「未就学児の施設入所を原則停止」についてのやりとり。

(私のメール)

お元気ですか?

いつも、突然ですみません。質問があります。

ブログ、http://www.luci.jp/diary2/?p=2363 に「未就学児の施設入所を原則停止」を書きました。(児童養護施設、乳児院への施設入所原則停止です。)この原則停止を「家庭的養育」への一歩という、それは責任逃れで、実は人材的にも財政的にも一番の弱者、家庭を失った幼児たちを、多くの人たちが知らないうちに、切り捨てるということ。「家庭的養育」の第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた経済優先施策を変えることです、

という内容です。

元になっているのは、毎日新聞の報道です。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

ーーーーーーーーーー

こんなこと可能なのでしょうか。福祉の残酷さの象徴のような気がします。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいい。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。たとえ育ったとしても、里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする、子どもを商品やペットのようにあつかう身勝手な社会です。

(「捨てられる養子たち」https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M ぜひ見てください。)

ご意見を聞かせてください。

お願いします。

松居

 

(返事)

メールありがとうございます。

和さんの一語一語に、思わずウンうんと頷きながら、もうひとりのわたくしは、国の政策に加担している一人なのかと思うと愕然とした失望感を否めません。

先日も幹部の職員と新年度予算の子育て政策について話し合いの際、それは子育て支援ならぬ、子育て放棄支援策です、と発言してしまいました。(低年齢児の預りも、病児保育も)

(施設入所について)

虐待やネグレストによって保護された児童は、養護できる安全な環境と安心できる大人の環境において、慈しみ愛されることを享受できるようにしなくてはなりません。

「家庭的」とはなんでしょうか。

国の稚拙で短絡的な考えの中には、ただ建物が屋根がある家屋でみることが家庭的と思っているようにしか見えません。

このまま進めば、里親法の悪用も邁進するでしょう。

要保護児童の対応にあたる度に思うのは、悪知恵の働く大人は目に見える虐待はしません。アザもなく傷害を負わなければ、児相も警察も動きません。

大切なのは、心の中で出血し、傷付き、心が死んでしまうことです。

そこに気付くケースワーカーも保育士も保健師もそこにはいません。

「家庭的」という偽善なカーテンの向こうにあるものを政治家が、行政が、親たちが、心の眼を見開いて見なければなりません。

(どうか、傷付いたこども達よ、目に見えるアザがなくても、心から叫んでほしい。愛情がない生活をしていると…。ぼくは、わたしは、もっと愛されていい存在なのだ!と)

(次の厚労省のやり方について)

これまで病児保育について、推進してきた国の政策は、おそろしい一手に出ました。

医療的支援が必要な児童を預るモデル保育施設を募りはじめたのです。

県から通知がきました。

補助金は年間約700万円。現在の病児保育のうち体調不良型保育をやった場合の約2倍で手を打とうというもの。

そもそも人口呼吸器を必要とする児童を預かってはいけない。

命を預けるということ、命を預かるということを軽んじ過ぎています。

国がこどもの命を考えないで、なにが住みやすい国だと公言できるのでしょうか。

徒然なるままに、書いてしまいました。

この続きはまた

きょうも諦めずに、これから戦場へ行ってまいります。

こども達が笑顔になるために

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(私の返信)

ありがとうございます。

そうですよね。
施策の進む方向が根本から間違っているから、ますます現場が追い込まれる。
でも、福祉として行う里親制度は「行き止まり」で、それ以上逃げるところがない。だからこそ、最後の手段でなければいけない。
政府が、子育て放棄支援策を経済優先(長い目で見て、本当にこれで経済が良くなるとは思わないですが)で家庭崩壊を進めておきながら、行き詰まると「あとは家庭的に」というのは無責任。施設入所を余儀なくされた未就学の子どもたちは、自分で自分を守れない上に、守ってくれる家族がいない。こうした一番の弱者に、いきなり「施設入所原則停止」と国が決めて、誰も表立って反対しない。そういうことが起こっていることさえ多くの人たちが知らない。
マスコミ、政治家、学者が怠慢なのです。
熱い言葉、ありがとうございます。
頑張ってください。
松居

未就学児の施設入所を原則停止・政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになる。

 以前この連載に、国が薦める「子どもショートステイ」について書きました。(http://www.luci.jp/diary2/?p=1150)

 「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」と杉並区のチラシにありました。

育児疲れ、冠婚葬祭でも二歳未満児を知らない人に一泊五千円で預けることを「OK」と若い親たちに行政がチラシで薦める、この国の政府は一体何を考えているのだろうか。それほど自信のある仕組みを用意しているのか。福祉という名の下、仕組みで人間性を壊そうとしているのではないか、幼稚園を通して配られていたチラシを手に唖然としたことを覚えています。

当時、すでに受け入れ先の乳児院や児童養護施設自体の質が問題視されていたのです。職員の待遇改善や資格の問題などが置き去りにされ、施設の負担は増すばかり。同時に、子どもを「負担」と考える、親に成りきらない親たちによる児童虐待が増えていました。

通常の認可保育園なら一週間かけて行われる「慣らし保育」も経ず、そこで様々な不幸な状況下で育つ子どもたちに囲まれ、親に連れられ、区に勧められ、幼児が宿泊する。その時過ごす時間は、ひょっとして乳幼児期の育ちや発達に、(将来の学校教育や治安維持に)、誰も気づかないところで負の影響を及ぼすかもしれない。それは誰にも予知できないし、照明もできない。だからこそ、崩してはいけない「意識」がある。

「幼児たちの気持ち」への想像力、配慮が、子育てにおける利便性を煽る政府の施策の考慮すべき要素に入っていない。だから、保育園、乳児院、児童養護施設、学童など子育てに関わる様々な現場で、いい指導員たちが精神的にも、肉体的にも、疲れ果てて辞めて行く。

保育を市場原理にまかせよう、成長産業としてとらえようという、国の方針が、子育てに対するとんでもない意識改革を進めています。

以前、新聞の夜間保育特集に、夜間保育が広がらない背景に「夜に子供を預けて働くことに対してまだ社会全体で抵抗感があり」と夜間保育園連盟会長が発言していたことを取り上げ、この「抵抗感がなくなること」こそが怖い、と書いたのですが、http://www.luci.jp/diary2/?p=2026 保育が産業に取り込まれてゆく過程で、保育をする側からも、家庭崩壊を助長するような動きが出てくる。これもまた大きな問題です。政府に勧められ仕組みに加わった人たちの、生き残るための死活問題が「幼児の気持ち」を超えるのです。

 

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脳の発達を考えれば、3歳未満児は何を教えられたかより、どう扱われたかが人生を決める。丁寧に、みんなで「可愛がる」が基本です。親や祖父母、兄弟姉妹の代わりをしなければならないとしたら、このまま進めば、保育士の「人間性」がより問われてくるのです。しかし、保育士不足で現場が保育士を人間性で選ぶことができなくなっている。選択肢がなくなっている。

政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになるのです。

三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://www.luci.jp/diary2/?p=255

利益優先の小規模保育が明らかに規則違反をしていて、それを行政が把握しながら防ぐことができなかった。そして、こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策に対する警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、危うい保育が、むしろ増える方向に進んだ。同時に、小一プロブレム、いじめ、不登校、学級崩壊に歯止めがかからなくなっている。

義務教育という仕組みは、一部の家庭や親子関係のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いまさら「就学前教育」などと言って責任転嫁を図っても、いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育がさらに破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国の保育のサービス産業化が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

 

そうした経緯があって、さらに最近の毎日新聞の報道なのです。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

乳児院や児童養護施設は子ども一人あたりの運営費が非常に高くつきます。このままでは、財源と人材が追いつかない。だから、未就学児の「施設入所停止」が必要なのです。施策の失敗を「家庭的がいいんだ」という言葉で誤魔化すのです。

「家庭的」がいいのです。しかし、長時間保育で3歳未満児が親と過ごす時間を減らし、「家庭に近い環境で子どもが養育されないように」しておきながら、雇用労働施策で愛着障害、家庭崩壊、虐待を増やしておきながら、いまさら「家庭的養育」へ一歩、というのはあまりにもおかしい。「虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する」というやり方はひどい責任逃れというより、論理が支離滅裂です。

家庭的養育への第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた施策をやめることでしょう

子はかすがい、ではなく、子育てが人類のかすがいだった。それを保育という仕組みで代替できると思う方がおかしい。子育てを福祉で家庭から奪えば、人間らしい「かすがい」が急速に希薄になり、そのひずみが、ますます福祉や教育を追い詰める。少し考えればわかることだし、もう引き返せないほど現場に兆候はでている。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいいのです。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする社会です。(「捨てられる養子たち」http://www.luci.jp/diary2/?p=2063)

いま一番福祉でしっかり守らなければいけない、家族を失った未就学児の養護施設入所を原則停止し、「幼児教育の無償化」などと安易に公約を掲げる政治家たちのやり方に腹を立てているのは私だけではないはず。

突然、「原則停止」と言えないのが家族、親子だった。だからこそ、幼児は時間をかけて親を育て、家族の絆を育てることができたのです。

 

https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

幼児教育や高等教育の無償化

選挙対策なのでしょうか、こんな報道がありました。
「安倍総理大臣は、ニューヨークのウォール街にある証券取引所で演説し、衆議院の解散・総選挙で掲げる「人づくり革命」に関連して、消費税率を10%に引き上げた際の増収分の使いみちを見直し、幼児教育や高等教育の無償化に充てることに強い意欲を示しました。」

最近の保育のサービス産業化を見ていると、保育所保育指針という法律に書いてある、「園児の最善の利益を優先して」という理念さえ、閣議決定において大臣たちに周知、徹底されていないのではないかと思えます。彼らは、その言葉が、保育を支えるための法律に書いてあることさえ知らないのだと思う。だから「子ども・子育て支援新制度」で、11時間保育を標準と名付けたり、「保育は成長産業」と閣議決定で決めたりするのです。
国が、幼児優先という保育の根幹にある理念を自ら制度で壊している。その矛盾が保育界を超えて他の子育てに関わる福祉や学校教育をも、崖っぷちまで追いつめているのです。

 一つのいい例が学童保育です。未満児の「受け皿」を短絡的に、将来を見据えない馬鹿げた経済施策で進めたために、民営化や指定管理制度で逃げようとしていた学童保育が人材的にも財政的にも逃げ場を失っている。学童保育に来る子どもたちの状況を考えれば、いまそこが一番ケアされなければいけないはずなのに、制度の仕組みも、指導員の資格も、待遇改善の方向性も定まらない。迷走している。資格や仕組みが確立されないまま市場原理にまかせようとした障害児デイ施設など、資格の規制緩和や利益優先のサービス産業の参加によって、子どもたちを囲む状況はさながら無法地帯になりつつある。与党も野党も、子育てに関するビジョンが、ただの親の利便性対応になっている。子育てが、損な役割のように位置づけられ、幼児や子どもたちの、願いや思いが政治家の頭から忘れられている。
それは、あと40万人保育園で預かれば、女性が輝く、と国会で言った首相の言葉にも表れているのですが、女性を子育てから「解放し」経済競争に組み込めば、それが国にとっていいことなのだ、と多くの政治家が信じ込んでいるような気がする。だから、子どもたちの気持ちを感じてしまう、いい保育士が辞めてゆく。保育士不足が止まらない。

森友学園問題の報道を思い出してほしい。あの(知り合いの)園長先生の規則を無視した、傍若無人な行政への説明を見たら、首相だって、あと40万人保育の受け皿を確保します、などと軽々しく言えないはず。

保育園の義務教育化など夢のまた夢。保育士の質を落としておいて、小一プロブレムや学級崩壊の責任を「就学前教育」などと言って、保育界に押し付ける詐欺のような施策と同じです。教育という言葉を入れさえすれば、それができると思うこと自体がおかし。
幼児教育無償化など、本質的に考えれば、つまり「教育」という責任論から言えば、いまの保育界に受け切れるわけがない。非現実的、学者の机上の空論。失政の責任転嫁。教育は家庭という土台がなければ成り立たない。学校は、親が親らしいという前提のもとに作られている。(民主主義も福祉も、幼児たちが、その存在感で生み出す「モラルと秩序」が社会に存在することが前提に作られている。)
就学前に親が親として育っていない、幼児期に特定の人間と(家族と)愛着関係が築かれていないのが、保育・教育問題の本質です。保育園の義務教育化、無償化は義務教育を崩壊に向かわせる。高等教育の無償化も含め、子育ての無償化は家庭という社会の土台を崩壊の方向へ導く。
働く動機、愛する人のために頑張る、責任という言葉に生きがいを感じる、それがなければ経済は破綻するのだと思う。破綻するプロセスで、一部の強者がいい思いをするためにいまの経済施策は進んでいるのだと思う。

 

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「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」

来年施行される新しい保育指針には、3歳未満児の保育、発達の重要性について、以前よりスペースを割いて詳しく書かれています。それ自体は、いいことです。これからますます負担が増えてゆく未満児保育の、親子の人生における位置、大切さ、負っている責任を考えれば、ただ資格者を揃えて預かればいいということではありません。その資格者がどういう保育をするか、乳幼児期の発達をどのように理解しているかがますます重要です。
子ども・子育て支援新制度で小規模保育や子ども園、家庭的保育事業などを増やし、待機児童対策と銘打って、実は雇用労働施策なのですが、政府はこれだけ未満児保育の枠を広げたのですから、指針により詳しく書くのは当然だと思います。
腹立たしいのは、枠を広げることで起こっている慢性的な保育士不足、つまり募集しても倍率が出ない状況が全国で起こっていて、それが一方で保育界全体の保育の質を下げているのですから、保育指針の改訂が問題の根本的対応にまったくなっていないこと。指針にいくらいいことを書いても実行する保育士の質がますます危うくなっているのですから、保育の質は上がらない、意味がない。

 (本当は意味があるのですが、政府の思惑や、すっかり後手に回っている、保育・教育における施策を見ていると手厳しく言いたくなってしまう。意味はあります。がんばりましょう。)

続けます。3歳未満児主体に保育をする小規模保育は資格者半数でいい規制緩和をして、保育指針の内容を充実させても、本末転倒です。結局、政治家や学者の「やったふり」、失敗した施策の責任逃れにしか見えない、私には。しかも、小規模保育や家庭的保育事業は、この指針に「準ずる」保育でかまわない、と指針の中に書いてある。最初から逃げ道をつくっているのですから狡猾です。これで、本気で未満児の命、日常を守る気があるのか、と憤りさえ感じます。

(以前、役場の人が言っていました。「概ね、で始まって、望ましい、で終わるような規則で乳幼児を守ることはできません」と。)

確かに、保育士の待遇改善は進んでいますが、待遇改善をしてもらうには研修を受けなければならない。単に給料を上げればいいだけなのに、ハードルを作って格好をつけようとする。誰に向かって何を正当化しようとしているのか知りませんが、ただでさえ保育士不足で困っている現場から、研修の名で保育士を奪ったら、それだけ、その日、同僚の保育士たちが困るのです。現場が見えていない。加えて、研修で「保育はサービス、親のニーズに応えるのが保育」などと、今進められている施策を説明され、それが昇給の条件でもあるかのように押し付けられたら、保育における「子育て」「親育て」という本質はますます失われてゆきます。
昔、未満児保育をしないと主任加算をしない、などと、トンチンカンで理不尽な要求をされた記憶がよみがえります。

シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

横浜の小さな保育園で講演しました。「講演会DVDと『シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち』のDVDを園内で回しています。希望者が多くてみな土日希望で年内回りきれるかした・・・です。」というお手紙が園長先生から届きました。ふと気づいて、昔、書いた解説を添付ファイルで送りました。

 

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シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

(以下は、ユーチューブにアップしてある「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像とそのアドレスです。そして、その解説です。)

オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I  解説

草原で。「幸せとは?」 http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg   解説

子どもたちの行進?卒業式http://youtu.be/_uUnaHuViqk   解説

村での生活と伝統的母親像 http://youtu.be/xCFYYAUjbXU  解説

・ シャクティの公演   http://youtu.be/hdg4mpjTebQ   解説

・ セルバの結婚観   http://youtu.be/h3OpPP_JY_g   解説

幸せのものさし/人はなぜ踊るのか  http://youtu.be/HQzmRCO_vTw  解説

・ 「分かち合うこと。」    http://youtu.be/SUaQXFUp1_M    解説

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オープニング(http://youtu.be/YXk7xexQR8I

シスター・チャンドラと出会い、カメラを持ってシャクティの踊り手たちを追いかけ始めなければ、私は一生に一度もドキュメンタリー映画を作ることはなかったはず。そう言ったらシスターは「God’s Will」(神の御遺志です)と笑って答えました。

インドという国の圧倒的な存在感と風景、そして静けさは、私に様々なことを教えてくれました。いまでも、その風景を思い出すたびに、考えるヒントを送り続けてくる。

日本で、保育や教育の問題、子育ての意味について考え、書き、0歳児の役割について講演している時に、私は時々原点に還るようにシャクティの風景を思いだすのです。人間が長年共有してきた次元や、培われた意識がその中にあるのです。

そして、繰り返し考えます。「人間はなぜ踊るのか」。

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草原で。「幸せとは?」(http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

「祭り」は、人間の進化や伝統の中で大切な役割を果たしてきました。絆に頼り、絆を信じて生きるしかない人間たちに必要な大切な行事です。生きている意味を確認し、体現することなのでしょう。

祝うことが、祈ることであってほしい。祈ることが、祝うことであってほしい。そんなメッセージが伝わってきます。

今のかたちの宗教が現れる前にあった人間のつながり方、原始的な祈り方を「アート」という言葉でシスターは表現したのだと思います。この次元のつながりを取り戻すことが、人類に必要なのだ、と言っているようです。

日本の小学校で、毎朝子どもたちが「輪になって踊る」ことで、このつながりを実感出来るような気がします。こういう次元のコミュニケーションの入口に「0歳児が眠っている」のだと思います。

このインタビューの中でシスターが、「幸せとは?」という私の質問に、「集まること」と答えます。このタイミングが私は好きです。ドキュメンタリーという形でなければ残せない、宇宙にたった一度しかないタイミングのような気がします。時々、こういう瞬間のために生きているような気がするのです。

(園長は父親をウサギにする権利を持っている)

たくさんの保育園や幼稚園に講演に行き多くのことを学びます。先日行った園では、私の講演とお遊戯会を組み合わせていました。父親もビデオカメラを持ってやって来ます。子どもたちの一生懸命な演技が終わると、間髪入れず、私の講演に移る。逃げる間はありません。

私の講演のあと、お遊戯会の続きがあって、お父さんたちが「ウサギ」にさせられていました。

保育士たちが、手ぬぐいに長い耳をつけた簡単なウサギのかぶり物を用意しておいて、講演が終わると、「ハイ、お父さんたちは、ウサギになってくださ?い!」と言って手渡します。

保育園で保育士にウサギになれと言われたら、「なるしかない!」。

そして、お父さんたちが確かに変わる。保育園でウサギにさせられたら、誰だって変わる。手ぬぐいを利用したかぶり物ですから、顔の部分はいつも見えます。引きつった顔でかぶったお父さんも、三分すればウサギです。競争社会で固まっていたお父さんたちのこころが、溶け出します。自分の中に、三歳だったころの自分がいる。四歳だったころの自分もいる。それを確認するということは、「自分はいつでも自分次第で幸せになれる」ということを確認すること。それを見て一番喜んでいたのがお母さんたちでした。

幼稚園や保育園という魔法の場所には、「父親をウサギにする権利」が与えられている。何か凄いものを見た気がしました。人類の平和につながる糸口を発見した気がしました。

最近保育園で学んだことの中で、一番の学びでした。

園長は父親をウサギにする権利を持っている。校長や社長は持っていない。総理大臣だって持っていない。この権利は、いつ誰が園長に与えたのか。宇宙から与えられた権利にちがいない。だから強い権利です。最近「権利」と呼ばれる物のほとんどが「利権」です。しかし、父親をウサギにする権利は絶対に「利権」ではない。この権利で、子どもに安心して幼児期を過ごさせる環境を勝ち取る闘いに、勝てるだろうか。

勝てるかもしれない、と私は思います。お父さんたちも実はウサギになりたかったのです。

数週間経ち、園長や保育者が握っている「父親をウサギにする権利」について考え、行き着いた結論は、「人は幼児という神様、仏様、絶対的弱者の前では、正しい方向に進むしかない。たとえそれがウサギになることであっても」というものでした。そして、それは宇宙が人間のために用意している目的と重なるように思えました。

(お父さんたちも心の奥底でウサギになりたがっていた。昔,男たちは年に2、3回、「祭り」の場でウサギに還っていた。自分の中に,神様仏様だった時の自分がまだいることを確かめていた。ウサギに還れることを確認することは、いつでも幸せになれることを確認すること。頼りきって,信じきって、幸せそうだった、一番完成していた自分が、4歳の頃宇宙に存在していたことを思い出す。)

お父さんたちをウサギにしてお母さんたちが喜ぶ。これがいいのです。お母さんたちをウサギにしてお父さんたちが喜ぶ、これでは駄目です。子どもたち、という神様が見ていますから。

(もっとウサギの話)

校長先生をうさぎにするのはちょっと難しいかもしれません。それは、たぶん校長ごころ、と親ごころが、違うからでしょう。でも、これは違っていいのか?

今、日本も欧米の後を追い、家庭崩壊が始まり、親たちの心で子どもたちが守られなくなって来ている世の中だからあえて言います。子どもたちの幸せを優先的に考えるなら、校長先生たちもウサギになる決意をしなければならない。かぶりものをしてから父親がウサギになるまで3分かかるのなら、校長先生は5分かもしれない。でも、3分と5分のちがいは、2分。

お父さんたちは、なんでウサギになると嬉しいのか。

それは、昔、自分が簡単にウサギになれたことを覚えているからです。自分自身でいることの楽しさを思い出すことがまだ出来るからです。幼児を育てているお父さんは、特にこのことを思い出しやすい環境にあります。幼児の親は、人生のタイミングとして、幸せのものさしを探している人間たちです。

昔、自分は簡単にウサギになれた、それをお父さんが思い出すと、幼児期の体験が、まわりに守られた幸せであったことに気づきます。幸せは、まわりに守られて、存在することに気づきます。

昔、自分は簡単にウサギになれた。

それを忘れていても、いま思い出すことが出来たのは、自分が昔も今も、守られているからだ、ということを知ります。それぞれが、それを知った時に、人間は本当の絆で結ばれるのでしょう。

シスターが教えてくれました。

ダリットの村では、祭りが重要な役割を果たします。村人が心を一つにするために祭りがあります。心が一つになっていないと暮らしていけない仕組みになっているのです。

シスターが言うには、ある一家とある一家がもめていると、その年のお祭りは中止になるそうなのです。来年に持ち越し。これにはびっくりしました。

日本で、たとえば川越祭りが何月何日に行われる、と決まっていたら天災にでも襲われないかぎり、行われます。ポスターを作って宣伝して、地域経済の活性化のためにも、みんなで準備して必ずお祭りになります。

祭りがインドでは生活の一部になっていて、どれくらい大切なものか知っているだけに、心が一つになっていないから今年はやらない、というダリットの村人の潔さに感心します。人類の決意に感動します。こんな村で育ってきたんだ、シャクティの娘たちは、と思います。

わかちあうこと、頼りあうこと、信頼関係が生きる力になっている村では、どんな年代の村人でも幼児と接する機会を持っています。幼児と肌を接することが、人間に信じることの大切さ、幸福感を教える。日本のような社会では、自分の子どもを抱いた経験を持つ人でも、子どもが成長してしまうと、赤ん坊を抱く体験をほとんど持ちません。しかし、二〇代に幼児を抱くことと三〇代、四〇代、五〇代に幼児を抱くことでは、感じ方が違う。いま、私は、保育園の先生たちと一緒に「一日保育士体験」を広めようとしているのですが、日本の会社や役場で、あらゆる人にとって年に一日保育士体験が常識になれば、日本人の心がきっと一つになっていくと思います。

子どもたちの行進?卒業式http://youtu.be/_uUnaHuViqk

シスターの新しい試み、第一回シャクティセンター・サマーキャンプに向かう子どもたちの映像です。ダリットの少女たちは、学校に行かせてもらえない子どもが多いのです。必要な労働力という側面もありますが、差別され安全ではない、ということもあります。

(埼玉の教育局の方々にシャクティの映像の一部を見せて講演したことがあります。

シャクティの映像の中にある、メッセージが、これからの教育を考える上で大切になってくる気がします。次元を超えて、「集まること」そして「わかちあうこと」二つのメッセージが生きてくる。)

映像の中に出てくる、第一回のサマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「ああ、こういう子どもたちに教えることが出来たら幸せだろうな」と思わせる、学校の原点がある。

教える事で先生たちが幸せを感じる、教える側の幸福感を基盤に、本来、伝承は成り立っていく。子どもたちが、教え手を育てる、それが親子関係の本質です。

シャクティセンターに向かうあの子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込む。あの子たちは貧しいけれど、とても「育ちがいい」感じがします。親心に育まれた、安心した表情です。

シャクティセンターの先生たちはシャクティの踊り手たち。教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。しかし、村の生活の中で、特に娘たちの間に,いつの間にか「教え、教えられる関係」が育っている。そして、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。

家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。

不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」がある。教えることの中心に「和」がある。

日本の学校も、一日1時間は必ずみんなで輪になって踊る。そんな方向に遺伝子から湧き出るような教育改革が出来たら、きっと日本は、昔のように絆で結ばれた美しい社会に戻るのだと思います。

決して不可能なことではないのです。そういう視点を取り戻せないほどに、感性が鈍ってしまっているだけです。人間がシステムを作っているうちに、いつの間にか、システムが人間を作るようになってしまったのです。

 

 

 

村での生活と伝統的母親像 (http://youtu.be/xCFYYAUjbXU

このインタビューは、私の視点を大きく変えました。

カースト制を肯定するわけでは決してありません。しかしそれがこれほど長く維持されて来た背景に、母親たちがいた。やっと理解出来ました。歴史や伝統にはその奥に必ず幸福論を伴った意味がある。その深い意味を知らずに、やみくもに改革や進歩があっても、それは時として急速な人間性の崩壊につながります。いま、理念と人間性のぶつかりあいが、全世界に緊張感を生み出しています。

 

 

シャクティの公演 ( http://youtu.be/hdg4mpjTebQ

シャクティの踊りを始めて見たとき撮ったのがこの映像です。体の芯から揺さぶられたのを覚えています。ファインダー越しに涙があふれました。その後、幾度も彼女たちの踊りを見て、「その潔さ」に感動しているのではないか、と思うことがあります。職業でも、趣味でもない、しかしとても強いメッセージ性のある踊り。一般のインド人、とくに上のカーストの人たちからは忌み嫌われ、そっぽを向かれることも度々ある踊り。それなのに、それを踊る少女たちに欲がない。計算外のところで踊っている。

シャクティの踊り手たちが日本を走り抜けて行った時のこと。

日本に着いた踊り手たちは、成田からのバスの中、初めて見る東京にことさら驚くふうもなく、いつもの笑顔で大都会を見つめていました。広がる夜景に歓声があがることもない。黙って、楽しそうに窓の外を見つめていました。どこへ行ってもだいたいそうでした。

欲がないからでしょうか。私たちが「感動」と呼んでいる感覚は、そのほとんどが情報を土台にした「欲」の一部かもしれません。

ピラミッドを見たとき、私たちはその歴史的な意味、見ている自分が遠くからきたこと、様ざまな情報が重なりあって、「感動しなさい」と自分をコントロールするのかもしれない。「感動しなければ損」という意識があって、脳が指図するのかもしれません。欲を持つ習慣がない娘たちには、ピラミッドはただの石かもしれない。それとも、その巨大さに細胞から感動するのでしょうか。グランドキャニオンだったらどうだろう。私は都会を見つめる娘たちにもっと感動してほしかった、のを覚えています。

はにかみながら神社を見学し、太古の目線で雑踏を見つめる娘たちが、なぜかステージで驚くほど輝きました。人は人であるだけでこれほど美しい。

そんな旅の途中、シャクティの踊り手たちが感動していた瞬間がありました。浦和のはとり幼稚園で園児たちと手をつないで輪になって踊ったときでした。

園児には誰も何も説明しません。カースト制度のこと、差別のこと、彼女たちが踊る意味。説明してもわかりませんから、誰も説明しません。ただ、踊った。そして、自然に輪ができました。幼児と手をつないで一緒に踊りながら、いつもはおとなしく控え目で、あまり感情を表さずに恥ずかしそうに笑っているだけのマハーラクシュミが泣いていました。平等のために踊っていた彼女たちが、初めて平等を感じたのかもしれません。だれも何も説明しないから、そして園児は知識を持たずにただ嬉しそうにしていたから、突き上げてくるもの、込み上げてくるものがあったのだと思います。

幼児が人間をつなぐ、人間が安心する絆の存在を教えてくれる。神々なのだと思います。

 

 

セルバの結婚観 ( http://youtu.be/h3OpPP_JY_g

セルバは、私が一番好きだったダンサーです。天性の踊り手でバリシニコフよりフレッド・アステア風、いわゆるストリート系ダンサーです。表現しようとしていないのに、ただ踊っているだけで手足の先まで地球のリズムを感じます。

インド人の9割以上が親の決めた相手と結婚します。これを人権問題とか、意識の未熟さと見るのは簡単ですが、親子の信頼関係、ととらえることも出来る。先進国社会で失われつつある家族の信頼関係からくる安心感。私には、インドの現実が、我々がそれから何かを学ばなければいけない人類の歴史のように思えます。セルバの表情を見ていると、それを感じます。

信じることで互いを育てあう、「親子」という絆のひとつの完成したかたちを見るのです。

セルバを撮った3年後、シャクティが日本に来て、インタビューにタミル語の通訳がついたとき、記者の質問に紛れて、リーダー格のエスターに質問してみました。セルバにインタビューをして以来、いつかは聴いてみたかった質問です。

「悪い夫に当たったらどうするの?」

すると、十九歳のエスターは笑って言いました。「いい夫にするの」

十九歳の娘が結婚の一部としてこういう理解をしている。どこで習ったのでしょうか。たぶん生きるために必要なことなのでしょうね。人間が。人類が。

村は共同体です。競争社会ではないのです。

 

 

幸せのものさし/人はなぜ踊るのか ( http://youtu.be/HQzmRCO_vTw

このドキュメンタリーの中で、私は意識的に男と女を対比させます。

映像の中でやっているので気づかない人も多いのですが、何度か見ると、ちょっと男が間抜けに見えてくる。それは、そうだったのだから仕方ない。

男と女の役割は確かに違う。インドのように、家族という仕組みを社会の基盤とする場合、ますますそれは鮮明になってきます。選択肢のないことの強みは、迷いや後悔が減ること。人間は一般的に自己責任には耐えられない。自分のために生きるのは難しいのですが、親や子、家族のために頑張るのは意外と簡単です。

生きることは「踊ること」なのだと思います。

 

 

 

 

「…分かち合うこと。」 (http://youtu.be/SUaQXFUp1_M 

貧しいから、「わかちあう」。そして、「わかちあう」と、人間は美しい。

ダリットの村を、ただ「美しい」と表現するつもりはないのです。マハトマ・ガンジーがダリットをハリジャン「神の子」と呼び、死後50年経っても、いまだに一部の人たちからその発言ゆえに許されない、そういう事情があることを知った上で、あえて尋ねた私の質問に、シスターは神との関係の中で答えようとしてくれました。神に人権意識を教える矛盾をシスターの顔が物語っているようにも思えます。

(豊かに弱い人間)

あるお医者さんに教わったのですが、人類は、過去過ごした時間をすべて足すと、99.9999999%、貧困の中で過ごして来たそうです。ですから貧困には強いけれど、豊かさに弱い。生物学的に見ても、血糖値を上げるホルモンは20種類もあるのに、血糖値を下げるホルモンはインシュリンしかない、これは精神的にもそうなのではないか、というのです。

豊かになった国ほど、自立し、孤立し、みんなで幼児を眺めなくなり、絆が徐々に崩壊し、うつ病などの精神的病が増えるのです。自由、自立という言葉の先にあるのは自己責任。絆がまわりにないと、往々にして自己責任は孤独な自己嫌悪につながります。

自己嫌悪が人間には非常につらい。なぜなら人生は自分を体験することでしかないから。

経済主体の考え方で動いているアメリカ社会を見ていると、自立という言葉が、絆をつくって守り合うことをやめた人たちの責任回避だと思えてきます。

貧困の中で培われた人間の特性に、男らしさ、女らしさ、があります。この生きるための性的役割分担もまた、近頃、豊かさとぶつかります。利権争いに巻き込まれます。

古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見した、といいます。欧米先進国を見ていると、性的役割分担が薄れた時、人類は「家族」という定義を見失う、というのはほぼ当たっていると思います。

その国が豊かなうちはそれでもいいでしょう。でも、家族という定義を失うと、人間は、たいてい豊かさに見放される。そして貧困の中で家族がいないと人間は生きられません。

(伝統的家庭の価値観)

アメリカという現在進行形の移民国家では、一世、二世、三世、そしてルーツの違う男女の婚姻によって祖国の影響が薄くなった人たちが、渾然と暮らしています。「一般論」が成立しにくいアメリカで、移民後の世代割りによる一般論が人種や文化を越えて比較的成り立ちます。中国やインド、ベトナム、東ヨーロッパなど文化的背景が異なる人たちでも、移民前の「祖国」には共通して長い歴史を経た家庭観があって、それが、親子関係の質、家庭の「形」において似通っているのです。時間の中で培ってきた幸福の土台や安心感の置きどころが家族の絆にあって、その絆を保つために造り出された様々な「ルール」や「常識」、「人生観、幸福観」に、文化を越えて共通点が多いのです。ごく最近まで、ほとんどの文化で、生きてゆくためには「家族」が社会の最小単位であって「個人」ではなかった、ということです。

アメリカの大統領選挙や連邦議会選挙の度に、社会を立て直すために一番必要なもの、として掲げられる「伝統的家庭の価値観」(Traditional Family Value)とは、これを指しているのです。

日本は、もともとこうした「伝統的家庭の価値観」に関して優等生でした。だから先進国の中で抜群に状況が良かったのでしょう。

アメリカにおける移民後の世代を定義してみます。

一世は、主に祖国、長い歴史を持った文化圏の「家庭」で育ち、その文化圏で「学校教育」を受けたか、まったく「学校教育」を受けなかった人たち。

二世は、主に、祖国の文化圏の価値観を強く持った「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たち。

三世は、主に、祖国の文化圏の価値観が薄まった「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たち。

そして、その次に祖国の文化圏の価値観をほとんど持たずに、アメリカの価値観を持った「家庭」で育ち、アメリカで「学校教育」を受けた人たちがいます。

統計的に見ると、英語や読み書きがあまり出来ず、社会習慣などでもハンディキャップを負っているはずの移民一世が、アメリカで経済的に成功する確率が最も高い。二世、三世と、アメリカの社会構造や価値観に染まれば染まるほど、経済的成功、アメリカンドリームを達成する確率が低くなっていく。アメリカ型社会に慣れるほど、アメリカ型成功をしなくなる。仮に経済競争を幸福論の中心に置いたとしても、家族という絆が崩壊すると、自立は孤立につながり、成功する確率は下がっていくのです。失敗しても還る所がある、絆に基づく安心があること、心の余裕が、経済競争でも有利にはたらくということなのです。

グローバルな競争社会に巻き込まれようとしている今の日本社会でも、社会進出という言葉を使って経済競争に参加することが奨励されています。政府の待機児童0作戦もそうですが、この国がグローバルに競争力を持ち続けることが「いいこと」という前提のもとに福祉や教育制度が動いています。幼児を眺める時間が減り、親子関係を土台にした絆に基づく安心が希薄になる中で、摂食障害、引きこもり、不登校、うつ病といった豊かな国特有の精神的な病が増えています。摂食障害をもつ人に成績優秀者が多いのも、体験の伴わない情報に基づいて競争社会を意識した時に、人間は不安を感じ、絆に基づく安心をより求め、その希薄さを肌で感じ現実に背を向けるということなのでしょう。

(子育てをわかちあう)

同志の保育士たちが言います。8時間保育が11時間開所になった時、何かが崩れ始めた、と。

8時間保育のときは、まだ、親たちに「この人」にあずける」という意識があった。朝、子どもをあずける人と帰り受けとる人が同じ人(保育士)だったのです。11時間開所になり、保育士は8時間勤務ですから朝と夕方、顔を会わせる人が必ず別の人になった。

「この人にあずける」が「この場所にあずける」になった。子育てが人間たちの手からシステムの手に移った、と言ってもよいでしょう。

埼玉県では、11時間開所になった翌年、親たちは平均10時間15分あずけるようになりました。この失われた2時間15分の間に地球に何が育っていたか、行政も政治家も学者も気づかない。

「11時間開所になり8時間労働のシフトがずれ、保育士たちが一同に会してお茶を飲む時間がなくなりました」と園長先生は嘆きます。こうした時間が保育士たちの育ちあい、癒し、結束、情報交換にどれほど重要だったか。大人たちの一緒にお茶を飲む時間が、子どもたちの育ちにどれほど大切な意味を持っていたか、深く考えずに施策は進んだのです。

一杯のお茶を飲むことがこれほど大切にされた国はなかった。一杯のお茶を飲み、時空をわかち合うことで宇宙との和を感じようとした利休が、保育園の11時間開所に泣いている。日本という「和」の国が悲鳴を上げ始めています。

一人の園長が、ひとつの悲しい光景に見ぬ振りをした瞬間に、この国を守ってきたわかちあう魂がひとつ消えていく。

最近聴いた一番悲しい話。

保育園の運動会で「お弁当をつくるのが嫌」という親が、お弁当の時間に夫婦で子どもを車で連れ出し、コンビニの駐車場で食べさせていた、というのです。

こういう光景に、園長先生たちが口をつぐみ始めたとき、不安が広がっていきます。こういう光景が「自由」や「権利」という言葉で守られているのを見た時、人間は未来を考えるのをやめるのです。

(この文章を書いたのが10年前。いま11時間開所が13時間開所になり、政府は11時間保育、開所ではなく保育、を「標準」と名付けて親子の時間を減らそうとしています。シスターが呆れていました。)

カナダのケベック州における「全員保育」という試み。

「全員保育」

カナダのケベック州で「全員保育」という試みがされました。それがどういう影響を子どもの育ちに及ぼしたかという報告があるのです。

「全員保育universal daycareプログラムが子どもにどのような影響を与えるか。ケベックの(全員保育)システムで育った子どもたちは、他の地域に比べ、10代以降、主観的な健康状態も低く、生活に対する満足度も低く、犯罪率も高かった」http://itsumikakefuda.com/child_Quebec.html

(「全員保育」「ケベック」でネット検索すると報告が読めます。)

いま欧米で、子どもはなるべく親が育てた方がいい、という考え方が施策の主流に還ってきています。北欧では、子どもを持つ親の労働時間を制限する動きも進んでいます。子育ての社会化で家庭崩壊が始まると福祉の予算が追いつかなくなり、それに加えて治安が悪化することは、ケベック州の報告だけでなく、すでに繰り返し実証されている。最近、家庭に居場所がなかった子どもによる犯罪が増え、裁判で生育歴、愛着障害が減刑の理由になる事件が日本でも起こっているでしょう。(以前この連載にも書きましたが、『クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』という放送が去年ありました。http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/index.html)

しかし、日本は家庭が崩壊していないという面では、数字的に見ても欧米の半世紀くらい前の状況で、まだまだ奇跡的にいい。欧米の数倍の確率で実の父親が家庭に存在する。子育てが人々の生活の中心にあったからだと思います。

日本の父親は子育てをしない、などと言う馬鹿げた学者がいましたが、家庭に居て、収入を入れているというだけでも相当立派なもの。家庭に居ない、収入も入れない実の父親が半数近い欧米に比べれば、驚くほど子育てをしているのです。だからこそ、いま父親の一日保育士体験を実施して、幼児に囲まれる幸せ、幼児に信じてもらう幸せを取り戻して欲しい。(まだ間に合います。日本を救うと思って、よろしくお願いします。)

昔から幼稚園と保育園の選択肢がある地域(例えば埼玉県とか横浜市)では、3歳までは自分で育てそのあとは幼稚園という選択をする親がまだ7割いる。それをもってして「日本は遅れている」という人もいるのですが、それは遅れているのではなく、欧米が4、50年前に選んだ「社会で子育て」という選択を前に踏みとどまっている、ということ。人類の長い歴史を考えれば、この躊躇は適切で合理的だと思います。

「女性の議員が少ない」とか「会社の役員に女性が少ない」と批判されても、パワーゲームやマネーゲームに勝つことに目標を置く偏ったものさしは、日本の風土には本来合わない。文化や歴史が違う。「欲は、なるべく捨てた方がいい」と教えてきた仏教や儒教の価値観と相容れない。しかも、すでに欧米の失敗を遠目に見ている。日本ではあり得ないほど露骨に差別的な発言を繰り返した選挙中のトランプ大統領やクルーズ候補があれだけの支持を得ているアメリカを見ていれば、彼らの言う「平等」は「機会の平等」でしかないことがすぐわかる。心の中では誰も「平等」なんて信じてはいない。

突然右傾化しはじめたヨーロッパの状況を見ていると、景気が悪くなると、人種差別も民族主義、排他主義も簡単に還ってくることがわかります。欧米人が言う「機会の平等」は、経済戦略に利用されて来た弱肉強食、適者存続を正当化するための方便です。だから「家族」「家庭」という「利他や無私」の出発点がその犠牲になった。

日本人には、欧米の真似をしない方が経済的にもうまくいく、という体験があります。戦後の日本の発展は、親が子どものため、子どもが親のために頑張った結果だと思います。人間は自分のためにはあまり頑張れない。1人では生きられないことを知り、助け合うことに幸せを感じるようにできている。平等などと言うパワーゲームの裏返しのような言葉に操られるよりも、子どもを育てる者たち、弱者を眺める者たちの「和」で成り立つ国であってほしい。

だらら、保育園に子どもが落ちたからといって、「日本、死ね」と本気で言ってはいけない。こういういい国は大事にしなければならないと心の底から思うのです。

 

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。未婚の母から生まれる子どもが4割、専業主婦になれる状況にいる母親の割合を考えるとこれは大変な数字です。

性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めている。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかる。状況はすでに一周している。日本もそのあとを追おうとしている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。自然回帰は始まっています。

保育界の現実(森友学園問題)

保育界の現実

森友学園問題で、テレビのニュースカメラの前で、「高等森友学園」の園長が保育園の国基準違反をあっさりと認め、でも、うちの無資格者は資格者よりいいんです、と堂々と行政に言っていました。

『会談後は市が会見。諄子氏には配置基準の認識がなかったといい「園長は『6人も必要ないでしょ? 3人で足りる』と話していたので『それは違う』と申した」。諄子氏は保育所を継続する意向を示し、保育士確保について「5月まで頑張ってやっていきます」と話したというが「『どんな手立てを?』と聞いても具体策は何も出なかった」と説明。保育士紹介施設の利用も促したという。』

園長・設置者の良識が問われる風景ですが、これが保育界の現実です。保育という、幼児の命を預かる現場で、しかも認可された保育園の園長の姿です。しかも、園長先生は安倍首相の知り合いで、首相夫人が保育理念に感動しました、と系列幼稚園で挨拶をした園の理事でもあるのです。総理大臣を知っているのだから、私は何を言っても構わない、という風にも見えますが、それよりも、国基準など少々無視しても大丈夫、他でもやってることでしょう、と思っている、と見る方が正解なのではないかと思います。

カメラの前でここまで言われたら、行政も見逃すわけにはいきません。本当に閉園にする方向へ動いた。それを見て日本中で、「エッ」と思った園長・設置者がたくさんいたはず。何をしても閉園にならないのが保育園、ビジネスコンサルタントがそう言っていたではないか、と思った人もたくさんいたはず。

ニュース報道を見れば明らかなように、認可保育園という一見確立されているように見える仕組みでさえ、実はまだまだ園長・設置者の意識がバラバラで、保育に対する姿勢もいろいろです。一定の常識、良識が通用しない。しかも、保育の新制度を進めようとした人たち(一部学者と政治家)は、すでに保育者養成校が市場原理の一部になっていたことを見落としている。次の世代の、保育に対する意識が下がっている。これでは負の連鎖は止められない。

確かにあの園長先生が言うように、無資格者で資格者よりもいい保育士はいくらでもいます。最近の保育者養成校の「資格の乱発」と、「子ども相手ならできるでしょう」と平気で言う高等学校の進路指導の結果、この発言はいよいよ真実味を増している。でも、考えてみてください。どこかの学校の校長が、うちの教師は資格を持っていない人もいるけれど、資格を持っている人よりよほどいいんです、だから法律に違反してもいいんですよ、とニュースカメラの前で行政に向かって堂々とは言わない。

最近の保育のサービス産業化を見ていると、保育所保育指針という法律に書いてある、園児の最善の利益を優先して、という理念さえ徹底されていない。それどころか国が保育の根幹にある理念を壊している。ここ数年間に小規模保育、家庭的保育事業、こども園、学童保育の増加、障害児デイ施設など、待機児童解消を最優先に、新たな仕組みがどんどん参入してきています。それに伴う資格の規制緩和や利益優先のサービス産業が加わって、子どもたちを囲む状況はさながら無法地帯のようになりつつある。

あの(知り合いの)園長先生の傍若無人な行政への説明を見たら、首相だって、本来は、あと40万人保育の受け皿を確保します、などと言えないはずです。

保育園の義務教育化など夢のまた夢。

保育士の質を落としておいて、「就学前教育」などと言う詐欺のような施策と同じで非現実的、学者の机上の空論。保育園の義務教育化は、義務教育を崩壊させる。

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加えて、こんなことを書くのは矛盾しているように思えるかもしれませんが、私は実は、あのちょっと支離滅裂な園長先生は「子どもたちにとって」、全国平均よりも上の、いい園長のような気がしているのです。社会とか仕組みの中では通用しにくい人でしょう。補助金でずるいこともしなのでしょう。でも、「必要な時に親を叱れる園長」だったような気がするのです。

「必要な時に親を叱れる」。信じたこと、思ったことを言える。保育指針の第6章あたりに該当する重要な項目なのですが、この国の現状を考え、その先にある義務教育の存続を考えると、保育園の役割としては、私は、ここが一番大切だと思っています。的外れでもいいのです。思ったことを率直に言い合える関係が育てる側にあれば、子どもはちゃんと育って行く気がするのです。

私は、福祉という仕組みの中で、保育にしても老人介護もそうですが、親身さではなくて、知識や手法で人と接する「専門家」たちが増えていることを危惧するのです。「専門家」の存在によって、他人の人生に親身になれる、本当の保育士や介護士が福祉の現場から去っていったり、その心を閉ざしたりしていくことを一番心配しているのです。学問と仕組みが、人間社会から人間性を奪ってゆく。

あの園長の、うちの保育士は資格を持っている保育士よりもいい保育士なんだ、という叫びが、たぶん真実で、本気なのが、なんとなくわかるのです。

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(付記)

知らない人が多いのですが、保育園の園長は、実は保育資格を持っていなくてもいい。それがこの国の保育の心を支えてきた側面があるのです。資格を取って「保育は福祉、親のニーズに応える」みたいな知識を植え付けられ、それを優先する人に園長はできない、と思う。保育は福祉という形をしていますが、「子育て」なのです。

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる)

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる):

 
11時間保育を「標準」と名付け、保育の質の低下を考えずに安易に子ども園や小規模保育を奨励し、3歳未満児を親から離そうとする国の施策を作った「子ども・子育て会議」のメンバー、経済論でそれを主導した政治家たちに、ぜひ、この映画を見てほしいと思うのです。
当たり前、といえば、これほど当たり前のことはない。3歳までの育ち方が子どもの人生を左右する。それは即ち親の人生を左右するということ。
 
世界全体で、いま乳幼児期の愛着関係の欠如が問題になっているのです。子育てを、どういう視点で捉えるか、が改めて問われています。人類が、これではいけない、と自問し、乳児を眺め、彼らの存在意義を考え始めている。
 

映画「いのちのはじまり」(子育てが未来をつくる)http://www.uplink.co.jp/hajimari/

 
「人格の土台が形成される乳幼児期(生後~就学前)の脳では、毎秒700個から1000個もの神経細胞が新たに活性化しています。この神経細胞同士の接続によって脳は発達し、後の健康や精神的な幸福、学習能力が決定づけられます。
 
この成長でもっとも大切なのは、大人との触れあい。血のつながった“親”に限らずとも、周囲の大人が乳幼児に安全で愛情に満ちた環境を与えることができれば、より良い社会を創造する未来が開かれます。
 
本作は、世界9カ国で家族や育児現場を取材し、さまざまな文化・民族・社会的背景における子育ての今を伝えます。さらに、早期幼児教育の専門家たちへのインタビューを織り交ぜながら、親をはじめ子育てに関わる周囲の大人たちが、安心して育児に取り組めるような公共政策の必要性を訴えます。
 
世界的ファッションモデルのジゼル・ブンチェンや、ノーベル経済学賞受賞歴もあるシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授、ユニセフ本部で「ECD=Early Childhood Development(乳幼児期の子供の発達)世界キャンペーン」を統括するピア・ブリット氏、先進的な幼児教育で注目を集めるイタリアのレッジョ・エミリア市の保育者らも出演。彼ら自身の経験と研究に基づいたメッセージが胸に迫ります。
 
「この映画を製作していた2年間で、赤ちゃんにはそれぞれの世界があり、彼らを世話することはその特別な世界を慈しむことなのだ考えるようになりました。人は誰かを大切にすると変わります。それは単なる自己犠牲ではなく相互的な関係です。”あなたがいるから私がいる”と専門家の1人は言いました。人とのつながり、特に乳幼児期における人間関係によって、世界はこれまで以上に素晴らしいものになり得るのです」
 
─エステラ・ヘネル監督
 
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なぜ、いま日本政府は40万人の乳児を親から引き離すことを政策目標にするのか。なぜ、マスコミはもっと乳幼児の立場に立って報道しないのか。この国の未来を見据え、考えながら報道しないのか。
 
保育士不足がこれほど決定的ないま、これ以上預かろうとすれば市場原理に向かうしかない。サービス産業になっていけば、保育は、ますます親へのサービスになってゆく。それによって親の「子育て」に対する意識が変わってくる。そして、いい保育たちが去ってゆく。
子どもに話しかけない保育、抱っこしない保育が、市場原理の中で、ぎりぎりの金儲けを維持するために広がっている。

二つの命が存在している。その思いが一心同体ではない

0歳児と一緒に空を見上げる。

1歳児と一緒に空を見上げる。

2歳児と一緒に空を見上げる。

それぞれに、違う体験で、それぞれの深さや次元がずいぶん違うから、不思議さの種類が違うから、絆がなければ生きていけない人類ために必要な体験なのだと思う。

こんなことをしながら、人間の遺伝子はオンになってゆく。そうすることによって、コミュニケーション能力が少しずつ身につき、知らないうちに深まり、年をとっても、お地蔵さんや盆栽と会話できたり、海や山を相談相手にしたり、自分自身や宇宙と会話ができる余地を残せるのだと思う。人間が相談相手を増やすための、いにしえの法則をもう一度確認する時期がきています。

 

二つの命が存在している

去年、「保育園落ちた、日本死ね!」と、親がネットに書きました。どちらに行くのか定かではないのですが、これをきっかけに、いい方向に向かうのだと思いたい。

「保育園落ちた、日本死ね!」という言葉が繰り返し報道され、国会でも論議され、流行語大賞にまでノミネートされ、、いつの間にか曖昧になってしまったことがあります。

この言葉の中には二つの命が存在しているということ。保育園を落ちたのは3歳未満児であって、自らの願いを主張できない乳幼児。そして、「日本死ね!」と言っているのはその母親です。二つの命、がそこに存在している。そして、その思いが一心同体ではない。そのことに気づかせるために、この言葉は生まれたはず、なのです。

もともと一心同体だったものが、これほど早く、たった数十年で、お互いが見えなくなるほど離れ離れになってゆく。政府という仕組みがそれを進めている。それが人類の存在自体を成り立たせなくしてゆくのではないか。そこに気づいてほしいのです。

この発言に登場する親子二人の願いがあまりにも相反している。そこに、保育士不足や質の低下といった小一プロブレムに直結してゆく保育現場が抱える様々な問題の根本的原因があります。保育という仕組みがいつの間にか、当たり前に存在し、その仕組みの不自然な性質が、預けられる主役である乳幼児の存在感を消してしまう。そして、仕組み自体がますます人間性を失ってゆく。すると、もう一人の当事者である保育士たちが苦しくなって去ってゆく。(または、いい加減な保育、都合のいい保育をし始める。)

乳幼児たちが、育てる人間の遺伝子をオンにし、その人たちをいい人間にする働きが、仕組みに逆らい、仕組みを壊そうとする。

政府が簡単に口にする「保育の受け皿」は、012歳の「子育ての受け皿」です。その時期の子育て、親子がする特別な体験は、人間の一生にとって貴重な体験だった。双方向に貴重だった。モラルや秩序が、遺伝子レベルから湧き出るために必要な、人類にとって不可欠な体験だった。親にとっても、子どもにとっても。

 

保育園入園時の「慣らし保育」の時の子どもたちの泣き顔と、母親にしがみつく際の悲鳴にも似た叫びを聞いていると、一瞬、「保育園受かっちゃった、日本死ね!」と叫んでいるようにも思える。そう思ってくれる人を命がけで探しているのではないか、という気がするのです。

もちろん、命そのものを体現している、神様のような存在でもある幼児たちは、「死ね!」とは絶対に言わない。それはわかっています。でも、誰かに早く、その泣き声、叫びの本当の意味を汲み取ってほしい、と思うのです。あの姿を、テレビで報道してほしいし、学者たちは大学の授業で学生たちに見せてほしい、と思うのです。あの泣き声の意味を、国という仕組みを左右している政治家たちが汲み取らなかったら、国の存在意義が、それこそ死んでしまうような気がするのです。

乳児は、実は「保育園落ちた、嬉しい、良かった」と心の中でささやいている。もし落ちずに受かっていたら、「0歳児保育を進める政治家、行政、学者、なんで、そんなことするの?」と遺伝子レベルで叫んでいるかもしれない。その辺りのことなのです、マスコミがいま、しっかり議論していないのは。

 

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何がいままで保育という仕組みを(かろうじて)支えてきたのか、と考えてみたことがあります。その時、ふと思ったのは、0、1歳児を預けようとする時の親の「躊躇」と、0、1歳児を預かる時の保育者の「躊躇」だと思いました。それが、いま「受け皿」という言葉によって、少しずつ消されようとしているのです。

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ツイートをひとつ

「最近いった研修の講師の大学(短大?)で、卒業生300人に対し2800件の求人があったとか。また、パートしか経験の無いおばちゃんが新設園の園長になるのだとか。その他20代の園長予定者が多数来ていました。本当にやばい状況です。」

 

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 こういう状況だから、こういう無責任な進め方をするから、現場で保育に都合のいい子どもにするため、012歳児に話しかけない、抱っこしない保育が増えているのです。事故を防ぐにはそうするしかないほど、現場が追い込まれている。
 でもこれは、3歳までの脳の発達を思えば、親の知らないところで政府が用意する「受け皿」によって意図的に子どもたちの発達が歪められているということ。
 そして、「やった振り対策」として政府が進めた安直なカウンセラーや相談員の普及。「専門家」と呼ばれる人たちが園にやってきて障害児を認定し親子を心療内科に送り込む。人間が対応できる現実的な施策は考えられていませんから、結局対処できるのは薬物しかない。
 
 「もうすぐ小学校ですからそろそろ薬(向精神薬)を呑ませましょう」などという助言が、「専門家」によって親にされる。
 
 こうして、「社会で子育て」(仕組みで子育て)という学者の言葉で広がる無理と歪み、専門家の薦める薬物が、この国の将来の重荷になって雪だるま式に増えているのです。

園児と薬物(子育てと相談相手)

 

依存されること、甘えられることで育ってゆく絆

人間性を失った経済優先主義が国主導で広がっている感じがします。

「母親は赤ちゃんのそばにいたいし、赤ちゃんも母親のそばにいたい。節約して欲しいものを我慢しても子供を手元において愛情一杯の子育てをしたい、そんな当たり前の事が経済的に男性に依存する甘えた女という批判の対象になる風潮がおかしい。」

というツイートがありました。

その通りだと思います。一歩進めて、社会が、依存すること、甘えることを悪いことのように受け止め始めることの「怖さ」を最近感じるのです。

「自立」という資本主義社会を回してゆくための不自然な幸福論がその根元にあるのだと思うのですが、これでは幼児の存在を否定することにつながりかねない。依存されること、甘えられることで育ってゆく何かがあって、それが人類の存続にとって結構大切な鍵を握っていたのだと、みなで一緒に乳幼児を眺めながら、思い出さなければならない時なのだと思うのです。

 

仕事をするということには社会的責任がある。だから、「個人的な」子育てより優先されなければならない、というような言葉を聞くこともあります。これは本末転倒です。形の上ではそうであったとしても、人間が本気でこんなことを思い始めたら「社会」が成り立ちません。

幼児期の子ども(子育て)を最優先することが本当の意味で社会的責任なのではないか、という意識が社会全体に欠けてきている。とくに、社会人という言葉に現れるように、「社会」という定義が、それすなわち「経済競争」のように捉えられるようになって、年月が流れ、「言葉」に支配され始めている。

義務教育が語られる時に頻繁に登場する「自立」という言葉。それを目指すことが目的になり、そうすることが本当に幸福なのか、という議論も検証もない。この国の将来を考えた時、「自立」という言葉の呪縛から離れ、本来「社会」というものは、自立と反対の方向に位置するもの、助け合いなのだという記憶が戻ってくるといいのですが。

社会的責任は支え合いの幸せに基づいていて、一人では生きられないことを宣言すること。すべての人間が生まれて数年の間、幼児期にその宣言をしてきたということ。つまり、「社会的責任」は家族という単位から始まっていることを思い出し、それが施策に反映されるようになるといいのです。

親たちの意識が子ども優先の方向に戻らない限り、国の今の経済優先で人間性を失ってゆく方向性は変わらない。アメリカ大統領選とその後の価値観の混乱を見ればわかる通り、民主主義の危険性は経済優先で人間性を失ってゆくこと。しかし、人間性を失った経済優先主義では、多数が生きる力を失い始め、いずれ経済そのものも破綻し始める。政府やマスコミが、そこに気づいて、思考や報道の経済優先主義からの方向転換を計ってほしい。それが可能な唯一の先進国が日本という国だと思うし、この国の個性だったはずです。

 

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都議選が近づき、選挙絡みの講演依頼があります。発言できるチャンス、候補者に聴かせるチャンスですから一生懸命やります。でも同時に、受かってしまったらそれっきりの場合が多い。選挙の時だけ真剣に耳を傾ける、みたいな人が候補者になっていることが最近とくに増えている。志をもった政治家がいない。

全国で、話しかけない、抱っこしない未満児保育がじわじわと密室で広がっています。これが日本という国を土台から蝕んでいる。保育士に都合のいい子、事故が起こりにくい子、親が知らないうちに、後天的な発達障害が進んでいる。

そして、345歳児で簡単に薬物が処方されるようになってきている。

「もうすぐ学校ですから、そろそろお薬を飲み始めましょう」みたいな言葉が普通に聞かれるようになっています。政府の言う保育の「受け皿」とは、実質的に質の悪い保育と子育てにおける向精神薬の普及に進むための乗り物のような気がします。予算的にも人材的にも、義務教育には致命的な感じがして恐ろしい。この広がりの影響は対処しようがないということに早く気づいて欲しい。

外国人を雇っている東京都の認可保育園で、園長が保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。それが10年前です。人情味があって幼児にいい外国人は確かにいます。でも園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。雇用労働施策になっている、ということなのです。