私が出会った絵本作家たち

毎週録画して見ているお気に入りのTV番組「日曜美術館」に、絵本画家(作家)の田島征三さんが出てきました。

ずっと以前、日の出村の御宅にお邪魔したことがあって、タンポポとかドクダミとか違った草や実が入っているお酒を作って、居間に瓶を並べていたのを思い出します。「ふきまんぶく」が出来上がった頃か、「ヤギのしずか」を描いていた頃だと思います。

ふきまんぶく

双子のお兄さんの征彦さん(「じごくのそうべえ」、「祇園祭」)の方を、私はよく知っているのですが、出てきた映像を見ると歳をとってそっくりな感じです。もともと双子ですからそっくりですが、あの頃、征彦さんは角が取れた征三さんみたいな感じだったかもしれない。

地獄の惣兵衛

征彦さんは丹波の田舎で、田んぼでアヒルを飼ったりしながら型絵染をしていました。私がお世話になっていた宅間英夫さんという、オヤジの親友で、今江祥智さんの小説にも出てくる、私にとってもう一人のオヤジさんのような人の家に夏休みに遊びに行くたびに征彦さんの田んぼの端の家に顔を出していたのです。

番組を見ながら、ゴミ焼却場建設に反対する活動に征三さんがあれほどこだわっていた理由がわかった気がしました。大自然、といってもフナとか草とか川とか森とかバッタとかそういうものなのですが、それらと尋常でなく一体の人なのだ、征三さんは。そういうものが踏みにじられるのが身を切るように辛い人なのだ。

絵本作家の人たちのことが、芋づる式に記憶に蘇ってきました。

グルンぱ

二十歳の頃、堀内誠一さんのパリの家に2ヶ月居候したことがあります。「たろうのおでかけ」とか「ぐるんぱのようちえん」他を描いた凄い人です。私が好きなのは、7わのからす、くろうまブランキーで、やはり子どもの頃に読んでもらった絵本は心に残るのです。

インドから始まった一年半の放浪の旅の途中でした。堀内さんは、「こすずめのぼうけん」の中にある塀を高く描き直していました。誰もが時々会って話をしたくなる不思議な人で、私の滞在中も谷川俊太郎さんが現れました。(谷川さんには、私の3冊目の本「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」の帯に推薦文を書いていただきました。感謝です。)

ある晩、堀内さんと絵本関係者、東西奇人変人(いい意味で)番付というのをつくったことがあります。http://www.luci.jp/diary2/?p=48 (関連ブログ。)

東と西は出身地で分け、東の横綱が岸田衿子さん(かばくん、ぐぎがさんとふほへさん他)で、西の横綱は丸木位里先生か秋野不矩さんか迷った末に位里先生(原爆の図、ねずみじょうど他)になりました。

ねずみ浄土

きんいろのしか

私がインドを旅していた時、少しご一緒させてもらった秋野不矩先生(うらしまたろう、きんいろのしか他)は文化勲章受章者で、しかも秋野亥左牟さん(プンクマインチャ他)のご母堂です。この二つの勲章もふしぎに思えるのですが、天龍の秋野不矩美術館は圧巻、お勧めです。何度も何度も巡礼してもいいくらいです。同じ御本尊を拝みにいくように、同じ作品を拝みにいくのです。絶対にあってほしい作品が展示替えになっていると、それはいけません、と思います。

そういえば、亥左牟さんも一度日曜美術館に出てきました。

プンクマインチャ

ずっと以前、ロサンゼルスの私のアパートにふらりと来て数日泊まり、日本から持ってきたお孫さんへのお土産のコケシを、お礼に、と言って置いて行ったのです……。すでに仙人のようなヒゲで、年齢不詳でした。敷物一枚で、床にゴロンと眠ってしまうのが絵になる親子です。

インドへ私を呼んでくれたラマチャンドランさん(まるのうた、おひさまをほしがったハヌマン他)は、西ベンガルのシャンティニケタンにある詩人タゴールの作った大学で不矩先生が教えていた時の教え子です。不矩先生の英語は半分日本語です。それで三年、大学で教えていました。初めての外国だったインドで、不矩先生の半分日本語で話してしまう「英語」を聴いたとき、私は世界中どこへでも旅できる気がしたのです。

ラマチャンドランさんは、私の人生における「灰色のガンダルフ」(瀬田貞二訳「指輪物語」より)のような人。

ある日、ニューデリー郊外のラマさんの家で、不矩先生が、私がついでに洗うから、と私の洗濯物を洗ってくれて、ラマさんが庭に一枚ずつ干していた時、私も何かしなければと思ってラマさんに尋ねたのです。すると、あとてやってもらうから、と笑うのです。夕食が終わって、みんなでシーンとした時、ラマさんが、さあ、笛を吹いてくれ、と言いました。私は尺八をとってきて即興でしばらく吹きました。終わると、不矩先生が、あなたの今日の仕事はこれでいいの、とニコニコ笑いながら言いました。

「フレデリック」のような話です。ありがたい。あの夕べの風景はいまも私の心の中にあります。

 

「絵本関係者奇人変人番付」に話を戻します。

不矩先生は西の張出横綱になって、東の大関は丸木俊先生(原爆の図、うみのがくたい他、私が好きなのは「12のつきのおくりもの」)。関脇、小結あたりを決める時に候補者をとりあえず紙に書いて並べてみました。

12の月のおくりもの

安野光雅先生(ふしぎなえ、旅の絵本他、私の小学校の図工の先生)、梶山俊夫さん、谷川俊太郎さん、長新太さん、渡辺茂男さん、瀬田貞二さん、赤羽末吉さん。(私の推しで)藪内正幸さん……。

いまでも懐かしい薮さんは、上京したばかりの頃、学生服を着てうちに下宿していました。上野や多摩の動物園に通うのが仕事で、パスも持っていたから羨ましかった。ああいう仕事に就かなきゃいけない、と子ども心に思いました。子どもと絵本作家を数人近づけると、だいたい子どもは道を踏み外します。最近、ハイビジョンのテレビ番組で、動物の、特に鳥の羽の細かいところまで綺麗に見える映像がスローモーションで現れるたびに、藪内さんに見せたいなと反射的に思います。薮さんの動物を見つめる目の真剣さと愛情が、今でも私の心の中に生きています。そういえば、今江祥智さん(わらいねこ、山の向こうは青い海だった他)もうちに下宿していたことがあって、これでは、もう子どもは真っ当な道は歩けない。非認知能力がつき過ぎる。言い訳です☺️。

番付の小結(こむすび)あたりまで決まりかけていた時に、突然、アッと気が付いて、石井桃子さん(クマのプーさん、ちいさいおうち、うさこちゃん、三月ひなのつき、他)をどうするかということになりました。

「どうするか」という言い方はちょっと失礼なのですが、堀内さんはその時すでに舌ベロが紫色になるくらいワインを飲んでいました。ちなみに長女の花子さんも、お酒を飲むと目つきが鋭くなってきて、言葉に凄みが出ます。大学生の息子がいる次女のもみちゃんは優しいのですが、保育指針を読んで、「かずくん、こんなの無理だよね~」と、初めて会った五年生の時みたいに真実をズバッと言うのです。「ムリ、ムリ、ぜったい無理」と私も真剣に答えるのですが、やはり堀内家の伝統は受け継がれている。(世田谷区の「おでかけひろば」について、「これ、いいんだ」と教えてくれたのはもみちゃんです。自主的な子育て支援センターを、区が空き家を借りて増やしていく仕組みです。)

さて、石井桃子さんをどの位置、と言うか「地位」にするかという話です。

私は小さい頃、石井さんの自宅の「桂文庫」に毎週通っていて、一人ずつ呼ばれて応接間で絵本を読んでもらったり、愛犬のリュークと遊んだり、メダカのいる池をのぞいたりしていました。お手伝いのミネさんの顔も覚えています。敷地全体が良質の児童文学という感じで、石井先生はいつも背中をしゃんと伸ばして今でもそこにいるのです。ひょっとすると横綱かもしれない、と堀内さんも言った気がします。

田島征三さんは残念ながら番付では前頭でしたが、それだけ絵本関係者には奇人変人が多いということ。いつまでも大人になれない、ならない人が、それを特権のようにして生きている。一人では生きられそうもないから、よほど運がいいのでしょう。

でもこの人たちが社会の視点、定点のようなものを作っている。人間の役割分担みたいなことを強く感じるのです。そして、この定点は、親たちが子どもに読んで聞かせるという役割をすることで、本当の意味で社会の原点になるのです。いくら不思議な指針がそこにあっても、親心が存在しなければ自然治癒力は働かない。それが人間社会です。

あまがさ

そうだ、八島太郎さん(あまがさ、からすたろう)のことをいつか書かなければ……。

堀内さんの家をあとにして五年後に、私はロサンゼルスで大学へ通いながら八島さんの俳句の会に出入りしていました。八島さんの日本語に対する感覚は鋭く、余白、余韻を残した「あまがさ」の文章は、英語で書かれた俳句のようです。存在感のある人物です。色んな意味で……。

ああいう海の渡り方をしたタロウ・ヤシマが、アメリカの今年の大統領選とコロナ禍とBlack Lives Matter(人種差別と不信を増幅している司法・警察の問題)の重なりと混沌を、どう分析、評論するだろうか。息子のマコさん(岩松マコ、砲艦サンパブロでアカデミー賞助演男優賞にノミネート)も交えて話すことができたら……、二人とも亡くなっていますが、そんなことを考え、想像します。(八島さんが、どういう海の渡り方をしたかは、ぜひネットで調べてみてください。ちょっと凄い話です。)

八島さんのペンネームに現れる日本に対する思い入れ。友人の小林多喜二(蟹工船)の死顔をスケッチし、戦前にアメリカに渡り、戦後、チャップリンが事実上の国外追放になった熾烈な赤狩りを目の当たりにした人。そして六十年代の反戦、人権運動のこと。マコさんが主宰していた、私も音楽を担当したことがあるイーストウエストプレイヤーズのこと。アジア系アメリカ人の劇団ですが、自分の顔、姿から逃げられない移民二世、三世の東洋人俳優たちがアメリカのリアルタイムをもがくように生きていました。ある日、音楽好きの韓国系男優キヨニ・ヤンが私に言いました。

「カズ。オーディションに行くだろう? すると、タップダンスはできるか、と訊かれる。もちろんです、と答えるんだ。そしてタップを教えるスタジオを探して、金を払って三日で覚えるんだ。Than’s Hollywood, man.」

人種の壁は厚い。差別は必要な格差として、歴然と、当然のようにある。(私も様々な形で体験しました。その不合理な荒波の中で闘っていると、自分もいつの間にか荒っぽくなっていきました。)それでも俳優になりたければ、何でも、喜んでやるしかない。彼は、典型的な日本人の役、と言ってジョー山田をやって見せてくれました。それは、中国人と日本人の中間あたりに属するふしぎな自虐的なキャラクターでした。

「お前にやってほしくないよ」と苦笑いしたら、クスクス笑いながら「Than’s Hollywood, man.」と言われました。

海を渡った理想とか夢が、叶わずとも魂の質量を持っていた時代があった。それがいま、殺風景な悲しみや苦しみ、橋を架けようもなく深まる分断、やり場のない憎しみや怒りの中で定点を失い空回りしている。

損得勘定ではない原風景の中に、名作「あまがさ」と「からすたろう」はあります。還っていく風景があったから、八島さんは生き続けることができた。でも、それがあるがためにもがき、苦しんでもいた……。

「あまがさ」と「からすたろう」、素晴らしいです。

何が?といえば、小さい頃のモモさんかもしれない。雨の音、それを一緒に聴いていた父親の心情かもしれない。その後、を知っているだけに、それは素晴らしかったんだ、と断言したいのです。

「からすたろう」では師弟の出会い、学校へ毎日通った道のり、カラスの鳴き声、そうしたものの組み合わせが素晴らしいのでしょう。

あの頑固者で面倒くさい、本当は優しい鹿児島男児の波乱万丈の人生を、たった二冊の絵本が表してくれるから絵本描きは特だなあ、ずるいんじゃないの、と思うのです。けれど、あの、子どもがいる風景の静けさが人間にとっては原点の静けさで、いつでも手に入る幸せの可能性を示唆しているから、やはり納得してしまう。全米の図書館に、たぶん全ての小学校の図書館にあの二冊が日本という国の文化を代表して入っている気がするのです。

田島征三さんの番組の最後の方に出てきた最新作と思える、魚をつかむ、魚が逃げる、そんな絵が新鮮で、水の青が綺麗で、まるで音が聴こえるようでした。人間は子ども時代に帰っていく。還っていく次元をしっかり体の真ん中に残しておけばいい。残させてあげればいい。一番完成していた自分に戻っていくことができる。そんな気がしました。
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(「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」に書いてもらった谷川さんの文章です。ありがとうございました。)

「うーんと唸りました。読み進める私のアタマには?と!が交互に現れます。でも松居さんは保育の現場から考えているから、この本の中の具体的な「言葉」には、この時代の抽象的な「決まり文句」を突き崩す強さがあります。」 詩人 谷川俊太郎

 

「おもしろくてアッという間に読み終えた。「子育て」を低級な「仕事」と見始めるところに、人間社会を根本から揺るがす危険がある、という主張に、教師としては強力な援軍を得た気持ちである。」  「学校崩壊」の著者 川上亮一

 

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米国大統領選、結婚しない男たち、人類普遍の価値

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米国大統領選、トランプ大統領とバイデン元副大統領の第一回目の討論会は酷かった。まさに国の現状がそのまま現れたという感じでした。ニューヨークタムスやワシントンポスト紙が「史上最悪」と書き、3大ネットワークが「国の恥」と評し、私も聴いていて途中で気持ちが悪くなった。

終わった直後にテレビのコメンテーターが、まるでサーカス、とコメント、サーカス団からテレビ局に、サーカスを馬鹿にしないでくれと抗議がありアナウンサーが謝罪した、という嘘のようなホントの話。人類の行く末を左右する茶番劇がリアリティーショーとなって続いてゆく。すでに、背後に暴動の匂いがする。銃の売れ行きが加速している。

司会者に、白人至上主義者(white supremacist)たちの活動をこの場を借りて否定しませんか、と問われた大統領は、最後までそれを言葉にすることを拒んだ。そして、武装を楽しむ極右の団体プラウドボーイズを名指しして、後ろへ下がって、控えていろ(stand back and stand by)と言ったのだ。討論中にすかさずPBが、了解です、とツイート。翌日には「Stand Back & Stand By」と書かれたTシャツを売り始める始末。

報道を介さず、ことは進む。社会に反発している若者の反応は早い。緩衝材になるべき温かさに包まれていないから、熱し方が激しい。武器を手にしようとする。

放送後、黒人の母親から、十二歳の息子に真剣に、銃を買ったほうがいいんじゃない、と尋ねられて困っている、という投書がテレビ局にあったそうだ。そこに意識の世界で進む、危うい現実が映し出される。討論会の勝者がどちらか、支持率がどう変化したか、などということよりも、十二歳の子どもがどういう風にそれを見ていたか、何を感じたかが重要で、その意識の中で国の未来が築かれていく。大人たちは、それに配慮すべきなのだ。

この子の発言には様々な伏線がある。二年前大統領は移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」からではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し、マスコミに「露骨な人種差別」と非難された。ハイチで抗議デモが起こり、それでも37%という大統領の支持率に変化はなかった。

当時、ロサンゼルスで教師をしていた友人が言っていた。「メキシコからの移民は罪人ばかりだ、という発言もそうだけど、公の場で大統領がこういうことを言ってしまうと、小学校教育は成り立たないの。教科書で教える民主主義や平等という言葉が偽物だと、生活の中で感じている子どもたちにとっては、トランプの『糞溜め』発言の方がずっとリアルだし、身近なのね……」。でも、と彼女は言った。「そのリアルさがトランプの武器なんだけど、私という存在の方が、クラスの子どもたちにとってはリアルだと思う」。全米のTachers of the yearとして表彰されたこともある、親身に子どもたちの将来を心配する人だった。

この夏、彼女は四〇年間の教師生活に終止符を打った。教員たちの間にできてしまった溝、政府や行政に対する不信感はしばらく続くだろうし、子どもたちともコロナで直接会えないから、と言って……。

高等教育が普及したはずのアメリカで……、小学生並みの罵り合いが公的に続く。そして、それは永遠にネット上に残される。党派やイデオロギーを超えた分断の両側で、子育てをする親たちの困惑と不安、怒りが広がっている。地位を失うと脱税で訴追されるかもしれない大統領が主導する分断が、潜在的暴力を呼び覚ましていく。

現行制度のもと、州によってはすでに期日前投票が始まっている。それにも関わらず、自分が負けたらそれは不正選挙だからだ、と大統領が断言してしまったら民主主義は成り立たない。大統領を支持する共和党の上院議員でさえ、苦虫を噛み潰したような顔で白人至上主義者たちを否定し、選挙に敗北したら認めるべきと言うのだが、憲法と教育の限界が支持率6:4の数字となって、いよいよ明らかになっていく。教室で教える真面目な教師たちが、子どもたちを前に立ち往生している。

長年一緒に音楽をつくった白人の友人が嘆いていた。民主党支持、共和党支持の違いなら、友人関係を保つことはできたんだ。でも、トランプ支持、不支持の違いは、友人を失う種類のもの。この亀裂は一生埋まらないかもしれない。(そして、この亀裂は、家庭内でも起こっている。)

実は、南北戦争は終わってはいない。国の歴史がこれからも続き、憲法に人権や平等が書かれている限り溝はいつかは埋めていかねばならない。しかし、今、これに似た亀裂が世界中に広がっているのだ。

ウイルスとワクチンで人間性が浮き彫りにされている。

調和の方向へ進んでいくのだ、と信じるしかないのだが、いまはとりあえず日本という国で子育てをしていることに感謝する。私たちはそこから始めることができる。それは良きこと、運のいいこと。そして、私の思考は繰り返し、幼児の存在意義へと移っていくのだ。この人たちをどう扱うか、で憲法も教育も成し得ないことが整ってくる。彼らが一番確かな存在だと思う。

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(政府が掲げる「新しい経済政策パッケージ」より)

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、『子育てや教育にお金がかかりすぎるから』が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

ーーーーーーーーー

この人たちには「少子化という壁」の実態が見えていない。過去15年間の「少子化対策」、その柱となったエンゼルプランや預かり保育といった保育時間と三歳未満の園児数を増やす対策の結果、ますます出生率は下がっている。それは、誰もが知っている現実なのだ。

少子化対策の背後には女性の就労率の(出産によって下がる)M字型カーブをなくそうという意図があって、実態は労働施策だった。出生率を上げる対策にもなるはず、という一石二鳥の安易な飛躍がそこにあったのだが、あまりにも軽率な計算で、「子育て」という行為を軽く見過ぎている。

負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という損得勘定は、この国では成立しない。子育ては打算でするものではない。それが結果として出ているのだが、学者たちは、親子を引き離す意識改革を「人づくり」と名付けて進める。子育てはもともと人類が幸せ感じ、信頼や絆を作る「大切な負担」だという進化の常識が理解できていない。負のイメージばかりを広めようとする。

そして、結婚しない男が増えている。

数年後には生涯未婚の男性が三割になるという。少子化の根本には、男たちの意識の変化がある。

(実は、幼稚園や保育園で園の行事に参加する父親は増えていて、本能は確かに働いてもいる。ちょっと導いて、励ませば父性という人間性は喜びを伴って蘇ってくる。http://www.luci.jp/diary2/?p=220)

家族という関係を信じない、それに憧れない男たち、子育ての責任に充実感を感じず簡単に放棄する父親が増えている。(欧米よりは遥かに状況はいいのですが)母親(母性)が追い込まれている。そして、同時に福祉という梯子が、その質という次元で外されようとしている。

「子育て」をしていれば輝けない、「子育て」は損な役割、イライラの原因、お金がかかる、といったイメージを国やマスコミが繰り返せば、「生きる力」が弱くなっている男たちは結婚に躊躇するようになる。小、中学校でも男子生徒がとても幼くなっているという話を聞く。悪い子ではない、どちらかと言えばいい子たちなのだが、担任に甘える、駄々をこねる、忍耐力や意欲を持てない男子生徒が増えているのだ。それもまた自然なこと。無理に少子化を止めようとして、欧米のように「利他」の心持ちに欠け、子どもや弱者に辛い社会へ進んでしまっては、それこそ本末転倒です。

(以前、政府がスローガンにしていた「安心して子どもが産める環境づくり」を、「あれは、気楽に子どもが産める環境づくりです。それは困る。親が育たなくなる」と看破した保育園の園長先生たちがいた。)

伝統的な、この国の個性、美学にも似た子育て観、この国を守ってきた幸福論の書き換えが、「待機児童解消」の掛け声のもとにいまだに進められている。

(参考ブログ)

http://www.luci.jp/diary2/?p=2786:「生産性革命と人づくり革命」?・「幼児期の愛着障害と学級崩壊」

「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

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「理想の子供数」という言葉が施策の中で使われる。

誰にとっての理想で、何を目的とした理想なのか、その辺りを推測すれば、ある思惑が見えてくる。馬脚があらわれる。

この「理想の子供数」と「保育は成長産業」という閣議決定に踊らされ新規参入した小規模園が最近閉園に追い込まれていて、それもまた経済活動、市場原理だが、その過程で、乳幼児たちに何が起こっているかを慮ることが重要なのだ。1日、2日のことではない。年に260日、1日平均11時間、脳が最も発達するとされる彼らの日々なのだ。それを丁寧に、親身に考えないから、「思いつき」「数合わせ」のような規制緩和、あってはならない制度改革の試行錯誤が続き、それが保育の現場を一気に疲弊、荒廃させしまった。

以前厚労省が作った保育指針解説書の最後に、こんな文章があった。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです」

その通り。保育は、「教育」よりずっと古い、人類普遍の価値を守る行いでなければならない。

乳幼児の存在意義を見失い「絆」という社会の安全ネットが壊れていくと、もはや福祉や司法では補えない。四割から六割の子どもが未婚の母から生まれる欧米で、犯罪率が日本よりはるかに高いのだ。人間社会において、モラルや秩序は、主として親子という関係で行われる「子育て」によって維持されてきたのだ。

(法治国家を条件に比較すると、泥棒に入られる確率Burglary rateは、ニュージーランドが日本の25倍、デンマーク20倍、スェーデン15倍、フィンランド、アメリカ8倍。レイプ被害に遭う確率は、スェーデンが日本の60倍、アメリカ40倍、ニュージーランド30倍、フランス、ノルウェー20倍、デンマーク18倍。)

なぜ政府は、この国の子どもたちにとっての安心と安全を犠牲にしうようとするのか。乳幼児期の親子の肌触りを経済の妨げのように扱うのか。現場は納得がいかない。優先順位におけるこの間違いを黙って見ているわけにはいかないから、私は30年間言い続け、書き続けてきました。

「人類普遍の価値の問題」

(左の人たちには右と言われ、右の人たちには左と言われましたが、そんな陳腐な闘争レベルの話ではないのです。人類普遍の価値の問題なのです。)

論旨に同意しない人たちが居て当然です。幼児の存在意義という根源的な部分で理解しない人が居てもいい。しかし、少なくとも雇用労働施策によって保育現場がどう追い込まれているか、その窮状については避けて通れない現実があることを繰り返し述べてきました。

保育士不足は、質の悪い保育士を雇わなければならないという選択を園長たちに強いる。それは「いい園長」には辛い。「園長、辞めるか、良心捨てるか」という選択が保育界の質を下げていく、等々。

「保母の子ども虐待」―虐待保母が子どもの心的外傷を生む、という本が出たのが23年前。その後の安易な規制緩和と絶対的な保育士不足で、0、1、2歳という自ら身を守れない弱者たちを安心して預けられる状況ではなくなっているのだ。子どもたちを守ろうとする園長たちが、私の身を借りて警告した通り、乳幼児たちの絶対的信頼に応えるべき保育は失われていった。

(新聞記事から)

「あっち行け」「ブタ!」 各地で相次ぐ「不適切保育」、園児の心に深い傷:2020年8月31日:https://www.tokyo-np.co.jp/article/52148

グルグル巻きの虐待が日常だった:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73461

認可保育園でも幼児虐待。叩く、突き飛ばす、転ばせる…実際に働いていた女性に話を聞いた:https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20180828-00094721/

自民党の少子化対策委員会で、福祉の拡張に伴う保育の質の低下や家庭崩壊の増加について講演したのが17年前です。党の女性局の全国大会や厚労部会でも講演しました。自民党の依頼で衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をし、民主党の依頼で衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として「無償化が保育の質を下げ、親たちの子育てに対する意識を変えること。保育界はこれ以上人材的に対応できないこと」について意見も述べました。(委員の議員たちに配ったレジュメがhttp://www.luci.jp/diary2/?p=2801に載せてあります。)

埼玉県の教育委員長をした時は、全国教育長・委員長会議で保育の重要性について、保育者体験が親たちを育て保育者との間に信頼関係を生むこと、それが学校を成り立たせる原点になると説明し、県単位で取り組むところが四県になりました。体験した親たちのほとんどがアンケートに「もう一度やりたい」と書く。それがこの国の強み、素晴らしさです。親の保育者体験を国の最重要施策にすれば状況はずいぶん違ってくる。中、高校生の保育体験を加えればさらに「生きる力」が蘇ってくる。幼児たちの集団には、それほど「いい人間性を育てる」力がある。それに気づいて欲しい。 

本も書きましたが、執筆依頼もありました。

2004年版「日本の論点」(変わる国のかたち)(文芸春秋社)に『モラルと秩序は「親心」から生まれた:子育ての社会化は破壊の論理 』を書きました。

日本の論点

安倍元首相が創設に関わった日本教育再生機構の機関誌「教育再生」2014年11月号に、八木秀次氏から依頼され「育てること、育つこと」 というタイトルで、学校教育を支えてきたのは、保育界の意識と就学前の親たちの「育ち」、双方向への「愛着の形成」であること、幼児期の親子を労働施策で引き離すことを続けては、教育の再生はあり得ない、と書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=465

(国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。:教育再生より)

教育再生

  去年、衆議院調査局発行の「論究」第16号に「子供を優先する、子育て支援」というテーマで論文を依頼され、衆議院議員全員に配られたそうです。

論究

政治家たちは、質を保つことが不可能になっている保育界の現状を知っているはず。安倍内閣には、私の講演を聴いただけでなく、直接しっかり話をさせてもらった人が改造のたびに三人は居ました。今度の菅内閣にも三人居られる。厚労大臣と文科大臣と経済産業大臣、これ以上の組み合わせはないと思うのですが……。

0、1、2歳児の安心と願いを優先する、それだけでいいのです。彼らの役割を思い出し、それを果たさせてあげれば、自浄作用、自然治癒力は必ず働き、社会全体が落ち着きを取り戻す。乳幼児が社会の「気」を支配する、それが本来の姿です。

すでに自治体単位で実行に移されているいい方法、効き目が証明され、予算もほとんどかからないやり方がいくつもある。本やブログ、論文にも書きました。

(「いい人間性を育てる」力に関しては、0、1、2歳児がもっとも象徴的で自然ですが、話しかけられるものなら、小さな妹、祖父母、お地蔵様でもいい。もちろん、花でも、ペットでも、野菜でもその範疇です。)

数字は誤魔化せない。経済学者たちも知っているはず。

しかし、この「新しい経済政策パッケージ」を作った優位者たちは、強者主導の優先順位をいまだに変えようとしないのです。優先順位こそが「人間性」であること、絶対的弱者を最優先にすることから「社会」が成り立っていることを認めようとしない。  

現在の政府が(野党も含め)進める保育崩壊、家庭崩壊はこれから数十年に渡ってこの国のあり方に関わってくるのです。「不適切保育」をされた子どもたちだけではなく、その風景を見ていた子どもたちの心にも深い傷を残していると言うことを実感してほしい。

(新聞記事から)

認可園で虐待、おびえる我が子 通報受けた市、遅れた立ち入り:https://www.asahi.com/articles/DA3S14640478.html

「保育士の虐待『見たことある』25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明」:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

乳幼児期にこうした体験をさせられた「心の傷」について、人類は気づいていました。「三つ子の魂百まで」と言います。三歳まではとにかく大切にしなさい、可愛がり、寄り添いなさい……、ということ。

(つい十五年前まで、選択肢があれば、この国では七割以上の子どもが幼稚園を卒園していました。本能的に、まだ喋れない、歩けない幼児の位置を理解していた不思議な国なのです。)

乳幼児期の愛着関係の重要性は、学術研究でも繰り返し言われています。だから、この新聞記事の見出しにも「園児の心に深い傷」とあるのです。忘れてはならないのは、その傷は、その時だけのものではなく、様々な形で社会に連鎖していくということ。

こうした報道がされるときに、マスコミや学者は、政府の質より量を優先した施策で保育界の負担が重くなっている、それを軽くするために、待遇改善と人材確保のための予算を、と言う論調になる。これでは根本的な解決にはならない。本質に迫っていない。幼児の視点、幼児の願いという観点からは、むしろ、本末転倒といっても良い。

親たちの意識の変化こそが保育士たちの負担を重くしているのです。その指摘がされない限り、保育の質は確実に落ちていく。

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内村鑑三が、教育で専門家は育つがひとは育たない、と義務教育が広まり始めた時代に言った。

百年後、増え過ぎた専門家たちが「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)と言って、結果的に教育が成り立たち難くなるほどに「子育て」の基盤である家庭(または愛着関係)を壊している。手遅れにならないうちに、保育という仕組みをもう一度、専門家たちの計らいや成長産業などではなく、人間の営みという本来の姿の方向に戻していかなければ、「保育」は諸刃の剣となる。

専門家が増えれば人が育たなくなる、という新たな現実を、私たちは体験しています。

生産性と人づくりは車の両輪とはなり得ない。動機が異なる。

保育資格を与える大学や専門学校は、資格者を送り出すという「ニーズ」に応えることによって成り立っています。0、1、2歳児保育が今ほど普及していなかった頃は、そのやり方でも通っていた。「保育」は「教育」のフリができた。

しかし、政府が待機児童数の10倍の三歳未満児を預かることを目標に掲げ、親たちが未満児保育に違和感を感じなくなった現実の前で、「専門家」を育成することでまかなう「保育」は、完全に行き詰まってしまった。

0、1、2歳児の保育は、専門性よりも「人間性」を求めるからです。

明らかに現場に出してはいけない、資格を与えるべきではない学生に「保育資格」を与えた時点で、学問としての「保育」はビジネス(経済)の一部になっている。それを忘れてはいけない。

十数年前、実習先で見た虐待を私に伝えようとした学生たちを必死に保育科の教授が止めようとしたことがありました。男性保育士の性的虐待を、行政から止められ告発できなかった保育士たちのことを思い出します。いい保育士の人生が、仕組みの中で潰されていったのです。

保育は、園の経営が成り立てばいいというものではない。その場所がどう回っていくか、そこでどう心がつながっていくかがその存在意義なのです。だからこそ、保育という仕組みは安定していなければいけない。市場原理など持ち込んではいけない。

教育システムやマスコミという経済の守り手と、幼児という人間性の守り手の間に、人類未体験のせめぎ合いが起こっている。

近年、政治家やマスコミが「女性の活躍」という言葉を使って議論する時、その定義の中に「子育て」が入っていない。むしろ「子育てから離れることによって、女性が活躍する」という論旨が定着しつつあります。活躍の意味が議論されないまま、その言葉から逃れられなくなっている。「活躍する」ために必要な保育の質は、その信頼に応えられる状況にはすでにないにもかかわらず。

人間本来の生きるためのインクルーシブ、調和へ向かう姿勢が、授かる乳児の存在意義を忘れることによって、抑圧と支配、暴力による「法と秩序」の方向へ揺れている。それが、コロナウイルスという人類規模の試練によって浮き彫りにされる。イデオロギー以上に、人間性が問われているのに、その現実から目を逸らすために様々な闘いが用意されていく。

だからこそ、まだ意識の流れを幼児優先に戻すことができるこの国の存在とその方向性が、いつか人類にとって重要な意味を持つようになる、そんな気がする。

保育園と幼稚園が、この国を「経済優先の流れ」から救い出す鍵を握っています。保育園と幼稚園が「子どもの最善の利益を優先」し、親たちと子育ての喜びを分かちあう。それがまだ可能な国なのです。

(関連しているブログです。)

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。

http://www.luci.jp/diary2/?p=2902:保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げる場

「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。/ 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

(衆議院議員に配布された論文集です。私の論文は、「子供を優先する、子育て支援」です。)

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf

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二年前のことです。ある私立保育園に講演に行きました。笑いあり、涙あり、平日なのにほとんどの母親たちが講演会に来て熱心に耳を傾けてくれる。(保育園です。)幼児と過ごすこの時期、この特別な時間をどう過ごすといいのか、子育ては親たちが自分のいい人間性に感動することです、等々、一生懸命話しました。70歳になる女性の園長先生は気合の入った方でした。私のファンだそうで、親の保育士体験も数年前から全員にやらせています。そうした日々の耕しがあったから、一体感を感じる、お互いに納得しながらの講演会ができたのだと思います。

私が時々「道祖神」とか「地べたの番人」と敬意をもって呼ぶこの人たちが、実は根っこのところでこの国を支えてきたのです。

驚いたことに、70人定員の園で、年に一度のお泊まり保育には親も含めて200人が参加するというのです。園児一人に大人が二人ついてくる。国が仕切っている今の仕組みの中で、つまり逆風の中で、こういう園長先生が親心を耕し、信頼関係を育てている姿をみるのは嬉しいし、励みになります。「そう、そう、園長がその気になれば、可能なんだ」と笑ってしまいます。これは「教育」のレベルの話ではないのです。もっとずっと古い、古(いにしえ)の法則、大自然のしきたりに属する作業なのです。「祭り」と呼んでもいいかもしれない。

お泊まり保育だけではありません、お泊まりキャンプもあります、と園長は言うのです。この保育の神に出会った一家は、その人生が変わる。親たちも、そういう行事があることを説明され、納得して園を選んでいる。まだまだ日本の親たちは捨てたものではない。

「でも」と二人きりになった時に主任さんが辛そうに言うのです。「あんな園長ですから、親たちを育てるのは難しくないんです、いくつか行事を重ねれば、自然にみんな子育てが喜びに変わって行きます。問題は、若い保育士たちなんです。育てるのが本当に難しくなった。知識はあっても長く続かない。保育の喜びや深さを理解してくれない。昔とは、笑顔の種類がちがってきているように思うんです」

数日後、親たちの書いた素晴らしい感想文が、たくさん送られてきました。この国はまだ大丈夫。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

折々のことば

久しぶりに演奏します。11月10日(火)です。

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恐る恐る、ですが、音楽を四人で再開します。野球場もあんなにお客さん入っていることですし、いつかは始めることですから。どうぞ、よろしくお願いします。ぜひ、ぜひ、聴きにいらしてください。

演奏は、恐る恐るではないです。

 

調和する社会を作るための筋道

 

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以前、経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。正確に言えば「私たちに」言ったのだが、隣にいた保育園の園長先生の肩が怒りに震えていた。

座長は男性、園長先生は女性だった。

この高名な経済学者は、人間を、働けるか働けないかでしか見ていない。「0歳児は寝たきり」という情報を、ただ情報としてインプットされ、幼児の「働き」、「役割り」に関しては見えていない。考えが及ばない。自分が幼児だった時、どういう存在だったのかさえ理解できていないのだ。人間の生きる動機、実はこれこそが「経済」の原動力だったわけだが、それが理解できていないということ。「経済」を調和ではなく、闘い、競争と理解している。勝者(強者)の側からの都合で見る「経済」は破綻する。それが全世界で起こっている。

人間は、遺伝子の中に組み込まれている、誰のために生きるのか、何のために生きるのか、という「人生の目的」を、0歳児を眺めることで思い出す。

表層的な情報に依存して想像力を封印し、感性を忘れる経済学者が多いのは仕方ないこと。しかし、この人が政府の少子化対策が始まった頃に経済財政諮問会議の座長だったことは、政府という、経済で成り立つ仕組みにとって致命的だった。少子化対策の中心にあった保育施策が雇用労働施策の一部として扱われ始めた時だっただけに、あってはならないことだった。強者が仕切る仕組みというはこのように動く。

似た考え方をする経済学者はこの人だけではない。

3年前に閣議決定された政府の「新しい経済政策パッケージ」を作った人たちの名前の横にも、有名大学教授の肩書きが並んでいた。

(政府の「新しい経済政策パッケージ」より抜粋)

『0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。

 

この政策パッケージが作られる10年以上前から、ハローワークで保育士を募集しても一人も応募してこない、という状況は日本中で起きていた。保育士を選べない状況はすでに動かない現実だった。経済学者たちが最優先と決め、無償化によって推し進めようとする32万人分の「受け皿整備」は、確実に幼児たちを世話する労働力の質を落とし、怯える幼児たちを増やすことでしか「着実に進め」られない。それを自治体のベテラン保育課長たちは知っていたし、厚労省も勿論知っていた。

保育士不足による弊害は、すでにマスコミでも繰り返し報じられていた。

ネットで、「保育士、虐待」と検索すれば記事はいくらでも出てくる。それを読みもしないで保育という手段を前提にした政策パッケージを作った学者や政治家を除けば、「子育て安心プラン」が規制緩和と人材不足を一層進め、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということは現場は皆わかっていた。私は、当時年間100以上の講演をし、その半数が保育者たちに呼ばれた講演だったから、そう言い切れる。現場は皆わかっていた。

それでも、いい保育士が怯える「子育て安心プラン」 を前倒しする、と政府は再び決めたのだった。

(イギリス、フランス、韓国の保育制度に関しては、参考にする意味がない。イギリスは四割、フランスは五割の子どもが未婚の母親から生まれ、家庭の定義がすでに日本とは違う。韓国の保育制度に関しては、その破綻の速度と、市場原理の危険性について知るべきだと思うが、無償化をとどまる事例にしてほしい。)

(参考ブログ)

「保育士7人が一斉退職」の新聞記事と、現場からのメール:「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。

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「新しい経済政策パッケージ」に関わった経済学者だけではない。保育士不足の只中で「十一時間保育を標準」と定めた国の子ども・子育て会議の「専門家」たちは、一体何をしていたのか。

「この内閣主導の経済政策パッケージをいずれ支えるのは未来の労働力となる子どもたちではないのか」という単純な理解があれば、「32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め」たらこの国の将来がどういうことになるか、保育の専門家ならわかるはずではないか。

保育の質の低下は、学級崩壊や教師の離職という形になって学校教育を追い詰める。いじめや不登校、引きこもりが増え、社会全体の生きる力が弱まり、将来の労働力の質も下がっていく。

「保育の受け皿」という言い方で誤魔化しても、これは間違いなく「子育て」の受け皿なのだ。そう言い換えれば少しは問題の本質が見えてくる。専門家の机上の仕組み論ではない「人間の営み」が感じられるはず。そんなことは、突然32万人分出来るはずがない。仕組みと資格(学問)で補えることではない。そこに書かれている通り対象の九割が三歳未満児なのだ。脳の発達、将来の思考の道筋がこの時期決まると言われている、その扱いには細心最善の注意を払わなくてはいけない、人間社会において最も繊細で敏感な人たち(大切な弱者たち)なのだ。政府や学者、専門家たちが乱暴に扱えば、そのひずみは必ず出てくる。

そして、この時期の子育ては、育つ側だけでなく、明らかに「育てる」側の体験であって、「寝たきりなんだから」(誰がやっても同じ)で済まされることではない。

「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。

その人は一体何を考えているのか。「誰が」安心しようとしているのか。子育てにおいて、子どもたちの「安心」は二の次なのか。

心ある園長なら、すぐに抱くこうした施策上の矛盾と思考の展開に対する疑問に、学者たちがまったく気づかない。少なくとも、「新しい経済政策パッケージ」と「子ども・子育て支援新制度」に関わった専門家たちは、気づいていない。弱者の願いから生じる、人類が生き残るための常識から逸脱している。

追記:

待機児童はやがてゼロになる。その時が危ない。待機児童解消を優先課題と位置付ける経済学者たちは、そこで働く市場原理を理解しているのだろうか。

乱造とも言える保育施設の設置、規制緩和による人材の質の低下、それと同時に、少子化は確実に進んでいるのだ。地方ではすでに保育園の「定員割れ」があちこちで起こっていて、その波は、近い将来都市部にもくる。

その時、園児の取り合いから、親を「客」と考える保育のサービス産業化に拍車がかかる。それが怖い。数人の欠員が園の存続に直結する自転車操業のような小規模保育では、言い方は悪いが、親子を引き離すサービスに走り始める。生き残りを賭けて。そうしているところはすでにある。

(その結果、保育園が仮児童養護施設のような役割さえ果たさなければならなくなってきている。http://www.luci.jp/diary2/?p=2391)

10年以上前から、私が講演依頼を受けた保育団体の勉強会の分科会に、「保育でどうやって儲けるか」というテーマで、保育の本質を理解していないビジネスコンサルタント達が講師として入り込んでいた。ビジネスには素人の、市場原理には慣れていない園長、設置者たちをサービス産業化で煽った後、今度は「保育界でいかに生き残るか」という脅し方を始めている。幼稚園がこども園化させられた過程でも、その現象は起こっていた。

子どもたちの最善の利益を優先する、という保育所保育指針の大前提を考えれば、保育は絶対に商売になってはいけなかった。保育の重要性を理解し、国が保育士たちの「心持ち」を守らなければいけなかった。「子育て」そのものと重なるこうした「保育に関わるものたちの様々な心の動き」を考慮せずして、少子化対策は成り立たない。

しかし、介護保険の失敗に懲りずに、市場原理に任せるのがいいという学者たちの安易で稚拙な経済施策が閣議決定され、子どもたちの日常と、取り返しのつかない幼少期の日々を蝕んでいく。

この国の将来の安心と経済を考えれば、まず最優先で保育を立て直すことだと思う。先手を打って、保育園を子育て支援センターに作り変えていく。親子を引き離さずに保育園がより一層大切な役割を果たし、生き残りの不安を感じなくてもいいように制度を変えることはできる。そして、0、1歳児を自ら育てる家庭に、もちろん祖父母でもいい、直接給付金を出すなどして、保育界の人材不足を解消する。(0、1歳児の役割の大切さももちろんだが、0、1歳児保育は、4、5歳児保育の10倍の人手が必要なのだ。)

保育という仕組みが必要不可欠になっている今、保育士たちがゆとりを持ち、喜びを感じる現場にしていくことが、弱者を中心に調和する社会を作る筋道だと思う。

(参考ブログ)

児童虐待がニュースになる度に思います

http://www.luci.jp/diary2/wp-admin/post.php?post=2276&action=edit:保育界の現実(森友学園問題)

卒園児を集め「お泊まり保育」のビデオ

保育園・幼稚園、という人生の故郷(ふるさと)になると丁度いい不思議な場所には、できることがたくさんあります。八王子の共励保育園(現在こども園)では、二十歳になり成人式を迎えた卒園児を園に集め同窓会をして「お泊まり保育」のビデオを見せるそうです。

「一人では生きられなかった自分。でもあの頃、あんなに楽しそうだったんだ、幸せそうだったんだ」映像に映る小さな自分の姿を見て、二十歳(はたち)がそう感じる。

「無力なのに、幸せそう」。昔の自分を眺めて、頼り、信じることの大切さに気づく。幸せの見つけ方を以前、ちゃんと知っていたことを思い出すのです。

幸せは、自分の心の持ち方で砂場に居ても手に入る、一緒に歌えば手に入る、そのことを思い出せば、安心を土台に、これから様々な責任を引き受けていける。

「お泊まり保育」のビデオ鑑賞は、やろうと思えば全ての園で出来ること。

いま混迷している義務教育の中でも、見方を変えれば、道徳教育や英語教育に力を入れる前に、しなければいけない大切なことがたくさんあると思います。仕組みを変えても何も変わらない。

いま子どもたちに教えなければいけないことは、人はひとりでは生きられないこと。そして、みんなで踊ると楽しいこと。その次元のことなのです。

保育は、園児の幸せを願うことで成り立ちます。子育ては、子どもの幸せを願うことなのです。子育ても、保育も、祈りの領域で完結する、そんなことを私に教えてくれた園長先生たちがいました。

毎年保育士が何人も替わる派遣や非正規雇用に頼らなければ運営できない保育では、園が心の故郷になることはできません。待機児童解消を目指す国の施策に、人の心を一つにする祈りの要素がないのです。乳幼児の笑顔は人間たちが「欲を捨てる」きっかけとなる。生きる動機になる、そのことの大切さを忘れてはいけない。

(共励保育園の理事長長田安司先生の著書「便利な保育園が奪う、本当はもっと大切なもの」幻冬舎刊、は保育者だけでなく、経済学者にも、政治家にも読んでほしい。保育実践の中から生まれる知恵、仕組みの問題点が様々な視点から書かれています。)

 

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長田先生も私も、映画「三丁目の夕日」の風景を知っている世代です。

あの頃に比べて私たちはより幸せになったのか、技術が進歩し、国は豊かになったはずなのに、社会としての幸せを実感できない、どこか殺伐としてきている。絆の質が浅くなっている。それは親子関係に現れている。そういうことをひしひしと感じる世代なのです。

アインシュタインが来日した時に驚愕、感嘆した「調和の社会」の残照、名残りを知っている世代なのです。

人間が生きる意味を見失い始めているのではないか。生きる意味を探す方法を捨てようとしているのではないか。時代が変わった、で片付けてはいけない、「もっと大切なもの」が崩れようとしている。

私は、その原因として、人間たちが三歳未満児と過ごす時間の減少を挙げます。それを保育の現場で検証し、警鐘を鳴らし続けているのです。

人間は、なぜ眠っている0歳児を眺めていると孤独を感じないのか。その辺りに答えがある。その瞬間、人間は、自分自身の人間性を見つめている。

(参考ブログ)

愛されることへの飢餓感・荒れる児童

アメリカの道祖神が亡くなった。

RBG(Ruth Bader Ginsburg)ルース・ベイダー・ギンズバーグ米国最高裁判事が逝った。八十七歳だった。連邦議会の国旗が半旗になり、最高裁の前にロウソクが並び始め、日を追うごとに柵のまわりが花束とメッセージで埋めつくされていく。

アメリカの道祖神が亡くなった。

そんな気がする。

男女同権を目指す闘志だったが、男性的パワーゲームには巻き込まれない、ジェンダーの意味を知っていた賢者だと思う。だからこそ、保守系が多数を占める九人の最高裁判事の中で、保守系の男性判事からも尊敬を集め、畏れられ、友情を育んだのではないか。イデオロギーを超える「人格の力」に説得力があった。

九人のうち女性判事は三人、インタビューで、最高裁の判事のうち、何人が女性であるべきだと思いますか、という質問に、「九人」と答えている。性的役割分担を知っていた人だと思う。最高裁判事が九人とも女性だったら、アメリカという国の混沌はこれほど危険な状況にはなってはいなかった、私もそう感じる。想像でしかないのだが、そこに一つの真理があると思う。

この時期に逝くことによって、分断の恐ろしさ、政党政治の醜さ、ポピュリズムが選挙を動かす民主主義の危うさを浮き彫りにしているような、不思議なタイミング、去り方だった。

彼女の残像によって、進むべき道も、示されている気がする。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200920-00199134/

ギンズバーグ判事

 

私は、保育界で道祖神たちから様々なことを教わり、その絶対的存在感に後押しされ、その意図をうかがいながら、考えている。携帯の中には自分で撮った道祖神コレクションがある。保育界は特に、神を育てる場所なのだと思う。幼児という神々と日常的に向き合い、その影響を受ける場所なのだと思う。

私の道祖神たちは、全員女性だった。九十歳を超えた道祖神は、歩いているだけで、座っているだけで園を治めていた。子どもたちだけではなく、親たちの心を見事に鎮めていた。

(参考ブログ)

ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに

保育士の喜び

「同居は福祉における含み資産」。こういう真っ当なことが1978年の「厚生白書」に書かれていた。

 その辺りがこの国の賢さだった。絆や、人々の心持ち、数字には表れない心情を、資産として評価する姿勢が行政や学問の中にあったのだ。つい、40年前のこと。

経済を金の動きという一面だけで見ない、人間の心理、幸福論まで含む経済論が確かにこの国には存在していた。そうした一見非論理的な計算能力を伝承することで、集団としての人間たちが、互いの存在に安心する「知恵や常識」が維持されていた。

子育てを最近の経済学者が「雇用労働施策」に取り込んだあたりから、そうした「知恵や常識」が一気に崩れはじめたのです。

いつの間にか人々をつなぐ「絆」の次元がとても平板に、白か黒かみたいなことになってしまった。税金を納めているかいないかで人間の価値が測られ、「平等」という現実にはあり得ない関係性が指針を惑わし、より多くの人々が競争に追い込まれ、まるで地球温暖化のように市場原理、競争原理がヒートアップしていく。「平等」を目指すパワーゲームに慣れてしまい、戦える者たちの陰で弱者がその存在価値を失っていく。結果的に、格差は、なお一層広まってしまった。

平等という言葉は実は「機会の平等」(Equal Opportunity)であって、民主主義における社会正義として必要ではあっても、結局、強者たちによる勝者の免罪符にすり替わっていく。その過程で捨てられる物差し、「人間性」の喪失が、世界中で様々な形の摩擦や軋轢を生んでいる。

格差で生じる不満、不安が資本主義社会のエネルギーとアダム・スミスは言ったが、それはすなわち利他や無私の心を捨てる道でもあった。その道を行くと、幼児という弱者を可愛がり、彼らに寄り添うという種の保存法そのものでもある本能的な幸福論が見えにくくなる。表層的で短絡的な経済論(欲の幸福論)によって、人間の共生本能が覆い隠されていく。

三歳までに、主として親や祖父母から肌を通して伝えられてきた「何か」の絶対量が決定的に欠けてくると、競争意欲に歯止めがかからなくなり、これでは欧米社会の二の舞になってしまう。

心を伴わない「情報」で頭が一杯になった人たちは、相対的に、拠り所としての自分の感性、本能に基づく判断力を失い始める。すると、正論や事実であっても、自分の思い、願いに合わないものは「フェイクニュース」(偽情報)として簡単に片付けることができるようになる。

思い出してほしい。「千と千尋の神隠し」もフェイクニュースといえば、そうなのだ。人間が社会を形成するのに必要なのは、共有できる真理を見つけ出す力、調和への道を示唆する物差しを嗅ぎ分ける感性なのだ。

「千と千尋の神隠し」という不可思議な作品が日本の映画史上、いまだに観客動員数第一位。そこにこの国の素晴らしさ、本質がある。それを真剣に見てほしい。

 

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保育士の喜び

少人数、透明マスクをつけ、距離を保ちながら保育園の主任さんたちに講演し、その後座談会になった。敢えて、ここ数ヶ月、コロナ禍の中で保育士として嬉しかったこと、を聴いてみた。

保育士や子どもたちの安全を考え、保護者に登園自粛をお願いしたところ、大体どの園も登園児が定員の三分の一になったといいます。その時のゆとりある保育がとても嬉しかった。子どもたちの願い、要求に3倍応えられる、それで保育自体が楽しかった、と言うのです。

保育の基本は、子どもを可愛がる、そして寄り添う。それができた時に保育士は幸せを感じます。そういう人たちなのです。言い換えれば、普段の国基準の1対4、1対6、1対20、1対30の保育が、保育士たちの幸福の基準を超えてしまっているということ。そして、保育士たちの喜びが、保育の質なのです。

その次に、親たちが規則をちゃんと守るようになったのが嬉しかった、という発言がありました。

「コロナの問題がありますから、少しでも熱があったら登園させないでください」と言う園からのお願いを親たちが聴く、のだそうです。普段は、登園前に抗生物質を呑ませて、登園時だけ熱を下げるようなことをする困った親たちが、ちゃんと子どもを休ませる。

お迎えに平気で遅れてくるような親が、「コロナの問題がありますから」と言うと、時間通りにきちんと迎えに来る、と嬉しそうに言うのです。

そう、保育士たちは、親たちが子どものためにルールや規則をちゃんと守ってくれるのが嬉しい。そういうあたり前のことが保育士を元気にする。言い換えれば、そういう当たり前のことをしてくれない親たちが、当たり前のように増えてきたことが、保育士を疲弊させ、保育士不足を生んでいるのです。

そして、最後に、「今年新任で入った子(保育士)が、私が保育士になって最初の年に受け持った子だったんです。先生が好きで、保育士になったんです、って言ってくれたんです」。もう、涙が止まらない。周りに聴いている他の主任さんたち、私も涙が止まらない。これが保育士の本当の喜びなんだなぁ、と思いました。

毎年、保育士がどんどん代わっていくような園では、もう絶対に起こらないこと。政府の「保育は成長産業」という閣議決定が、これほど馬鹿馬鹿しく思えた瞬間はありませんでした。

人間は、生きている意味を探しながら生きる。喜びをわかちあいながら、人生がつながっていくことを嬉しく思う。それが「生きる力」、そんな法則を、主任さんたちから学びました。

政府がつくり出す非人間的な光景と、園長先生からの三通の手紙/集団の中での幼児の発達/追悼ジェームス・ホーナー

「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている

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魂の次元のコミュニケーションが人間社会の土台として存在していて、その伝承が「生きる」喜びになる。それを、祈りという人たちもいれば、思いやりという人たちもいる。最近では、非認知能力と定義する学者もいる。音楽や舞踏などは、その次元をそのまま具現化しているから、私たちは、浅い、深いのちがいはあっても常にこの次元で会話をしている。この次元を互いに分かち合う人間は、宇宙における存在としては不思議で、その不思議さは赤ん坊との会話から始まる。(と私は言ってきました。)

すべての人が生まれてすぐ、実はこの魂の次元のコミュニケーションの源に位置し、それを体現していた。だから、人間たちは「宝」として、それを可愛がった。

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たとえば、子守唄という、始めは一方通行のように見える音楽の形が、人間のコミュニケーションの次元を広げ、種の存続にとって正しい方向へ人々を導いてくれる。子守唄は、人類を祈りという行動に誘う入り口にあって、道筋は、神々や、大自然や、自分自身との会話に繋がっていく。

先進国社会の子育てに、子守唄が聴こえなくなっている。それは、子育てに祈りが、欠けてきているということ。

こうした現象から人間社会の変化を感知してほしい。コミュニケーションの変質は、そのまま社会の変質でもあるのだから。

今、3歳までの幼児と話す機会を社会全体に、積極的に、意識的に取り戻していかないと、と私は言い続けてきた。

 

この映像は、私が作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」からの1シーンで、シャクティのメンバーでリーダー的存在のメリタの婚約式の場面から始まる。

 

その晩、突然激しい雨が降り出し、村全体が停電になった。インドの村ではよくあること。半分冗談のように、誰かが電線を盗んでいった、と一人がつぶやく。すぐにロウソクとランプの灯りが点けられ、思いがけず、つい最近まで、世界中で何千年も続いてきた人々の暮らしが照らし出された。

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幸運だった。嵐が、私に何か大切なことを告げようとしている、と感じた。

炎の揺らぎの中に、神や宇宙を感じる。人間は灯火(ともしび)のもとで心を合わせ、生きてきたのだ……。その風景は見事で、鮮明で、美しかった。

シスター・チャンドラは踊ること、太鼓を打ち鳴らすことでダリット(不可触民)の女性に対する差別や偏見と闘っていた。不可触民の「男性」に、しかも上位カーストの葬儀でしか許されていなかった太鼓を、女性が撃ち鳴らすことで、幾重にも作られた理不尽な壁を打ち破ろうとしていた。舞踏劇の一シーンでは、持参金(ダウリ)目的で台所で灯油をかけられて殺される妻たちが表現される……。

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私とシスターとの出会いも偶然だった。稀有の出会いがたぐり寄せたこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭で、長編ドキュメンタリー部門の金賞を受賞した。音楽は自分のアルバム「Stone Monkey」からCrowを使った。自分の撮った映像と以前作った音楽が不思議に、目的と時を超えて寄り添い、馴染んだ。

人間たちが積み上げ、深めてきた「絆」と、コミュニケーションの様々な手法や形がこの映像に集約された。その意思と意味を汲み取って、私は言い続けなければならない、そう思いながら編集した。

 

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、急激に希薄になっている。「子育て」と「教育」の混同から始まり、親を労働力にするために「子育ての社会化(制度化)」が進められている。子どもを育てる幸福感が、社会構造や人間の「気」の流れから突然欠落し始め、それに伴う家庭崩壊によって、保育や学校教育という制度そのものも危機にさらされている。

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日本の国会で、数年前総理大臣が、当時待機児童が2万人だったにも関わらず、あと40万人保育園で預かれば女性が輝く、と言ってしまった。子育てでは輝かない、経済活動に参加する方が輝く、と言うのだ。幸福を金額で計る近視眼的な経済界の都合が、そのまま国の施策となっていった。子育ては損な役割、イライラの原因というイメージづけが政府とマスコミによって繰り返し行われ、浸透し始め、しかも、論旨に差はあっても、三歳未満児をなるべく親から引き離そうとすることにおいては、与野党一致なのだから、私がいくら叫んでもどうしようもない。それでも、発言の機会が、国会や市役所や園長先生たちの勉強会、保護者会などで与えられてきたのだから、それがこの国の不思議さであり、ありがたい。

(今年は、コロナ問題で講演はほぼ全て中止になったが、それでも先日、参議院会館からズームを使って、地方議員の人たち100名くらいに発言する機会があった。去年、衆議院調査局が年に一度発行する「RESEARCH BUREAU 論究 第16号 2019.12」に提言論文を依頼され、「子供を優先する、子育て支援」―先進国社会における家庭崩壊にどう向き合うか―、というタイトルで書き、年末に発刊されました。衆議院のホームページで読むことができます。誰も聞いてくれなくなるまで、いい続けるしかない。)

保育園と「一緒に」子育てをしていた昔の親たちを覚えている園長先生たちが、顔をしかめて言う。たった十年くらいの間に、0歳児を十時間以上預けることに躊躇しない親たちが驚くほど増えた、と。年配の園長先生たちは、保育を商売とは考えない。保育所保育指針にも、保育園は「子どもの最善の利益を優先する」と書いてある。だから、経済学者たちが保育園の経営が安定していいだろう、くらいに思う、十一時間保育を「標準」と名付ける施策に心を痛め、顔をしかめる。そして「保育は成長産業」とした閣議決定を呑まざるを得ない補助事業としての立場に失望し、気力を失って引退していく。

「この人たちが居なくなったら、学校教育なんかもたいよ!」と叫びたくなる。この国が誰に支えられていたか、誰との会話によって耕されていたのか、経済学者はまったく気づいていない。

政府の思惑通り「保育はサービス産業」と本気で考える園長や理事長もいる。彼らは、政府の子ども・子育て支援新制度を「ビジネスチャンス」と宣伝するビジネスコンサルタントやフランチャイズ型の株式会社の進出に煽られ、保育士の質など考えずに、マネーゲームのように保育園を増やしていく。老人介護で露見した人材不足が生む「心ない福祉」が、保育施策を通して幼児たちの将来にどう影響を及ぼしていくか、政治家やマスコミは真剣に考えてほしい。

学級崩壊やいじめ、不登校、成人男性の早期退職、引きこもり、そして未婚率の増加、増え続ける児童虐待と女性虐待の数字を見れば、幼児期の子育てに関わる施策は、国家の成り立ちに関わる緊急かつ最重要課題だとわかるはず。

全国で相次ぐ「保育士大量退職」:保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない

 

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コロナウイルスの感染拡大の最中に、アメリカやフランスで、大学生や大人たちがマスクも付けずに「コロナ」パーティーで大騒ぎをしている姿が報道で流れてくる。(私は、NHKの世界のトップニュースやCNNなどで見ている。)映し出されるのは名門大学の学生たち。一体どうなっているのか、と驚いている日本人も多いはず。「一部の人たち」とは言い切れない異常さが、あのから騒ぎから見えてくる。

競争に駆り立てられ、優しさを失った人間たちの不穏な空気が欧米先進国を覆っている気がしてならない。傾向は、今年はじめにフランスで起こっていた労働問題のデモ行進が簡単に暴動につながってしまう風景にも見られたし、私は、二十六年前にロサンゼルスで起きた大地震の後の略奪風景からも感じていた。「人間性」と、人間たちが持ち合わせているはずの「社会性」が変質してきている。多くの人間の心の底に不平不満が蓄積し、行き場を失っている。それは多分、突き詰めて言えば、日本における「結婚しようとしない男たち」の増加という現象にもつながっている。

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アメリカで40%、フランスで50%の子どもが未婚の母から生まれ、実の親、血のつながりという概念が成り立たなくなっている今、子育てが、人間たちが信頼関係を育て、輝き合う瞬間だという意識が遠のいている。それにつれ、「利他」「思いやり」という他人の幸せを願う幸福論が希薄になっている。

経済競争を「輝く」手段と刷り込まれた人たちは、お金を稼ぎ、それを使うことで「輝く」と思い始める。稼いでも、使わなければ意味がない。そう思うように仕向けられている。それゆえに、コロナウイルスという「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている只中で、他人と自分の命をリスクに晒してでも、人生の価値を確認するように、尋常とは思えない刹那的などんちゃん騒ぎが広がっていく。高齢者でないかぎり死亡率は低い。ちょっとしたロシアンルーレットのようなギャンブル性が逆に、若者たちにとって魅力になっているようにも思える。

先週、トランプ大統領が選挙戦の最中、大学の人気フットボールリーグ「ビッグ10」の開催をうながし、病気になるのは疾患を持った太った高齢者だけだ、体を鍛えている君たちは大丈夫だ、と言い切った。”People don’t realize it’s a tiny percentage of people who get sick. They’re old. Especially old people with heart and weight problems.”

フットボールリーグのキャンセルが経済に及ぼす影響を考えているのだと思う。アメリカの大学スポーツ、特にフットボールとバスケットボールはプロ以上に人気があるし、開催されれば経済活動復活のシンボルになる。しかし、こうした明らかに弱者を軽視する発言を、国の未来を担っていく名門大学の若者たちに大統領が言ってしまっては、この先人種差別や格差の是正に向かう手立てが、ますます希少になっていく。

調和に向かうための社会全体に共通する常識や、それを支える「モラルや秩序」を考えた時、私は、こういう発言こそが問題だと思う。

その演説をテレビで見て、すでに犠牲者が千人を超えている医療関係者が肩を震わせて憤る。医療崩壊がいつ起きても不思議ではない状況の中で大統領がこれを言っては、隔離や自粛が絵空事になる。大統領には、教育機関が、ビジネスに貢献する以上に、または以前に、人間の品格とか人智を身につける目的がその土台にあったという意識がすでにない。

日本で、首相が「病気になるのは疾患を持った高齢者がほとんど、若者は重篤にならないのだから、経済を回すために積極的に旅行をしましょう」と言ったら大変なことになると思う。それが事実に基づいた発言であったとしても、高齢者(弱者)の気持ちを考えれば立場上言えるはずがない。欧米に比べれば、の話だが、この国は、まだ良識や常識が機能している国なのだ。そのことにもっと気づいて欲しい。この国も、土台から崩れ始めているのだから。

政府や経済界が、経済を回すために主導した子育てに関わる「弱者を忘れた」経済優先の施策が、先進国社会で行き詰まっている。それを、コロナ惨禍が浮き彫りにしている。大自然が人類に、コミュニケーションの原点回帰を要求している。

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(バイデン候補、副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員、元カリフォルニア州司法長官を選んだ。氏の亡くなった息子さんが二人を引き寄せた、というのも偶然ではないと思う。人は死んでも絆は続き、会話は続く。特に親子の関係はそういうもの。会話は永遠に続く。

カマラという名前はサンスクリット語で「紅い蓮の華」だという。母上がチェンナイ出身のインド人で乳がんの研究者。父はジャマイカ出身の経済学者。60年代の公民権運動に幼いカマラさんを乳母車に乗せて参加したというエピソードが、私たちの世代には懐かしい、微笑ましいイメージとして伝わってくる。

それは、「答えは、風の中に……」とボブ・ディランが大衆に唄い始めたころで、彼を見つけ出すことができた時代の幕は、その時すでに上がっていた。

「溺れる前に泳ぎ始めよう」と彼は続けた。

しかし、その後ベトナム戦争は激化し、若者たちの命を奪いながら泥沼化していった。敵は10倍の戦死者を出しているのだから、自分たちは勝っている、と言い続けた軍の上層部、そしてデモを抑えきれなくなった政治家たちが目指した『名誉ある撤退』のために、多くの若者が死んでいった。ヘリコプターの輸送力と先進医療のおかげで戦死する確率は低かったが、負傷する確率はほぼ百パーセント、だから全員勲章をもらった戦争は、当初、志願兵が主体になって成り立っていた。母親たちが育てた、愛国心を持った自慢の息子たちが倒れていった。

そして今、アメリカが抱える混沌は、「愛国心」を利用した利権争いになっている。同様の混沌が世界中に広がっている。国の定義に、幼児たちの日常が優先的に含まれない「愛国心」など、権力闘争の道具でしかない。)

 

 

耕し直していくしかない

コロナウイルスが世界中に広がっています。感染が始まって半年経ち「マスクや隔離、自粛」という対応策が見え始めても、様々な状況の中で第二波が起こっています。その起こり方に、その国、その社会における人間模様や事情が垣間見えます。モラル・秩序の濃淡と、損得を離れた絆の有無が、ウイルスという目に見えない災禍によってあぶり出されているようです。

ロシア、アメリカ、ブラジル、感染者が爆発的に多い国々の特徴を見れば、時の指導者と、国としての対応が、犠牲者(死者)の数に大きな影響を及ぼしているのがわかります。その時たまたまその地位に就いていた首相や大統領のちょっとした性格や人格、個性がこれほど多くの人の命に関わってくる。選挙で成り立っているはずの民主主義ですが、当選した人の資質によって国民の運命が確実に左右される。それはすなわち民意の質や、それを操る「経済」という仕組みの問題でもあるのですが……。

インドでは、タミルナード地方の状況が逼迫していて、ニュースを見ながら心配しています。

私が以前作ったドキュメンタリー映画で出会い、いまも交流が続いている、シスター・チャンドラが只中にいるのです。

「大丈夫ですか?」というメールに、「シャクティのメンバーとマスクを手作りして、村の子どもたち配っています」というメールと写真が送られてきました。 

ドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」(第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞受賞)からの映像です。

私の質問にシスターが答えます。

https://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

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インドの貧しい農村での人々の生活を見ていると、信心も含めて、絆と信頼に守られて暮らしてきた人間たちの確かな営みが見えてきます。

「祭り」の意味をシスターは「集まること、祝うこと」と言い、それを繰り返していれば人間は大丈夫。時々、輪になって踊っていればいいのです、と教えてくれます。シスターはカソリックの修道女ですが、発言の端々にウパニシャッド哲学の流れを感じるようで面白い。絆は、「縁」であって、「円」であること。「祭り」はそれを伝えながら、日々の営みを次の世代につなげていく。人生がその場限りではないこと、人間は「祝っていれば」、「集まっていれば」良い方向に進み始めること、その流れを体感させるのが祭りや儀式でした。

鯉のぼりやひな祭りも含めて、お中元やお歳暮、祝儀・不祝儀も含め、日本人は「祭り」を大切にしてきました。絆に頼って、絆を信じて生きる、その喜びを体現することが好きなのです。

祝うことは、祈ること。そんなメッセージがシャクティの風景から伝わってきます。

こういう次元のつながりを取り戻すことが、いま人類には必要なのです。

日本の小学校で毎朝子どもたちが「輪になって踊る」ことで、人類の進化が正しい方向へ戻ってくる。「気」の流れが変わる、つながりを実感出来るようになる。こういう次元のコミュニケーションの入口に「0歳児が眠っている」と、私は言い続けてきました。

いま、この大きな試練の中で、輪になって踊ることができない人間たちは、家族、家庭という単位に帰っていきます。0、1、2歳児の願い、と言ってもいい。彼らの言葉にならない言葉に耳を傾けて、乳児を育てる、という仕組みの価値を噛みしめる。福祉や教育では代替できない、支え合い、育ち合いを「Good Trouble」良い試練としてもう一度確認する。新たな命を祝うこと、その成長を共に喜ぶことの意味を思い出す。

「自立」ではなく、お互いのために生きることが人生の目的なんだという、幸せの物差しが再発見されるといいのです。そこから、「社会」を再構築していく。

前回の投稿に書いた、アメリカの下院議員ジョン・ルイス氏の葬儀で、前大統領三人(ブッシュ、クリントン、オバマ)が追悼の辞を述べたあと、ペロシ下院議長が追辞の中で「非暴力とサティアグラハー」について語りました。ルイス議員は師のキング牧師と共に、このマハトマ・ガンジーの教えを実践し、「血の日曜日」と呼ばれる行進で頭に重傷を負った人、その後30年以上にわたり下院議員を務め、「連邦議会の良心」とも呼ばれた人です。

WASHINGTON D.C. - MARCH 17: Congressman John Lewis (D-GA) is photographed in his offices in the Canon House office building on March 17, 2009 in Washington, D.C. The former Big Six leader of the civil rights movement was the architect and keynote speaker at the historic March on Washington in 1963. (Photo by Jeff Hutchens/Getty Images)

WASHINGTON D.C. – MARCH 17: Congressman John Lewis (D-GA) is photographed in his offices in the Canon House office building on March 17, 2009 in Washington, D.C. The former Big Six leader of the civil rights movement was the architect and keynote speaker at the historic March on Washington in 1963. (Photo by Jeff Hutchens/Getty Images)

私は、ずっと以前、このガンジーの教えと、「幼児の存在意義」を重ねました。絶対的弱者が強者の人間性を育む、引き出す、この日常的な体験の繰り返しが人類の進化の鍵を握ってきた、と感じたからです。

子育てをしながら明るい顔でいられたら、人生の目的は達成される。

人間は、そういう人間でいるために生まれてくる……。これほどわかりやすい物差しはない。

そして、日本だから、言えることですが、その方向へ人々を導く役割をたやすく担うことができるのが、幼稚園と保育園だと思ったのです。

以前、「親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす」という文章をブログに書きました。 http://www.luci.jp/diary2/?p=220 

十年以上前に講演した幼稚園へ行くと、その時の講演をきっかけに「父の会」ができて、それがとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただいたのです。こういう方法で、耕し直していくしかない。それが一番理にかなっている、自然で、簡単です。予算もいらない。

欧米に比べ、まだまだ「家庭」という形が残っている日本だから、可能な方法です。

楽しそうにしている父親たちを見て、きっと男の子たちも、父親になりたくなる。

少子化の一番の原因は、以前に比べて男たちが結婚しなくなったこと。三割の男たちが一生に一度も結婚しない。これでは、いくら「保育」を充実させても子どもは増えない。いや、保育を充実させたから、こうなったのです。

男たちが、「子育て」に「生き甲斐」や「幸せ」を見出そうとしなくなった。見出せない仕組みになっている。こんなことは人類の歴史始まっていらい初めてのことなのです。

もともと、子育てや、子どもの幸せに対する責任は、男たちの生き甲斐でした。遺伝子がそう組まれていた。それをやりさえすれば、ほとんどの男たちが、自分自身の「いい人間性」に気づき、「幸せに向かう利他の遺伝子」がオンになっていった。

「親父の会」がそれを証明しています。

(私が、20年前に欧米における家庭崩壊の状況と、その対応策のいくつかを書いた文章があります。http://www.luci.jp/diary2/?p=1054 。ぜひ、読んでみてください。)

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、「子育ての社会化(制度化)」とそれに伴う家庭崩壊によって、急激に社会構造から欠落し始めている。そこに突きつけられた新型コロナウイルスの問題なのです。

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ジョン・ルイス下院議員が亡くなった

ジョン・ルイス下院議員が亡くなった。連邦議会に掲げられた国旗が半旗になっている。

キング牧師と行進し、「血の日曜日」で負傷し、マハトマ・ガンジーのアヒンサー(非暴力)、サティヤーグラハの思想をアメリカ連邦議会で貫き通した人。https://www.bbc.com/japanese/53453905

60年代の初頭、反戦運動は、徴兵制を挟んで国と対峙することでもあった。そして、人種差別に反対する人権運動は、憲法を挟んで国と対峙することだった。

目標への近道は、国という概念を捨てること。しかし、ジョン・ルイスは下院議員として闘い、民主党だけでなく、共和党議員からも一目も二目も置かれ、いまその死を悼んで、惜しんで、半期が掲げられている。優しく、力強く歩く、哲人が、逝った。

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いい人になること:「非認知能力」

いい人になること:「非認知能力」

アメリカで、自由と権利を叫び、マスクをつけず集団で大騒ぎし、まるで賭け事を楽しむようにウイルス感染を広げている若者たちの姿をCNNやABCのニュースで見ていると、人間は自暴自棄になった時、自由とか権利という言葉を使って、自らの責任を回避するのだな、と考えます。高等教育の普及と豊かさによって、人間の絆は方向性を失う。

一連の「Black Lives Matter」の運動でもわかるように、南北戦争の決着がいまだについていないのです。

憲法で平等をうたいながら、人種差別は歴然と続いてきた。その矛盾は時を重ねて、澱のように溜まって、日常となり、亀裂はここまで深く広くなっていた。

「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国に)と大統領が叫んでも、多くのアメリカ国民にとって、特に有色人種や貧困層、差別される側、弱者にとって、アメリカが偉大だったことなど一度もない。

一部の、とは言い難い、自己中心的で無責任な人たちの行動によってウイルス感染が爆発的に広がっている。逼迫していく医療現場の絶望感が、医師や看護師の証言から伝わってきます。自身や、家族を感染のリスクにさらしながら、人を救うことが虚しくなってくる。ウイルス対策と言うよりも、人間同士の「絆」の崩壊との闘いに多くの人たちが呆然としているのが見えます。

そこに人間性を失った「仕組み」の限界が見えるのです。経済という言葉でごまかしてきた、「欲の結末」、「人間性の喪失」が様々な形で露呈してきているのがわかるのです。

ロサンゼルスで教師をしている友人から、「日本はどうなっている?」とメールがきました。

「八月に学校を再開しなければ予算を削減するとトランプは言うけれど、感染者や死者は学校が閉鎖された4月よりも増えている。体の弱い教師もいれば、60歳を超える人も現場にはたくさんいる。いま再開するのは無理だと思う。彼(トランプ)は、子どもや教師たちの命より、経済を優先している。しかも論理が破綻している」

これを機に退職を考えている、と彼女は言うのです。子どもたちに人気がある、全米Teachers of the Yearにまでなった、私にとって大切な人です。

とにかく安全に過ごして欲しい、とメールを返しました。

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その後、自治体の権限で八月はとりあえずオンラインによる授業再開を目指すことになりましたが、心を失った仕組みに嫌気がさし、彼女のように辞めていくベテラン教師が、大統領の現場無視の発言のあと急に増えている、とニュースが伝えていました。

数年前に日本で、政府が子ども・子育て支援新制度で十一時間保育を「標準」と名付けたとき、そして保育を「成長産業」と閣議決定したとき、あきらめ顔で辞めていったベテラン保育士たちを思い出します。(http://www.luci.jp/diary2/?p=2822)

保育も教育も、しょせん人間が子どもたちの幸せを願って行うもの。人材の質と心がその中芯であり、伝わっていくべきものは、魂なのです。

アメリカの学校教育は日本以上に、家庭の補完的な役割を負っています。

家庭内暴力や子どもたちを取り巻く貧困も日本の比ではありません。毎年、親による虐待で病院に運ばれる子どもが80万人いる。人口比で計算すれば、日本で毎年30万人の子どもが親による虐待で重傷を負うということです。毎年、です。フードバンクも破綻しそうな状況では、学校給食の果たす役割は大きい。国家が用意する仕組み(福祉や教育)と、「家庭」との境界線は、ますます曖昧になってきています。

http://www.luci.jp/diary2/?p=1062「『プジェクト2000』国が用意するシステムと家庭の境界線」)

私には、日本という国の今の不思議な落ち着きが嬉しい。もちろん、無責任な光景は小さな規模ではたくさんあるでしょう。モラルの崩壊は、日本でも確実に進んでいます。医療現場の困惑、教育、保育現場の不安は、目の前にある明日の現実をすでに直感しています。

場当たり的で、無感覚とも思える政府の対策に、私も、不満はたくさんあります。でも、自分の再選のために国の分断を煽るアメリカの現政権よりは、はるかにマシ。このやり方には、与党共和党の中からも反発が起こっています。大統領選挙を秋に控えた「反発」は異例中の異例なのです。

内包する不正とあからさまな差別意識で信頼を失墜しているアメリカの警察で、退職する警察官が急増しています。そして、コロナウイルス騒動が始まった頃、日本でトイレットペーパーやマスクが品切れを起こしていた時期に、アメリカでは拳銃と弾薬が品切れを起こしていたのです。

予測通りに銃の発砲事件、子どもが巻き込まれるような悲劇が頻発しています。しかも警察のみならず、機能が滞っている司法制度がまったくこの状況に追いつかない。陪審員を集めることさえ困難になっている。こんな状況が続けば、あの「法と秩序」という言葉が息を吹き返し、勢いを取り戻してくるかもしれない。

EU(ヨーロッパ共同体)も、これから人種間、宗教間で起こる様々な問題が山火事のそばの火薬庫のように弾けるのを待っている状況です。ウイルスの感染が既存の軋轢、イライラと不満に一斉に火をつけそうです。

独裁の方が儲かる、と人々が思い始めているようなロシアや、格差を利用して国家的損得勘定で動く新しい形の資本主義を進める中国、シリア難民に代表される強者の身勝手によって作られた貧困層の惨状を考えると、世界の混沌は収拾のつかないところまで進んでいます。

ひしひしと、日本で生活していることの運の良さを感じるのです。

この国だけでも、バランスを保ってほしい。もうしばらく、時間を稼いで欲しい。制度や仕組みが限界にきているいま、人間らしさを仕組みに取り戻す試行錯誤をしてみて欲しい。だからこそ保育なのだと思います。乳幼児の存在感を人々がふつうに意識し、あの人たちとの接触を増やしていくことしか対策は残されていないと、私は思う。

子どもを優先に考えていれば、人類はだいじょうぶ、と言う原則を繰り返し言いたくなるのです。

「非認知能力」

日本で、「非認知能力」という言葉が流行った時期がありました。

幼児教育とか保育の現場でも盛んに使われるようになり、私の耳にも入っていました。

その日の保育は、担当する保育者の当たり外れ、人間性による。いま、知識や手法で子育てができるようなことを言ってはいけない、この時期に親たちがどう育つかの方が重要、と言い続けてきた私は、また専門用語のようなものを流布して誰かが儲けようとしている、くらいに思って、大して気にはしていなかったのですが、幼稚園の園長先生たちの勉強会で、

「非認知能力について、松居先生の意見を伺いたい」という質問を講演前にもらい、一応調べてみたのです。去年のことです。

ネットで調べると、こんな説明が出てきました。

「非認知的能力とは、『忍耐力・社会性・感情コントロール』の3つを中心として、さまざまな要素がある。幼児期に非認知能力を高める教育を受けると、成人後もその効果が続き、社会的な成功や健全な生活につながるという研究(ノーベル経済学賞受賞のジェームズ・ヘックマン)が有名」とあります。

数字で測れない能力が大切だという趣旨で使われているようです。

分かりやすく言えば、「我慢すること、仲良くすること、カッカしたり、イライラしないこと」でしょう。昔の親がよく言っていた「人に迷惑をかけない子に育ってほしい」という願いと重なります。

私は、勉強会で言いました。

「とても大切なことです。いい人なりなさい、学力を身につけるよりもその方が安定した人生が送れますよ、ということで正論だと思います。宗教やことわざが繰り返し言い、人類が次世代に常識として伝えてきたことでもある、当たり前のことです」と言いました。

そして、付け加えました。

「非認知能力に、いま最も欠けると思われるのがアメリカのトランプ大統領です。我慢できない。感情を抑えられない、他人の気持ちを理解しようとしない、協調性がない。アメリカで競っていると気づくのですが、この非認知能力に欠ける人は競争社会で成功する確率が高い。政治家もそうですが、モラル・秩序に欠け、人を押しのけてでも勝とうとする人たちは金持ちや権力者になりやすい。でも、それで幸せになれるかというと、そうでもない」

そして、

「聖書や仏教の教えなどは、そういう人にならないように、薦めてきました。トランプ大統領のような人物を成功者と見て、アメリカン・ドリームという、夢ではなく『欲』を追求する空気が社会を覆い始めると、社会全体に非認知能力が欠けてくる。殺伐として、弱者に辛い社会になっていく。弱者の存在をないがしろにすると、あらゆる社会の仕組みから非認知能力が消えていく」

そこまで説明すると、園長先生たちも、とても、よくわかりました、と大笑い。

私は、もう一つ問題点を指摘しました。

「ただし、『非認知能力を高める教育』という言い方は危ないと思います。専門用語や横文字を使うと、自分たちにはそういう教育ができないのではないか、と親たちが思うかもしれない。そこが怖い。親たちが幼稚園に子どもたちの『人間性」を育てて欲しいと要求するようになったら、幼稚園は受けきれません。何より、それでは親たちの非認知能力が育たない。親たちの非認知能力が、子育てをしながら育つことの方が、子どもの安定と将来の幸福には重要です」

日本でこうした言葉が流行るとき、その多くに「欧米では」という前置きがあって、それが「成功する秘訣」のように語られます。「教育」と「成功」という言葉が重なり過ぎると、教育が社会から人間性を奪い始めるのです。しかし、元々これを言い出したアメリカの学者は、非認知能力が高いほど経済的に安定した健全な人生が送れる確率が高いと言っているのであって、「幸せになる秘訣」という解釈の方に近い。簡単に言えば、「いい人になれば、幸せな人生を送れる可能性が高いですよ」ということです。

ノーベル賞を受賞した学者が、こんな当たり前のことを言わざるを得ないほどに、アメリカ社会は経済主体、強者優先、個人主義が定着してしまって、社会として生きる方向性を失い、混迷を極めているということ。

(国を挙げて「Black Lives Matter」と人種差別撤廃の方向へ動いているように見えますが、その言葉を避け、ラテン系の移民を一律犯罪者のように言い、女性蔑視の言動や行動を続けてきたトランプ大統領が、いまだに四割近くの国民に支持されている。平等論や人権尊重よりも、経済優先、それどころか、格差こそが経済を動かすという論理が根付いている。それが危ない、最近の「現実」です。)

そして、この学者は幼児教育の重要性を説くのです。

それを長く受けた人間は非認知能力が高い水準で維持されるというのですが、ここに困ったトリックがもう一つある。

乳幼児期に幼稚園や保育園に長く行くと「いい人」になる、社会的に成功すると言っているように聞こえます。しかし、実はそうではなくて、それほどアメリカ(欧米)では「家庭における子育て力」が落ちてしまった、ということ。実の両親に育てられる子どもが半数を下回っていたり、近親相姦の多さなどにそれは現れています。いわば、幼稚園や保育園の方が、子どもの育ちを考えると「家庭」よりマシということ。それは、多分この学者がいう通りなのだと思いますが、実は人類にとって取り返しがつかない、とんでもない問題なのです。

非認知能力は、人間が、互いに人生を重ね合う中で、悲しみと喜びの共有から自然に生まれるものです。社会を形成するために大切な遺伝子がオンになってくるプロセスと言ってもいい。非認知能力は、悲しみと喜びを一緒に背負うことによって身につくのだと思います。

家族という運命共同体がそれを育む土壌そのもので、必須になっていた。

幼稚園や保育園で、または学校という仕組みで、子どもを良い子に育てることはできません。親が、教師や保育者を信頼し、お互いに心を一つにすれば可能かもしれませんが、そんな状況は、七十年くらい前に一度訪れ、あっと言う間に過ぎ去ってしまった。「親が子どもたちの幸せを願い、それを優先すること」と、「義務教育の普及」が、かろうじて重なった瞬間がその頃この国であった。民主主義が可能かもしれないと、思われる瞬間は、確かにあった。

いや、個々のケースで考えれば、今でも、幼稚園、保育園、学校が、子どもたちを「良い人」に育てている例はたくさんあります。担任の先生や、部活の顧問、園長先生たち、保育者、そして同級生や友だちに心から感謝です。

すみません。私が言いたいのは、制度としてそれを引き受けることはできない、人材的に無理がある、だから安易に引き受けようとしてはいけない、と言う意味です。制度として引き受けようとすると、制度を支える「家庭」が崩れていく、それによってニーズが増え人材確保が追いつかなくなる、そのことの方が致命的だと言いたいのです。

欧米を追いかける家庭崩壊がこの国でも始まっています。だからこそ、保育士や教師という仕事は大切で、やり甲斐のある仕事で、頑張ってほしい。この人たちの幸せを必死に支えなければいけない。それには、「あんたの子だろ」と、必要な時に園長が親に言える雰囲気を現場に残しておかなければいけない。

募集しても倍率が出ない、保育士の給料がすべての職種の平均より月10万円も低いなどという仕組みでは到底無理だということを、まず、最初に親たちが認識して欲しい。

丁寧に書けなくて、すみません。

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号にもう少し丁寧に書きました。ぜひ、読んでみてください。

本来、非認知能力が育つ土壌は、子どもの周りで生きている人々が心を一つにして、「可愛がる」という風景であって、子どもを拝み、楽しみながら受け継がれていくものでした。

私が以前インドで見た風景が、今でも語りかけてくるのです。

親が子どもの幸せを願い、子どもが親の願いをかなえようとする、それが世代を超えて糸車のように回っていく。

私の作ったドキュメンタリー映画からです。

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http://youtu.be/HQzmRCO_vTw

この風景を見て、貧しい村人の親子の「持参金」をめぐる発言を、無教養だから、教育を受けていないから、と言う人もいるでしょう。それは確かにそうでしょう。しかし、学問よりも深く、より単純な法則がそこにはあって、DNAの中に仕組まれた伝承の力が「子育て」を柱に、その法則をつないできた。これを忘れるとすべての制度や仕組みが人間性(非認知能力)を失っていくのだ、ということも事実です。

「いい人」とは? と言う問いかけが残ります。

キリスト教では「愛にあふれた人」と言い、仏教では「慈悲深い人」という言い方になるのでしょうか。普通の人、ふつうの親、ということです。

欧米の家庭崩壊に関しては以下のリンクを参照にしてください。

http://www.luci.jp/diary2/?p=1413 (捨てられる養子たち)

http://www.luci.jp/diary2/?p=1428 (米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊)

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf