親に向いてない人?・甘えられる、信頼される幸せ

「親に向いてない人?」

 

こんなツイートが保育士さんからありました。

「保育士の転職サイトで『保育士の仕事は親の代わりに子育てをすること!親に向いてない人はいないから、保育士に向いてない人もいない!』という文章をみつけて衝撃を受けている。

私は親代りのつもりは全くないし、保育士に向いている人はわからないけど、向いていない人はいると思っている。」

最近の保育士不足から起こっている現場の状況や、「保育園落ちた、日本死ね」という流行語に代表される、保育に対する意識の変化を考えれば、こういう、転職サイトの無責任な宣伝文句自体が衝撃です。資格を持っていればいい、という問題ではない。よくわかります。保育をサービス産業、成長産業と位置付けた政府の経済優先施策、その狭間で儲けようとする転職サイトや派遣業者が「親の代わりに子育てをする保育界の質を一気に下げ、壊してゆくことへの憤りさえ感じます。

もともと実習を体験した保育科の学生の半数以上が、自分には無理、と判断して保育士にはならなかった。それが保育界の常識だった。資格を持っているから保育士になれるのではない、と理解した学生たちの、仕事に就く前に「自分を埋める」という賢明な判断が保育界の質を支えていたのです。大自然の法則にも似た彼女たちの行動を、政府が無責任に、現場に出ていない資格者が80万人いるのだから、「掘り起こせ」と言い、保育界で儲けたい人たちが、人を選ぶ前に、「三年経ったら園長にしてあげる」「派遣会社は毎年違う園が体験できますよ」などと学生に呼びかけるのです。そして、馬鹿な首長が、「子育てしやすい街にします」「待機児童をなくします」「三人目は無料です」と言って親子を引き離す施策を選挙公約に掲げ、現場の状況を知っているがために板挟みになって苦しむ課長の意見には耳を傾けずに、いつの間にか「子育て、放棄しやすい街」をつくる。財源のある東京都のある区長は、5万円の商品券、月八万円の居住費を餌に、地方から保育士を青田買いしようとするのです。地方のことなどまるで考えていない。幼児たちも区民であって、親と一緒にいたいと思っているかもしれないということさえ想像しない。

実は、誰にも親の代わりはできない。ベテラン保育士たちはそてを身に染みて知っているのです。しかも、自分たちがいくら頑張っても5歳まで。毎年担当は代わる。自分たちが頑張ることで、親たちが親らしさを失うのであれば、本末転倒。指針にもある「子どもの幸せを優先」したことにはならない。

最近の保育士さんの離職原因の第一が同僚との問題と言われます。特に3歳未満児保育は、以上児と違って複数担任の場合が多く、「向いていない人」「そこにいてはいけない人」が同じ部屋にいるだけで、感性のある人が辞めていく。そういうケース(ケースと言うことがすでにおかしいのですが)、奇妙な出会いが、日々幼児の視線(神様の目線)にさらされているのです。保育は、だれでもできる仕事ではない。保育士という職業につける人間はそうそういない。たぶん20人に一人くらいしかいない。

(この宣伝文句を眺めてふと思いました。保育士が基本的に出産を経験していて、30年くらい続ける職業で、親身に育ててくれる先輩数人に囲まれ、担当する子どもが年齢を問わず三人ずつくらいまでで、必ずそこに親たちからの感謝と信頼の目線があり、訴訟がない社会なら、「保育士に向いてない人もいない」と宣伝して、それから数年かけて一人前の保育士を育ててもいいかもしれない。でも、まったく、そういう仕組みではありません。)

「親に向いていない人はいない」ではなく、「子育てに向いていない社会はない」ということなら言えるかもしれない。一人ではできないのが子育てで、集団の意識や、異なる資質や、様々な体験の重なりあいと、相互の育ちあいがなければ不可能なもの。もっと進めて、一人一人の人間の違いを生かし、相談しあい、育ちあい、人類が必要とする絆を深めるために「子育て」があるのだと理解するといいのです。

ーーーーーーーーーーーーーー

IMG05331

 

福祉の仕事に憧れ、それを自分の天職と思い、資格をとり、養護施設や障害児の支援団体、介護施設と経験し、その度に「人間の在り方」と「仕組みの働き」の狭間で悩んで、立ち上がれなくなって辞めていった友人から、メールが来ました。結婚して、子育て真っ最中の人です。

「私は福祉でやりたかったことは、今の子育てのようなことで、仕事ではなかったなぁと最近思います。こどもを産まなかったらずっと仕事で悩んでいた気がします。でも子育てで自分のやりたかったことが満たされていて、そのまんまでいれるからうれしいです。
細々した悩みは当然ありますが、全体的には小さいこどもといる時間はいつもきもちがわくわくしています。あたらしいことが一緒に発見できて私もまたこどもみたいにいれるからかなと思ったりします。
きっとあとから考えたら今の時間がかけがえのないものになるのだろうという予感がものすごいです。
講演、近くにくることがあればまた聞かせてください!」

 

こうした不思議な人たちの、繊細な感性が、静かに人間社会を守ってきたのだと思います。言葉にはできない幼児たちの主張や波長が、この人と同調している。それが人間社会を鎮めていたのだと思います。

「子育て」というのは、「そんな仕掛けではないかな」と思っていたことを言葉にしてもらって、思わずメールに感謝です。メッセージに、ありがたいな、と思います。

 

images-10

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「甘えられる、信頼される幸せ」

「主婦なんて夫に頭を撫でられて、喜んでいるペットじゃないの!自立しなきゃダメじゃないの!」田嶋陽子先生が、鼻で笑っていた主婦が産んだ子供が、先生の老後を支えているのです。そのことを忘れてはいけませんよ。」

というツイートを読みました。

「依存すること、甘えること」を「悪いこと」と思い始める最近の先進国における意識の変化、その「怖さ」を感じます。仕組みを作ってそれに依存し、慣れた人間たちが、実はたくさんの命に支えられていることを忘れ、その命の気づかず、つながりを実感しなくなっている。自立していると勘違いしている。

価値観の多様化、などといういい加減な言葉では片付けられない、仕組みに依存し、やがて支配される、「危うさ」を感じます。

学問や教育や情報に支配され、「自立」という奇妙で不自然な言葉が、いつしか力を持ち始めると、人間の生きる力が弱くなってゆく。すると競争や闘いに流れてゆく。幼児が遠のいてゆく。やがて、その存在意義さえ否定することになってゆく。

人には、依存され、甘えられることで育つ何かがある。依存し、甘えることで確認する何かがある。その確認こそが、生きる力。

お互いを必要とし、求めあう関係に反応してオンになってくる魂の働き(遺伝子?)が幸福感と呼ばれるもの。それは過去の長い時間と重なっていて、絶対に否定できない、すでに起こったことで、私たちの一部になっている。

親子関係に象徴される、異なる成長過程にある人間たちの遺伝子が相互に関係することが社会には大切で、ひょっとすると人間の進化の根本的な働きだと、乳幼児を眺めながら思い出さなければならない時が来ています。

甘えてもらえる、信頼してもらえる幸せが人間社会の絆の原点になっている。

依存される(そして、依存する)幸福感が、こうした学者(強者)の言葉で否定され、マスコミで流されると、社会全体の幸福の幅が狭まっていきます。言葉を使わない幼児(弱者)の沈黙のコミュニケーション能力が発揮されなくなってくる。それを福祉や教育制度といった最近の仕組みで補おうとしても、人間はますます生きる指針を失い始める。人生を導いてくれる幸福感に気付かなくなってくる。

幼児に依存され、頼られ、その状況に反応することが人生の出発点にあり、人生そのものだということに気づけば、ぞれぞれの生きる力が復活してくるのだと思います。

アメリカ、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれる。その状況の中で起こっている価値観の分裂を見ればわかると思うのです。教育ではどうにもならない次元の分裂が起こっている。

日本は、別の道を進んでみる、それが役割だと思うのです。この国の伝統文化、存在意義でもある、沈黙のコミュニケーション能力が問われています。

 

201701271718000

201701271718000

Y市の試み・そして「鳥取県が家庭保育への給付金」

「家庭で乳児の子育てをする人への給付金」、同様の制度を始めようとしている市の行政の方から、

『今日のニュースで鳥取県が県レベルで家庭保育への給付金を創設するというニュースがありました。』という知らせがありました。

http://www.sankei.com/west/news/170118/wst1701180086-n1.html …

鳥取県は18日、0歳児を保育所などに預けていない「在宅育児世帯」を対象に、現金給付を含めた支援制度を平成29年度から開始する意向を各市町村に示した。県によると、1億~2億円を予算案に計上する。都道府県レベルでこうした制度を導入するのは初めて。

県が作成した制度案では、事業主体は市町村とし、児童1人当たり月に3万円程度の給付を想定。県は1万5千円を上限に助成する。現金給付の他に一時預かりサービスの利用補助や子育て用品などの現物給付も選択可能とし、所得制限を導入するかどうかも含めて各市町村に判断を委ねる。

子育ての経済的負担から出産をためらうケースを減らす狙いもある。各市町村長らが出席した行政懇談会で、平井伸治知事は「子育て支援に厚みを出し、ぜひ多くの子育て世帯を応援したい」と理解を求めた。

市町村長らからは「家庭での子育てを促す」「保育士不足対策としても効果がある」など肯定的な意見が多数を占めた。

ーーーーーーーーーーーーー

この方法が、全国に広がることを期待しています。0歳だけでなく、2歳児くらいまで広がってほしい。保育界を追い詰めている保育士不足と、市場原理がもたらした急速な保育環境の質の低下に対応するには、なるべく親が育てる、この方向しかないと思います。

全国的に見ても、3歳未満児を育てる親に月額5万円の直接給付をしても、いま未満児保育に使っている税の総額より安く済むかもしれない。保育料を払っている親たちの多くが、自分で仕組みを支えていると思っているようなのですが、東京都などでは0歳児の保育に月額50万円近い税金が使われている。そして現状は、どんなにお金があっても保育士が足りない。もっと深刻なのは、いい保育士がいない、育っていない。子育ては究極お金でその良し悪しが決まるものではないのです。

家庭に子育てを返してゆこうという鳥取県の施策は、保育士不足という緊急事態と、いま3歳未満児保育を増やすと市町村も恒久財源が必要になることへの危機感、先を見通した具体策かもしれませんが、同時に、幼児の願いに沿っている。幼児という弱者の願いを優先すると、福祉の質の低下に歯止めがかかるだけでなく、学校も含めて、社会全体にいい循環が生まれてきます。全国に少しずつ広がってきている「一日保育者体験」から生まれる感想文を見ても思うのですが、弱者の幸福を優先すると、社会に人間性が蘇ってきて、自然治癒力、自浄作用が働き始めるのです。

 

images-7

 

経済施策と子育ての施策を混同してはいけない

少子化の先にある税収減を見越して、財政諮問会議が小泉政権の時に始めた、女性の労働力を掘り起こすという「雇用労働施策」が、いまの「50万人幼児を保育園で預かれば女性が輝く」という施策の本質です。保育の質が後回しにされている。それが後回しにされていることによって、保育界に様々な悪循環が生まれている。

未満児を預かる保育所、小規模保育、家庭保育室、そして子ども園を、ここまで意図的に増やしてしまうと、親に子育てを返そうとした時に、既存の保育施設の生き残りという問題が出てきます。生き残ろうとする過程で、一層子どもたちの存在感が薄れてくる。保育施設を増やしても、基本的に流れは「少子化」です。出生率が上がっても、分母になる母親の数が減り続け、結婚しない男性が増えている状況で少子化は止まらないのです。

しかしここで忘れてはならないのは、いまの保育の仕組みは、人工的に作られた仕組みであって、絶対的なものではないということ。(0歳児を預からないと、私立の保育園の経営が成り立ちにくい、という現在の仕組みは、母親を乳児から引き離そうと、政府によって意図的に作られたものです。政府の考え方が変われば、どうにでもなる。政治家が、国の在り方を長期的に考え、幼児たちを大切にすることで起こるいい循環が、将来この国のモラルや秩序、学校教育の質にとてもいい影響を与えると思い直せば、方法はいくらでもあるのです。)

園児減少を心配する私立保育園・幼稚園には、子育て支援センターとしての機能を持たせて、経営の心配をしなくていいように、しっかり補助を出せばいいだけのことです。

少子化を背景に、保育園と幼稚園を競わせ節税しようとするいまの施策は、幼児の生活の質を蔑ろにした姑息な手法です。これでは、保育のサービス産業化を招くだけ。その向こうに、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定が見え隠れしています。親へのサービスを優先するといい保育士が去って行く。保育士という道を選んだ人たちの心の仕組みを、政府も経済学者も理解していない。ここが一番怖いのです。

保育士たちが「子育て」をしている限り、幼児たちは保育士の良心を育てます。すると、子どもたちの声、願いがよりはっきりと聞こえてくる。いい保育士は、自分たちが政府から押し付けられた「仕事」(役割)と子どもたちの願いの間に矛盾があることに気づいてしまう。程度の差こそあれ、保育士やめるか、良心捨てるか、ということになる。

母子手帳や乳児検診の延長線上に、乳幼児の母親たちが集まる場所を、例えば年配保育者やベテラン園長が常に居る幼稚園や保育園に併設して作る。すでにそうしている園もあって、園庭に小さな小屋とキッチンもあって、そこで簡易料理教室が自主的に開かれたり、ママ友の会が開かれたりしています。一緒に子どもを育てているという環境が、人間社会に絆が生まれる基本ですから、相談相手が自然にできてくる。本当は、ビルの一室などではなく、心が落ち着く森の中や、見渡すといい景色が見える静かな所などがいいのです。子育てに大切なのは風景、親たちの心の落ち着きですから。

(鳥取の取り組みついてツイートすると、こんなツイートが返ってきました。)

「私も同じように思います。一時保育や家庭保育の親向けの支援事業など、園児がいなくても地域が園に求めている必要な子育て支援事業はたくさんあると思います。家庭で保育したいけど経済的にできない家庭が待機児童って、子育て支援の方向として本末転倒のような気がしました。」

同感です。「家庭で保育したいけど経済的にできない」という状況は、最近、意図的に作られた意識、環境です

子どもたち、特に乳幼児が家庭の中心に居て、その状況が成り立つようにサポートすることで「人間社会」が存在してきた。そうした進化にとって当たり前のこと、(遺伝子の)「働き」が、薄っぺらい経済論で覆い隠され、みながいつしか競争に追い込まれ、騙されている。

みんなで、当たり前のことをできるようにすればいいだけなのです。それだけの税金はもちろんある。それを国や自治体が馬鹿げた施策に使って無駄にするのであれば、幼児を眺めて話し合えばいい。幼児に視線が集まっていれば、本来「その絆」でなんとかできる。様々な状況でそうしてきた。そういう真実を学校でも教えてほしいと思います。貧しくても、幼児の幸せを優先に考えていれば、絆が生まれ、育てる側も幸せになれること。そして、この国は、そういうやり方が得意だったこと。それがこの国の美しさだったこと。

 

image s-2

 

松居 和 様

遅ればせながら、新年おめでとうございます。

また、旧年中は2度もご講演を頂き本当に世話になりました。

さて、当町では平成29年度から、生後7ヶ月から1歳11ヶ月まで(17ヶ月間)の子どもを保育園等に預けず家庭で子育てする保護者(祖父母でも可)に月額3万円を給付する「家庭保育支援給付金事業」を創設することが決まりました。

実は、この施策は数年前から密かに温めていたものなのですが、制度設計をする段階で鳥取県の自治体(伯耆町、大山町、湯梨浜町)で既に似たような施策が実施されていることが分かり驚いた次第です。(世の中には同じことを考える人がいるんだなぁ〜と素朴に思いました(笑)

とはいえ、全国的には珍しい施策であることと、それなりに予算がかかるこの施策提案が執行部に通ったのも、松居先生のご講演のおかげだと感じています。

国の経済政策や子育て支援政策が迷走するなか、子育てを取り巻く環境はますます厳しい状況ですが、当町の子育て支援のポリシーを示す施策として定着させていきたいと考えています。

先生には、今後ともご支援を賜りますようお願いいたします。また、今後のご活躍を心からお祈りいたします。

時節柄、くれぐれもご自愛ください。

 

主任さんの教え・保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も・政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

主任さんの教え

 

ある保育園の主任さんが教えてくれました。その園では、平日であっても、「休みの日はなるべく自分で子どもを見てください」と親たちに言います。そういうアドバイスを嫌がる親にも繰り返し、はっきりと言うのです。それが子どもたちのため、そして親の将来のため、と思うからです。

粘り強く説得し言い続けると、そのうち、その気持ちが通じて、園の意図や方針を少しずつ理解し、できる限り子どもと過ごすように努力する親もでてきます。そういう親たちの子どもは、病気になっても治りが早いのだそうです。欠勤日も減って、結局、親たちにとってもその方がいいのです、と自分も働く母親だった主任さんは言います。

そういう子育てにおける大切な法則、隠された子どもたちの存在意義のようなことを親身に説明してくれる主任さんが、最近とても少なくなりました。森の中から聴こえてくるような言葉を伝える人たちが、沈黙の方に還って行こうとしています。世間の常識が、利便性やサービス、権利といった言葉の方に行ってしまい、「子どもたちの気持ち」や「祈り」から離れてしまっているから、自然を感じ、本当に子どもの気持ちを優先している人たちが、呆れ、あきらめかけているのです。

土や水、木々や草花と接する機会が減って、人間の遺伝子がオンにならなくなってきている。保育という子育ての現場で、保育士と保護者が「一緒に育てている」という感覚が、政府の「保育はサービス、成長産業」という掛け声と施策によって失われていっている。それが、いま保育士と保護者との対立という図式にまで進もうとしているのです。その始まりに、親にアドバイスできなくなった主任さんたちの辛そうな顔が見えるのです。

e02-102

学校教育や学問と離れた場所に、生きてゆくための、人間が「社会」を築いてゆくための本当の教えがたくさん散らばっていた。それは時に言葉による教えでもありましたが、幼児のように、その存在感だけで、私たちを育ててきたものもある。それが、忘れられ始めている。

それを伝える人たちの存在が気づかれなくなってきている。

 

 

そういう流れの中で、児童虐待やDVが増えているのです

真実や真理を伝える人たちがそこにいるのに、政府やマスコミに相手にされなくなって、学者なんてものが「専門家」と言われるようになって、政府が乳幼児の願いを新しい保育制度で考慮しないし、優先もしない。だから、社会全体がこういうことになってくるのです。「社会で子育て」「仕組みや制度で子育て」などと宣伝される中で、親身な人たちのネットワークが子どもたちの周りから少しずつ減ってゆく。悩んでいる人たちの周りから親身な相談相手が少しずつ消えてゆく。それが、政府の経済中心の施策で行われるから崩壊の進み方の速度が常識を超えている。

言葉を発しない乳児たちの願いを日々想像しながら、人間社会にモラルや秩序が生まれていた。そのことをもう一度、早く、思い出してほしい。

「児童虐待防止法」など作っても、家庭内の問題はそれが表面化するまでは行政や法律で取り締まれるものではない。そして表面化した時にはすでに遅い。幼児の人生を左右し、社会全体の未来を左右してしまう出来事は起こってしまっている。児童虐待やDVは、幼児と接し、共に幼児を眺める人たちが双方向へ絆を作り、その繰り返しで実感する「人間性」でのみ取り締まれるものなのです。

images-1

 

 

「貧困問題」

 

いま、これだけ国が豊かになって、「貧困問題」が起こっている。物質的豊かさで日本の上にいるのは、GDPで比べればアメリカと中国だけ。手法は異なりますが、意識的に作られた極端な格差社会。様々な問題を抱えた、子育てに関しては絶対に真似してはいけない二つの国です。EU諸国だってそうです。経済的にも、家庭崩壊や犯罪率でも日本に比べ、はるかにうまくいっていない国々。私は、日本は世界一豊かで安全な国だと思います。(夜、小学生が外を歩ける。)それなのになぜ、貧困問題、特に子どもの貧困問題が起こるのか。

実は、人類は豊かさに慣れていない。豊かさの中で進化してきていないから、遺伝子が豊かさに慣れていない。聖書や仏の教え、たぶんコーランや儒教にもあるように、貧しくても助け合って、祈って、感謝して、お互いの存在を感じて幸せになることのほうが上手だった。

いまの先進国社会特有の貧困問題は人類未体験の、日常生活の中で親身な助け合いが不必要になり、義務養育の普及に伴い子育てが「仕組み」に移り始め、信頼の絆が切れてゆくことによって生まれている「問題」なのです。だから、不幸と直結してしまう。「親身」という言葉は、親の身、と書く。親心の喪失(幼児の役割の喪失)が先進国社会の貧困問題の核にある。

 

p1130928

 

政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

そして、それは、保育の実情を正面から見ない、「子育てをすること」の社会における本当の意味に気付かない少数の素人たちの希望的観測でしかない。

「保育の受け皿」「女性が輝く」などという言葉をつかい、親が幼児と離れることをこれだけ政府が薦めるから、「日本、死ね!」などと逆に罵倒される。そして、それが「流行語大賞」の候補になったりする。

政府の思惑とそれに煽られた親たちの不満の狭間で、子どもたちが徐々に行き場を失っている。安心感を失っている。そしてそれが義務教育によって連鎖する。

子育てに対する親たちの意識の変化によって保育界が追い詰められている。その先に、学級崩壊よって追い詰められている学校がある。こういう現実は、すでに明らかで、はっきりしているのです。なぜ、政府はこの無理な流れを止めようとしないのか。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

(東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:

新聞の記事ですが、まったく馬鹿げた話です。誰にでも予測できたこと。保育士不足がすでに解決不可能な状況にあることを、少なくとも私は二人の厚労大臣や安倍首相の側近と思える人たちにも直接伝えました。

杉並区や世田谷区でこれだけ無理をして保育園を作っても、いま、この段階で4月に必要な保育士が集まるか不明なのです。保育園は箱を作ればなんとかなる、というものではないのです。

杉並区では、今年の夏、子どもの気持ちや親の気持ちを無視するようなかなり高圧的なやり方で、区長が子どもに人気の公園を半分潰して保育園を作りました。待機児の来年度の予測が500人と言われているのに2017年4月までに2000人の受け皿を作る、供給は需要を喚起する、となどと言って、人気の公園をつぶさなくても500人分は十分確保できていたし、時間をかければ別の候補地を見つけることができたはずなのに、一気に進めたのです。その拙速なやり方に子どもを持つ親たちが署名運動までして反対したにもかかわらず、強引に進めた。(http://www.luci.jp/diary2/?p=556)その結果がこれです。

地下に保育所をつくれるように、東京都の区長会が国に緊急要望を出しています。彼らには、そこで幼児を育てる保育士や、そこに通って育ってゆく子どもたちの気持ちや日常が見えていない。保育士や幼児にとっての「景色」など、選挙や税収に比べればどうでもいいことなのです。人間として、常に思い出してほしいのは、保育における環境は、年に数日とか一日1時間というような次元の話ではないということ。一日平均10時間(政府は11時間を「標準」と名付けた)、年に260日という膨大な時間に関わる話なのです。子どもたちにとって、選択肢のない「日常」なのです。「風景」は、とても大切なのです。生きてゆく「風景」の大切さを知ることは人生を知ること。それがこの国の文化だったはずです。http://www.luci.jp/diary2/?p=1060:

こんなやり方をしておいて、こんな要望を出しておいて、「感性豊かな子どもを育てる」とか、「国を愛し、地域を愛する」子どもを学校教育で育てる、などと言っているのですから、政治家たちは自分の生き方から考え直した方がいいのではないか。政治家たちこそ、まず感性を磨き、真の愛国心を持ってほしいと思います。国を愛することの始まりは、幼児を愛することです。

 

都が居住手当を月に8万円援助し、区が5万円の商品券を用意し、地方の保育士育成校へ出掛けて行って青田買いをして、必死に人数を揃えようとしています。ですが、実は、保育園で何年も過ごす幼児たちのことを考えれば、本当の問題は、4月に保育士資格を持っている人を人数分揃えればいい、ということではまったくない。

保育士資格を持っている人の多くが、現場に出てはいけない人たち、資格を与えてはいけない人たち、保育の意味を理解していない人たちです。それはいまの保育現場に来る実習生や、専門学校や養成校の授業の質、その先に居る幼児たちのことを考えようともしない資格の与え方、一度も現場に出なかった、政府が言うところの「潜在保育士」たちのことを少し調べればわかります。その現実こそが、幼児にとって最重要問題なのです。よほど園長や主任がしっかりしていても、3人募集して6人応募してくるような倍率がないかぎり保育士の質はもう揃えられない。そこまで、国の施策に保育界が追い込まれている。それが、保育園を新設することの恐ろしさです。

公立でも、正規、つまり地方公務員で雇わない限り、もう保育士たちが定着しない時代になってきた。数人まとめて簡単に辞められたら、その時点で保育は国基準を割るのです。園長は、いつ辞められるかビクビクし、悪い保育士に注意もできない。(以前、園児を虐待した保育士に対する警察の取り調べに、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言った園長のことをこのブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=465)

最近は、待機児童問題を自園の人気と勘違いし、「嫌なら転園しろ」と親に言う乱暴な保育士や園長さえいる。http://www.luci.jp/diary2/?p=1400

政府が進める保育の市場原理化によって、絶対に入ってきてはいけない業者や素人が、ネット上の誘いに乗って「儲けよう」という意図で保育界に参入してくる。http://www.luci.jp/diary2/?p=1478 そんな保育指針も読んでいない業者のやっている職場へ就職した「いい保育士」が1、2年でやめていって、二度と戻ってこない。こんな状況を何年続けるのか。「保育は成長産業」という閣議決定だけでもすぐに取り下げてほしい。いままで保育の質を保ってきた、次の世代を育てるべき人たちがどんどん辞めていっているのです。

images-6

一方で、いい保育士がいないから、と、来年は0歳児をやめて、しかも定員を減らします、という良心的な園長もいます。3歳未満児の保育単価の高さを考えると、これは園の経営を危うくする相当重い決断です。それでも、良くない保育士に乳児を保育させるわけにはいかない、と園長は言うのです。能力のない保育士に3歳児20人、4、5歳児30人など任せられない。脳の発達ということから考えると、3歳未満児の保育こそ、きめの細かい心づかいや声がけが大切なのです。

政府の施策によって、一緒に育てる、という信頼関係が保育現場で揺らいでいる。仕組みがすでに限界を超えている。

マスコミや親たちがそこを理解しない限り、幼児にとっての保育士不足の問題は解決しないのです。

 

images-7

 

長年にわたる政府による保育の質の軽視や長時間保育の薦めの結果と言ってもいいでしょう、企業が戦力にならない労働力に戸惑っています。そして、為替差益というギャブンブル以外に税収が増えないとわかった時、政府はしまったと思うのかもしれません。そのとき、福祉は、すでに「精神的に」成り立たなくなっている。経済界も、「潜在的労働力」の質の低下に呆然とするのです。

なんでもお金で解決出来る、という意識が生んだ負のスパイラルに、この国も急速に引き込まれつつある。

乳児、幼児の役割、存在意義を政府やマスコミが思い出して欲しいと思います。

 

images-2

 

地球上で起こっていることは、それぞれの国や社会を比較することで明らかになってくる?

いま、地球上で起こっていることは、それぞれの国や社会を比較することで明らかになってくることが多い気がするのです。異なるやり方で、命が同時進行している。お互いに学びあうために。

部分的に再掲ですが、並べてみました。

images-10

 

子どもは社会の騒音? 

去年、東京版の新聞に、

「騒音」に苦情/悩む保育園:ペアガラス「開かずの窓」・園庭使用制限、

という記事が載りました。

保育園に対する騒音の苦情が多く、待機児童をなくすために園を新設しようとしてもなかなかできない、という世田谷区長の嘆きが反響を呼んでいるというのです。

周囲に畑でもあれば、またちがうのでしょうが、家屋が密集している地区では、毎日子どもたちの声を聴いているのが苦痛なのかもしれません。100年ほど遡って、社会の原点に還って考えれば、幼児をこれほどたくさん一カ所に集めることが相当不自然なことです。人々の日々の生活、身の回りの風景から、日常的に幼児の声が聞こえなくなって久しい。

幼稚園・保育園は以前からありました。保育関係者から聴くと、ここ二・三年、近所からの苦情が増えている。いまほど幼稚園・保育園が迷惑がられる時代はない、というのです。学校もそうですが、運動会を開くにもびくびくし、ピアノを弾くのも何時から何時までと決めて近所に伝え納得してもらう。園庭でお芋でも焼こうものなら届け出を提出していても通報されてしまう。近所づきあいが希薄になった都会ではそんな話も頻繁に耳にするのです。だから、地下に保育所を作れるように東京の区長たちが国に要望したりする。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1060)

現代社会、という不自然にゆがめられた現実を踏まえたうえで、あえて別の視点で私は言いたいのです。

『幼児たちを保育園で一日平均十時間、年に260日も「人類」から隔離して、そのことが普通に受け入れられるようになると、神様たちが「騒音」に聴こえるようになっても仕方ないのではないか、幼児と接する機会が、すべての年齢層で激減していることが現代社会の人間関係を冷たく荒々しくしている。』

 

ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変なのです。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と常日頃から言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたりしなければなりません。子どもの幸せを考えれば、親と一緒に子育てをしているという意識は常に忘れてはいけない。そして、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

 

images-6

 

トルコからの手紙

ご主人の海外勤務で、トルコに4年間住んでいた教え子が帰ってくることになりました。

保育と子どもの発達をテーマに博士論文を書いている彼女は、本来理論派ですが、独特な感性があって、トルコ語も積極的にマスターし「昔から続いてきた子育てと、人間社会における子育ての役割」について貴重な報告をイスタンブールから送り続けてくれました。人間同士の育てあいや絆の役割りを、祈りの次元で眺めることが出来るひとでした。学生時代日本にいたころから討論を重ねたこともあって、私は彼女の報告を、自分がその場に居て見ているように実感したものでした。ご主人が、一流企業に勤めているにもかかわらずトルコ人とのサッカーに熱中しているような人だったことも、彼女の日々の感性を助けたのだと思います。

一時帰国することも出来たのに、彼女はトルコで第一子を出産しました。おかげで、トルコ人の(または昔の人の?)赤ん坊に対する目線を肌で感じ、その目線に囲まれて育つことの意味を日々の生活の空気の中で感じ報告してくれました。これが、最後の手紙かもしれません。

 

(最後のメール?)

菜々はすっかり、「全ての大人は自分を愛してくれるもの」だと思っています。

トルコ人から愛情を受けるのが当たり前になっている彼女。

ありがたいやら、今後がおもいやられるやら。

そして改めて、トルコ人がどんな状況でも、祖国や自分、家族といった自分の基盤となる部分を積極的に肯定し、是が非でも守る理由がわかります。幼い頃、こんなに誰にでも愛されていれば、何があっても自分を否定しない。人や自分を愛する力がつくんですね。

里映

 

(二年前のメール)

トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。

里映

 

(四年前のメール)

「トルコ語に『インアシャラー(神が望むなら)』という言葉があります。イスラム圏全体で通じる言葉でしょうか?

停電がしょっちゅうあるので、私が近所の人たちに色々聞きに行き、『あと少しで回復するかな?』と聞くと、『インアシャラー』と言われたりします。この言葉がよく使われるように、トルコでは、自分(人間)がどうにもできないことがあるという前提で物事を考え、そういうことが起こったら、じたばたせずに神様が導いてくれるのを穏やかに待っているようなところがあります。その分楽天的で、ひやひやすることも多いのですが」

やはりポイントは、自分、というより人間には、自分自身で解決できないことがあるということを前提にしているというところでしょうか。何もできないということと、幸せであるということは、裏表なのでしょう。松居先生の、0歳児が完璧な人間である、ということと近いと思います

里映

ーーーーーーーー

教え子がしている体験が、肌に伝わってきます。そして、なぜか伝えてくる「文字」の存在に少し感動します。人間は絆を深め、時空を越えて体験をわかちあい守りあうために「文字」を創ったのだ、と実感します。そして、これを書きながら,彼女の体験を日本の保育者とわかちあえることの不思議ささえ感じるのです。

社会に、信じること、祈ることがもっと存在していたら、大学も専門家もこんなに必要ではなくなるし、学者も要らなくなるのではないか、そんなことを考えます。

先進国社会において、神の作った秩序と人間の作った秩序が闘っています。本来次元の異なる、住み分けが出来るはずのものたちが闘い始めています。

子育てで一番大切な言葉が、「神が望むなら」なのかもしれません。「神が望むなら」という生き方を親たちが身につけるために、幼児、特に未満児が存在するのではないでしょうか。

 

(帰国半年前のメール)

こちらでは、列車は発達しないです。どんな遠くへもバスで行きます。丸一日かけてバスを乗り継いで帰郷します。一説では、マフィアがバスに関する権利を持っていて、電車の普及を邪魔しているから発達しないらしいのですが、それ以前にトルコ人が、電車を必要としていないということなのでしょう。

バスではまず、コロンヤ(すっきりする香水みたいなもの)が配られ、バスの係の人が1人ひとりの手にかけに来ます。1時間毎くらいにトイレ休憩、ごはんの時間にはごはん休憩があります。途中チャイやお菓子も振る舞われます。

バスに乗っている人は貧しい人もいるので、バスの中での持ち込み飲食は禁止。トルコではこういう考え方があります。目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと。

男女が隣同士に座らないように、バスの停留所で人が新たに乗り込んで来ると、しょっちゅう席替えをします。ただ、ひたすらバスに揺られて、故郷や、リゾート地や、仕事を求めて新しい場所へ。

チグリス・ユーフラテス川を通ったことがありますが、周りはただ茶色の大地で、時々数軒の民家、商店が見られるようなところに、細い川がひっそりとありました。バスは川を気に留めることもなく、ただ走っていきました。

松居先生のメールで、アナトリアを旅したことを思い出しました。

里映

 

ーーーーーーーー

「目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと。」だからバスに食べ物を持ち込めない。

発想の原点が他人の気持ちを想像すること。それが日常的にあるのです。そして、想像する方向性が子どもたちの目線によって守られている。祈る方角が決まっているように。一応民主主義のトルコという国で、人々の意思によっていまも守られている。こういう人たちの意思の力を見誤ると大変なことになる。先進国社会が抱えている問題点を理解し、学ぶべき相手を間違わないことです。日本はいまどっちの方向から学ぶべきか、学問とか経済競争の視点を離れて、もっと古い、いにしえの法則について、立ち止まって、ゆっくり考えてみる時だと思うのです。

 

(帰国半年前のメール2)

そろそろ、近年で最悪の(?)難関、真夏のラマザン(断食)に入ります。ラマザンは毎年一ヶ月ずつ日程がずれるので、いつかは真夏に当たってしまうのです。真夏は、気候条件だけでなく時間の長さも最長。断食は、夜明けのお祈り(真夏は朝5時前!)から日が落ちるお祈り(夜8時頃。)の間行い、唾も飲み込めません。

そして皆、長い一日の断食に備えて朝3時に起きて(太鼓をたたいて街中を歩き、皆をこの時間に起こす係がいる。迷惑。笑)食事をするため、寝不足。それでも、「この状況でイライラしたり仕事が手につかない人は、断食をする資格が無い」と考えられるため、いい人間性を保たなければなりません。

去年の断食月もかなり暑く大変そうでしたが、皆変わらず親切でした。

断食の目的は、「食べることが出来ない人の状況を理解するため」ということで、それはトルコの基本的な考え方の一つです。でも、それ以上に、断食という苦しさを共有してものすごい一体感を得ているのだと思います。そして断食明けに訪れる砂糖祭では貧しい人に施しを行いまくりますが、断食を行うことにより、この施しが大変気前良く行われるのです。自分がつらさから解放され、増々神に感謝できるというか。本当に、この断食が、社会をいい方向に運営するシステムの基軸を担っていると思います。

このシステムは、本来人間は不平等な立場にあるということを認めないと成立しません。富める者と貧しい者は平等ではないというのは、民主主義国家では大失言にあたるような文言ですね。でも、人間平等じゃないし、自由なんかないって、トルコの人たちは知っています。知っているから、神のもとに集まり、富める者が貧しい者を助けるというシンプルな構造で生きているんです。

里映

ーーーーーーーーー

日本で、社会に絆を取り戻すために「断食」を法律で決め実行することはもう絶対にできないでしょう。進歩の名のもとに人間はずいぶん大切なものを一つずつ捨て始めている。

0歳1歳2歳児という、毎年違う特別なひとたちとしっかりつきあうことさえ、政府が施策を使って捨てさせようとしている。だからこそ、いま幼児たちと人間たちが意識的に一人ずつ交わる「一日保育者体験」の普及が必要で、これからこの体験がますます一人一人の人生の中で生きてくるのだと思います。

幼児との体験を記憶の中で共有することで一体感を社会に取り戻す、ある程度法律の範疇内にある仕組みの中でこれなら出来る。この国がどちらの方角に行くか、境界線上の行事です。

一日保育者体験でなくても、園や学校で、すべての親が毎週一緒に踊る、歌う、みたいなことでもちろん構わないのですが、そこまで根源的な一体感を求めようとしても、それが祈りの領域に近すぎて、いまの仕組みや常識の中では理論的説得力に欠けるのかもしれません。

こうした一体感の復活を取り戻す努力をしないと、義務教育や福祉がもちません。そのうち、「共に闘うことによる一体感」という古代の手法が復活するかもしれません。兵器がこれだけ進化している状況で、これは人類にとって非常に危険です。

断食を行うことで施しが気前よくなる。人間は自分の体験から学び反応する。そして、一体感を感じようとするのです。

 

images-11

 

ーーーーーーーーーーーー

(こんな記事がありました。)

東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:

保育士不足が深刻化している。待機児童対策として、来春には都内で多くの民間保育施設がオープンするが、必要な保育士数がまったく確保できていない事業者もある。

来春に民間の20認可園などが開園し、保育の充実を急ぐ杉並区。計2220人分の子どもの受け入れが新たにできるようになるが、新規で300人の保育士が必要と見込む。

11月末、各施設の求人活動を後押ししようと、隣の中野区やハローワーク新宿と合同で「保育のおしごと 就職相談・面接会」を開いた。会場のホールに保育事業を営む26業者がブースを開設。「うちの話を聞いてほしい」と来場者を必死に呼び込んだ。

杉並区で来春、定員約100人の認可園を開く都外の社会福祉法人は17人の保育士が必要という。今年1月から求人を続け、確保できたのはまだ12人。求人はこの4年でどんどん厳しくなっているといい、採用担当者は「来てくれる保育士はもう『神様』です」とため息をついた。

来春に杉並区で新たな保育施設を開設するが、必要な保育士の確保は「まだゼロ」という区内の社会福祉法人もある。担当者は「4月ごろからずっと募集しているけど、全く集まらない」と話した。

この日の就職相談・面接会の来場者は105人。来春に区内で「山吹あさがやきた保育園(仮称)」を開園する社会福祉法人・山吹会は、3人と今後の面接の確約をとった。採用担当者は「とりあえず必要な保育士は確保できそう」とほっとした表情だ。都が保育士の家賃を1戸あたり月8万2千円補助する制度を導入することや、区が新規の保育士に5万円の商品券を配る方針を決めたことで、「地方から集めやすくなった」という。

杉並区保育課によると、区内で保育施設を営む事業者に求人状況のアンケートをしているが、11月末現在、保育士を完全に確保できたのは新設施設のうち数施設という。民間保育施設の求人のピークは、公立保育施設の採用が終わる11月以降といい、渡辺秀則課長は「これからの追い込みに期待したい」とする。

来春、約2千人分の保育定員増をめざす世田谷区。うち約1600人分(新規園など20施設)について、入園申し込みの受け付けを始めた。保育施設ごとに担当する区職員を固定し、保育士の確保状況などを細かくチェックしている。

区子ども・若者部によると、新設園の3分の1が必要な保育士をまだ確保できていないという。保育士集めに苦戦しているのは、都外から進出してきて知名度がまだない事業者や、久々に新設園を開く事業者。同部の担当者は「保育士が確保できたと言っても、その保育士が複数の内定をもらい、二股をかけているケースもある。必要な保育士が集まるか、来年2月まで心は休まらない」と話した。(別宮潤一)

ーーーーーーーーーーーーーーー

sister-chandra-%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

インドのシスター・チャンドラから、新年のメールが届きました。タミルナード州のシャクティセンターでも、日々の生活は続いています。新しい建物がなんとか出来上がりました、今度来た時はホテルに泊まらないでくださいね、というメッセージがありました。

(シャクティの活動に関してhttp://kazumatsui.com/sakthi.htmlから、映像を、ぜひご覧になってください。)

%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%82%af%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%80%80%e5%ae%8c1-2

『卒うた』・少し雪の降った朝

『卒うた』・少し雪の降った朝

 

少し雪の降る朝、駅に迎えに来てくれた役場の軽自動車の中で、幼児たちの歌声を聞きました。

運転する元男性保育士さんが、自分が受け持った子どもたちの卒園式ために作詞作曲したオリジナルソング「卒うた」三曲です。私が音楽もやっているのを知っていて、ぜひ聞いてみて下さい、と CDに焼いたのをくれたのです。いま、聴きましょう。それをさっそく車の中で聴いたのです。

年長組を受け持った年ごとに、一曲ずつ作った、その年の卒園児のためだけのオリジナルソングです。後ろの音楽は彼が自分でプログラミングしたもの。

その音楽にのって歌う子どもたちの一致団結した歌声に、みんなと数年過ごした保育園での日々が凝縮されているようでした。卒園させてゆく担任保育士の晴れがましい誇りと、子どもたちとの思い出、小さな決意、それを囲むみんなの願いと祈りがたしかに聴こえてくるようでした。

卒園してからも、毎年一回集まってこの歌を一緒に歌っていれば、きっとイジメなんかおきないし、辛いことがあっても乗り越えてゆけますよね。道徳教育なんかより、一緒に歌うこと、一緒に踊ることですよね、という話を役場の軽自動車の中でしました。

窓の外の雪景色がとても澄んで見えました。

 

 

松居 和 様

塩尻市こども課の浦沢です。
お忙しい中、本日の巡回子育て応援講演会の御講演、誠にありがとうございました。

さて、講演会会場への道中の車の中では、私が卒園児と一緒に作った『卒うた』をお聞きくださいましてありがとうございました。

この『卒うた』にはいくつかのエピソードがあります。

エピソード1
卒園させた女の子Aちゃんの話です。
中学生になって、友達との関係に悩み、不登校になりました。
学校に行かれなくなったAちゃんのことは、風の便りで聞いていてとても心配はしていたのですが、連絡ができずにました。
それからしばらくして、なんとAちゃんから手紙が届いたのです。
手紙には、学校に行かれなくなった心の傷が書いてありました。
学校へ行かない日が続き、悶々と引き込もっていたある日、お母さんが、『これ、聴いてごらん』と、卒園式にもらった記念の卒うたCDを持ってきたそうです。
CDは、お母さんが大事にしまっておいてくれたそうです。
懐かしく思ったAちゃんは、CDの歌を聴いてみたそうです。
「先生、歌を聞いてたら、涙がポロポロ出て止まらなかよ。だって、保育園の頃の自分に励まされてるみたいで。」と、手紙には綴ってありました。
そして、悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えて、学校に行こうと思ったそうです。。
それからAちゃんは無事に卒業して、高校、短大へ進学し、今では新社会人として活躍しています。

どこで、どんな励ましの風になるか分からない。それが保育です。
だから「保育に手を抜きたくない」そう思っています。

images-6

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

男性保育士さん(いまは、こども課の浦沢さん)が作った三曲、聴いてみてください。

タイトルは、一曲目が「旅立ち」、二曲目が「あしたにむかって」。そしてもう一曲、「未来へ」です。

保育園の時を超える無限の可能性が聴こえてきます。

 

もし、三曲のうち一曲ずつを園が選んで、卒園式の日にみんなで歌って、もちろんそのために一生懸命練習をして、保護者も保育士も子どもたちの声にしっかり耳を傾け、記憶に焼きつけ、そして卒園してからも、3年に一度でいいから、みんなで園に集まってこのうたを歌う機会を政府が作ったら、それだけでずいぶんこの国はよくなるのだと思います。みんなで思い出の歌を歌うことで、園はいつでも故郷になれます。

保育園や幼稚園が時空を超えた心のよりどころになっていけば、それは将来にわたって必ずみんなを助けてくれる。子どもたちだけではなくて、その周りの大人たち、親たちや教師たちも、様々な形で助けてくれる。

これほど簡単に、助け合うきっかけができるのに、生きる力を取り戻せるのに、なぜこういうやり方をしないのだろう、と思います。

地域の絆とか、社会で子育て、というけれど、その始まりに歌や踊りがなければ、それは古の法則にかなうものではない。

いつでも出来ること、教育なんかではできないこと、がすぐそこにあるのに、なぜそれに気づかないのだろうと、思うのです。

浦沢さん、ありがとうございました。

 

images-10

 

 

「捨てられる養子たち」里親について。教え子からの手紙・未来の現実

里親制度について、教え子からの手紙

松居先生
先ほどNHKのドキュメンタリーを見ていました。場所はアメリカ…。
施設から引き取られて養子縁組し育てられていたのに、親が途中で養育を拒否し家から追い出すため、インターネットを通じて新しい親となってくれる人を募集するというものでした。『リホーム』というのだそうです。
番組冒頭で里親希望の親たちの前をさながら品評会のように子どもたちがウォーキングさせられていました。
新たに引き取られたにしてもそこでまた養父母に捨てられ新しく親になってくれる人を養父母に勝手に決められ、たらい回しにされていく、という話でした。
この間、仲介者にはお金が入ります。里親となる人の中には性的支配のためとしか言い様のない大人もいます…。

純粋に自分に愛情を与えてくれる人だと信じきっている子どもの心は深く傷付き大人を信じる事が出来なくなりまた新しい養父母との間に問題を起こす…。

先生の講演などでアメリカの実状はぼんやりイメージにありましたが実際にパソコン画面に写し出される『家族が必要です』の文字と共に笑顔で写っている子どもたちがを見てなんとも言い難い感情が沸いてきます。

先生のいつも仰る、幼児が信じきって頼りきってという愛ある社会のあり方とは真逆です。

アメリカ社会を追う日本もこんなことにいつかなってしまうのでしょうか。

ほんとうにセンセーショナルでした…。

 

image s-5

 

 

 

ーーー(ネット上に番組紹介とyoutubeの映像がありました。https://www.youtube.com/watch?v=J7e_b3Z3v6g)ーーー

捨てられる養子たち (NHK:BS世界のドキュメンタリー)

  • 2016年10月27日(木)午前0時00分~
  • 2016年11月3日(木)午後6時00分~

簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

  • 原題:DISPOSABLE CHILDREN
  • 制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

日本で里親制度の普及を進めている人たちは、たぶん、まだみんないい人に違いないのです。それはわかります。私の教え子の中にも、子どもたちの幸せを願って、頑張って広めようとしている人が一人います。

しかし、このドキュメンタリーで報道される先進国社会で起こっている現実、子育てが、家庭から「仕組み」に移行する過程で起こる正常とは思えない家族のやりとりの状況は、そうなってはいけない日本の未来だと思うのです。アメリカという4割の子どもが未婚の母から生まれ、毎年80万人の子どもが親による虐待で重傷を負う異常な社会で起こっていること、と簡単に片付けてはいけない、日本という国に住む私たちへの未来からのメッセージだと思うのです。このドキュメンタリーが語る子どもを守れない「法規制の不備」は、福祉や教育で補いきれない家庭崩壊を市場原理に任せようというほぼ意図的な(必然的な)ものだということ。それが、日本で政府が行っている保育の規制緩和と重なっていることに気づいてほしい。

(アメリカで未婚の母から生まれる割合は、30年前にすでに3割に達していました。このドキュメンタリーを作ったフランスでも、現在5割です。欧米で、すでに家庭という定義が崩れ、本来の機能を果たさなくなっている。そうなった時に、「子育て」を中心に何が起こるのか。「里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログ」というこの風景が違和感を失った時に、人類はどうするのか。人間社会はどうなってゆくのか。)

私は、この番組で浮き彫りになる里親制度の行き着く先、矛盾と歪みを、渡米した1980年代からアメリカでドキュメンタリーやニュース番組を通して繰り返し見たのです。儲けるために里親制度を利用したり、質の悪いマッチングから起こる虐待や近親相姦。家族という、選択肢のないことで育ち、育てあう信頼関係の土台を斡旋する側が商売にしていることの弊害。テーマは様々ですが、報道はされ続けている。それでも、状況は悪化するばかりです。

「子どものため」と言いながら、そこには当時から一つの「市場」ができていて、それはいつか「子どもを守るために必要」な仕組みにさえなっていました。(このあたりが、いま日本で始まっている保育の市場原理化という動きと重なる。)

そして、このブログにも書き、このドキュメンタリーの中でも指摘されていた胎児性アルコール症やクラック児の問題(http://www.luci.jp/diary2/?p=1428)、子育てが実は母親の胎内から始まっていて、「個別的継続的な養育者との関係」の欠如から、人類が体験したことのない、新たな悲劇の形が生まれていました。

 

人間が助け合うことは、絶対に必要で、それがより一層社会の絆を強く育てる。不幸な子どもが居れば、必ず周りが助けるような親身な絆を維持し続ける、それが長い間、人間社会の土台でした。しかし、制度としての里親制度は、それが普及するほど時間の経過と共にその不自然さが人間の持つよくない人間性と不幸な連鎖を生み始める、それを私は30年間のアメリカ生活の中で見てしまったのです。弱者にとって不幸なこの仕組み上の展開の仕方は、義務教育の普及や保育といった、子育てに関わるすべての仕組みに共通した「仕組みによる子育て」で起こる負の連鎖と同種のもので、人間社会が家庭・家族・血縁といった長い間の常識や土台を失い始めることがいかに致命的かということを知らせてくれるのです。

私のアメリカ人の友人にも里子をもらった人たちが数人います。裕福で知性のある人たちでした。そのプロセスを見ていて、「We are lucky to have this one.」という何気ないつぶやきや笑顔、肌の色によって存在する縁組み費用の格差などにアメリカでは日常的な、しかし日本人である私にはとても違和感のある会話がいくつかありました。

だから、日本で「里親制度」が欧米に比べ普及が遅れている仕組み、社会の変化と価値観の多様化の中で必要不可欠な進歩であるかのように報道されることに秘かに納得がいきませんでした。「待機児童をなくせ」「子育ての受け皿を増やし、女性の輝く社会を」と言う人たちの、保育の現実を知らない、幼児たちの願いを想像しない主張にも同じ流れを感じるのです。この人たちは、そういう主張の先に何があるか見えていない。

そうした強者による主張の向こう側には、必ず市場原理が待ち構えている。家庭崩壊が社会の常識のように受け入れられたアメリカという国を見た私には、「慣らし保育」の風景、生まれて初めて親から引き離される幼児たちの叫びなど聴いたことのない人たちの、保育園を作ることがあたかも正義のような報道があまりにも無責任に思えて、憤りさえ感じるのです。そして何より、あからさまに、保育を「成長産業」と位置付けた閣議決定の異常さに背筋が寒くなるのです。

(いま、保育界を保育士不足による質の低下に追い込んでいる「子ども・子育て支援新制度」が始まる時に、その時点で待機児童が二万人しかいないにもかかわらず、あと40万人幼児を保育所で預かります、と首相が国会で言った。政府は、国民を人間として見る前に「労働力」(戦力)として見ている。だから、労働しない幼児の姿や、その気持ちが見えてこないのです。老人は「票」を持っているのでまだ視界に入っている。でも、幼児という、国の未来を担う人たちの「気持ち」「願い」が国の施策の上で後回しになっている。こういう状況では、やがて学校教育が成り立たなくなる。そうならないように、中学生くらいから、幼児たちの本当の役割を繰り返し伝えていきたい。保育の現場で、親たちの「子ども優先」の気持ちを耕していきたい。)

 

images

 

「深夜のメッセージ」

再掲なのですが、以前、別の教え子からこんなメールが届きました。

「音のない一日。学生時代の教本とその続本を読みます。あの頃の先生の授業『深夜のメッセージ』は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。」とありました。

「深夜のメッセージ」、私の二冊目の本「子育てのゆくえ」(エイデル研究所)か、一冊目の本(「親心の喪失」として再販)に書いた文章だったと思います。授業で使ったのです。

25年前でしょうか。当時、ロサンゼルスで、深夜、奇妙なコマーシャルがテレビから流れてきました。それは不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCMでした。

「もし、あなたが子どもを誘拐してしまったなら、この電話番号に連絡して下さい。警察には届けません。相談にのります」

こんなメッセージが深夜テレビから流れてくる社会がある、数字から見る現実とは違った驚きがありました。アメリカという社会を象徴している、と思って本にも書いたのです。

当時、一年間に誘拐される子どもの数が10万人、その多くが親による誘拐。養育権を失った親が、自分の子どもを取り返すために誘拐する、というケースでした。親による誘拐とはいえ、れっきとした犯罪です。捕まったら刑務所行きです、逃げる方も必死です。州を越えた犯罪は連邦警察(FBI)しか捜査できない状況で、誘拐された方の親の9割が子どもと二度と会えないのが現実でした。身代金を求めての誘拐なら、子どもが見つかる可能性が高い。しかし、家族を求めての誘拐はほとんど解決できない。実際は、親による誘拐かどうかも判断できないのです。年に10万人の親たち(人口比で割れば日本で毎年4万人の親たち)が、子どもを一生失う、それがアメリカの現実でした。そして、子を失った親たちの悲痛な願いが、CMという形で深夜、流れてきたのです。

その頃、アメリカで幼稚園に子どもを行かせると、必ず「子どもの指紋を登録しておきますか?」と園から聴かれました。誘拐され、何年もたって姿や顔つきが変わってしまってから見つかった時に確認するための手段です。それもまたアメリカの現実でした。

私の教え子は、学生のころ、その状況にリアリティーを感じなかったのでしょう。でも、20年後、日本で幼稚園教諭を経験し、発達障害児の支援をしながら、『「深夜のメッセージ」は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。』と書いてきたのです。

最新刊「なぜわたしたちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)に、私がアメリカという国の入口で出会ったエピソードについて書きました。42年前、当時小学校の五年生だった従姉妹の誠子に、ある日、「学校ではどんなことを友だちと話すの?」と聞いたのです。すると、いまでは医者になっている利発な従姉妹は、

「そうね、今度のお父さんは、とか、今度のお母さんは、という話が多いね」と言ったのです。

小学五年生の子どもたちの日常の話題が、今度のお父さん、今度のお母さん、であって、その会話を大人たちが聴いていない。

人類の根幹が揺らいでいる、しかし、人間はこういうことに慣れる。そう感じてから、先進国と言われるその国で、何が崩れようとしているのか、意識して観察するようになったのです。

その会話の数年後に、「深夜のメッセージ」が加わり、家庭を崩壊させながらも、それにしがみつこうとする、人間たちの性を感じました。裁判所の中でおこる発砲事件は家庭裁判所が一番多い、ということを知りました。その数年後に「Nation in Crisis」(高卒の二割が読み書きができない。学校が機能しない。)というアメリカ政府が「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義した学校教育の危機が明るみになり、私は次の年、義務教育の普及が家庭崩壊を招き、家庭崩壊は義務教育の崩壊につながる、という図式についての本を書きました。

義務教育が悪いと言うのではないのです。その存在自体が「子育て」を夫婦から奪う一歩になり、子どもが親たちの絆を育てることができなくなり、それが社会からモラルと秩序を奪うという、全ての欧米社会で起こったことを率直に書いたのです。

そして世紀末、「母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから、政府が孤児院で育てよう」という『タレント・フェアクロス法案』の連邦議会提出が重なっていったのです。

この法案に賛成し「孤児院と考えなければいい、24時間の保育所と考えればいい」と発言した当時の下院議長が、前回の大統領選で、破れはしましたが共和党の指名をロムニー氏と争ったギングリッジ氏、今年もトランプ氏の副大統領候補として一時浮上した共和党右派の重鎮です。

教育と福祉、そして家庭は共存することが出来るのか。落としどころはあるのか。

私が米国で見たいくつかの象徴的な出来事を並べれば、先進国社会が一律に進んでいる家庭崩壊の方向と、その結果の可能性はあるていど予測できる。日本はちがった道を進んでほしい。その義務があるような気がします。人類全体のために、日本はちがった道を試行錯誤してほしい。そう言い続けて30年になりました。

日本の危機・家庭型児童養護施設「光りの子どもの家の記録」が伝えること・母親の涙

「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の本から、もう少し

家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」:この本を読んでいると、主観的に「子育て」を捉えなおす指針になる。子育てを仕組み(保育、教育、施設、福祉)の中で考え、待機児童、学力、少子高齢化、年金、税収といった数字を元に施策が進められようとしている時に、「育ち」の意味を、もう一度、仕組みの中でさえも原点に戻し、一個人の人生とそれに関わる人たちそれぞれの思いとして伝えようとしている。

保育界が保育士不足と市場原理に追い詰められ、その質、というか、育てる側の心の健康を保つのが年々困難になってきているいま、施設や仕組みによる「子育て」の難しさと限界を知る意味で、忘れてはならない視点、重い証言だと思うのです。

親が親らしさを失いつつある現状では、親身になると保育士が精神的にもたない、でも、親身にならないと、見えないところで仕組みの本質が崩壊してゆく。(北欧で、国民が傷害事件の被害者になる確率が日本の20倍。)

 

202頁に「子どもと関わる」という章があります。

三才までの人生を乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても乳児期に家で親に育てられた子が家庭型養護施設で育てられ高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。

それを読んでいると、三歳未満児の保育園での保育を雇用労働施策の一環として安易に奨励する国の施策が恐ろしくなってくるのです。保育園児は毎日家に帰ります。乳児院や養護施設のように日々の生活が親と離れている環境とは異なります。でも、そこで行われる「子育て」の限界、その意味や意図、理由が似ている。これだけ長時間、しかも乳児から預かれば、保育園は家庭の役割を果たさなければならない。しかし、何か遺伝子の中に深く組み込まれている、人間が社会というパズルを組むときの隠された法則のようなものが、「光りの子どもの家」の試行錯誤、その限界の中に垣間見える。

人間にとって、乳幼児期に愛着関係や独占欲を満たされないことがいかに決定的か。それが決定的であることが見えにくいから、「光りの子どもの家」からの証言が重要な原点になってくる。数年前に、当時の厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った発言が対極に見えてくる。

「専門家」が言う、専門家という言葉に騙されてはいけない。彼らの思考の中には、菅原さんが書くような決定的瞬間は一瞬たりとも存在していない。

 

菅原さんが、その章で書いたことを要約します。

三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになる。

菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を知ると、政府が積極的に3歳未満児を保育園に預けることを奨励することの危険性をひしひしと感じます。

419zbsn0mal-_sx322_bo1204203200_

(2014年、4年連続で減っていた「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」と政府が言った。そして、減らしても減らしても、政府の意図と親の意識の変化に沿うように、待機児童は増えている。政府の意図がいつか修正されても、親の意識がマスコミの報道によって連鎖し始めた時、それはもはや修正できないのではないか。乳幼児期の保育は「個別的継続的」関係ではありません。保育士との比率は1:3か1:6。そして複数担任。しかも半年、一年で担当保育士が変わる。加えて、施策に追い詰められた園長が保育士に、乳児を抱っこするな、話しかけるな、と指導する保育さえ現れているのです。http://www.luci.jp/diary2/?p=779)

 

IMG05331

 

個々の人生には、それぞれ異なる出会いがある。育ちあいの可能性は確かに無限です。幼児期にこういう育ちかたをしたから人生が必ずこうなる、ということはない。しかし、イジメや不登校、教師や保育士の職場離脱、一般の職場でも三年続かない新入社員が増えていることなど、「育てあい」「育ちあう」人間の営みが、親身になる機会を奪われ、悲鳴を上げ始めている。問題は多岐にわたっていますが、男たちが結婚しなくなったことも含め、社会に自然治癒力や自浄作用が働かなくなっている。この国でも、欧米の後を追うように家庭崩壊が加速し、社会の空気が荒れ始めているのは、多くの人たちがすでに感じていることだと思うのです。その原因は、全般的な幼児期の愛着関係の不足にあるのではないか。「光りの子どもの家」からの証言が、そう語りかけてくるのです。その原因は、全般的に、「幼児を眺める時間」が不足しているからではないか、と私も思うのです。

 

保育士養成校の先生がこんなことを言っていました。

「以前は、誰かを幸せにしたいと保育科に学生が来たが、今は、自分が幸せになりたくて保育科に来る」

子ども相手なら幸せになれるかもしれない、と思って来ても、子どもが言うことを聞いてくれないとイライラし、すぐに不幸を感じてしまう。予測する力、想像力が欠けているから、どうしていいかわからなくなる。子どもを幸せにすることで幸せになる、というもっと深い、古の伝統的幸福感が欠けてきている。「育てる側の思い」が逆転し始めている。

 

3歳未満児保育をなくせというのではありません。もういまの社会には必要だから、そして、親に任せておくと子どもが危ないから、乳児院さえ存在する。しかし、幼児期の母子分離がどういうことなのか、フロイトやユニセフの白書を読まずとも、社会全体で常識として把握していないと、このまま進めば社会で補う限界はすぐに来る。

image s-2

 

イジメや体罰の問題にしても、憎しみは、愛され満たされたいという飢餓感と表裏一体です。孤独感が往々にして「他の幸せを許せない」という行動につながる。そして、同年齢の子どもたちが不自然に集められている学校という仕組みの中で、互いに抑えが利かない状況にまで進む。教師たちがその子たちを愛し、世話し、その飢餓感に応えるには限界がある。しかしその努力をしないと授業が成り立たない。教師は、もう逃げ出してもいい、とさえ思います。その方がいいのかもしれない。

学校へ入学する前に、親たちをそこそこ親らしくするしか学校が成り立つ道はない。保育は子育てであって「サービス」ではない、ということを政府と行政が親たちに宣言し、親たちの人間性や育ちを保育者たちが日々の出会いの中で見極め、いくつかの義務と責任を課してゆく。卒園後も続くような親たち同士の絆を、保育園・幼稚園を中心に作ってゆく。こうしたことをすぐにでも始めないと、今の状況下で育った子どもたちがどんどん社会の不良債権になってゆくのです。もう、時間がない。

 

母親の涙

私立の保育園で講演しました。講演が終わって、空っぽになった保育室で一人の母親から相談を受けました。子どもが言うことをきかない、と言って泣いています。聴くと、園ではいい子で大丈夫。家で、お母さんと一緒になると我がままになる、まとわりついて離れない。色々尋ねると、父親は、いい親らしいのです。

「あなたはいい母親だから、子どもが一緒にいたいんです。仕事を辞めることは出来ないのですか?」とたずねると、看護士ですからいま辞めても、また復帰することはできます、生活に困っているわけではないです、と言います。

遠慮していたのか、部屋から出ていた父親が問題の2歳の男の子を抱っこして近づいてきます。父親にしがみついているその子を見て確信しました。なぜ、母親が泣いていたのか。母親も、息子と一緒にいたかったのです。

「いい機会でしたね。2年くらいでいいですから、一緒にいてあげて下さい。今日ここで私に質問したのが運命だと思って。この園を辞めても、子どもをおぶって園に手伝いに来てください。この子を知っている人たちと縁を切らないように。もうその人たちはこの子の財産ですから」

それを聴きながら、父親が少し笑顔になります。

園長先生にあとで、「どんな質問でしたか?」ときかれ、その会話を伝えると、園長先生が本当に嬉しそうな顔をしました。

 

p1130928

講演依頼は matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。

愛されることへの飢餓感・荒れる児童

愛されることへの飢餓感

 

養護施設光りの子どもの家の菅原哲男先生の書いた本「誰がこの子を受けとめるのか: 光の子どもの家の記録」

(虐待を被けた子どもは、いつか大人になって自分の子どもを虐待する親になる!―そんな常識化した負の連鎖を乗り越えるために。子どもを受けとめる「家族の力量」「社会的養育の力量」がいま問われている。家族の愛に等しい養護をめざした「光の子どもの家」十九年の記録。)

を、もう一度、読み返しています。

いま、政府が「保育の受け皿」「雇用労働施策」という言葉を使って、(女性が輝く、という言葉も使って)もう50万人0、1、2歳児を親から引き離そうとしている時に、もう一度読まれなければいけない、現場からの貴重な証言だと思います。この国が成り立つために、乳幼児期の人間関係(特に親子関係)に、何が求められているのか、

菅原さんは書くのです。

「職員が旅行に行ったら担当している子どもにしかお土産を買わない、そうでなければならない」

「みんなと一緒、を子どもたちは極端に嫌う」。

平等の対極に親子がある。そうだろうな、と思います。

 

「『仕事で子どもを愛せるか』これは光りの子どもの家の当初からの課題である。」

「養育に最も欠けてはならないエッセンスは労働とは次元の違う無償の行為なのである。」

児童養護施設で過ごす人間たちの時間が、社会に向かってそう叫んでいます。そして、それはいま、政府が閣議決定で「保育は成長産業」と位置付けたいま、「保育界」が思い出さなければいけないエッセンスだと思います。労働にはちがいない。しかし、そうした経済的な仕組みが作られる以前の、もっと古いきまりが「子育て」のエッセンスとしてあった。その次元の人間のつながりが欠けてくると、人間社会は成り立たない。

「何よりも愛されることへの飢餓感、ある者は不感を疑わせるほどに愛を知らないできてしまった時間の長さに、関わりの手がかりさえ見当たらない」

菅原さんが受け止めようとしている子どもたちの「愛されることへの飢餓感」は、確かに普通ではないかもしれない。でも、私が中学校へ講演に行き、肌で感じる子どもたちの幼さも、その延長線上にあるのだと思うのです。この本を読んでいると乳幼児期の愛着関係がいかに決定的かが見えてきて、いまの政府の施策が恐ろしく見えてきます。道徳教育なんて浅い次元の問題ではない。愛されることへの飢餓感、それがいじめや不登校、少年犯罪や理解できない犯罪の根底にあるような気がします。

菅原さんがあとがきに書いています。

「この本では、親の愛に溢れる最初の『受けとめ』がなければ、子どもは育つことができないこと、母親(またはそれに代わりうる人)の「受けとめる愛」を失った幼児たちは心も体も「凍りついている」ことを切実に訴えています。

『光の子どもの家』の幼児たちが学童期を迎え、青春前期を経て大人になるあいだに、どんな苦しみと哀しみの経験を超えて『生きる力』を身につけ、社会へと旅立つことができるようになったのか。その記録は同時に、今を生きるすべての子どもたち、これから生まれてくる子どもたちに何が必要なのかを伝える大切な参照の経験になっています。」

菅原さんがこれを書いたのが二十年前(本になったのは十三年前)。これほどの証言が児童養護施設という、子育てにおける最後の砦から発せられているのに、なぜ政府は幼児と親の関係を「負担」とみなしたり、「社会進出」を妨げる「壁」と言ったりするのか。現在の子ども・子育て新制度の元になる「新システム」が形づくられた時、それを進めた厚生労働大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った。そして、もうその頃から、中学の先生が「私たちは保育をしている」と私に言い、園長が「保育園は仮養護施設状態に追い込まれている」と言っていたのです。

このままでは学校がもたない。保育園ももたない。共倒れになってゆく図式はすでに見えているのに、「待機児童をなくせ」というかけ声だけが響く。0、1、2歳児は保育園の前で「ここに入りたい」と言って待機はしていない。

 

images-10

荒れる児童

 

以前、新聞に、文科省の小学生の問題行動調査についての記事が出ました。「反抗、暴言、荒れる児童」(社会のひずみ、ストレスに)という題名(毎日新聞)。「小学校教諭からは悲鳴が上がり、専門家は『荒れの背景には貧困など社会のひずみが子どものストレスになって表面化している』と指摘」とありました。

いま、入学前の子どもにストレスとなっている「社会のひずみ」は、貧困が直接的な原因ではなく、財政・人材不足の中で拡張と質の低下を余儀なくされた保育現場と、「子どもは誰かが育ててくれるもの」という態度で園長や役場の職員に無理な要求する、親心の常識を失った親たちの増加だと思います。親として育ち切っていない親の急増が、集団保育や教育を介して全ての子どもたちのストレスになってくる。貧困は、そうしたストレス社会が生む副産物と捉えるほうが正しいのではないでしょうか。

発展途上にある未だ保育制度が整っていない貧しい国々の小学生ほど暴言を吐かないし、荒れてもいない。家庭がしっかりしていれば、子どもはそんなに荒れない。

義務教育が整って間もない発展途上国の学校が秩序正しく安定しているのを見れば、先進国が直面している「社会のひずみ」は、貧富の差とは別の次元の、親子の愛着関係、社会における信頼関係の不足が原因であって、それによる子どもたちの不安感が学校における「荒れ」を引き起こしていることがよくわかります。子どもたちが、精神的な安定、そして行き場を失い、荒れているのです。

未成年者による、人間性を問いたくなるような事件が起ります。

労働力を増やすために政府がもう40万人三歳未満児たちを保育施設で預かれ、と数値目標を立て、「親と居たい、誰かを独占したい」という、喋れない、主張できない弱者の願いを無視する政策をとり続ければ、こうした問題を起こす予備軍は増え続け、責任の目を向けられる教育現場が追い込まれていく。

愛着関係が希薄だった子どもたちの寂しさや悪意に対する反応はすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがく。だから学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまうのです。そして、その要望と視線に、教師たちの決意が追いつかない。

気づいてほしい。三歳までの子どもたちの日々の過ごし方が、この国の未来を決める、ということに。

厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあって、その最後にこう書いてあるのです。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです。」

そのとおり!

そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危うい。そして、幼児たちを眺めながら、人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが彼等なのだということに、再び、気づかなければいけません。

「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

 

「保育園落ちた日本死ね!」ブログの保育界へのインパクトは大きかった。あれを機会に政治家やマスコミが待機児童問題を一気に取り上げたのだから無理もないのですが、この報道を境に、役場の窓口や現場の保育士や園長・主任に対する親の言葉使いが急に荒くなった、とよく言われます。言葉を荒げ、乱暴にクレームをつけ、強引に主張すれば通る、という意識が一部の親たちの間に広がっている。

保育現場も行政の役人も、親に向かって「あんたの子だろ!」とは言えない。(というツイートを私がしたら、以下のツイートが返ってきました。)

『逆に待機児童がいる地域では、保育士の態度が横柄になっているという話も。「嫌なら転園しろ」「入りたいならそれ相応の誠意を見せろ」みたいな感じで。世の中難しい。』

こういう親に対して横柄な、嫌な親の子どもには「仕返し」をするかもしれない保育士が、20人の三歳児を8時間保育し、その中に二人多動の子供がいたら、保育室は修羅場になってしまう。キレる、怒鳴る、小突く。親は、朝と夕方5分間我慢すればいい。しかも、そこに子どもを入れたのは自分の決断です。自分の責任。でも、子どもたちはそこから逃げられない。それが一日10時間、年に260日、運命のように続く。選択肢はないのです。自分の決断でもないのです。

この時期に、こういう保育士に一年間担当されることで子どもの一生が変わる(かもしれない)。生まれつきの繊細さゆえに、一生その時のトラウマに怯える子どもがいる(かもしれない)。小学5年生くらいで、親にキレるようになる子どもなど、その反応は様々ですが、その時親は、どうしてそうなるのかわからない。その子どもが体験した幼児期を、親が知らないからです。

以前、こういうキレる保育士を、「◯◯先生呼んでくるよ!」と園児を脅す道具に使っている光景を見ました。これではもう◯◯先生は保育士ではなくナマハゲ。ナマハゲも年に一度大晦日に来るならわかりますが、毎日ナマハゲと出会っていたら、それは心の傷、人間不信になって子どもの人生に存在し続ける(かもしれない)。

家庭における虐待が、世代を超えて連鎖するように、幼児期の体験は、それほど子どもたちの将来に影響を及ぼす。

images-2

 

「保育士がメイド化していますよね」というツイートが来ました。

 

住み込みのメイド・乳母だったらまだいいのでしょう。アメリカの富裕層は子育てを中南米からの違法移民の女性に代わってもらっている、と言う報道が、20年ほど前にアメリカでされていたことがあります。

お金持ちの住む地域にある公園は、昼間、スペイン語で話す幼児連れの住み込みメイドの集いの場になります。違法移民を取り締まる法律をつくった上院議員たちの多くが、子育てを違法移民に頼っているのではないか、という報道がされたこともありました。パワーゲームやマネーゲームに浸かっている高学歴の頭のいい親たちが育てるよりも、心が人間的で素朴な違法移民に育てられたほうが子どもにとってもいい、しかもバイリンガルになる、という計算も働いています。お金があれば選択肢はある、強者に有利な社会の象徴のような現象です。

しかし、今の日本の保育士不足と養成校へくる学生の質を考えれば、保育園で1対4とか、3歳児1対20はもう無理、限界にきていると思うのです。

以前、外国人労働者を雇っている東京都の認可保育園で、園長が新入りの保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。

もちろん、外国人労働者の方がより人情味があって幼児の成長にいいこともあります。でも、保育という仕組みの中で園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。

小規模保育所からの転園児を避ける保育園があります。「自分の園で保育した子なら、責任を持てるのですが」、と園長先生は顔をしかめます。充分に抱っこされていない、話しかけられていない、どんな保育をされていたのか見えない。そして、受け入れて気になるのは、保護者が育っていないこと。みてもらう、やってもらうのサービスに慣れていて、子育ての主体は家庭という意識が薄い保護者がいる。

ーーーーーーーーーーツイートやメールがきます。

『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』

『保育を知らない自治体が政府の方針に沿って進める幼稚園の子ども園化を見ていると、その安易さに怖くなります。3歳未満児を預かることは命を預かること。それを自覚していれば、保育士不足のいま簡単に引き受けられることではありません』

『3歳未満児保育所に勤務していた昔、卒園し幼稚園に通う子が登園を嫌がり、保育所経由で私が幼稚園に送った。受け入れる教諭の様子から、当時から叫ばれていた幼保一元化は無理だと悟りました』

よくわかります。あるこども園の主任さんが、幼稚園は子どもが始めて出会う社会、保育園は家庭の代わりをしなければならない、と言っていました。子どもの成長にとってそれほど家庭と社会の「役割」は大切です。だから難しい。境界を崩してはいけない。

 

images-2

 

私のツイッターに、私が保育園に子どもを預ける親の不安を煽っている、という指摘がありました。

現状を考えると、乳幼児を預けるならしっかり不安を感じて欲しい、と思います。国の施策はけっして幼児優先の施策ではないことを知ってほしい。経済優先で、幼児の安全さえないがしろにしている、と伝えたい。本来、自分の赤ん坊は、自分の親に預けるのだって、親友に預けるだって不安なのです。それで当たり前。それを思い出してほしい。

保育園という国が認可している仕組みだから安心、という論理に根拠がないことに気づいてほしい。その上で、「一緒に育てている」という感覚を保育士たちとの間に持ってほしい。

でも、その先が、いま見えない。

 

「女性活躍」はウソですか 配偶者控除廃止見送り

 「ああ、また。やっぱりね」。政府が配偶者控除の廃止を見送ると知った働く女性の多くは、こう感じたのではないか。

 

という新聞記事。「経済活動」だけが「活躍」ではない。それに、マスコミが気づかないと幼児の存在はますます希薄になってゆく。

 

images-2

私が書いた、「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」http://www.luci.jp/diary2/?p=1428に、こんなメールをいただきました。

5才の保育園児の母です。

私は離婚して、仕方ないとあきらめて預けています。今通う保育園は、怪我さえしなければ良いという考えのみです。ごあいさつも皆でしません。親達も共働きですが、やはり生活レベルを少し下げる(海外旅行とか)をしたくないから預けてる人が多いのに驚きました。

保育園も責任逃れの為のルール作りと言い訳に力を注ぎ、親達も「子供は任せたはずだ! 」と、ネグレクトみたいな責任逃れをしています。

私は、保育園の我が子にたいしてのみ発言権が有るので、区役所や子育て支援センターに無理をしてでも相談に行きます。親です。大事な人格形成です。コミュニケーションの前にモラルとマナーだと思うから。

結果は、当然 ! モンスター扱いされ、子供に保育士は仕返しをしてきます。

保育士も子育て中の親です。保育園に預けてる方もいます。

「預かってやってるんだ、有り難いと思え」ですね。

依存症等の原因がなくとも、周囲の大人の接し方で発達障害の疑いにつながる成長になります。子供に責任は有りません。産み育てられる、こんなに幸せな事は有りません。産み育てるのは、親です。産む覚悟とは、育てぬき一人の人間を創る覚悟だと思います。産まれてくる子供たちの、育ち行く時の気持ちを、思いやってください。

地域の母子に、もっとお節介に「お酒はだめだよ。」「煙草はやめなきゃだめよ~。」と、昔ながらに関わってあげてください。

産まれた後も、母子は周囲の方に感謝し、頼りに出来れば孤独から依存症やネグレクトにはなりません。

長く、支離滅裂かもしれません。お読みくださって、ありがとうございました。

 

松居 和

ありがとうございます。とてもよくわかります。どういう保育園、どういう保育士に出会うかで、親子の人生が変わってくる、ますますそんな状況になってきました。問題は多面的で、複合的で、だからこそ数人でもいいから、絆をつくり、一緒に祝ったりすることで、その絆を深めてゆくしかないのだと思います。シングルマザーも、子育てに専念するという選択肢が選べるようになっていなければ、本当の子育て支援とは言えません。

「子供に保育士は仕返しをしてきます」。そうあってはいけないのですが、現実ですね。それを親が知らないのも怖いのですが、知ろうとしない、というところまできている。

ーーーーーーーーーーーーーー

子育てから生まれるはずの、社会に必要な絆や信頼関係が、いま「子育て」を真ん中に崩れようとしている。

「子育て」を「女性の社会進出(?)」の「壁」と勝手に決めておいて、その「壁」を産んでくれ、産むために結婚してくれ、そうしないと経済や年金や社会保障が維持できない、と言うのです。

その「壁」こそが、一番幸せそうに生きている、一番幸せそうに生きることで人間たちの「目標」となる人たちだったのだ、ということを、もう一度思い出してほしいと思います。

 

常識として知るべき、親たちに知らせるべき、乳幼児保育施設の現況

認可外保育施設の現況

 

 雇用均等・児童家庭局 保育課による報道機関に対するプレスリリース、「平成25年度 認可外保育施設の現況取りまとめ」〜施設、入所児童数ともに増加、ベビーホテルは減少〜 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000080127.html、を読みました。

 平成25年度、ベビーホテルの新設・新設把握158カ所、廃止・休止158カ所。その他の認可外保育施設は新設・新設把握474カ所、廃止・休止331カ所とあります。これを、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)で語られる保育の質の低下の実態と照らし合わせてほしいのです。以前、著作に書いたことがあるのですが、なぜこれほど新設と廃止が多いのか。この仕事は、単なる思い込みや儲け主義では成り立たない、幼児の成長や家族の人生に関わる仕事です。だからこそ計画通りにはいかないし、人材が集められなければやってはいけない。コンサルタント会社が儲け話として煽るような種類のビジネスではない。(http://www.luci.jp/diary/2014/11/post-193.htmlhttp://www.luci.jp/diary/2015/01/post-261.html

 「把握」ということばが使われているのは「把握」していない状況がかなりあるということではないか。コンビニならまだしも、保育施設がこれほど継続が不安定な状況でいいはずがない。なぜそうなるのか。5年ほど前から保育界を追い詰めている慢性的な保育士不足を考え合わせれば、そこに明らかな無理と不自然さが読み取れるのです。保育所はどんな形であれ、日々の乳幼児の成長、そして日本の未来に関わる重要な施設なのです。

 もっと驚くのは「立入調査の実施状況」です。

 ベビーホテルの未実施数が26%、その他の認可外も26%。繰り返し全国紙で事故や事件が報道されているのに、未だに「未実施」がこれだけあるなどあり得ない話です。不手際というより、政治家やマスコミの怠慢。幼児に対する人権侵害ともいえる、あまりにも雑な保育行政です。国の安全保障については毎日報道されるのに、乳児の安全保障に関しては以前からずっとこんな状況です。政府の「あと40万人3歳未満児を保育施設で預かれ、そうすれば女性が輝く、活躍できる」という施策に水を差したくないのでしょう。

 保護者たちに知ってほしいのは、この報告書に、立入調査を行った施設に関して、指導監督基準に適合していないもの、ベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%と書いてあること。それに対する指導状況は口頭指導文書指導がほとんどで、公表:0か所、業務停止命令:0か所、施設閉鎖命令:0か所です。こんな状況だから、ルポ 保育崩壊で報告されているようなことが起っているのです。

 保育園に対する行政の立入り調査は抜き打ちではありません。前もって準備や手立て、隠蔽が可能な立入り調査です。調査官の目の前で子どもを叩いたり怒鳴ったり、口に給食を押し込んだりする保育士はいない。つまり保育の実態は、事実上ほとんど把握できていないのです。それでも確信犯的に乳幼児の日々の安全、安心を脅かす違反がこれだけあって、公表も業務停止命令も施設閉鎖命令も行われない。こんな仕組みだから宇都宮のような事件が起り、それが賠償訴訟になる。http://www.luci.jp/diary/2015/03/post-273.html

 (保育それ自体の質を行政が現場で確認できないなら、保育施設における正規、非正規、派遣の割合い、どのくらいの頻度で保育士が辞めてゆくか、その理由くらいは調査し、保護者に発表すべきです。いくら待遇のいい保育園でも、保育士の離職率がとても高い園があるのです。保育士が使い捨てになっている園があるのも原因なのですが、保育の内容、園内の風景に耐えられなくなっていい保育士が辞めてゆく、そんな園が増えています。)

 こんな現状でさらに保育のサービス産業化、一層の規制緩和を進め、総理大臣が、あと40万人保育施設で乳幼児を預かります、と国会で宣言すること自体がおかしい。国家の安全の根幹を見誤っている。

 子ども・子育て支援新制度を進める内閣府のパンフレット、その「すくすくジャパン」というタイトル、「なるほどBOOK」というタイトルの趣旨や思惑に翻弄され、保育園に預けておけば大丈夫、と思ってしまう親たちがたくさんいるのです。

「みんなが、子育てしやすい国へ」というキャッチフレーズが馬鹿馬鹿しく、虚しい。保育の質を整えず、ただ子どもを親から離し保育施設で預かる数を増やせば、それが「子育てしやすい国」だと政府が言う。この国は、そんな国であってはいけない。道徳教育とか愛国心などと軽々しく言わないでほしい。愛国心とは、すべての子どもたちに責任があると人々が感じる心。政府の子育て施策に愛国心が欠落しています。

naruhodo_book