児童虐待がニュースになる度に思います。

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児童虐待がニュースになる度に思います。

対応すべき児童相談所も、受け皿になるべき児童養護施設も保育所も、人員・人材的にも施設・予算的にもすでに限界を超えている。一昨年始まった「未就学児の施設入所を原則停止」に見えるように、一般の人が気づかないところで財政削減が幼児の福祉を脅かす方向に進んでいる。ほとんど議論されないまま「施設入所、原則停止」に変えられている。

子育て支援員、地方限定保育資格、小規模保育、企業主導型保育事業、次々に作られた新しい制度は、15年前の認可保育園の基準から考えれば常軌を逸した、量を増やすための安易で危ない規制緩和でしかない。これに追い打ちをかけるように保育の無償化が加わろうとしているのです。「待機児童対策」「雇用労働施策」「少子化対策」という面ばかりが強調され、幼児たちの「願い」どころか「安全」さえもが脅かされている。

そうした政府の「子育て」に関わる施策の乱暴な姿勢が家庭にまで影響し、それが浸透し広がっているように思える。

「週末、48時間子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」。

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないでしょうか」。

そういう声が頻繁に保育現場から聞かれるようになって久しいのです。エンゼルプランあたりから、すでに保育界は親たちの意識の変化に気づいていました。こうした週末に現れる兆候が将来の児童虐待を示唆していることに現場は気づいていました。

親の子育てに対する意識の変化を、ほぼすべての保育現場で聞くようになったのが新エンゼルプランが、民主党が提唱した「子ども・子育て新システム」に移ったころでしょうか。兆候があったにもかかわらず、三党合意の「子ども・子育て支援新制度」によって、「子育て」が以前にも増して保育現場に押し付けられるようになっていった。同時に、親たちが「子育て」を自分の責任と思う意識が薄れていった。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せば女性が輝くと言えば、「子育て」は損な役割りのような気がしてもおかしくはない。そして、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げ続けたのですから、乳幼児を11時間預けることに躊躇しない親たちが増えてもおかしくはない。

しかし、それを保育所もこども園も受け切れない。保育士がいない。いい保育士がいない。子育てを「代行」する保育所の質を、これほど急速に悪くしておいて、同時に家庭においても、子育てがイライラの原因になるような状況を国が作っている。

「過密(かみつ)が噛みつきを生んでいる」、「一歳児を10人以上一部屋に入れると噛みつくようになる」と心配していた保育者たちが、「一歳児は噛みつく頃なんだから」と平気で言うようになってきた。

乳幼児にとって噛みつく体験、噛みつかれる体験が将来どういう行動に発展するのか、はっきりはわかりませんが、通常起こり得ない体験であることは確かです。

(2017年の記事です。)

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞:https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

この記事にある「家庭に近い環境」という言葉は、政府の保育施策の失敗と財政のつじつま合わせをするための、厚労省や有識者の誤魔化しに過ぎない。

本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けない。8時間勤務の保育士に11時間保育を「標準」として押し付け、最後の2、3時間は無資格者でもいいとすることは、保育士に親身にならなくていい、と言っているようなもの。本来「家庭に近い環境」とは、親身さに囲まれている環境です。

新制度によって、無資格者や営利を目的とした業者が保育現場に入れるような規制緩和が行われ、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がそれに拍車をかけた。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような、「家庭に近い環境」からますます遠ざかる施策が、012歳をもう40万人預かれという政府の数値目標のもとで行われていった。そして、養護施設が予算的にも人材的にも破綻し始めると、今度は7年以内に75%を里親に委託せよ、などと言う。

政府の子育てに関わる施策は制度疲労を起こしているどころか、論理的に破綻している。経済優先の「無責任な施策」と「場当たり的言い訳と対処」の繰り返しが、家庭も含めた「子育ての現場」を急速に荒廃させている。それがすでに義務教育にまで達している。

当時講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみました。すでに市町村をまたいだ地区の児童相談所から説明を受けた課長もいます。まだ知らない人もいました。

数値目標を挙げて「里親を増やす」ことに関して、実の親の元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか、という原則論を言う声がありました。

施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と判断の難しい複雑な状況、そして何より「子どもたちの未来」があるのです。簡単には判断できない。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場なのです。そして、虐待があるからすぐに親子を引き離せるだけの仕組みには、予算的にも人材的にもなっていない。

(園長先生が、いま親を叱ったほうがいいのか、ここは見守ったほうがいいのか、悩むのが保育でした。最近では、親から「プライバシーの侵害だ!」と怒鳴られるのを恐れて、口を閉ざすようになっている。「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから、連絡帳に書いてくる親たちの暴言が急増しました。一緒に「子育て」しているという意識がなくなってきている。)

「里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とする」、こうした数値目標を掲げた欧米志向の施策を上からの指示で進めることによって、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が薄れ、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が崩れます、という危惧があがりました。

この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題なのです。

いま問題になっている虐待死の悲劇は、児相や教育委員会の連携によって、確かに防ぐことができたのではないかと思います。

しかし欧米で起こってしまった現実を見ていると、福祉や教育に家庭の代わりはできない、というのが私の結論です。

(荒れている社会の象徴として、「傷害事件」の発生率を比べると、ベルギーが日本の30倍、フランス、オランダ、オーストリアが15倍、アメリカが11倍、ドイツ、カナダが7倍です。その背後に、実の両親揃って育てられる確率が半数を切っている異常な家庭崩壊率が存在している。福祉国家と言われる国ほど家庭崩壊は進んでいる。欧米を目標にするなどあってはならないこと。比較すること自体が間違っている。)

未来の不確かな国家予算に頼る「福祉」より、親子という育ちあい、そこで育つ「人間性」に頼るほうが確実ではないのかと思うのです。この国は、先進国で唯一その方向に進む可能性を残した国だと思うのです。「子育てを通して育まれる人間たちの絆」を信じることがこの国の使命ではないかと思うのです。

仕組みをしっかり整備すると同時に、「子育て」を、人間社会の心を一つにする、人間たちが自分のいい人間性に感動する、素晴らしいものという意識を、常識として取り戻していかなければならないと思うのです。

 

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一ヶ月後の謝恩会

 若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。
 「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する」と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくるのだそうです。
 なるほど、という指摘です。(学校と保育園は、その趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。)
 ですから、卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている。相談相手がまだいない。
 そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付づき合う。お互いに相談し始める。親身になることの幸せに気づく。
 お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。
 一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。
 
 (人類に必要なのは「相談相手」。時にそれは、お地蔵さんだったり、盆栽だったり、海や山や川だったり……。0歳児が、その橋渡しをするのです。)
 
 (一ヶ月後の謝恩会が、DVや児童虐待に歯止めをかけるかもしれない。それが当たり前になるような環境づくりが、社会を温かくするのだと思います。)
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 義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。

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義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。子育てを社会(仕組み)に依存しようとする親を、政府が経済施策として意図的に増やしている限り小一プロブレムや学級崩壊は止められない。そのことに気づいてほしい。子育てと「教育」を混同すると、心をともなわない「仕組み」はその責任を負えなくなる。

福祉や教育で壊された「心」を福祉や教育では補うことはできない。それが私が30年住んで欧米社会に見た結論でした。虐待防止と言って政府がチェック機能を強化しても、一度子育てに対する意識が変わってしまうと焼け石に水。価値観の変化、などと言っているうちに進む人間性の欠如は、本来、法律で取り締まれる問題ではありません。(家庭崩壊が進んだアメリカで、人口の140人にひとりが刑務所にいて、そこに市場原理が働く。刑務所が成長産業になっています。)

日本の保育(子育て)も、こういうことが起こりやすい仕組みに政府の施策によって作り変えられつつあります。欧米より安定していたこの国の家庭を、福祉によって親子関係が育ちにくい仕組みにしている。そうしておいて虐待防止ダイヤルとか、乳児期における身体検査、法律の強化を進める政治家のやったふり施策が、この国の義務教育のみならず、未来のあり方を追い詰めているように思えてなりません。

「人が仕組みをつくるのであって、仕組みが人をつくるのではない。」

保育の無償化を「人づくり革命」と名付ける人たちは、人間性の根元に流れる「生きる動機」、「人づくりは、人が自分自身を発見し体験すること」だということを忘れている。労働力を得るために親子を引き離しても、保育や教育で「人づくり」が出来るという発想は、「新しい経済政策パッケージ」を書いた「子育てを教育と勘違いしている人たち」の思い上がりだと思う。

子育ては、育てる側が人間性を身につけ(人間性を引き出され)、育てるもの同士が心を一つにすることが第一義でした。そして、一人で子育てはできないからこそ、人脈や絆が生まれ、弱者を見つめる思いの絆が社会の土台となって、人間は助け合うことに幸福を感じ進化してきた。

保育にしても学童にしても、「子育て」を市場原理に任せて誰でも参入できる仕組みにする方向に国は動いています。保育に理解のない人たちの参入を国が促しています。

子どもたちが利益追求の対象にされている。子育てはもう国に任せられるものではない。みんなで、それに気づいてほしい。

不思議な次元を知ること

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以前書いた『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』http://www.luci.jp/diary2/?p=2541 に対してこんなメールが来ました。
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「長らくのご無沙汰をお許し下さい。その節は色々お世話になりましてありがとうございました。今回の記事を拝読し是非お耳に入れたい体験を思い出しメールさせて頂きます

 20数年前の新聞記事に『母のない子に母の日つらい』というのがありました。我園でもその頃当たり前に母の日、父の日にカードを作っていましたが、どうしようかと話し合った結果、子供達に脈の取り方を教えました。そして、今たとえお父さんお母さんと一緒に暮らせていなくてもあなたの生命の誕生の時にはお父さんお母さんがいて下さったのだからそのお父さんお母さんにプレゼントする為にカードを作ろうと職員で話しあいカード作りは続けることにしました。お父さんお母さんはいつもあなたと一緒なのだから。
去年のお泊り会の時のことです。
乳児組でのクラス毎の入浴、園舎屋上でのカルピスガーデン、園庭での夕食、花火大会、スイカ割り等々一通りの活動を終え、歯みがきをしていよいよ寝むためにホールへ集まってきた時のことです。
一人の女児がホールの入り口で、左手の手首の脈を一生懸命さがしているのです『どうしたの』と聞くと「寝る時ママがいなくて寂しいから、ママのとっくんとっくんを聴いているの 」と言うのです。思わず涙が出てきました。もうこの子は何があっても大丈夫。いつもお父さんお母さんと一緒なのだから。
複雑な世の中になればなるほど、子供達は、いつも、命の原点を教えてくれる存在です。
勝手な時の勝手なメールで申し訳ございません。いつも思うことですが、年寄りには一票があるのに、乳幼児には全くそれが与えられていない事、歯軋りする思いです。
これからもずっとご活躍を願っております。」

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(ここから私です。)
自分の手首の脈の中に母を探し、母を感じる。現実を超えている現実を知る。こうした不思議な次元を知ることが生きる力なのでしょう。幼児を育てる現場で、こういう人間の本来の姿、伝承の中に社会が生まれる瞬間が現れる。これが保育だと思いました。

相互作用

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子どもが一歳前後のとき、よく物を散らかして喜びます。

嬉しそうに、上にある物は落とし、片づけてある物を引っ張りだし、閉まっている物は開けようとします。

言葉もわからないし、言って聞かせられる時期ではありません。しかも嬉しそうにしているのです。この時期、親は子どもの嬉しそうな顔を見るのが好きなのです。それが第一。

叱ってはいけません。この時期の子どもを叱ると、安心感のある人間社会はできません。散らかしたら、親は片づける。ただ黙々と片づけます。理屈や理論で考えても仕方ない。宇宙の平和を願って、親は何度でも片づける。この時間は長くはつづきません。もうすぐ言葉がわかるようになります。違った段階の関係が始まるのです。

それまでは数カ月、繰り返し、ただ片づける。静かに、落ち着いて、これは私の責任だ、と独りでつぶやくといいのです。そして、ある日、これは散らかさないでね、とお願いすると、子どもはちゃんと親の願いを聞き入れてくれるのです。

そうした独り言とつぶやきに、夫婦がお互いに耳をそばだてます。そのために、子どもは散らかすのだと思います。

様ざまなことに、子ども中心に自然に反応する姿を眺めあうことで、家族や社会が一つになっていきます。

人間社会が一つになるためには、理屈を越えた、本来持っているいい人間性の確認が必要なのでしょう。「これは私の責任」と言いながら。

(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)より。)

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これを書いた時、子どもはまだ1歳半くらいで、近所の児童館の乳幼児室に二人でよく遊びに行きました。その時、黙々と、散らかった玩具を片付けるお母さんたちの笑顔を見ながら、ああ、そういうことだったのだ、と思って書いてみた文章です。

「心の清らかな人」たちの役割が見過ごされていきます

『赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です』

松居和

鷲田さんのことば

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一):朝日新聞、12月15日の朝刊「折々のことば」

(これを読んだ奈良の真美ケ丘保育所元所長の竹村寿美子先生からメールが届きました。私の30年来の第一師匠です。)

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そう❗その通り❗です。

以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて「あっ誰か泣いている!どこ?どこ?」と慌ててうろうろされたことがあった。

なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。

ありがとうございます❗

追伸:

その人は少し障害を持っていらっしゃるお方でした。保育士たちと心を洗われた気になりましたよ。

和さんまた会いたいです。🙆

(ここから私の文章)

子育てが「仕事」になったり、「仕組み」になったりすると、「心の清らかな人」たちの役割が見過ごされていきます。

朝日新聞「折々のことば」に紹介されました。

折々のことば

朝日新聞、12月15日の朝刊「折々のことば」に著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)に書いた言葉が紹介されました。

そうだ。これが原点だった、いい言葉を指摘してくれた、と思いました。哲学者:鷲田清一さんに、感謝です。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著:平凡社)を読んで書いた言葉です。150年前に日本に来た欧米人がこの国の個性に驚くのです。時空を越えて、私たちに「本当の日本のこと」を伝えようとするのです。

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838〜1925)』

玩具を売っているお店が世界一多い国、大人たちも子どもと一緒に遊ぶ国。

日本の子どもは父親の肩車を降りない。子どもの五人に四人は赤ん坊を背負い、江戸ほど赤ん坊の泣き声がしない街はない。

赤ん坊を泣かせないことで、人間と人間社会が育っていた。赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」とごく自然に思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点かもしれません。そうすれば、大人でも子どもでも、老人でも青年でも、人間が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思うようになる。

最近は親が、泣いている自分の赤ん坊を見て、勝手に泣いていると思ったり、迷惑だと感じてしまったりする。抱き上げれば泣きやむことを知っているのであれば、泣いているのは自分の責任。よく考えてみれば、「産んだ責任」まですぐにたどりつく。その責任を感じたとき、人間は本来、自分の価値に気づくのだと思います。

そうやって何万年も生きてきた。親が泣いている自分の子どもに責任を感じなくなった瞬間に、人間社会が長い間保ちつづけていた「絆」が切れてしまうのです。

赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。

「家族の形」が残っていなければ、幸福の伝承は一部の人間だけに許される特権になってしまう

社会の根底に伝統的な「家族の形」がなければ、幸福の伝承は一部の人間だけに許される特権になってしまう

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子どもを産み、育てるという人間社会の基盤を保育・教育という仕組みに任せようとするほど伝統的な家庭観(Traditional Family Vallue)は崩れてゆく。すると、義務教育が成り立たなくなる。それが数字で明らかになった1984年、米国政府は教育の問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義し一年間論戦が交わされました。義務教育が普及し親の世代に50%だった高校の卒業率が72%になっていたにも拘わらず、子ども達の平均的学力が親のそれを下回った。しかもその年、高卒の非識字率が20%を越えたのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=1064

それから34年。家庭崩壊が進んだアメリカで、いま「ワーキングマザーの約85%が家で子育てに専念したいと答え」ている。(東洋経済Online,会社人生にNO!米国、専業主婦ブームの真相:共働き大国の、驚くべき実態:https://toyokeizai.net/articles/-/32455)

しかし、一度家族の「形」が大きく崩れてしまった欧米先進国社会は、こうした母親たちの希望に応えられる社会構造ではすでになくなっています。

記事の中でハーバード大卒の女性の著者が言う、母親たちが「原点に戻りたがっている」という発言は、欧米ほど家庭観や、保育、教育といった子育てに関連する仕組みが壊れていない、言い換えればいまだに欧米社会を目標にしがちな日本に対する、貴重な警告・アドバイスだと思います。欧米の後を追ってはいけない。

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未婚の母親から生まれる確率が4割、子どもが18歳になるまでに4割の親が離婚するアメリカで、実の両親が家族という形で子どもを育てている確率は半数を切っています。夫婦の価値観の共有、「役割分担を支える信仰にも似た信頼関係」、夫の収入の額などを考慮すれば、専業主婦になることができる環境下にある女性は3割以下でしょう。「子育て」の意味、価値に気づいても、多くの母親が専業主婦という形で家庭には戻れない社会構造になっています。

「自立」を目指せば、信頼関係を生み出す「役割分担」が成り立たない。信頼関係が育たないと、一層「自立」を目指さざるを得ない。先進国社会に共通した負のスパイラルです。その中で弱者がその存在意義を失っていきます。

本来、人間は自立できない。それを目指してはいけない。乳児という絶対的弱者で生まれ、老人という弱者になることをゴールとする人生の仕組みを考えれば明らかです。「助け合うこと」「育ち合うこと」が人間社会の中心だった。

欧米で、特に高学歴・高収入の勝ち組の中から伝統的家庭観の見直しが始まっています。一方で、格差社会で取り残された一般層は、構造上いつまでもそこから抜け出すことができない。そのイライラや閉塞感が、児童虐待やDV、犯罪やテロ、間接的に言えばトランプ支持の現象にも現れているのだと思います。トランプ氏があれだけ女性蔑視や、異教徒、異人種に対する偏見をあからさまに発言しても大統領に当選し、いまだに支持率が4割近くある。

モラル・秩序に基づかない、「現状に対する不満・不信感」が民主主義を左右し、振り回し始めている。(ほとんどの)親が親らしい、(ほとんどの)幼児たちが安心して日々を過ごせる、それが民主主義以前の人間が社会を形成するための絶対条件だったのです。

フランスで、燃料税の引き上げという政府の一つの施策が全国的な略奪、放火、暴動にまでエスカレートする。アメリカで、地震やハリケーンなどの天災に見舞われる度に略奪が起こる。底辺から抜けられず、しかも「自分の人生に納得が行く方法」(子育て)を奪われた、または見失った階層の怒りが、そこに表れている気がしてなりません。

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幸福につながる「価値観」が、いつか「経済競争に勝つこと」から「子育て」に戻ろうとした時、それを支えるだけの「家庭の形」「家族観」が残っていなければ、家庭を基盤とする幸福とその伝承は一部の人間だけに許される特権になってしまう。

そうなった社会がどれほど殺伐としてくるか。欧米における犯罪率、麻薬の汚染率などを日本と比較すればわかるはず。日本は他の道を選択してほしい。幼児を中心に考える、本来の伝統に戻ってほしい。http://www.luci.jp/diary2/?p=1047

いま、日本で生涯一度も結婚しない男たちが3割になろうとしている。引きこもりの平均年齢が34歳。この国が、政府によって「欧米型」経済競争社会に向かわされている兆候だと思います。家庭という形に生きる動機を見出そうとしない男たち、「生き方」を見失った男たちがそこに見えるのです。

(だから、経済を維持するために外国人労働者を入れる。それでは、本当の解決にはならない。)

「子はかすがい」ではなく、「子育てが、人間社会のかすがい」、生きる動機だった。

 

(政府が施策として、012歳児を数値目標を設定して保育園で預かろうとする。そうすれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました、と総理大臣が国会で言い、「輝く」の定義が不明のまま、目標を達成するために規制緩和や市場原理が導入され、保育の質が下げられていった。http://www.luci.jp/diary2/?p=2643

そして、親たちの「012歳は保育園に任せておけばいい」という意識の広がりと、保育の質の低下が学校教育を一気に疲弊させている。財源と人手不足を補うための「支援員」たちが、画一的教育が不可能になり始めている教育現場を見て驚くのです。ネット上に募集の告知が溢れる「支援員」という名の様々な規制緩和、誤魔化しに、子どもたちが求める「人間性」の代わりはできない。やがて財源も人材も足りなくなる。子どもたちの不安感と、社会に対する不信は「支援員」では補えない。)

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幼児をみんなで眺める。施策は、そこから再出発してほしい。

幼児たちの「頼り切って、信じ切って、幸せそう」という生き方に共鳴し、彼らを守るための「役割分担」を親心という次元から整えていく。幼児たちの、私たちを育てる「役割」を思い出さない限り、社会に自浄作用、自然治癒力は働かない。損得を超えた、信仰にも似た役割分担が否定される時、人間社会は後戻りができなくなるのです。

この国は、後戻りが可能な唯一の先進国だと思います。この国が示す道筋が、いつか人類の進化に影響を及ぼすような気がしてなりません。

(より良い生活(Better Life)の幻想 http://www.luci.jp/diary2/?p=1079

(講演依頼はmatsuikazu6@gmail.com  またはファックスで03-3331-7782までどうぞ。)

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保育園は働く親のためにあるから学級閉鎖できない?

市議会議員や市役所の人に講演することがあります。人材的にも財源的にも、いまの保育施策が現実的でないこと、不可能なことは30分も話せばみな理解してくれます。そうだろうと思っていたが、見ないふりをしてきたという人がほとんどです。
行政の一部として国の決めたことはしなければならないという立場上の問題もあります。議員や市長であれば、選挙との兼ね合い、ここが一番難しいのですが、選挙権を持っている大人たちの要求が優先される。マスコミの報道姿勢も問題だと思います。「待機児童をなくせ」という報道には、乳幼児たちの願いや人権がほとんど含まれていません。

就学前、目覚めている時間を一番長く一緒に過ごしているのは保育士たち、今回の「子ども・子育て支援新制度」によって、そんな幼児期を過ごす子どもがますます増えています。だからこそ、保育の質は保たれなければならないのです。
子どもの気持ちを親に向かって、行政・政治家・学者・マスコミに向けて発信し、保育界の窮状を伝えるのが保育士たちの使命かもしれない。国の子ども・子育て会議の「専門家」たちに11時間保育を「標準」とされ、労働力確保で進む家庭崩壊のつけを里親制度や保育士たちに押し付けてくる政府のやり方に、現場から声を上げてほしいのです。

 先日、ノロウィルスの感染で、子どもたちだけでなく保育士が倒れ始めている保育園の看護師から、なぜ保育園は学級閉鎖できないのか、と厚労省に手紙を書きました、というメールをもらいました。
こんなことしても厚労省は取り合わないだろうし、効果はないと知りながらも、その看護師は書く。園長や設置者に咎められても、制止を振り切って、書く。保育士の数は、ウイルス感染で国基準を割り、保育士不足で緊急の補充は不可能です。

保育園は働く親のためにあるから学級閉鎖できない、という論理は、親が親らしかった、他の子どもたちにある程度配慮をしていた時代には通用していたかもしれませんが、少々熱があっても、薬を飲ませて黙って保育園に連れてくるような親が増え始めている現状ではとても成り立つ論理ではありません。保育園が感染症を広げる場所になっている、とその看護師さんは嘆くのです。自分の子どもが病気になったら、他の子どもたちや保育士のことを考えて、休ませる、そんな配慮、常識が消えかかっているのです。

(園に看護師がいることで、ますます常識が消えていく。看護師さんには見えます。保育という「便利な仕組み」が「権利」となって、思いやりと絆を希薄にする。「保育は成長産業」という閣議決定が根っこにある、政府のつくろうとしている仕組みがすでに「子ども優先」ではないからです。)

自分の子どもの環境は「他の子どもたち」「他の親たち」という運命共同体的な意識が弱まっています。先進国に共通した問題ですが、人間同士の直接的な助け合いが不要になり、思いやりや忍耐力が育たなくなってくる。「豊かさ」ゆえの宿命でしょう。しかし、そうなってくると保育という「仕組みによる子育て」は成立しなくなる。
保育も、学校教育も、民主主義も、先進国がそれ無しには機能しなくなっている「最近つくられた巨大な仕組み」は、実は「親が親らしい」「幼児たちがその存在意義を果たせる」という大前提のもとにつくられていることに、この国だけは、欧米のように家庭崩壊が決定的になってしまう前に気づいてほしい。
ノロウィルスの感染の広がりは一つの象徴であって、本当は、0歳児を預けることに躊躇しない親たちの増加の方が社会にとって致命的かもしれない。その先にある義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。子育てを社会(仕組み)の責任にしようとする親を、政府が経済施策として意図的に増やしている限り、小一プロブレムや学級崩壊は止められない。そのことに気づいてほしいのです。

(講演依頼は、matsuikazu6@gmail.com または、ファックスで03-3331-7782までどうぞ。)

不思議な次元・映像と音楽

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「映像に音をつける作業はとても直感的なんだ。どういえばいいかな……。

台本や映像で語られる向こう側に、時間や空間の隠されたすき間を見つけなければ、瑞々しい音は聴こえてこない」

映像に音楽を重ねることは人間のする行為としてはかなり特別なものなのではないか、と気づいたことがあった。

作曲家たちとレコーディングをしていて、音楽が不意にシーンに馴染み、以前から存在していて、やっとその姿が見えたように重なるときがあった。

二次元の平面に、もう一つ要素が現れ、無限の組み合わせを暗示しながら……、風景が身震いし、意識を持つ。

明快に、あるいは意識的に曖昧に、旋律や和音は演技や映像では表現し難い、少し離れた別の次元で心の動きや気配を奏でてみせる。実際には存在しない「過去」と「未来」を意識の中でつなげる。場面が調い、落ち着き、いつの間にか次の場面に気配が移っていく。現実も、いつもこの不思議な次元と平行して流れているようなのだ。

人間が繰り返し墓をつくり、人形を作り、独り言のように子守唄を歌い続けてきた理由が、進化し、形をかえてその場に現れてくるようだった。

次のシーンへ続く気配……。

すでに過去へ去った前のシーンからの余韻。

そうしたものがピアニシモで奏でられ、画面と言葉は観る者の無意識により深く染み込んでいく。

時間と空間をつなげる無意識を物語の中に存在させるには、音楽がふさわしい。人間がそれに気づいた時が、ずっと以前にあったはず。

旋律の中で台詞の意味が変化していく。

足音が向かう先に、生があるのか死があるのか、そうしたことを旋律が描き分けるのだった。

昔、シャーマン(祈祷師)が必ず部族に居たように、作曲家は特別な権限を握ってそこにいる。

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撮影所のサウンドステージで、その日、映像に音楽が初めて寄り添った時、監督の顔に驚きと喜びが込み上げることがあった。信頼があれば、作品の中の現実や最後のかたちはより不確実になっていく。朝もやの中で一度失った色彩が、少しずつ、陽を浴び、その日だけに運命づけられた色合いを取り戻していくように、不確実であることは、作り出す者たちの胸を高鳴らせる。旋律が無限であることを思い出させてくれる。

計らいとしか思えない成り行きが作品をかたちづくる最前線に、私も幾度か立ち会ったことがあった。

そんな時は、時がたつのを忘れた。

自分が生れ育った日本を離れて、その国にいることが、すでに理解を越えていて神秘的だった。

Legend of the Fall (ジェームス・ホーナー作曲で尺八吹いています。)