すでに成り立たなくなっている「福祉」

 フランスのテレビ局制作のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」が、BS1「世界のドキュメンタリー」で再放送されました。https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M (いつまでアップされているかはわかりませんが、youtubeに載っています。ぜひ、ご覧ください。)
 
 英語のタイトルは「Disposable Children」。普通に訳せば、「処分できる、自由になる、自由に使える、使い捨ての」子どもたち、なのです。
 
 里親を望む「親希望の人たち」の素性調査さえ出来ない、しないNPOや団体による里親探し、養子の斡旋、ネット上の子どものやり取り、売買に近いような実態が子どもたちの体験を通して報告されます。
 
 こういう風景が日常的に受け入れられている社会がすでに存在している。私は、30年前にこういう社会派のドキュメンタリーをアメリカで次々に見て、衝撃を受け、「親心」という人間性が消えてゆくことの危険性、そして、ほとんどの人間が乳児と一定期間安定的に接することによって、乳幼児たちが社会に満ちるべき人間性を育ててきたことについて、日本で講演したり、本を書いたりし始めたのです。
 当時見たもので、印象に残っている番組の中には、10人に1人の聖職者が信者の子どもに性的な虐待をするというリポート、それだけならまだしも、その神父たち専用のリハビリセンターがアリゾナ州にあって、そこで研修すれば復帰できる、それほど聖職者不足に困っているとか、
 刑務所で、殺人犯たちに不良少年たちを更生させるたまに脅させるプロジェクト、年間10万人という誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐で、それゆえ9割が解決しない、幼稚園に子どもを入れると将来の誘拐に備えて、「指紋を登録しておきますか」という手紙を園からもらう、など、日本人にとっては、驚くような現実ばかりでした。
 
 「捨てられる養子たち」にも出てきたFASの問題を、ブログ「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」http://www.luci.jp/diary2/?p=1428、にも書きました。
 
 伝統的家庭の価値観、Traditional Family Valueという言葉が盛んに使われ、家庭崩壊と学級崩壊が社会問題になり始めた頃でした。
 
 
 市場原理、強いもの勝ち(運のいいもの勝ち)の競争社会(経済競争)の中では、弱者である子どもたちが必ず後回しにされる。しかし、後回しにされた子どもたちの多くは、数十年間その社会の一員として、負の連鎖、人間不信の歯車を回し続ける。この「親心の喪失」という歯車が回りだすと、止めることは至難の技になってくる。
 
 「Disposable Children」を見ればわかると思うのですが、問題なのは、「写真入カタログやネット上の写真を見て、簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができる」、子どもの取り引きを取り締まる法律が出来ていないことなのです。それを作ろうとする議員がいても、数十年間野放し状態という子どもの人権が後回しにされる民主主義の現状なのです。市場原理のようなものに頼らなければ弱者救済ができない、すでに成り立たなくなっている「福祉」がそこに浮き彫りになってきます。
 
 福祉に人間性の代わりはできない。モラル・秩序を社会に保つのは、司法でも警察でもなく、長い間「人間性」だったということ。そして、長い間その「人間性」を支えてきたのが、「子育て」だったということ。
 
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 日本でも「保育は成長産業」とした閣議決定の考え方の流れの中に、すでに福祉で受けきれなければ市場原理に任せればいい、という経済学者の学問的思考が見え隠れしています。(http://www.luci.jp/diary2/?p=252) 先進国で起こってしまった「子育て」をめぐる現実から、「保育は成長産業」という施策を考え直す必要がある、それをもっとマスコミが伝えてほしいと思います。
 
 世界中で起こっている保護主義への流れ、それはいわば部族主義への回帰の流れで、もう無理かもしれない、幻想のようにも思える「家族主義」への回帰とパラレルのように見えます。民衆によって「経済学者」のグローバリゼーション、自由貿易的方針が見放されようとしている時代に、方向性を見出せない日本の政治家たちは、いまだに経済学に頼ろうとしてる。保育(子育て)施策が経済施策に入れられているいま、これは危ない。
 
 子育てや教育の問題を考えるとき、文化人類学的、倫理学的(心理学的)、または宗教学的視点がもっと優先されないと、その本質が見えなくなる。
 
 グローバリゼーションがすでに終焉を迎えていることは欧米を見れば明らかなのに、いまだに小学校における「英語教育」などと呑気なことを政治家たちは言っている。英語は戦うための武器、武器を持つと戦いたくなる、道具を持つと使いたくなる、しかし、果たして経済競争に勝つことに本当の幸せがあるのか、百歩譲って、経済競争に勝つ確率はどれほどあるのか。そうしたことを次世代のために真面目に考える義務が私たちにはある。
 
 この国の文化や伝統、守ってきたものがいま一番地球規模で求められている時に、いまだに失敗した欧米の後を、教育という分野でも追おうとする。そろそろ欧米コンプレックスから卒業してほしいと思います。
 
 (アダム・スミスの国富論の対局に彼自身による「道徳感情論」があって、そのバランスで経済は成り立ってきた。しかし、欧米人は「道徳感情論」が義務教育の普及によって壊されたことを理解しない。「道徳感情論」を「子育て」と重ねることをしなかった。)
 
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 日本でも、保育園で親子を一定時間引き離さなければ子どもの命が危ない、親に子育てを任せておいたら児童虐待に進むかもしれない、だから3歳未満児であっても預かったほうがいい、と言う人たちがすでにいます。
 
 それは現象に対する対処法としては確かにそうなのですが、それで本当にいいのか。対処すればするほど壊れてしまうものがあるのではないか。そして何よりも、税で成り立つ福祉が、将来にわたってそれを受けきれるのか、ということなのです。
 
 アメリカのような、日本の経済学者が女性の社会進出という側面では後を追いたがり、「女性が輝くために、もう40万人保育園で預かります、ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」と首相が国会で言った、いかにも目標とすべき社会で、子どもたちがこれほど無残に「使い捨て」になっている、それを禁じる法律が作られていないという事実を考えてほしい。子どもを守るための法律を作ろうとすることに「経済」という歯止めがかかっている現実を知ってほしい。そうしたことをもっと日本人は直視すべき、まだこの国なら間に合うから、知っておく必要があると思うのです。
 
 
 
 ドキュメンタリーが映像で語る「毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられいる」仕組みの中で、確かに数万人の子どもたちが救われている。この仕組みがあったおかげで、より良い人生を送っているかもしれない。それもまた事実です。日本人には常識はずれに思えるこの合法的な活動が法的に規制されたら、もっと多くの子どもたちが不幸になるのかもしれない、その論法も確かに成り立つ。だからこそ、そうなる前に、もっとずっと手前のところで、幼児と過ごす時間を貴重で大切な時間、と感じる雰囲気や常識を、私たちは保ち続けなければならないと思うのです。
 
 このドキュメンタリーを見て、里親を希望する人にシングル(独身者)が多いことに驚く人もいるはずです。血のつながりを基本とした家庭という定義、イメージが現実には存在しなくなってきている。アメリカにおける誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐であるのと似ていて、無法地帯とも言っていい里親制度の底辺にあるのは、大人たちの孤独です。しかもそこに性的な欲求が絡んでいる場合が少なからずある、とドキュメンタリーは指摘します。
 
 以前、NHKのクローズアップ現代で取り上げられた中国の状況とアメリカの状況を比較してブログに書いたことがありますが、(「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」http://www.luci.jp/diary2/?p=276)、二つの国に共通しているのは、経済政策によって家庭崩壊を進めながら、家族を求める大人たちの欲望により子どもたちの人生が扱われ、翻弄されている、というアイロニーです。
 
 アメリカと中国という、絶対に真似してはいけない二つの国が、GDPでは世界の一位と二位になっているのです。だからこそ日本が三位にいることに意味があると思います。日本という国が選ぶ「子育て」の方向が、人類の歴史にいい影響を及ぼす可能性が十分にある。
 
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「捨てられる養子たち」NHKBS1
 
2017年4月20日(木)午前0時00分~
 
簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。
 
体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。
 
原題:DISPOSABLE CHILDREN
 
制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)
 
(ブログに少し詳しく書きました。)http://www.luci.jp/diary2/?p=1413
 
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 欧米と日本の違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。それが最近7割まで減っている。政府主導で減らされている。徐々に意識が弱者から離れ、それによって社会全体の安心感が崩れはじめている。保育(子育て)が経済施策(雇用労働施策)に入っているからです。だから、国の子ども・子育て会議が11時間保育を「標準」と名付けたりする。しかも、地方版「子ども・子育て会議」では、現場の意見が国の方針と違ったりすると議事録から削除されたりした。http://www.luci.jp/diary2/?p=237
 
 社会全体の安心感が崩れはじめた時、身を守る「お金」を得るために、絆を捨て始める、この流れをなんとか止めるためには、子どもたちを眺め、その人たちの私たちに向ける信頼の眼差しに感謝するしかないと思うのです。

Family Breakdown in Developed Societies

Family Breakdown in Developed Societies

by  Kazu MATSUI

 

Summary:

Child-rearing, in particular raising children in their early childhood, has as its first objective, how the human qualities of the nurturer are cultivated, and how the hearts and minds of those who are raising the children can become as one. Raising children gives rise to the morals and order of human society.

When we forget the fact that how patience, kindness and the measure of happiness of the teachers are fostered, is more important than what is learned by those who are being taught, the activities of human society starts to become distorted.

When the nurturers’ view of happiness ceases to develop on the part of the parents, this leads to abandoning the family, and compulsory education in itself becomes unviable. (Welfare can also further the problem of family breakdown, eventually making it financially unviable.)

 

Main Text:

When I was 20 years old, I lived for several months in the countryside of India, and then I moved to the United States in 1975. I asked a younger female cousin who was in the fifth grade, what sort of things she talks about with her friends at school.

She said, “There’s a lot of talk about, ‘my new father this time…,’ and ‘my new mother this time…’ ”

Has there ever been such a time as this in human history?

Some nursery teachers in Japan also got a foretaste of the breakdown of the family, characteristic of societies of developed countries that I had seen. The more cases I heard about, of what was taking place in the field, the more I realized that the “loss of parental feelings” had already started to grow in Japan as well.

 

View of Children Under a Year Old

I give talks on the title, “Why did the universe give us children under a year old?” There is meaning in the fact that a zero year old is a zero year old.

“The universe gives us human beings, children under a year old, saying, ‘You should experience inconvenience, and you should be happy.’ Without the babies taking away our freedom, and if there were no happiness in offering our freedom, humankind would have been destroyed long ago.”

In a country where education is widespread, sometimes people can be bound by the ‘word’ or concept of ‘freedom.’ In my talks, I try to explain the role of little children to parents, who, by being conscious of this concept of freedom feel ‘inconvenienced’ [the Japanese word for this, fu-jiyuu, is written with characters meaning, ‘without freedom’] and discontented.

Human beings have originally felt happy about being a little inconvenienced. This is what I call a ‘bond’ between human beings.

At times, we feel that having a bond is bothersome. Yet, originally, people feel happiness in depending on each other, trusting each other, creating bonds and becoming one in heart. If we feel that inconvenience is not good, for example, it would be difficult to marry at all. Marriage is to voluntarily choose to become ‘inconvenienced.’

When we become anxious or worried, whether there is someone who will help, or that we can confide in, is what gives us the “strength to live.” There is not one person in this world who is totally independent. Even a person who appears to be very independent had to be helpless when he or she was a baby.

To give birth to a child means to become even more inconvenienced [or, ‘without freedom’] than in marriage. The reason why we are able to be alive here today is because most of our parents felt happy to be inconvenienced by us, and felt happy to offer their freedom to raise us up.

 

The Happiness of Not Having a Choice

In raising a child, there is no choice as to what kind of child we will have, or what kind of parents we have. People have felt happy indeed by the fact that there was no choice. If there is no choice, all we can do is to raise each other up, and grow together with each other. I believe that human beings like to work out each other’s roles as if putting a puzzle together. It is as if we have this mutual, relative, developmental disorder so that we can confirm the fact that humans cannot live alone by themselves. This is particularly so, between a man and a woman. Because we are not complete, and have shortcomings, we truly need each other.

To build relationships with infants of 0 to 2 years old, is to become good at putting puzzles together. When we get to know such babies, most people, after a year, begin to realize that there is meaning in, for instance, the existence of a bedridden grandpa, and society as a whole begins to realize that without such people, the puzzle cannot be completed. Getting to know a 1 to 2-year-old baby, is like being with someone who has a developmental disorder, as well as a mental disability, in terms of behavior patterns. Most people spend an amazing and wonderful couple of years with babies, and realize that there is a role to play for people with disabilities also, and that human beings are meant to raise each other up mutually. Thus, everyone settles into their roles. However, when we stop dealing with babies, we tend to lose touch with how to put puzzles together. It is easy to compartmentalize our thinking, so that the bedridden go here, the demented go there, the disabled go here, and babies go there. Yet, social welfare is not able to supplement what is missing. It is then that human society can begin to fall into disrepair.

 

The First Smile

When a baby grows to about three months old, he or she smiles for the first time. People who see a baby laugh, feel joy. They feel happy also, realizing that they themselves are good human beings. They experience the goodness of their own human nature. And the people who watch the baby laugh together, can become one in heart.

To raise a baby is to try to understand daily, how he or she feels, which the baby cannot teach you or tell you in words. Humankind has found peace, not in understanding, but in trying to understand others.

If I am sitting alone in a park, I could be seen as a strange man. But, if I’m sitting together with a two- year-old child, it is easy to see me as a “good man.” Just by sitting next to me, the child, within the relativity of this universe, makes me a “good man.” There aren’t too many people who can do this for you. This is not the will of the two-year-old, but we see the intent of the universe here.

 

Children Bring Out One’s Goodness

Why do people have to observe children in order to live?

I’ve decided that the most complete human being in my opinion, is a four-year-old. This is because they trust completely, rely completely, and on top of it, they seem very happy! This is the ideal state of a human being that religion seeks for. If you watch children in the playground of a kindergarten or nursery, you can understand what I mean. People who look at these children and feel envious, I believe, have not yet lost sight of their life goal.

Perhaps the word ‘complete,’ is not the most appropriate. I should probably describe it as a state of a human being, or a state of mind, that we should aspire to as a goal.

Young children trust completely, depend completely, and bring out ‘good human nature,’ or the ‘goodness of man’ in different kinds of people. They come together and play, easily express their joys, and teach us that happiness is not something that we take away, or gain by winning, but they teach us that “it is how you hold the measure, the yardstick.” Children playing in a sandbox teach us adults, “You can be happy with the sand. If you can just hold a yardstick as we do, people can always become happy.” As long as human beings watch playing children, they will not lose sight of the way. They will be fine.

In the past, to look at young children, was to see Buddha, to see God, it was to look at oneself.

The ‘strength to live,’ is not to aim for the independence of the individual, but it is the strength to build ‘bonds.’ To trust in each other, and rely on each other, is the ‘strength to live.’

All you can do in raising children is to do your best, and for the rest of the time, to pray. If you have someone who will pray with you, people will be fine.

 

“Empathy” is a Gift from Children

Until not long ago, human society was quite full of parental feelings. You could say that society was full of good human nature, which was brought out by the weak and vulnerable, and with experiences in which people felt happy about being kind and generous. The great Mahatma Gandhi of India (1869-1948) advocated nonviolence, and tried to appeal to the goodness of others, by showing with dignity how weak one was, to an opponent. His approach to social reform was in accordance with the laws of a parental heart, the laws of childrearing, the laws of the universe.

The role of the wonderful environment of a nursery, or a kindergarten, is to let the children fulfill their role of “bringing out the goodness in people.” It would be good to have a parent see children playing together, repeatedly, and also play together with them. I would recommend that an adult have this experience, one person at a time. He or she can be asked, for example, to pull weeds, while being surrounded by children, or to take care of their toys. He could even enjoy a little drink …or whatever activity is possible.

I have witnessed the life of parents change by playing games like ‘Let’s Pretend’ with two-year-olds, following the policy of a nursery. I have seen, for instance, a father who was hardened by competition relax, and his face soften with an indescribable smile. When we are reminded of the yardstick of happiness that was forgotten, and realize the goodness within ourselves, parents actually feel relieved. I know of many good nurseries like this, that “nurture the parental heart.”

Currently, we are promoting a “one-day nursery staff experience.” Parents come one by one to a kindergarten or a nursery and spend the day surrounded by young children. Some cities and prefectures are now beginning to adopt this approach.

 

Spread of Compulsory Education and Breakdown of the Family

In the United States, it is reported that one out of three children are born from unwed mothers (40% in the UK, 50% in France). The burden of childrearing on women has grown abnormally, and opportunities for the father to be in contact with the children are rapidly and abruptly dwindling. Kindness and patience seem to be disappearing from society. When morals and order that were being maintained with parent-child relationships as the pillar of society begin to disappear, education, police, or the law become powerless. It is reported that 40% of the parents in the US are divorced by the time a child reaches the age of 18. Children are no longer the link between parents, as the saying goes; however, childrearing used to be the link between the parents. For a man and a woman (husband and wife), the smallest unit of a society, to raise a child is to confirm that each of them is a “good person.” This is the starting point of trusting relationships within human society.

In 1984, the American government identified the issue of children’s education as the most urgent and important task in the survival of a nation, and this was big news for about a year.

During this year, an unprecedented report in American history was made, that the average education level of the children had become lower than that of their parents. The high school graduation rate of 35 years ago in the parents’ generation, which was at 50%, had increased to 72%. This should mean, of course, that the academic ability of that generation should be greater. The concrete goal of the spread of compulsory education as a system was being achieved, but the content of the investigation unfortunately showed the opposite result. More than 20% of high school graduates could not read and write adequately enough to work in society.

Our eyes then turned to the family behind the schools. I wondered if 20% of parents in the U.S. perhaps had too little interest in the future of their children, as this illiteracy rate of 20% was found among “high school graduates.” Although education was compulsory, 28% of the children that year did not graduate from high school. When these figures are added, I wondered if it meant that nearly 40% of the parents were indifferent about their children?

When a system of education becomes widespread and established over a period of about 50 years, the parents naturally become dependent on the educational institutions to raise their children. And when time spent with children decreases greatly, the human relations between parents and children suffer and weaken. Some parents can become detached from their children. As the breakdown of the family advances, order and morals rooted in a view of happiness, that is learned through ‘childrearing,’ begins to disappear. It is impossible for new systems or concepts such as the law, welfare, school or feelings of happiness gained from power games, to replace the order or morals rooted in a view of happiness, that is learned through ‘childrearing.’

It is good for human beings to be trusted by children, to be grateful for the time they are trusted, and to live, longing for children.

When we are confused by the progress of technology or systems, we start failing to recognize that overly rapid progress atrophies human sensitivity, which is something that has been nurtured over thousands of years. I believe it is good to affirm once again, that people are born to believe in each other, by parents observing children in the nursery or educational environment.

To bear and raise a child is the most precious task that human beings have been granted by the universe. This act is to dialogue with the universe, and to experience oneself. It is a way to feel deeply one’s living self, and also a way to understand the meaning of life. People are satisfied by coming to know their own value in life.

What is even more valuable, is that the children raise up the parents. This is the course of the universe itself, and it is to substantiate oneself. It is to declare that one cannot live by himself or herself, and to show the way of real altruism. It is to heal those who have realized that, to know is to seek.

A human being’s instinct and will are what lead parents to raise a child.

We see the will and the image of the universe, in a child, raising up the parent.

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子どもが増えないと社会保障制度が安定しない?

 「子どもが増えないと、社会保障制度が安定しない」と政治家や経済学者が簡単に言うのです。「子ども」を「財源」と考えているのです。そして待機児童をなくし、保育園を増やし、「子育てしやすい」環境づくりをすれば子どもが増える、と言うのです。この安易な思考の飛躍が、子育てに関わる仕組み、保育、学校、学童、養護施設、の共倒れ現象を生み始めている。もう少し加えれば、保護司、民生委員、司法、警察、少年刑務所なども追い込まれているし、結果的には、すでに活路が見出せなくなっている老後の介護や、生活保護の維持といった問題も「子育ての社会化」に始まる家庭崩壊が明らかにその根底にある。「子育ての社会化」により、人間社会の「常識」が崩れ始める。
 子どもを「財源」と見て、「増やせばいい」と言う人たちは、子どもを育てるという幸福感が人類の進化を支えてきたことを忘れているのだと思う。「子育てが、育てる人たちを育て絆を生む」というその存在意義も、保育の質の重要性も、人間が働く動機や、生きようとする意味さえもわかっていない、考えていないと思う。
 社会保障制度を安定させるために子どもを産むなどという論法は、まさに動機の次元から本末転倒なのです。子どもを産み、育てることの幸福感が先にあって、「子育て」を中心に社会が形成されてゆく、と考えなければいけないのです。
 
 こういう経済論から生まれた意図と、やり方でたとえ子どもが増えても(増えるとは思わないのですが)、生き甲斐や、育てる喜び、親に感謝する心、家族の一体感がなければ、社会保障はますます安定しない。ただ人口が増えても、そこに育てる幸福感が同時に生まれなければ、その結果、将来の社会保障や治安維持の負担はますます増える。しばらく自転車操業が続いても、それを維持するための財源と人材は必ず枯渇してくる。もう、その兆候は充分すぎるほど出ている。
 
 一番問題なのは、「子どもが増えないと、社会保障制度が安定しない」という政治家や学者の言葉と、それが少子化対策の理由になっていることを、マスコミが疑問を挟まずに正論として報道していまうこと。
 子どもが増えても、子育てに喜びを見出せない親が増え、いい保育士が辞めていき、保育の質が落ちれば、その先にある学校教育はすぐに疲弊してくる。そして、学級崩壊はその学級にいたすべての子どもたち(親たち)の人生に影響する、ということなのです。誰が考えても当たり前のこのことが、真剣に語られていない。何もかもが、利権争いの中で動いている。競争原理、市場原理に巻き込まれようとしている。
 家族制度に勝る社会保障制度は存在しないし、社会保障制度が税収に頼っている限り、家族という動機が絶対に必要になってくる。
 そうした根源的な人間社会の成り立ちや仕組みの働きを考えないで、場当たり的に施策を進めるから、待機児童をなすそうとすれば増える、という、当たり前の流れが理解できずに、単純に「誤算」などと言うのです。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170411-00010004-nikkeisty-bus_all
 
 マスコミは、「学者」や「政治家」の考える保育施策や経済論の浅さ、危うさを指摘してほしい。ここまで状況が悪くなればわかるはず。保育現場の人に聞けば、数年前にわかったはず。
 
 乳幼児の気持ちや願いを想像しないと、人間社会をつくるどんな仕組みも成り立たないということなのです。
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http://www.luci.jp/diary2/?p=252
 
「閣議決定」と公正取引委員会の介入/広い園庭(園長は考える)/K市保育連盟からの手紙/」

夜間保育が広がらない背景

「夜間保育が広がらない背景?」

毎日新聞4.1夕刊。夜間保育特集。夜間保育が広がらない背景に「夜に子供を預けて働くことに対してまだ社会全体で抵抗感があり」と夜間保育園連盟会長。

「抵抗感がなくなること」ことこそが怖いのです。保育園をビジネスにしようとする人たちは、人間は、特に母親は、乳児を知らない人に手渡すことに躊躇する、という人間性の本質とぶつかることになる。女性の社会進出とか平等という言葉を使って、それが正しい流れ、意識改革のように言うのですが、そこに確かに「人間性」との闘いがある。

本当の意味での「男女共同参画社会」の原点は「家庭」であって、それは「子育て」を中心に育まれるモラル・秩序の原点でもありました。その「原点」が先進国でいま揺らいでいる。(「捨てられる養子たち」http://www.luci.jp/diary2/?p=2063)子を産み、子を育てるという面では世界的に見てもしっかりやってきた日本も、男女共同参画「競争」社会という理念によって、少しずつ、土台から壊されようとしている。

男女共同参画は、本来、性的役割分担によって生まれる調和だったはず。人類が存続するために最低限必要な男女共同参画、「子をつくること」「子を育てること」は、多くの人が性的役割分担に幸せと安心を感じることで成り立ってきた。生物が雌雄を得た時から始まったジェンダーという取り決めは、宇宙(神?)から与えられた「役割分担の薦め」だったはず。

欧米の現状を見れば、男女共同参画「経済競争」社会を無理に進めるによって、結果的に家庭崩壊による格差が広がり、平等とは逆の方向へ社会が向かうのはすでにわかるはず。子育てという人間性の中心が揺らいで、反作用のように始まった強者優先の差別主義的社会への回帰は、すでに欧米で危険な領域に入っています。平等という理念が都合のいい絵空事だったことは、去年の米国大統領選を見れば明らかだと思います。平等という概念は、経済競争への参加者、ネズミ講のネズミを増やす役割さえ終えれば、相手にされなくなる。その先に、本来の強者に都合のいい仕組みが見えてくる。

日本は、夜間子どもを預けることに「抵抗感」を持つ国であってほしい、と思います。

冒頭の発言にある、「社会全体で抵抗感」は人類が持つ抵抗感、人類が人類であるがゆえの抵抗感なのです。

 以前、国が薦める子どもショートステイについて書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=1150

 「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」杉並区のチラシです。

預け先の乳児院や児童養護施設なども質が疑問視されているのが現状です。職員の待遇改善が置き去りにされたまま、子どもを「負担」と考える、親に成りきらない親たちによる児童虐待が増え、負担は増すばかりです。それに加えて、冠婚葬祭でもOKのショートステイ。

何よりも、「幼児たちの気持ち」がこうした施策を薦める要素には入っていない。だから、いい指導員たちが精神的にも、肉体的にも、疲れ果てて辞めて行くのです。

保育を市場原理にまかせ、保育を成長産業としてとらえようという、国の方針が、とんでもない意識改革を進めています。それが、この夜間保育園連盟会長の発言になって現れています。

一生に一度も結婚しない男性が3割に迫るといいます。男女共同参画経済「競争」社会を進めることで、本当の男女共同参画社会が壊れてゆく。もういい加減に気づいてほしいと思います。本当の男女共同参画社会がなければ、福祉も学校も維持できない。

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こんなツイートがありました。

『「親との愛着」これが大切なことは言うまでもないですが、なぜ「愛着は親でなくとも問題はない」という意見になるのか分かりません。一番大切な0歳児~2歳。子どもは大好きな親や家族を見、言葉を覚え、自分という存在が分かってくる時期。乳飲み子だった赤ちゃんが1歳半には、歩いて話し出します。』

「愛着は親でなくとも問題はない」と言う時の、「問題」の定義、その次元、それをどのくらい俯瞰的にそれを見るかが曖昧なまま議論や施策が進んでいるのです。子どもの人生、育ちを考えれば、出会う人間との相性や運が良ければ「問題」ないのかもしれない。しかし、親子の愛着、絆が基本になる「家庭」が人間社会の土台であることは重要なのだと思います。

子を産んだ親が、つまり出発点にそこに居た人が、親子、血のつながりという特別な概念や常識(思い込み)に後押しされて、絆と安心感を双方向に育ててゆく。そのプロセスこそが幸せや自己肯定感につながってゆく。それで長い間やってきたのです。

人間が哺乳類である限り、必要最低限の営みであった「子育て」が「愛着は親でなくとも問題はない」などという言葉で薄れていったらどうなるか。もうわかっているのだから、親子を引き離すことを目的にした施策は止めてほしい、と思います。

201509291028000

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「捨てられる養子たち」NHKBS1,(再放送されます!)

以前、このブログにも書いたフランスのテレビ局制作のドキュメンタリー、「捨てられる養子たち」が再放送されます。NHKBS1,(2017年4月20日(木)午前0時00分~)

 日本でも、福祉と市場原理が一体になりはじめています。その先に見える風景がすでに欧米で様々な形で起こっている。一つの例としてぜひ、ぜひ見てほしい番組です。(録画して何度も見ていただきたい。)その根底にあるのはやはり家庭崩壊。子育ての社会化がその出発点にある。それについては以前ブログに少し詳しく書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=1413

 家庭崩壊や犯罪率という面では、日本はまだアメリカの50年位前の状況だと思います。それよりもっと良いかもしれない。これほど安心して子育てができる国はない。しかし、このまま進めば、いつか似たような風景が当たり前になる日が来てしまう。それが最近見え始めている。

 アメリカに住んで、こういう状況がすでに始まっているのを30年前に、同じようなドキュメンタリーや報道で見て、驚き、それを日本に伝えなければいけない、と私も本を書いたり講演を始めたりしたのです。すると、その頃すでに「その通りです。幼児を預かることはよほど注意して、躊躇してやらないと」と激しく同意してくれたのが、保育園の園長先生たちだった。守り神のような人たちだったのです。その人たちの感性や主張が、「そういう時代ではないんだ」という言葉で否定され始めている。でも、その先にある可能性として、こういう現実は見ておかなければならない。人間社会の「じゅうぶん、あり得る姿」として。

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「捨てられる養子たち」NHKBS1

2017年4月20日(木)午前0時00分~

簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

原題:DISPOSABLE CHILDREN

制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)

(以前ブログにもう少し詳しく書きました。ぜひ、読んでみてください。)

http://www.luci.jp/diary2/?p=1413

「0歳児保育、行政負担が1人56万円/月も! 「待機児童ゼロ」困難にする事情とは」

最近の報道です。

「0歳児保育、行政負担が1人56万円/月も! 「待機児童ゼロ」困難にする事情とは」
https://headlines.yahoo.co.jp/article…

 『今年も定員超過で認可保育所への入所を断られた待機児童が多数、生まれています。2013年4月、安倍晋三首相は17年度末までに「待機児童ゼロを目指します」と明言しました。期限まで1年を切りましたが、達成は困難な状況です。13~17年度の5カ年で約50万人分を拡充するなど政府も手は打っています。ただ待機児童は13年(4月1日時点=以下同)2万2741人から16年2万3553人へと逆に増えています。

 誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと。受け入れ人数の拡大が「子どもを預けて働きたい」という潜在需要を掘り起こす構図が続いています。政府は6月に新たな保育所拡充計画を立てます。待機児童ゼロの目標達成も新計画に持ち越される見通しです。ただその実現も簡単ではありません。保育士不足が続いているからです。17年2月時点の保育士の有効求人倍率は2.66倍に上り、慢性的な採用難に陥っています。必要な保育士を確保できず保育所の整備計画を見直す事業者も出ています。・・・・・・』

 

子どもは親を比較しない。まず、受け入れる。そこに人間社会の信頼関係の出発点があって、永遠に続く原点がある。
だからこそ乳児を見つめ、親は、まずその信頼に応えようとする、という流れが社会に常識としてなければ人間社会は安定的に機能しない。全員そうであることが不可能だから、「常識」という意識が大切になってくる。子育て、という常識。

 

政府や経済学者は、三歳児神話という常識が崩れないから、意図的に崩そうとしている。なぜ崩そうとするのか、なぜ母親を乳幼児から引き離したいのか、そこを真剣に考える時期に来ている。
保育は成長産業と位置付けた閣議決定、11時間保育を標準と名付けた「子ども・子育て会議」、すべてがいま大人の都合で動いている。保育施策は確かに雇用労働施策で、経済論の一部だったのだが、それがあまりにも浅い。家族や家庭が人間の生きる原動力になっていること、そして学校教育が成り立つことが経済論を支える重要な要素だということさえわかっていない。保育施策と言いながら、保育士の気持ちや幼児の気持ちを考えない経済論だったから、3年で破綻しようとしている。保育の質が急速に低下し、小一プロブレムはますますひどくなっている。

「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと。」とこの記事は書いている。
始まって2年で破綻が見えるような計画、計算は、「誤算」ではない。単純に、保育が「子育て」だという本質がわかっていないのか、現場の言うことに一切耳を傾けなかっただけ。マスコミは、そこまで書いて欲しい。

保育士の心を持っている人が集まらないと 、保育園は運営できない。託児所ならいいかもしれないが、それでは、その先にある学校教育が持たない。幼児期の育ち方は、親がその時期にどう育つかも含め、人間社会のあり方を左右する。いわば、モラル・秩序の原点だった。
保育士の心は、子どもの幸せを願うこと。その幸せを優先して考えること。そして、子どもを真剣に見つめることから、いい保育士たちは、子どもの幸せが親との関係にあること、親心がどう育っているか、だと気付いている。

いま真剣に、いい保育士が辞めて行くという現象に対応しないと、本当に取り返しのつかないことになってしまう。

幸福度1位と51位(国連のものさし、この国のものさし)

幸福度1位と51位(国連のものさし、この国のものさし)
 
 国連の発表で、日本は幸福度が世界で51位だという。こんな馬鹿げた順位、報道すること自体馬鹿げている、と思いますが、新聞は一面で報道します。報道を真に受けて向かう方向が、この国が大切な個性を失い、特に幸福に関する西洋とは違う独特のものさしを失う方向のように思えるので、余計腹が立つのです。
 安心して子育てができる、いい国だったのに、と思うのです。
 生前アインシュタインが来日した時、「日本では、自然と人間は一体化しているように見える」と言って感激したという記録が残っています。当時、先進国の中では、調和が際立って美しかった国が、欧米流の競争社会と個人主義の幸福論で崩れてゆく。欧米社会のモノサシが本当にいいのか、国連の言う幸福度が高い国の人々が、本当に幸せなのか、真面目に見極める時期だと思います。
 テロ、人種の軋轢、犯罪率、排他的差別主義の復興、決して日本より安全でも平和でもない、むしろ混迷の方向に向かっている欧米の現状を見ていると、欧米コンプレックスはいい加減に捨て、私たちが大切にしてきた価値観を再確認してみる必要があると思うのです。
 
 順位が1位になっているノルウェーには徴兵制と兵役があります。そのことだけでもマスコミは同時に報道すべきだと思います。そうすれば、みんな一瞬「えっ!」と思うはず。順位をつけた人たちのモノサシにふと疑いをいだくはず。
 人生の14ヶ月を兵役で国に拘束され、銃を持ち兵士としての訓練を受ける。その種類の兵役が嫌な人には別の方法が用意されていますが、だいたい期間が延びる仕掛けです。
 徴兵に幸せを感じる人も少しはいるでしょう。でも、宮沢賢治や良寛さま、マザー・テレサやガンジー、幸福の求め方、その測り方を真剣に追求し、非暴力や平和、人々の調和に幸せがあると見極めた人たちは、「徴兵制と兵役」には顔をしかめるはずです。
 
 徴兵制や兵役があることで、社会秩序が保てると言う人もいます。確かに一体感が育ち、礼儀を身につける効果はある気がします。でも、ノルウェーでは、女性がレイプにあう確率が日本の20倍。殺人事件の被害者になる確率が2倍、泥棒に入られる確率が4倍。兵役で保てる社会秩序以上のモラル・秩序の崩壊が並行して進んでいる。犯罪率が高いということは、加害者も被害者も、不幸になる人がそれだけ多いということだと思います。
 どこの学者が創り出したか知りませんが、こんな奇妙な偏ったモノサシは無視していればいい。私も、そうしたい。しかし、発表したのが「国連」です。だから日本でも全国紙の一面で報道されました。一番問題なのは、その基準を誰も批判しないことなのです。
 
 一体、どうなっているのでしょう。やはり、考え込んでしまいます。

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 幸福度は、もっと身近な体験で測られるべきものだと思います。
 我が子の生まれて初めての笑顔を見た瞬間や、一緒に手をつないで散歩をしたり、肩車をしたり、子どもが運動会で頑張ったり、受験に受かったり、普通は、そういう瞬間に測るもの。それを数えられないなら、その機会が多い、家族や家庭という形がよりしっかり残っている国が評価されるべきだと、私は思います。それは種の存続に関わる、「進化につながる幸福感」と言ってもいいでしょう。
 親が、自分が生みだした奇跡とも言える「命」を守り、その成長を楽しみ、祖父母が孫を眺め、子どもが親や祖父母に感謝する、という「進化につながる幸福感」の源を感じる人が、比率で言えば、日本の何倍も少ない国がなぜ、なぜ日本より幸福度の高い国になるのでしょう。ノルウェーという、家庭崩壊が日本の何倍にも進んだ国では、父親が子どもを、祖父母が孫を体験する機会が急速に、また不自然に減ってきている。あくまで、確率の比較ですが。
 
 13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっている。
 傷害事件やドラッグの汚染率がこれほど高いということは、不幸な若者が多いということだと推測します。
 どこかで、幸福に関する定義が完全にずれています。しかも、そこに作為があると思います。競争に参加したいないと不幸なんだ、という誘導がある。国連は実はパワゲームやマネーゲームの巣窟なのかもしれない、と思うことがあります。 この幸福の測り方の「ずれ」が人類全体を危険な方向に引っ張っているのを感じます。
(デンマークについては以前、ブログ、http://www.luci.jp/diary2/?p=976 に少し詳しく書きました。)
 
(国連がパワゲームやマネーゲームの巣窟かもしれない、という感覚は、あそこで働いたことのある人は理解できるはず。開発途上国の小さな村から、先進国のウォールストリートまで、あらゆる種類の階級制度と闘争を目の当たりにできる仕組みです。「平等」を基軸に作られたように思える特殊な職員の構成制度によって、格差とそれに誘発される生々しい闘争を視覚的にも肌触りとしても見せてくれる世界で唯一の場所かもしれない。幸福観のずれをパワゲームで統一しようとしている、人類の選択肢を減らしてしまった大きな流れを感じます。)
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 仏教でも、キリスト教でも、欲を持たない人は幸せになりやすいと言います。そういう人が多いことが、社会全体の幸福度を保っていたのです。
 欧米社会が幸福観の柱にしてきた「聖書」も、子どもの心を持てば天国に近づく、と言います。私は、こうした聖書の教えや、仏教の易行道(いぎょうどう)について考えていて、「頼り切って、信じ切って、幸せそう」な4歳児を一番完成している人間とひとまず決めました。幸福に関する「ずれ」を修復するために、一番簡単に幸せになれる人たちを眺め、その人たちの横に座り、その人たちと心を合わせることを目標にすべきだと決めました。
 学校教育はとても最近のそれこそ未知の仕組みで、それ以前、人間は幼児を育てることで自らの人間性に気づき、そこに隠された幸せの可能性に導かれていた。
 幼児を拝み、その幸せを眺めることで人間は幸せになる。その歯車を体験的に知ることは、自分が幸せになれる可能性の広さと大きさを確認すること。その繰り返しが進化を支える術として遺伝子に組み込まれていることを知り、人間は自分に納得するのでしょう。
 
 日本は欧米に比べ、家族という形がまだ強く残っている国です。子どもの幸せを自分の幸せと感じことができる国。地震があっても略奪が起きない、徴兵制度もないこ素晴らしい国に、なぜもっと自信を持たないのか、と思います。
 新聞の一面で報道される、異国、異文化、異次元の「順位」を眺めながら、その次元で「順位」を考えること自体に不幸がある気がしてならない。権力争いや利権争いの基準に取り込まれてはならない、と思うのです。
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 アメリカにギャラップ社という調査会社があります。有名な老舗の、数字を示すことで生き抜いてきた調査会社です。
 そこの、幸福度調査では、17年度、一位がフィジーで、二位が中国とフィリピンです。(ちなみに去年は、一位コロンビア、二位フィジーとサウジアラビア)
 フィジーは少し興味がありますが、中国は長く住んでみたい国ではありません。子育て、ということから言えばフィリピンの治安にも問題あり。ミンダナオ付近にはまだ自動小銃を持ったゲリラがいる国です。
 でも、こちらの調査結果の方が作為的な感じがしない分、信頼できそう。分母の問題はありますが、ある種の質問をぶつけるとこうなる、ということは考えてみる価値あり、です。文化や伝統の異なる国で、「幸福度」を比較することは馬鹿げている、というのがギャラップ社の数字から引き出せる結論かもしれません。こういう調査はたしかに意味があります。
 (学者のやる調査の多くに意図的な誘導や作為がある。そして言語を超えた調査にはあまり意味がない、という文章を以前ブログに書いたことがあります。http://www.luci.jp/diary2/?p=2004 大学で教えている授業などは、モノサシのぶつけ合い、調査無法地帯のぶつかりあいと言いたいくらいで、そういう学問から、国の保育ニーズ調査にも載せられていた厚労省の「子どものショートステイ」(http://www.luci.jp/diary2/?p=1150)や、待機児童という言葉が生まれている。)

インドとアメリカ・様々なものさしと、学者の調査

40年前、インドで一年間暮らしたときは、様ざまなことを学びました。

インドには巨大なゴキブリがいて、日本から持って行った私の浴衣を食べました。近所のお茶屋さんに相談に行きました。ゴキブリ退治の道具を買いに行ったつもりでした。

そのお茶屋さんが、「ゴキブリに餌をやっているかい?」と私に聞きました。「パンの端っくれでも置いておけば、着物はたべないよ」と言うのです。

こういう答えは新鮮でした。ものさしを変えれば答えは一つではない、そのときどのものさしを選ぶかが人間の生き方なのです。

 

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そのお茶屋さんに三人の息子がいました。五歳、七歳、一〇歳、くらいだったと思います。上の二人はいつも父親を手伝って働いていました。でも、一番下の子は、いつもランプの光をじっと眺めて布にくるまって座っていました。ある日、主人が私に相談しました。この一番下の息子は変わっている、みんなで相談して「学校」に行かせてみようかと思う、少し支援してくれないか、と言うのです。

学校は変人が行くところ、と気づいたのははじめてでした。私の中で、学校に対するイメージが変わりました。何かが見え始めたのです。

こういう人間と学校の関係にかかわる話は、昔、学校が普及し始めたころ、どこにでもあったようです。

ローラ・インガルス・ワイルダー(一八六七~一九五七)の書いた『農場の少年』という本があります。ワイルダーは「大草原の小さな家」シリーズで有名です。『農場の少年』もこのシリーズ中の一作ですが、労働と子育ての関係、という視点で読むと勉強になります。「大草原の小さな家」シリーズは、ローラが若くして教師になったこともあり、義務教育が普及し始めた当時の家庭と学校の関係を知るのに参考になる本です。

『農場の少年』の中に、村に新しい先生が赴任してくる話があります。教会を借りた教室で、一人の先生が年齢の異なる子どもたちを教えている開拓時代の学校です。新しい先生が赴任してくると、その先生を年長の子どもたちが殴ったり蹴ったりして追い出そうとする、それを親が奨励する、と書いてあるのです。これは乱暴な話だな、と読み進めると、前にいた先生も殴ったり蹴ったりして追い出され、それが元で死んだ、と書いてあります。児童文学には、時として生々しい現実が顔を出します。いい児童文学は子どもを子ども扱いしませんし、子どもだましでもありません。

私はこの話に、学校教育の普及と家庭崩壊の関係を本能的に見抜いていた人たちを感じます。学校は子どもたちに役に立たないことを教え、家庭から労働力を奪う。抵抗する理由はそこにあります。家族がお互いを必要として生きている形を壊すのです。これに似た話は、日本の『橋のない川』(住井すゑ、一九〇二~一九九七)という小説にも出てきます。

 

いま、アメリカで、三人に一人の子どもが未婚の母から生まれる。女性の負担は異常に大きくなり、幼児と接する機会を持たない父親に親心が育たない。優しさと忍耐力が社会から消えていきます。親子関係が柱になって保たれていたモラルと秩序が消え始めると、教育や、警察力や司法の力ではどうにもなりません。子どもが十八歳になるまでに四〇%の親が離婚するのですから、未婚の母から生まれた子どもを足せば、血のつながっている実の両親に育てられる子どもの方が少数です。

以前、父親を尊敬しない日本の子ども、という自虐的な統計があって、アメリカの子どもは日本の子どもより父親を尊敬している、という数字が出ていました。これはたぶん「父親のいる子」に質問した結果なのです。対象を父親のいない子まで広げれば実態が見えてきます。質問に「実の父親を尊敬しているか」という条件を加え、無作為に選ばれたアメリカの子どもたちに質問すれば、数字はまったく違ってくるのです。「一緒に住んでいる実の父親」とさらに条件を加えれば欧米の数字は惨憺たるものになります。「一緒に住んでいる」ことの大切さを考慮せずに「父親に対する尊敬」を比べ合うのであれば、それこそ問題です。

(尊敬という言葉をどういう英単語に置き換えるか、でも数字の意味はずいぶん違ってきます。「リスペクト」つまり、そこに居ることを認める、という意味で使われることが多い単語では、日本人の使う尊敬とは意味が違う。日本人の使う尊敬は、「アドマイヤー」に近い。)

親心だけでなく「祖父母心」も存在感を失い、家族という定義が色あせています。自分の孫の存在を知らない、一度も会ったことのない祖父母がどれだけいるか。アメリカで生まれる子どもの二〇人に一人が一生に一度は刑務所・留置所に入るといいます。検挙率が三割に満たないのですから、全員捕まえていたら、たぶん七人に一人は入る。五人に一人の少女、七人に一人の少年が近親相姦の犠牲者といいます。親心という常識が消えると、本来幸せにつながるはずだった人間の愛が、歪んだ形で子どもたちを襲います。

「夢を追うためには仕方がない」ということでしょうか。「アメリカンドリーム」が、夢を持つことではなく欲を持つことであることは想像がつきました。教育の中で、夢を(欲を)抱くことがいかに危険であるかを語る人はいませんでした。やがて、闘いの中で絆を信じることができなくなった男女が、それぞれの夢(欲)を追って経済的安心を求め、自立を目指す。自立は孤立を生みます。社会に蔓延する疑心暗鬼が人生に対する疑いにつながります。子育てが負担となり、自立したい女性を苦しめ、福祉で補おうとするほど親心の喪失が加速します。

ベトナム戦争の終結とともに、児童虐待、女性虐待が一気に増えていきました。子育てが親の手からシステムの手に移ると、社会に優しさと忍耐力がなくなってゆくのです。それが加速してゆく。三〇年前、私が最初の本を書いた当時、毎年六〇万人の子どもが親による虐待で重傷を負い病院に担ぎ込まれていました。それでも経済大国を維持するために、政府は「アメリカンドリーム」を教育の柱に据え競争を煽ったのです。

インドとアメリカ、二〇代に体験し深層を見たこの二つの国の真ん中に、私が見ている現在の日本があります。人類にとって大切な選択肢を考えぬくときです。

SEE YOU THERE・蘇る瞬間

一通のメールがカナダから来ました。30年くらい前に作った私のアルバムを繰り返し聞いている、でもどうしても詩でわからない箇所があって教えてほしい、というものでした。

Jeff Day という友人が私のアルバムのために書き下ろした曲でした。背景にうっすらと転生がテーマに聴こえる優しく深い詩でした。ずっと以前作ったものが、まだ音楽という形で生きているのを感じるのは、懐かしく嬉しいものです。過去と現在と未来が、つながっている感じがします。

 

SEE YOU THERE

SEE YOU THERE

WHEN THE NORTH WIND SARTS TO BLOWIN

I WILL SEE YOU THERE

SEE YOU THERE

WHERE THE COOL SPRINGS KEEP ON FLOWIN

I WILL SEE YOU THERE

BREATHE THE AIR

OF A PEACEFUL SUN-DRIED LAND

THAT RAINCLOUDS FILLED WITH CARE

WARM AND FAIR

YOU WILL LIGHT THE HOLLOW

DARKNESS IN ME

AND AS WE LAY FIGHT AT THE BREAK OF DAY

AND FACE THE RISING SUN

WELL LET IT PASS, AND LET OUR BODIES CAST

TWO SHADOWS FORMING ONE-ONE

SEE YOU THERE, ABOVE ALL HURT

AND SORROW

AND ALL LIFE’S DESPAIR

SEE YOU THERE, SO HIGH YOU’LL LEARN TO FLY

AND ALL THE SKY

WE’LL SHARE

AND AS WE STAND, AND LOOK ACROSS THE LAND

AND FACE THE DYING SUN

WE’LL TAKE OUR VOWS AND ALL THAT TIME ALLOWS

AND LIVE OUR LIVES AS ONE

PLEASE BE THERE, THERE’S A SOLAR LIGHT TO GUIDE YOU

I WILL NEED YOU THERE, I’D BE SO LOST WITHOUT YOU

WANNA SEE YOU THERE

WHEN THE HEAVENS CALM THE WIND

I WILL SEE YOU THERE AGAIN I KNOW

LIKE A SHIP OUT ON THE BLUE

I’LL BE COMING BACK TO YOU I KNOW

AS I CROSS THE LONELY SEA

YOU’LL BE WAITING PATIENTLY I KNOW

主任さんの涙

5、6年前に保育雑誌「げんき」の連載に書いた文章です。

役場に頼まれ、老舗の幼稚園を認定子ども園に移行させた園長先生と隣の小学校の教頭先生と三人で、新しい、未満児用の保育室で話をしていたのです。園長先生は、長年幼稚園で先生をやっていた保育士資格を持っている主任さんに乳幼児保育を任せたのですが、素晴らしい人だというので、呼んでもらったのです。

 

主任さんの涙

私は、その日、目の前にいる主任さんに尋ねました。「学生時代、何園に実習に行きましたか?」

「二〇年前になりますが、六園行きました」

「そのうち何園で保育士による園児の虐待を見ましたか?」

一緒にいた園長先生と教頭先生が驚いて私を見ました。

しばらく黙っていた主任さんの目に涙があふれました。私を見つめ、はっきりと言いました。「六園です……」

沈黙が流れました。

「二〇年間、誰にも言いませんでした」

主任さんは私の目を見つづけます。「あの実習で、私は保育士になるのをやめたんです。本当は保育園で働きたかったんです。私は保育園の先生になりたかったんです。でも、免状を取り直して幼稚園の先生になったんです」

二〇年間、苦しかったろうな、と思いました。

このしっかり者の母性豊かなやさしい心の主任さんは、長い間ずーっと、どこかであの風景が毎日続いていることを知っていた。

「実習のレポートに少し書いたんです。園長先生から、こういうことは書かないでほしい、と言われて、消したんです」

主任さんの声は、幼児たちの叫びでもありました。それを知らなかった親の悲しみでもありました。

「あのとき、私は、自分の子どもは絶対に保育園には預けない、と決めたんです」保母さんの目の中で何かが燃えました。

二十三年間、私の同志の多くは保育者と園長先生でした。この話題になると同志の顔が暗くなるのを私は知っています。私がこの問題に関して調べ、質問した大学や専門学校の保育科の学生の半数が、実習先の現場で「親に見せられない光景」を目にする。

これは、保育園に通う日本の子どもたちの半数が、そういう光景を目にする、ということでもあります。

子どもたちに与える心理的影響を考えると、恐ろしくなります。幼児期に、脳裏に大人に対する不信が植えつけられる可能性は十分にあるのです。

卒業生からの伝達で、「あの園に実習に行くと、保育士になる気がしなくなるよ」という園があります(同様の話を介護施設に実習に行った福祉科の学生からも聞きます)。

「ほかの実習生が、一週間の実習で同じことを始めるんです」と涙ぐむ学生もいました。「卒業すれば資格がもらえるんではだめです。国家試験にしてください」そう訴える学生がいました。

私はそれを幼児たちからのメッセージとして受け止めました。

〇、一、二歳の乳幼児を、親が知らない人に違和感なく預けられるようになったとき、人間は大切な一線を越えてしまったのかもしれない、と時々不安になります。絆の始まりは、親が絶対的弱者である自分の子どもを命がけで守ることだったのではないのか……。

「親に見せられない光景」を園からなくすためにも、一日保育士体験を早く進めなければなりません。保育士を見張るのではなく、親と保育士の信頼関係が子どもを守るのだということを信じて。

保育の現場に親身さや優しさがなくなって、保育=子育てという図式が、保育=仕事という方向へ動き、大学や専門学校の保育科を志望する学生が減っています。待機児童をなくせ、というかけ声のもと、政府が積極的に保育科を増やそうとしていた矢先、幼稚園・保育園に通っていたころ、保育園の先生になりたいと夢や憧れを抱いていた子どもたちが、その夢を捨て始めているのです。

短大の保育科で八年教えたことがあります。保育科にくる学生は選ばれた人たちでした。お金持ちになりたいという人はまずいません。高校時代に人生を見つめ、子どもたちと過ごす日々の中に、自分を幸せにしてくれる何かがあるに違いないと考えた人です。親心の幸福論に直感的に気づいた人です。その選ばれた人たちが、幸せになる夢を捨て始めています。

保育科の乱立から、教える内容と教師の質も落ちています。保育科が専門学校化してくると、就職先のニーズに応えようとします。そしてそのニーズがばらばらなのです。

保育士の資質は、子どもの幸せをいかに強く願うか。そして、保育士は経験から、子どもたちの幸せは親子関係にある、と知っています。この二点が保育の柱です。

この柱を社会全体でぐらぐらと揺らしているのです。

子どもの幸せを第一に考えるのなら、保育園を閉め、抗議しなければいけない時期が近づいています。