「捨てられる養子たち」里親について。教え子からの手紙・未来の現実

里親制度について、教え子からの手紙

松居先生
先ほどNHKのドキュメンタリーを見ていました。場所はアメリカ…。
施設から引き取られて養子縁組し育てられていたのに、親が途中で養育を拒否し家から追い出すため、インターネットを通じて新しい親となってくれる人を募集するというものでした。『リホーム』というのだそうです。
番組冒頭で里親希望の親たちの前をさながら品評会のように子どもたちがウォーキングさせられていました。
新たに引き取られたにしてもそこでまた養父母に捨てられ新しく親になってくれる人を養父母に勝手に決められ、たらい回しにされていく、という話でした。
この間、仲介者にはお金が入ります。里親となる人の中には性的支配のためとしか言い様のない大人もいます…。

純粋に自分に愛情を与えてくれる人だと信じきっている子どもの心は深く傷付き大人を信じる事が出来なくなりまた新しい養父母との間に問題を起こす…。

先生の講演などでアメリカの実状はぼんやりイメージにありましたが実際にパソコン画面に写し出される『家族が必要です』の文字と共に笑顔で写っている子どもたちがを見てなんとも言い難い感情が沸いてきます。

先生のいつも仰る、幼児が信じきって頼りきってという愛ある社会のあり方とは真逆です。

アメリカ社会を追う日本もこんなことにいつかなってしまうのでしょうか。

ほんとうにセンセーショナルでした…。

 

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ーーー(ネット上に番組紹介とyoutubeの映像がありました。https://www.youtube.com/watch?v=J7e_b3Z3v6g)ーーー

捨てられる養子たち (NHK:BS世界のドキュメンタリー)

  • 2016年10月27日(木)午前0時00分~
  • 2016年11月3日(木)午後6時00分~

簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

  • 原題:DISPOSABLE CHILDREN
  • 制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)

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日本で里親制度の普及を進めている人たちは、たぶん、まだみんないい人に違いないのです。それはわかります。私の教え子の中にも、子どもたちの幸せを願って、頑張って広めようとしている人が一人います。

しかし、このドキュメンタリーで報道される先進国社会で起こっている現実、子育てが、家庭から「仕組み」に移行する過程で起こる正常とは思えない家族のやりとりの状況は、そうなってはいけない日本の未来だと思うのです。アメリカという4割の子どもが未婚の母から生まれ、毎年80万人の子どもが親による虐待で重傷を負う異常な社会で起こっていること、と簡単に片付けてはいけない、日本という国に住む私たちへの未来からのメッセージだと思うのです。このドキュメンタリーが語る子どもを守れない「法規制の不備」は、福祉や教育で補いきれない家庭崩壊を市場原理に任せようというほぼ意図的な(必然的な)ものだということ。それが、日本で政府が行っている保育の規制緩和と重なっていることに気づいてほしい。

(アメリカで未婚の母から生まれる割合は、30年前にすでに3割に達していました。このドキュメンタリーを作ったフランスでも、現在5割です。欧米で、すでに家庭という定義が崩れ、本来の機能を果たさなくなっている。そうなった時に、「子育て」を中心に何が起こるのか。「里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログ」というこの風景が違和感を失った時に、人類はどうするのか。人間社会はどうなってゆくのか。)

私は、この番組で浮き彫りになる里親制度の行き着く先、矛盾と歪みを、渡米した1980年代からアメリカでドキュメンタリーやニュース番組を通して繰り返し見たのです。儲けるために里親制度を利用したり、質の悪いマッチングから起こる虐待や近親相姦。家族という、選択肢のないことで育ち、育てあう信頼関係の土台を斡旋する側が商売にしていることの弊害。テーマは様々ですが、報道はされ続けている。それでも、状況は悪化するばかりです。

「子どものため」と言いながら、そこには当時から一つの「市場」ができていて、それはいつか「子どもを守るために必要」な仕組みにさえなっていました。(このあたりが、いま日本で始まっている保育の市場原理化という動きと重なる。)

そして、このブログにも書き、このドキュメンタリーの中でも指摘されていた胎児性アルコール症やクラック児の問題(http://www.luci.jp/diary2/?p=1428)、子育てが実は母親の胎内から始まっていて、「個別的継続的な養育者との関係」の欠如から、人類が体験したことのない、新たな悲劇の形が生まれていました。

 

人間が助け合うことは、絶対に必要で、それがより一層社会の絆を強く育てる。不幸な子どもが居れば、必ず周りが助けるような親身な絆を維持し続ける、それが長い間、人間社会の土台でした。しかし、制度としての里親制度は、それが普及するほど時間の経過と共にその不自然さが人間の持つよくない人間性と不幸な連鎖を生み始める、それを私は30年間のアメリカ生活の中で見てしまったのです。弱者にとって不幸なこの仕組み上の展開の仕方は、義務教育の普及や保育といった、子育てに関わるすべての仕組みに共通した「仕組みによる子育て」で起こる負の連鎖と同種のもので、人間社会が家庭・家族・血縁といった長い間の常識や土台を失い始めることがいかに致命的かということを知らせてくれるのです。

私のアメリカ人の友人にも里子をもらった人たちが数人います。裕福で知性のある人たちでした。そのプロセスを見ていて、「We are lucky to have this one.」という何気ないつぶやきや笑顔、肌の色によって存在する縁組み費用の格差などにアメリカでは日常的な、しかし日本人である私にはとても違和感のある会話がいくつかありました。

だから、日本で「里親制度」が欧米に比べ普及が遅れている仕組み、社会の変化と価値観の多様化の中で必要不可欠な進歩であるかのように報道されることに秘かに納得がいきませんでした。「待機児童をなくせ」「子育ての受け皿を増やし、女性の輝く社会を」と言う人たちの、保育の現実を知らない、幼児たちの願いを想像しない主張にも同じ流れを感じるのです。この人たちは、そういう主張の先に何があるか見えていない。

そうした強者による主張の向こう側には、必ず市場原理が待ち構えている。家庭崩壊が社会の常識のように受け入れられたアメリカという国を見た私には、「慣らし保育」の風景、生まれて初めて親から引き離される幼児たちの叫びなど聴いたことのない人たちの、保育園を作ることがあたかも正義のような報道があまりにも無責任に思えて、憤りさえ感じるのです。そして何より、あからさまに、保育を「成長産業」と位置付けた閣議決定の異常さに背筋が寒くなるのです。

(いま、保育界を保育士不足による質の低下に追い込んでいる「子ども・子育て支援新制度」が始まる時に、その時点で待機児童が二万人しかいないにもかかわらず、あと40万人幼児を保育所で預かります、と首相が国会で言った。政府は、国民を人間として見る前に「労働力」(戦力)として見ている。だから、労働しない幼児の姿や、その気持ちが見えてこないのです。老人は「票」を持っているのでまだ視界に入っている。でも、幼児という、国の未来を担う人たちの「気持ち」「願い」が国の施策の上で後回しになっている。こういう状況では、やがて学校教育が成り立たなくなる。そうならないように、中学生くらいから、幼児たちの本当の役割を繰り返し伝えていきたい。保育の現場で、親たちの「子ども優先」の気持ちを耕していきたい。)

 

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「深夜のメッセージ」

再掲なのですが、以前、別の教え子からこんなメールが届きました。

「音のない一日。学生時代の教本とその続本を読みます。あの頃の先生の授業『深夜のメッセージ』は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。」とありました。

「深夜のメッセージ」、私の二冊目の本「子育てのゆくえ」(エイデル研究所)か、一冊目の本(「親心の喪失」として再販)に書いた文章だったと思います。授業で使ったのです。

25年前でしょうか。当時、ロサンゼルスで、深夜、奇妙なコマーシャルがテレビから流れてきました。それは不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCMでした。

「もし、あなたが子どもを誘拐してしまったなら、この電話番号に連絡して下さい。警察には届けません。相談にのります」

こんなメッセージが深夜テレビから流れてくる社会がある、数字から見る現実とは違った驚きがありました。アメリカという社会を象徴している、と思って本にも書いたのです。

当時、一年間に誘拐される子どもの数が10万人、その多くが親による誘拐。養育権を失った親が、自分の子どもを取り返すために誘拐する、というケースでした。親による誘拐とはいえ、れっきとした犯罪です。捕まったら刑務所行きです、逃げる方も必死です。州を越えた犯罪は連邦警察(FBI)しか捜査できない状況で、誘拐された方の親の9割が子どもと二度と会えないのが現実でした。身代金を求めての誘拐なら、子どもが見つかる可能性が高い。しかし、家族を求めての誘拐はほとんど解決できない。実際は、親による誘拐かどうかも判断できないのです。年に10万人の親たち(人口比で割れば日本で毎年4万人の親たち)が、子どもを一生失う、それがアメリカの現実でした。そして、子を失った親たちの悲痛な願いが、CMという形で深夜、流れてきたのです。

その頃、アメリカで幼稚園に子どもを行かせると、必ず「子どもの指紋を登録しておきますか?」と園から聴かれました。誘拐され、何年もたって姿や顔つきが変わってしまってから見つかった時に確認するための手段です。それもまたアメリカの現実でした。

私の教え子は、学生のころ、その状況にリアリティーを感じなかったのでしょう。でも、20年後、日本で幼稚園教諭を経験し、発達障害児の支援をしながら、『「深夜のメッセージ」は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。』と書いてきたのです。

最新刊「なぜわたしたちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)に、私がアメリカという国の入口で出会ったエピソードについて書きました。42年前、当時小学校の五年生だった従姉妹の誠子に、ある日、「学校ではどんなことを友だちと話すの?」と聞いたのです。すると、いまでは医者になっている利発な従姉妹は、

「そうね、今度のお父さんは、とか、今度のお母さんは、という話が多いね」と言ったのです。

小学五年生の子どもたちの日常の話題が、今度のお父さん、今度のお母さん、であって、その会話を大人たちが聴いていない。

人類の根幹が揺らいでいる、しかし、人間はこういうことに慣れる。そう感じてから、先進国と言われるその国で、何が崩れようとしているのか、意識して観察するようになったのです。

その会話の数年後に、「深夜のメッセージ」が加わり、家庭を崩壊させながらも、それにしがみつこうとする、人間たちの性を感じました。裁判所の中でおこる発砲事件は家庭裁判所が一番多い、ということを知りました。その数年後に「Nation in Crisis」(高卒の二割が読み書きができない。学校が機能しない。)というアメリカ政府が「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義した学校教育の危機が明るみになり、私は次の年、義務教育の普及が家庭崩壊を招き、家庭崩壊は義務教育の崩壊につながる、という図式についての本を書きました。

義務教育が悪いと言うのではないのです。その存在自体が「子育て」を夫婦から奪う一歩になり、子どもが親たちの絆を育てることができなくなり、それが社会からモラルと秩序を奪うという、全ての欧米社会で起こったことを率直に書いたのです。

そして世紀末、「母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから、政府が孤児院で育てよう」という『タレント・フェアクロス法案』の連邦議会提出が重なっていったのです。

この法案に賛成し「孤児院と考えなければいい、24時間の保育所と考えればいい」と発言した当時の下院議長が、前回の大統領選で、破れはしましたが共和党の指名をロムニー氏と争ったギングリッジ氏、今年もトランプ氏の副大統領候補として一時浮上した共和党右派の重鎮です。

教育と福祉、そして家庭は共存することが出来るのか。落としどころはあるのか。

私が米国で見たいくつかの象徴的な出来事を並べれば、先進国社会が一律に進んでいる家庭崩壊の方向と、その結果の可能性はあるていど予測できる。日本はちがった道を進んでほしい。その義務があるような気がします。人類全体のために、日本はちがった道を試行錯誤してほしい。そう言い続けて30年になりました。

日本の危機・家庭型児童養護施設「光りの子どもの家の記録」が伝えること・母親の涙

「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の本から、もう少し

家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」:この本を読んでいると、主観的に「子育て」を捉えなおす指針になる。子育てを仕組み(保育、教育、施設、福祉)の中で考え、待機児童、学力、少子高齢化、年金、税収といった数字を元に施策が進められようとしている時に、「育ち」の意味を、もう一度、仕組みの中でさえも原点に戻し、一個人の人生とそれに関わる人たちそれぞれの思いとして伝えようとしている。

保育界が保育士不足と市場原理に追い詰められ、その質、というか、育てる側の心の健康を保つのが年々困難になってきているいま、施設や仕組みによる「子育て」の難しさと限界を知る意味で、忘れてはならない視点、重い証言だと思うのです。

親が親らしさを失いつつある現状では、親身になると保育士が精神的にもたない、でも、親身にならないと、見えないところで仕組みの本質が崩壊してゆく。(北欧で、国民が傷害事件の被害者になる確率が日本の20倍。)

 

202頁に「子どもと関わる」という章があります。

三才までの人生を乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても乳児期に家で親に育てられた子が家庭型養護施設で育てられ高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。

それを読んでいると、三歳未満児の保育園での保育を雇用労働施策の一環として安易に奨励する国の施策が恐ろしくなってくるのです。保育園児は毎日家に帰ります。乳児院や養護施設のように日々の生活が親と離れている環境とは異なります。でも、そこで行われる「子育て」の限界、その意味や意図、理由が似ている。これだけ長時間、しかも乳児から預かれば、保育園は家庭の役割を果たさなければならない。しかし、何か遺伝子の中に深く組み込まれている、人間が社会というパズルを組むときの隠された法則のようなものが、「光りの子どもの家」の試行錯誤、その限界の中に垣間見える。

人間にとって、乳幼児期に愛着関係や独占欲を満たされないことがいかに決定的か。それが決定的であることが見えにくいから、「光りの子どもの家」からの証言が重要な原点になってくる。数年前に、当時の厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った発言が対極に見えてくる。

「専門家」が言う、専門家という言葉に騙されてはいけない。彼らの思考の中には、菅原さんが書くような決定的瞬間は一瞬たりとも存在していない。

 

菅原さんが、その章で書いたことを要約します。

三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになる。

菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を知ると、政府が積極的に3歳未満児を保育園に預けることを奨励することの危険性をひしひしと感じます。

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(2014年、4年連続で減っていた「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」と政府が言った。そして、減らしても減らしても、政府の意図と親の意識の変化に沿うように、待機児童は増えている。政府の意図がいつか修正されても、親の意識がマスコミの報道によって連鎖し始めた時、それはもはや修正できないのではないか。乳幼児期の保育は「個別的継続的」関係ではありません。保育士との比率は1:3か1:6。そして複数担任。しかも半年、一年で担当保育士が変わる。加えて、施策に追い詰められた園長が保育士に、乳児を抱っこするな、話しかけるな、と指導する保育さえ現れているのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=779)

 

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個々の人生には、それぞれ異なる出会いがある。育ちあいの可能性は確かに無限です。幼児期にこういう育ちかたをしたから人生が必ずこうなる、ということはない。しかし、イジメや不登校、教師や保育士の職場離脱、一般の職場でも三年続かない新入社員が増えていることなど、「育てあい」「育ちあう」人間の営みが、親身になる機会を奪われ、悲鳴を上げ始めている。問題は多岐にわたっていますが、男たちが結婚しなくなったことも含め、社会に自然治癒力や自浄作用が働かなくなっている。この国でも、欧米の後を追うように家庭崩壊が加速し、社会の空気が荒れ始めているのは、多くの人たちがすでに感じていることだと思うのです。その原因は、全般的な幼児期の愛着関係の不足にあるのではないか。「光りの子どもの家」からの証言が、そう語りかけてくるのです。その原因は、全般的に、「幼児を眺める時間」が不足しているからではないか、と私も思うのです。

 

保育士養成校の先生がこんなことを言っていました。

「以前は、誰かを幸せにしたいと保育科に学生が来たが、今は、自分が幸せになりたくて保育科に来る」

子ども相手なら幸せになれるかもしれない、と思って来ても、子どもが言うことを聞いてくれないとイライラし、すぐに不幸を感じてしまう。予測する力、想像力が欠けているから、どうしていいかわからなくなる。子どもを幸せにすることで幸せになる、というもっと深い、古の伝統的幸福感が欠けてきている。「育てる側の思い」が逆転し始めている。

 

3歳未満児保育をなくせというのではありません。もういまの社会には必要だから、そして、親に任せておくと子どもが危ないから、乳児院さえ存在する。しかし、幼児期の母子分離がどういうことなのか、フロイトやユニセフの白書を読まずとも、社会全体で常識として把握していないと、このまま進めば社会で補う限界はすぐに来る。

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イジメや体罰の問題にしても、憎しみは、愛され満たされたいという飢餓感と表裏一体です。孤独感が往々にして「他の幸せを許せない」という行動につながる。そして、同年齢の子どもたちが不自然に集められている学校という仕組みの中で、互いに抑えが利かない状況にまで進む。教師たちがその子たちを愛し、世話し、その飢餓感に応えるには限界がある。しかしその努力をしないと授業が成り立たない。教師は、もう逃げ出してもいい、とさえ思います。その方がいいのかもしれない。

学校へ入学する前に、親たちをそこそこ親らしくするしか学校が成り立つ道はない。保育は子育てであって「サービス」ではない、ということを政府と行政が親たちに宣言し、親たちの人間性や育ちを保育者たちが日々の出会いの中で見極め、いくつかの義務と責任を課してゆく。卒園後も続くような親たち同士の絆を、保育園・幼稚園を中心に作ってゆく。こうしたことをすぐにでも始めないと、今の状況下で育った子どもたちがどんどん社会の不良債権になってゆくのです。もう、時間がない。

 

母親の涙

私立の保育園で講演しました。講演が終わって、空っぽになった保育室で一人の母親から相談を受けました。子どもが言うことをきかない、と言って泣いています。聴くと、園ではいい子で大丈夫。家で、お母さんと一緒になると我がままになる、まとわりついて離れない。色々尋ねると、父親は、いい親らしいのです。

「あなたはいい母親だから、子どもが一緒にいたいんです。仕事を辞めることは出来ないのですか?」とたずねると、看護士ですからいま辞めても、また復帰することはできます、生活に困っているわけではないです、と言います。

遠慮していたのか、部屋から出ていた父親が問題の2歳の男の子を抱っこして近づいてきます。父親にしがみついているその子を見て確信しました。なぜ、母親が泣いていたのか。母親も、息子と一緒にいたかったのです。

「いい機会でしたね。2年くらいでいいですから、一緒にいてあげて下さい。今日ここで私に質問したのが運命だと思って。この園を辞めても、子どもをおぶって園に手伝いに来てください。この子を知っている人たちと縁を切らないように。もうその人たちはこの子の財産ですから」

それを聴きながら、父親が少し笑顔になります。

園長先生にあとで、「どんな質問でしたか?」ときかれ、その会話を伝えると、園長先生が本当に嬉しそうな顔をしました。

 

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講演依頼は matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。

愛されることへの飢餓感・荒れる児童

愛されることへの飢餓感

 

養護施設光りの子どもの家の菅原哲男先生の書いた本「誰がこの子を受けとめるのか: 光の子どもの家の記録」

(虐待を被けた子どもは、いつか大人になって自分の子どもを虐待する親になる!―そんな常識化した負の連鎖を乗り越えるために。子どもを受けとめる「家族の力量」「社会的養育の力量」がいま問われている。家族の愛に等しい養護をめざした「光の子どもの家」十九年の記録。)

を、もう一度、読み返しています。

いま、政府が「保育の受け皿」「雇用労働施策」という言葉を使って、(女性が輝く、という言葉も使って)もう50万人0、1、2歳児を親から引き離そうとしている時に、もう一度読まれなければいけない、現場からの貴重な証言だと思います。この国が成り立つために、乳幼児期の人間関係(特に親子関係)に、何が求められているのか、

菅原さんは書くのです。

「職員が旅行に行ったら担当している子どもにしかお土産を買わない、そうでなければならない」

「みんなと一緒、を子どもたちは極端に嫌う」。

平等の対極に親子がある。そうだろうな、と思います。

 

「『仕事で子どもを愛せるか』これは光りの子どもの家の当初からの課題である。」

「養育に最も欠けてはならないエッセンスは労働とは次元の違う無償の行為なのである。」

児童養護施設で過ごす人間たちの時間が、社会に向かってそう叫んでいます。そして、それはいま、政府が閣議決定で「保育は成長産業」と位置付けたいま、「保育界」が思い出さなければいけないエッセンスだと思います。労働にはちがいない。しかし、そうした経済的な仕組みが作られる以前の、もっと古いきまりが「子育て」のエッセンスとしてあった。その次元の人間のつながりが欠けてくると、人間社会は成り立たない。

「何よりも愛されることへの飢餓感、ある者は不感を疑わせるほどに愛を知らないできてしまった時間の長さに、関わりの手がかりさえ見当たらない」

菅原さんが受け止めようとしている子どもたちの「愛されることへの飢餓感」は、確かに普通ではないかもしれない。でも、私が中学校へ講演に行き、肌で感じる子どもたちの幼さも、その延長線上にあるのだと思うのです。この本を読んでいると乳幼児期の愛着関係がいかに決定的かが見えてきて、いまの政府の施策が恐ろしく見えてきます。道徳教育なんて浅い次元の問題ではない。愛されることへの飢餓感、それがいじめや不登校、少年犯罪や理解できない犯罪の根底にあるような気がします。

菅原さんがあとがきに書いています。

「この本では、親の愛に溢れる最初の『受けとめ』がなければ、子どもは育つことができないこと、母親(またはそれに代わりうる人)の「受けとめる愛」を失った幼児たちは心も体も「凍りついている」ことを切実に訴えています。

『光の子どもの家』の幼児たちが学童期を迎え、青春前期を経て大人になるあいだに、どんな苦しみと哀しみの経験を超えて『生きる力』を身につけ、社会へと旅立つことができるようになったのか。その記録は同時に、今を生きるすべての子どもたち、これから生まれてくる子どもたちに何が必要なのかを伝える大切な参照の経験になっています。」

菅原さんがこれを書いたのが二十年前(本になったのは十三年前)。これほどの証言が児童養護施設という、子育てにおける最後の砦から発せられているのに、なぜ政府は幼児と親の関係を「負担」とみなしたり、「社会進出」を妨げる「壁」と言ったりするのか。現在の子ども・子育て新制度の元になる「新システム」が形づくられた時、それを進めた厚生労働大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った。そして、もうその頃から、中学の先生が「私たちは保育をしている」と私に言い、園長が「保育園は仮養護施設状態に追い込まれている」と言っていたのです。

このままでは学校がもたない。保育園ももたない。共倒れになってゆく図式はすでに見えているのに、「待機児童をなくせ」というかけ声だけが響く。0、1、2歳児は保育園の前で「ここに入りたい」と言って待機はしていない。

 

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荒れる児童

 

以前、新聞に、文科省の小学生の問題行動調査についての記事が出ました。「反抗、暴言、荒れる児童」(社会のひずみ、ストレスに)という題名(毎日新聞)。「小学校教諭からは悲鳴が上がり、専門家は『荒れの背景には貧困など社会のひずみが子どものストレスになって表面化している』と指摘」とありました。

いま、入学前の子どもにストレスとなっている「社会のひずみ」は、貧困が直接的な原因ではなく、財政・人材不足の中で拡張と質の低下を余儀なくされた保育現場と、「子どもは誰かが育ててくれるもの」という態度で園長や役場の職員に無理な要求する、親心の常識を失った親たちの増加だと思います。親として育ち切っていない親の急増が、集団保育や教育を介して全ての子どもたちのストレスになってくる。貧困は、そうしたストレス社会が生む副産物と捉えるほうが正しいのではないでしょうか。

発展途上にある未だ保育制度が整っていない貧しい国々の小学生ほど暴言を吐かないし、荒れてもいない。家庭がしっかりしていれば、子どもはそんなに荒れない。

義務教育が整って間もない発展途上国の学校が秩序正しく安定しているのを見れば、先進国が直面している「社会のひずみ」は、貧富の差とは別の次元の、親子の愛着関係、社会における信頼関係の不足が原因であって、それによる子どもたちの不安感が学校における「荒れ」を引き起こしていることがよくわかります。子どもたちが、精神的な安定、そして行き場を失い、荒れているのです。

未成年者による、人間性を問いたくなるような事件が起ります。

労働力を増やすために政府がもう40万人三歳未満児たちを保育施設で預かれ、と数値目標を立て、「親と居たい、誰かを独占したい」という、喋れない、主張できない弱者の願いを無視する政策をとり続ければ、こうした問題を起こす予備軍は増え続け、責任の目を向けられる教育現場が追い込まれていく。

愛着関係が希薄だった子どもたちの寂しさや悪意に対する反応はすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがく。だから学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまうのです。そして、その要望と視線に、教師たちの決意が追いつかない。

気づいてほしい。三歳までの子どもたちの日々の過ごし方が、この国の未来を決める、ということに。

厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあって、その最後にこう書いてあるのです。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです。」

そのとおり!

そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危うい。そして、幼児たちを眺めながら、人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが彼等なのだということに、再び、気づかなければいけません。

「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

 

「保育園落ちた日本死ね!」ブログの保育界へのインパクトは大きかった。あれを機会に政治家やマスコミが待機児童問題を一気に取り上げたのだから無理もないのですが、この報道を境に、役場の窓口や現場の保育士や園長・主任に対する親の言葉使いが急に荒くなった、とよく言われます。言葉を荒げ、乱暴にクレームをつけ、強引に主張すれば通る、という意識が一部の親たちの間に広がっている。

保育現場も行政の役人も、親に向かって「あんたの子だろ!」とは言えない。(というツイートを私がしたら、以下のツイートが返ってきました。)

『逆に待機児童がいる地域では、保育士の態度が横柄になっているという話も。「嫌なら転園しろ」「入りたいならそれ相応の誠意を見せろ」みたいな感じで。世の中難しい。』

こういう親に対して横柄な、嫌な親の子どもには「仕返し」をするかもしれない保育士が、20人の三歳児を8時間保育し、その中に二人多動の子供がいたら、保育室は修羅場になってしまう。キレる、怒鳴る、小突く。親は、朝と夕方5分間我慢すればいい。しかも、そこに子どもを入れたのは自分の決断です。自分の責任。でも、子どもたちはそこから逃げられない。それが一日10時間、年に260日、運命のように続く。選択肢はないのです。自分の決断でもないのです。

この時期に、こういう保育士に一年間担当されることで子どもの一生が変わる(かもしれない)。生まれつきの繊細さゆえに、一生その時のトラウマに怯える子どもがいる(かもしれない)。小学5年生くらいで、親にキレるようになる子どもなど、その反応は様々ですが、その時親は、どうしてそうなるのかわからない。その子どもが体験した幼児期を、親が知らないからです。

以前、こういうキレる保育士を、「◯◯先生呼んでくるよ!」と園児を脅す道具に使っている光景を見ました。これではもう◯◯先生は保育士ではなくナマハゲ。ナマハゲも年に一度大晦日に来るならわかりますが、毎日ナマハゲと出会っていたら、それは心の傷、人間不信になって子どもの人生に存在し続ける(かもしれない)。

家庭における虐待が、世代を超えて連鎖するように、幼児期の体験は、それほど子どもたちの将来に影響を及ぼす。

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「保育士がメイド化していますよね」というツイートが来ました。

 

住み込みのメイド・乳母だったらまだいいのでしょう。アメリカの富裕層は子育てを中南米からの違法移民の女性に代わってもらっている、と言う報道が、20年ほど前にアメリカでされていたことがあります。

お金持ちの住む地域にある公園は、昼間、スペイン語で話す幼児連れの住み込みメイドの集いの場になります。違法移民を取り締まる法律をつくった上院議員たちの多くが、子育てを違法移民に頼っているのではないか、という報道がされたこともありました。パワーゲームやマネーゲームに浸かっている高学歴の頭のいい親たちが育てるよりも、心が人間的で素朴な違法移民に育てられたほうが子どもにとってもいい、しかもバイリンガルになる、という計算も働いています。お金があれば選択肢はある、強者に有利な社会の象徴のような現象です。

しかし、今の日本の保育士不足と養成校へくる学生の質を考えれば、保育園で1対4とか、3歳児1対20はもう無理、限界にきていると思うのです。

以前、外国人労働者を雇っている東京都の認可保育園で、園長が新入りの保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。

もちろん、外国人労働者の方がより人情味があって幼児の成長にいいこともあります。でも、保育という仕組みの中で園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。

小規模保育所からの転園児を避ける保育園があります。「自分の園で保育した子なら、責任を持てるのですが」、と園長先生は顔をしかめます。充分に抱っこされていない、話しかけられていない、どんな保育をされていたのか見えない。そして、受け入れて気になるのは、保護者が育っていないこと。みてもらう、やってもらうのサービスに慣れていて、子育ての主体は家庭という意識が薄い保護者がいる。

ーーーーーーーーーーツイートやメールがきます。

『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』

『保育を知らない自治体が政府の方針に沿って進める幼稚園の子ども園化を見ていると、その安易さに怖くなります。3歳未満児を預かることは命を預かること。それを自覚していれば、保育士不足のいま簡単に引き受けられることではありません』

『3歳未満児保育所に勤務していた昔、卒園し幼稚園に通う子が登園を嫌がり、保育所経由で私が幼稚園に送った。受け入れる教諭の様子から、当時から叫ばれていた幼保一元化は無理だと悟りました』

よくわかります。あるこども園の主任さんが、幼稚園は子どもが始めて出会う社会、保育園は家庭の代わりをしなければならない、と言っていました。子どもの成長にとってそれほど家庭と社会の「役割」は大切です。だから難しい。境界を崩してはいけない。

 

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私のツイッターに、私が保育園に子どもを預ける親の不安を煽っている、という指摘がありました。

現状を考えると、乳幼児を預けるならしっかり不安を感じて欲しい、と思います。国の施策はけっして幼児優先の施策ではないことを知ってほしい。経済優先で、幼児の安全さえないがしろにしている、と伝えたい。本来、自分の赤ん坊は、自分の親に預けるのだって、親友に預けるだって不安なのです。それで当たり前。それを思い出してほしい。

保育園という国が認可している仕組みだから安心、という論理に根拠がないことに気づいてほしい。その上で、「一緒に育てている」という感覚を保育士たちとの間に持ってほしい。

でも、その先が、いま見えない。

 

「女性活躍」はウソですか 配偶者控除廃止見送り

 「ああ、また。やっぱりね」。政府が配偶者控除の廃止を見送ると知った働く女性の多くは、こう感じたのではないか。

 

という新聞記事。「経済活動」だけが「活躍」ではない。それに、マスコミが気づかないと幼児の存在はますます希薄になってゆく。

 

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私が書いた、「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」http://www.luci.jp/diary2/?p=1428に、こんなメールをいただきました。

5才の保育園児の母です。

私は離婚して、仕方ないとあきらめて預けています。今通う保育園は、怪我さえしなければ良いという考えのみです。ごあいさつも皆でしません。親達も共働きですが、やはり生活レベルを少し下げる(海外旅行とか)をしたくないから預けてる人が多いのに驚きました。

保育園も責任逃れの為のルール作りと言い訳に力を注ぎ、親達も「子供は任せたはずだ! 」と、ネグレクトみたいな責任逃れをしています。

私は、保育園の我が子にたいしてのみ発言権が有るので、区役所や子育て支援センターに無理をしてでも相談に行きます。親です。大事な人格形成です。コミュニケーションの前にモラルとマナーだと思うから。

結果は、当然 ! モンスター扱いされ、子供に保育士は仕返しをしてきます。

保育士も子育て中の親です。保育園に預けてる方もいます。

「預かってやってるんだ、有り難いと思え」ですね。

依存症等の原因がなくとも、周囲の大人の接し方で発達障害の疑いにつながる成長になります。子供に責任は有りません。産み育てられる、こんなに幸せな事は有りません。産み育てるのは、親です。産む覚悟とは、育てぬき一人の人間を創る覚悟だと思います。産まれてくる子供たちの、育ち行く時の気持ちを、思いやってください。

地域の母子に、もっとお節介に「お酒はだめだよ。」「煙草はやめなきゃだめよ~。」と、昔ながらに関わってあげてください。

産まれた後も、母子は周囲の方に感謝し、頼りに出来れば孤独から依存症やネグレクトにはなりません。

長く、支離滅裂かもしれません。お読みくださって、ありがとうございました。

 

松居 和

ありがとうございます。とてもよくわかります。どういう保育園、どういう保育士に出会うかで、親子の人生が変わってくる、ますますそんな状況になってきました。問題は多面的で、複合的で、だからこそ数人でもいいから、絆をつくり、一緒に祝ったりすることで、その絆を深めてゆくしかないのだと思います。シングルマザーも、子育てに専念するという選択肢が選べるようになっていなければ、本当の子育て支援とは言えません。

「子供に保育士は仕返しをしてきます」。そうあってはいけないのですが、現実ですね。それを親が知らないのも怖いのですが、知ろうとしない、というところまできている。

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子育てから生まれるはずの、社会に必要な絆や信頼関係が、いま「子育て」を真ん中に崩れようとしている。

「子育て」を「女性の社会進出(?)」の「壁」と勝手に決めておいて、その「壁」を産んでくれ、産むために結婚してくれ、そうしないと経済や年金や社会保障が維持できない、と言うのです。

その「壁」こそが、一番幸せそうに生きている、一番幸せそうに生きることで人間たちの「目標」となる人たちだったのだ、ということを、もう一度思い出してほしいと思います。

 

常識として知るべき、親たちに知らせるべき、乳幼児保育施設の現況

認可外保育施設の現況

 

 雇用均等・児童家庭局 保育課による報道機関に対するプレスリリース、「平成25年度 認可外保育施設の現況取りまとめ」〜施設、入所児童数ともに増加、ベビーホテルは減少〜 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000080127.html、を読みました。

 平成25年度、ベビーホテルの新設・新設把握158カ所、廃止・休止158カ所。その他の認可外保育施設は新設・新設把握474カ所、廃止・休止331カ所とあります。これを、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)で語られる保育の質の低下の実態と照らし合わせてほしいのです。以前、著作に書いたことがあるのですが、なぜこれほど新設と廃止が多いのか。この仕事は、単なる思い込みや儲け主義では成り立たない、幼児の成長や家族の人生に関わる仕事です。だからこそ計画通りにはいかないし、人材が集められなければやってはいけない。コンサルタント会社が儲け話として煽るような種類のビジネスではない。(http://www.luci.jp/diary/2014/11/post-193.htmlhttp://www.luci.jp/diary/2015/01/post-261.html

 「把握」ということばが使われているのは「把握」していない状況がかなりあるということではないか。コンビニならまだしも、保育施設がこれほど継続が不安定な状況でいいはずがない。なぜそうなるのか。5年ほど前から保育界を追い詰めている慢性的な保育士不足を考え合わせれば、そこに明らかな無理と不自然さが読み取れるのです。保育所はどんな形であれ、日々の乳幼児の成長、そして日本の未来に関わる重要な施設なのです。

 もっと驚くのは「立入調査の実施状況」です。

 ベビーホテルの未実施数が26%、その他の認可外も26%。繰り返し全国紙で事故や事件が報道されているのに、未だに「未実施」がこれだけあるなどあり得ない話です。不手際というより、政治家やマスコミの怠慢。幼児に対する人権侵害ともいえる、あまりにも雑な保育行政です。国の安全保障については毎日報道されるのに、乳児の安全保障に関しては以前からずっとこんな状況です。政府の「あと40万人3歳未満児を保育施設で預かれ、そうすれば女性が輝く、活躍できる」という施策に水を差したくないのでしょう。

 保護者たちに知ってほしいのは、この報告書に、立入調査を行った施設に関して、指導監督基準に適合していないもの、ベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%と書いてあること。それに対する指導状況は口頭指導文書指導がほとんどで、公表:0か所、業務停止命令:0か所、施設閉鎖命令:0か所です。こんな状況だから、ルポ 保育崩壊で報告されているようなことが起っているのです。

 保育園に対する行政の立入り調査は抜き打ちではありません。前もって準備や手立て、隠蔽が可能な立入り調査です。調査官の目の前で子どもを叩いたり怒鳴ったり、口に給食を押し込んだりする保育士はいない。つまり保育の実態は、事実上ほとんど把握できていないのです。それでも確信犯的に乳幼児の日々の安全、安心を脅かす違反がこれだけあって、公表も業務停止命令も施設閉鎖命令も行われない。こんな仕組みだから宇都宮のような事件が起り、それが賠償訴訟になる。http://www.luci.jp/diary/2015/03/post-273.html

 (保育それ自体の質を行政が現場で確認できないなら、保育施設における正規、非正規、派遣の割合い、どのくらいの頻度で保育士が辞めてゆくか、その理由くらいは調査し、保護者に発表すべきです。いくら待遇のいい保育園でも、保育士の離職率がとても高い園があるのです。保育士が使い捨てになっている園があるのも原因なのですが、保育の内容、園内の風景に耐えられなくなっていい保育士が辞めてゆく、そんな園が増えています。)

 こんな現状でさらに保育のサービス産業化、一層の規制緩和を進め、総理大臣が、あと40万人保育施設で乳幼児を預かります、と国会で宣言すること自体がおかしい。国家の安全の根幹を見誤っている。

 子ども・子育て支援新制度を進める内閣府のパンフレット、その「すくすくジャパン」というタイトル、「なるほどBOOK」というタイトルの趣旨や思惑に翻弄され、保育園に預けておけば大丈夫、と思ってしまう親たちがたくさんいるのです。

「みんなが、子育てしやすい国へ」というキャッチフレーズが馬鹿馬鹿しく、虚しい。保育の質を整えず、ただ子どもを親から離し保育施設で預かる数を増やせば、それが「子育てしやすい国」だと政府が言う。この国は、そんな国であってはいけない。道徳教育とか愛国心などと軽々しく言わないでほしい。愛国心とは、すべての子どもたちに責任があると人々が感じる心。政府の子育て施策に愛国心が欠落しています。

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「花束を贈ろう」・宇多田ヒカルさん・不思議な次元のコミュニケーション

花束を贈ろう

NHKの番組で「人間・宇多田ヒカル、今、母を唄う」を見ました。終わってしまいましたが、朝ドラ「ととねえちゃん」の主題歌「花束を君に」を歌っている歌手で、母君は、私たちの年代には印象的な藤圭子さん。

亡くなった母の存在、そしてその意味を語る真摯な姿と、歩んだ道、作詞で磨かれた選ばれた言葉と語彙にも素晴らしく、感動しました。作詞と音楽という次元も重なり、母子関係というものをこれほど端的に、感性の世界から深く語った光景を見るのは初めのような気がしました。

インタビュアーが、お母さんの存在は巨大ですね、と聞いたのに答えて、巨大なのは母親だからです、と間髪入れず答えた表情に、何か、通り抜けてきた人を感じました。

そして、人格や人間性が形成される乳児期、そこから自分の人生や行動が生まれているはずの、謎のような闇のような時間、自分が覚えていない人生の最初の2、3年を、自分の子供を育てることで体験する、たぶん自分の行いとか悩みの源になっているはずのその闇さえもそこに感じて、腑に落ちた、と言ったのです。凄い人だなと思いました。

母になった娘だから体験できた、母親と一体になって、アーティストとしても伝えている伝言が歌の中に聞こえました。

女性でなければ体験できない、男性が体験すべきでない伝承があるのでしょう。よしもとばななさんの小説に、その辺のことが書かれているのを読んだ記憶があります。読んだだけですけど。こうした不思議な世界を知ろうとする時、宇多田さんの表現は、文字に加え音楽も重なるから、次元が広がって説得力があります。

全てを包み込む何かに納得した、という風に聞こえたんです。それを単純に「感謝」という言葉に表したのですが、そこへ到達するまでの自分が産んだ子ども、乳児との日々の積み重ねの中に「腑に落ちた」一体感があったんでしょうね。母親との。

だから、「どんな言葉並べても真実にはならないから、今日は贈ろう 、涙色の花束を、君に」という歌詞が生まれたんでしょうね。

6年間、歌手生活を休業していて、その間にお母さんが亡くなって、そのあと妊娠・出産していなければ活動をまだ再開できていなかったかもしれない、と言っていました。

言葉では無理だから、「花束を贈ろう」・・・。それが、いつか、すべてのことの答えになってほしい。当たり前なのですが、こういうやり方は、人間にしかできない。不思議な行為だということにあらためて気づくのです。言葉を話さない乳児との会話が、こういう次元のコミュニケーションに気付かせるのです。

命がつながってゆく景色を見た気がしました。感謝です。

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米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

 

以前、保育誌にも書いたのですが、子育てが人々の生きがいの中心から外れ始めた時に起こってくる社会の仕組みの機能障害を、市場原理と義務教育がどのように連鎖させていゆくか、米国で起きた一つの例を挙げます。

 

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保育の市場原理化、そして規制緩和ともいえる「子ども・子育て支援新制度」が去年施行され、5年後にその影響の第一波が小学校へ上がります。

状況に差はありますが、アメリカで30年ほど前、クラックという安い気体のコカインが発明され、5年後に「クラック児」と呼ばれる子たちの第一波が義務教育に上がった時のことを思い出します。

経済優先の施策の影響が、5年後に義務教育の入り口に到達する。そして、制度や仕組み、社会全体に広がった流行によって起こされる波に、学校教育がすでに対処しきれなくなっている。保育や学校、民主主義という仕組みでさえ、親が親らしい、幼児がその役割を社会の中で果たせる、という前提のもとに作られている。親たちの子育てにおける責任意識と協力なしに学校教育を教師たちが維持するには限界があるのです。

「子育ては学校がやってくれて、学校で起きたことは自分たちの責任ではない」と考える親が一定数出てくると、学校は突然その機能を果たせなくなってくる。

新制度が施行され一年、各地で役場の人が言うのです。0歳児を保育園に預けることに躊躇しない親たちが突然増えている。

人間の遺伝子に組み込まれている長い進化の歴史における体験の積み重ねが、突然一部の政治家や学者の乱暴な施策によって壊され始める。経済競争の邪魔だと見なされ「社会の常識が崩されてゆく」。それが、義務教育で連鎖する。欧米の状況と日本のいまの違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。(そして欧米では、30年前にすでに、未婚の母から生まれる子どもが3割以上いたこと。)

日本で「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が7割まで減っているのです。豊かさが主な原因とは思いますが、いまの保育施策を考えると、政府主導で減らされているとも言える。人々の意識が弱者を守ることから離れ、それによって社会全体の安心感が薄れ、モラル・秩序が失われてゆく。

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胎内で覚せい剤に犯される子ども達−クラック児

 

(以下は、「胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」も含め、20年前に私が書いた文章からの抜粋です。いまでは当たり前になった、妊娠中のアルコール摂取の危険性についての告知が、日本では、まだされていなかった時でした。保育雑誌に連載し、著書「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」:エイデル研究所刊、にも掲載しました。)

 

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母親の胎内で「薬物・覚せい剤」に汚染され、生まれながらに中毒症状を持っていたり、脳障害、機能障害に蝕まれる子ども達の問題は、FAS(後述)と同じように、以前からアメリカで問題になってはいました。しかしその問題がハッキリと実感となって教育界を襲ったのが今から十年ほど前(現在からは30年ほど前)です。

5年前に急速に広がった「クラック」という覚せい剤(通常粉末のコカインを気体にして吸引するドラッグ。覚せい剤の市場を一気に広げる役割を果たした。)、極めて短時間に効果を現し、廉価いうこともあって、あっと言う間にアメリカ全土に広がりました。このクラックに母親の胎内で汚染された子ども達が1990年に5歳になり学齢に達したのです。

1985年ににクラックが最初に広がったニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミといった大都市では、その年、こうしたクラックによる機能障害をもった子ども達の第一波が一斉に学校に入学しました。

ある程度予期されていたことではありました。しかし当時、財政赤字削減に伴う賃金カットや、教師の人員削減、音楽や美術の授業の廃止に直面していた公立学校にとって、この新たな重荷は打撃でした。言語障害や行動に異常のある子ども達を何人か一度に教室に抱えた教師たちの多くが、こうした子ども達を扱う特別な訓練を受けていませんでした。しかもクラックの過去6年間における広がりぶりから、クラックの影響による障害児たちは1995年まで増加の一途をたどることが予測されました。こうした子ども達のほとんどが、通常のクラスに入学することになるのです。ニューヨーク市だけをとってみても、このクラック児と呼ばれる子ども達は、9年後には72、000人に達する見込で、この子ども達に対する応対に教師たちはエネルギーを使いはたし、一般の子ども達に対する配慮がますます行き届かなくなることが容易に予測出来ました。

こうした覚せい剤に胎内で犯された子ども達の存在は以前から指摘されていたことですが、それがこの年ほど大きな波として、一気に増えた例は過去になく、あきらかに6年前のクラックの発明普及と直接結びつけて考えることができました。

障害の特徴としては、運動機能障害、行動に一貫性がなく、物忘れが激しいアルツハイマー症に似た症状があったり、感情の抑制が効かず集中力がないなど、FASの特徴に酷似していました。

特別学級に入った子どもの数。(クラックが広がる以前、以後)

ロサンゼルス

1986−87:4370

1990−91:9405

ニューヨーク(一年差で)

1989−90:3645

1990−91:4604

マイアミ

1986:1384

1990:2707

 

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胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

「生まれる前から虐待される子ども達」

学級崩壊について書こうとすると、避けては通れないのがFASの問題です。(以下、当時のアメリカで全国的に放送された特別ニュース番組と新聞報道からの情報からまとめたものです。)

FAS−Fetal Alcohol Syndrome−(胎児性アルコール症−−妊娠中の女性による飲酒が胎児におよぼす様々な影響を総括してこう呼ぶ)が、アメリカで大きな社会問題となっています。

妊娠中のアルコール摂取は、発達障害児の産まれる原因として、最も可能性の大きいものと言われています。様々なお酒の一般家庭への普及に伴い、FASの子どもがいま世界中で増えつづけています。特に若い女性のアルコール消費料が飛躍的に伸びている先進国社会では、FASを囲む状況は深刻なものとなってきています。日本でも密かに増えているのではないでしょうか。

妊娠中に女性がアルコールを飲むと、産まれてくる子どもの知能や運動能力に悪い影響があることを最初に文章にしたのはアリストテレスだと言われています。それほど昔から人類はFASの存在に気づいていました。しかし、アルコールはほとんどの国々で、日常生活、文化と密接に結び付いており、また一定の確率で精神的肉体的障害を持った子どもが産まれることを、人間社会は受け入れてきました。加えて、胎児の脳および肉体の正常な発達が母親の体内において損なわれるFASは、症状の出方に差があるため、現代医学でもなかなか病名が特定されることがありません。妊娠中のアルコール摂取量に関してもどこまでが安全かは、明らかになっていません。

FASが社会問題として初めて真剣に扱われたのは、ジンが急激に普及した十八世紀の英国でした。しかし、胎児が胎盤を通してアルコールにさらされることが、脳障害や肉体的障害の非常に有力な要因となることが、医学的科学的に論議されはじめたのは1970年代になってからのことです。

現在、アメリカで酒類を置いているレストランやバーに行くと、入り口を入ったところに、「妊娠中にお酒を飲むと、障害児が産まれる原因となります。」という政府による強い警告が必ず貼ってあります。 母親が、妊娠中にお酒を飲まなければFASは防げるからです。

アメリカでいま、自分の子どもがおかしい、普通ではないと思う、でも何がおかしいのかわからない、という親達が増えています。

知能の遅れ、自制心に欠陥がある、集中力がない、落ち着きがない、突然暴れだす、奇声をあげる、友達が作れない、作ろうとしない、抽象概念がわからない、危険性を認識できない、読み書きが優れているのに時間の概念がわからない、原因と結果、物事の因果関係が理解できない、想像する能力がない、熟睡できない、食欲がない、運動能力が発達しない。専門家による報告、医学書に書かれているFASの症状だけでもこれだけあります。

妊娠中のどの時期に、つまり胎児のどの部分が発達しようとしている日に(または瞬間に)、母親がアルコールを飲むかによって、FASの症状はまったく異なってくると言われています。妊娠45日目に母親がアルコールを飲めば、45日目に発達しようとしている能力、器官に影響が現れるのではないかと言われています。妊娠初期は顔を形作る時期といわれていますが、脳は妊娠期間中、常に発達を続けます。そして母親がアルコールを飲めば、それがまんべんなく子どもの脳まで回るというのは疑いのない事実なのです。

(FASを肉体的特徴で見分ける手段として専門家が使っている方法に、目と目の間隔と眼孔の長さのバランスを計る方法があります。また上唇が薄く、鼻の下が平たく広いというのもFASの特徴と言われていますが、これらの身体的特徴は、その調査がアメリカで行われているものですので、アジア系の人種にそのままあてはまるものではない可能性もあります。)

現在アメリカで特に問題となっているものは、症状として際立った肉体的欠陥が見られず、子どもの行動に異常が出る種類のものです。この種のFASは、その原因を後天的なもの、つまり成長期の環境、特に親のしつけの問題と勘違いされやすいというやっかいな問題を抱えています。(これは裏返せば、FASが社会的に知られれば知られるほど、後天的、環境的原因を持つ子どもの問題行動が、FASつまり先天的なもの、治癒できないものとして片付けられ、親達のより一層の子育て放棄を生むという危険性をも意味しています。)

妊娠中にアルコールを大量に飲む母親は、出産後も良い母親ではない場合が多いため、FASの子どもの多くが、その行動を、劣悪な家庭環境の結果とみなされてしまいがちです。その症状の多様性、そして後天的なもの、しつけの問題と見なされやすい周囲の環境によってFASは長年ベールに包まれたままでした。それが最近になってにわかにクローズアップされてきた原因の一つに、アメリカにおける養子縁組みの普及が上げられます。

 

「養子をもらった親達の悲劇」

子どもが出来ない、出産を体験したくない、結婚したくないけれど子どもはほしい、養子縁組みを希望する親達の理由は様々ですが、その多くが経済的に裕福で、子どもを育てることに熱意をもった、良い親になろうという意欲のある人達です。しかし皮肉にも、もらわれる子ども達の多くが、子どもを捨ててしまったり、産んだあと引き取らなかったり、母親が親権を放棄した結果施設などに預けられた子ども達、子育ての意欲のない母親によって産み落された子ども達です。子育てに意欲を持たない母親の子どもが、意欲を持っている別の大人に渡され育てられる。この一見合理的にみえる制度が、いまアメリカ各地で様々な悲劇を起こしています。

子どもを養子にもらって、さあがんばって立派な子どもに育てようと、幸福感に浸っている。ところがしばらくすると、その子どもが間違った行動をしてしまったり、言うことを聞かなくなる。一体自分の育て方の何がいけなかったのだろうと親達は戸惑います。そんな状況がアメリカのあちこちで起こっています。

悲劇の原因は、子どもが実の母親の体内で過ごす10ヵ月にあります。子育てに意欲を持たない母親の体内で、すでに子育ては始まっていたのです。

現代社会はまさにアルコール漬けの社会です。アメリカにおけるアルコールが原因の死は、毎年10万件といわれ、覚せい剤による死亡数よりはるかに多い数字です。薬物以上にアルコールは社会にとって危険なのです。1800万人がアルコールで問題を抱えていて、5人に2人が一生のうちにアルコールが原因の事故に遭遇すると言われています。

そういう社会状況の中、産んだ子どもを自ら放棄してしまう母親がアルコール依存症である確率が非常に高い。アルコール中毒という問題を抱えている母親は、自分の世話が出来ない大人達と言ってもよいでしょう。

FASではないかと診断された養子の産みの親を追跡調査していくと、しばしばその母親が、妊娠中重度のアルコール中毒患者であったことが判明します。中には病院で子どもが産まれたときに、母親が酔っ払っていたというケースさえあります。

500人に1人と言われているFASの子どもが、養子縁組みをした子どもに集中したことで、妊婦によるアルコール摂取の危険性が改めて社会に大きく報道されたのです。

 

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アメリカインディアンとFAS

 

もう一つ注目すべきことは、アメリカインディアン(ネイティブアメリカン)の中にFASが多いという事実です。

アメリカインディアンはアルコール中毒患者が非常に多いという歴史的特徴を持っています。大自然と一体になった精神文化を長い間維持してきた人達が、現代社会に適応出来なかった結果といえるかもしれません。アメリカの奴隷史を見ても、インディアン達だけは奴隷に出来ませんでした。特有の自由な精神が奴隷という立場に適応できず、無気力になり自ら死を選ぶようなことがよくあったそうです。居留地をあてがわれ、有り余る時間と少しの金を政府から毎月与えられ、子育てと伝統的生活様式、価値観を否定された部族が、アメリカ社会に背を向け、アルコール依存症になってしまうのかもしれません。インディアンが集中して住んでいるニューメキシコ州のギャロップ市におけるアメリカインディアンたちのアルコール中毒率は、全米平均の6倍になります。 そうしたインディアンたちの子ども、インディアンから貰われた養子の間にFASが集中しているのです。

アメリカにおける最近のLearning Disabilities(日本でLD児と呼ばれていますが、直訳では、「学ぶ能力に欠けている子ども達」)の急増が、FASと判断されつつある背景には、こうした母親の妊娠時の行動調査があります。そして、FASの子どもを知らずに授かった親達は、やがて育児に疲れ、子育てを放棄し、多くのFAS児がホームレス(路上生活者)になったり、売春や犯罪に関わったり、犯罪の犠牲になっている。

FAS児には、盗むという概念がわからない子どもがいます。学校で人のものを取ったり、嘘をついたり、十代になると社会との摩擦が頻繁に起こり始めます。親は子どもを叱ります。ここでの悲劇は、そうした行動の原因が、子どもを叱ったからどうなるというものではないところにあります。

FAS児には、誰を信用していいかわからないといった症状の子どもがいます。そうした子ども達は、性的いたずらの対象にされる場合が少なくありません。

FASの研究者は、非常に不自然な犯罪を犯した受刑者、突然人を撃ってしまい現場からまったく逃げようとしなかった殺人犯などを、刑務所で調査した結果、FASと認定できる犯罪者がかなり含まれているとの結論を出しています。FASは脳障害であり、犯罪者に善悪の判断を下す能力が備わっていない場合や、突発的に判断能力を失ってしまう状況が起こりうるのです。

東京消防庁の調査(20年前、執筆当時)では、飲み過ぎによる急性アルコール中毒で病院に運ばれる女性が急増しているそうです。その半数が二十代の女性です。計画的な出産が減ってきている現在、妊娠を知らずにお酒を飲んでしまう女性もいるでしょう。FASの危険性がもっと社会に認知されてよい時代に入っていると思います。せめてアメリカのように、お酒類を置いている全ての店やレストランに警告が出るくらいは早急になされなければならないでしょう。広く警告が発せられているアメリカにおいてさえ、この問題は増加の一途をたどっているのです。

家庭におけるしつけの問題が叫ばれ、落ちこぼれを拾いあげる態勢の弱さを学校教育が問われている現在、FASの問題に社会全体が取り組まなくては、すべてが後手に回る。今のところFASに治療法はありません。不治であることを親に宣告することが、果たして子どものために良いのか、という難問が必ずクローズアップされてくるでしょう。

自分のしつけの問題として終わりのない苦闘を続ける親達には、原因が親達の人間性に起因するものではないと知ることは、ある意味で救いになります。しかしそれは同時に、妊娠中の自分の行動が、我子に取り返しのつかない傷を与えてしまった、という現実を知らされることでもあります。こうした状況を招くことを予想しながらも、この問題には正面から取り組まなければなりません。なぜならFASは予防できるからです。

妊娠中にお酒を飲まなければいいだけなのです。

 

(日本の酒造業者は、コンサートホールなどを建てて、文化に貢献していると言いますが、それよりも妊娠中のアルコール摂取の危険性についてのキャンペーンを自ら率先して行ってもらいたいものです。日本政府が、訴訟国家アメリカで、ここまで徹底されているレストランやバーにおける危険性の告知をしないのは、業界からの圧力によるものでしょうか。マスコミがこの問題を取り上げようとしないのは、大口スポンサーである酒造業界への配慮でしょうか。しかしFASはすでにその存在が充分証明されているのです。アメリカでは学級崩壊の引き金となっているのです。お酒は文化の一部です。人間関係におけるその役割は重要です。しかし、最近の日本における女性による飲酒の増加は、将来の教育システムの存続を考えると、かなり危険なところまできていると思います。LD児と呼ばれる子ども達の増加が、幼稚園保育園でハッキリ現れ始めてからでは手遅れです。)

(FAS、クラック児、PCBの胎児への影響、ウイリアムス症。染色体やDNAと機能障害の関係はまだ未知の分野です。しかし、防げる方法があるのなら早めにやっておく、という姿勢が大切です。学校は既に様々な問題を抱え崩壊の危機に直面しているのですから。)

ーーーーーーーーーーーーーここから現在に戻ります。

 

アメリカにおけるクラック児の報道でもわかるように、家庭の本来の機能が弱まるほど、義務教育における学級崩壊が子どもの(親子の)人生に及ぼす影響は大きくなる。アメリカの小学生の十人に一人が学校のカウンセラーに薦められて薬物(向精神薬)を飲んでいる。それがないと画一教育・学校教育が成り立たない。そして、このカウンセラー(専門家)が薦める薬物が、将来麻薬中毒、アルコール中毒につながっているという研究もすでに終わっています。それでもなぜアメリカの義務教育が「薬物」から逃れられないか。「家庭」という義務教育を支える基盤が崩れてしまったからです。

学級崩壊は、人類にとって、学校が普及しなければ存在しない新たな問題なのです。将来への影響、連鎖という視点で考えれば、未知の問題と言ってもいい。学校教育と市場原理が、クラックというちょっとした発明を、とんでもない影響にまで広げる、それが現代社会の特徴です。

FASの問題についても同じことが言えます。人類は、もともとこれほど頻繁にお酒を飲みませんでした。妊婦がお酒を口にする機会にいたっては非常に稀だった。(自然界に存在するものはあったとしても、覚せい剤もまだ発明されていなかった。)そして、ここが問題なのですが、飲酒を薦める「市場原理」がまだ働いていなかった。そういう時代には予測できなかった新たな子育てに関わる問題に、待った無しで、対処しなければならない時代に私たちは生きています。

いまでは日本でも当たり前になり、酒類のパッケージなどには必ず書いてある「妊娠中のアルコール摂取に関する警告」が、アメリカで義務として法制化されてから35年になります。この法律が義務教育を守るためには不可欠という認識が社会全体に生まれ、マスコミも繰り返しそれを取り上げた。日本では、その警告が現れるのが二十年以上遅れました。しかも、いまだに業者の自主的な警告でしかない。いつかは絶対にしなければいけない政府による警告が、国の仕組みの中でこれだけ遅れている。どうしてそうなるのか、国民は考え、マスコミや学者はしっかりその仕組みを調べるべきなのです。

そうした国の姿勢や政府の仕組みが、この国の現在の状況、あり方に、見えないところで大きな影響を及ぼしている。保育の問題もそうですが、その影響の大きさと速さを考えると、政府の施策の進め方、思惑、市場原理、の罪深さを感じます。これからも、教育、保育、福祉、司法、あらゆる分野で雪だるま式に起こる「現在の施策の結果」に繰り返し対処し続けていかなければならないことを考えると、憤りさえ覚えるのです。

なぜ、20年前、学者でもない私がアメリカに住んでいて、簡単に知ることができたFASに関する情報が、警告として共有されなかったのか。当然日本にも伝わっていたはずの情報の共有が、なぜこれほどまでに遅らされたのか。日本がまだ訴訟社会ではないというだけでは済まない、意図的なものを感じ、不安になるのです。

アメリカインディアンが「生きる力を削がれること」で陥った罠に、私たちも少しずつ捕まり始めたのではないのか。

いまの、子ども・子育て支援新制度、11時間保育を「標準」と名付けた施策が、撤回されなければならない日は必ず来るでしょう。それほど不自然ですし、1年目でこれほどの矛盾や問題が噴出している。「保育は成長産業」などという偏った閣議決定に煽られ、利潤を目的とした保育が日常になり、事故が増え、園や自治体が繰り返し訴訟の対象になる可能性は充分にある。そうなってほしくはないですが、日本が、アメリカ程度の訴訟社会になれば、新制度自体が訴訟の対象になり、国が負け続ける可能性は十分にある。この歪んだ施策の転換か撤回が、政治家の優柔不断さでさらに遅れ、十年後になれば、この国の魂のインフラはより深く傷つき、学校教育が修復不可能な状況に追い込まれてゆく。それが見えるのです。

政治家は真面目にこの国の形について考えてほしい。安易に「愛国心」などと言う前に、もっとさかのぼって家族の形、幼児の日常のことを考えてほしい。この国の未来と人々の生活に、自分たちの閣議決定が大きな影響を及ぼすことに、慄然としてほしい。

 

まだ、わかってくれる。中学生くらいから説明するといい。

「十数年前に私立保育園の定款にサービスという言葉が入れられた時、違和感を感じた園長は多くいました。それでも少子化対策(エンゼルプランなど)の掛け声のもと、保育は政府の雇用労働施策に取り込まれてしまった。社会で子育て(実態は保育園で子育て)がいいと言う学者の意見にマスコミも同調してしまった。」という私のツイートに、

「まあとりあえず来年度の保育士採用状況次第ですな。関東圏では東京都の保育士優遇策によって、保育士が東京に一極集中し、悲惨な状況になることが予想される。また地方も東京などの大都市圏の業者によるリクルートで過度の保育士不足になるおそれが。物理的保育崩壊が進むと思われる。修正があるやも。」とツイートが返ってきました。

都会のお金のある自治体の、地方はどうなってもいい、というような待遇改善施策(月八万円の居住費補助など)と青田買いによって、地方の保育士不足はより一層深刻さを増しています。加えて、恒久財源を確保しにくい財政危機を抱え、地方の、特にいままで公立保育園主体にやってきた小さな市の課長さんたちは腹立たしさの中で必死に頑張っている。公立も職員の半数以上が非正規という地域がほとんどです。正規で雇えば倍率は出ますが、財政削減=非正規雇用化という流れになっています。

「地方では、すでに保育士不足と、0歳児を預けたいという親の急増で混乱しています。都会からの無節操な青田買いもありますが、いま枠を広げても財源が続くか見えない。市町村にも財源負担はある。切羽詰まって、役人が0歳保育を求める保護者一人一人に面接して、説得すると半数はわかってくれる。」と私。すると別の人が、

「半数はわかってくれる。まだ希望はあるのかな。」

『びっくりしますよ。希望がある、というより、0歳児を預けたい親たちの意識が「ニーズ」より「預けたい」であることが多い。三年前の国のニーズ調査でもそれは顕われていたのですが、誰かが親身に乳児と親の関係について説明し、市の財政や保育士不足を真剣に訴えれば、納得する親は相当いるのです』と私。

『大事なことを「知らない」親、「預けて働くのがスタンダード、乗り遅れたら負け組」と思い込んでいる親が、たくさんいるような気がするんですよね。親になる前に、そういう勉強の機会があるといいなと思います。』とその方から返信。

『この種の、「大事なこと」を説明するには中学生くらいが良いと思うのです。感性がまだあって、不思議な次元を理解するのです。ブログに、

「中学生の保育士体験:http://www.luci.jp/diary2/?p=260 

「中学生は理解してくれる:http://www.luci.jp/diary2/?p=726 」を書きました。」と書きました。

このくらいの年齢で幼児との自然な体験を繰り返し味あわせてあげると、人間の遺伝子は、ちゃんとオンになってくる。そうした大自然の流れに沿った親心の耕し、人間性の耕しをしていけば、自然治癒力は必ず働く。

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国会で、海保の職員、警察官、自衛隊員に敬意を表しましょうと首相が議員に起立・拍手を呼びかけ、小泉進次郎氏も「不自然」と言っていました。たぶん、保育士、教師、育てている親たちに敬意を表しましょう、と言って拍手していればそんなに不自然ではなかったと思います。国の守り方にはいろんな次元があって、政治家はその優先順位を知っていてほしい。

保育の「受け皿」という言葉・社会進出を阻む壁

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「保育の受け皿」という言葉を耳にするのです。

こんな新聞記事がありました。

安倍晋三首相は6日、東京都内で講演し、保育所などに入れない待機児童の解消に向け、「50万人分の保育の受け皿を整備したい」と述べた。政府はこれまで、2017年度末までに40万人分の受け皿確保を目標としていたが、上積みをめざす。』

『首相は、政権が掲げる「1億総活躍社会」の目標「希望出生率1・8」について、「20年代半ばまでには実現せねばならない」と強調。その具体策として、保育の受け皿確保のほか、新婚夫婦や子育て世帯が公的賃貸住宅に優先的に入居できるようにしたり、家賃負担を軽くしたりする考えを示した。』

本来なら「子育ての受け皿」というべきかもしれません。でも、そう言ってしまうと、そこに危うい闇が見えてしまうから、みんな言わない。

その人の人生のあり方を決定づける「親子の関係」は、双方向へ重なる日々の体験の中で育ち、築かれてゆくものです。子育てを、親子という特別な関係が形造られる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでにおかしい。非人間的、非現実的なのです。それに、もう誰も気付かなくなってしまった。マスコミや教育を通しての情報の共有が、不自然を、すっかり当たり前に見せている・・・。

本当は、子育てに受け皿などありえない。一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない特別な一年で、それはゆっくり流れるように見えて、あっという間に過ぎてしまう。人間社会の絆の土台となるその体験を犠牲に、国が経済のために、「希望出生率」を目標に、一日11時間親子を切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相当の責任がある。

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「新婚夫婦の家賃負担を軽くし」結婚しやすい環境をつくるという。子どもを産んでほしいから。

そして、こんな記事もありました。

 配偶者控除見直し検討・自民税調会長が表明:「伝統的な家族観や社会構造の変化にあわせ、女性の社会進出を阻む壁をなくしつつ、結婚を税制面で後押しする狙い」

社会進出を阻む壁は「子ども」とハッキリ言わずに、結婚して子ども(壁)を産めと言う。これがたくらみでないのなら、支離滅裂です。その根っこにある矛盾をごまかすために、「受け皿」という言葉が使われている。

ある保育園の園長先生が首を傾げていました。受け皿で育った子どもが、受け皿で育てることに躊躇しなくなったら、もちろんその逆の場合もありますが、全体的にそれが当たり前になっていったら、保育界は本当に受けきれるのか、誰が子どもの成長に責任を持つのか、社会としてそれでいいのか心配です、と。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれません

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「今、新たに開園しようという事業者を、私は信用しない」という端的なツイートがきました。(@kazu_matsuiに。)

ほぼ同感です。(自治体が募集し、サービス業的な保育業者が参入し開園するくらいなら、あの法人、あの理事長に手を上げてほしいな、と思うことがあります。しかし、最近の保育園増設は「いい法人」が手を上げても選ばれないことが多々ある。市区町村に任せているだけに、どういう基準なのか、とても不透明です。)

親の意識の急激な変化が原因なのか、1歳児で噛みつく、3、4、5歳でもいわゆるグレーゾーンの子が急に増えています。いい保育をしようとしても加配が追いつかない。おいつかない加配を、0、1歳に回さないと市民の要求においつかない。地方に講演に行っても、状況はほぼ同じです。それは、保育関係者ならみなが知っていることです。

それでも、政府が経済活性化の対策費として出す予算で、とりあえず儲けようという人たちが、「待機児童をなくせ」「一億総活躍」「保育は成長産業」という掛け声に便乗しなり振り構わず参入してきます。

ほんの一例ですが、以下のような「保育園が誰にでもできるマニュアル」がネットで宣伝され、起業家予備軍を誘っているのです。

ーーーーーー以下ネット上の文章ですーーーーーーーー

『独立起業を誰にでも』

 

〜独立起業を支えるマニュアルです。保育園開業は今ビッグチャンスを迎えています。少ない資本で安定した利益をもたらす保育園開業マニュアルです。コンサルティング会社の100分の1以下の費用でノウハウが全て手に入ります。〜

「保育園開業・集客完全マニュアル」

*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

*自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

*安定した収入が入るビジネスにはどんなものがあるのかわからない。

*フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安だ。

起業をしたいと思ったときがチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。しかし、単に「起業」と言っても、何をどう始めたらよいのか、どんな手順を踏んで、どんな書類を用意しなければならないのか、わからない方がほとんどです。

そこで、「保育園開業・集客完全マニュアル」をあたなにお届けいたします!

ーーーーーーーーーーー(ここから私の文章です)

政府による保育士資格取得の規制緩和もひどい話ですが、数万円の「集客マニュアル」を買えば保育園が「開業」できると宣伝されるような制度にしてしまった規制緩和はもっと乱暴です。

しかも「自己資金がなくてもできる起業を探している人、何から、どう始めたらよいかわからない人、自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいの人」には、保育園経営がお薦め、安定した収入になる、というのです。

「フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安」という指摘は、よく考えれば、それだけで政府や行政が問題にしなければいけない発言です。保育園経営に失敗して痛い思いをした人、自己資金を無くした人が、すでにたくさん居るということ。こういうことが起きないように、ルールを作ったり規制をかけたりしなければいけない。幼児という絶対的弱者を守るために。

本来子どもを守らなければいけない政府が進めている急速な規制緩和と市場原理、それらが創り出したコンサルビジネスやマニュアル販売ビジネスの先に、園児たち、幼児たち、保育士たちが必ずいる。経営に失敗した保育園にも通っていた子どもたち、保育士たちがいた。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれない。親たちが意識をしっかり持って、いま子どもと自分の人生に何が大切か、何が危ないのか、感性を働かせ考えてほしいと思います。

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そして、現場からこんなツイートが来ました。

『トイレから出てこなくなってしまった実習生を引き取りに来た母親の「保育士だったらなんとかなると思ってたのに」という一言は忘れられないけれど、一緒に来た担当講師の「なんとか二週間頑張れば資格とれたんですけどね」という言い草には腹立ちより呆れ。その講師はその養成校の卒業生と聞いて納得。』

養成校がすでに市場原理に取り込まれている。「資格」を与えることがビジネスになり、それが「養成」の中心になっている。「保育」を教えるはずの担当講師の意識の中に、「幼児の日々」が存在しなくなっている。

教える人たちの意識が麻痺しているから、育てる人たちの意識も麻痺してくる。教育界がその魂を市場原理に売ってしまえば、それは、政治家やマスコミの思考にも確実に影響していると思います。

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先日、2歳の子どもに何か一生懸命説明している母親を見ました。「2歳の子どもに説明する」、こんな素晴らしい瞬間があるんだ、と思いました。

真剣で、なにかとても広い、宇宙のようなものを説明している感じがしたのです。こういう時間をもう一度持てるのだろうかと考え、遠くを眺めました。

幼児といると、自分が「風景」の中にいることが感じられて、自分の「立場」がよくわかります。その絶対的「立場」に安心して、暮らせばいいのだと思います。(インドでの風景) http://kazumatsui.com/sakthi.html