規模保育」「基準を下げた地域限定保育士資格」「家庭的保育事業」「保育補助員制度」などを見ればわかるのですが、今の子育てに関わる施策は、子どもの安心安全が置き去りにされた、大人の都合と労働施策主体の危険な規制緩和です。

学童の指導員、ファミサポ、民生委員や保護士もそうですが、半分ボランティアのような仕組みに頼れる時代はもう終わりかけている。真心が、福祉という仕組みの中で裏切られる状況に拍車がかかっている。善意を裏切られると、一番福祉に向いている「その人たち」はもうなかなか返ってこない。

そして、私が現実的問題として最も危惧するのは、「未就学児の施設入所を原則停止」が、すでに疲弊してきている保育所に、仮児童養護施設的な役割をさらに押し付けてくることです。

その傾向はすでに7、8年前からありました。

「認可保育園を増やせと言っても、いま保育園は、最前線の児童相談所、仮児童養護施設の役割さえ果している。児童虐待やDVを一つでも止めようとすれば、園長は家庭に踏み込んで行くだけの気力と決意を必要とされる。それをしないと他の児童とその人生に直接影響が出てしまうのが保育園。規制緩和で保育園が崩れたら児童福祉全体が危ない。」と以前ブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=211

「保育の質の低下」は単に幼児が過ごす時間の質、保育士の質の問題だけではありません。最近特に著しいのは、園と家庭、保育士と保護者の信頼関係の質の低下です。私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられたころから、親が役場に保育園に対する苦情を言うと、役場が保育園に「文句が出ないようにしてくれ」と言い、親身な園長たちが次第に口を閉ざしていった。役場と現場の保育者の信頼関係さえも危うくなっている。

十年ほど前までは、問題のある親子を長時間引き離すために保育園を使う場合、行政から園の方にそれなりの説明がありました。でも、ここ数年、行政が問題のある親子を黙って「措置」(昔の言い方ですが)してくる。4月の親との面談で、園側は初めてその状況を知る。様々な問題のたらい回し、先送りの終着点が保育園になりつつある。確かに5歳までの子育て・親育てが人間社会の土台をつくってきたのですから、当然なのかもしれない。しかし、「保育界」は、それを受け入れる、引き受けるだけの仕組みにはもうなっていない。

「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」。この言葉がいかに恐ろしいか。政府の施策がいかに現場を知らず、浅いか。この国からどれほど優しさを奪っていくか。マスコミは真剣に取り上げ、みなで考えてほしいと思います。

「虐待ダイヤル189(イチハヤク)」

あちこちでポスターを見ます。でもこれが進められた時、ダイヤルした先の仕組みの改善はほとんど行われていなかった。いわゆるやったふり施策だった。イチハヤク連絡しても、イチハヤク対応できなかった。

こうした子どもの生死に関わるキャンペーンを国が真面目に本気でやるなら、電話を受ける人員を増やし、そこで相談にのる人、児童相談所の仕組みを充実させ、虐待の疑いがあった場合に子どもたちを受け入れる施設、乳児院や児童養護施設の量的質的改善、人材の確保を同時にしなければならなかった。

それをせずに、いきなりその1年後に「未就学児の施設入所を原則停止」です。乱暴すぎる。最近の政府のビジョンのない福祉施策の典型だと思います。

こんなこと無理だとわかっている児相は、各市町村の課長に「里親を見つけてください」と指示し、そんなものどうやって探せばいいかわからない課長(数年の任期で移動する、元土木課長だったりする人?)は、送られてきたポスターを保育園や公民館に貼って、おしまい。

そして、「未就学児の施設入所を原則停止」という現実だけが残る。

 

 

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(この文章をフェイスブックでシェアしてくれた音楽家の友人に、)

塩入さん、シェアありがとうございます。もう三十年も前に米国の里親の問題とドラッグの関係について書いたことがあります。里親制度が先進国社会特有の家庭崩壊をその原因としてある一定の定義、範囲を超えてしまうと必ず起こってくるのが、妊娠中のアルコール摂取、麻薬使用の問題です。(ブログに載っています。)http://www.luci.jp/diary2/?p=1428 こうした家庭崩壊に関する問題で、日本の状況は、まだ欧米の50年前くらいの数字ですが、それがいま急速に進んでいる、政府、政治家によって進められている。経済優先、で。そんな時、ふと音楽の出番を感じることがあります。子守唄とか祈りとか。優先順位を思い出させてくれるもの。いにしえの法則を感じさせてくれるもの。

「未就学児の施設入所を原則停止」についてのやりとり。

(私のメール)

お元気ですか?

いつも、突然ですみません。質問があります。

ブログ、http://www.luci.jp/diary2/?p=2363 に「未就学児の施設入所を原則停止」を書きました。(児童養護施設、乳児院への施設入所原則停止です。)この原則停止を「家庭的養育」への一歩という、それは責任逃れで、実は人材的にも財政的にも一番の弱者、家庭を失った幼児たちを、多くの人たちが知らないうちに、切り捨てるということ。「家庭的養育」の第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた経済優先施策を変えることです、

という内容です。

元になっているのは、毎日新聞の報道です。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

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こんなこと可能なのでしょうか。福祉の残酷さの象徴のような気がします。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいい。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。たとえ育ったとしても、里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする、子どもを商品やペットのようにあつかう身勝手な社会です。

(「捨てられる養子たち」https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M ぜひ見てください。)

ご意見を聞かせてください。

お願いします。

松居

 

(返事)

メールありがとうございます。

和さんの一語一語に、思わずウンうんと頷きながら、もうひとりのわたくしは、国の政策に加担している一人なのかと思うと愕然とした失望感を否めません。

先日も幹部の職員と新年度予算の子育て政策について話し合いの際、それは子育て支援ならぬ、子育て放棄支援策です、と発言してしまいました。(低年齢児の預りも、病児保育も)

(施設入所について)

虐待やネグレストによって保護された児童は、養護できる安全な環境と安心できる大人の環境において、慈しみ愛されることを享受できるようにしなくてはなりません。

「家庭的」とはなんでしょうか。

国の稚拙で短絡的な考えの中には、ただ建物が屋根がある家屋でみることが家庭的と思っているようにしか見えません。

このまま進めば、里親法の悪用も邁進するでしょう。

要保護児童の対応にあたる度に思うのは、悪知恵の働く大人は目に見える虐待はしません。アザもなく傷害を負わなければ、児相も警察も動きません。

大切なのは、心の中で出血し、傷付き、心が死んでしまうことです。

そこに気付くケースワーカーも保育士も保健師もそこにはいません。

「家庭的」という偽善なカーテンの向こうにあるものを政治家が、行政が、親たちが、心の眼を見開いて見なければなりません。

(どうか、傷付いたこども達よ、目に見えるアザがなくても、心から叫んでほしい。愛情がない生活をしていると…。ぼくは、わたしは、もっと愛されていい存在なのだ!と)

(次の厚労省のやり方について)

これまで病児保育について、推進してきた国の政策は、おそろしい一手に出ました。

医療的支援が必要な児童を預るモデル保育施設を募りはじめたのです。

県から通知がきました。

補助金は年間約700万円。現在の病児保育のうち体調不良型保育をやった場合の約2倍で手を打とうというもの。

そもそも人口呼吸器を必要とする児童を預かってはいけない。

命を預けるということ、命を預かるということを軽んじ過ぎています。

国がこどもの命を考えないで、なにが住みやすい国だと公言できるのでしょうか。

徒然なるままに、書いてしまいました。

この続きはまた

きょうも諦めずに、これから戦場へ行ってまいります。

こども達が笑顔になるために

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(私の返信)

ありがとうございます。

そうですよね。
施策の進む方向が根本から間違っているから、ますます現場が追い込まれる。
でも、福祉として行う里親制度は「行き止まり」で、それ以上逃げるところがない。だからこそ、最後の手段でなければいけない。
政府が、子育て放棄支援策を経済優先(長い目で見て、本当にこれで経済が良くなるとは思わないですが)で家庭崩壊を進めておきながら、行き詰まると「あとは家庭的に」というのは無責任。施設入所を余儀なくされた未就学の子どもたちは、自分で自分を守れない上に、守ってくれる家族がいない。こうした一番の弱者に、いきなり「施設入所原則停止」と国が決めて、誰も表立って反対しない。そういうことが起こっていることさえ多くの人たちが知らない。
マスコミ、政治家、学者が怠慢なのです。
熱い言葉、ありがとうございます。
頑張ってください。
松居

未就学児の施設入所を原則停止・政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになる。

 以前この連載に、国が薦める「子どもショートステイ」について書きました。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1150)

 「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」と杉並区のチラシにありました。

育児疲れ、冠婚葬祭でも二歳未満児を知らない人に一泊五千円で預けることを「OK」と若い親たちに行政がチラシで薦める、この国の政府は一体何を考えているのだろうか。それほど自信のある仕組みを用意しているのか。福祉という名の下、仕組みで人間性を壊そうとしているのではないか、幼稚園を通して配られていたチラシを手に唖然としたことを覚えています。

当時、すでに受け入れ先の乳児院や児童養護施設自体の質が問題視されていたのです。職員の待遇改善や資格の問題などが置き去りにされ、施設の負担は増すばかり。同時に、子どもを「負担」と考える、親に成りきらない親たちによる児童虐待が増えていました。

通常の認可保育園なら一週間かけて行われる「慣らし保育」も経ず、そこで様々な不幸な状況下で育つ子どもたちに囲まれ、親に連れられ、区に勧められ、幼児が宿泊する。その時過ごす時間は、ひょっとして乳幼児期の育ちや発達に、(将来の学校教育や治安維持に)、誰も気づかないところで負の影響を及ぼすかもしれない。それは誰にも予知できないし、照明もできない。だからこそ、崩してはいけない「意識」がある。

「幼児たちの気持ち」への想像力、配慮が、子育てにおける利便性を煽る政府の施策の考慮すべき要素に入っていない。だから、保育園、乳児院、児童養護施設、学童など子育てに関わる様々な現場で、いい指導員たちが精神的にも、肉体的にも、疲れ果てて辞めて行く。

保育を市場原理にまかせよう、成長産業としてとらえようという、国の方針が、子育てに対するとんでもない意識改革を進めています。

以前、新聞の夜間保育特集に、夜間保育が広がらない背景に「夜に子供を預けて働くことに対してまだ社会全体で抵抗感があり」と夜間保育園連盟会長が発言していたことを取り上げ、この「抵抗感がなくなること」こそが怖い、と書いたのですが、http://www.luci.jp/diary2/?p=2026 保育が産業に取り込まれてゆく過程で、保育をする側からも、家庭崩壊を助長するような動きが出てくる。これもまた大きな問題です。政府に勧められ仕組みに加わった人たちの、生き残るための死活問題が「幼児の気持ち」を超えるのです。

 

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脳の発達を考えれば、3歳未満児は何を教えられたかより、どう扱われたかが人生を決める。丁寧に、みんなで「可愛がる」が基本です。親や祖父母、兄弟姉妹の代わりをしなければならないとしたら、このまま進めば、保育士の「人間性」がより問われてくるのです。しかし、保育士不足で現場が保育士を人間性で選ぶことができなくなっている。選択肢がなくなっている。

政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになるのです。

三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=255

利益優先の小規模保育が明らかに規則違反をしていて、それを行政が把握しながら防ぐことができなかった。そして、こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策に対する警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、危うい保育が、むしろ増える方向に進んだ。同時に、小一プロブレム、いじめ、不登校、学級崩壊に歯止めがかからなくなっている。

義務教育という仕組みは、一部の家庭や親子関係のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いまさら「就学前教育」などと言って責任転嫁を図っても、いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育がさらに破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国の保育のサービス産業化が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

 

そうした経緯があって、さらに最近の毎日新聞の報道なのです。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

乳児院や児童養護施設は子ども一人あたりの運営費が非常に高くつきます。このままでは、財源と人材が追いつかない。だから、未就学児の「施設入所停止」が必要なのです。施策の失敗を「家庭的がいいんだ」という言葉で誤魔化すのです。

「家庭的」がいいのです。しかし、長時間保育で3歳未満児が親と過ごす時間を減らし、「家庭に近い環境で子どもが養育されないように」しておきながら、雇用労働施策で愛着障害、家庭崩壊、虐待を増やしておきながら、いまさら「家庭的養育」へ一歩、というのはあまりにもおかしい。「虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する」というやり方はひどい責任逃れというより、論理が支離滅裂です。

家庭的養育への第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた施策をやめることでしょう

子はかすがい、ではなく、子育てが人類のかすがいだった。それを保育という仕組みで代替できると思う方がおかしい。子育てを福祉で家庭から奪えば、人間らしい「かすがい」が急速に希薄になり、そのひずみが、ますます福祉や教育を追い詰める。少し考えればわかることだし、もう引き返せないほど現場に兆候はでている。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいいのです。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする社会です。(「捨てられる養子たち」http://www.luci.jp/diary2/?p=2063)

いま一番福祉でしっかり守らなければいけない、家族を失った未就学児の養護施設入所を原則停止し、「幼児教育の無償化」などと安易に公約を掲げる政治家たちのやり方に腹を立てているのは私だけではないはず。

突然、「原則停止」と言えないのが家族、親子だった。だからこそ、幼児は時間をかけて親を育て、家族の絆を育てることができたのです。

 

https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

幼児教育や高等教育の無償化

選挙対策なのでしょうか、こんな報道がありました。
「安倍総理大臣は、ニューヨークのウォール街にある証券取引所で演説し、衆議院の解散・総選挙で掲げる「人づくり革命」に関連して、消費税率を10%に引き上げた際の増収分の使いみちを見直し、幼児教育や高等教育の無償化に充てることに強い意欲を示しました。」

最近の保育のサービス産業化を見ていると、保育所保育指針という法律に書いてある、「園児の最善の利益を優先して」という理念さえ、閣議決定において大臣たちに周知、徹底されていないのではないかと思えます。彼らは、その言葉が、保育を支えるための法律に書いてあることさえ知らないのだと思う。だから「子ども・子育て支援新制度」で、11時間保育を標準と名付けたり、「保育は成長産業」と閣議決定で決めたりするのです。
国が、幼児優先という保育の根幹にある理念を自ら制度で壊している。その矛盾が保育界を超えて他の子育てに関わる福祉や学校教育をも、崖っぷちまで追いつめているのです。

 一つのいい例が学童保育です。未満児の「受け皿」を短絡的に、将来を見据えない馬鹿げた経済施策で進めたために、民営化や指定管理制度で逃げようとしていた学童保育が人材的にも財政的にも逃げ場を失っている。学童保育に来る子どもたちの状況を考えれば、いまそこが一番ケアされなければいけないはずなのに、制度の仕組みも、指導員の資格も、待遇改善の方向性も定まらない。迷走している。資格や仕組みが確立されないまま市場原理にまかせようとした障害児デイ施設など、資格の規制緩和や利益優先のサービス産業の参加によって、子どもたちを囲む状況はさながら無法地帯になりつつある。与党も野党も、子育てに関するビジョンが、ただの親の利便性対応になっている。子育てが、損な役割のように位置づけられ、幼児や子どもたちの、願いや思いが政治家の頭から忘れられている。
それは、あと40万人保育園で預かれば、女性が輝く、と国会で言った首相の言葉にも表れているのですが、女性を子育てから「解放し」経済競争に組み込めば、それが国にとっていいことなのだ、と多くの政治家が信じ込んでいるような気がする。だから、子どもたちの気持ちを感じてしまう、いい保育士が辞めてゆく。保育士不足が止まらない。

森友学園問題の報道を思い出してほしい。あの(知り合いの)園長先生の規則を無視した、傍若無人な行政への説明を見たら、首相だって、あと40万人保育の受け皿を確保します、などと軽々しく言えないはず。

保育園の義務教育化など夢のまた夢。保育士の質を落としておいて、小一プロブレムや学級崩壊の責任を「就学前教育」などと言って、保育界に押し付ける詐欺のような施策と同じです。教育という言葉を入れさえすれば、それができると思うこと自体がおかし。
幼児教育無償化など、本質的に考えれば、つまり「教育」という責任論から言えば、いまの保育界に受け切れるわけがない。非現実的、学者の机上の空論。失政の責任転嫁。教育は家庭という土台がなければ成り立たない。学校は、親が親らしいという前提のもとに作られている。(民主主義も福祉も、幼児たちが、その存在感で生み出す「モラルと秩序」が社会に存在することが前提に作られている。)
就学前に親が親として育っていない、幼児期に特定の人間と(家族と)愛着関係が築かれていないのが、保育・教育問題の本質です。保育園の義務教育化、無償化は義務教育を崩壊に向かわせる。高等教育の無償化も含め、子育ての無償化は家庭という社会の土台を崩壊の方向へ導く。
働く動機、愛する人のために頑張る、責任という言葉に生きがいを感じる、それがなければ経済は破綻するのだと思う。破綻するプロセスで、一部の強者がいい思いをするためにいまの経済施策は進んでいるのだと思う。

 

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「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」

来年施行される新しい保育指針には、3歳未満児の保育、発達の重要性について、以前よりスペースを割いて詳しく書かれています。それ自体は、いいことです。これからますます負担が増えてゆく未満児保育の、親子の人生における位置、大切さ、負っている責任を考えれば、ただ資格者を揃えて預かればいいということではありません。その資格者がどういう保育をするか、乳幼児期の発達をどのように理解しているかがますます重要です。
子ども・子育て支援新制度で小規模保育や子ども園、家庭的保育事業などを増やし、待機児童対策と銘打って、実は雇用労働施策なのですが、政府はこれだけ未満児保育の枠を広げたのですから、指針により詳しく書くのは当然だと思います。
腹立たしいのは、枠を広げることで起こっている慢性的な保育士不足、つまり募集しても倍率が出ない状況が全国で起こっていて、それが一方で保育界全体の保育の質を下げているのですから、保育指針の改訂が問題の根本的対応にまったくなっていないこと。指針にいくらいいことを書いても実行する保育士の質がますます危うくなっているのですから、保育の質は上がらない、意味がない。

 (本当は意味があるのですが、政府の思惑や、すっかり後手に回っている、保育・教育における施策を見ていると手厳しく言いたくなってしまう。意味はあります。がんばりましょう。)

続けます。3歳未満児主体に保育をする小規模保育は資格者半数でいい規制緩和をして、保育指針の内容を充実させても、本末転倒です。結局、政治家や学者の「やったふり」、失敗した施策の責任逃れにしか見えない、私には。しかも、小規模保育や家庭的保育事業は、この指針に「準ずる」保育でかまわない、と指針の中に書いてある。最初から逃げ道をつくっているのですから狡猾です。これで、本気で未満児の命、日常を守る気があるのか、と憤りさえ感じます。

(以前、役場の人が言っていました。「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」と。)

確かに、保育士の待遇改善は進んでいますが、待遇改善をしてもらうには研修を受けなければならない。単に給料を上げればいいだけなのに、ハードルを作って格好をつけようとする。誰に向かって何を正当化しようとしているのか知りませんが、ただでさえ保育士不足で困っている現場から、研修の名で保育士を奪ったら、それだけ、その日、同僚の保育士たちが困るのです。現場が見えていない。加えて、研修で「保育はサービス、親のニーズに応えるのが保育」などと、今進められている施策を説明され、それが昇給の条件でもあるかのように押し付けられたら、保育における「子育て」「親育て」という本質はますます失われてゆきます。
昔、未満児保育をしないと主任加算をしない、などと、トンチンカンで理不尽な要求をされた記憶がよみがえります。

シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

横浜の小さな保育園で講演しました。「講演会DVDと『シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち』のDVDを園内で回しています。希望者が多くてみな土日希望で年内回りきれるかした・・・です。」というお手紙が園長先生から届きました。ふと気づいて、昔、書いた解説を添付ファイルで送りました。

 

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シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

(以下は、ユーチューブにアップしてある「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像とそのアドレスです。そして、その解説です。)

オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I  解説

草原で。「幸せとは?」 http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg   解説

子どもたちの行進?卒業式http://youtu.be/_uUnaHuViqk   解説

村での生活と伝統的母親像 http://youtu.be/xCFYYAUjbXU  解説

・ シャクティの公演   http://youtu.be/hdg4mpjTebQ   解説

・ セルバの結婚観   http://youtu.be/h3OpPP_JY_g   解説

幸せのものさし/人はなぜ踊るのか  http://youtu.be/HQzmRCO_vTw  解説

・ 「分かち合うこと。」    http://youtu.be/SUaQXFUp1_M    解説

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オープニング(http://youtu.be/YXk7xexQR8I

シスター・チャンドラと出会い、カメラを持ってシャクティの踊り手たちを追いかけ始めなければ、私は一生に一度もドキュメンタリー映画を作ることはなかったはず。そう言ったらシスターは「God’s Will」(神の御遺志です)と笑って答えました。

インドという国の圧倒的な存在感と風景、そして静けさは、私に様々なことを教えてくれました。いまでも、その風景を思い出すたびに、考えるヒントを送り続けてくる。

日本で、保育や教育の問題、子育ての意味について考え、書き、0歳児の役割について講演している時に、私は時々原点に還るようにシャクティの風景を思いだすのです。人間が長年共有してきた次元や、培われた意識がその中にあるのです。

そして、繰り返し考えます。「人間はなぜ踊るのか」。

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草原で。「幸せとは?」(http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

「祭り」は、人間の進化や伝統の中で大切な役割を果たしてきました。絆に頼り、絆を信じて生きるしかない人間たちに必要な大切な行事です。生きている意味を確認し、体現することなのでしょう。

祝うことが、祈ることであってほしい。祈ることが、祝うことであってほしい。そんなメッセージが伝わってきます。

今のかたちの宗教が現れる前にあった人間のつながり方、原始的な祈り方を「アート」という言葉でシスターは表現したのだと思います。この次元のつながりを取り戻すことが、人類に必要なのだ、と言っているようです。

日本の小学校で、毎朝子どもたちが「輪になって踊る」ことで、このつながりを実感出来るような気がします。こういう次元のコミュニケーションの入口に「0歳児が眠っている」のだと思います。

このインタビューの中でシスターが、「幸せとは?」という私の質問に、「集まること」と答えます。このタイミングが私は好きです。ドキュメンタリーという形でなければ残せない、宇宙にたった一度しかないタイミングのような気がします。時々、こういう瞬間のために生きているような気がするのです。

(園長は父親をウサギにする権利を持っている)

たくさんの保育園や幼稚園に講演に行き多くのことを学びます。先日行った園では、私の講演とお遊戯会を組み合わせていました。父親もビデオカメラを持ってやって来ます。子どもたちの一生懸命な演技が終わると、間髪入れず、私の講演に移る。逃げる間はありません。

私の講演のあと、お遊戯会の続きがあって、お父さんたちが「ウサギ」にさせられていました。

保育士たちが、手ぬぐいに長い耳をつけた簡単なウサギのかぶり物を用意しておいて、講演が終わると、「ハイ、お父さんたちは、ウサギになってくださ?い!」と言って手渡します。

保育園で保育士にウサギになれと言われたら、「なるしかない!」。

そして、お父さんたちが確かに変わる。保育園でウサギにさせられたら、誰だって変わる。手ぬぐいを利用したかぶり物ですから、顔の部分はいつも見えます。引きつった顔でかぶったお父さんも、三分すればウサギです。競争社会で固まっていたお父さんたちのこころが、溶け出します。自分の中に、三歳だったころの自分がいる。四歳だったころの自分もいる。それを確認するということは、「自分はいつでも自分次第で幸せになれる」ということを確認すること。それを見て一番喜んでいたのがお母さんたちでした。

幼稚園や保育園という魔法の場所には、「父親をウサギにする権利」が与えられている。何か凄いものを見た気がしました。人類の平和につながる糸口を発見した気がしました。

最近保育園で学んだことの中で、一番の学びでした。

園長は父親をウサギにする権利を持っている。校長や社長は持っていない。総理大臣だって持っていない。この権利は、いつ誰が園長に与えたのか。宇宙から与えられた権利にちがいない。だから強い権利です。最近「権利」と呼ばれる物のほとんどが「利権」です。しかし、父親をウサギにする権利は絶対に「利権」ではない。この権利で、子どもに安心して幼児期を過ごさせる環境を勝ち取る闘いに、勝てるだろうか。

勝てるかもしれない、と私は思います。お父さんたちも実はウサギになりたかったのです。

数週間経ち、園長や保育者が握っている「父親をウサギにする権利」について考え、行き着いた結論は、「人は幼児という神様、仏様、絶対的弱者の前では、正しい方向に進むしかない。たとえそれがウサギになることであっても」というものでした。そして、それは宇宙が人間のために用意している目的と重なるように思えました。

(お父さんたちも心の奥底でウサギになりたがっていた。昔,男たちは年に2、3回、「祭り」の場でウサギに還っていた。自分の中に,神様仏様だった時の自分がまだいることを確かめていた。ウサギに還れることを確認することは、いつでも幸せになれることを確認すること。頼りきって,信じきって、幸せそうだった、一番完成していた自分が、4歳の頃宇宙に存在していたことを思い出す。)

お父さんたちをウサギにしてお母さんたちが喜ぶ。これがいいのです。お母さんたちをウサギにしてお父さんたちが喜ぶ、これでは駄目です。子どもたち、という神様が見ていますから。

(もっとウサギの話)

校長先生をうさぎにするのはちょっと難しいかもしれません。それは、たぶん校長ごころ、と親ごころが、違うからでしょう。でも、これは違っていいのか?

今、日本も欧米の後を追い、家庭崩壊が始まり、親たちの心で子どもたちが守られなくなって来ている世の中だからあえて言います。子どもたちの幸せを優先的に考えるなら、校長先生たちもウサギになる決意をしなければならない。かぶりものをしてから父親がウサギになるまで3分かかるのなら、校長先生は5分かもしれない。でも、3分と5分のちがいは、2分。

お父さんたちは、なんでウサギになると嬉しいのか。

それは、昔、自分が簡単にウサギになれたことを覚えているからです。自分自身でいることの楽しさを思い出すことがまだ出来るからです。幼児を育てているお父さんは、特にこのことを思い出しやすい環境にあります。幼児の親は、人生のタイミングとして、幸せのものさしを探している人間たちです。

昔、自分は簡単にウサギになれた、それをお父さんが思い出すと、幼児期の体験が、まわりに守られた幸せであったことに気づきます。幸せは、まわりに守られて、存在することに気づきます。

昔、自分は簡単にウサギになれた。

それを忘れていても、いま思い出すことが出来たのは、自分が昔も今も、守られているからだ、ということを知ります。それぞれが、それを知った時に、人間は本当の絆で結ばれるのでしょう。

シスターが教えてくれました。

ダリットの村では、祭りが重要な役割を果たします。村人が心を一つにするために祭りがあります。心が一つになっていないと暮らしていけない仕組みになっているのです。

シスターが言うには、ある一家とある一家がもめていると、その年のお祭りは中止になるそうなのです。来年に持ち越し。これにはびっくりしました。

日本で、たとえば川越祭りが何月何日に行われる、と決まっていたら天災にでも襲われないかぎり、行われます。ポスターを作って宣伝して、地域経済の活性化のためにも、みんなで準備して必ずお祭りになります。

祭りがインドでは生活の一部になっていて、どれくらい大切なものか知っているだけに、心が一つになっていないから今年はやらない、というダリットの村人の潔さに感心します。人類の決意に感動します。こんな村で育ってきたんだ、シャクティの娘たちは、と思います。

わかちあうこと、頼りあうこと、信頼関係が生きる力になっている村では、どんな年代の村人でも幼児と接する機会を持っています。幼児と肌を接することが、人間に信じることの大切さ、幸福感を教える。日本のような社会では、自分の子どもを抱いた経験を持つ人でも、子どもが成長してしまうと、赤ん坊を抱く体験をほとんど持ちません。しかし、二〇代に幼児を抱くことと三〇代、四〇代、五〇代に幼児を抱くことでは、感じ方が違う。いま、私は、保育園の先生たちと一緒に「一日保育士体験」を広めようとしているのですが、日本の会社や役場で、あらゆる人にとって年に一日保育士体験が常識になれば、日本人の心がきっと一つになっていくと思います。

子どもたちの行進?卒業式http://youtu.be/_uUnaHuViqk

シスターの新しい試み、第一回シャクティセンター・サマーキャンプに向かう子どもたちの映像です。ダリットの少女たちは、学校に行かせてもらえない子どもが多いのです。必要な労働力という側面もありますが、差別され安全ではない、ということもあります。

(埼玉の教育局の方々にシャクティの映像の一部を見せて講演したことがあります。

シャクティの映像の中にある、メッセージが、これからの教育を考える上で大切になってくる気がします。次元を超えて、「集まること」そして「わかちあうこと」二つのメッセージが生きてくる。)

映像の中に出てくる、第一回のサマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「ああ、こういう子どもたちに教えることが出来たら幸せだろうな」と思わせる、学校の原点がある。

教える事で先生たちが幸せを感じる、教える側の幸福感を基盤に、本来、伝承は成り立っていく。子どもたちが、教え手を育てる、それが親子関係の本質です。

シャクティセンターに向かうあの子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込む。あの子たちは貧しいけれど、とても「育ちがいい」感じがします。親心に育まれた、安心した表情です。

シャクティセンターの先生たちはシャクティの踊り手たち。教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。しかし、村の生活の中で、特に娘たちの間に,いつの間にか「教え、教えられる関係」が育っている。そして、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。

家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。

不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」がある。教えることの中心に「和」がある。

日本の学校も、一日1時間は必ずみんなで輪になって踊る。そんな方向に遺伝子から湧き出るような教育改革が出来たら、きっと日本は、昔のように絆で結ばれた美しい社会に戻るのだと思います。

決して不可能なことではないのです。そういう視点を取り戻せないほどに、感性が鈍ってしまっているだけです。人間がシステムを作っているうちに、いつの間にか、システムが人間を作るようになってしまったのです。

 

 

 

村での生活と伝統的母親像 (http://youtu.be/xCFYYAUjbXU

このインタビューは、私の視点を大きく変えました。

カースト制を肯定するわけでは決してありません。しかしそれがこれほど長く維持されて来た背景に、母親たちがいた。やっと理解出来ました。歴史や伝統にはその奥に必ず幸福論を伴った意味がある。その深い意味を知らずに、やみくもに改革や進歩があっても、それは時として急速な人間性の崩壊につながります。いま、理念と人間性のぶつかりあいが、全世界に緊張感を生み出しています。

 

 

シャクティの公演 ( http://youtu.be/hdg4mpjTebQ

シャクティの踊りを始めて見たとき撮ったのがこの映像です。体の芯から揺さぶられたのを覚えています。ファインダー越しに涙があふれました。その後、幾度も彼女たちの踊りを見て、「その潔さ」に感動しているのではないか、と思うことがあります。職業でも、趣味でもない、しかしとても強いメッセージ性のある踊り。一般のインド人、とくに上のカーストの人たちからは忌み嫌われ、そっぽを向かれることも度々ある踊り。それなのに、それを踊る少女たちに欲がない。計算外のところで踊っている。

シャクティの踊り手たちが日本を走り抜けて行った時のこと。

日本に着いた踊り手たちは、成田からのバスの中、初めて見る東京にことさら驚くふうもなく、いつもの笑顔で大都会を見つめていました。広がる夜景に歓声があがることもない。黙って、楽しそうに窓の外を見つめていました。どこへ行ってもだいたいそうでした。

欲がないからでしょうか。私たちが「感動」と呼んでいる感覚は、そのほとんどが情報を土台にした「欲」の一部かもしれません。

ピラミッドを見たとき、私たちはその歴史的な意味、見ている自分が遠くからきたこと、様ざまな情報が重なりあって、「感動しなさい」と自分をコントロールするのかもしれない。「感動しなければ損」という意識があって、脳が指図するのかもしれません。欲を持つ習慣がない娘たちには、ピラミッドはただの石かもしれない。それとも、その巨大さに細胞から感動するのでしょうか。グランドキャニオンだったらどうだろう。私は都会を見つめる娘たちにもっと感動してほしかった、のを覚えています。

はにかみながら神社を見学し、太古の目線で雑踏を見つめる娘たちが、なぜかステージで驚くほど輝きました。人は人であるだけでこれほど美しい。

そんな旅の途中、シャクティの踊り手たちが感動していた瞬間がありました。浦和のはとり幼稚園で園児たちと手をつないで輪になって踊ったときでした。

園児には誰も何も説明しません。カースト制度のこと、差別のこと、彼女たちが踊る意味。説明してもわかりませんから、誰も説明しません。ただ、踊った。そして、自然に輪ができました。幼児と手をつないで一緒に踊りながら、いつもはおとなしく控え目で、あまり感情を表さずに恥ずかしそうに笑っているだけのマハーラクシュミが泣いていました。平等のために踊っていた彼女たちが、初めて平等を感じたのかもしれません。だれも何も説明しないから、そして園児は知識を持たずにただ嬉しそうにしていたから、突き上げてくるもの、込み上げてくるものがあったのだと思います。

幼児が人間をつなぐ、人間が安心する絆の存在を教えてくれる。神々なのだと思います。

 

 

セルバの結婚観 ( http://youtu.be/h3OpPP_JY_g

セルバは、私が一番好きだったダンサーです。天性の踊り手でバリシニコフよりフレッド・アステア風、いわゆるストリート系ダンサーです。表現しようとしていないのに、ただ踊っているだけで手足の先まで地球のリズムを感じます。

インド人の9割以上が親の決めた相手と結婚します。これを人権問題とか、意識の未熟さと見るのは簡単ですが、親子の信頼関係、ととらえることも出来る。先進国社会で失われつつある家族の信頼関係からくる安心感。私には、インドの現実が、我々がそれから何かを学ばなければいけない人類の歴史のように思えます。セルバの表情を見ていると、それを感じます。

信じることで互いを育てあう、「親子」という絆のひとつの完成したかたちを見るのです。

セルバを撮った3年後、シャクティが日本に来て、インタビューにタミル語の通訳がついたとき、記者の質問に紛れて、リーダー格のエスターに質問してみました。セルバにインタビューをして以来、いつかは聴いてみたかった質問です。

「悪い夫に当たったらどうするの?」

すると、十九歳のエスターは笑って言いました。「いい夫にするの」

十九歳の娘が結婚の一部としてこういう理解をしている。どこで習ったのでしょうか。たぶん生きるために必要なことなのでしょうね。人間が。人類が。

村は共同体です。競争社会ではないのです。

 

 

幸せのものさし/人はなぜ踊るのか ( http://youtu.be/HQzmRCO_vTw

このドキュメンタリーの中で、私は意識的に男と女を対比させます。

映像の中でやっているので気づかない人も多いのですが、何度か見ると、ちょっと男が間抜けに見えてくる。それは、そうだったのだから仕方ない。

男と女の役割は確かに違う。インドのように、家族という仕組みを社会の基盤とする場合、ますますそれは鮮明になってきます。選択肢のないことの強みは、迷いや後悔が減ること。人間は一般的に自己責任には耐えられない。自分のために生きるのは難しいのですが、親や子、家族のために頑張るのは意外と簡単です。

生きることは「踊ること」なのだと思います。

 

 

 

 

「…分かち合うこと。」 (http://youtu.be/SUaQXFUp1_M 

貧しいから、「わかちあう」。そして、「わかちあう」と、人間は美しい。

ダリットの村を、ただ「美しい」と表現するつもりはないのです。マハトマ・ガンジーがダリットをハリジャン「神の子」と呼び、死後50年経っても、いまだに一部の人たちからその発言ゆえに許されない、そういう事情があることを知った上で、あえて尋ねた私の質問に、シスターは神との関係の中で答えようとしてくれました。神に人権意識を教える矛盾をシスターの顔が物語っているようにも思えます。

(豊かに弱い人間)

あるお医者さんに教わったのですが、人類は、過去過ごした時間をすべて足すと、99.9999999%、貧困の中で過ごして来たそうです。ですから貧困には強いけれど、豊かさに弱い。生物学的に見ても、血糖値を上げるホルモンは20種類もあるのに、血糖値を下げるホルモンはインシュリンしかない、これは精神的にもそうなのではないか、というのです。

豊かになった国ほど、自立し、孤立し、みんなで幼児を眺めなくなり、絆が徐々に崩壊し、うつ病などの精神的病が増えるのです。自由、自立という言葉の先にあるのは自己責任。絆がまわりにないと、往々にして自己責任は孤独な自己嫌悪につながります。

自己嫌悪が人間には非常につらい。なぜなら人生は自分を体験することでしかないから。

経済主体の考え方で動いているアメリカ社会を見ていると、自立という言葉が、絆をつくって守り合うことをやめた人たちの責任回避だと思えてきます。

貧困の中で培われた人間の特性に、男らしさ、女らしさ、があります。この生きるための性的役割分担もまた、近頃、豊かさとぶつかります。利権争いに巻き込まれます。

古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見した、といいます。欧米先進国を見ていると、性的役割分担が薄れた時、人類は「家族」という定義を見失う、というのはほぼ当たっていると思います。

その国が豊かなうちはそれでもいいでしょう。でも、家族という定義を失うと、人間は、たいてい豊かさに見放される。そして貧困の中で家族がいないと人間は生きられません。

(伝統的家庭の価値観)

アメリカという現在進行形の移民国家では、一世、二世、三世、そしてルーツの違う男女の婚姻によって祖国の影響が薄くなった人たちが、渾然と暮らしています。「一般論」が成立しにくいアメリカで、移民後の世代割りによる一般論が人種や文化を越えて比較的成り立ちます。中国やインド、ベトナム、東ヨーロッパなど文化的背景が異なる人たちでも、移民前の「祖国」には共通して長い歴史を経た家庭観があって、それが、親子関係の質、家庭の「形」において似通っているのです。時間の中で培ってきた幸福の土台や安心感の置きどころが家族の絆にあって、その絆を保つために造り出された様々な「ルール」や「常識」、「人生観、幸福観」に、文化を越えて共通点が多いのです。ごく最近まで、ほとんどの文化で、生きてゆくためには「家族」が社会の最小単位であって「個人」ではなかった、ということです。

アメリカの大統領選挙や連邦議会選挙の度に、社会を立て直すために一番必要なもの、として掲げられる「伝統的家庭の価値観」(Traditional Family Value)とは、これを指しているのです。

日本は、もともとこうした「伝統的家庭の価値観」に関して優等生でした。だから先進国の中で抜群に状況が良かったのでしょう。

アメリカにおける移民後の世代を定義してみます。

一世は、主に祖国、長い歴史を持った文化圏の「家庭」で育ち、その文化圏で「学校教育」を受けたか、まったく「学校教育」を受けなかった人たち。

二世は、主に、祖国の文化圏の価値観を強く持った「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たち。

三世は、主に、祖国の文化圏の価値観が薄まった「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たち。

そして、その次に祖国の文化圏の価値観をほとんど持たずに、アメリカの価値観を持った「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たちがいます。

統計的に見ると、英語や読み書きがあまり出来ず、社会習慣などでもハンディキャップを負っているはずの移民一世が、アメリカで経済的に成功する確率が最も高い。二世、三世と、アメリカの社会構造や価値観に染まれば染まるほど、経済的成功、アメリカンドリームを達成する確率が低くなっていく。アメリカ型社会に慣れるほど、アメリカ型成功をしなくなる。仮に経済競争を幸福論の中心に置いたとしても、家族という絆が崩壊すると、自立は孤立につながり、成功する確率は下がっていくのです。失敗しても還る所がある、絆に基づく安心があること、心の余裕が、経済競争でも有利にはたらくということなのです。

グローバルな競争社会に巻き込まれようとしている今の日本社会でも、社会進出という言葉を使って経済競争に参加することが奨励されています。政府の待機児童0作戦もそうですが、この国がグローバルに競争力を持ち続けることが「いいこと」という前提のもとに福祉や教育制度が動いています。幼児を眺める時間が減り、親子関係を土台にした絆に基づく安心が希薄になる中で、摂食障害、引きこもり、不登校、うつ病といった豊かな国特有の精神的な病が増えています。摂食障害をもつ人に成績優秀者が多いのも、体験の伴わない情報に基づいて競争社会を意識した時に、人間は不安を感じ、絆に基づく安心をより求め、その希薄さを肌で感じ現実に背を向けるということなのでしょう。

(子育てをわかちあう)

同志の保育士たちが言います。8時間保育が11時間開所になった時、何かが崩れ始めた、と。

8時間保育のときは、まだ、親たちに「この人」にあずける」という意識があった。朝、子どもをあずける人と帰り受けとる人が同じ人(保育士)だったのです。11時間開所になり、保育士は8時間勤務ですから朝と夕方、顔を会わせる人が必ず別の人になった。

「この人にあずける」が「この場所にあずける」になった。子育てが人間たちの手からシステムの手に移った、と言ってもよいでしょう。

埼玉県では、11時間開所になった翌年、親たちは平均10時間15分あずけるようになりました。この失われた2時間15分の間に地球に何が育っていたか、行政も政治家も学者も気づかない。

「11時間開所になり8時間労働のシフトがずれ、保育士たちが一同に会してお茶を飲む時間がなくなりました」と園長先生は嘆きます。こうした時間が保育士たちの育ちあい、癒し、結束、情報交換にどれほど重要だったか。大人たちの一緒にお茶を飲む時間が、子どもたちの育ちにどれほど大切な意味を持っていたか、深く考えずに施策は進んだのです。

一杯のお茶を飲むことがこれほど大切にされた国はなかった。一杯のお茶を飲み、時空をわかち合うことで宇宙との和を感じようとした利休が、保育園の11時間開所に泣いている。日本という「和」の国が悲鳴を上げ始めています。

一人の園長が、ひとつの悲しい光景に見ぬ振りをした瞬間に、この国を守ってきたわかちあう魂がひとつ消えていく。

最近聴いた一番悲しい話。

保育園の運動会で「お弁当をつくるのが嫌」という親が、お弁当の時間に夫婦で子どもを車で連れ出し、コンビニの駐車場で食べさせていた、というのです。

こういう光景に、園長先生たちが口をつぐみ始めたとき、不安が広がっていきます。こういう光景が「自由」や「権利」という言葉で守られているのを見た時、人間は未来を考えるのをやめるのです。

(この文章を書いたのが10年前。いま11時間開所が13時間開所になり、政府は11時間保育、開所ではなく保育、を「標準」と名付けて親子の時間を減らそうとしています。シスターが呆れていました。)